今日も、職人区の稽古場には冷えた風が吹き抜けていた。呼吸を整え、正中線に木剣を構える。ドランの腰が沈み、打ち込みの気配が走った瞬間、左足を斜め前へ滑らせた。首元を狙う突きの軌道から身体を逸らし、同時に軸足を後ろへ踏み替える。
前回のように反撃を焦って、踏み込みより先に腕を振るうことはしなかった。相手の剣先が空を切るのを見届け、木剣を振るわず、まずは崩れかけた体勢をしっかりと立て直して半歩の間合いを取った。ドランは突き切った体勢から木剣を引き、じっとこちらの足元を見つめた。
「……昨日より、余計なことをしなくなったな」
「褒められていると思っていいですか?」
「勝手に決めろ」
ドランは素っ気なく返し、木剣を脇へ収めた。
「昨日、街道で魔物と出会いました」
息を整えながら告げると、ドランは片刃剣を拭く油布を手に取りながら、短く尋ねてきた。
「斬ったか」
「いいえ。仕事に必要な相手ではなかったので、下がりました。稽古の成果を見せる機会を逃した気もしますが」
「生きて戻ったなら見せてるだろ。……さっさと行け」
「はい。ありがとうございました」
頭を下げて稽古場を後にした。宿で汗を拭い、身支度を整えてから冒険者ギルドへ向かった。
◆
朝の混雑が落ち着いたギルドの建物を抜け、俺は一階広間の奥から裏手にある共同作業場へと向かった。石造りの水場と分厚い木製の作業台が置かれたその場所は、依頼を終えた冒険者たちが装備の泥を落としたり、革具に油を塗ったりするための空間だった。日陰と日向が程よく分かれた作業台の脇に、小柄な人影があった。エルザだった。
彼女はすでに到着しており、作業台の上に自分の警笛と手入れ用の布を広げていた。小さな布を細く折り、青銀色の警笛の側面に刻まれた、小さな鳥の溝に入り込んだ泥を丁寧に拭い取っているところだった。
「おはようございます、エルザさん。もう始めていたのですか」
声をかけると、エルザはすっと手を止め、振り返った。
「おはようございます、ノワールさん。笛の泥だけ先に落としていました。革紐の点検と内部の確認は、ノワールさんと一緒に行う予定です」
「待っていてくれてありがとうございます」
俺が礼を述べると、エルザは一瞬だけ手元の布に目を落とし、それから小さく頷いた。
「……はい」
俺は笑って、自分の腰から無骨な真鍮製の警笛を取り外して作業台へ置いた。
「俺の警笛の方が、ずいぶん汚れていますね。昨日軽く拭き取ったのですが」
前日の林でついた泥や樹皮の屑が、真鍮の表面や革紐にこびりついていた。エルザは俺の警笛と自分のものを交互に見比べ、真顔で口を開いた。
「ノワールさんにはそちらの無骨な形状が適合していると申しましたが、無骨であることと、不衛生であることは異なります」
「ごもっともです。俺も綺麗に拭くことにします」
水場で布を濡らし、固く絞って真鍮の表面を拭った。二人で並んで作業台に向かい、昨日使った道具を一つずつ手に取った。警笛は吹き口を布で拭ってから試し吹きを行い、内部の詰まりや音の濁りがないかを確認した。エルザの鳥の警笛も、俺の真鍮の警笛も、水気や土が入っておらず綺麗な音を返してきた。
次に、第二の道標で斜面を下りる際に使った短い縄を取り出した。泥がついた部分を硬い刷毛で落とし、毛羽立ちや繊維のほつれがないかを確かめる。エルザは泥を落とし終えた縄を綺麗に巻き直そうとしたが、途中ではっと手を止めた。
「……失礼しました。まだ湿気が残っていますね。乾く前に巻くと、内部にかびや傷みが生じます」
そう言って、自ら縄を日向の作業台の上へ広げ直した。
「丁寧ですね」
「このくらい普通の配慮です」
エルザは胸を張り、携帯灯の芯や火口の状態点検へと移った。作業の途中、受付から回ってきたミラが作業場に顔を出した。
「ノワールさん、エルザさん。昨日の件ですが、三基目の道標周辺については鉄級以上の冒険者へ正式に調査が引き継がれました。お二人が再びあの場所へ向かう必要はありませんよ」
「分かりました。ありがとうございます、ミラさん」
「適切な報告のおかげで、ギルド側も早い対応が取れました。お疲れ様でしたね」
ミラは短く労うと、事務的な足取りで広間へ戻っていった。俺とエルザは顔を見合わせ、頷いた。前日の判断についても、手を動かしながら言葉を交わした。
「昨日は、視界が切れる前にもう少し間隔を詰めておくべきでした。第三の道標へ近づく判断も、少し積極的すぎたかもしれません」
エルザが眉を寄せ、反省を口にした。俺は刷毛を動かす手を止め、彼女を見た。
「なるほど、次回からはお互い気をつけましょう。でも、異変に気づいてすぐに警笛を鳴らしてくれたおかげで、誰も怪我をせずに済みました。すぐに合図を出してくれたのは、正しい選択だったと思います」
「……ノワールさんが駆けつけてくださると信じていましたから」
返事に困る言葉を平然と口にする人だ。平静を装いながらエルザの言葉を受け止め、俺は一つの提案を出した。
「これからは、短三音を聞いたら吹き返さないことにしませんか。返事をしているより、そのまま相手の方へ動くか、退路を確保した方が早いでしょう」
エルザは考えてから、真面目な顔で頷いた。
「分かりました。短三音が聞こえたら、返事より先に動くのですね。そのやり方でいきましょう」
互いに納得し、追加の合図ルールが決まった。広げた縄を日向へ移そうとしたところで、作業場の入口が少し騒がしくなった。
三人の冒険者が入ってくる。どれも使い込まれた装備だった。革靴には乾いた泥がこびりつき、背負った荷物には、俺たちが使っているものより太い縄が何重にも巻かれている。
近くで刃を研いでいた男が顔を上げた。
「戻ったのか。今回は長かったな」
「予定より二日延びたよ」
「攻略組も大変だな」
その言葉に、俺は手を止めた。攻略組。セイから聞いたことがある。ダンジョンの奥まで進み、帰る手掛かりを探している落人たち。
一度、話を聞いてみたいとは思っていた。エルザを見ると、彼女も三人の方を見ていた。
「少し、聞いてみてもいいですか」
「私も興味があります」
二人で近づくと、三人のうち一人、髪を後ろで束ねた女冒険者がこちらを向いた。
「何か?」
「すみません。攻略組の方ですよね」
「そうだけど」
「ダンジョンを最後まで攻略すれば、向こうへ帰れるかもしれないと考えていると聞きました」
女冒険者は、すぐには頷かなかった。
「帰れる、とは言ってないよ」
「違うのですか?」
「帰った人間はいないんだから、誰にも分からない。前に見つかった古文書に、『別なる世界』へ続く〈門〉がダンジョンの最奥にあるっていう話が残っていた。それだけ」
「ダンジョンのクリア、ですか」
「クリアか……久しぶりに聞いたよ。そう呼ぶ奴もまだいるね」
少なくとも、この人はもう、ここをゲームとは呼んでいないらしい。
「それで、確かめに?」
「他に確かめようがないから」
ずいぶん現実的な答えだった。もっと、帰還を信じ切った連中を想像していたのかもしれない。隣からエルザが尋ねる。
「帰還した方はいないのですよね?」
「いないよ」
「では、最終攻略の先に帰還の可能性があるという話は、何を根拠に始まったのでしょうか」
女冒険者がエルザを見る。
「ずいぶん細かいことを聞くね」
「気になりました」
「最初は、その〈門〉の先が元の世界なんじゃないかって話だったらしいよ。ゲームだと信じていた頃なら、なおさらね。ダンジョンには最後があって、その先に別の世界へ続く門がある。だったら、そこまで行けば帰れるんじゃないかって」
女冒険者は、そこで一度肩をすくめた。
「それが何年も語られてるうちに、いつの間にか『最終攻略を終えれば帰れる』って話になった。誰が最初に言い出したかまでは知らないけど。……どうしようもないくらい現実を突きつけられてるのに、ゲームだった頃の情報にまだ縋ってる。皮肉だけどね」
女冒険者は失笑交じりに淡々と話す。
「確かな根拠があるわけではない」
「ないね」
「それでも、続けているのですか?」
「続けてる」
今度の返事は早かった。
「向こうへ帰りたいから?」
俺が聞くと、女冒険者は少しだけ笑った。
「帰ったあとに、やることが残ってるから」
それ以上は聞かなかった。落人の過去をこちらから掘り返すな。セイに言われたことを思い出した。
「ありがとうございます。聞けただけでも助かりました」
「役に立ったならいいよ」
女冒険者はそう言ってから、今度はエルザへ目を向けた。
「あなたも落人?」
「はい」
そうだろうとは思っていたが、本人の口から聞いたのは初めてだった。
「帰りたくないの?」
エルザはすぐには答えなかった。少しだけ首を傾け、本当に答えを探すような間を置く。
「……考えたことがありません」
思わずエルザへ顔を向けた。彼女は少し首を傾けたまま、冗談を言っている様子もなかった。女冒険者が眉をわずかに上げた。
「あなた、ここに来てどのくらい経つの?」
「まだ十日くらいです」
エルザは淡々と答える。俺と大差はなかった。
「そう……あなたみたいな人もいるよね。ここが肌に合っているんだろうね……少し羨ましいよ」
それ以上、お互い何も言わなかった。三人は空いた作業台へ移り、自分たちの装備を下ろし始めた。俺たちも途中だった縄の手入れへ戻った。
◆
道具の汚れを落とし終え、広げた縄や布が日差しの中で乾くのを待つ時間が訪れた。作業台の端に腰を掛け、静かな時間を共有する。水場で水滴がぽたりと落ちる音や、遠くで他の冒険者が砥石で刃を研ぐ乾いた音が響いていた。
次の依頼を探しに広間へ戻るわけでもなく、急いで立ち去るわけでもない。買い揃えた道具が陽光を受けて乾いていくのを、ただ二人で眺めていた。ふと、エルザが日向の縄から視線を上げ、東の空へ目を向けた。
「昨日、第一の道標の近くで見えた丘ですが」
「ああ。北へ細い道が伸びていたところですね」
「はい。宿の食堂で聞いた通りなら、晴れた日は王都の城壁までよく見えるそうです」
昨日、街道から一度だけ見た草の丘を思い出した。あの時も、エルザはそちらへ視線を向けていた。
「見晴らしが良さそうでしたね」
「……はい」
エルザはそこまで言うと、いつものように言葉を繋げようとした。
「あのあたりの地形を確認しておけば、今後の街道付近での依頼において見張り場所として――」
だが、彼女はその言葉を途中でぴたりと止めた。俺は何も言わず、彼女の言葉を待つ。エルザは抱えた膝の上で指先を組み、しばらく黙っていたが意を決したように口を開いた。
「……あの丘に行ってみませんか」
作業台を通る風が、エルザの前髪を優しく揺らした。意外な提案に俺は確認するように聞き返した。
「依頼がなくても、ですか」
「はい。依頼がなくても……あの上まで、行ってみたいです」
エルザは先ほどよりもはっきりした口調で答える。俺も、昨日見えたあの丘は少し気になっていた。俺は頷いた。
「では、行きましょう。俺も見てみたいです。次に天気が良くて、仕事がない日にしましょうか」
「分かりました。仕事がない日ですね」
「ええ、仕事のついででは俺も落ち着きませんので」
俺が苦笑すると、エルザは作業台の上の警笛へ視線を落とした。
「次の準備として、丘へ向かう際の装備ですが」
エルザが習慣のように持ち物の確認を始めようとした。
「地図、水筒、警笛、応急用の布……それから、採取袋と記録帳を――」
「採取袋は置いていきませんか」
俺が途中で挟むと、エルザは驚いたように目を丸くした。
「採取袋は持っていかないのですか。現地で使えそうな植物を見つけるかもしれませんが――」
「丘の上に行くのが目的ですから。見つけても、覚えておくくらいで」
「……採らないのですね」
「ええ。景色を見るだけでもいいと思いますよ」
エルザは一瞬だけ不思議そうな顔をした。
「……分かりました。では、記録帳は持っていきます」
「武器と水、警笛と布も、安全のために持っていきましょう」
「はい」
手入れの終わった縄がすっかり乾き、エルザは自分の青銀色の警笛を手に取った。エルザは短く調整した革紐を首にかけ直した。青銀色の警笛が胸当ての上へ収まり、鳥の刻印が朝の光を受けて小さく輝いた。
先ほどの攻略組の三人は、もう作業場にはいなかった。使っていた台の上に、濡れた装備から落ちた水滴の跡だけが残っている。
◆
道具をそれぞれの鞄に収め、作業場を後にしてギルドの一階広間を通った。壁際の大きな掲示板には、今日も新しい依頼票が所狭しと並んでいた。エルザが一瞬だけそちらへ視線を向けたが、足を止めることはなかった。俺も同じように掲示板の横を通り過ぎ、二人で並んでギルドの重い扉を押して外へ出た。
頭上には、夏の澄んだ青空がどこまでも広がり、心地よい風が街の大通りを吹き抜けていた。
「次に晴れた日ですね」
俺が声をかけると、エルザは歩調を合わせながら頷いた。
「はい。急ぎの仕事がない日に」
「ええ、その日は仕事は探さないようにしましょう。楽しみですね」
エルザはほんの少し歩調を落とし、それから前を見つめたまま、静かに言った。
「……はい。楽しみです」
エルザは掲示板を振り返らなかった。俺たちはそのまま大通りを歩いた。