朝から雲の少ない日だった。職人区での稽古を終え、宿へ戻って汗を流す。いつもならそのまま冒険者ギルドへ向かうところだが、今日は違う。剣を腰へ下げ、水筒と応急用の布、それから真鍮の警笛を確認する。
採取袋はない。それだけで、鞄がずいぶん軽く感じられた。何かを持ち帰る予定のない外出というのは、この世界へ来てから初めてかもしれない。
東門の内側へ着いたところで、石壁のそばにいたエルザと目が合った。短く調整した革紐の先で、青銀色の警笛が胸当ての上に収まっている。肩から下げた鞄は、普段よりいくらか薄い。
「おはようございます」
「おはようございます、エルザさん」
挨拶を返したところで、鞄の端から見慣れた黒い表紙が覗いているのに気づいた。
「帳面、持ってきたんですね」
「はい」
エルザは隠すでもなく、鞄の口を軽く押さえた。
「書くかどうかは決めていません」
「……別に咎めてるわけではないですよ」
苦笑する俺の腰辺りに、エルザが視線を向ける。
「ノワールさんは本当に採取袋を持ってきていないのですね」
「ええ、昨日そう決めましたから」
「……徹底しています」
少しだけ残念そうに聞こえた。持ってくることを期待していたのだろうか。
「帰りに良さそうな薬草を見つけても、今日は我慢することになりますね」
「見つける前提なんですね」
「準備していない時ほど、必要になることって起きませんか?」
わかる。
「……我慢しますね」
エルザは小さく頷いた。衛兵へ冒険者証を見せ、東門を抜ける。今日は依頼の控えを出す必要がない。差し出す紙が一枚少ないだけのことが、少し不思議だった。
◆
東街道は二日前と同じ道なのに、歩いている時の感じが違った。道標の傾きも、樹脂の固まった木も、斜面へ続く脇道も見覚えがある。それでも今日は、立ち止まって状態を確かめる必要がない。通り過ぎるだけの景色というのは、こんなに速く流れるものだったのか。
第一の道標を過ぎたところで、エルザが北を見た。草の間を細い道が伸び、その先に低い丘が見えている。
「あの丘ですね」
「はい」
エルザの返事が、少し早かった。俺たちは街道を外れ、草の多い道へ入った。人がまったく使っていないわけではないらしく、踏まれて短くなった草が細い筋になって丘へ続いている。道の両側では、白い小花が風に揺れていた。
エルザが一度そちらを見る。俺も見た。何も言わず、そのまま歩いた。
「ノワールさん? 採りませんよ」
「エルザさんも見ていましたよね」
「観察しただけです」
「俺もそれです」
そんな他愛ないやりとりをしながら、のんびりと進む。丘の傾斜は、遠くから見た時より緩やかだった。ただ、日陰がほとんどない。朝とはいえ、登るうちに額へ汗が滲んでくる。
途中で一度立ち止まり、それぞれ水筒を取り出した。革の栓を抜く音が、風の音の中でやけにはっきり聞こえる。
「思ったより暑いですね」
「見晴らしが良いということは、日差しを遮る物も少ないということですね」
エルザは水を飲み、袖口で口元を拭ってから丘の上を見上げた。
「でも、上に一本ありますね」
「木ですか?」
俺も目を向けた。丘の頂上近くから、大きな枝が何本も空へ広がっている。街道から見た時には丘の向こう側へ重なっていたのか、そこまで大きな木があるとは気づかなかった。
「ずいぶん立派ですね」
「行ってみましょう」
今度は迷わず、エルザが先に歩き出した。
◆
丘の上には、大きな樹が一本立っていた。幹は俺が両腕を広げても到底抱えきれそうにない。地面へ張り出した太い根が草を押し上げ、その間へ乾いた葉が溜まっている。広く伸びた枝の下だけは涼しく、登ってきた坂道から吹く風が葉を鳴らしていた。
そして、その根元に小さな祠があった。
「……これ、祠ですよね」
「そう見えます」
石を積んだ土台の上に、小さな木造の屋根が残っている。片側は崩れ、扉らしい板も外れて斜めに立て掛けられていた。屋根には苔が広がり、隙間から細い草まで伸びている。誰かが最近手を入れた様子はない。
エルザがしゃがみ込み、祠の中を覗いた。
「何を祀っていたのでしょう」
「俺に聞かれても……」
そもそもこの世界に信仰は存在しているのだろうか。
「記録帳を――」
鞄へ伸びた手が、途中で止まった。俺は何も言わなかった。エルザはしばらく祠を見たあと、その手を膝へ戻す。
「あとで覚えていたら、書きます」
「はい」
祠の脇に座れるくらい平らな根を見つけ、二人で腰を下ろした。丘の上からは、たしかに王都がよく見えた。畑の向こうに長い城壁が伸び、その内側から塔や屋根がいくつも突き出している。ここまで歩いてきた東街道は細い一本の線になって、門まで続いていた。
「本当に見えましたね」
「はい」
エルザは城壁の方を見たまま答えた。
「宿で聞いた話は正しかったです」
「良い景色です……来て良かったですね」
「はい」
すぐに返事があった。俺も木の根へ背を預け、風に揺れる草原を眺めた。しばらく、何もしなかった。何もしない時間を過ごすために外へ出たのは、この世界へ来て初めてだった。
◆
耳元で、小さな音がした。
ちりん。
鈴に似ていたが、エルザの警笛ではない。俺は顔を上げた。
「今、何か聞こえませんでしたか?」
「聞こえました」
エルザも周囲を見回す。また音がした。ちり、ちりん。今度は頭上だった。
大樹の枝の間で、淡い光が動いた。木漏れ日かと思ったが、光は葉の影へ入っても消えない。親指ほどの大きさで、白い雫のような光が本体になっている。その左右には、薄緑色の半透明な羽のような光が一対伸びていた。輪郭は風に揺られるようにかすかに揺らぎ、目や口らしいものは見当たらない。羽が動くたび、ちりん、と小さな鈴に似た音が鳴る。
虫――ではない。小さな光は枝から離れ、ふわふわと俺たちの方へ降りてきた。
「精霊……みたいですね」
エルザが呟いた。
「見たことがありますか?」
「映像では。実物は初めてです」
俺もゲームの紹介映像で似たものを見た気はする。ただ、もっと演出の一部のような存在だった。
光は俺の前を一度通り過ぎた。何も起きない。そのままエルザの前で止まる。
ちりん。
「……はい?」
エルザが返事をした。俺は横を見る。
「今、誰に返事をしました?」
「この子です」
「精霊に?」
「はい」
ちり、ちりん。エルザが眉を寄せた。
「『こんにちは』と言っています」
俺には、やはり鈴の音にしか聞こえない。
「俺には何も言っているように聞こえませんが」
「私には言葉に聞こえます」
余計に分からない。
光はエルザの鼻先近くまで寄ると、そこで上下に揺れた。エルザが少し身を引く。
「近いです」
ちりん。
「謝っています」
「会話できているじゃないですか」
「そうですね……」
エルザ自身も納得していない顔だった。
俺は光へ手を伸ばしてみた。精霊はすぐには避けなかった。ただ、指先が触れそうになったところで、ふわりと上へ逃げる。そのままエルザの髪の横へ戻った。
「俺よりエルザさんの方が好きみたいですね」
「判断材料が少なすぎますよ」
ちりん。
エルザが光を見る。
「……『すき』だそうです」
「やっぱりそうなんですね」
「喜ぶべきなんでしょうか?」
それは俺にも分からない。
「俺にも何か言っています?」
そう言うと俺に近寄ってきた。目の前で停止して浮いている。
ちりん。
「……『へんなの』」
「失礼な精霊ですね」
ちりん。
「……『だめ』……?」
エルザが眉を寄せた。
ちりん。
「……今度は、『だめおとこ』だそうです」
「評価が下がってませんか」
◆
「この祠のこと、聞いてみてもらえますか」
俺が頼むと、エルザは精霊へ視線を向けた。
「この祠は、何の祠ですか?」
ちり、ちりりん。エルザが少し首を傾ける。
「『まよけ』……魔除けの祠みたいですね」
「へえ。本当に話せるんですね」
「……私も驚いています」
精霊は何事もなかったように、エルザの周りをふわりと一周した。そのまま青銀色の警笛のそばまで降り、鳥の刻印の前で止まる。
ちりん。
エルザが警笛へ目を落とした。
「今度は何て?」
「『きれい』だそうです」
「見る目がありますね」
「そうでしょうか」
そう言いながら、エルザは青銀色の警笛へ指先を添えた。精霊はそのままエルザの肩の近くをふわふわと漂っている。
「ずいぶん懐かれましたね」
「……そう見えますか?」
「少なくとも、俺のところへは来ませんね」
ちりん。
「今のは?」
「……『たかい』」
「高い?」
「ノワールさんの背のことでしょうか」
「褒められたことにしておきます」
精霊はエルザの頭の辺りを漂う。その高さが好みなのかもしれない。そう思う事にした。
◆
昼前になり、俺たちは丘を下りることにした。祠へ何かするわけでもなく、大樹へ印を残すこともない。持ってきた水筒と布を鞄へ戻す。
エルザは最後に一度だけ丘の景色を見てから立ち上がった。
「帰りましょうか」
「はい」
数歩歩いたところで、鈴の音がした。
ちりん。
振り返る。精霊が浮いている。大樹の前ではなく、エルザの肩の横だ。
「……帰らないんですか?」
エルザが尋ねる。ちり。
「なんて?」
「『いく』」
「どこへ?」
ちりん。
エルザが俺を見る。
「『いっしょ』だそうです」
「エルザさんと?」
ちりん。
「……はい」
エルザが歩く。精霊も動く。止まる。精霊も止まる。少し早足になっても、遅れずについてきた。
「完全についてきていますね」
「そのようです」
「丘へ戻るように言ってみます?」
エルザは精霊へ向き直った。
「ここに残らなくていいのですか?」
ちりん。
「『いい』」
「大樹は?」
ちりん。
「『ある』」
「祠は?」
ちりん。
「『ある』」
俺は吹き出しそうになった。
「会話としては正しいんでしょうけど、何の安心にもなりませんね」
「……そうですね」
エルザも困ったように精霊を見た。
「私についてくるのですか?」
ちりん。
「『いく』」
それ以上は説明しない。追い返す理由も見つからない。結局、俺たちは精霊を一匹増やして丘を下りることになった。
◆
東門へ戻った頃には、精霊はすっかりエルザの肩の周りを飛ぶ位置に落ち着いていた。門番の衛兵が、冒険者証を確認する前に目を丸くした。
「おい、それ……精霊か?」
エルザが横を見る。精霊は何事もないように浮いている。
「そうだと思います」
「そうだと思うって。あんた、精霊使いだったのか?」
「違います。今日、丘で会っただけです」
衛兵は眉を上げ、槍の柄を持ち直した。
「会っただけでついてくる精霊なんて、俺は聞いたことないぞ」
近くで順番を待っていた冒険者までこちらを見た。俺はその視線に気づき、エルザのそばへ寄る。
「珍しいんですか?」
「珍しいも何も、精霊が人について街まで入ってくるの自体、俺は知らない。契約してるなら別だが」
「契約はしていません」
エルザが即座に答える。精霊が鳴った。ちりん。
「何て?」
俺が小声で聞く。
「『けいやく』『ない』」
「だそうです」
衛兵には通じない。
「いや、俺には音しか聞こえん」
やはりそうらしい。通行を止め続けるわけにもいかず、衛兵は首を捻りながら冒険者証を返してきた。
「まあ、危険な精霊には見えんが……ギルドには一度話しておいた方がいいかもしれんな」
「分かりました」
門を抜ける。背後で、誰かが「精霊使い」と小声で言うのが聞こえた。エルザも聞こえたらしい。
「使役しているわけではないのですが」
「外から見ると、そう見えるみたいですね」
「困りました」
そう言いながら、エルザは肩の横へ浮かぶ光を見た。門を越えても、精霊は離れる気配がない。
「本当にここまでついてきましたね」
「……はい」
エルザもようやく、そのことを実感したように精霊を見つめた。
ちりん。
エルザが光を見る。
「……『エルザ』」
「名前を覚えたんですか」
「……教えていないのですが」
「そういえば、ずっと『この子』では呼びにくいですね」
「名前はないんですか?」
エルザが精霊へ尋ねる。
ちりん。
「……ないそうです」
「本人は困っていないんでしょうね」
ちり、ちりん。
「『つける?』と」
エルザは足を止め、鈴のような音を立てる小さな光を見つめた。しばらく、その音を確かめるように黙っている。
ちりん。
「……リン、ではどうでしょう」
「その音からですか」
「はい」
ちりん、ちりん。
エルザが目を細める。
「『いい』そうです」
「では、決まりですね」
エルザは精霊へ向き直った。
「よろしくお願いします、リン」
ちりん。
リンは彼女の青銀色の警笛の周りを一度だけ回った。
「俺の名前は――」
ちりん。
「『うるさい』」
「……俺たち仲良く出来ないんですか」
リンは俺と仲良くするつもりはないらしい。
「まずはミラさんに相談しましょうか」
エルザがいつもの口調で提案する。ただ、口元は指で隠していたが、目元は笑っていた。
「そうですね」
俺たちは冒険者ギルドへ向かって歩き出した。その横を、リンが当たり前のようについてきた。