明日も、ダンジョンへ。   作:為書結依

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第22話 ついてくる

 

 朝から雲の少ない日だった。職人区での稽古を終え、宿へ戻って汗を流す。いつもならそのまま冒険者ギルドへ向かうところだが、今日は違う。剣を腰へ下げ、水筒と応急用の布、それから真鍮の警笛を確認する。

 

 採取袋はない。それだけで、鞄がずいぶん軽く感じられた。何かを持ち帰る予定のない外出というのは、この世界へ来てから初めてかもしれない。

 

 東門の内側へ着いたところで、石壁のそばにいたエルザと目が合った。短く調整した革紐の先で、青銀色の警笛が胸当ての上に収まっている。肩から下げた鞄は、普段よりいくらか薄い。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます、エルザさん」

 

 挨拶を返したところで、鞄の端から見慣れた黒い表紙が覗いているのに気づいた。

 

「帳面、持ってきたんですね」

 

「はい」

 

 エルザは隠すでもなく、鞄の口を軽く押さえた。

 

「書くかどうかは決めていません」

 

「……別に咎めてるわけではないですよ」

 

 苦笑する俺の腰辺りに、エルザが視線を向ける。

 

「ノワールさんは本当に採取袋を持ってきていないのですね」

 

「ええ、昨日そう決めましたから」

 

「……徹底しています」

 

 少しだけ残念そうに聞こえた。持ってくることを期待していたのだろうか。

 

「帰りに良さそうな薬草を見つけても、今日は我慢することになりますね」

 

「見つける前提なんですね」

 

「準備していない時ほど、必要になることって起きませんか?」

 

 わかる。

 

「……我慢しますね」

 

 エルザは小さく頷いた。衛兵へ冒険者証を見せ、東門を抜ける。今日は依頼の控えを出す必要がない。差し出す紙が一枚少ないだけのことが、少し不思議だった。

 

◆

 

 東街道は二日前と同じ道なのに、歩いている時の感じが違った。道標の傾きも、樹脂の固まった木も、斜面へ続く脇道も見覚えがある。それでも今日は、立ち止まって状態を確かめる必要がない。通り過ぎるだけの景色というのは、こんなに速く流れるものだったのか。

 

 第一の道標を過ぎたところで、エルザが北を見た。草の間を細い道が伸び、その先に低い丘が見えている。

 

「あの丘ですね」

 

「はい」

 

 エルザの返事が、少し早かった。俺たちは街道を外れ、草の多い道へ入った。人がまったく使っていないわけではないらしく、踏まれて短くなった草が細い筋になって丘へ続いている。道の両側では、白い小花が風に揺れていた。

 

 エルザが一度そちらを見る。俺も見た。何も言わず、そのまま歩いた。

 

「ノワールさん? 採りませんよ」

 

「エルザさんも見ていましたよね」

 

「観察しただけです」

 

「俺もそれです」

 

 そんな他愛ないやりとりをしながら、のんびりと進む。丘の傾斜は、遠くから見た時より緩やかだった。ただ、日陰がほとんどない。朝とはいえ、登るうちに額へ汗が滲んでくる。

 

 途中で一度立ち止まり、それぞれ水筒を取り出した。革の栓を抜く音が、風の音の中でやけにはっきり聞こえる。

 

「思ったより暑いですね」

 

「見晴らしが良いということは、日差しを遮る物も少ないということですね」

 

 エルザは水を飲み、袖口で口元を拭ってから丘の上を見上げた。

 

「でも、上に一本ありますね」

 

「木ですか?」

 

 俺も目を向けた。丘の頂上近くから、大きな枝が何本も空へ広がっている。街道から見た時には丘の向こう側へ重なっていたのか、そこまで大きな木があるとは気づかなかった。

 

「ずいぶん立派ですね」

 

「行ってみましょう」

 

 今度は迷わず、エルザが先に歩き出した。

 

◆

 

 丘の上には、大きな樹が一本立っていた。幹は俺が両腕を広げても到底抱えきれそうにない。地面へ張り出した太い根が草を押し上げ、その間へ乾いた葉が溜まっている。広く伸びた枝の下だけは涼しく、登ってきた坂道から吹く風が葉を鳴らしていた。

 

 そして、その根元に小さな祠があった。

 

「……これ、祠ですよね」

 

「そう見えます」

 

 石を積んだ土台の上に、小さな木造の屋根が残っている。片側は崩れ、扉らしい板も外れて斜めに立て掛けられていた。屋根には苔が広がり、隙間から細い草まで伸びている。誰かが最近手を入れた様子はない。

 

 エルザがしゃがみ込み、祠の中を覗いた。

 

「何を祀っていたのでしょう」

 

「俺に聞かれても……」

 

 そもそもこの世界に信仰は存在しているのだろうか。

 

「記録帳を――」

 

 鞄へ伸びた手が、途中で止まった。俺は何も言わなかった。エルザはしばらく祠を見たあと、その手を膝へ戻す。

 

「あとで覚えていたら、書きます」

 

「はい」

 

 祠の脇に座れるくらい平らな根を見つけ、二人で腰を下ろした。丘の上からは、たしかに王都がよく見えた。畑の向こうに長い城壁が伸び、その内側から塔や屋根がいくつも突き出している。ここまで歩いてきた東街道は細い一本の線になって、門まで続いていた。

 

「本当に見えましたね」

 

「はい」

 

 エルザは城壁の方を見たまま答えた。

 

「宿で聞いた話は正しかったです」

 

「良い景色です……来て良かったですね」

 

「はい」

 

 すぐに返事があった。俺も木の根へ背を預け、風に揺れる草原を眺めた。しばらく、何もしなかった。何もしない時間を過ごすために外へ出たのは、この世界へ来て初めてだった。

 

◆

 

 耳元で、小さな音がした。

 

 ちりん。

 

 鈴に似ていたが、エルザの警笛ではない。俺は顔を上げた。

 

「今、何か聞こえませんでしたか?」

 

「聞こえました」

 

 エルザも周囲を見回す。また音がした。ちり、ちりん。今度は頭上だった。

 

 大樹の枝の間で、淡い光が動いた。木漏れ日かと思ったが、光は葉の影へ入っても消えない。親指ほどの大きさで、白い雫のような光が本体になっている。その左右には、薄緑色の半透明な羽のような光が一対伸びていた。輪郭は風に揺られるようにかすかに揺らぎ、目や口らしいものは見当たらない。羽が動くたび、ちりん、と小さな鈴に似た音が鳴る。

 

 虫――ではない。小さな光は枝から離れ、ふわふわと俺たちの方へ降りてきた。

 

「精霊……みたいですね」

 

 エルザが呟いた。

 

「見たことがありますか?」

 

「映像では。実物は初めてです」

 

 俺もゲームの紹介映像で似たものを見た気はする。ただ、もっと演出の一部のような存在だった。

 

 光は俺の前を一度通り過ぎた。何も起きない。そのままエルザの前で止まる。

 

 ちりん。

 

「……はい?」

 

 エルザが返事をした。俺は横を見る。

 

「今、誰に返事をしました?」

 

「この子です」

 

「精霊に?」

 

「はい」

 

 ちり、ちりん。エルザが眉を寄せた。

 

「『こんにちは』と言っています」

 

 俺には、やはり鈴の音にしか聞こえない。

 

「俺には何も言っているように聞こえませんが」

 

「私には言葉に聞こえます」

 

 余計に分からない。

 

 光はエルザの鼻先近くまで寄ると、そこで上下に揺れた。エルザが少し身を引く。

 

「近いです」

 

 ちりん。

 

「謝っています」

 

「会話できているじゃないですか」

 

「そうですね……」

 

 エルザ自身も納得していない顔だった。

 

 俺は光へ手を伸ばしてみた。精霊はすぐには避けなかった。ただ、指先が触れそうになったところで、ふわりと上へ逃げる。そのままエルザの髪の横へ戻った。

 

「俺よりエルザさんの方が好きみたいですね」

 

「判断材料が少なすぎますよ」

 

 ちりん。

 

 エルザが光を見る。

 

「……『すき』だそうです」

 

「やっぱりそうなんですね」

 

「喜ぶべきなんでしょうか?」

 

 それは俺にも分からない。

 

「俺にも何か言っています?」

 

 そう言うと俺に近寄ってきた。目の前で停止して浮いている。

 

 ちりん。

 

「……『へんなの』」

 

「失礼な精霊ですね」

 

 ちりん。

 

「……『だめ』……?」

 

 エルザが眉を寄せた。

 

 ちりん。

 

「……今度は、『だめおとこ』だそうです」

 

「評価が下がってませんか」

 

◆

 

「この祠のこと、聞いてみてもらえますか」

 

 俺が頼むと、エルザは精霊へ視線を向けた。

 

「この祠は、何の祠ですか?」

 

 ちり、ちりりん。エルザが少し首を傾ける。

 

「『まよけ』……魔除けの祠みたいですね」

 

「へえ。本当に話せるんですね」

 

「……私も驚いています」

 

 精霊は何事もなかったように、エルザの周りをふわりと一周した。そのまま青銀色の警笛のそばまで降り、鳥の刻印の前で止まる。

 

 ちりん。

 

 エルザが警笛へ目を落とした。

 

「今度は何て?」

 

「『きれい』だそうです」

 

「見る目がありますね」

 

「そうでしょうか」

 

 そう言いながら、エルザは青銀色の警笛へ指先を添えた。精霊はそのままエルザの肩の近くをふわふわと漂っている。

 

「ずいぶん懐かれましたね」

 

「……そう見えますか?」

 

「少なくとも、俺のところへは来ませんね」

 

 ちりん。

 

「今のは?」

 

「……『たかい』」

 

「高い?」

 

「ノワールさんの背のことでしょうか」

 

「褒められたことにしておきます」

 

 精霊はエルザの頭の辺りを漂う。その高さが好みなのかもしれない。そう思う事にした。

 

◆

 

 昼前になり、俺たちは丘を下りることにした。祠へ何かするわけでもなく、大樹へ印を残すこともない。持ってきた水筒と布を鞄へ戻す。

 

 エルザは最後に一度だけ丘の景色を見てから立ち上がった。

 

「帰りましょうか」

 

「はい」

 

 数歩歩いたところで、鈴の音がした。

 

 ちりん。

 

 振り返る。精霊が浮いている。大樹の前ではなく、エルザの肩の横だ。

 

「……帰らないんですか?」

 

 エルザが尋ねる。ちり。

 

「なんて?」

 

「『いく』」

 

「どこへ?」

 

 ちりん。

 

 エルザが俺を見る。

 

「『いっしょ』だそうです」

 

「エルザさんと?」

 

 ちりん。

 

「……はい」

 

 エルザが歩く。精霊も動く。止まる。精霊も止まる。少し早足になっても、遅れずについてきた。

 

「完全についてきていますね」

 

「そのようです」

 

「丘へ戻るように言ってみます?」

 

 エルザは精霊へ向き直った。

 

「ここに残らなくていいのですか?」

 

 ちりん。

 

「『いい』」

 

「大樹は?」

 

 ちりん。

 

「『ある』」

 

「祠は?」

 

 ちりん。

 

「『ある』」

 

 俺は吹き出しそうになった。

 

「会話としては正しいんでしょうけど、何の安心にもなりませんね」

 

「……そうですね」

 

 エルザも困ったように精霊を見た。

 

「私についてくるのですか?」

 

 ちりん。

 

「『いく』」

 

 それ以上は説明しない。追い返す理由も見つからない。結局、俺たちは精霊を一匹増やして丘を下りることになった。

 

◆

 

 東門へ戻った頃には、精霊はすっかりエルザの肩の周りを飛ぶ位置に落ち着いていた。門番の衛兵が、冒険者証を確認する前に目を丸くした。

 

「おい、それ……精霊か?」

 

 エルザが横を見る。精霊は何事もないように浮いている。

 

「そうだと思います」

 

「そうだと思うって。あんた、精霊使いだったのか?」

 

「違います。今日、丘で会っただけです」

 

 衛兵は眉を上げ、槍の柄を持ち直した。

 

「会っただけでついてくる精霊なんて、俺は聞いたことないぞ」

 

 近くで順番を待っていた冒険者までこちらを見た。俺はその視線に気づき、エルザのそばへ寄る。

 

「珍しいんですか?」

 

「珍しいも何も、精霊が人について街まで入ってくるの自体、俺は知らない。契約してるなら別だが」

 

「契約はしていません」

 

 エルザが即座に答える。精霊が鳴った。ちりん。

 

「何て?」

 

 俺が小声で聞く。

 

「『けいやく』『ない』」

 

「だそうです」

 

 衛兵には通じない。

 

「いや、俺には音しか聞こえん」

 

 やはりそうらしい。通行を止め続けるわけにもいかず、衛兵は首を捻りながら冒険者証を返してきた。

 

「まあ、危険な精霊には見えんが……ギルドには一度話しておいた方がいいかもしれんな」

 

「分かりました」

 

 門を抜ける。背後で、誰かが「精霊使い」と小声で言うのが聞こえた。エルザも聞こえたらしい。

 

「使役しているわけではないのですが」

 

「外から見ると、そう見えるみたいですね」

 

「困りました」

 

 そう言いながら、エルザは肩の横へ浮かぶ光を見た。門を越えても、精霊は離れる気配がない。

 

「本当にここまでついてきましたね」

 

「……はい」

 

 エルザもようやく、そのことを実感したように精霊を見つめた。

 

 ちりん。

 

 エルザが光を見る。

 

「……『エルザ』」

 

「名前を覚えたんですか」

 

「……教えていないのですが」

 

「そういえば、ずっと『この子』では呼びにくいですね」

 

「名前はないんですか?」

 

 エルザが精霊へ尋ねる。

 

 ちりん。

 

「……ないそうです」

 

「本人は困っていないんでしょうね」

 

 ちり、ちりん。

 

「『つける?』と」

 

 エルザは足を止め、鈴のような音を立てる小さな光を見つめた。しばらく、その音を確かめるように黙っている。

 

 ちりん。

 

「……リン、ではどうでしょう」

 

「その音からですか」

 

「はい」

 

 ちりん、ちりん。

 

 エルザが目を細める。

 

「『いい』そうです」

 

「では、決まりですね」

 

 エルザは精霊へ向き直った。

 

「よろしくお願いします、リン」

 

 ちりん。

 

 リンは彼女の青銀色の警笛の周りを一度だけ回った。

 

「俺の名前は――」

 

 ちりん。

 

「『うるさい』」

 

「……俺たち仲良く出来ないんですか」

 

 リンは俺と仲良くするつもりはないらしい。

 

「まずはミラさんに相談しましょうか」

 

 エルザがいつもの口調で提案する。ただ、口元は指で隠していたが、目元は笑っていた。

 

「そうですね」

 

 俺たちは冒険者ギルドへ向かって歩き出した。その横を、リンが当たり前のようについてきた。

 

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