冒険者ギルドの扉を開けた瞬間、広間の空気が少しだけ変わった。正確には、俺たちではなくエルザの肩の横へ視線が集まった。親指ほどの白い光が、薄緑色の半透明な羽を揺らしながら、青銀色の警笛の近くを漂っている。
ちりん。
「……鳴きましたね」
「『おおい』だそうです」
「人数のことでしょうか? まあ、ギルドですからね」
昼前の広間には、依頼を終えて戻ってきた冒険者と、これから外へ出る者が入り混じっていた。受付へ向かう間にも、何人かが露骨にこちらを見ている。
「精霊?」
「誰のだ?」
そんな声が背後から聞こえた。エルザは歩調を変えなかったが、肩の横のリンへ一度だけ目を向けた。俺たちはミラの受付へ向かった。
「ミラさん、少し相談があるのですが」
「はい。どうされ――」
ミラの声が途中で止まった。視線が俺からエルザへ、そのまま肩の横へ移る。
ちりん。
ミラが瞬きをした。
「……精霊、ですよね?」
「そうみたいです」
「そうみたい、というのは」
エルザが少し困った顔をした。
「今日、丘で会いました。そのまま王都までついてきました」
「ついてきた?」
「はい」
ミラは受付台の向こうから身を乗り出すでもなく、リンをしばらく見た。リンの方も、ミラを見ているのかどうかは分からない。目も口もない白い雫のような光が、ただ空中でゆっくり揺れている。
「契約は?」
「していません」
「召喚したわけでも?」
「ありません」
「精霊術の心得は?」
「ありません」
三つ続けて答えたエルザが、最後だけ少し早口になった。
「門でも精霊使いかと聞かれましたが、私は使役しているわけではありません」
ちりん。
「今、何と言ったんですか?」
ミラが尋ねる。
「『ついてきた』と」
「……精霊自身もそう言っているのですね」
「私には、そう聞こえます」
ミラは今度は俺を見る。
「ノワールさんにも?」
「俺には鈴の音だけです」
「門の衛兵にも聞こえていませんでした」
「なるほど……」
ミラは受付台の上の帳簿へ片手を置いたまま考え込んだ。普段の依頼処理より、明らかに返事までが長い。
「私は精霊について専門ではありません。ただ、人に付き従う精霊が珍しいことくらいは知っています」
「やっぱり珍しいんですね」
「ええ。土地や水場の近くで姿を見た、という話なら時々あります。契約した術者に従う例も記録にはあります。でも、会ったその日に何もせずついてきた、というのは……私は聞いたことがありません」
エルザがリンを見る。
ちりん。
「『なにもない』と」
「そこは念を押すんですね」
俺が言うと、リンがこちらへ少し寄った。
ちりん。
「……『じゃま』」
「まだ何もしていませんが」
「ミラさん。この精霊、俺にだけ当たりが強いんですが」
「私に相談されましても」
ミラの口元が一瞬だけ緩んだ。
しばらく話が続いたせいか、リンの動きがゆっくりになった。白い光がエルザの肩の横からすっと上がり、そのまま耳の上あたりの髪へ寄る。薄緑色の羽が小さく畳まれ、白い雫のような光が髪の間へ収まった。遠目には、小さな髪飾りが一つ増えたようにも見える。
「……休んでいるんでしょうか」
「たぶん」
エルザが目だけを上へ向けようとして、途中で諦めた。首を動かせば落ちるとでも思ったのかもしれない。
ちりん、と一度だけ小さく鳴った。
「『おちつく』だそうです」
「気に入ったんですね」
エルザは髪へ手を伸ばしかけたが、触れずにそのまま下ろした。
◆
とりあえず、人へ危害を加える様子がないことと、エルザが何らかの術で縛っているわけではないことを伝えた。ミラは受付の奥から一枚の小さな紙を持ってきた。
「正式な登録用紙ではありません。門や受付で毎回止められると大変ですから、今日確認したことだけギルド側の記録へ残しておきます」
「何を伝えればいいですか?」
「遭遇した場所と、今分かっていることだけで結構です。推測は書かなくて大丈夫です」
エルザが帳面を出しかけて、俺と目が合った。
「あ」
「今日は持ってきていて良かったですね」
「……はい」
丘では書かなかった黒い帳面が、ここでようやく開かれた。エルザは日付と場所を確かめながら、必要なことだけをミラへ伝えていく。
東街道の北側にある丘。大樹の根元にある朽ちた祠。そこで精霊と遭遇したこと。鈴のような音が自分には言葉として聞こえること。丘から離れても追ってきたこと。王都へ入っても離れなかったこと。
ミラの筆が、一項目ごとに短く止まっては動く。
「名前は?」
「リンです」
ちりん。
エルザの髪の中から鈴の音がした。
「本人も返事をするんですね」
「そうみたいです」
「名前はもともと?」
「ありませんでした。町までついてきたので、私がつけました」
ミラの筆が一度止まった。
「エルザさんが?」
「はい」
「……そうですか」
それだけ言って、また紙へ書き始めた。何か珍しいことでもあるのかと思ったが、聞くほどでもない。リンはエルザの髪から出てくると警笛のそばへ寄り、鳥の刻印の周囲を小さく一周した。
「それで、ギルドとして何か問題はありますか?」
エルザが聞いた。
「今のところはありません。魔物を連れ込んだわけではありませんし、危険行動も確認されていません。ただ――」
ミラが広間へちらりと目を向ける。俺もつられて振り返った。見ていないふりをしている者が、何人かいる。目が合うと、そのうち二人は慌てて掲示板へ向き直った。
「しばらくは珍しがられると思います」
「精霊使いではないのですが」
「そうですね。でも、事情を知らない人から見れば、精霊がエルザさんについて歩いていますから」
エルザは返事をせず、リンを見た。
「その都度訂正するしかないでしょうか」
「全て説明する必要はありませんよ」
ミラは紙を帳簿の間へ挟んだ。
「何か聞かれた時に、契約も使役もしていないと伝えるくらいで十分です。それでも勝手に呼ぶ人はいるでしょうけれど」
「……分かりました」
エルザの返事は、あまり納得していないように聞こえた。
ちりん。
エルザの眉が動いた。訳す前から、もう嫌そうだった。
「……『せいれいつかい』」
「覚えなくていい言葉を覚えましたね」
ちりちりん。
「『エルザ』『せいれいつかい』……違います」
エルザが即座に訂正した。俺は笑いを堪えた。
「本人が一番広めそうですね」
「ノワールさん」
エルザに、名前だけで咎められた。
「すみません」
ちりん。
「……『あやまれ』」
カウンターの向こうで、ミラが口元を押さえたのが見えた。
「俺が悪い話になってるんですか?」
ミラが笑い声を漏らした。
◆
相談を終えたところで、隣の受付にいた男がこちらへ近づいてきた。革鎧の肩に古い傷があり、腰には使い込まれた短槍を下げている。
「悪い。ちょっといいか?」
俺は何となくエルザと男の間を見る。敵意があるようには見えない。男の目は、ずっとリンへ向いていた。
「その精霊、触っても平気か?」
「私に聞かれても……」
エルザがリンを見る。
「触らせてもいいですか?」
ちりん。
白い光がエルザの肩の後ろへ回った。
「……嫌だそうです」
「そうか。悪かった」
男はあっさり手を上げて引いた。もっと食い下がるかと思ったが、そのまま自分の仲間のところへ戻っていく。
「ちゃんと嫌って言うんですね」
俺が言うと、エルザが頷いた。
「そのようです」
「エルザさんの言うことなら何でも聞く、というわけでもなさそうですね」
「試してみますか?」
「何をです?」
エルザはリンへ顔を向けた。
「リン。ノワールさんの肩へ行ってください」
ちりん。
動かない。
「……『やだ』」
「即答ですか」
「私の命令にも従っていませんね」
「ん?……わざわざ俺を使って実証しなくても良かったんじゃないですか?」
エルザは答えず、鞄の留め具へ指をかけた。外すでもなく、留め直すでもなく、親指で二度ほど撫でている。目だけが笑っていた。
リンはそんなことなど気にせず、また青銀色の警笛のそばへ戻った。
◆
ギルドを出る頃には、昼の鐘が近づいていた。大通りへ出ても、リンがいるだけで何人かが振り返る。子供は遠慮がなかった。母親と手を繋いだ小さな女の子が、すれ違いざまに足を止める。
「おかあさん、ひかってる」
「見ちゃ駄目よ」
「なんで?」
母親が困った顔で頭を下げ、子供の手を引いていく。教育上良くないのだろうか。リンはその後ろ姿を追うように一度だけ高く浮かんだ。
ちりん。
「リンは子供に興味を持っているんですか?」
「『ちいさい』だそうです」
「リンも十分小さいでしょう」
ちりん。
「『もっと』」
基準が分からない。エルザがくすりと笑った。妙な感じだった。
このところ、知られたくないことと言えば俺の方に多かった。《授かり》のこと。人には言わない方がいい感覚のこと。
けれど今日は、通りを歩く人の視線が俺を素通りして、ほとんどエルザの肩へ向かっている。俺はただ隣を歩いている人になっていた。悪くない。
「ノワールさん?」
「はい?」
「何か笑っています」
「今日は俺が普通に見えるなと思いまして」
エルザが首を傾げた。
「普段も普通だと思いますが」
「ありがとうございます」
ちりん。
「今のは聞かなくていいです」
「まだ何も言っていません」
「どうせ『うるさい』でしょう」
エルザがリンを見る。ちり、ちりん。間を置いて、エルザが少し声を震わせながら答えた。
「『ちがう』」
「お」
「……『へんなの』」
「……その評価は定着したんですか?」
エルザが顔をそらした。
◆
大通りの分かれ道で、俺たちは足を止めた。ここから先は、それぞれの宿へ向かう道が分かれる。いつもなら「では、明日」で終わるところだ。今日はエルザの横に白い光が一つ増えている。
「宿、大丈夫でしょうか」
俺が聞くと、エルザも少し考えた。
「確認してみます。少なくとも、部屋の中で暴れるようには見えません」
ちりん。
「『おとなしい』そうです」
「当てにならない本人の自己申告ですね」
「リンを信じるしかないです」
「追い出されたらどうします?」
エルザは少し黙った。リンも、なぜか一緒に止まった。
「……その場合は、ギルドへ戻って相談します」
「俺の宿へ来てもいいですよ。女将が許せばですが」
ちりん。
「『やだ』」
「人が親切で言ってるのに……本当に失礼ですね」
エルザがとうとう声を立てて笑った。ほんの短い笑い声だったが、通りを行く人が一人だけこちらを振り返った。
「では、まず自分の宿で確認します」
「はい。また明日」
「また明日、ノワールさん」
ちりん。
俺はリンを見る。
「今のは?」
エルザも小さな光へ目を向けた。
「……『また』だそうです」
「おぉ……少しデレましたね」
さんざん冷たくされた後に少し優しくされると沁みる。エルザが歩き出す。リンも青銀色の警笛のそばを漂いながら、その後についていった。俺はエルザと、その横を漂う白い光をしばらく見送り、それから〈鈍色亭〉へ向かった。