翌日。朝稽古で、またドランに止められた。今度は肩ではない。俺が前へ出たところで、木剣の先が胸当てへ触れている。
「……届いてないぞ」
「分かってます」
「分かってて出たのか」
「届かないので、近づこうと」
「だから打たれてる」
言われてみれば、その通りだった。ドランは一度下がり、俺の木剣が届かないところへ立つ。
「来い」
「はい」
今度は上体を倒さないよう気をつけながら前へ出た。一歩。ドランも一歩下がる。もう一歩。また下がる。
「……これ、いつまで追えばいいんです?」
「追うな」
「でも、届かないですよ」
「届かないなら斬るな」
「それだと逃げられませんか?」
「逃げるなら逃がせ」
木剣の柄頭で額を軽く押された。
「相手が下がってるのに、自分から形を崩して追いかけるな。届く時に斬れ」
「……はい」
分かったような、分からないような。少なくとも、届かせようとして前のめりになったら駄目らしい。
「今、半分しか分かってない顔してるな」
「本当ですか?」
全部分かっていないのだから、どこが半分なのかは分からない。半分もわかったように見えてるなら良かった。
「……今日はそれでいい。さっさと行け」
追い払われた。木剣を戻しながら、もう一度考える。届かないなら斬るな。言っていることは単純なのに、剣を持つとどうしても届かせたくなる。
そこが、まだよく分かっていないところなのだろう。難しい。
◆
商業区の外れ、卸問屋から預かった小さな荷を届け終え、俺とエルザはギルドへの帰り道を歩いていた。共用の縄に結ばれた革札が、道具袋の脇で小さく揺れている。銀灰色と暗い赤、二本の針。〈コンパス〉と名付けたばかりの名前には、まだどこか慣れなかった。
エルザの耳の上では、リンが白と薄緑の光を畳み、いつものように髪飾りのように収まっている。大通りの角を曲がったところで、前方から見覚えのある一団が歩いてくるのが見えた。長い銀髪、片肩の翼を模した装飾。
フィロスだった。三人の仲間を連れ、大通りの真ん中を堂々と歩いてくる。
俺には見覚えがあった。だが、向こうにはないだろう。あの日、俺は路傍の石だった。
案の定、フィロスの視線は俺の顔を素通りしかけた。だが、エルザの髪の上で止まった。
「……精霊?」
その声に反応したのか、リンがふわりと浮き上がる。
ちりん。
フィロスの足が止まった。後ろを歩いていた仲間たちも、それにつられて立ち止まる。
「契約しているのか」
視線は俺ではなく、エルザへ向いていた。
「……していません」
いつもの問いにエルザが答える。
「召喚でもありません。リンが自分でついてきています」
「自分で?」
フィロスがわずかに目を細めた。リンは気にした様子もなく、エルザの肩の近くを一度回ってから、また髪のそばへ戻る。フィロスの後ろにいた女性――以前も一緒にいた人が、少し驚いた顔をした。
「フィロス様。契約なしで人について歩く精霊って、かなり珍しいんじゃ……」
「見れば分かる」
フィロスはそう言いながらも、さっきまでより明らかにエルザを見ていた。その視線は、エルザとリンの間を行き来している。
「……なるほど」
フィロスが顎へ指を当てる。
「お前、ただの石級ではないようだな」
「石級冒険者のエルザです」
エルザはいつも通り名乗った。
「そういう意味ではない」
フィロスはリンへ一度目をやった。
「精霊が勝手についてくるなど、そうあることではない。何か理由があるのだろうな」
エルザが一瞬だけ黙った。それから、静かに答える。
「私にも理由は分かっていません」
ちりん。
リンが鳴る。
「何て?」
俺が小声で聞く。
「……『エルザ』」
「それだけ?」
「はい」
「言葉まで通じるのか」
「私には、です」
「ほう」
今度こそ、露骨に興味を持った顔だった。だが、その視線が俺へ移った途端、いつもの調子へ戻った。
「で。その精霊使いと一緒にいる、お前は誰だ?」
「ノワールです。以前、一度お会いしています」
フィロスが初めて、まともに俺へ視線を向けた。しばらく顔を見つめられる。居心地が悪い。
フィロスが黙ったままでいると、仲間が何やら耳打ちをした。
「……ああ。石ころか」
「思い出してくれましたか」
「覚えていると思うな」
「ですよね」
お仲間が覚えていてくれていただけですもんね。俺も道端に転がる石ころのことは覚えていないから仕方ない。エルザの髪のそばでリンが揺れる。
「しかし、妙だな」
フィロスはエルザを見る。
「精霊に好かれている存在なら、もっと相応しい相手を選べそうなものだが」
言いたいことは分かった。俺は横で聞いているだけなので、別に構わない。
「冴えない男の隣にいる理由が分からん」
「俺が冴えないのは否定しません」
「分かっているなら結構だ」
フィロスは満足そうに頷いた。エルザの視線が俺へ向いた。少しだけ冷たい気がする。俺が何か間違えたのだろうか。
「精霊に選ばれるお前なら、もっと――」
「私はノワールさんと組んでいます」
エルザが遮った。フィロスが口を止める。
「変えるつもりはありません」
声は静かだった。エルザはそれ以上、何も付け加えなかった。フィロスはしばらくエルザを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「好きにしろ」
そして俺を見る。
「石ころに運が向いたことだけは認めてやろう」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「そうでしたか」
どこかで聞いたようなやり取りだった。フィロスは興味を失ったように前を向き、そのまま歩き出した。通り過ぎ際、さっきの女性が足を少し緩めた。
「すみません。フィロス様、ああいう言い方しかできなくて」
「ミレイ」
前からフィロスの声が飛んでくる。
「今行きます」
ミレイと呼ばれた女性は俺たちへ小さく頭を下げる。エルザはその背中を見ながら言った。
「もし悪気がないのでしたら、なおさら直した方が良いのではないでしょうか」
ミレイは一瞬だけ困った顔をした。その反応を見たエルザは、そのまま言葉を続けた。
「あなたに言うことではありませんでした。申し訳ありません」
「いえ……私も、そう思います」
小声でそう答え、仲間の後を追っていった。あの人も大変だな。フィロスたちが角を曲がり、姿が見えなくなる。
少し歩いたところで、エルザが息を吐いた。
「……なんですか、あの勘違い男は」
いつになく率直だった。
「色々と絡まれていましたね」
「私のことではありません」
エルザが俺を見る。
「ノワールさんへの言い方です」
「ああ……俺はあまり気にしていませんけど」
「私が気にします」
即答だった。俺は少し黙る。返事を探しているうちに、何を言っても軽くなりそうな気がした。
「……分かりました」
「はい」
エルザはそれ以上続けず、いつもの歩調へ戻った。リンがフィロスの立ち去った方向へと漂う。
ちりん。
「今のは?」
「『つよい』」
「それは誰のことです?」
エルザがフィロスたちの消えた角を見る。
「さっきの男のことでしょう」
「ですよね」
ちりん。
もう一度、リンが鳴った。エルザが少し間を置く。
「……『へんなの』とも言っています」
「強いけど変なんですか」
リンは俺のことも『へんなの』と言っていた。
「俺は彼と同じ評価ですか……」
なんかいやだ。
「リン、俺は強いですか?」
ちりん。
エルザの肩が跳ねた。
「……エルザさん……?」
「……言えません……」
エルザが強く首を振る。
「大丈夫ですよ、言ってください」
俺は出来るだけ穏やかにエルザに語りかけた。
沈黙が流れた。
エルザは目線を逸らしながら、ゆっくりと口を開いた。
「……『よわい』と……」
「ああ……」
そのまま無言で歩いていると、リンが俺の方へ近づいてきた。
ちりん。
「……ひょっとして慰めてくれてます?」
俯きながら歩くエルザの口が開いた。
「……『いしころ』」
「……覚えなくていいですよ、それ」
隣から、とうとう笑い声が聞こえてきた。俺たちはそのまま、ギルドへの道を歩き続けた。