何度見直しても、ログアウトの項目はなかった。
メニューウィンドウを呼び出し、選べる項目を上から順に確かめる。
名前。装備。所持金。スキル。
昼間と同じ、必要最低限の項目しか並んでいない。
経験値も能力値も表示されず、そのどこにも終了を意味する言葉はなかった。
ウィンドウを閉じ、もう一度開いた。
項目の端へ指を滑らせる。下へ送る。横へ引く。表示そのものを押し広げようとする。
指先は淡い光を抜けただけだった。
「ログアウト」
狭い部屋へ、自分の声が落ちた。
低く、かすれている。キャラクターを作った時に聞いた、十八歳の俺の声だ。
返事はなかった。
「システム終了」
さっきよりはっきり言う。
窓の外で、誰かが笑った。
遠くで金物の触れ合う音がして、それきりだった。
「ヘルプ。運営連絡」
表示は変わらない。
現実の身体を動かそうとしてみた。
午前二時を過ぎた部屋。ベッド。頭へ着けた機器。そこに横たわっているはずの自分。
腕を上げる。
機器を外す。
そう念じても、たぶん動いたのはこちらの右手だけだった。若い指が、何もない空間を掴んでいる。
現実側の身体がどうなっているのか、輪郭すら感じられなかった。
「……参ったな」
思ったより穏やかな声が出た。落ち着いているわけではない。
だが、騒いだところで、ログアウトの項目が増えるわけでもない。
立ち上がり、窓へ向かった。木枠へ手を置く。表面は冷たく、細かなささくれが指へ引っかかった。
窓の外では、街が夜を続けていた。石畳を歩く足音。店を閉める戸板の音。どこかの食堂から漏れる話し声。
俺が帰れないことなど知らないまま、人々はそれぞれの一日を終えようとしている。
風が木枠の隙間から入り、頬へ触れ、髪を揺らした。
よくできたゲームだと思っていた。今も、それは変わらない。手応えがありすぎることを除けば。
もう一度、メニューウィンドウを呼び出した。
見落としがあるのかもしれない。
一時的な不具合かもしれない。
正式サービスが始まって一か月ほどだ。障害が起きることくらいはあるだろう。
しばらく待てば、運営が気づいて切断してくれるかもしれない。
そう考えようとした。
だが、運営がいつ気づくかは、誰にも分からない。
数時間後かもしれないし、丸一日かかるかもしれない。
現実の身体はゲームに入った時のまま、ただベッドに寝ているだけのはずだ。
見えないものだけを考え続けないようにしよう。
ログアウトの項目はない。運営へ連絡する手段も見つからない。
今、分かるのはそれだけだ。
少なくとも今は、ゲームからログアウトできない。それだけだ。
分からないことを、想像で埋めても仕方がない。
窓から離れた。
今日から休みだ。何も予定はない。復旧を気長に待とう。
それ以上は、明日起きてから考えることにした。
俺はベッドへ横になった。
明日は、まず何をするか。
そちらを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
◆
目を開けると、粗く削られた天井の板の節が、朝の薄い光の中に浮かんでいる。
枕元へ手を伸ばすと、指先に冷たい鉄が触れた。
昨夜、自分で鍵をかけた。そのずっしりとした感触を、手の中で確かめる。
俺は鍵を握ったまま、しばらく天井を見ていた。
帰れなかった。目が覚めても、俺はここにいる。
メニューウィンドウを開いてみる。
ログアウトの項目はない。
だが、想定内だ。
「……よし」
声に出してから身体を起こした。
藁の寝台は硬かったが、腰は痛まなかった。脚にも昨日の疲れはほとんど残っていない。
十八歳の身体は、一晩眠っただけで驚くほど疲れが抜ける。
顔を洗い、服を整え、鍵を持って階下へ降りた。
食堂には朝の匂いが満ちていた。焼いたパン、煮込んだ野菜、昨日の脂の名残。
窓から入る冷たい風が、それらを少しずつ混ぜ合わせている。
女将は大きな鍋を木べらでかき回していた。俺の足音に気づくと、手を止めずに言った。
「おはよう。眠れたかい」
「ええ。思ったよりは」
「若いのは、それだけで得だね」
本当にそう思う。
平皿にパンと野菜の煮込みが置かれた。
「朝飯。個室代に入ってるよ」
「ありがとうございます」
カウンターの端へ座る。パンは固かったが、煮込みへ浸すとようやく歯が通った。
周りの客へ目を向ける。みんな、いつもの朝を過ごしているようで、ログアウトという言葉も聞こえなかった。
よくあることなのだろうか。それとも落人がここにはいないのかもしれない。
しばらく黙って食べた。温かいものが腹へ入ると、木さじを握っていた指から少し力が抜けた。半分ほど食べたところで、木さじを置いた。
「女将さん」
「なんだい」
「昨日、俺のことを落人と呼びましたよね」
鍋をかき回していた手が、一度だけ止まった。女将は振り返り、俺の顔を見た。
「それを聞くのも、落人らしいね」
「どういう人を、そう呼ぶんですか」
女将は木べらを鍋の縁へ置いた。
「何も知らずに広場へ立ってる連中さ」
「俺みたいに?」
「あんたみたいに」
それだけ言って、女将は布巾を取った。カウンターの端へついた水滴を拭いていく。
「どこから来たのか分からない。街の金も、道も、仕事も知らない。なのに、自分じゃ別の場所から来たって言う。そういうのが、前から時々いるんだよ」
プレイヤーは、NPCにとってそういう存在なのか。
布巾が木目の上を往復する。その手つきには、同じ質問を何度も受けてきたような、手慣れた雑さがあった。
「帰った人は?」
その手が止まった。女将は眉を寄せた。
「帰りたがってた奴なら、見たことはあるね」
何か引っかかる言葉だった。
「帰りたがってた奴ですか……実際帰った人を見たことはありませんか?」
「詳しく知りたいなら、同類に聞きな」
女将は顎で、ギルドのある方角を示した。
「ギルドにある半地下の酒場に、灰色の髪の女がいる。昔からいる落人だ。昼前から酒を飲んでるようなやつだが、あたしよりは詳しいよ」
「昔からですか……? 名前は?」
「セイ」
それだけだった。女将は鍋へ戻った。
「冷めるよ」
俺は残りを食べた。パンを煮込みへ沈め、柔らかくなったところで口へ運ぶ。
落人から詳しい話が聞ける。
それで安心していいのかは、まだ分からなかった。
昔から、という言葉も引っかかった。
この世界でいう昔がどれほどの長さなのか、俺にはまだ分からない。
◆
朝の大通りは明るかった。店先では戸板が外され、荷車が石畳を鳴らしている。
通りを行き交う者たちの顔を、つい見てしまう。
この中に落人がいるのかもしれない。だが、見ただけでは分からなかった。
籠を抱えた女も、荷を担いだ男も、眠そうに歩く若者も、それぞれの行き先へ向かっている。
俺だけが、誰かを探す目で歩いている気がした。
冒険者ギルドへ入り、受付の脇にある階段を下りる。
一段ごとに、空気が変わった。
上の広間に満ちていた声が遠くなり、代わりに安酒と煙草、それから湿った石の匂いが濃くなる。
半地下の酒場は、昼前のせいか空いていた。隅の卓で、男が二人、小声で話している。
奥の壁際に、一人だけ女がいた。
使い込まれた革鎧。くすんだ灰色のマント。肩まで伸びた灰銀の髪。
卓の上には酒杯が一つと、よく研がれたナイフが一本。
女将の言う「詳しい」が、別の意味に見えた。
俺は卓から二歩ほど離れたところで止まった。
「すみません」
女は顔を上げなかった。
「少し、お話を聞いてもいいでしょうか」
「帰り方なら知らないよ」
低く、かすれた声だった。俺は一瞬、言葉を失った。