明日も、ダンジョンへ。   作:為書結依

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第36話 声を出すまで

 その日の稽古は、そこで終わった。借りた木槍と木盾を持ち、稽古場を出た時、空は少しずつ茜色へ傾き始めていた。静かになった路地を、俺たちは並んで歩き出す。ヴェラは、エルザから指定された俺の右側を正確に歩いている。

 

 ただ、歩幅は不自然なほど揃い、肩も上がっている。右脚を庇うたび上半身まで硬く見え、エルザとの間も朝より少し開いていた。

 

 エルザの髪際では、リンが白い雫のような身体を小さく揺らしている。

 

「……ヴェラさん」

 

 歩みを緩めて声をかけると、ヴェラは首だけをすっとこちらへ向けた。

 

「はい、ノワール様。歩行速度に遅れが生じておりますでしょうか」

 

「速度の話ではありません。歩幅を揃えなくて構いません。右脚が楽な速さで歩いてください」

 

「申し訳ありません。姿勢の維持に不備がありました。直ちに修正します」

 

 歩きながら、次にかける言葉を考える。

 

「姿勢を直す必要もありません。今は遅れないことより、右脚に無理をさせないことを優先してください」

 

 ヴェラは答えを探すように一瞬視線を揺らした。

 

「……承知しました」

 

 隣のエルザが前を向いたまま言葉を添えた。

 

「先ほどのことは、今の三人の動きにどんな問題があるかを確かめるための訓練です」

 

「……ですが、エルザ様のお体に不利益を及ぼしました」

 

「事実として、私の退路は塞がれました。ただ、それはドランさんが結果を予測して意図的にそうしたんです。課題を教えてくれるために」

 

 エルザはヴェラへ目を向け、言葉を続けた。

 

「ですから、ヴェラさん一人の過失として抱え続ける必要はありません」

 

 ヴェラは、ほんの少しだけ顎の力を抜いた。

 

「……承知いたしました」

 

◆

 

 〈鉄床亭〉へ戻ると、朝と同じ防錆油と金属の匂いがした。借りた木槍と木盾を店主へ返す。

 

「おう、来たな。ちょうど出来上がったところだ」

 

 作業台の奥から、店主が完成した装備を一つずつ並べる。一つ目は、調整を終えた軽量中型丸盾。裏側の取っ手が詰められ、ヴェラの左腕が中で遊ばない幅へ改められている。縁には薄い補強金具が鋲で留められていたが、重さは必要以上に増えていない。

 

 二つ目は、短槍。穂先の付け根にある補強金具が軽いものへ替えられ、前へ偏っていた重さが抑えられている。持ち手も、ヴェラの握りへ合わせて削り直されていた。三つ目が、右足首を支える革帯だった。

 

 ブーツの上から厚革を足首に交差させて留め、横揺れを抑える作りになっている。

 

「革帯は締めすぎるなよ」

 

 店主が革の継ぎ目を指で叩いた。

 

「足首の横揺れを抑えるだけだ。きつく締めりゃ、痺れて足先の感覚が鈍る。長く歩く時は途中で外して、皮膚と痺れを確かめろ。汗をかいたら、締め直しも必要だ。違和感があったら、その場で緩めろ」

 

「はい」

 

 ヴェラが進み出て、短槍と盾を手に取る。構え、引き、軽く腕を振った。朝に試した時より、動作の戻りが早い。前方の重さが抑えられた短槍は、突いた後の引き込みでも穂先が暴れず、盾の陰へ滑らかに収まった。

 

「革帯も着けてみな」

 

 ヴェラは促されて右足首へ革帯を巻き、金具を留めた。作業台の脇を歩いて向きを変えると、朝に見た足首の横揺れが小さくなっていた。

 

「いかがですか、ヴェラさん」

 

 エルザが帳面を開く。

 

「圧迫感、痺れ、足首の動かしにくさについて報告をお願いします」

 

「はい。圧迫感は軽度。痺れはありません。右足首の横揺れが抑えられ、動きやすくなっています」

 

 ヴェラは淀みなく答えた。そこで言葉を切った後、右足元を見つめ直し、わずかに眉を寄せる。俺とエルザは黙って待った。ヴェラは一度息を整え、それから口を開いた。

 

「……追加で申告します」

 

「はい」

 

 エルザが筆を構えた。

 

「留め金の内側が、右の外くるぶしへ当たります。歩くほど圧迫が強くなります。長時間歩行した場合、皮膚を損傷する可能性があります」

 

「どれどれ」

 

 店主が屈んで革帯の留め金を確かめた。

 

「ああ、ここが硬いな。少し削って、柔らかい当て革を一枚挟む。五分待ちな」

 

 店主は革帯を受け取り、奥の作業台で手際よく直し始めた。

 

「言ってくれて助かりました」

 

 俺はヴェラへ言った。

 

「外へ出る前に直せましたから」

 

「……申告義務に基づく報告です」

 

「はい。きちんと申告してくれたので、今ここで直せました」

 

 ヴェラが小さく頭を下げた。革帯の調整を待つ間、通り沿いの道具屋へ寄ることにした。

 

「ヴェラさんにも、警笛を一つ持ってもらいましょう」

 

 俺が言うと、エルザも胸元の青銀色の警笛へ指を添えた。

 

「私たちが使っている合図と同じです。緊急時は短く三度。位置を知らせるだけなら長く一度です」

 

「承知いたしました」

 

 俺とエルザで代金を出し合い、小型の真鍮製警笛を買った。飾りはない。革紐を通してすぐ手が届く位置に留める。

 

「ただ、近くにいる時の申告や指示確認は、これまで通り声でお願いします」

 

「はい。警笛は、声が届かない距離や緊急時に使用します」

 

「その理解で大丈夫です」

 

 ヴェラが警笛の位置を確かめるように触れると、指先の近くへリンがふわりと降りてきた。

 

 ちりん。

 

 ヴェラが手を止めた。

 

「……こちらも、なにかの合図でしょうか」

 

「いえ。今のは鈴の音だけです」

 

 エルザが答えた。リンは真鍮の警笛の周りを、くるりと一周する。

 

「音の出るものが気になるんですかね」

 

 ちりん。

 

「……分かりません」

 

 エルザは少し困った顔をした。ヴェラが迷いながら警笛を持ち上げると、リンはその周りをもう一度回り、満足したように髪際へ戻った。ヴェラは警笛を見つめて呟いた。

 

「気に入ったんでしょうか……」

 

「たぶん」

 

 エルザは微笑みながら答えた。

 

◆

 

 道具屋から〈鉄床亭〉へ戻り、調整を終えた革帯を受け取った。店主に訓練用の木剣を一本借り、俺たちは店主の許可を得て、裏手にある小さな空き地へ移動した。周囲を石壁に囲まれた、誰もいない静かな場所だった。

 

「では、装備の最終確認と、稽古場で定めた暫定規則の動作確認を行います」

 

 エルザが空き地の中央に立つ。

 

「ヴェラさん。指示がない時、または状況が変わった時の規則を復唱してください」

 

「はい、エルザ様」

 

 ヴェラは新しい丸盾を左腕へ通し、短槍を構えた。

 

「一、最も危険な状態にある仲間の保護を優先する。二、味方の退路が失われる場合は、指示された位置から離れてよい。三、判断できない場合は、その場で声を出して指示を求める」

 

「結構です」

 

 エルザは頷いた。

 

「簡単な連携確認を行います」

 

 エルザは足元の一点を示した。

 

「ヴェラさんは、ここを守ってください。次の指示があるまで、この位置から離れないでください」

 

「承知いたしました」

 

 ヴェラは示された位置で丸盾を構え、エルザは空き地の端へ離れた。

 

「ノワールさんは、打ち合わせ通りにお願いします」

 

「分かりました」

 

 借りた木剣を下げたまま、ヴェラの正面に立つ。

 

 そこから、ゆっくり横へ回る。ヴェラの視線が俺を追う。丸盾の向きも少しずつ変わった。

 

 だが足は指定された位置から動かない。さらに横へ回ると、右足が浮きかけて元の場所へ戻った。エルザは黙っている。

 

 歩みを止めずにいると、ヴェラの喉が動いた。

 

「……指示を、お願いします」

 

 声は小さく、こちらまで届くかどうかという程度だった。

 

「聞こえません。もう一度お願いします」

 

 さらに数歩回ると、ヴェラが息を吸い直した。

 

「指示をお願いします!」

 

 今度ははっきり聞こえた。

 

 それでも、ヴェラの足は示された位置に残っている。

 

「位置を守る指示を解除します。ノワールさんの正面へ移動してください」

 

「承知しました」

 

 ヴェラは返事と同時に動いた。俺の進む先へ回り込んで丸盾を構える。そこで足を止めた。

 

「まだ、声が出るまでに少し間があります」

 

 エルザが帳面へ書き込む。

 

「ただ、前の指示を続けてよいか判断できなくなった時に、黙ったまま止まらず、指示を求めることはできました」

 

「ええ」

 

 俺も頷いた。

 

「声が聞こえれば、俺たちが指示を変えられます。次は、もう少し早く出せれば十分です」

 

 ヴェラは呼吸を整えながら、俺たちを見た。

 

「発声後は、指示が更新されるまで元の命令を維持する、という理解でよろしいでしょうか」

 

「はい。今はそれで構いません」

 

「……承知いたしました」

 

 ヴェラは盾を持ち直した。

 

◆

 

 夕暮れ時、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻る道すがら、三人で最初に受ける依頼の条件について話し合った。

 

「まだ本格的なダンジョンや、入り組んだ遺跡は避けた方がいいですね」

 

 俺が切り出すと、エルザも頷く。

 

「同感です。最初の依頼ですから、無理なく役目を果たして、三人で帰れる条件を優先しましょう」

 

 エルザは指を折った。

 

「王都から日帰りできること。退路が分かりやすいこと。高低差や狭い場所が少ないこと。相手の種類と数を、ある程度予測できること」

 

「良い条件ですね」

 

 俺はヴェラへ目を向けた。

 

「右脚や装備のことを考えて、避けた方がいい地形があれば教えてください」

 

 ヴェラは少し考えてから答えた。

 

「深い泥濘、膝近くまで水に浸かる場所、急な岩場、視界の悪い林です。これらの場所では右脚の踏み込みが制限され、盾による動線確保も困難になります」

 

「分かりました。今回は避けましょう」

 

 二人の条件を合わせ、翌朝探す依頼の輪郭ができた。どの依頼がいいかとは、まだ聞かなかった。今はヴェラが答えられる身体条件を集め、三人で帰れる依頼を選ぶ方が先だ。

 

◆

 

 日が落ちた頃、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻った。エルザは翌朝、冒険者ギルドの掲示板前で合流すると告げ、自分の宿へ帰っていった。木扉を押し開け、俺とヴェラが食堂へ入る。女将が厨房から顔を出した。

 

「お帰り。……おや、立派な道具を買ってきたね」

 

 ヴェラが抱えている丸盾と短槍を見て、女将が目を細める。

 

「部屋へ持ち込むなら、邪魔にならないところへ置きな」

 

 ヴェラが足を止めた。俺も女将も、置く場所を指示しない。盾を抱えたまま足元を見て、階段を見上げ、長い沈黙のあと俺と女将の顔を見比べた。

 

「……扉を開けて、右側の壁へ置いてもよろしいでしょうか」

 

「許可を取らなくて大丈夫ですよ」

 

 女将は厨房で作業しながら頷く。ヴェラは黙ったまま、もう一度階段の先を見た。

 

「……では、右側へ置きます」

 

 ヴェラは装備を抱え直して二階へ上がった。やがて自室の扉が開き、しばらくして静かに閉じる音が聞こえた。

 

 

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