その日の稽古は、そこで終わった。借りた木槍と木盾を持ち、稽古場を出た時、空は少しずつ茜色へ傾き始めていた。静かになった路地を、俺たちは並んで歩き出す。ヴェラは、エルザから指定された俺の右側を正確に歩いている。
ただ、歩幅は不自然なほど揃い、肩も上がっている。右脚を庇うたび上半身まで硬く見え、エルザとの間も朝より少し開いていた。
エルザの髪際では、リンが白い雫のような身体を小さく揺らしている。
「……ヴェラさん」
歩みを緩めて声をかけると、ヴェラは首だけをすっとこちらへ向けた。
「はい、ノワール様。歩行速度に遅れが生じておりますでしょうか」
「速度の話ではありません。歩幅を揃えなくて構いません。右脚が楽な速さで歩いてください」
「申し訳ありません。姿勢の維持に不備がありました。直ちに修正します」
歩きながら、次にかける言葉を考える。
「姿勢を直す必要もありません。今は遅れないことより、右脚に無理をさせないことを優先してください」
ヴェラは答えを探すように一瞬視線を揺らした。
「……承知しました」
隣のエルザが前を向いたまま言葉を添えた。
「先ほどのことは、今の三人の動きにどんな問題があるかを確かめるための訓練です」
「……ですが、エルザ様のお体に不利益を及ぼしました」
「事実として、私の退路は塞がれました。ただ、それはドランさんが結果を予測して意図的にそうしたんです。課題を教えてくれるために」
エルザはヴェラへ目を向け、言葉を続けた。
「ですから、ヴェラさん一人の過失として抱え続ける必要はありません」
ヴェラは、ほんの少しだけ顎の力を抜いた。
「……承知いたしました」
◆
〈鉄床亭〉へ戻ると、朝と同じ防錆油と金属の匂いがした。借りた木槍と木盾を店主へ返す。
「おう、来たな。ちょうど出来上がったところだ」
作業台の奥から、店主が完成した装備を一つずつ並べる。一つ目は、調整を終えた軽量中型丸盾。裏側の取っ手が詰められ、ヴェラの左腕が中で遊ばない幅へ改められている。縁には薄い補強金具が鋲で留められていたが、重さは必要以上に増えていない。
二つ目は、短槍。穂先の付け根にある補強金具が軽いものへ替えられ、前へ偏っていた重さが抑えられている。持ち手も、ヴェラの握りへ合わせて削り直されていた。三つ目が、右足首を支える革帯だった。
ブーツの上から厚革を足首に交差させて留め、横揺れを抑える作りになっている。
「革帯は締めすぎるなよ」
店主が革の継ぎ目を指で叩いた。
「足首の横揺れを抑えるだけだ。きつく締めりゃ、痺れて足先の感覚が鈍る。長く歩く時は途中で外して、皮膚と痺れを確かめろ。汗をかいたら、締め直しも必要だ。違和感があったら、その場で緩めろ」
「はい」
ヴェラが進み出て、短槍と盾を手に取る。構え、引き、軽く腕を振った。朝に試した時より、動作の戻りが早い。前方の重さが抑えられた短槍は、突いた後の引き込みでも穂先が暴れず、盾の陰へ滑らかに収まった。
「革帯も着けてみな」
ヴェラは促されて右足首へ革帯を巻き、金具を留めた。作業台の脇を歩いて向きを変えると、朝に見た足首の横揺れが小さくなっていた。
「いかがですか、ヴェラさん」
エルザが帳面を開く。
「圧迫感、痺れ、足首の動かしにくさについて報告をお願いします」
「はい。圧迫感は軽度。痺れはありません。右足首の横揺れが抑えられ、動きやすくなっています」
ヴェラは淀みなく答えた。そこで言葉を切った後、右足元を見つめ直し、わずかに眉を寄せる。俺とエルザは黙って待った。ヴェラは一度息を整え、それから口を開いた。
「……追加で申告します」
「はい」
エルザが筆を構えた。
「留め金の内側が、右の外くるぶしへ当たります。歩くほど圧迫が強くなります。長時間歩行した場合、皮膚を損傷する可能性があります」
「どれどれ」
店主が屈んで革帯の留め金を確かめた。
「ああ、ここが硬いな。少し削って、柔らかい当て革を一枚挟む。五分待ちな」
店主は革帯を受け取り、奥の作業台で手際よく直し始めた。
「言ってくれて助かりました」
俺はヴェラへ言った。
「外へ出る前に直せましたから」
「……申告義務に基づく報告です」
「はい。きちんと申告してくれたので、今ここで直せました」
ヴェラが小さく頭を下げた。革帯の調整を待つ間、通り沿いの道具屋へ寄ることにした。
「ヴェラさんにも、警笛を一つ持ってもらいましょう」
俺が言うと、エルザも胸元の青銀色の警笛へ指を添えた。
「私たちが使っている合図と同じです。緊急時は短く三度。位置を知らせるだけなら長く一度です」
「承知いたしました」
俺とエルザで代金を出し合い、小型の真鍮製警笛を買った。飾りはない。革紐を通してすぐ手が届く位置に留める。
「ただ、近くにいる時の申告や指示確認は、これまで通り声でお願いします」
「はい。警笛は、声が届かない距離や緊急時に使用します」
「その理解で大丈夫です」
ヴェラが警笛の位置を確かめるように触れると、指先の近くへリンがふわりと降りてきた。
ちりん。
ヴェラが手を止めた。
「……こちらも、なにかの合図でしょうか」
「いえ。今のは鈴の音だけです」
エルザが答えた。リンは真鍮の警笛の周りを、くるりと一周する。
「音の出るものが気になるんですかね」
ちりん。
「……分かりません」
エルザは少し困った顔をした。ヴェラが迷いながら警笛を持ち上げると、リンはその周りをもう一度回り、満足したように髪際へ戻った。ヴェラは警笛を見つめて呟いた。
「気に入ったんでしょうか……」
「たぶん」
エルザは微笑みながら答えた。
◆
道具屋から〈鉄床亭〉へ戻り、調整を終えた革帯を受け取った。店主に訓練用の木剣を一本借り、俺たちは店主の許可を得て、裏手にある小さな空き地へ移動した。周囲を石壁に囲まれた、誰もいない静かな場所だった。
「では、装備の最終確認と、稽古場で定めた暫定規則の動作確認を行います」
エルザが空き地の中央に立つ。
「ヴェラさん。指示がない時、または状況が変わった時の規則を復唱してください」
「はい、エルザ様」
ヴェラは新しい丸盾を左腕へ通し、短槍を構えた。
「一、最も危険な状態にある仲間の保護を優先する。二、味方の退路が失われる場合は、指示された位置から離れてよい。三、判断できない場合は、その場で声を出して指示を求める」
「結構です」
エルザは頷いた。
「簡単な連携確認を行います」
エルザは足元の一点を示した。
「ヴェラさんは、ここを守ってください。次の指示があるまで、この位置から離れないでください」
「承知いたしました」
ヴェラは示された位置で丸盾を構え、エルザは空き地の端へ離れた。
「ノワールさんは、打ち合わせ通りにお願いします」
「分かりました」
借りた木剣を下げたまま、ヴェラの正面に立つ。
そこから、ゆっくり横へ回る。ヴェラの視線が俺を追う。丸盾の向きも少しずつ変わった。
だが足は指定された位置から動かない。さらに横へ回ると、右足が浮きかけて元の場所へ戻った。エルザは黙っている。
歩みを止めずにいると、ヴェラの喉が動いた。
「……指示を、お願いします」
声は小さく、こちらまで届くかどうかという程度だった。
「聞こえません。もう一度お願いします」
さらに数歩回ると、ヴェラが息を吸い直した。
「指示をお願いします!」
今度ははっきり聞こえた。
それでも、ヴェラの足は示された位置に残っている。
「位置を守る指示を解除します。ノワールさんの正面へ移動してください」
「承知しました」
ヴェラは返事と同時に動いた。俺の進む先へ回り込んで丸盾を構える。そこで足を止めた。
「まだ、声が出るまでに少し間があります」
エルザが帳面へ書き込む。
「ただ、前の指示を続けてよいか判断できなくなった時に、黙ったまま止まらず、指示を求めることはできました」
「ええ」
俺も頷いた。
「声が聞こえれば、俺たちが指示を変えられます。次は、もう少し早く出せれば十分です」
ヴェラは呼吸を整えながら、俺たちを見た。
「発声後は、指示が更新されるまで元の命令を維持する、という理解でよろしいでしょうか」
「はい。今はそれで構いません」
「……承知いたしました」
ヴェラは盾を持ち直した。
◆
夕暮れ時、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻る道すがら、三人で最初に受ける依頼の条件について話し合った。
「まだ本格的なダンジョンや、入り組んだ遺跡は避けた方がいいですね」
俺が切り出すと、エルザも頷く。
「同感です。最初の依頼ですから、無理なく役目を果たして、三人で帰れる条件を優先しましょう」
エルザは指を折った。
「王都から日帰りできること。退路が分かりやすいこと。高低差や狭い場所が少ないこと。相手の種類と数を、ある程度予測できること」
「良い条件ですね」
俺はヴェラへ目を向けた。
「右脚や装備のことを考えて、避けた方がいい地形があれば教えてください」
ヴェラは少し考えてから答えた。
「深い泥濘、膝近くまで水に浸かる場所、急な岩場、視界の悪い林です。これらの場所では右脚の踏み込みが制限され、盾による動線確保も困難になります」
「分かりました。今回は避けましょう」
二人の条件を合わせ、翌朝探す依頼の輪郭ができた。どの依頼がいいかとは、まだ聞かなかった。今はヴェラが答えられる身体条件を集め、三人で帰れる依頼を選ぶ方が先だ。
◆
日が落ちた頃、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻った。エルザは翌朝、冒険者ギルドの掲示板前で合流すると告げ、自分の宿へ帰っていった。木扉を押し開け、俺とヴェラが食堂へ入る。女将が厨房から顔を出した。
「お帰り。……おや、立派な道具を買ってきたね」
ヴェラが抱えている丸盾と短槍を見て、女将が目を細める。
「部屋へ持ち込むなら、邪魔にならないところへ置きな」
ヴェラが足を止めた。俺も女将も、置く場所を指示しない。盾を抱えたまま足元を見て、階段を見上げ、長い沈黙のあと俺と女将の顔を見比べた。
「……扉を開けて、右側の壁へ置いてもよろしいでしょうか」
「許可を取らなくて大丈夫ですよ」
女将は厨房で作業しながら頷く。ヴェラは黙ったまま、もう一度階段の先を見た。
「……では、右側へ置きます」
ヴェラは装備を抱え直して二階へ上がった。やがて自室の扉が開き、しばらくして静かに閉じる音が聞こえた。