明日も、ダンジョンへ。   作:為書結依

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第40話 言われる前に

 

 部屋の鍵を確かめて一階へ下りると、土間にはすでに朝の光が薄く差し込んでいた。階段脇の柱のそばに、ヴェラが立っている。軽量中型丸盾は壁際へ寄せて立てかけられ、足元には手入れの済んだ短槍が置かれていた。俺が最後の段を下りる前に、ヴェラが静かに息を吸う。

 

「ノワール様。右脚の痛みは昨夜より軽くなっています。普通に歩く分には問題ありませんが、急な方向転換はまだ避けたいです」

 

「分かりました。自分から教えてくれて助かります」

 

「はい」

 

 ちょうどその時、表の引き戸が開いた。朝の冷えた空気を連れて入ってきたのは、エルザだった。いつもの隙のない姿勢で、小ぶりの手帳を抱えている。耳の上では、白と薄緑の小さな光が髪飾りのように留まっていた。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます、エルザさん」

 

「おはようございます、エルザ様」

 

 エルザが手帳の表紙へ指をかける。そのままカウンターの奥へ目をやり、手を止めた。女将は湯呑みを拭きながら、こちらを見ている。

 

「……昨夜の記録は、食後にします」

 

 覚えていたらしい。

 

 女将は何も言わず、温かな麦粥と、干し肉と野菜の炒め物を卓へ運んできた。三人で席につき、木のコップの湯を一口飲んだところで、エルザが口を開く。

 

「今日の予定案です。依頼は受けず、ドランさんの稽古場へ向かう。その後は休養とするのがよいと思います」

 

 筋の通った予定だった。俺が頷こうとした、その時だった。匙を動かしていたヴェラの手が止まった。視線が俺とエルザの間を一度往復する。

 

「……提案があります」

 

 俺とエルザの視線が、ほぼ同時にヴェラへ向いた。エルザは何かを言いかけたが、口を閉じた。

 

「稽古場へ向かうこと自体は問題ないと思います。ただ、途中で右脚の痛みが増えた場合は、その場で引き返したいです」

 

 言葉を選ぶ速度は遅い。けれど、途中で引っ込めなかった。俺はエルザを見る。エルザも黙ったまま考え、やがて頷いた。

 

「分かりました」

 

「そうしましょう」

 

「ありがとうございます」

 

 ヴェラは小さく息を吐いた。

 

◆

 

 朝食を終え、俺たちは北の職人区へ向かった。朝の光が王都の石畳を斜めに照らしている。店先から撒かれた水が薄く光り、あちこちから店開きの木板を外す乾いた音が響いていた。焼きたてのパンの匂いと、荷車が軋む音が路地の奥から混じってくる。

 

 ヴェラは以前決めた通り、俺の右側へ並んで歩いていた。昨日、草の中の枯れ枝へ踵を取られた感覚が、まだ足の裏に残っている。

 

 石畳の継ぎ目。荷車の轍。少し浮いた石。

 

 次に足を置く場所ばかりが、妙にはっきり目に入った。

 

「――様」

 

 声がした気がした。

 

 けれど、視線は足元から離れない。次の継ぎ目を越え、その先の浅い窪みへ目を移す。

 

「ノワール様、前を!」

 

 今度ははっきり聞こえた。

 

 顔を上げる。

 

 前方から、大籠を担いだ露天商の男が来ていた。俺が顔を上げるのを待つように少し横へずれて、眉を寄せながらこちらを見ている。

 

「朝から石畳と睨めっこかい」

 

「すみません!少し足元の稽古中でして……すみません」

 

 慌てて頭を下げる。

 

「道を歩きながらやるもんじゃないな」

 

 男は呆れたように鼻を鳴らし、大籠を担ぎ直して通り過ぎていった。籠の隙間から、青菜の葉が揺れていた。

 

 恥ずかしい。

 

「ヴェラさん、何度か呼びました?」

 

「はい。少し前にもお呼びしました」

 

「すみません。聞き取れてませんでした」

 

 ヴェラは小さく首を振った。

 

「昨日は上を見すぎて枝に足をとられて、今日は下を見すぎて人にぶつかりそうでした」

 

「極端から極端へ移るのは、改善とは言いません」

 

「その通りです。気をつけます」

 

 右隣のヴェラが、こちらを一度見た。俺と目が合うと、何も言わず前を向く。そのまま三人で職人区へ向かった。

 

◆

 

 職人区のはずれ。鍛冶の槌音がカン、カンと響く路地の奥で、ドランの稽古場の引き戸は開いていた。熱した鉄と炭の匂いに混じって、土間の奥から乾いた木と砥石の冷たい匂いが流れてくる。

 

「失礼します、師匠」

 

 俺が土間へ入ると、奥で刃を研いでいたドランが面倒そうに顔を上げた。

 

「遅い」

 

「途中で少し足元に気を取られてまして」

 

「聞いてねぇよ」

 

 ドランは砥石から手を離し、手拭いで腕を拭った。その視線を追って土間を見る。入口から奥へ続く足場に、太い木の枝が何本も転がされていた。

 

「……本当に置いたんですか」

 

「置くって言っただろ」

 

「もう少し師匠らしい訓練方法はなかったんでしょうか」

 

「俺だってこんな訓練初めてだ」

 

 雑に置かれたように見えて、どれも足を引く場所や後退する場所へ転がっている。嫌がらせにしては、配置がよすぎた。

 

 ちりん。

 

「リンまで何か言ってます?」

 

「『いっぱい』だそうです」

 

「そうなんです。ひどいですよね」

 

「で」

 

 ドランが俺の苦情を無視してヴェラに声をかける。

 

「脚は」

 

「今朝から変化はありません。急な方向転換は避けたいです」

 

 ドランは鼻を鳴らした。

 

「なら、そこへ座ってろ。ノワール、木剣を持て」

 

「はい」

 

 壁際の木剣を取り、土間の中央へ進む。

 

「正面の木杭を見ろ。枝を踏まずに一歩引け」

 

 木杭へ視線を向けたまま、右足を斜め後ろへ引く。乾いた音が鳴った。踵で枝を踏んでいる。

 

「枝に謝れ」

 

「それは少し違う気がします」

 

 ドランは相手にしなかった。

 

「見る場所を一つに決めるな。下を見るなってのは、足元を捨てろって意味じゃねえ。目の端と足の裏で拾え」

 

 俺は木剣を構え直した。木杭の位置を捉えたまま、視界の下端にある影と、土の凹凸を足裏で探る。一歩下がる。枝の手前で足を止め、少し外へずらした。

 

「遅い」

 

「踏まないようにはできました」

 

「敵も待ってくれるならな」

 

 泥臭い反復だった。しばらく俺の動きを見ていたドランが、土間の隅へ歩いた。そこには木桶が一つ置かれている。水は少ししか入っていない。

 

「ヴェラ」

 

「はい、ドラン様」

 

「その桶を、入口の脇へ置け」

 

 枝の間を抜ければ入口までは近い。途中には、俺が何度も踏みかけた太い枝が斜めに転がっている。左側から回れば遠回りになるが、足場は広く、右へ急に切り返す必要もない。

 

 ヴェラは立ち上がり、桶へ近づいた。

 

「承知いたし――」

 

 途中で声が止まる。ヴェラの視線が桶から枝へ、それから入口までの道へ動いた。エルザも口を開きかけたが、そのまま黙った。胸の前で握った手へ、僅かに力が入っていた。

 

 間を置いて、ヴェラがドランへ向き直る。

 

「提案があります」

 

「なんだ」

 

「最短の経路では、枝を避けるため右への切り返しが必要です。現在の右脚では、そこで痛みが増す可能性があります」

 

 ヴェラは入口までの道を見た。

 

「左側から回り、桶を両手で持って運ぶ方法を提案します」

 

「やれ」

 

「承知しました」

 

 ヴェラは桶の両側へ手を添えた。腰を落とし、右脚へ一気に重さをかけないよう持ち上げる。木桶の縁が胸当てへ軽く触れ、水面が細かく震えた。

 

 枝の少ない左側を回る。一歩ごとに桶の中で水が揺れ、木肌へ小さく当たる音が続いた。入口の脇まで運ぶと、ヴェラは足を止め、右脚の位置を確かめてから、ゆっくりと桶を下ろした。

 

「移動、完了しました」

 

 ドランは桶を一度見てから、ヴェラへ視線を戻した。

 

「今のは命令違反じゃねえ」

 

 ヴェラの顔が上がる。

 

「運べって話を、運べる形に直しただけだ」

 

 少し間があった。ヴェラはすぐに返事をせず、やがて一度だけ頷いた。エルザは手帳へ手を伸ばしかけ、止めた。代わりに、胸の前へ抱え直す。

 

 その口元が少し緩んだように見えた。

 

「今日はそこまでだ」

 

 良い稽古だったと思う。

 

 俺の師匠は一人分の稽古料で三人分の稽古をつけてくれている。懐が深い。ありがたい。単に気づいていないだけかもしれないので、あえて言わないけど。

 

 ドランは俺を見る。

 

「……何、にやけてやがる。気持ちわりぃ」

 

「いえ。良い師匠で良かったな、と思いまして」

 

「……お前はあと十回」

 

「え? ヴェラさんは終わりなのに、俺は増えるんですか」

 

「気持ちわりぃのと、枝に負けた分だ」

 

「枝より弟子の方を大切にしませんか?」

 

「口を動かすな。足を動かせ」

 

 稽古場を出るまでに、俺は二回、枝に謝った。

 

◆

 

 昼過ぎ、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻った。午後は依頼を受けず、休養に充てる。一階の食堂の隅には、昼を過ぎた光が斜めに差し込んでいた。厨房からは洗った器を重ねる音が聞こえ、煮込みの残り香がまだ薄く漂っている。

 

 ヴェラは壁際の短槍へ視線を向け、腰の布袋へ手を伸ばしかけた。

 

 だが、その手は途中で止まった。

 

「手入れはしないんですか」

 

「はい。朝に済ませています。今日は必要ありません」

 

 ヴェラは右脚を伸ばし、椅子へ深く座り直した。エルザが別宿へ戻る前に、手帳を開いた。

 

「明日の予定候補を確認します。一つ、街中での短距離運搬。二つ、稽古のみ。三つ、休養の継続です」

 

 そこまで言うと、エルザは口を閉じた。手帳を開いたまま、ヴェラを見る。ヴェラは一度息を吐き、まっすぐにエルザの目を見た。

 

「エルザ様。その三つは、明日の朝に決めてもよろしいでしょうか」

 

「理由を聞いても?」

 

「今決めるより、明日の朝にその時の状態を見て選びたいです」

 

 エルザはすぐには書き込まず、静かに頷いた。

 

「分かりました。そのようにしましょう」

 

 羽ペンが紙の上を短く滑った。明日の予定欄には、一行ぶんの空白が残っていた。

 

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