稽古場をあとにし、冒険者ギルドへ戻ると、広間は昼前の賑やかさに包まれていた。明日の稽古代と今夜の宿代を稼ぐため、下段の石級向け依頼票をいくつか眺める。街の東側へ資材を運ぶ、簡単な手伝いを選び取った。
受付の列へ並び、順番を待つ。書類を出すと、集合時刻と場所を告げられた。仕事が始まるまでには、まだ時間がある。
触れずにドランの拍動が分かったことを、セイに話しておこう。依頼票を腰の袋へしまい、一階の広間を抜けて、地下へ続く階段へ向かった。
◆
半地下の酒場へ降りると、昼前の店内には数組の客が散らばっていた。奥の厨房から、肉を炒める香ばしい匂いと、油の跳ねる音が届いている。壁際の席を見ると、セイは昨日と同じ卓にいた。
使い込まれた革鎧の上に灰色のマント。卓の上には酒杯と、今日は干し肉ではなく、小さく皮をむいた木の実が数粒、皿に盛られている。俺が近づくと、セイは木の実を指先で弄んだまま、視線だけを向けてきた。
「また来たのかい、坊や」
「俺のことを覚えていてくれて嬉しいです」
向かいの椅子を引く前に軽く言ってみたが、セイは眉一つ動かさず、無表情のまま木の実を一つ口へ放り込んだ。
「今日は何の用だい」
「少し、聞きたいことがありまして」
「ドランの稽古はどうした」
「今朝行ってきました。明日も行く予定です」
「まだ追い返されていないのか」
「散々『気持ち悪い』と追い払われはしましたが、明日来いとも言われましたよ」
セイの口元が、わずかに動いた。笑ったのかどうかは分からない。
「相変わらず、足から直してるのかい」
「足だけではありませんね。肩、手首、呼吸まで見られました」
「呼吸まで?」
「昔、息を止めたまま続けて倒れた人がいたそうで」
木の実へ伸びていたセイの指が、一瞬止まった。ちっ。舌打ちが聞こえた。
「……あんたはそうならないように気をつけな」
そう言って、セイは木の実を一つ口へ放り込んだ。
「はい」
それ以上深く聞くのはやめた。
「座るなら座りな」
「失礼します」
椅子を引き、向かいへ腰を下ろした。ここへ来るまでに、何をどこまで話すかは考えておいた。血の流れを感じたことだけを、起きた順に話せばいい。
「……身体の中の流れが、触れなくても分かることがあるんです」
セイは表情を変えなかった。
「身体の中の流れ?」
「血の流れです。南の川で水魔法を試した時、自分の指先へ向かう流れを感じました。その時は、水魔法の応用だと思っていたんですが」
俺は一呼吸置き、今朝のことを続けた。
「稽古で、ドランさんが俺の手首へ手を伸ばした時、触れられる前から、手首の内側で何かが拍動しているのが分かりました。触れられたあとに伝わってきた脈と、同じ間隔でした」
「その時、水魔法は使ったのかい」
「使っていません」
卓の上の木の実へ伸ばしかけていた指先が静止し、灰色の目がわずかに細くなる。セイは俺の顔をじっと見つめ、それから素早く周囲の卓へ視線を走らせた。他の客がこちらの会話に気を取られていないことを確かめると、低く掠れた声で言った。
「その話、他に誰かにしたかい」
「そもそも、話す相手がいません」
「……誰も、いないのか?」
「……はい」
悲しそうな顔を作ってみせると、セイの目元がわずかに緩んだ。あまり効果を期待していなかったので、妙に嬉しい。セイは皿の脇へ指を戻し、息を静かに吐き出した。
「その話、誰にでもするつもりじゃなかったんだろうね」
「ええ。少なくとも、誰にでも話すつもりはありませんでした」
「ならいい。不気味になって、最初に会った相手へ全部ぶちまけたわけじゃないんだな」
「そこまで素直ではありません」
セイはしばらく黙っていた。酒場の奥で皿が触れ合う高い音が響き、それが静まるのを待つようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「……《授かり》という言葉を聞いたことがあるかい」
俺はその聞き慣れない言葉を、頭の中で反復した。
「初耳ですね」
「そうかい」
セイは木の実を一つ拾い上げ、指先で転がした。
「一部の落人に、通常の技能や魔法とは別の力が現れることがあるのさ。普通の技能や魔法の枠では説明できない力だと思えばいい。いつ、なぜ現れるのか、誰が渡しているのかは分かっちゃいない。ただ、そう呼ばれているというだけだ」
「《授かり》」
「そうだ。メニューに出るとは限らない。何も表示されないまま気づく奴もいるらしい」
自分の視界の端にメニューウィンドウを出して確かめる。そこには剣術と水魔法の二つしか並んでいない。表示されないものがあるのなら、自分から確かめる手段はなかった。
「発現には、傾向があると言われているよ」
セイが淡々と続けた。
「その人がどう生きてきたか。何を強く抱えてきたか。為し得なかった何かと結びつく――そんな話もある。どこまで本当かは知らないがね」
「為し得なかった何か、ですか」
「できなかったことさ。ずっとそうしたかったのに、できなかったこと。そういうものが、こちらの世界で形になる場合があるって話だよ。噂の範囲を出ない。そういう話を信じてる奴もいるってことさ」
どう生きてきたか。強く抱えてきたもの。為し得なかったこと。
真面目に考えれば、簡単に答えの出る話ではなかった。だから、横道へ逃げた。
「未練といえば、女の子とあまり仲良くできなかったことくらいですかね」
大真面目な顔で口にしてみたが、ひどく情けない自白だった。目の前のセイが、一瞬だけ目を丸くしている。
「セイさん。俺の《授かり》、分かったかもしれ――」
「違う」
即座に否定された。自分の未練を他人に一蹴されるのは、なかなか切ないものがある。セイは俺から視線を逸らし、短く咳払いを一つしてから、木の実を皿へ戻した。
「冗談を言ってる場合じゃないよ、坊や」
声の調子がすっと低くなり、真剣な硬さが戻っていた。
「聞かせておくことがある。お前のその力、少なくとも普通の水魔法として片づけるより、《授かり》を疑うべきだね」
「この力が、ですか」
「そうだ。そして、《授かり》についての話を、絶対に他所へ漏らすんじゃない」
「理由を伺ってもいいですか」
「聞きな」
セイは背もたれに体を預け、声をさらにひそめた。
「力を使えると知られれば、使いたがる奴が必ず寄ってくる。仕事の依頼という形かもしれないし、どこかの連中が契約を持ってくるかもしれない。あるいは『保護する』と言って近寄ってくる奴もいるだろう。保護の内側に入っちまえば、その力をどう使うかは、あんた自身では決められなくなる」
「……使い道を自分で決められなくなる」
「それだけじゃない。危険だと判断する奴も出てくる。持っているというだけで、排除の対象になる場合だってある。どちらに転ぶかは、知られた相手次第さ」
セイは木の実を皿の上で転がした。
「王都じゃ、《翠緑の円卓》も《鉄鎖の盟約》も《紅蓮商会》も、落人を放ってはおかない。理由はそれぞれ違うがね」
「三つとも、組織ですか」
「大きすぎるくらいにはね。今は名前だけ覚えておきな」
聞き慣れない三つの名を、頭の中で順に繰り返した。どれが何を求め、どう人へ近づくのかまでは、まだ分からない。ただ、力を知られた時に寄ってくる相手が、個人だけとは限らないらしい。
「一度出た話は戻らないよ。あんたが否定しても、その噂まで消えるわけじゃない」
セイは木の実を一つ摘まんだが、口へは運ばなかった。
「それと、落人に向こうのことを根掘り葉掘り聞くんじゃないよ。何をしていたとか、誰を残してきたとか、何が心残りだったとかね」
「《授かり》を探る手掛かりになるからですか」
「生き方や、為し得なかったことに結びつくって話が本当なら、過去を聞くのは力の中身を探るのと大差ない。本人が自分から話した分まで耳を塞げとは言わないさ。ただ、知りたいからって掘り返すもんじゃない」
聞かれたくない記憶は、能力の有無にかかわらず誰にでもある。まして、語った過去から自分でも知らない力まで値踏みされるのなら、なおさらだった。
「分かりました。本人が話さない限り、こちらからは探りません」
「それでいい。あんたの過去を聞きたがる奴にも、同じように気をつけな」
俺はすぐには頷かず、黙って言葉を受け止めた。
「もう一つ言っておくよ」
セイの灰色の目が、まっすぐにこちらを見た。
「身体の中の流れが分かると知られれば、怪我や病気にも使えると思い込む奴が出るのさ。本当にできるかどうかなんて関係ない。できそうだと思われた時点で、断りにくくなる。助けてほしい奴なんて、この街にいくらでもいるんだからね」
できるかどうかではなく、できそうだと思われた時点で役割を決められる。
「……よく分かります」
「分かったなら、今日あたしが話したことは、全部胸の中に仕舞っておきな。あたしが教えたってことも含めてね」
「了解しました」
短い沈黙が卓の上に落ちた。上の階からは、ギルドの喧噪や足音が途切れ途切れに聞こえてくる。
「俺と似たような力の話は、他に聞いたことがありますか」
「知らないね。そもそも、めったに見られるもんじゃない。知られた時点で誰かに囲われて、表に出なくなるのがオチだからね」
「世知辛いですね」
「そんな軽い言葉で片づけるんじゃないよ」
セイは呆れたように鼻を鳴らした。俺は自分の右手を膝の上で軽く握った。
「今は、それ以上決めつけない方がいい。何がどこまで同じ力なのかも分からないからね」
「そうですね」
俺は立ち上がった。
「ありがとうございました、セイさん」
「礼を言われる筋合いはないよ。ただの世間話だ」
セイはそう言って、残っていた木の実を口へ運んだ。最後に一つ聞いてみよう。
「女の子と仲良くできる《授かり》だったら狙われますかね」
「帰れ」
俺は追い出された。
◆
地下酒場を出て一階のギルドを抜けると、昼の日差しが大通りを照らしていた。メニューを開こうとして、やめた。表示に出ない力があるかもしれないと知った以上、同じ画面を見ても答えは増えない。
右手首へ意識を向けてみる。トックン、トックン、と脈が打っている。指を当てなくても、自分の巡りがそこにあると分かる。
感じ取る力には《授かり》が関わっているのかもしれない。川で自分の流れへ抵抗を加えたのは水魔法。今のところは、その説明がいちばん収まりがいい。
この力が何であれ、不用意に人前で試したり、誰かに話したりする気はなかった。セイの警告は合理的で、俺自身の考えとも合っていた。次にこの感覚のことを話すなら、相手は厳選する。受付で告げられた集合時刻が近づいている。
俺は右手の力を抜き、東側の資材置き場へ向かった。