皐月賞を来週の末に控えた、4月上旬の中央トレセン学園。
新入生を迎えたばかりということもあって、この時期は学園全体が何かと慌ただしい。
けれどウマ娘たちが段々と寮へ戻り始める夕刻の屋外は、穏やかな静けさに包まれている。
そんな夕暮れの道を、今日のトレーニングを切り上げて制服に着替えたバニシングゲイザーが歩いていた。
彼女がこれから向かうのは、体育館内に設けられた会見ブースで開かれる、皐月賞に向けた小規模な記者会見だ。
国内最大規模のスポーツ興行であるトゥインクル・シリーズ。
その核となるトレセン学園では、メディア対応を迅速に行える体制が整えられている。
今回のようなURA公式の記者会見に限らず、必要に応じて学園の職員やウマ娘個人が会見を開くこともある。
現時点では皐月賞の出走ウマ娘がまだ確定しておらず、ファン投票も実施されていない。
そのため出走ウマ娘が一堂に会する大規模な記者会見は、URA賞の授賞式にも使用された都内某所で後日改めて行われる。
今日の会見に出席するのは、出走が確実視されている一部のウマ娘のみである。
とはいえファン投票で上位に名を連ねるであろう顔ぶれが揃うとあって、その注目度は高い。
開始までにはまだ時間があるものの、会見ブースには既に多くのメディア関係者が待機していることだろう。
中庭に差しかかったところで、バニシングゲイザーの足がふと、目的地とは違う方角へと向かう。
その先にあるのは、近くにあれば自然と立ち寄ってしまう───三女神像の噴水だ。
あらゆるウマ娘の始祖として信じられている、三人のウマ娘をかたどった像。
生徒たちを見守るようにたたずむ女神たちがそれぞれ手にした壺からは、途切れることなく水が流れ落ちている。
この水の流れを見つめるとバニシングゲイザーは、まるで自分だけがこの世界の理から外れた場所にいるような疎外感を覚える。
物言わぬ女神たちの像は、その感情の正体を教えてはくれない。
それでもここに立つと、自分の進むべき道を確かめられるような気がして、不思議と心が安らぐのも確かだ。
だからきっと、彼女たちの祝福は自分にもあるのだろう。
会見の開始までは、まだ時間に余裕がある。
少しだけ、ここで立ち止まっていこうか───
バニシングゲイザーがそう思った、まさにその瞬間だった。
「はじめまして、ですね。バニシングゲイザーさん」
夕暮れの中庭で、バニシングゲイザーのもとへと伸びる長い影。
声のした方へ目を向けると、影法師の先に一人のウマ娘が静かに立っていた。
そよ風に揺れる、亜麻色に近い鹿毛の長い髪。
前髪に浮かぶ菱形の流星は、決して砕けぬダイヤモンドの証。
そして夕陽の輝きをそのまま映し出したかのような、揺るぎない意志が宿った瞳。
いつかこの瞬間が訪れることを、バニシングゲイザーは分かっていた。
だから春の空気に溶けて霞まぬように、はっきりと口にする。
黄昏の光の中に立つ、彼女の名前を。
「はい、そうですね。───はじめまして。サトノダイヤモンド先輩」
☆ ◇ ☆ ◇
夕闇が迫る空の下、初めての対面を果たしたバニシングゲイザーとサトノダイヤモンド。
学年も寮も異なるとはいえ、二人が出会える機会自体は、これまで他にいくつもあった。
サトノダイヤモンドのルームメイトであるキタサンブラックとは、バニシングゲイザーもたびたび顔を合わせているのだから尚更だ。
それでも彼女たちが今日までそれを選ばなかったのは、互いに相手の存在を強く意識していたからに他ならない。
いつか倒すべき、同世代のライバルとして。
「───私、なんだか不思議な気持ちなんです。あなたとこうしてお話をするのは初めてのはずなのに、全然そんな気がしていなくて」
バニシングゲイザーの隣、三女神像へのお祈りを終えたサトノダイヤモンドが顔を上げてそう呟く。
静かに祈りを捧げる彼女の姿は、まるで女神から遣わされた使徒のようで、バニシングゲイザーの目にはどこか神聖なものとして映っていた。
「奇遇ですね、私も先輩と同じです。キタサン先輩からサトノダイヤモンド先輩のお話はよく伺っていましたし───きっと、先輩とレースで戦う時のことをずっと考えていたからだと思います」
「ふふっ、よかった。私だけじゃなかったんですね。───この三冠であなたが一番のライバルになると、私もずっと思っていましたよ。バニシングゲイザーさん」
そう言って楽しげに笑うサトノダイヤモンド。
そんな彼女の姿を見て、バニシングゲイザーの口元にも自然と笑みが浮かんだ。
来週の皐月賞で繰り広げられる戦いは、きっと熾烈を極めることだろう。
けれど今は、こうして穏やかに笑い合うことができている。
その中でバニシングゲイザーは、ふと思いついたように、一つの提案を口にした。
「サトノダイヤモンド先輩。実は一つ、お願いがあるんです」
「お願い、ですか?」
「はい。少し早いかもしれませんが───どうか、私と握手を」
その言葉とともに、バニシングゲイザーが右手を差し出す。
少し不思議そうにその手を見つめるサトノダイヤモンドに向けて、バニシングゲイザーはさらに言葉を続ける。
「次のレース、間違いなく私は全身全霊をもって臨みます。きっとターフの上に立った私は、レースが終わるまでは握手をする余裕さえなくなってしまうでしょう。───だから今、握手をお願いしたいんです」
バニシングゲイザーの真剣な表情と、その言葉に宿る静かな闘志。
そこに込められた思いを全て理解したように、サトノダイヤモンドがゆっくりと頷く。
「───なるほど、わかりました。ぜひ、喜んで」
そしてサトノダイヤモンドは、差し出された右手を丁寧に───それでいて、力強く握った。
そう。
この握手は、互いに全力を尽くして戦うことを誓い合うための儀式。
そして同時に、必ず自分が勝ってみせるという、二人の戦士の意思表示だった。
「───皐月賞、いいレースにしましょうね。バニシングゲイザーさん」
「はい、こちらこそ。サトノダイヤモンド先輩」
春の温もりを帯びていたそよ風は、陽が落ちるにつれて次第に冷たさを増していく。
けれど、健闘を誓い合った二人が宿す勝利への意志は、炎のように熱く燃えていた。
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春と共に訪れる、出会いと別れ。
始まりと終わりをこの季節が告げるときには、どちらも同じ風が吹く。
変わりゆく世界に、不安になることもあるだろう。
そうであるのならば、このレースを見てほしい。
その戦いには、集いし者たちそれぞれの形の夢がある。
その戦いの果てには、一つの栄光とたくさんの敗北がある。
そしてその戦いの先には、まだ見ぬ未来がある。
新緑を揺らす皐月の暖かな風のように、彼女たちの戦いは勇気を与えてくれる。
GI
皐月賞
中山 芝 2000m
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栄誉あるクラシック三冠レースの初戦、皐月賞の当日は晴天に恵まれた。
かつては5月に行われていた名残から皐月の名を冠するこのG1レースが、4月の中旬ごろに開催されるようになってからの歴史は長い。
三冠の中では最も短い2000メートルという距離ゆえにスピード勝負になりやすいこと、そして早熟な者が有利となるその開催時期から、「最も
満員の観衆で埋め尽くされた中山レース場。
メイン11
「ダイヤちゃん、バニちゃん───」
そんな大観衆で溢れるスタンドの最前列に、本バ場へと姿を現し始めた出走ウマ娘たちを見つめる者がいる。
サトノダイヤモンドの幼馴染にして無二の親友、そしてバニシングゲイザーにとっては良き先輩であるウマ娘───キタサンブラックである。
皐月の舞台を見届けるべく、トレセン学園から多くの者たちがこの中山に集まっている中で、彼女はあえて一人で観戦することを選んでいた。
勝者がただ一人のみという、レースにおける大原則。
それが
少なくともサトノダイヤモンドとバニシングゲイザーのどちらかは、確実に敗者となるこの戦い。
この事実はキタサンブラックにとって辛いものだけれど、確実に訪れるその結末から、目を逸らすことは決してしなかった。
だからキタサンブラックは、『二人とも勝ってほしい』とは願わない。
今の彼女の胸にあるのは、ただ二人を精いっぱい応援したいという気持ち。
そして一人の観戦者として、この一戦の行方を見届けたいという願望だけだった。
ターフに立つウマ娘たちを見れば、誰もがこの日のために万全の状態へ仕上げてきたことが分かる。
そしてその中でも際立つ仕上がりを見せている、サトノダイヤモンドとバニシングゲイザーの存在感。
───このレースは間違いなく、素晴らしいものになる。
「頑張れ、二人とも───!」
小さく、そして力強くそう呟いて、キタサンブラックは握りしめた手に力を込めた。
◇ ◇ ◇
『三冠の舞台に集いしウマ娘たちの熱いレースが、一足早い初夏の兆しを見せる皐月賞! この中山の地で、最も速いウマ娘が決まります! 果たしてこの戦いを制し、皐月の冠を手に入れるのは誰か!』
G1のファンファーレが鳴り響き、盛大な拍手と歓声が起こる中山レース場。
この良バ場のターフで、フルゲート18人のウマ娘たちが決戦の時を迎えようとしていた。
ファン投票で、サトノダイヤモンドとバニシングゲイザーの二人に大多数の票が集まったこのレース。
一番人気は僅差でサトノダイヤモンド、続いてバニシングゲイザーとなった。
投票の結果にも表れているように、事前の予想では彼女たちの二強対決と目されている。
とはいえ今回のように人気が二名に集中するレースには、「二強対決は両雄並び立たず」 という格言がある。
圧倒的な支持を集めた二人が実際に上位を占めるのは、トゥインクル・シリーズではむしろ珍しいのだ。
そしてこの日の出走ウマ娘たちは、誰が勝ってもおかしくないと思わせるほどの仕上がりを見せている。
格言通りの結果になる可能性も、決して低くはない。
それでもなお場内にいる誰もが、バニシングゲイザーとサトノダイヤモンドの二人へと意識を引き寄せられてしまう。
彼女たちの全身から放たれる、まるで死地へ赴く武者を思わせるほどの凄まじい気迫から、目を離すことができないのだ。
つい先日まで互いを認め合う好敵手として友好的に接する姿をメディアに見せていた二人が、このターフの上で言葉を交わすことはない。
スタンドの観衆にまで届くほどの凄みを帯びたその姿が、何も言わずとも雄弁に物語っている。
───もはや言葉はいらない、あとは戦うのみだと。
『滞りなくゲートインが進んでいきます。さあ7枠14番は注目の一番人気、サトノダイヤモンドです!』
(───やっと、ここまで来たんだ)
ゲートに収まったサトノダイヤモンドがそっと瞳を閉じ、開いた両手を胸の前で合わせる。
集中力を研ぎ澄ますため、スタートの前に彼女がいつも行うルーティンだ。
手をすっぽり覆ってもなお余るほどに長い袖丈が特徴的な、サトノダイヤモンドの衣装。
華やかな装飾を絢爛にあしらったドレスは、愛と希望を象徴するペリドットの宝石のような、気品ある黄緑色だ。
それを纏って祈るように両手を合わせるサトノダイヤモンドの姿は、愛する者の勝利を願う姫君のようにも見えるかもしれない。
しかし彼女の衣装は紛れもなく、戦いの舞台へと赴くにふさわしい勝負服。
そしてサトノダイヤモンド自身から放たれる威圧感は、自らの手で栄光を掴み取らんとする、戦士の闘気に他ならなかった。
───ここに来るまで、本当に長かった。
幼い頃から勝利を夢見て、一族のウマ娘たちや親友が戦う姿を見つめ続けてきた、憧れのG1レースの舞台。
本格化の遅れによって募る歯がゆさを心の奥底に押し込めて、苦しいトレーニングにも耐えてきた。
その全ては一族の悲願を、そして自らの願いを現実にするために。
『各ウマ娘、無事にゲートインが完了しました! もう間もなくスタートです!』
サトノダイヤモンドが瞳を開いて両手を下ろし、最後に小さく一度頷いた。
その動作はルーティンの終わりを意味し、極限まで集中を研ぎ澄ませた彼女の世界から、あらゆる雑音が消えていく。
(───絶対に勝つ。そして、夢を叶えるんだ。この戦いで!)
そしてスタートの体勢に入った、彼女の瞳には。
磨き抜かれたダイヤモンドのようにまばゆく、揺るぎなき勝利への決意が輝いていた。
張り詰めた静寂を切り裂いてゲートが開き、皐月賞の幕開けを告げた瞬間。
サトノダイヤモンドが誰よりも速く、そして誰よりも力強い第一歩を、ターフへと刻みつけた。
◇ ◇ ◇
『さあ皐月賞のゲートが開きました! これは少しばらついたスタートとなったでしょうか。その中でサトノダイヤモンド、バニシングゲイザーが素晴らしい出足を見せました!』
クラシック三冠という大舞台の重圧に呑まれたのか、それともライバルたちの気迫に圧倒されたのか。
スタートでやや立ち遅れるウマ娘が幾人かいる中、サトノダイヤモンドがこれまでで最高のスタートを決める。
その鮮やかな飛び出しを支えているのは、これまで大粒の汗を流しながら積み重ねてきた、坂路コースでの過酷なトレーニングである。
これによって鍛え上げられるのは、中長距離を戦い抜くための強靭な心肺機能だけではない。
地表を広く捉えて力強く踏み込み、全身を一気に前へと押し出す技術。
それが坂路を駆ける中で身につき、特にスタートで大きな威力を発揮するのだ。
レース前のルーティンで極限まで研ぎ澄ました集中力をこれに重ね、サトノダイヤモンドはカレンチャン仕込みの『閃光』を思わせるスタートを可能としていた。
最終直線の短さが特徴的な中山レース場だが、内回りの2000メートルで争われる皐月賞では、一周目にある最初の直線は400メートル余りある。
十分な距離を使って位置取り争いが繰り広げられるため、枠順による有利不利が比較的少ないレースといえる。
(やっぱり、バニシングゲイザーさんも速い───!)
すぐ傍らには、ウマ番が近いバニシングゲイザーの姿があり、彼女もまた極めて鋭い反応でスタートを決めている。
このライバルもスタートを得意としていることは、サトノダイヤモンドも十分に承知していた。
そして、その走りを警戒するうえで最も注視しなければならないポイントが、間もなく訪れる。
『各ウマ娘、最初のコーナーへと向かいながら先行争いに入っていきます! ハナに立ったのは、本日逃げ宣言のクレセントエースだ! そのすぐ後ろにいるのはリバイバルリリック、外からステンツも積極的に前へと出ていきます!』
(今日のあの子は───先行か!)
熾烈なポジション争いのさなか、バニシングゲイザーがどの位置に収まろうとしているのかを、サトノダイヤモンドは注意深く見極めていた。
そしてその動きから、
逃げから追い込みまで、あらゆる脚質を取り得るバニシングゲイザー。
それは一見すると、自在に脚質を選べるマヤノトップガンにも通じるように思える。
しかしマヤノトップガンの担当でもあるサトノダイヤモンドのトレーナーは、両者の本質が根本から異なることを見抜いていた。
マヤノトップガンはその時の気分やレース展開に応じて、自在に脚質を「選ぶ」ウマ娘だ。
それに対してバニシングゲイザーは、レースの前に定めた脚質を忠実に「貫く」タイプのウマ娘であろうと。
あらゆる脚質で結果を残してきた走りの幅広さは、確かに脅威だ。
しかし「変幻自在」の二つ名を持つマヤノトップガンのように、レースの最中に脚質を臨機応変に切り替えてくるわけではない。
どんな戦略にも正攻法で渡り合える実力を持つサトノダイヤモンドにとって、その本質さえ見抜いていれば、レースごとに異なるバニシングゲイザーの脚質に翻弄される必要はなかった。
サトノダイヤモンドには先行策を選べる素質もあるが、その真価を最も発揮できるのは差しに回ったときだ。
好スタートで作った優位を、位置取りの確保および直線にある坂での体力温存という形で活かし、自身の定位置である中団まで徐々に下がっていく。
『大歓声のスタンド前を駆け抜けて第1コーナーへと入っていきます! 弥生賞で先行のプレダトリスは今回後ろからのレースになった! そして一番人気のサトノダイヤモンドは後方から6番手にいます!』
外枠からのスタートだったこともあり、サトノダイヤモンドは無理に内へは寄せず、やや外めの位置を保ったまま最初のコーナーへと入る。
外を回るため多少の距離損は避けられないが、内に入ると先にある勝負どころで進路を塞がれる可能性があり、そのリスクを避けることを優先したのだ。
フルゲートゆえにポジション争いが激しく、理想よりはやや後方に収まったものの、十分に許容できる範囲だった。
得意とする右回りのコーナーを、前走からさらに磨きをかけたコーナリングで滑らかに駆け抜けていく。
(大丈夫、いつも通りに走れてる)
ウマ娘たちがホームストレッチを通過し、スタンドの歓声が一旦は静まったレース場。
平均よりやや速いペースで隊列が進む中、サトノダイヤモンドが冷静に状況を見定める。
スタートからここまでは悪くないレース運びができており、心身の状態も良好で力むことなく走れている。
そして周囲の警戒が自分だけでなくバニシングゲイザーにも分散していることで、過度な圧力を受けることなく自らの走りに集中できていた。
このまま順調にレースが進めば、最終盤で得意の末脚勝負へと持ち込めるはずだ。
(私の夢を、そしてサトノの悲願を───ここで果たす!)
───小細工は何もいらない、真っ向勝負で勝つ。
サトノダイヤモンドはじっと脚を溜めながら、仕掛けるべき瞬間が訪れるのを静かに待ち続ける。
もう間もなく、レースは中間点に移ろうとしていた。
後編に続きます。