ウマ四駆 ─DIAMOND GAZER─   作:ヘリの準備

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第16話 日本ダービー(後)

 降り続ける雨の中、後半戦に突入した日本ダービー。

 第3コーナーの入口に立つ、残り1000メートルのハロン棒をバ群が通過していく。

 ウマ娘たちは重バ場としては若干ハイペース気味ながらも、ここまで崩れることなく堅実に走り続けてきた。

 そして勝負所を目前にしたこの状況下で、緊張感は既にピークに達していた。

 

『各ウマ娘、第3コーナーへと差し掛かりました。先頭は変わらずクレセントエース、そのすぐ後ろをオリジナルシャインがキープしています。そして3番手のローカルストリームも先行勢に対してやや差をつけてきた! 少し離れて4番手にテンダーステップ、5番手は入れ替わって外からエーネアス───』

 

 この焦げ付くような緊張感を生み出しているものは、日本ダービーという舞台が持つ長い歴史と栄光の重み。

 そしてもう一つは、後方に潜むここまで無敗のウマ娘───バニシングゲイザーに、全方位から向けられている警戒心だ。

 皐月賞で勝負を決定づけ、このダービーでも確実に襲い来るであろう彼女の爆発的な末脚に、誰もが神経を尖らせている。

 それは彼女のすぐ前を走り続けている差しウマ娘、サトノダイヤモンドも例外ではなかった。

 

(皐月賞でバニシングゲイザーさんが全速力に入ったのは、残り200メートルを切ってからだった。でも差しを選んできたこのレースなら、もっと長い距離であのスピードを維持してくるはず)

 

 前走でバニシングゲイザーの「秘密兵器」を、誰よりも近くで目の当たりにしたサトノダイヤモンド。

 あの瞬間に見た世界も、天高くまで飛び立っていくようなバニシングゲイザーの走りも、今なお鮮明に思い出すことができる。

 それでも───

 

(───この子と同じように走れなくたっていい。みんなと一緒に磨き上げてきた、私の走りを貫くんだ。私の夢は他のどこでもない、このターフの先にあるんだから!)

 

 ダービーという舞台と、バニシングゲイザーという存在が与えてくるプレッシャーが重なり合い、周囲には平静を失いかけているウマ娘もいる。

 それでもサトノダイヤモンドは冷静さを保ったまま、力強くターフを駆け続けていた。

 迷いを振り払った今の彼女の胸中にあるのは、自分の走りと勝利を信じ抜く強い思いだけ。

 たとえトップスピードでは敵わなくとも、このレースを制するのは自分だという揺るぎない意志が、夢へと突き進む一歩一歩を支えている。

 

『大ケヤキを越え、第4コーナーへと入ります! 中団に控える形のレースを続けるアライブカリンとホットダイナマイト! その後方ではアレイキャットとトンネリングボイスが虎視眈々と息を潜めているぞ! そしてシャウトマイネームとサトノダイヤモンド、バニシングゲイザーという有力なウマ娘たちがここで控えています! 果たしてどこで仕掛けるのか───おっと!』

 

 第3コーナーと第4コーナーの間にある東京レース場のシンボル、府中の大ケヤキ。

 まるで観衆の視界を遮るように立つ巨木と、それに色づく若葉の向こう側で、ウマ娘たちのペースが徐々に上がり始める。

 いよいよゴールまで残り800メートルを切り、最後の直線へ向けてレースが大きく動き出そうとしていた。

 そして、その変化を先導するかのように───サトノダイヤモンドが弾けるような加速を伴って、外へと進路を取った。

 

『サトノダイヤモンド、早くもここで大きく動いた! 一気にペースを上げて前へ前へと詰めていく! これはロングスパート勝負の構えか!』

 

 短い直線が挟まっていることで、スピードが乗りやすい複合カーブ。

 蹄鉄が濡れたターフへ深く食い込み、端麗な勝負服が跳ね上がる泥に汚れていく中、サトノダイヤモンドが外のラインから一気に順位を上げていく。

 もしバニシングゲイザーが差しを選んできたなら、この早いタイミングで仕掛けることをサトノダイヤモンドの陣営はレース前から決めていた。

 

 この仕掛けにバニシングゲイザーが乗って来るなら、それでいい。

 消耗戦はサトノダイヤモンドにとっても望むところであり、早くから脚を使わせることができれば、あの爆発的な末脚は十分に使えないだろうから。

 そして誘いに乗らず、静観を貫いてくるというのなら───それもまた、望むところだ。

 

(もしバニシングゲイザーさんがここで動かなくても、トレーナーさんの読み通りなら───!)

 

『そしてこれは───同じく外からシャウトマイネーム、キーボードリズムもピッチを上げてきた! 後ろからはエナジェティック、さらにタイドアンドフロウも突っ込んでくる! ここで多くのウマ娘たちが仕掛ける形を取りました!』

 

 ウマ娘たちが警戒しているのは、バニシングゲイザーだけではない。

 サトノダイヤモンドの末脚もまた、同じように大きな脅威として意識されている。

 だからこそ彼女による早い段階での仕掛けを見て、「このまま最後まで垂れてこない」と判断した者たちは、ここで一斉に動き出してくる可能性が高い。

 サトノダイヤモンドが築き上げてきた走りには、失速する予兆を微塵も感じさせないほどの、絶対的な安定感があるのだから。

 

(バニシングゲイザーさんは───やっぱり、直線で一気に来るつもりだ!)

 

 加速を続けながら後方へちらりと視線を送り、バニシングゲイザーが仕掛けに乗ってきていないことを確かめるサトノダイヤモンド。

 そして読み通り、他のウマ娘たちの多くがこちらの動きに呼応して、一斉に進出を開始してきた。

 これに端を発して隊列全体が急速に縮まり、まるで団子のように固まっていく。

 

 幅員が広い東京レース場のコーナーはこの戦況を十分に許容し、それゆえにバ群が外へと大きく膨らんでいる。

 この状態でまだ後方に留まるバニシングゲイザーが、最後の直線で進路を確保するためには、かなりの距離をロスして大外に回らざるを得ないだろう。

 その一方でいち早く仕掛けたサトノダイヤモンドは、差しウマ娘として無駄の少ないルートを確保できている。

 この進路取りによって生まれる距離の有利は、決して少なくはないはずだ。

 

『横に大きく広がりながら第4コーナーを曲がり、ウマ娘たちがホームストレッチに突入して来ます! ダービーウマ娘の栄光へと続く彼女たちの軌跡は、525メートルのストレートを残すのみだ!!』

 

 観衆で埋め尽くされたスタンドに広がるレインウェアの海。

 暗雲の下で、降りしきる雨音をかき消すほどの大歓声が轟いている。

 熱狂と願いが交錯するこの瞬間の東京レース場は、世界で最も熱い場所だ。

 

 己の名を栄光の歴史へ刻むために戦うウマ娘たちを、最後に待ち受けるもの。

 それはトゥインクル・シリーズで屈指の長さを誇る直線と、高低差2メートルの上り坂。

 雨と泥にまみれた至高の舞台を駆け抜け、その先にある夢の終着点へ辿り着く時が、あと三十秒もすれば訪れる。

 

『さあ一斉にラストスパートに入った! 先頭は依然としてクレセントエース、しかし後続との差はほとんどありません! 2番手のオリジナルシャインも粘る! ここで中を突いて一気に伸びてきたのはアライブカリンだ! 外からサトノダイヤモンド、シャウトマイネームも来ている! そしてバニシングゲイザーが後方の大外から上がってくる構えだ! 果たしてあの末脚はまた見られるのか!』

 

 他のレース場であればまだコーナーの途中にいる距離から始まる、長い長い最終直線。

 前後の差が縮まり横一線に広がったバ群を見れば、誰が抜け出してもおかしくないようにも思える。

 しかし実際にはこのタフなコースと重いバ場によって、ウマ娘たちはここまで容赦なく篩にかけられてきた。

 そして、この直線で最後に立ちはだかる試練───心臓破りの坂が、その事実を誰の目にも明らかにしていく。

 

『残り400メートルから坂を駆け上がっていきます! ここで先頭がアライブカリンに入れ替わる! しかし外からシャウトマイネームとサトノダイヤモンド、そしてタイドアンドフロウも先頭に迫ってきた! そしてエナジェティックとキーボードリズムは───伸びない! 粘っていたオリジナルシャインもここで一杯になったか!』

 

 このレースを駆けるほとんどのウマ娘にとって、2400メートルという距離での実戦は、初めて経験する未知の領域だ。

 ダービーウマ娘を決めるにふさわしいこのチャンピオンコースで、抜きん出ることができる者は僅かしかいない。

 余力を使い果たして一杯になった者たちが、最後に立ちはだかるこの坂によって、次々と勝利への望みを絶たれていく。

 

(息が苦しい、そして身体も重い───それでもっ!!)

 

 先頭付近まで進出したサトノダイヤモンドもまた、早い段階から仕掛けた代償としてギリギリの戦いを続けている。

 大部分のスタミナを失い、膝の上まで泥にまみれた両脚が鉛のように重く感じる。

 それでも持ち前の持久力と安定感、そして絶対に夢を叶えるという覚悟に裏打ちされた勝負根性によって、彼女の脚色はいまだ衰えていなかった。

 すぐ近くで競り合うウマ娘たちは、明らかにサトノダイヤモンドより先に限界へ近づいている。

 このまま行けば、彼女たちには先んじることができるだろう。

 

 

 ───けれど。

 このまま行けば、という前提などまず望めないことを、サトノダイヤモンドは誰よりも覚悟していた。

 

 

(──────来る!!)

 

 

 サトノダイヤモンドの全身を駆け巡る、電撃的な予感。

 同時に後方から放たれたのは、ウマ娘たち全員を飲み込まんとする強烈なプレッシャーだった。

 この予感の正体に確信を抱きながら、サトノダイヤモンドが8バ身ほど離れた後方へと視線を向ける。

 そして、その目に映ったのは───バニシングゲイザーが力強く一歩を踏み出し、彼女の世界が形作られていく瞬間だった。

 

 

(───やっぱり、皐月賞の時と同じだ)

 

 

 引き延ばされた体感時間によってスローモーションになった、幻想の世界。

 バニシングゲイザーの脚元で爆ぜる闘気と、広がりゆく光。

 彼女の周囲で目を見開いているウマ娘たちにもきっと、この幻が見えているはずだ。

 皐月賞で彼女が「パワーブースター」と叫んでいた、天高くまで飛び立つロケットの如き爆発的な末脚。

 それが今、ダービーを覆う雨空さえも突き破らんとする怒濤のスピードとなるのだろう。

 

 

(けれど、あの時とは全てが同じじゃない)

 

 

 バニシングゲイザーの踏み込みが作り出したこの世界と、その爆発的な末脚にただ圧倒されて、置き去りにされてしまった皐月賞。

 けれど今のサトノダイヤモンドには、最も速いウマ娘に真っ向から立ち向かう勇気と、自分の走りを最後まで貫き通す覚悟がある。

 だから、遥か彼方まで飛び立つような走りで、バニシングゲイザーが襲い来るというのなら───

 

 自分も持てる力を出し尽くして、迎え撃つだけだ。

 

 

(──────さあ、来いっ!!!)

 

 

 サトノダイヤモンドがそう腹を括ったのと、幻想の世界から現実へと引き戻されたのは、ほとんど同時のこと。

 そして次の瞬間、この上り坂よりも遥かに恐ろしい本当の最後の試練が、先頭からおよそ8バ身という位置から急襲する。

 

 

 まだ栄光への望みを繋いでいた数少ないウマ娘たちも、このままでは確実に差し切られる未来を悟り、更なる加速を試みる。

 ───もうそんな力など残っていないことが、分かっていたとしても。

 

 

 トゥインクル・シリーズにおける無二の瞬間、日本ダービーの最終直線。

 誰もが望む栄光へと続く、この上り坂で。

 

 

 絶望の逃走劇が始まった。

 

 

 ☆ ◇ ☆ ◇

 

 

「──────うおおおおおおおおおおおおおおあああああああぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 持てる力を燃やし尽くして末脚に注ぎ込むバニシングゲイザーの最終奥義、パワーブースター。

 その加速は、冷たい雨と渦巻く熱狂で形作られた戦場の空気を切り裂く勢いとなって、スタミナが尽きつつある前方のウマ娘たちへ急激に迫っていく。

 重バ場の影響に加えて皐月賞より距離が伸びていることから、トップスピード自体は前回よりも落ちている。

 しかし、厳しい条件で戦っているのは他のウマ娘たちも同じ。

 既に消耗しきった彼女たちとの相対的な速度差は、むしろ圧倒的に上回っていた。

 

『大外からバニシングゲイザーが飛んで来た! 先頭までおよそ六バ身、いや五バ身の距離を凄まじい脚で突っ込んでくる! 前方をまとめてターゲットに捉え、次々とかわしていくぞ!!』

 

 前を駆けるウマ娘たちがバニシングゲイザーに対して築いていたリードは、決して小さなものではなかった。

 だがそれは結局のところ、早い段階からスパートを開始したことで前借りしていた差に過ぎない。

 それでも彼女たちがこのレースで勝利するためには、自らの脚が最後まで持ちこたえる可能性に賭け、あのタイミングで仕掛けるしかなかったのも事実である。

 そうして辛うじて繋いできた僅かな希望の光を、まるでブラックホールのようにバニシングゲイザーの走りが飲み込んでいく。

 

 襲い来る引力に抗い、上り坂こそ耐え切っていたウマ娘たちもまた、吸い寄せられるかのように次々と力尽きて失速していく。

 彼女たちの悲痛に歪んだ表情が、言葉にせずとも心の内を物語っている。

 ───ただ、無念だと。

 

『残り200メートルで先頭に立ったサトノダイヤモンド、懸命に堪えている! 2番手シャウトマイネーム、アライブカリンとタイドアンドフロウは伸びないか! そしてもう3バ身後ろにまでバニシングゲイザーが一気に追い込んできた! バニシングゲイザーが届くか、それともサトノダイヤモンドが耐えきるのか!!』

 

 スピードを失っていくウマ娘たちの中でサトノダイヤモンドは、突き抜けるというよりも懸命に踏み留まる形で先頭に残っていた。

 坂を上り切った時点ではまだ5バ身ほどあったバニシングゲイザーとの差も、残り200メートルを切った今ではもう3バ身ほどしかない。

 バニシングゲイザーの闘気と咆哮が、サトノダイヤモンドの背中へ刻一刻と近づいてくる。

 このままのペースで行けば、間違いなくこの差は逆転する。

 

 

 ───今よりも、ずっと昔の世代のこと。

 もし、この栄光を掴み取ることができるのなら。

 全てを捧げても構わないと、ダービーに臨む前に語ったウマ娘がいた。

 ダービーウマ娘という冠には、それほどの決意を賭すに値する重みがあるのだ。

 

 

 そして、そのウマ娘がかつて語った言葉を今、バニシングゲイザーの走りが人々に思い起こさせる。

 やがて役割を終えて切り離されるロケットのブースターにも似た、束の間で輝く走りが。

 

 

 だから、この燃え尽きるような走りこそダービーを制するのだろう───という、そんな納得にも似た思いとともに。

 このレースを見守る人々のほとんどが、バニシングゲイザーが差し切るであろう結末を迎え入れようとした───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(─────────違うっっっ!!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───その結末を、真っ向から否定しようとするかのように。

 もう肉体が限界を迎えつつあるサトノダイヤモンドの瞳にはなお、希望の光が輝いていた。

 

 

 バニシングゲイザーがもう2バ身ほど近くまで迫ってきている。

 ダービーに懸ける彼女の思いが、大気を震わせんばかりの気迫を宿した走りから伝わってくる。

 そして彼女がこの走りを完成させるまでに長い月日を費やし、幾多の辛苦を乗り越えてきたであろうことも。

 

 

 皐月賞の最終直線で目を背けることしかできなかった事実と、今こそ改めて向き合おう。

 バニシングゲイザーこそが、自分たちの世代で「最も速いウマ娘」であると。

 

 

 けれど、このレースの勝敗だけは絶対に譲れない。

 そしてサトノダイヤモンドの走りはやはり、他の何者でもない自分だけのものだ。

 決して砕けぬ強靱な走りの本質とは、刹那的ではなく、遥か先まで続く未来を紡ぐための煌めき。

 それはまさに、「永遠の絆」を象徴するダイヤモンドの宝石のように。

 

 

 ───ずっと、遠くにあるものを見つめ続けてきた。

 華麗かつ屈強な走りで血統の誓いを果たした、メジロマックイーンの目を離せない存在感を。

 最も強いウマ娘となって頂点に君臨した、キタサンブラックが作り出す戦いの世界を。

 願いを叶えるために運命と戦い続ける、サトノクラウンの色褪せることのない意志を。

 邂逅と栄光の果てに紡がれていく、カレンチャンとマヤノトップガンが手にした幸福を。

 そして遥か彼方にまで飛び立つような、バニシングゲイザーのリミッターを解き放った速さを。

 

 

 そんな数々の光景が巡った果てに、サトノダイヤモンドの脳裏をよぎったもの。

 それはおよそ一年前の、トレーナーと初めて出会った日の記憶だった。

 

 

 あの日、彼女は揺るがぬ意志を瞳にたたえて言った。

 たとえどんな困難が立ちはだかろうと、打ち砕くことができると。

 そして願いを叶えた先にある幸福な未来を、二人で共に見ようと。

 サトノダイヤモンドは、その未来を勝ち取りたいと願ったからこそ彼女の手を取ったのだ。

 

 

 だから、遠くへと手を伸ばし続けるだけの日々は、今日でもうおしまい。

 最も速いウマ娘となったこのライバルに今こそ打ち勝って、ずっと目指してきた場所へと辿り着く。

 

 

 

(私は──────未来を掴むんだ!!!)

 

 

 

 その思いと共に、渾身の一歩を踏み込んだ瞬間。

 サトノダイヤモンドの瞳に宿る希望と、そして胸に抱く願いが、弾けるような輝きとなって背中から広がった───

 

 

 

 ☆ ◇ ☆ ◇

 

 

 

 ターフを駆ける者たちを包み込む一瞬の静寂と、不屈の願いによって作り出された幻想の世界。

 そして、この世界の中心にいるサトノダイヤモンドの背に現れたものがある。

 それはまるで星々のように光を反射し、いくつもの煌めきが織り重なる、ダイヤモンドの宝石でできた翼だった。

 

 その幻を目にしたウマ娘たちは、誰もが目を奪われる。

 暗雲に覆われた空の下、雨粒と舞い上がる泥を切り裂くように輝きを放つ、その翼の美しさに。

 

 それと同時に、誰もが思った。

 あんなにも重い、彫刻のような翼で飛べるはずがないと。

 その考えを肯定するかのように、金剛石の翼は不動のままで、羽ばたくことはない。

 

 けれど、サトノダイヤモンドには分かっていた。

 飛べなくたっていいのだと。

 だって今ここを駆けているは、天翔けるウマ娘でもなければ、正義のヒーローでもない。

 ───他の誰でもない、サトノダイヤモンドというウマ娘なのだから。

 

 

「やあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっ!!!」

 

 

『──────ここに来てサトノダイヤモンド粘る! この極限状態でスピードをさらに上げてきた! しかしバニシングゲイザーがさらに速いか! 果たしてこのデッドヒートを制するのはサトノダイヤモンドの悲願か、それともバニシングゲイザーの夢か!!』

 

 全てを振り絞ったサトノダイヤモンドの叫びで静寂の世界は砕かれたが、希望の輝きが消えることはない。

 そしてこの翼が幻のものであっても、まるで息を吹き返したかのようにサトノダイヤモンドが再び加速したのは、幻想ではなかった。

 

 

「っ──────負けるかあああああああああぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 それでも煌めきの奔流に怯むことなく、凄まじい気迫を纏ったバニシングゲイザーがさらに追い込んでくる。

 二人の差はなおも縮まり続けており、「最も速いウマ娘」がバニシングゲイザーであることに疑いの余地はない。

 けれど、その速さをもってしても差し切れるのかは一転して際どくなり、勝負の行方は完全に分からなくなった。

 今、二人の間にあるのは僅か1バ身の距離と、激しくせめぎ合う勝利への思いだ。

 

 

 嵐のように大歓声が響く超満員のスタンドで、誰もが目を逸らさずに身構える。

 憧れと夢で形作られた究極の道、日本ダービーの2400メートル。

 そのラスト100メートルの先に訪れる、たった一度きりの結末を見届けるために。

 

 

(──────今、はっきり分かった)

 

 

 サトノダイヤモンドが悟ったのは、広がった翼を形作る金剛石の一つひとつに込められている、煌めきの正体。

 その答えはサトノ家の悲願と、サトノダイヤモンド自身の夢だ。

 この翼は、サトノダイヤモンドがG1の舞台でジンクスを打ち破ることを誓ったその日から、ずっと背負ってきた宿命そのものだった。

 

 

 どれほど高潔であろうとも、そして切実な願いがあろうとも、強者でなければただ敗れ去っていく非情な戦いの世界。

 そんな世界の中で背負ったこの飛べない翼は、傍からは重荷として映るかもしれない。

 まるで呪いのようにサトノのウマ娘たちを縛り続けてきた、ジンクスと同じように。

 ───けれど今のサトノダイヤモンドならば、それをはっきりと否定できる。

 

 

(この翼は、重荷なんかじゃない)

 

 

 もはや限界を超えたこのラストスパートで、重かったはずの身体がこんなにも軽くて。

 

 

(この輝きは、呪いなんかじゃない!)

 

 

 透き通った結晶に集うたくさんの願いが、溢れるほどの力を与えてくれていて。

 

 

(──────この先にある未来は、幻なんかじゃないんだ!!)

 

 

 もう目の前に広がっている新しい未来へと、今まさに進み出すのだから。

 

 

「──────うぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああっっっ!!!」

 

 

 最後の最後、喉が枯れそうになるほどの大きな声で叫ぶ。

 この力と思いを、限界とジンクスを突き破る速さへと変えるために。

 

 

 大外から迫ってきたバニシングゲイザーの影が、もう真横にまで並びかけている。

 それでもただ前だけを見て、フィニッシュの体制を取る。

 胴体をぐっと前方に突き出し、ほんの1ミリでも先にゴールラインの向こう側へ押し込むことだけに集中して。

 

 

 

 そしてゴール板を駆け抜けて、幻想の翼が光の粒になって霧散する、その直前に。

 

 

 

 最後に、たった一度だけ。

 それまでずっと動かなかった翼が、羽ばたいた気がした──────

 

 

 

 ☆ ◇ ☆ ◇

 

 

 

『サトノダイヤモンドとバニシングゲイザー、横一線に並んでゴールイン!! バニシングゲイザーの猛烈な追い上げとサトノダイヤモンドの驚異的な粘り、果たしてどちらがこのダービーを制したのか! これは間違いなく写真判定になるでしょう! 体勢はサトノダイヤモンドが若干有利か──────』

 

 ゴールのすぐ先にある第1コーナーを少し回り、安全に立ち止まれる場所まで進んだサトノダイヤモンド。

 その瞬間、まるで魔法が解けたかのように、全身から一気に力が抜けていく。

 泥にまみれた勝負服を気にする余裕も、ずぶ濡れで乱れきった髪へ指を通す余力すらもない。

 今の彼女に辛うじてできるのは膝に手をついて、荒い呼吸と激しく脈打つ心臓が落ち着くのを待つこと。

 そして重く感じる頭をゆっくりと持ち上げ、着順掲示板へ目を向けることだった。

 

 電光の掲示板で点滅して存在を主張している、3着以下のウマ番。

 上位二つの着順がまだ表示されていない理由は、そのすぐ隣に灯る「写真」の文字を見れば一目瞭然だった。

 最後は皐月賞と同じくサトノダイヤモンドとバニシングゲイザーの一騎打ちとなり、二人がほぼ同時にゴールを駆け抜ける結末となった日本ダービー。

 その勝敗が写真判定に委ねられたことで、いまだ冷めやらぬ喧騒と熱気の中に、結果を待つ張りつめた緊張が入り交じっていく。

 

「……まだ少し、時間がかかるかもしれませんね」

 

 そんな中で不意に、ようやく呼吸が落ち着き始めたサトノダイヤモンドへ声が掛けられる。

 そちらへ顔を向けると、疲弊しきっていることを隠せない様子のバニシングゲイザーが立っていた。

 膝上と勝負服、そして両手まで泥まみれになっている彼女の姿。

 それを見て、つい先ほどまで力尽きるように膝と手をターフについていたのだろうと察することができた。

 

「そうですね。これはもう、どちらが勝ったかは分からな───」

 

 このレースでサトノダイヤモンドは間違いなく、持てる全ての力を出し切った。

 勝利への渇望が消えることはなくとも、それでも今の胸中は不思議とすっきりしたものだった。

 だからサトノダイヤモンドは自然と穏やかな口調と表情で、同じく全力を尽くしたバニシングゲイザーに言葉を返そうとして───その声が途中で止まる。

 

 サトノダイヤモンドの視点では全く分からなかった、勝敗の行方。

 けれど、バニシングゲイザーにとってはそうではなかったのだとサトノダイヤモンドは気付いた。

 そう、気付いてしまったのだ。

 

 

 バニシングゲイザーの頬を静かに伝っていく、雨粒でも汗でもないもの。

 それが、歓喜から生まれたものではないことが分かったから。

 

 

「本当に、良い勝負でした。サトノダイヤモンドせんぱ……って、おっと」

 

 その言葉と共にに差し出されかけたバニシングゲイザーの右手が、少し慌てた様子ですぐさま引っ込められる。

 どうやら握手を求めようとしたものの、自分の手がすっかり泥まみれになっていることを失念していたみたいだ。

 

「構いません」

 

 そんな彼女に対し、汚れなど一切気にしないという意思を示しながら。

 サトノダイヤモンドが前に一歩を踏み出し、泥にまみれたバニシングゲイザーの右手を、両手で包み込むようにしっかりと取る。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 それを受けてバニシングゲイザーも改めて右腕を上げ、今度こそサトノダイヤモンドの手をしっかり握り返した。

 

「─────────」

 

 二人の交わした手が離れるまでの時間は、秒数にすればそれほど長いものではなかった。

 次もまた戦いたいという意思が互いに伝わっただけで、彼女たちには十分だったから。

 そして、場内の緊張感を打ち破るように沸き上がったスタンドの大歓声が、今まさに着順が確定したことを告げたからだった。

 

 歓声に導かれるように、二人の視線が着順掲示板へと向かう。

 その先に待っていた、ダービーの結末は───

 

 

 

 1着、サトノダイヤモンド。

 2着、ハナ差。バニシングゲイザー。

 

 

 

 ほんの僅かな差が勝敗を分かつ、激戦の果てに。

 ダービーウマ娘の座を掴み取ったのは、サトノダイヤモンドだった。

 

 

 

 その結果を確認したバニシングゲイザーが、一礼してこの場から去っていく。

 勝者にのみ許された歓喜の時間を、邪魔するつもりはないというように。

 

 そしてサトノダイヤモンドも、彼女を呼び止めることはしない。

 勝者と同じように、敗者だけに許された時間もある。

 そして、その時間がウマ娘を強くすることを知っていたから。

 

 

 ついに打ち砕かれた、「サトノのウマ娘はG1で勝てない」というジンクス。

 果たされたサトノの悲願と、サトノダイヤモンドが抱き続けてきた夢。

 

 スタンド正面までゆっくりと歩みを進め、観衆へ向けて高く手を掲げたサトノダイヤモンド。

 その瞬間に押し寄せた怒濤の大歓声は、新たな世界の幕開けを告げる福音となった。

 

 

(……そっか、そうだったんだ。私がなりたかったのは──────)

 

 

 空を覆う暗雲の下でもなお、全てがキラキラと輝いて目に映る光景。

 何ものにも縛られることのない、無限の可能性に満ちた未来。

 この未来を歩み続けていけば間違いなく、もうひとつの夢の舞台で親友が待っている。

 やっと一歩を踏み入れることができた、そんな新しい世界に包まれながら。

 

 

 サトノダイヤモンドが次に見据える戦いは、もう心の中ではっきりと定まっていた。

 

 

 

 

 ───もしもの話。

 今の時代もなお、最も幸運なウマ娘こそがダービーを制するのだとしたら。

 サトノダイヤモンドを勝利に導いた幸運とは、果たして何だったのだろう。

 

 雨によってぬかるみ、彼女が持つ力強さが活きることになった重バ場か。

 抽選で与えられた、有利に立ち回りやすい2枠3番というスタート位置か。

 あるいはこのレースよりもずっと前から、身を置いてきた環境に恵まれたからなのか。

 そしてもっと根本まで遡るのなら、競走ウマ娘として優れた素質を持って生まれたことを、何よりの幸運とするべきなのだろうか。

 

 きっと、答えをたった一つに絞ることはできないし、そうすることに意味もないのだろう。

 

 なぜなら、生まれながらに与えられた天恵も。

 そして偶然の出会いを繰り返す中で、自らの意思で選び取って歩んできた人生の道筋も。

 その全てを強さへと変えて、サトノダイヤモンドというウマ娘はここに立っているのだから。




 ダイヤちゃんの必殺技は原作通りの方が良かったかもしれませんが、菊花賞でどうしてもやりたかったレース展開があり変更させていただきました。
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