バニシングゲイザーが長い道を歩み始めて以来、ずっと目標として掲げ続けてきた日本ダービー。
その決戦で敗れた無念を、簡単に拭い去れるはずもない。
そんなダービー直後の状況で東条と話し合って決めたのは、長いクールタイムを設けることなく、すぐさま次のレースへ向けた準備を始めることだった。
実戦を終えてしばらくの間は激しい運動こそできないが、そんな時期だからこそ進められることも数多くある。
疲労した身体のケア、ダービーでの反省点の洗い出し、そして次に向かうG1の選定。
10月の菊花賞に出る意思を固めてその方針をメディアに公表してからは、長距離戦を見据えたプランを練りながら、菊花賞の前に挟むステップレースも決めていく。
自分自身の走りだけではなく、出走してくる可能性が高いライバルたちの研究も欠かせない。
───そして。
切り札であるパワーブースターを真っ向から破られた以上、新たな勝ち筋を見つけ出す必要もあるだろう。
バニシングゲイザーが自らの意思で課した、レースを終えて間もない時期としては多めのタスク。
菊花賞まではまだ時間があるとはいえ、勝つためには僅かな時間も無駄にしたくない……というのが、表向きの理由ではある。
けれど実際には、胸の中にぽっかりと空いた喪失感を埋めようとする、現実逃避に近い。
その事実を、バニシングゲイザー自身も自覚していた。
次に向かうG1を早々に公表することを望んだのも、サトノダイヤモンドへ向けた意思表示という以上に、自分自身の気持ちを一刻も早く切り替えたかったからだ。
バニシングゲイザーを立ち直らせるにはこれが最善なのだと判断したからこそ、東条もこの方針を認めたのだろう。
担当ウマ娘がオーバーワークに陥らないよう、普段以上に細心の注意を払わせることになってしまい、彼女にこそ本当に大きな負担をかけてしまっているとバニシングゲイザーは思う。
それでもまだ、もう二度と立てない夢の舞台で敗れた現実に、彼女はまだ正面から向き合うことができずにいた。
だからこそ。
今日の模擬レースで共に駆けたトウカイテイオーの姿は、バニシングゲイザーにとってあまりにも眩しかった。
幾度も夢を砕かれて、その度に立ち上がってきた彼女だけが持つ光が、確かにあったから。
☆ ☆ ☆
中央トレセン学園の現生徒会長、トウカイテイオー。
彼女は以前から、再びレースへ復帰する意思があることを学園の内外に向けて公言している。
とはいえ四度目の骨折と長期療養を挟んだ今、さすがにG1のようなレースで戦うのはもう厳しいだろう……という見方が強くなるのも無理はない。
そして彼女の選手登録は依然としてトゥインクル・シリーズのままだが、将来的にはドリームトロフィーリーグへの進出が確実視されている。
だから次に復帰したら、さほど間を置かずにリーグへ移るのではないか───と、噂されている彼女ではあるが。
(……とんでもない。この人は間違いなく、G1で勝つつもりで調整している)
果たして今日のトウカイテイオーが見せたその姿は、「ちょっと後輩の様子でも見てやろうかな」といった生ぬるいものではなかった。
彼女から満ち溢れていたのはむしろ、ひとりの競技者として、そして闘争者としての貪欲さだ。
このトレーニングはもちろん、バニシングゲイザーの存在さえも己の糧にしてみせると言わんばかりに。
だからこそ、彼女の圧倒的な存在感に呑まれないようバニシングゲイザーも必死になって食らいつく必要があった。
その結果として生まれたのが、今回の極めて濃密な練習だった。
クールダウンを終えてすぐに、バニシングゲイザーの調子に異常がないかを東条が確認する。
トレーニングの内容こそハードなものだったが、綿密に負荷が調整されていたため、問題はないだろう。
「ゲイザー。最後の模擬レースだが、お前は…………いや、私からは後で話そう。滅多にない機会だ。もしトウカイテイオーに聞いておきたいことがあるなら、躊躇はしないように」
確認を終えた東条はそう言い残すと、先ほどまでトウカイテイオーと何やら騒がしげに話していたスピカのトレーナーと共に、この場を離れていく。
ウマ娘とトレーナーは、二人三脚で歩んでいく関係だ。
そして近しいがゆえにかえって口にしづらいことや、無意識のうちに生まれる遠慮もある。
トレーナーたちがバニシングゲイザーとトウカイテイオーの二人をこの場に残したのは、ウマ娘同士で気兼ねなく話せる時間を作ろうという、彼女たちの配慮なのだろう。
東条が何を言いかけていたのか、気になるところではある。
とはいえバニシングゲイザーとしても、せっかく巡ってきたこの機会を逃すつもりはない。
だからまずはトウカイテイオーに向けて、今の率直な気持ちを伝えることにした。
「今日はありがとうございました、トウカイテイオー先輩。分かっていたことではありますが……あなたは本当に、すごい人です」
「ふふーん♪ そうでしょ! レースでもボクはまだまだ、みんなに負ける気なんてないんだからねっ!」
両手を腰に当て、賞賛を気持ちいいほど素直に受け止めるトウカイテイオー。
その姿に、バニシングゲイザーからも思わず笑みがこぼれる。
同年代のウマ娘たちと比べれば小柄な体格で、天真爛漫に振る舞うトウカイテイオーは、一見しただけでは生徒会長らしく映らないかもしれない。
けれど、模擬レースを終えた今もなお彼女から放たれ続けている覇気が、その印象をたやすく塗り替える。
稀代の実力と揺るぎない信頼をもって先導者の役目を託されたウマ娘が、今ここにいる。
その事実を決して忘れさせないだけの存在感が、確かにあった。
───そんなトウカイテイオーの覇気が不意に、ふっと和らいで。
腰に当てられていた彼女の右手が、バニシングゲイザーの肩にポンと置かれた。
「実はね、ちょっぴり心配してたんだ。皐月賞とダービーでのキミの走りは、まるで花火のように眩しくって───そして、なんだか儚くボクには見えたからさ」
「花火のよう……ですか」
これまでの三冠レースで繰り出してきたバニシングゲイザーの切り札、パワーブースター。
見る者たちに強烈な印象を与えたその爆発的な末脚は、ファンや各種メディアの間で、これまで様々な言葉で形容されてきた。
曰く、燃え尽きんばかりに弾ける炎のようだと。
あるいは、あらゆる光を飲み込もうとするブラックホールのようだとも。
一見すれば相反するそれらの表現も、「終わり」を想起させるという点では共通している。
そしてバニシングゲイザー自身もまた、ダービーがひとつの終着点になるだろうと見据えながら、ここまで戦ってきたのだ。
だからこそ、トウカイテイオーが口にした「花火のよう」という例えもまた、本質をよく捉えているとバニシングゲイザーは思う。
そしてその言葉をきっかけに、ひとつの懐かしい記憶が蘇ってきた。
───それは、かつて
それを目にして抱いた感情は、祭りの夜空にぱっと咲いた一輪の花火が消えていくのを見送る瞬間の寂しさと、どこかよく似ている。
そしてバニシングゲイザーはいつの頃からか、あの時の思いを自らの走りにも重ね合わせるようになっていたから。
「───まあ、そんなボクの心配はまるっきり見当違いだったんだけどねっ!」
けれど。
そんな感傷的なイメージをあっさりと吹き飛ばしたのもまた、トウカイテイオーだった。
自信に満ちた彼女の言葉と表情には、向き合う者をたまらなく惹きつける引力がある。
「特にダービーの時のキミは、あのレースで全部を燃やし尽くしちゃいそうな、ちょっとした怖さまで感じさせる走りだったからね。でも今日こうして一緒に走ってみて、キミが立ち止まるどころか、今もちゃんと進化し続けてるんだってハッキリ分かったよ」
「……情けないことに私はまだ、ダービーで負けたという結果にきちんと向き合えていないんです。それでも私は、本当にあの時から前へ進めているのでしょうか」
「もちろん! そうだね、分かりやすいところで言えば……以前までのキミがさっきのようなレースをしたら、きっと今頃はその場にへたり込んでたと思うんだ。けど今のキミは誰かの手を借りないで、こうして自分の脚でちゃんと立ってるでしょ?」
その指摘を受けて、バニシングゲイザーが自分の脚元へと視線を落とす。
確かな疲労こそ残っているけれど、その両脚は今もなお、しっかりと全身を支え続けている。
つい先ほどの模擬レースでトウカイテイオーに食らいつくため、パワーブースターまで使ったにも関わらずだ。
バニシングゲイザーが持つ、ウマ娘として無二のセンスから生み出された走法、パワーブースター。
情報を秘匿していた以前とは異なり、現在ではこの技をトレーニングで大っぴらに使うこと自体は禁じられていない。
とはいえ消耗の激しさは変わらないため事前に東条の許可は必須だし、いざ使用すれば立っていることさえ難しくなるはずだった。
だから力を残した今回の走りは、パワーブースターとしては不完全燃焼といえるもの。
スパートを仕掛けるタイミングを誤ったのか、あるいは力を十分に解放しきれなかったのか───
バニシングゲイザー自身、何かしらの失敗があったのではないかと疑っていたのだが。
「もしかして、上手く走れなかったんじゃ……って思ってるのかもしれないけど、そこは心配しなくていいよ。だってキミはこの本気のテイオー様に、最後までしっかり着いてきたんだからね!」
この模擬レースを終えたバニシングゲイザーには、失敗ではなく成功の中でこそ掴める、新たな感覚がある。
それを何よりも証明するバロメーターとなっているのが、共に走ったトウカイテイオーの存在だ。
もし本当に上手く走れなかったのであれば、本気のトウカイテイオーには追い縋ることさえできなかっただろう。
先ほど東条が言いかけていたのは、きっとこの事だったのだろうとバニシングゲイザーには分かった。
日本ダービーでの敗北と、その後に訪れた不完全なパワーブースター。
不穏な予兆のようにも思えたそれらが、遥か先まで続いていく進化の過程に過ぎなかったのだとしたら───
「キミはこの先、絶対にもっと強くなれる。だから、もっと高くて遠いところまで行かなくちゃねっ!」
ひとつの区切りになるという覚悟で臨んだダービーを終えてもなお、バニシングゲイザーの歩む道は続いている。
おぼろげながら見え始めた次なる進化こそが本当の区切りとなるのか、あるいはそれさえも通過点なのか。
その答えを確かめるためには、戦い続けるしかない。
バニシングゲイザーは、そのことを改めてはっきりと理解した。
そして、その新たな戦いへと踏み出す前に。
バニシングゲイザーには、『帝王』へ問いたいことがあった。
「───トウカイテイオー先輩。ひとつ、お伺いしたいことがあります」
「ん、ボクに聞きたいこと? もちろんいいよ、なんでも聞いちゃって!」
当たり前のようにそう応えてくれるトウカイテイオーが、本当に頼もしい。
彼女の言葉に背中を押されるように、バニシングゲイザーが真剣な眼差しを向けながら言葉を紡いでいく。
「以前にお話ししたこともありますが、私はシンボリルドルフ先輩に憧れて、強いウマ娘になりたくて中央に来ました」
「うん、よーく覚えてるよ! あれからもう一年以上経つのかな? それを聞かせてもらって、ボクと同じだー! って、なんだか嬉しくなっちゃったんだよね」
「はい。私もあの日のことはしっかり覚えています」
二人が共に思い返しているのは、およそ一年前に生徒会室で行われた面談のことだった。
トウカイテイオーたち現生徒会メンバーが昨年度から始めた、新入生に対する面談とサポート。
その取り組みが現在は対象を広げて、あらゆる在校生たちに直接手を差し伸べるものにまで発展している。
始めた当初は完全に手探りだった彼女たちなりのやり方が、今では確かな形で実を結んでいたのだ。
あの日、もし行き詰まったときには何でも相談してほしいと言ってくれたトウカイテイオー。
そして今まさに、一年越しでその言葉を頼る時がやって来たのだ。
「私はこの学園に入って、トレーナーや仲間たちと共に鍛錬を重ねてきました。ダービーでの敗北にまだ向き合えていない、情けないヤツではありますが……それでも、強くなれたという実感が確かにあるんです」
「うんうん。キミが強くなったっていうのはボクから見てもそうだし、それは他のみんなだって同じだろね。何せここまで六戦五勝で、G1二冠のウマ娘だよ? ふんぞり返ったってバチは当たらないんじゃないかな」
こーんな感じで、と実際にふんぞり返るジェスチャーをしてみせるトウカイテイオー。
妙に様になっているその姿がおかしくて、バニシングゲイザーの口元にも自然と笑みが浮かぶ。
入りすぎていた肩の力がほどよく抜けたところで、改めて表情を引き締めた。
「ありがとうございます。───ですが菊花賞で勝つためには、きっと今の私ではまだ足りません。ダービーでのサトノダイヤモンド先輩には、限界を超えた強さがありました。だから私にも、これまでの自分を超える『抜きん出る強さ』がなければ、あの人には届かないと思うんです」
「抜きん出る強さ、ね。それって、
「はい。まさにその通りです」
───
中央トレセン学園に掲げられたその校訓は、勝負の世界が持つ残酷な本質を示すと同時に、そこへ挑むウマ娘たちを静かに見守るように在り続けている。
そして菊花賞を制する『最も強いウマ娘』とはきっと、この言葉にふさわしいような強さがある者なのだろうと、バニシングゲイザーは競走ウマ娘としての本能で予感していたのだ。
「私は入学して以来、レースでの速さや才能だけでは推し量れない、抜きん出る強さを持つウマ娘たちを近くで見てきました。トウカイテイオー先輩、あなたもその一人です。だから、菊花賞へ向かう前にどうしても聞いておきたいんです。あなたにとって、強さとはどういうものなのかを」
強さとは何かという、あまりにも抽象的で果てのない問い。
優れたウマ娘たちであればこそ、その答えが一つに定まることはないだろう。
彼女たちにはそれぞれが歩んできた道があり、越えてきたものがあり、抱いた願いがある。
その全てが違うのだから、そこで見つけ出した強さの形もまた異なっていて当然だ。
だからこそ、『帝王』と呼ばれる彼女が辿り着いたその答えを、バニシングゲイザーは聞きたいと願っていた。
「強さとは、かあ。この学園で走ってるウマ娘ならきっと、誰もが一度は向き合う問いだろうね。もちろん、ボクもその一人だよ」
そう語り始めたトウカイテイオーの声には、静かな落ち着きがあった。
まるで遠い日の自分を、離れた場所から見つめ返しているかのように。
「昔のボクってば単純だったからさ。憧れのルドルフ
「……一度は、引退まで発表したと聞きました」
バニシングゲイザーの口からこぼれたその言葉を、トウカイテイオーが頷いて肯定する。
奇跡とさえ語られる彼女の歩みは、その一言だけでは到底言い表せないほどの、挫折と絶望の上に形作られている。
それは彼女にとってどれほど長く、そして果てしないものだったのだろう。
「みんなに支えられてもう一度立ち上がってからのボクは、ほんとに無我夢中だったよ。そして有馬記念を走り終えて、はっきり分かったんだ。───何度倒れたってまた前へ進むことができるのが、ボクの強さ。でもその強さは、ボク一人だけじゃ見つけられなかった。だから今度は、ボクも誰かの力になりたいんだって」
そこでトウカイテイオーは一度、ほんの少し視線を伏せて言葉を止める。
ほんの僅かな沈黙だったはずなのに、その空白がバニシングゲイザーには不思議なほど長く感じられた。
そしてトウカイテイオーは再び顔を上げ、迷いのない眼差しではっきりと言葉を続けた。
「───ボクは信じてる。諦めなければ誰だって、自分の『抜きん出る強さ』を見つけられるって。それは長く戦い続けてやっと見つかることもあるし、一人じゃ辿り着けないこともある。だからボクは、みんながそれを手に入れられる時まで、何度だって力になりたいんだ。それが今のボクにとっての、強さだよ」
そう締めくったトウカイテイオーは重たい余韻を吹き払うように、ふぅ、と小さく息をつく。
そして次の瞬間には、いつもの彼女らしい明るい表情を浮かべてみせた。
完全無欠の強者だけを祝福する言葉のようにも響く、中央トレセン学園の校訓。
けれど戦いの中で幾度も迷い、傷つき、時には立ち止まる弱さがあったとしても。
それでも前へ進むことを諦めなかった者だからこそ、掴み取れるものがある。
それこそが、トウカイテイオーにとっての「抜きん出る強さ」だった。
「これはあくまで、ボクにとっての強さ。だからキミの目指すべき強さとは、全然違うかもしれない。それでも───こんな答えで、よかったかな?」
その問い掛けを前に、バニシングゲイザーはすぐには言葉を紡げなかった。
そしてトウカイテイオーが語ってくれた答えを、胸の中でもう一度ゆっくりと噛み締める。
かつて『皇帝』と同じ道を歩むことを期待され、自らもそれを望んでいた、トウカイテイオーというウマ娘。
けれど彼女は幾度も困難を乗り越え、新たな道を切り拓いた先で自分だけの強さを見つけ出してみせた。
そんな強さの形を彼女本人の言葉で聞くことができたからこそ、バニシングゲイザーもまた、前へ進むための勇気を分けてもらえたような気がした。
「───ありがとうございます、トウカイテイオー先輩。私、夜にでもダービーの映像をもう一度見返してみようと思います」
「うん、それがいいと思うよ!」
新たな一歩を踏み出そうとするバニシングゲイザーの背中を、まっすぐ押してやるかのように。
トウカイテイオーが弾んだ声とともに返してきたのは、曇りひとつなく力強い笑顔だった。
☆ ☆ ☆
その日の夜、美浦寮の寮室。
日中は明るい陽射しをたっぷり取り込む大窓も、陽が沈んだこの時間はカーテンがぴたりと閉じられている。
両脇にある小窓の向こうには夜の暗がりが広がっていて、その静寂がベッドに腰掛けるバニシングゲイザーの心を落ち着かせてくれていた。
ルームメイトのブリュクスマンは食堂で夕食を取っており、今は部屋に一人しかいない。
そんな中、膝の上に置いたノートパソコンで日本ダービーの映像を最後まで見返して、バニシングゲイザーは小さくひと息をつく。
ダービーの映像そのものは、レースを終えてからこれまでに何度も見返している。
けれどそれは次の戦いへ活かせる部分だけ、切り取って分析していたに過ぎなかったのだろう。
だから技術的に必要な情報は拾い上げる一方で、最も見たくないものからはずっと視線を逸らしてきたのだ。
───夢の舞台で敗れた、自分自身から。
改めて目にした、サトノダイヤモンドにハナ差で届かなかった自分の姿。
もう覆ることのない結果を真正面から見つめているうちに、胸の奥へ押し込めていた痛みが、ゆっくりと形を取り戻していく。
生涯にたった一度しか挑めないこの戦いで、バニシングゲイザーは間違いなく敗れたのだ。
(……本当に、悔しいなあ)
胸に浮かんできたのはただそれだけの、素直な思いだった。
そしてその痛みは消えることなく、心を締め付けてくる。
けれど同時に、皮肉でも強がりでもない、小さな安堵も確かにあった。
ようやく自分は目を逸らすことなく、この敗北を受け止めることができたのだと。
(悔しいけれど、やっぱりサトノダイヤモンド先輩は強かった。だからこそ、この人を超えたい)
全力を燃やし尽くしてなお届かなかった、サトノダイヤモンドの強さ。
永遠の輝きを紡ぎ出す彼女の走りは、バニシングゲイザーの切り札である刹那的な走りとは対照的だ。
終わることのない輝きを前に、一瞬の煌めきなど儚くかき消されてしまうように思えるかもしれない。
けれど未来を作り出すのは、永遠に続くものだけとは限らない。
やがて切り離されるロケットブースターの炎も、夜空に消えていく花火も、決して何も残さないわけではない。
未来とはきっと、そうした刹那的な瞬間が積み重なって形作られていくものなのだから。
(これまでの限界も、そしてダービーも。終着点と見据えてきたその場所を───私は、必ず越えてみせる!)
バニシングゲイザーが菊花賞の決戦で目指すのは、限界から抜きん出た先にある領域。
超えられなかった
☆ ◇ ☆ ◇
それから時が経ち。
真夏にも劣らぬ暑さが色濃く残りながらも、時折吹く爽やかな涼風で秋の前兆を感じられるようになった頃に。
クラシック級で、菊花賞トライアルにも指定されている二つのG2レースが行われた。
どちらもコース条件こそ10月の菊花賞とは大きく異なるものの、菊花賞での命運を占う重要な位置づけを担うレースである。
そして、一週間のずれで開催されたそれらのレースを制したのは───サトノダイヤモンドと、バニシングゲイザーだった。
この結果を予想していた者はもはや数知れず。
そして「二強対決は両雄並び立たず」という格言が、今年は菊花賞にも当てはまらないであろうとも。
脚質可変の次世代マシンと、願いを輝きへと変えたダイヤモンドの対決。
決戦のこれ以上ない舞台となるのは、レース史にまたひとつ刻まれる、クラシック最後の一冠。
───菊花賞が、来る。