作中最後のレースでありながら、物語のすべての起点となる一戦です。
長く続いていた残暑がようやく落ち着きを見せ、暗い時間になると肌寒さが感じられるようになってきた日の朝。
レース直近に合わせて調整した分量の朝練を終え、美浦寮へと戻ったバニシングゲイザーが、ひと息つきながら寮部屋の入口でドアノブに手をかける。
菊花賞をいよいよ目前に控え、今日は京都レース場へと向かう移動日である。
レース前にいつ現地入りするのかは各ウマ娘と担当トレーナーの裁量次第であり、移動距離が長い今回は万全を期して早いタイミングでの出発を選択している。
午後のカリキュラムは学園に事前申請して免除されているため、昼過ぎに出発して日の入り頃には京都に到着するだろう。
「───Gazer, you're back.」
「ええ。ブリュスクマン先輩もお疲れ様です」
扉を開くと、バニシングゲイザーと同じく自身の朝練から戻ったばかりという様子のルームメイト───ブリュスクマンと顔を合わせた。
キタサンブラックやドゥラメンテらと同期になった激戦のクラシックを駆け抜け、その後しばらく休養していたブリュスクマンだが、昨年にドゥラメンテとほぼ同じタイミングでトゥインクル・シリーズへと復帰している。
現在は競技者としての多忙な日々に再び身を投じているが、今もなお変わらず良き先達として、そしてルームメイトとしてバニシングゲイザーを静かに支え続けてくれている。
そんな先輩の姿を見たことで、バニシングゲイザーの心身がふっと楽になって───いつの間にか全身に力が入りすぎていたことに気付いた。
(まったく。臨戦態勢に入るにはまだ早すぎるっていうのに)
レース当日でもない朝早くからこんなに力んでいるようでは、本番までいくら気力と体力があっても足りやしない。
呆れたように軽く自嘲してからバニシングゲイザーは食堂へと向かうための、それに加えて午前中のカリキュラムに出席するための準備に取り掛かる。
カーテンを開いた窓から部屋に差し込んでくる、朝の日差しが清々しい秋晴れの日。
この府中だけでなく京都でも今後数日は晴天が続く見込みであり、今年の菊花賞は確実に良馬場でのレースになる。
東条と共に組み上げてきた幾通りものレースプランのうち、最も時間をかけて完成させた新たな走法を、この馬場条件なら選ぶことができるだろう。
バニシングゲイザーにとって再びG1の頂点にたどり着くための、そして高くて遠くにある未来まで飛び立つための、この戦いで。
「Gazer……」
後輩を気にかけているこのブリュスクマンというウマ娘は、天地を揺るがすとさえ例えられるパワフルなレーススタイルとは対照的に、普段は無表情で多くを語らない。
けれどそれは心中まで無感動であることを意味するのではなく、むしろ彼女が熱いハートを持っていることを、バニシングゲイザーを含めて彼女を応援する者たちはよく知っているから。
「Good luck, and do your best.」
「──────はい!」
たったそれだけのシンプルな言葉で、想いは十分に伝わった。
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クラシック最長、3000メートルの戦い。
未知の領域に臨む彼女たちはまさに、長き旅路へと踏み出していく旅人だ。
地を駆けるその姿からほとばしる、溢れんばかりの生命の躍動。
この原初的とさえいえるスピードと強さの競い合いが、見る者の根源に眠る感情を呼び起こす。
そして、私たちもまた人生という長い旅の途中であることを思い出させてくれる。
この世界の風景は、思い出さえも追いつけないほどに速く移り変わっていくけれど。
今日のレースで刻まれる黄金の道の記憶は、いつまでも咲き誇り続けていくのだろう。
秋の大地を彩ったその先も、強靭に命を繋いでいく菊花のように。
歩み続けよう、このターフで目にした高揚を糧へと変えて。
そして駆け出そう、彼女たちのように。
GI
菊花賞
京都 芝 3000m
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天高くへと向けて手を伸ばしたくなるような、どこまでも透き通っている快晴の空の下。
風に揺れるターフとURAの旗、幾重にも混じり合うスタンドの喧騒、そしてゴール板付近の内ラチに据えられた色とりどりの菊花。
黄金色を基調として彩られた華やかなゴールが意味するものは、この花道を駆け抜ける者たちが目指す栄光の重みだ。
本日のメイン11
発走時刻を待つ観衆が隅々にまで集ったスタンドでは、高まる熱気だけでなく喉の奥が乾くような緊張感も混じっている。
そして、この状況でコーラと焼きそば弁当を逞しく売り歩いている───たぶんURAから許可は取っているのだろう───芦毛のウマ娘がいることに気付いた者たちがくすりと笑う。
人々の様々な情景が飛び交うこの特別な空気感こそ、クラシック最終章という祝祭の舞台にふさわしい。
「
そんな場内の盛り上がりを背中に感じるゴール前のスタンド前列で、万感の思いを込めた声音で言葉を紡ぐ者がいる。
チームリギルの一員として、そして一人の観戦者としてこの地に立っているウマ娘───シンボリルドルフである。
今日この京都レース場にはチームリギルの面々がほぼ全員集っているが、今回は数組に別れての観戦を選んでいる。
上層のテラス席で風を感じながらターフ全体を見渡す者もいれば、喧騒からは一歩引いた観戦エリアで静かにレースを見守ろうとする者もいる。
そんな中で、勝利へと向かって駆けるウマ娘たちの息遣いと観衆たちの願いが交差するこの場所は、シンボリルドルフにとって特別なものだった。
「特に君にとって、この冠はただの一冠ではあるまい。その面持ちからして、やはり他人事ではないと見える」
「……はい。あたし、この菊花賞には特別な思いがあるんです。二年前のあの時はもちろん、今日のレースにも」
そして『皇帝』の隣で、菊の冠を知るもう一人のウマ娘もまた、静かな面持ちで立っていた。
この大一番でもまた並び立つであろう両雄、そのどちらとも浅からぬ縁を持つ存在───チームスピカが誇る『お祭り娘』、キタサンブラックだ。
事前に示し合わせたわけでもなく彼女たちがこの場所で顔を合わせたのは、偶然と言ってしまえばそれまでなのだろう。
けれど菊花賞ウマ娘である二人が並ぶその光景は、まるでこのレースそのものが彼女たちを引き合わせたかのようだった。
「長い距離を走るからとか、クラシック最後の一冠だからとか……それだけじゃ足りない気がするんです。改めて振り返ると、あたしにとって菊花賞は『答え合わせ』と言うべきレースでした。自分が何を背負って走るのか、全部見透かされていたみたいで」
「うむ。ゆえに君は、あの
シンボリルドルフのその言葉に、キタサンブラックが力強く頷いてみせる。
二年前の菊花賞、それは凄まじいレースだった。
ドゥラメンテとブリュスクマン、そしてキタサンブラック。
世代を代表する者たちが誰一人として譲らず、己が持てる全てを荒々しくぶつけ合ったのである。
彼女たちが剥き出しの闘争心を貫き切ったあのレースは、クラシックを締めくくるにふさわしい壮絶な死闘であったと今も語り継がれている。
「皐月賞では、バニちゃんが誰よりも速くゴールを駆け抜けました。ダービーでは、ダイヤちゃんが夢を掴みました。二人が喜びも悔しさも全部抱えてここまで来たのを、あたしは近くで見てきたんです。そして二人が、このレースでどう走るのか……あたしは絶対に見逃さない」
「そうだろうな。私とて、見届けずにはいられないさ。───誰がこの菊花賞を制するのかも、その先にどんな未来が訪れるのかも、今はそのすべてが未確定だ。だからこそ、私たちはここにいるのだから」
シンボリルドルフの厳かな声音は、周囲を満たすざわめきの中にあってなお不思議と輪郭を失わず、キタサンブラックへと真っ直ぐに届く。
彼女が目前のターフに向けるぶれない眼差しは、ここへ辿り着くまでにウマ娘たちが歩んできた長き道のりを見つめているようでもあった。
もう間もなく、クラシック期を経てそれぞれの答えを得た戦士たちが淀の舞台へと姿を現す。
菊花賞が、とうとう始まろうとしていた。
「───菊花賞だけに、見る者の心に
「……あはは。ルドルフさん、そこもやっぱりブレないんですね…………」
そんな中で自然に、当たり前のように付け加えられた一言。
渾身の駄洒落を反芻して満足げに口元を緩めるシンボリルドルフの隣で、キタサンブラックはちょっぴり呆れたように、けれどどこかほっとしたように笑った。
☆ ◇ ☆ ◇
つい先刻までパドックで浴びていた大観衆からの歓声と、たくさんの期待が込められた肌に刺さるような視線。
その余韻を心に灯し、サトノダイヤモンドはスタンド下にある長い地下バ道を歩いていた。
(迷いはない。菊花賞で私が目指すものは、あの日からずっと変わらないから)
サトノの悲願を果たし、夢を現実へと変えた日本ダービー。
その先にある世界で見つけた「自分こそが誰よりも強いと言えるようになる」という願いを抱いて、サトノダイヤモンドはここまで辿り着いた。
一定の間隔で配置された地下バ道の照明の光は、暖かさよりもひんやりとした印象を与えていて、戦いの前で昂る気持ちを落ち着かせてくれる。
けれど胸に宿したこの願いは衰えることなく、本バ場を前にして一歩、また一歩と進むごとに研ぎ澄まされた輝きを帯びていく。
そしてサトノダイヤモンドが歩を進めた、薄明かりの向こう側に。
蹄鉄を装着している靴音が硬い壁で反響し、前後を行く者たちの気配もどこか無機質なものに変わる、この空間で。
その空気を裂くような存在感を伴ったウマ娘の姿が、はっきりと現れた。
「───こんにちは、でいいですよね。バニシングゲイザーさん」
「もちろんです。こんにちは、サトノダイヤモンド先輩」
サトノダイヤモンドが、その相手を見間違えるはずもない。
金色の髪に白い勝負服、そしてその清澄な色感を鋭い印象へと昇華させている、全身から滲み出る闘気。
バニシングゲイザーが、ここにいた。
「ちょっと、不思議な気持ちです。レースの前に、バニシングゲイザーさんとこうして話すのは」
「はい、私も同じです。こういう初めての経験も、悪くないものです」
交差する言葉と視線。
短い応酬に過ぎなくとも、それに込められた熱量は息が詰まるほどだ。
そんなレース前の二人を包む空気は、ダービーまでのそれとは明らかに異なっている。
かつてバニシングゲイザーが言っていたように、以前は戦いを目前にして言葉を交わす余裕など互いに皆無だったし、それで構わなかったから。
けれど、今回の変化をただ「余裕ができた」とだけで済ませてしまうのは、きっと不十分だ。
二人の胸中に燃える熱が、むしろ以前よりも激しさを増していることをサトノダイヤモンドは感じている。
ならばこの変化の理由は、二度の対決を経て、互いに身をもって知ったからなのだろう。
相手がどれほど勝利を渇望し、どれほど本気で自分を倒そうとしてくるのかを。
だからこそどんな言葉を交わそうと、その闘志が揺らぐことなど決してないのだと。
(今日のこの子は……、…………!)
そんな中でわずかに流れたサトノダイヤモンドの視線と、ほんの一瞬だけ見開かれた瞳。
視界に捉えたのは───バニシングゲイザーの髪に着けられた、オレンジ色のリボン。
サトノダイヤモンドの担当トレーナーがバニシングゲイザーを分析する中で浮かび上がっていた、あるひとつの仮説。
それは彼女がレースで着用しているもの───特にリボンの種類と、そのレースで選ぶ脚質に相関があるのではないか、ということだった。
そうなる理屈は分からないし、あの東条トレーナーの担当ウマ娘が対戦相手にそんな手掛かりを意味もなく与えるはずがない。
無論、皐月賞やダービーでそうだったように、実戦で初めて目にする装身具を選ばれてしまえば分析のしようがない。
それでも僅かでも有利になる可能性があるのならと、サトノダイヤモンドはバニシングゲイザーの過去のデータをできる限り頭に叩き込んでいた。
そして今、目の前にいるライバルが着けているリボンは疑いようもなく、チームリギル選抜の時と同じもの。
あの選抜でそうであったように、このレースで彼女が仕掛けてくるであろう戦術は、おそらく───追い込みだ。
「───ああ、これですか?」
サトノダイヤモンドの視線がリボンへと向いた、その意味を読み取ったのだろう。
自然な仕草で自身のリボンに手をやるバニシングゲイザーには、戸惑いも取り繕おうとする気配もない。
そうして彼女が返した言葉は、あまりにもあっさりとしたものだった。
「お気に入りなんです、このリボン」
脚質を見抜かれる可能性など最初から想定していたと言外に示すような、自信に満ちた所作。
サトノダイヤモンドは察する。
たとえ脚質が露見しようとも、今のバニシングゲイザーにとっては問題ですらないし、怯むつもりもないのだと。
「───ええ、きっとそうだろうと私も思っていました。だって、とてもお似合いですから」
だからサトノダイヤモンドは、それだけを口にする。
もう、無粋な確認など必要ない。
あとはもう、戦うだけだということが分かったから。
二人は最後にほんの一瞬だけ視線を交わし、共に歩き出す。
地下バ道を抜けた先で広がる、輝きの中のターフへと向かって。
☆ ◇ ☆ ◇
『戦いの幕開けを告げるファンファーレが、秋の京都に響き渡りました! 勇壮なこの音色は、長き戦いに挑む18人のウマ娘たちに向けた激励であり、そしてこの舞台に立つことへの祝福でもあります。最も強いウマ娘が勝つと謳われる、クラシックロードの終着点。すべてを賭した決戦の地で、最強の称号を手にするのは誰だ! 菊花賞が始まります!』
京都レース場に溜まった高揚を解き放つような、万雷の拍手と歓声。
ゲートインに移ると次第にそれは余韻となって、張り詰めた空気へと変わってゆく。
陽光に照らされる良馬場の鮮やかなターフが、バックストレッチでスタートの瞬間を待つウマ娘たちの輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
第3コーナー手前の登り坂をスタート位置とし、外回りコースを一周半あまり使って行われる長距離戦。
長丁場の中で高低差4.3メートルの坂を二度も越えることになるため、最後まで脚を保つスタミナと自制心が不可欠といえる。
また過去のデータから他のレースと比較すると、菊花賞で好走するウマ娘は前走までの上位入着率も高い傾向にあることが分かっている。
例外こそ無論あれど、やはりこのレースは偶然によって力の差を覆すのが極めて難しい、まさしく実力の問われる舞台といえるだろう。
『各ウマ娘、順調にゲートインが進んでいきます。どのウマ娘も気合十分といった面持ちです! そして注目はやはりこの二人でしょう。6枠11番に入ったのは本日二番人気の皐月賞ウマ娘、バニシングゲイザー! そのすぐ隣には6枠12番、一番人気に支持されましたダービーウマ娘、サトノダイヤモンド! 三冠の栄誉を一つずつ分け合ってきた二人が、菊花賞で三度目の激突を迎えます!!』
やや外寄りの6枠という、同枠から揃ってスタートすることになったバニシングゲイザーとサトノダイヤモンド。
今回のファン投票でもまた二人に圧倒的な支持が集まったが、この菊花賞ではサトノダイヤモンドを本命視する向きがやや強い。
ここまでのレースで印象づけられてきたバニシングゲイザーの爆発力は鮮烈なものだが、今回は長距離戦。
尖ったものよりも総合力が物を言うこの戦いで、最高の安定感を持ったサトノダイヤモンドが誰よりも有利だと考える者が多かったのである。
その見立てはきっと、誤りではない。
だとしても。
あと四分もせずに訪れる未来で誰が栄冠を手にするのかは、きっと始祖たる三女神でさえも今は知り得ぬことなのだろう。
クラシック最後の栄光へと至る黄金の道は、このゲートでスタートの時を待つ18人の前に、無限の可能性とともに開かれている。
ゆえに彼女たちはこのターフで戦い、最後の一歩まで力を振り絞るのだ。
『さあ、18人のウマ娘たちが滞りなくゲートへと収まりました! 場内の意識がただ一点にのみ集まるこの瞬間、最も強いウマ娘を決める戦いが──────』
戦いの道へ踏み出そうと構えるウマ娘たちと、その姿を固唾を呑んで見守る者たち。
この時を迎えた誰もが、まだ何色にも染め上げられていない一瞬の時間を分かち合う。
けれど、それがどれほどかけがえのない瞬間であろうとも、人はみな留まることなく未来へと進む。
そう、決して止まらぬこの世界と共に、進んでいくしかないのだ。
その先に、喜びも悔しさも待っていると知りながら。
それぞれの覚悟と願いを、胸の奥に抱きながら。
『──────今、スタートしました!!』
そして。
ついに開かれたゲートの乾いた音が号砲となり、菊花賞の幕開けを告げる。
命を吹き込まれたかのように動き出した時間。
色づいた熱が空間に流れ込み、その景色を鮮やかなものへと染め上げていく。
さあ、行こう。
勝者と敗者を分かつ運命の、その先にある未来へ。
◇ ◇ ◇
『各ウマ娘、ほぼ淀みなく飛び出しました菊花賞! まずは先行争い! 最初に曲がる第3コーナーまでの限られた距離で、隊列が整っていきます!』
向こう正面からスタートし、すぐに上り坂を迎える菊花賞のコース構造。
その最初の直線が208メートルとかなり短く、いきなり難しいポジション争いへ身を投じることになる。
レース全体で合計六度も回ることになるコーナーでの有利不利に関わるため、ここのポジショニングで望ましい位置を確保できるかどうかは極めて重要だ。
とはいえこの長丁場で早々に脚を消耗してしまえばその時点で望みが絶たれてしまうため、位置取りを強く主張したい中で我慢が必要な時間でもある。
このジレンマにどう立ち向かうのかが、各ウマ娘が示すべき最初の答えといえるだろう。
『先頭を主張したのはやはりクレセントエースだ! 果たして今回こそ逃げ切れるのか! 並びかけてくるのはリバイバルリリック、続いてアライブカリンが先行する! そして、おっとこれは───』
アイデンティティを貫いてハナをきった者がいる。
自分のポジショニング技術を信じ、内の位置取りを奪いに行く者がいる。
己が最も強く走れる、得意な位置だけをただ求めた者がいる。
そして、牙を隠して展開の綻びを待つ覚悟を固めた者がいる。
それぞれの意思が込められた走りが十八本の軌跡となって、ターフの上に描かれていく。
そんな、色とりどりの軌跡が混じっていく中で。
磨き上げられた宝石のように、澄みきった輝きを纏うウマ娘がいた。
『───素晴らしい好発進のダービーウマ娘サトノダイヤモンド、そのまま流れるように4番手につけました! これまで差しの形が目立っていたウマ娘ですが、今回は先行策を選んだか!』
今回も閃光のごときスタートを決めてから、これまでのように下がるのではなく、迷いなく好位を確保してみせたサトノダイヤモンドの立ち回り。
長らく差しウマ娘として戦い続けた彼女が公式戦で先行を選択するのは、自身のメイクデビュー以来となる。
サトノダイヤモンドが先行策を選んだこと自体に、そこまで大きな驚きはない。
彼女の脚質が先行にも適性を持つであろうことは、デビュー前の段階から多くの者たちに見抜かれていた周知の事実だ。
加えてこの長距離戦では好位をロスなく進むことの価値が特に高く、差しを本領とするウマ娘であっても前方で立ち回ることは決して珍しくない。
サトノダイヤモンドが王道たる先行策を取ったことは理にかなっていて、十分に考慮できる選択だといえるはずだ。
───にもかかわらず。
周囲を走るウマ娘たちが、まるで理解の及ばぬものを目の当たりにしたかのような驚愕を表情に宿しているのはなぜか。
観衆たちもまた、先行するサトノダイヤモンドの姿から目を離せずにいる理由は何か。
その答えは、ただ一つ。
レースを見守る大多数の者たちの目には映らずとも、離れたスタンドにまで届いてくる、正体の知れぬ凄まじいまでの威圧感として。
そしてターフを駆けるウマ娘たちの瞳には、はっきりと焼き付くような存在感のある幻想として。
サトノダイヤモンドの背に輝く、大きく広がった金剛石の翼が。
◇ ◇ ◇
(───うん。やっぱり走りやすいな)
サトノダイヤモンドが暴風のように周囲へと振りまく、恐ろしく膨大なプレッシャー。
それとは裏腹に、彼女自身の走りと心中は長いレースの序盤にふさわしく穏やかで、落ち着きに満ちていた。
生物が地上を駆けるうえで必ず伴ってくる上下動や過剰な力み、そして重心軸のぶれ。
それらを最低限まで抑制することで、まるで空気の流れに乗るように走ることができている。
トレーナーや仲間と共にサトノダイヤモンドが幾度となく振り返り、その末に結論づけた、日本ダービーにおける最大の勝因。
それはゴール直前の覚醒ではなく、そこに至るよりも前に、距離の優位を築くことに成功していたことだった。
サトノダイヤモンドの希望が形となって現れた幻想の翼と、その末に掴んだハナ差勝ちはドラマチックなものだったかもしれない。
しかしトップスピードでは結局バニシングゲイザーに劣っていたという事実を、冷静に受け止めたのである。
だから手にしたこの力を最後の切り札ではなく、あくまで数あるカードのひとつとする。
サトノダイヤモンドたちはそう考えたうえで、この飛べない翼の本質を探り続けてきた。
そうして分かったのは、この翼には瞬間的な速さを求めるのではなく、身体のぶれを抑えて走りを徹底的に安定させる使い方が向いているということ。
そしてそれが、体力の温存にも大きく寄与できるという事実だった。
トレーナーがかつて「翼があるような安定感」と表現した走りの真髄が、まさしくここにあったのだ。
このレースに臨む他のウマ娘たちの誰もが、サトノダイヤモンドが宿す翼はダービーと同じく、最終盤にこそ姿を現すものだと考えていた。
しかし長距離戦におけるこのカードの使いどころとは、終盤まで伏せておくことではなかった。
むしろ序盤から繰り出してしまい、勝ちの流れを先に形作ることが最適解だったのである。
この走りを維持できる時間には限界があるため、一度この札を切ってしまった以上、レース中盤以降にはもう使えなくなる。
そして、サトノダイヤモンドはそれを覚悟のうえでこの戦い方を選んだのだ。
(絶対に勝って、私は誰よりも強いウマ娘になる。だから───出し惜しみなんて、いらない!!)
なぜなら彼女が見据えるのは、ダービーのような最終直線での劇的な展開ではないのだから。
序盤に得た優位を活かし、あくまで総合力で戦って勝利を掴み取りに行く。
それが、サトノダイヤモンドの答えだった。
サトノダイヤモンドが序盤から打って出たこの一手に、他のウマ娘たちはどう応えるのか。
そして後方に控え、追い込みを選んだ者の一人───バニシングゲイザーは、いかなる戦いを見せるのか。
それぞれの思いを乗せた隊列が、最初のコーナーを駆け抜けていく。
レースはまだ、始まったばかりだ。