ウマ四駆 ─DIAMOND GAZER─   作:ヘリの準備

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第20話 菊花賞(中)

 消失の観測者(バニシングゲイザー)。

 消えゆく輝きの、その先へ。

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 もう間もなく18人の隊列が二つ目のコーナーを抜け、ホームストレッチへと突入してくる。

 スタンド前をウマ娘たちが二度駆け抜けるこの長期戦で、一度目の今はまだ歓声を飲み込んでいる観衆も多い。

 けれど彼らの胸中にある隠しきれない興奮はざわめきとなって現れて、スタンドの隅々にまで満ちている。

 近づいてくるウマ娘たちの気迫に呼応するように、京都レース場の熱気はすでに大きく膨れ上がっていた。

 

 その熱気が薄まることなく昇ってくる、スタンド上層にあるテラス席。

 眼下のターフで進んでいく戦いをこの場所で見守っているのは、チームリギルのウマ娘たちだ。

 

「すごい……! ダイヤちゃん、龍脈*1の力と一体になって走ってる……! 土(ど)と金(ごん)の氣の流れが相生(そうじょう)して整いきってるし、こんなに運気が上がる走りは滅多に見れないかも…………っ!!」

 

「…… 確かに見事なものではあるが、あれを見て真っ先に『運気が上がる』と反応するのはお前くらいのものだろう。あの走りはもう長く続かないだろうが、他の者たちにとって本当に問題なのはその後だ」

 

 前方から身を乗り出さんばかりの勢いでターフへと視線を注ぐコパノリッキーの言葉に、やや遅れてエアグルーヴが反応を返す。

 かつて「学園のカリキュラムに風水を」という直談判を即時却下したエアグルーヴのスタンスは、コパノリッキーが勝ち星を積み重ねて『勝利を呼ぶ縁起者』の二つ名で呼ばれるようになった今でも基本的に変わらない。

 しかしその一方で、コパノリッキーの実力と夢に懸ける真剣な思いをエアグルーヴは軽んじておらず、何だかんだで面倒を見るうちにこの二人で一緒にいる時間も増えていた。

 

「そうだろうね。あれだけのプレッシャーを受けて冷静に走り続けるのは大変だし、最後まで試練のレースになると思う。それでも、みんな自分のペースを保てている。───あの子たちは本当に、強い心を持っているよ」

 

 そして、エアグルーヴによるレース展開の見通しに同意を示したのはフジキセキだ。

 チームリギルの一員であると同時に栗東寮の寮長も長く務める彼女は、強く成長してG1の舞台で戦うウマ娘たちを穏やかに見つめている。

 その横顔こそ静かなものでありながら、胸の内では彼女もまた、この一戦に対して熱い思いを抱いていた。

 

(あの時、私がゲイザーに言ったんだったね。『君だけの走りが完成するその時を、私も楽しみにしている』と)

 

 フジキセキの脳裏に蘇るのは、パワーブースター習得の手助けをした共同トレーニングの際、バニシングゲイザーへと送った一言だ。

 練習を通じて授けることができる技術は完成形ではなく、あくまで一片のヒントに過ぎない。

 だからフジキセキは、それをバニシングゲイザーが彼女だけの走りへ昇華させられるよう願っていた。

 そして彼女は修練の末に自分の走りを作り上げ、世代を代表するウマ娘になってみせた───

 

(ゲイザーの切り札には、私が期待していた通り誰もが驚かされた。そして今、彼女はもう一度みんなを驚かせようとしている。まったく、度肝を抜くのが本当に上手い子だ)

 

 ───けれどバニシングゲイザーはこの菊花賞で、新たな領域へ踏み込もうとしている。

 フジキセキは知っているその事実が、どうしようもなく胸を熱くさせる。

 バニシングゲイザーだけの走りといえるものが、本当の意味で完成へと辿り着く瞬間。

 それは、まさに今なのかもしれないと。

 

(だから私も楽しみにしているよ、ゲイザー。君の走りが切り拓く、新しい景色を)

 

 フジキセキはそっと目を細め、その瞬間を見届けられる喜びを噛みしめるように微笑む。

 ターフを駆ける後輩の姿を、誇らしい思いとともに見守りながら。

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

『正面スタンド前を18人のウマ娘が通過していきます! ここまでやや速いペースでの展開、さあ後半戦に向けてどうテンポを調整していくか! 先頭は変わらずクレセントエース、続いてリバイバルリリックの二人が隊列を引っ張っていく! その1バ身後ろに構えるのはアライブカリン! そしてサトノダイヤモンドは4番手、依然として前方の内側をキープしています!』

 

 一度目のホームストレッチへと隊列が流れ込み、中盤戦に差し掛かった菊花賞。

 切り札と思われていたカードをいきなり切ったサトノダイヤモンドが放つ膨大なプレッシャーは、間違いなく他のウマ娘たちに衝撃を与えていた。

 動揺に呑まれ、早々に掛かってしまう者が出たとしても不思議ではない状況だ。

 

 それでも彼女たちは動揺を噛み砕き、自らが定めた戦略の道筋を決して見失わない。

 この舞台へ辿り着くまでにそれぞれが積み重ねてきたものが、プレッシャーに屈することなく彼女たちを支え続けている。

 レースの流れと勝利への希望を壊さない、菊花賞を戦う戦士たちの心の強さ。

 それが、隊列全体のペースを「やや速い」程度に踏みとどまらせる結果となって現れていた。

 

 そしてサトノダイヤモンドの背に広がっていた幻想の翼が、ついにその役割を終える。

 金剛石は無数の粒へと変わり、ほどけるように霧散していった。

 同時に、周囲を支配していた荒れ狂うようなプレッシャーも消失する。

 それを目にした他のウマ娘たちは、胸の内で一度は安堵しかけたかもしれない。

 

 だが彼女たちはすぐに悟る。

 本当に恐ろしいのは、ここからなのだと。

 

 幻想の翼が消え去ってなお、サトノダイヤモンドの走りが見せる、宝石のような強靭さは少しも失われていない。

 脚運びにも、息遣いにも、そして表情にも。

 先行バとして理想に近い位置を守り続けながら、彼女はそのどれにも一点の曇りすら宿していなかった。

 まるでここまでの展開が、彼女にとっては長い助走に過ぎなかったとでも告げるかのように。

 

 いつしか新たに場を支配していたのは、先ほどまでとは全く質が異なる、静かなプレッシャー。

 サトノダイヤモンドの安定感は戦いの中で磨き抜かれ、むしろ輝きを増しているようにさえ映る。

 だからウマ娘たちは、まだコース一周近くという長い距離を残したこの地点から、最後までこの強さと真っ向から渡り合わねばならないのだ。

 

『───中団の後方ではホットダイナマイトとアレイキャットが横に並ぶ形! そして皐月賞ウマ娘、バニシングゲイザーは後ろから3番手でじっくりと脚を溜める構えです! ここから第1コーナーに差し掛かり、各ウマ娘にとっては決して気の休まらない展開が続きます!』

 

 そして前方からは距離をおいた、後方の3番手。

 この位置でバニシングゲイザーは、先行勢が牽引することで形作られていく戦いの流れを冷静に見据えていた。

 やがて仕掛けるその瞬間のために、ターフの上に滲み出る揺らぎと自らが辿るべき軌道を、今はただ測り続けている。

 

(───サトノダイヤモンド先輩は、これまでとは戦い方を変えてきた。けれど自分の形を捨てたんじゃなくて、原点にある強さに立ち返っているんだ)

 

 サトノダイヤモンドに意表を突かれた形にはなったが、バニシングゲイザーの胸中に芽生えたのは、焦りではなく納得だった。

 大胆でこそあれど衝動的な気配はなく、むしろ計算し尽くされたものであることが伺える、サトノダイヤモンドが打ってきた一手。

 高い総合力を武器に先行で戦うその走りは、バニシングゲイザーがライバルたちを研究する中で映像を目にした、サトノダイヤモンドのメイクデビューを彷彿とさせるものだった。

 彼女から放たれる静かなプレッシャーの正体はきっと、彼女が遥か以前からその身に備えていた、揺るぎない地力そのものなのだろう。

 

(原点に向き合おうとしているのは、私も同じだ。ここまで戦ってきた今こそ、私は過去と向かい合う)

 

 バニシングゲイザーがこのレースで振り返ろうとしている、自らの原点は二つある。

 そのひとつは、彼女の走りを支える装身具(セッティング)だ。

 

 これまでの三冠レースでバニシングゲイザーは、クラシック級から実用可能になった高出力な新たなリボンを、ブレスレットで制御する装身具(セッティング)を取ってきた。

 しかしこれには体力の消耗が激しいという欠点があり、菊花賞のような長距離戦では別の方法を探る必要がある。

 そして試行錯誤を重ねた末にこのレースで選んだ装身具(セッティング)は、彼女にとって原点にあるリボンを中核に据えたものだった。

 

 右手首で二重巻きにしている水色と黄色のブレスレットは、高いスピード域への伸びに優れている、超速度重視の組み合わせ。

 一度勢いに乗ればその速度を無駄なく引き上げることができるため、出だしのパワーさえ確保できていれば最高のトップスピードを実現することが可能になる。

 

 そして髪に結ばれているのはチームリギル選抜の時と同じ、オレンジ色のリボン。

 日本へと渡るずっと前に友人から贈られたそれは、幼い子どもの小遣いでも買える素朴な品に過ぎない。

 だから作りが頑丈とはいえず、長く使い続けてきた今では布地や結び目に疲れが見えてきていた。

 それでもこのリボンがバニシングゲイザーにもたらす力強さは、少しも衰えてはいない。

 コーナーや上り坂で発揮される高いパワーと、終盤の競り合いでトップスピードへ至るまでの鋭い瞬発力。

 そうした持ち味は、装身具(セッティング)の選択肢が増えた今もなお色褪せない。

 このレースで求められる強みを持つ、すべての始まりといえるこのリボンこそが、菊花賞で選び取るに最もふさわしいものだったのである。

 

(───そして私は、これまでの思いを全部、未来に繋げたい。あの日に抱いた寂しさも、届かなかった夢も)

 

 バニシングゲイザーにとっての、もうひとつの原点。

 そこにあるのは宇宙船から切り離された燃料タンクと、一抹の寂しさだ。

 かつて小学校(エレメンタリースクール)のモニターで目にした、燃え尽きる運命にあるオレンジ色の残像。

 バニシングゲイザーはそれに、いつしか自らの走りの本質を重ねてきていた。

 

 けれど今は、消失の先にこそ続いていく未来があると信じている。

 永遠に消え去ったのは、ダービーウマ娘になるという夢もまた同じだ。

 そしてその悔しさの先にこそ、過去の限界から抜きん出ることができる強さがあるのだろう。

 それを掴み取るためにも、絶対にこのレースで勝ちたい。

 

 ───か弱き少女が『皇帝』と出会った日、胸の奥に抱いた最初の願い。

 それは胸を張って前を向ける自分になりたいという、小さくて切実な祈りだった。

 その原初の願いは今も、勝負服に縫い付けられた狼のエンブレムと共に、確かにここにある。

 

 だから夢が砕かれようとも、進むことを止めるわけにはいかない。

 傷を刻まれてなお牙を剥いて戦う気高き狼のように、未来を切り拓くために。

 

(さあ、行くぞ。この脚で私は、必ず勝ってみせる───!)

 

 スタンドのざわめきが背後へと遠ざかっていく、ホームストレッチの終わり際。

 内へと進路を取るその足取りはあくまで緩やかで、けれど胸の奥にはひりつくような熱を宿しながら。

 バニシングゲイザーは第1コーナーへと、吸い込まれるように踏み込んでいった。

 

 

 ☆ ◇ ☆ ◇

 

 

『レースは折り返し地点へと差し掛かり、18人が隊列を崩すことなく第1コーナーから第2コーナーへと向かっていきます。まだまだ我慢比べの様相が続く張り詰めた流れの中、ウマ娘たちはじっと機を伺っています!』

 

 幅員が広い京都レース場のコーナーに沿って、なだらかな弧を描きながら突き進んでいく隊列。

 先行勢は無理に飛ばすことなく淡々とペースを整えており、中団以降のウマ娘たちもここでは目立った動きをしない。

 まだ長い距離を残している現状、このコーナーで外へ振られてしまうと、そのロスが後になって確実に響くことを誰もが熟知しているからだ。

 

 それでも細かな位置取り争いは絶えず続いており、水面下では静かな削り合いが繰り広げられている。

 理想的な軌道を確保するため内へと収まりたい者、終盤の争いを見越して前との距離を少しでも詰めたい者、あるいは無理なく脚を溜められる位置を堅守する者───

 それぞれの思惑の差と、意地の張り合い。

 それがパズルのように組み合わさり、やがて訪れる終盤の景色を少しずつ作り上げていく。

 

『第2コーナーを抜けて縦一列となり、戦いの舞台は向こう正面へと移りました! 平均よりやや速いペースが保たれる中、まだ大きく仕掛けるウマ娘はいません。しかし中団がその差を詰め始めており、緊張感も確実に高まってきています! 果たしてどのタイミングで一気にレースが動くのか!』

 

 外ラチの先に青々とした並木と澄んだ空が広がる、向こう正面の長いストレート。

 そこへと入ってもなお、ここまで整えられてきた戦いの流れに狂いは生じていない。

 しかし隊列はじりじりと縮まってきており、いよいよ均衡が崩れる予兆を見せ始める。

 

 ここで少しでも息を入れておきたい先行勢と、その隙を見逃さずに圧をかけていく中団以降の者たちのせめぎ合い。

 息苦しさをより色濃くしているのは、先行の一角に収まりながらもむしろ重圧を与える側に回っているサトノダイヤモンドと、追い込みの位置から強烈な威圧感を放ち続けるバニシングゲイザーの存在だ。

 彼女たちに挟み込まれる形になった構図から生み出されるプレッシャーが、ウマ娘たちの脚と気力を蝕もうとするように迫ってくる。

 

 それでも誰もが視線を落とさず、勝利へと続く軌道を睨み続けている。

 前にいる強者がそれを阻むのなら、その背を越していけばいい。

 後ろから脅威が迫るのなら、そんなものは置き去りにしてしまえばいい。

 彼女たちの強靱な走りがプレッシャーを押し返し、それがこのレースで二強と目される者たちにも、刃のような切れ味で襲いかかっていた。

 

 隊列全体でまるで一体となるように集った、彼女たちの鮮烈な気迫。

 それは遠く離れたスタンドにまでありありと伝わり、興奮のただ中にいる観衆たちも思わず息を呑む。

 この勝負が決定的な局面に移ろうとしていることを、誰もが視界だけでなく肌を刺すような空気からも感じ取っていた。

 

 そしてレースは文字通りの山場となる第3コーナー手前から、二度目の坂越えへと差しかかっていく。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

『さあコースを一周して再びの第3コーナー、その手前から淀の坂へと差しかかっていきます! 先頭は依然としてクレセントエース! 2番手にリバイバルリリック、続いてアライブカリン! 4番手のサトノダイヤモンドは内からのレースを続けています! 5番手にエーネアス、外から機を伺うのはナルキッソス───』

 

 第3コーナーで待ち受ける京都レース場の象徴、外回りでは高低差が4.3メートルにもおよぶ急坂───通称「淀の坂」。

 他がほぼ平坦なコースの中でこの箇所だけが盛り上がっている、まるで怪物が身を伏せて待ち構えているかのような構造は、まさしく試練というにふさわしいものだ。

 

 この急坂の恐ろしいところは、その高低差や勾配だけではない。

 それは坂を上り切った後もなお、ゴールまで八百メートル近い距離が残されているという事実である。

 ここで重圧に押されて自身のペースをひとたび乱そうものなら、一気に削られたスタミナを補うことは極めて難しい。

 それに加えて特に近年では、坂の頂上から第4コーナーにかけての下り勾配を活かしたロングスパートが正攻法となっている。

 既に長い距離を走ってきている者たちにとって、その競り合いが苛烈でないはずがない。

 坂そのものが怪物なのではなく、ウマ娘たちの走りがこの坂を怪物へと変えるのだ。

 

 この怪物を従えるように乗りこなすのか、あるいは撫で切るように打倒するのか───

 すなわち、眼前のライバルたちにここでどう応戦するのかが、確実に運命の分岐点となる。

 

『───先行勢を追い落とそうとばかりに、中団勢もここで間合いを詰めてきました! ビアンコグリモアが綻びを狙うように中ほどからプレッシャーをかける! その流れに合わせてきた12番手ステンツ、さらにオーバードレイン! 続くヴァイスグリモアとアレイキャットは外目へ進出する構えか! そしてバニシングゲイザーは16番手、脚を溜めながら射程を見定めています!』

 

 坂を駆け上がっていく中で、より密度を増していく隊列。

 スパートへと向けた位置取り争いが、第3コーナーに差しかかってさらに本格的になる。

 幅員の広い良バ場のターフで、選ぶことができる進路は多い。

 それゆえに選択を誤る可能性もあるが、この勝負所では一瞬の迷いさえも命取りだ。

 

 周囲が詰まって抜け出せなくなる危険を承知で、内で我慢し続けることを選んだ者も。

 それとは対照的に距離のロスを覚悟して、活路を作りやすい外を見定めた者も。

 ウマ娘たちはレースプランと直感、何より己の強さを信じて、選んだ道を突き進んでいく。

 

 そしてコーナー途中にある坂の頂上、残り800メートルの標識を超えて、下り坂へと移ったその瞬間。

 隊列の前方で、待ち構えていたと言わんばかりに仕掛けに出る者がいた。

 

『───ここで外からサトノダイヤモンド! サトノダイヤモンドが動いてきた! ダービーウマ娘が勝負に出たぞ!!』

 

 サトノダイヤモンドが、ここまで崩さずに守り続けてきた4番手の位置から加速し始める。

 前にいるのは三人のみで、進出するために外に大きく膨らむ必要はない。

 そのため無駄を削ぎ落とした鋭いラインを選び、滑り下りるように坂を駆けていく。

 

(このレースの主導権は、誰にも渡さない。ここから先は、私の距離だ!)

 

 このコースで戦う難しい点のひとつに、下り坂で勢いを乗せすぎると最後の第4コーナーで外へと振られやすくなるところが挙げられる。

 しかし、菊花賞を見据えて右回りのコーナリングをさらに磨き上げてきた今のサトノダイヤモンドにとって、それはもはや大きな障害ではなかった。

 たとえ厳しい角度のコーナーであろうと、彼女はまるで輪舞曲のステップを踏むように、優美に弧を描くことができる。

 だからこそ彼女はこの下り坂、他の者たちも始めているロングスパートの速度を超え、一気に前を狙うことができていた。

 

 ウマ娘たちに突きつけられた、ここでサトノダイヤモンドに食らいつくか否かの二択。

 ダービーの時と決定的に違うのはコース構造と、彼女が差しではなく先行の位置にいることだ。

 それだけに彼女の背にぴったりと着いていくのは容易ではなく、多くの者が歯を食いしばって衝動を抑え、最終直線に望みを託すことを選択した。

 ここまでの戦いで確実に体力が削られているうえに、ゴールまではまだ長い距離を残している。

 この局面でスパートの出力を抑える判断は、彼女たちにとって勝利へ辿り着くために必要なことであり、勇気ある最善手だった。

 

 けれどサトノダイヤモンドにはもう、はっきりと見えている。

 この勢いのまま最後のコーナーで先頭へ躍り出て、その位置を誰にも譲らずにゴールを駆け抜ける、「最も強いウマ娘」への道筋が。

 

 この先に訪れる菊花賞の最終直線は404メートルで、ダービーほどではないものの十分な長さがある直線といえる。

 とはいえ他のレースよりもスパートのタイニングが早いこの展開では、最後のコーナーを回った時点で好位につけている者が大幅に有利だ。

 そして今のサトノダイヤモンドには、ひとたび先頭に出ればそれを守り切れるだけの力が残されている。

 たとえバニシングゲイザーのように強烈な末脚を持つウマ娘であっても、後方からの直線一気でサトノダイヤモンドの背を呑み込むのは不可能に近い。

 それを見越したうえでサトノダイヤモンドは先行策を選び、ここで勝負に出た。

 今までの位置取りも、この瞬間に掴んだ手応えも、そのすべてがレース前に思い描いた青写真の中にあったのだ。

 

(みんなの強さも、そしてこれまでの自分も超えてみせる。このレースで勝って、私こそが誰よりも強いんだって、胸を張って叫んでみせる───!)

 

 終盤のレース展開を支配するだけでなく、勝利そのものをたぐり寄せるかのような、微塵の迷いもない走り。

 このまま勝ち切ってみせるという確信と覚悟の宿った気迫が、サトノダイヤモンドを前へ前へと押し出している。

 辿るべき勝利への道筋は、かつて彼女が公園で目にした輝く水流のように、はっきりと映し出されていた。

 

 だから、あとは目の前の道を踏み外さないように駆け抜けるだけだ───と。

 サトノダイヤモンドが強い思いを抱きながら次の一歩を踏み出した、その瞬間。

 

 

 

 まるで、世界が一瞬で裏返ったかのように。

 目の前の光景が音もなく、成層圏さえも越えた天空の彼方へと移り変わった。

 

 

 

(──────っ!)

 

 ほんの僅かに過ぎないはずの時間が、極限にまで引き伸ばされたスローモーションの世界。

 サトノダイヤモンドは反射的に後方へ視線を向け、この世界を塗り替えた者の正体を探し出す。

 そして、彼女はすべてを理解した。

 誰よりもはっきりとした輪郭をもって駆けているのが、バニシングゲイザーであることを。

 

 この幻想に呑み込まれたウマ娘たちの脳裏によぎるのは、バニシングゲイザーの爆発的な末脚。

 それはこの菊花賞でも間違いなく、最大級の警戒対象として意識されていた。

 だからこそ、彼女たちは驚愕する───あまりにも早(・)す(・)ぎ(・)る(・)と。

 今はまだ最終直線には程遠く、ゴールまで700メートル近くを残している。

 こんな場所から、あの走りが最後まで持つはずがないのだから。

 

(そうか───あの子も、私と同じだったんだ)

 

 けれど、サトノダイヤモンドはすぐに確信する。

 彼女が皐月賞で誰よりも近くで見て、ダービーで誰よりも真正面から立ち向かった、バニシングゲイザーが作り出す幻想の世界。

 そして今、目の前に広がったその景色が、これまでとは違っていることの意味を。

 

 一面に広がる色は、高みへ行くほど濃さを増し、果ての見えぬ黒へと近づいていく深い青。

 その中では光の粒子を織り込んだ薄いヴェールのような雲が、神秘的な輝きを放ちながら静かにたなびいている。

 そして地上へ届くことなく燃え尽きた流星が、かすかな残光を散らしていく。

 この世界の正体は、空と宇宙の境界に存在する大気層───「中間圏」と呼ばれる場所だ。

 

 そんな世界を貫くように迫ってくるバニシングゲイザーは間違いなく、中間圏の先にある領域に至ろうとしているのだろう。

 ロケットのブースターが役割を終えて切り離された後に拓ける、さらなる高みへと。

 その走りはこれまでの、何かの終わりを想起させるような末脚とは明らかに違っている。

 

 サトノダイヤモンドがこのレースで、勝利への執念からそれを選んだように。

 バニシングゲイザーも、積み重ねた苦闘の末に手にしたのであろう走りを、大きく変えてきたのだ。

 

 サトノダイヤモンドの全身を巡る、首筋へ鋭い牙を突き立てられたかのような緊張感。

 勝利への道筋ごと食い破られかねない危機が迫っていることを、本能が訴えてくる。

 けれど心に宿ったのは怯えではなく、ぞくりとするほどの高揚だった。

 まるでこの瞬間を待ち望んでいたかのような歓びとともに、サトノダイヤモンドが次の一歩を踏み出す。

 

 その、力強い一歩が。

 バニシングゲイザーの作り出した幻想を、踏み破った。

 

 

(───いいでしょう、バニシングゲイザーさん。どうか、あなたの何もかもをぶつけてきてほしい。全部受け止めたうえで、私はあなたに勝ってみせるから!!)

 

 

 引き裂かれた幻想の向こうから、第4コーナーと最後の直線が迫ってくる。

 長い旅路の中でぶつかり合ってきたそれぞれの思いが、来るべきひとつの結果へと収束していく。

 クラシック最後の一冠が、いよいよ決着の時を迎えようとしていた。

 

*1:
大地の中に流れている、気の通り道のこと。地をうねる龍の姿になぞらえて名付けられた。




>水色と黄色のブレスレット
 水色のカウンターギヤと黄色のスパーギヤを組み合わせた、3.5:1の超速ギヤ。
 特にトップスピードを重視したギヤ比で、モーターの回転数を最もダイレクトに速度へと変換する。
 競技レースでは、加速力に優れたモーターと組み合わせてバランスを取るセッティングが多い。
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