『第3コーナーと第4コーナーの中間点、火がついたようにウマ娘たちが加速してきました! 外から並ぶように押し上げていくのはステンツとオーバードレイン! シンガリからヴァイスグリモアも競り合いに名乗りを上げた! そして大外から順位を上げていくのはバニシングゲイザーだ! 皐月賞ウマ娘が、凄まじい脚で一気に進出していきます!』
クラシック最後の栄冠を巡る、淀の坂での熾烈な競り合い。
ターフを駆けるウマ娘たちの気迫と京都レース場の熱気が重なって、幾重にもなった興奮が大きく渦巻いている。
スタンドで歓声を増していく観衆たちも、響き渡る場内実況も、そして青空の下に満ちる澄んだ空気までも。
この広大な舞台を形作るあらゆるものが、いよいよ訪れる決着の瞬間を迎え入れようとしていた。
「───まるで、あのレースと同じね」
地下バ道からすぐに向かうことができる、スタンドの低層階。
そこで第4コーナーへと差しかかっていくレースを静かに見つめていた東条が、誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
右回りのコーナーで、後方の大外から一気に順位を押し上げていくバニシングゲイザー。
その走りが東条に思い出させるのは、もう一年半ほども前になるリギルの選抜テスト決勝だ。
大きく揺れるオレンジ色のリボン、ロケットを思わせる爆発力、そしてスポーツカーのように鮮やかなコーナリング。
契約を結んだあの日から存在していた、追い込みバとしてのバニシングゲイザーの強み。
それがさらに鍛え上げられて、今の彼女を支えている。
菊花賞で東条とバニシングゲイザーが選び取った戦術は、パワーブースターではなく王道のロングスパート。
長い時間をかけて完成させた最強の切り札をこの大一番で使わないという判断は、決して簡単なものではない。
それでも今日の戦いで勝つために多くの選択肢を検討し続け、この選択が最善であるという答えに二人で辿り着いた。
ウマ娘が最も得意とする脚質で、そのレースにふさわしい王道の戦術を選ぶという結論。
それは、かつて東条がバニシングゲイザーの指導方針で悩んだあの日、確実かつ合理的なものとして思い描いていた選択肢と同じだ。
このレースで原点に回帰したのはバニシングゲイザーだけでなく、合理主義者としての東条もまた同じだったのだ。
───あのダービーの日、バニシングゲイザーを勝たせられなかった結果を前にした瞬間に、東条の脳裏をかすめた疑念がある。
原点に戻ってきた今こそ、改めてそれを問う。
始めから、無難な道を選んでおくべきだったのかと。
ここへ至るまでの試行錯誤は、無駄だったのだろうかと。
(論外ね。あの子が持つ可能性に向き合ってきたからこそ、私たちは強くなることができたのだから)
そう、無駄ではなかった。
浮かび上がったその疑念を、東条が迷いなく退ける。
バニシングゲイザーの個性に向き合ってみせるという、東条の決意。
それを形にするために東条は無難な選択に逃げず、未知の可能性に踏み込む道を選んだ。
たくさんのことを二人で試し、本当にこれで良いのかと迷い、遠回りのように思える時間も決して少なくはなかった。
それでも、二人三脚でずっと戦い続けてきた今だからこそ確信できる。
バニシングゲイザーは自らが持つ可能性へ挑んできたからこそ、ここまで進化し続けることができたのだと。
もし生まれ持った特性から目を背ける指示を東条がしていたのなら、バニシングゲイザーというウマ娘は今ほどの強さには辿り着けなかっただろう。
また、進化してきたのは彼女だけではない。
東条もトレーナーとして、ウマ娘の本質をより深く見抜くための視点と、王道からあえて外れることを恐れぬ胆力を手にしていた。
そしてその二つを得たからこそ、より広がった選択肢の中にある王道をも、さらに強いものへと昇華できたのである。
東条はこの先の生涯、これほど特異な個性を持ったウマ娘に出会うことはないかもしれない。
まだ見ぬ未来の担当ウマ娘たちの指導ではきっと、さらに洗練された王道を選び取っていくのだろう。
バニシングゲイザーという教え子を通じて手にした新たな力が、決して褪せない光となって。
だから今。
東条が抱く思いは、バニシングゲイザーに巡り合うことができた運命への感謝。
そしてその愛バが眼前の戦いで、誰よりも強いことを証明することを信じる願いだった。
「───さあ、行きなさい! ゲイザーっ!!」
東条の叫びに込められた願いがきっと、いや間違いなく、大歓声の奔流に呑まれてもなお届いたのだろう。
勢いをさらに増したバニシングゲイザーが、最後のコーナーへと力強く切り込んでいった。
☆ ☆ ☆
前を塞がれない進路を確保できる代償として、距離のロスが避けられない大外での戦い。
それを躊躇なく選んだバニシングゲイザーは、かなりの不利を背負ったようにも見える。
しかし、このルートを進んだウマ娘が勝ち切るレースは決して珍しくない。
距離の差をねじ伏せられる脚力を持つ強者にとって、大外とは己の力を純粋に解き放つことができる道に他ならないからだ。
そしてバニシングゲイザーは、自らが強者であるという自負をずっと持ち続けている。
───自分こそが強者であると自覚することを、決してためらうな。
メイクデビューで東条から掛けられたその激励は、今もなお胸の奥で息づいていた。
『さあ第4コーナーの中腹、ここでサトノダイヤモンドが先頭に並んだ! 懸命に踏ん張る逃げウマ娘たちを捉え、直線を前にしてトップへ躍り出ようとしています! しかし、それに待ったをかけるように大外からバニシングゲイザーが猛然と迫ってくる! 勢いを全く鈍らせない、凄まじいコーナーワークだ!!』
勝負服にあしらわれたエアブレーキの装飾が、現実に作動しているかのように。
コーナーの外へ引き剥がそうとしてくる遠心力を制圧し、攻撃的なコーナリングでバニシングゲイザーが突き進む。
優美な曲線を描くサトノダイヤモンドとは対照的な、獰猛さを剥き出しにした走りが。
密度を増した隊列で前を行くウマ娘たちを、一人、また一人と抜き去っていく。
同じタイミングで脚を使ってきた追い込みバとの距離を、引き離していくスピードで。
勝負どころを見極めてバ群から抜け出そうとした差しウマを、視界の後方に押し流し。
ハイペースなレース展開に食らいつく先行バの粘りを、次々と乗り越えて。
そして、この局面まで内でこらえ続ける逃げウマを完全な射程圏内に捉えた。
(───身体が軽い。大詰めなのに、まだまだ脚を動かせる。私はこんなにも、遠くまで行ける……!)
まるで、中間圏の先にある
バニシングゲイザーが過去の終着点を通過点へと変えて、さらに高く、そして遠くにある領域まで至ろうとしている。
越えていった終着点とは、これまで辿り着けなかった競走ウマ娘としての限界と、かつて区切りとして見据えていた日本ダービーの夢。
白い勝負服に連なる五つの星が描き出すラインは、オーロラと共に輝く流星の軌跡のよう。
その中でバニシングゲイザーの記憶に蘇ったのは、一人のウマ娘としてここまで歩んできた、長い道を形作ったものたちだ。
消えゆく運命を前に抱いた寂しさも。
内にある問題と向き合えなかった臆病さも。
背中を押されて一歩を踏み出した勇気も。
進み出した道で積み重ねてきた勝ち星も。
夢の舞台で打ち砕かれた夢も。
そして限界を越えて勝利したいと願う、この戦いに懸ける思いも。
そのすべてを脚に宿し、新たな領域へと突き進むこの走りこそ。
バニシングゲイザーがこのレースで示した、ひとつの答えだった。
最後のコーナーがもうすぐ終わる。
この位置からはもう、サトノダイヤモンドの姿をはっきりと視界に収めることができる。
それを意識してさらに高まっていく、
ホームストレッチを目前にした今、その熱を抑え込む理由はどこにもない。
(サトノダイヤモンド先輩───)
それはこのクラシック三冠で、誰よりも真正面から競い合ってきたウマ娘の名前。
ダービーで届かなかった、永遠の輝きを象徴する彼女の強さ。
そして、もう一度越えたいとバニシングゲイザーが心から願った───最高のライバル。
「勝つのは…………私だあああああああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
極限の境地で宿敵へと飛びかかる狼のような、気迫を漲らせた咆哮と共に。
サトノダイヤモンドを越え、勝利を掴み取るための一歩を踏み出そうとする。
バニシングゲイザーの一歩に、呼応しようとしたのだろうか。
髪に着けたオレンジ色のリボンが、これまでよりもさらに激しく揺れて。
次の瞬間───
───大外のさらに外側にある、誰もいない空間へと。
力尽きたかのように結び目が解けたリボンが、舞い上がった。
☆ ☆ ☆
視界の端に映る、オレンジ色の残像。
それはかつて目にした、宇宙船から切り離された燃料タンクの姿に似ていた。
同時にこの瞬間、バニシングゲイザーには分かってしまう。
限界まで回り続けた末に焼き切れたモーターのように、このリボンはもう、全ての力を使い果たしたのだと。
たとえもう一度着け直したとしても、これまでのように力をもたらすことはないだろう。
だから、これから続いていく旅路の妨げにならないよう、外れていったのだと。
かつて、バニシングゲイザーが自らの特性に気づくきっかけを作ったもの。
数ある選択肢の中で最も長く使い続けた、本当に一番のお気に入りだったリボン。
それがこの瞬間、ついにレースでの役割を終えた。
バニシングゲイザーは今、ひとつの消失を観測したのだ。
(───ありがとう)
けれど、バニシングゲイザーは振り返らない。
胸の内に生まれた感情は、あの日のような寂しさじゃない。
このリボンはきっと、今という瞬間を迎えるために存在していたのだから。
(大丈夫だよ。私はもう、ちゃんと走っていけるから───!!)
このリボンが導いてくれた場所の、その先にある世界を。
消失の向こう側に続いていく未来を、自分自身の力でしっかりと走っていくことができる。
その確信があるからこそ、バニシングゲイザーは前だけを見据えている。
凄まじい勢いで先頭を脅かし、サトノダイヤモンドの隣へ並び立とうとするバニシングゲイザー。
その気配を受け、サトノダイヤモンドもさらに脚の回転を上げていく。
出し惜しみの余地など一切ない、壮絶な消耗戦へと突入した菊花賞の最終局面。
逃げ切りを狙った者たちはついに呑み込まれ、差し切りを狙う者たちの脚もサトノダイヤモンドの背には届かない。
この局面でサトノダイヤモンドの強さに届き得るのは、バニシングゲイザーしかいなかった。
もはや、隠された切り札など残ってはいない。
天高くにまで届くロケットのブースターも、美しく煌めいて永遠を紡ぐ金剛石の翼も。
このターフにはもう、現れることはない。
ここから先にあるのは、原初的とさえいえるスピードと強さの競い合い。
黄金に彩られた、栄光のチェッカーに向けて。
彼女たちの一騎打ちが始まった。
☆ ◇ ☆ ◇
『さあ第4コーナーを抜けて、いよいよ最後の直線! 先頭に立ったのはサトノダイヤモンド! そして一気に上がってきたぞバニシングゲイザー! クレセントエース、リバイバルリリックは一杯か! オーバードレインとアレイキャットも最後の力を振り絞って差し切りを狙う! しかし、ここで二強が抜け出した! 皐月賞ウマ娘とダービーウマ娘が行った行った! クラシック最後の一冠を懸けた真っ向勝負となるのか!!』
コーナーを抜けた先でほぼ平坦に広がる、404メートルのホームストレッチ。
まるで花開くように弾けた大歓声がスタンドから降り注ぎ、ウマ娘たちの背中を押していく。
レースを見守る者たちが抱くそれぞれの願いが、この最後の直線で陽光よりも眩しいほどに煌めいていた。
「はあああああああああああああああああアアアアァァァァァッ!!!」
「やあああああああああああああああああああああぁぁぁっっ!!!」
熱狂の渦を突き破るように重なり合って響き渡る、二つの咆哮。
ターフの上に輝く彼女たちの軌跡が、同じゴールへと向かって伸び続けている。
サトノダイヤモンドは、最も強いウマ娘になるために。
バニシングゲイザーは、叶わなかった夢の先へ進むために。
そして二人とも、隣で駆けるライバルに勝つために。
『半バ身前を行くのはサトノダイヤモンド! しかしバニシングゲイザーの脚色も全くの互角! 二人とも凄まじい伸びを見せている! 彼女たちの限界はどこにあるというのか!!』
磨き上げられた宝石のように揺るぎない、安定感に満ちたサトノダイヤモンドの走りと。
牙を剥いた狼のように獰猛で、宿敵に食らいつこうとするバニシングゲイザーの走り。
異なった二つの走りが織りなすデッドヒートが、この瞬間にしか生まれない光景を描き出していく。
二人とも全身は焼けるように熱く、呼吸は荒く乱れている。
レース場を揺らす大歓声も、身体の奥からせり上がる苦しささえも遠いものに感じられる、極限の境地。
それでも段々と迫ってくるゴールと、同じ熱をもって駆けている相手の存在だけは、絶対に見失わない。
サトノダイヤモンドがさらに前へ出ようとして、バニシングゲイザーが即座に肉薄する。
バニシングゲイザーが一歩分の勢いを増して、サトノダイヤモンドも一層スピードを上げることでそれに応える。
沸き立つスタンドも、白いラチも、風のように後ろへと流れていく。
輝きを照り返すこのターフの上で、ライバルとの戦いを制そうとする互いの走りが、むしろ互いを強くする。
『残り200メートルを切った! ここでサトノダイヤモンドにバニシングゲイザーが並んだ、ついに完全に肩を並べました! どちらも引かない、どちらも譲らない! 両者の意地がぶつかり合う戦いの行方は、最後の最後まで分からない!!』
そして互いに速度を増していく中で、半バ身あった差がとうとう消える。
ぴったりと横に並んだ二人が、同じ歩幅とスピードで駆けていく。
その脚音と息遣いが同調し、互いの闘志までもが共鳴しているかのようだった。
「───ははっ」
「───ふふっ」
不意に、二人の口元に笑みが浮かぶ。
限界さえも超えた真剣勝負の舞台で、苦しさに顔を歪めるのではなく、確かに笑っている。
気が抜けたからでも、勝利への執念が薄れたからでもない。
時に「走るために生まれてきた」と言われることがある、ウマ娘という存在。
それは初めから運命づけられていたのではなく、彼女たちは自らの意志で走ることを選び、そう呼ばれるにふさわしい存在になってみせた。
進むべき道を自分自身で選び取ってきたのは、サトノダイヤモンドとバニシングゲイザーもまた同じ。
そうして辿り着いたこの舞台で、全てを出し尽くして戦える今という瞬間に、燃えたぎる思いが抑えられないのだ。
絶対に勝ちたいという思いと、この相手と戦えてよかったという思い。
相反するような二つの感情が混ざり合って、ひとつの熱へと変わる。
余力など残されていない最後の局面で、強さを認め合ったライバル同士だからこそ、笑みという形になって表れた闘争心。
戦いの終わりに向かって踏み出す一歩一歩が、この戦いがいつまでも続けばいいとさえ思える高揚感を生み出していく。
───この先も続いていく、人生という長い旅の中で。
今日という日が、少しずつ遠ざかっていったとしても。
彼女たちが駆け抜けたこの景色は記憶の中で、いつまでも咲き誇り続けていくのだろう。
それが次の一歩を踏み出す、新しい力となって。
『ゴールを目前にして横一線! 二人ともまだ伸びる、伸び続けている! 前に出られるかサトノダイヤモンド、差し切れるかバニシングゲイザー! これはどっちだ、本当にどっちが勝つんだ!! 今、二人が並んだまま──────」
内ラチ沿いで色とりどりの菊花が見守る、栄光のゴールがもう目の前にある。
二人がいるのは、一人だけでは決して辿り着けなかった境地。
このライバルと共に戦い、互いに限界を超えたからこそ生まれた、魂を震わすほどの躍動。
別々の身体でありながら、ひとつの機構のように動きが噛み合っていく、四つの脚。
そして。
力強く同時にターフを蹴った、最後の一歩は───
『ゴオオォォォーーーーーールインッッッ!!!』
───まるで、四輪駆動車のようだった。
☆ ◇ ☆ ◇
『最後の最後まで一歩も譲らず、同時にゴールへ飛び込んだサトノダイヤモンドとバニシングゲイザー!! 三着には外から伸びきってアレイキャットが入りました! そして菊花賞の勝者がどちらのウマ娘か、これはもう全く分かりません! ダービーに続いて、またしても点灯したのは写真判定のランプ! 勝敗の行く末は、判定の結果を待つことになりました!』
京都レース場に響き渡る実況と、激戦の余波に興奮冷めやらぬスタンドのざわめき。
着順掲示板のモニターにゴールインの瞬間が繰り返し映し出されるたび、場内のざわめきは驚きと戸惑いの色を濃くしていく。
どれほど目を凝らして見ても、サトノダイヤモンドとバニシングゲイザーのどちらが先にゴールしたのか、まるで分からなかったからだ。
映像では判別できない以上、勝敗の行方は写真による判定を待つしかない。
一万分の一秒単位で撮影され、ほんの僅かな差さえ浮き彫りにする決勝写真。
その精密な判定の末に、同着となることは極めて珍しい。
ましてG1での同着優勝ともなれば、長いトゥインクル・シリーズの歴史において、過去に二度しか起きていない出来事である。
それでも観衆の間で膨らみ続けているのは、まさか同着なのではないか、という雰囲気。
もしそうなったとしても納得せざるを得ないほどに、二人の走りは最後の一歩まで拮抗していたのだ。
「…………バニシングゲイザーさん」
「…………なんでしょう、サトノダイヤモンド先輩」
覇気に満ち満ちた、つい先ほどまでの走りの反動だろうか。
バニシングゲイザーとサトノダイヤモンドが、まるで糸が切れたように仰向けでターフに横たわっている。
まだ戦いの残響に震える身体は熱くても、荒かった息は次第に落ち着きつつある。
だからようやく発することができた、疲れ切った二人の声が、視界いっぱいに澄み渡る秋空に溶けていく。
「……あなたの走り、本当に凄かったです。直線での追い上げを警戒していたのに、まさかあの位置からスパートしてくるなんて」
「…………驚かされたのはこっちの方ですよ。スタートしていきなりあんな走りをしてくるとは、思いもしませんでしたから」
「なら、お互い様ってことで。次もまた、今日みたいな戦いがしたいですね」
「はい、それは是非……と言いたいところですが、しばらくはいいかなって。毎回こんなレースをしていたら、とても身体が持ちませんから」
「ふふっ、確かにおっしゃる通りです。…………まったく、参ったものです」
全てを出し尽くした戦いの果てに、同じ空を見上げている二人。
判定を待つこの時間で彼女たちだけが分かち合える、穏やかな余韻。
長い旅路を駆け抜けてきた熱を癒すように、ターフを吹き抜ける秋の風が二人を静かに、優しく包み込んでいく。
「───ゲイザー、痛むところはないか?」
「ダイヤ! 大丈夫っ!?」
そんな彼女たちのもとへ駆け寄ってきたのは、運営の係員に先導された、担当トレーナーの二人。
本来、着順が確定していないこのタイミングでトレーナーがターフに立ち入ることはない。
しかし今回は判定に時間を要することが見込まれるうえ、救護が必要になる可能性もあった。
そのためURAの判断で、確認のための立ち入りが認められたのだ。
「はい、問題ありません。……けれど、さすがに疲れました」
「私も大丈夫です、トレーナーさん。……すみません、心配かけちゃいましたね」
バニシングゲイザーとサトノダイヤモンドが、ゆっくりと上半身を起こして答える。
すっかり慣れた様子で落ち着いて対応する東条に対し、深刻そうな表情をしているのはサトノダイヤモンドのトレーナーだ。
担当ウマ娘がレース後しばらく横たわっていた姿を見れば、無理もないことだろう。
幸いサトノダイヤモンドの身にも怪我はなく、ただ限界まで走り切っただけだと分かると、安堵したのか彼女のトレーナーは大きく息をついた。
立ち上がった二人は自身のトレーナーと共に、レース後に行われる軽いチェックを受けるため、控えへと向けて歩き始める。
そしてバニシングゲイザーとサトノダイヤモンドはもう一度だけ向き合い、静かに言葉を交わした。
「───結果がどうあれ、最高のレースができたと私は胸を張ります。あなたのおかげです、バニシングゲイザーさん」
「私も同じですよ、サトノダイヤモンド先輩。また、戦いましょう」
☆ ☆ ☆
「順位、まだ出ませんね」
「それだけ接戦だったということだ。───念のためではあるが、お前には後で精密な検査も受けてもらう。その結果次第ではウイニングライブの辞退もあり得るから、心得ておくように」
「はい、承知しました。そうなった時のために、ルドルフ先輩への申し開きを今のうちに考えておきますね」
「……それは要らん。だが安心した。そんな冗談を言える余裕があるなら、まず大丈夫だろう」
レース後のチェックを終え、控えからターフへと戻ってきた東条とバニシングゲイザー。
京都レース場は、戦いの余韻と判定を待つ緊張が入り混じった、異様ともいえるざわめきに包まれている。
バニシングゲイザーの軽い冗談も、その張りつめた空気を和らげる助けにはならなかった。
着順掲示板にはまだ確定の文字は灯っていないが、きっと誰もが予感していたのだろう。
戦いの結果が示される瞬間が、すぐそこにまで近づいていることを。
東条とバニシングゲイザーもいつしか言葉を止め、運命の時を静かに待つ。
───そして。
長時間の判定を経て、ついにその瞬間が訪れた。
まるで息を止めたかのように、レース場を満たすざわめきに一瞬だけ空白が生まれる。
無数の視線が向かう掲示板。
その頂点に刻まれたウマ番が示したのは───
───1着、サトノダイヤモンド。
2着、バニシングゲイザー。
それはたった数センチの、あまりにも僅かな差。
菊花賞を制して「最も強いウマ娘」となったのは、サトノダイヤモンドだった。
『───ついに結果が出ました! これはほんの僅かに、ハナ差でサトノダイヤモンドが前だ! 1着はサトノダイヤモンド! バニシングゲイザー、ダービーに続いて惜しくも栄光に届かず! この大激戦を制し、サトノダイヤモンドがG1連覇を達成しました!!』
堰を切ったように溢れ出し、レース場を揺らすスタンドの大歓声。
ついに示された菊花賞の結末を、誰もが記憶に刻んだ瞬間だった。
勝利したサトノダイヤモンドを讃える声と、最後の最後まで互角に戦い抜いたバニシングゲイザーへの惜しみない拍手が、大きなうねりとなってどこまでも広がっていく。
「…………ごめんなさい。また、勝てませんでした」
「───そうだな。だが、この敗北でお前の強さが否定されたわけではない。今日の走りは間違いなく、さらなる高みへと繋がるものだった」
バニシングゲイザーから力なくこぼれた言葉に対し、東条が冷静に、しかしはっきりと応える。
感情に流されずに奮起を促すその姿は、バニシングゲイザーがよく知っている、いつも通りの東条だった。
「はい。……でも、やっぱり勝ちたかったです」
「当然だ。そして、その悔しさを誤魔化す必要もない。本気で戦った者だけが抱ける感情だ。今は、そのまま受け止めておけ」
「……そうですね。次の戦いで勝つその時まで、忘れずに抱えておきます」
大きく息を吐き、顔を上げるバニシングゲイザー。
その瞳に涙はなく、未来を見据える確かな光が宿っている。
───間違いなく、最高のレースだった。
だからこそ、敗れた悔しさも計り知れない。
けれどもうダービーの時のように、この焼き付くような悔しさから目を逸らすことはしない。
この痛みをさらなる力へ変えてみせるという強い意思を胸に、バニシングゲイザーはしっかりと前を向いた。
「───ゲイザー。今のうちに、これを渡しておく」
東条がジャケットのポケットから何かを取り出して、そっと差し出す。
その手にあるものを目にして、バニシングゲイザーが小さく息を呑んだ。
「運営のスタッフが回収してくれていた。お前のものだ」
その姿形が変わっていようと、見間違えるはずがない。
バニシングゲイザーがそっと受け取ったのは───結び目が解けた、オレンジ色のリボンだった。
まだ失われていない鮮やかな色彩、手のひらで感じられる重み、柔らかい布地の肌触り。
そのひとつひとつが思い出させる、共に駆け抜けてきた長い時間。
それを確かに感じながら、優しく胸元へと抱き寄せる。
「──────おかえり」
バニシングゲイザーが目を閉じて、小さく声にした言葉。
そこに込められていたのは、ひとつの終わりを嘆く悲しみではなかった。
初めてレースで着けたあの日から、この菊花賞の果てまで。
長い旅路を共にしてきたリボンへ向けた、精一杯の感謝だった。
「さあ、行こうゲイザー。私たちはこの先も、立ち止まることはないのだから」
「───はい!」
バニシングゲイザーが踏み出した、新たな一歩。
まだ力の入り切らない脚が、この戦いで本当にすべてを使い果たしたことを物語っている。
それでも、一歩ずつ確かめるように進むその足取りには、輝くような希望が宿っていた。
ひとつの戦いが、そして激戦のクラシックロードが終わった。
最後のゴールの先に広がる新しい景色と、まだ誰も知らない未来へと続く道。
勝者と敗者を分かつ運命を越えて、人生という旅路は続いていく。
交差した軌跡が互いに光を与え合い、まばゆく照らし出された未来へと向かって。
次回、最終話です。