「よし、二人とも今日はここまで! バニシングゲイザーとは後ほど今回のフィードバックを行う。学園に戻って落ち着いてから、私のもとへ来るように」
「───はい、ありがとうございました!」
学園の敷地外に設けられている、チームリギルの屋内練習場。
トレーニングの終わりを告げる東条の声が響き、バニシングゲイザーはしっかりと返事をしてから大きく息をつく。
中央トレセン学園では、屋内でも問題なくトレーニングできる練習設備が充実している。
しかし、特に悪天候が見込まれる日は需要の高い設備に利用申請が殺到し、場合によっては利用できる時間に制限がつく。
トップチームのリギルといえど優先的に設備を利用できる訳ではないし、東条も「トップだからこそ他者の権利を尊重するべき」という考えを持っている。
そこで彼女が取り組んだことは───学園外にリギル専用の練習場を作ることだった。
建設費用の出どころは東条の私財と、彼女と懇意にしている名家からの手厚い支援である。
トラック型のコースでは一周の距離こそ短いものの実戦的な練習が可能で、その他の設備も最新鋭のものが惜しみなく揃えられている。
特に、VRウマレーターが使用できるのは特筆するべき点といえるだろう。
ただ実際のところ、この練習場の存在はあくまで保険であり、使用頻度はそれほど高くない。
基本的なトレーニングは学園内でも十分すぎるほど行えるし、簡単なメニューならチームルームでも行えるからだ。
だからこそ、それを承知のうえでこんなものを作ってしまったところに、勝利のために一切の妥協をしないという東条の強い意思が表れていた。
このチームの練習環境で、特に優れているとバニシングゲイザーが感じた点が三つある。
まず一つは、学園の内外にあるリギル専用の練習設備。
それ以上に大きな二つ目は、東条を筆頭とする優秀なトレーナーたちによる手厚いサポート。
そして、最後の一つが───
「ありがとうございます、フジキセキ先輩。思っていた通り、最高の練習ができました」
「いや、お礼を言うのはこちらの方だよ。私も有意義な時間を過ごせたし、君の走りにワクワクさせてもらったからね」
───伝説級の実績を持つ、リギルの先輩たちとトレーニングできる機会が多いことである。
他のウマ娘と共に行うトレーニングには高い効果があり、特に優秀なウマ娘に対してはその申し出が絶えることはない。
そんな中で、デビュー前からこれほどの質と量で共同トレーニングができる環境は間違いなく他に存在しないだろう。
そして、バニシングゲイザーに手を差し伸べながらニコッと笑いかけるのは、今日のトレーニング相手。
ショートカットにした外ハネの黒髪と、その前髪で流れる白い流星のコントラストが、クールな印象を与えるウマ娘───『麗しのウマ娘』フジキセキであった。
クラシック三冠の完全制覇を惜しくも逃したが、その後もシニア級で活躍を続け、その煌めく走りをあらゆる者の記憶に焼き付けた存在。
現在は栗東寮で後輩たちを見守る良き寮長として、そしてドリームトロフィーリーグの選手として、幻ではない"キセキ"を見せ続けているウマ娘である。
「今日は絶好の天気だっていうのに、君との併走が
そう話しながら、まだ疲労が色濃い様子のバニシングゲイザーをエスコートするフジキセキ。
彼女の言う通り今日の天気は快晴であり、こちらの練習場を使用したのはバニシングゲイザーとフジキセキの二人のみである。
そしてメニューの内容も、それ自体は学園で問題なく行える併走トレーニングだった。
にも関わらず、なぜ彼女たちだけがこちらでの練習を指示されたのか───
その答えはバニシングゲイザーの走りを、外部の視線から可能な限り秘匿するためである。
そして今回のトレーニングメニューは、バニシングゲイザーの「秘密兵器」を鍛え上げるために組まれたものだった。
「───それに、最初に君が言っていたことの意味もね」
なぞなぞが解けた子供のような、茶目っ気のある笑顔でフジキセキがバニシングゲイザーに笑いかける。
舞台一家の生まれであるというフジキセキは、舞台俳優のように優雅で麗しいウマ娘である。
それと同時に、お茶目でイタズラが好きなエンターテイナーでもあり、面倒見がよくて親しみやすい。
彼女を慕う「ポニーちゃん」たちが学園に多く存在する理由はこれか、とバニシングゲイザーは納得していた。
『───今日はよろしくお願いします、フジキセキ先輩。リギルの先輩方で、あなたとの併走を一番楽しみにしていました』
『おっと、それは光栄だね! しかし君はルドルフの一番のファンだと思っていたけれど、違ったのかい?』
『いえ、それは違わないです。けれど私の走りを誰よりも完成に近づけてくれるのは、あなただと思っています』
トレーニングの前、二人が交わした言葉はこういった内容だった。
最初はバニシングゲイザーの真意を測りかねるようにしていたフジキセキだが、どうやら合点がいったようだ。
バニシングゲイザーが完成を目指している走りに、最も必要な要素。
それはレースの最終局面、極めて短い時間で抜きん出ることができるほどに爆発的な瞬発力である。
そしてフジキセキは、ラストわずか100メートルという距離で他を圧倒した末脚を「二段ロケット」と称された、希代の瞬発力を誇るウマ娘なのだから。
「君だけの走りが完成するその時を、私も楽しみにしているよ」
「───はい!」
これまでで一番のハードなトレーニングを終え、バニシングゲイザーは疲労困憊だったけれど。
激励となるフジキセキの言葉を受けて、力強く返事をした。
恵まれたリギルの練習環境を目にしたバニシングゲイザーは最初、「このチームのウマ娘が強くなるのも納得だ」と感じていた。
しかし先輩たちとの共同トレーニングを重ねていく中で、その認識が正確ではなかったことにすぐに気づかされた。
彼女たちの強さと気高さは、もっと根本的な領域にこそ存在している。
環境が彼女たちを強くしたのではなく、彼女たちの強さがこれほどの環境を後輩に残したのだ。
(今の私はまだ、助けて貰ってばかりだから。もっと、頑張らなきゃな)
だから、先輩たちが形作ってきたものを享受するだけではなく、自分も次へと繋げられる存在になりたいと。
今日のフジキセキとのトレーニングを経て、バニシングゲイザーはその思いを強くした。
☆ ☆ ☆
フジキセキとのトレーニングから数日後。
学園内にあるチームルームの一室で、この日のトレーニングとミーティングを終えたバニシングゲイザーが佇んでいた。
他のウマ娘たちは寮へと戻っていて、バニシングゲイザーも普段ならそうしている、やや遅い時間。
トレーナー陣は別室のデスクで仕事をこなしているため、今この部屋にいるのは一人だけである。
彼女がここに残った理由は、ある人物が訪れるのを待っているからだ。
(───ついに、か。こうして待っているのも、悪くないな)
その待ち人に会えるのは遅い時間になるため、東条からは明日にしてはどうかと提案されていた。
それでもバニシングゲイザーが待つことを選んだのは、「彼女」との再会にこの場所を望んだため。
今日を迎えるまでの日々を思えば、待ち続けている時間の経過も感慨深いものへと変わっていた。
そして、幾らかの時間が過ぎて───
「───久しいな、バニシングゲイザー。
果たして、その人物が姿を現した。
「よかった。私のこと、覚えていてくださったんですね」
そう返したバニシングゲイザーの様子には、言葉とは裏腹に『もし忘れられていたら』といった不安は一片も見受けられない。
それに気付いたのか、その人物は楽しげな調子でバニシングゲイザーへと笑いかける。
「一度見た相手の顔と名前は忘れないのが、私の特技でね。それに、そうでなくとも君との出会いと約束は忘れないさ」
「はい。私もあなたとの約束は、片時も忘れたことはありませんでしたから」
バニシングゲイザーの表情にも、自然と笑みが零れる。
かつて一歩を踏み出せなかった臆病な少女は、もはやこの場には存在しない。
今ここにいるのは、強い意思を持って長き道へと踏み出せた者の姿だ。
そしてバニシングゲイザーは万感の思いを込めて、その道を示してくれた者の名前を口にした。
「二年ぶりですね。お久しぶりです───シンボリルドルフ先輩」
「ああ。本当に、見違えたな───バニシングゲイザー」
バニシングゲイザーへと向けて、感慨深そうに語りかけるその人物は───『皇帝』シンボリルドルフ。
かつて再会の約束をこの場所で交わした、トレセン学園の
二年前のあの日からバニシングゲイザーが待ち望み続けた、彼女との再会。
それが今、叶ったのだ。
☆ ☆ ☆
───『皇帝』がついに帰ってくる。
長期に渡る海外遠征を終えたシンボリルドルフがトレセン学園に帰還するという情報は、瞬く間に学園中へと広まっていた。
彼女が戻るのは明日ということになっており、多くの者が彼女の姿を見るのを心待ちにしている。
しかし実際には今日の夜に学園へ立ち寄る用事があり、それを東条から聞いたため、バニシングゲイザーはこうして待っていたのだ。
「───そうか。あの日から今に至るまで、君は良き道を歩んできたんだな」
この二年間のことをバニシングゲイザーから聞き遂げたシンボリルドルフが、大きく頷く。
バニシングゲイザーが語ったのは、あれから勇気を出して自身の特性と向き合えたこと。
研究に協力してくれる仲間に恵まれ、たくさんの失敗の末に、特性の制御に成功したこと。
空いた時間で日本語の練習を重ねてきたこと。
───そしてこの学園でリギルに加入し、心身ともに充実しながら修練を積むことができていることだった。
「かつて私は君に、『信じる道を歩めば満足できる日が必ず来る』と言った。バニシングゲイザー、今の君はこれまで歩んできた道に満足しているか?」
「いえ。その領域にはまだ遠いですし、このチームにいると自分の未熟を感じるばかりです。それに『よく分からない』ことだって、まだたくさんあります。それでも……」
シンボリルドルフからの問いに、バニシングゲイザーは取り繕わない本心を告げる。
二年前、シンボリルドルフが語った夢に対して「よく分かりません」としか返せなかった、あの時と同じ言葉をあえて使って。
けれど、あの日の迷える少女は、もうここには居ない。
だから、その言葉には続きがあった。
「今の私には、ダービーで勝つという夢があります。自分の力で幸せを掴み取れる、強いウマ娘になって───!」
日本に渡ったバニシングゲイザーが抱いていたのは、一つの約束と一つの夢。
その夢とは、トゥインクル・シリーズ最高峰の舞台である日本ダービーの制覇。
かつてシンボリルドルフが語った「すべてのウマ娘の幸せ」とは比べられないけれど、それでも途方もなく遠くて大きな夢だ。
しかし今のバニシングゲイザーには、確固たる意思を持って遠くにある夢を目指せるだけの、確かな強さがあった。
「うむ、良い夢だ。君からそれを聞けて、本当によかった。そしてその決意を忘れぬよう、これからも励めよ。バニシングゲイザー」
そして。
その答えを聞いたシンボリルドルフは、満足そうに微笑んだ。
☆ ☆ ☆
シンボリルドルフとの再会から、幾日か経ち。
この日の朝練を終え、小休止していたバニシングゲイザー。
そんな彼女のもとにシンボリルドルフが訪れ、ある頼み事をした。
「実は、君に是非会いたいという者がいてね。もし良ければ今日の放課後、会ってやってくれないか」
「私に……ですか? 一体どなたが?」
新入生の中ではかなり目立っている部類とはいえ、バニシングゲイザーはまだ実績がないデビュー前のウマ娘である。
そんな自分に会いたいというのが何者なのか、バニシングゲイザーが興味深そうに聞き返す。
「そう警戒することはない。面と向かって話したことはないかもしれないが、君も知っている者たちだ」
者たち、ということは複数人ということで、ますます疑問が深まる。
そしてシンボリルドルフの話によると───その人物たちというのはなんと、今年度に入って彼女の後を継いだ、現在の生徒会メンバーであるという。
入学式で壇上に立ち、挨拶をしていた生徒会執行部のことは、バニシングゲイザーも当然知っている。
特に生徒会長は、在校生代表としてスピーチも行っていた。
そして、学園で彼女たちのことが話題になることも多い。
先代の生徒会副会長であるエアグルーヴが、「あのたわけ共が本当に生徒会の仕事をしているとは世も末だな……」と漏らしていたのが特に印象的だ。
……そう呟く彼女は、言葉とは裏腹に安心している様子を隠せていなかったから、本音は逆なんだろうけれど。
「なに、取って食おうという訳ではないだろうから大丈夫さ。君はリラックスしたまま、生徒会室で雑談を楽しんでくれればいい」
中央トレセン学園における生徒会は、学園の中枢として強い権限を持つ組織であり、間違いなく生徒の中で最高の発言力を持つ。
そんな者たちに呼ばれて生徒会室に行く、という状況が新入生にいきなり訪れれば、緊張してしまっても無理はないだろうけれど。
「大丈夫ですよ、シンボリルドルフ先輩。偉い人と話すのは、もう慣れましたから」
「おっと、そうだったかな? いずれにせよ、君ならば何の問題もないだろう」
バニシングゲイザーが言う「偉い人」の最たる例である、シンボリルドルフが戯れるように笑う。
バニシングゲイザーは他にも、そうそうたる面々とリギルで毎日接しているのだから、生徒会室に行っても萎縮することはないだろう。
ただ、一体なぜ自分が呼ばれることになったのかは気になるところである。
こうしてバニシングゲイザーは今日の放課後、トレーニングの前に予定が一つできたのであった。
「───生徒会たるもの、『新来』の者にも『信頼』されるべし……といったところだな。ふふふふ…………」
……別れ際にシンボリルドルフが何やら小声で呟いていたことは、上手く聞き取れなかった。
☆ ☆ ☆
そして放課後。
教室からは離れた、校舎内でも静かな場所にある部屋の入口。
まるで立ちはだかるように閉じられた、両開きの大きな扉の前にバニシングゲイザーは立っていた。
長期に渡って『皇帝』シンボリルドルフが生徒会長を務め、中央トレセン学園の中核としてウマ娘たちに貢献し続けてきた生徒会執行部。
しかしシンボリルドルフは今やレース界を代表する立場となり、先日までの海外遠征のように、学園に不在となる時間が年々と増してきていた。
そういった事情と、ドリームトロフィーリーグで選手会長への就任を打診されたことを契機とし、シンボリルドルフは前年度限りで生徒会長から退くことを決断。
これまで副会長としてシンボリルドルフを支えてきた、『女帝』エアグルーヴと『影をも恐れぬ怪物』ナリタブライアンも多忙な立場となっており───後者については本人が乗り気でなかったというのも大きいが───両名とも、その役割を後任に託すことを表明。
ゆえに今年度からの生徒会は、選挙で決まった新しい生徒会長と、その会長が任命した二名の新たな副会長という、完全な新体制へと代替わりしている。
(なるほど、これはちょっと入りづらいかも)
以前、新入生が「とても畏れ多くて近づけない」と話しているのを聞いたことがある部屋。
そう感じさせるのは、この場を支配するような静寂と、扉の上にあるルームプレートに大きく記された「生徒会室」という文字……だけではない。
中央トレセン学園の中でも、その歴史に名を轟かす傑物ばかりが務め上げてきた生徒会。
それは、『皇帝』たちの後を継いだ現在の役員たちも例外ではない。
彼女たちはまさしく、時代の体現者だ。
そしてこの扉には、歴代の役員たちによって紡がれてきた伝統が染み込んだ、荘厳な重みがあった。
(まあ、早いところお邪魔しちゃおう)
ただ、バニシングゲイザーが扉の前で立ち尽くしていたのはほんの数秒。
今回はあちら側の要望で来ているのだから、こちらが入室を躊躇する必要はない。
そしてこの後にリギルでのトレーニングも控えているのだから、長く立ち止まることはできない───
そう考えて、バニシングゲイザーは臆することなく扉をノックして声を出す。
「失礼します、バニシングゲイザーと申します。シンボリルドルフ先輩からお話を伺い、こちらに参りました」
そうして少しばかり時間が経ってから、「どうぞー」という声が扉越しに聞こえた。
それを受けてバニシングゲイザーがドアノブに手をかけ、扉をいざ開いた……次の瞬間。
生徒会室に二つの破裂音が鳴り響き、火薬の匂いが微かに広がった。
新生徒会、一体何者なんだ……