ポケットモンスター ―頂への軌跡―   作:あああああ

1 / 41
第1話 もう一度始まる世界

最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。

 

次に聞こえてきたのは、誰かの声。

 

「よしよし、レン。お腹すいたの?」

 

優しい女性の声だった。

 

けれど、そのときのレンには言葉の意味を理解する余裕などなかった。

 

視界はぼやけ、身体は思うように動かない。声を出そうとしても、口から漏れるのは意味を持たない泣き声だけ。

 

何が起きているのか理解できないまま、レンの意識は再び眠りへ落ちていった。

 

それからの日々は、ひどく曖昧だった。

 

眠って、起きて、泣いて、食べて。

 

自分では何一つ満足にできない。

 

それでも身体が成長するにつれ、少しずつ世界がはっきりと見えるようになった。

 

自分を抱き上げてくれる女性が母親。

 

仕事から帰るたびに頭を撫でてくれる男性が父親。

 

そして――自分の名前がレン。

 

そこまでは、ごく普通だった。

 

異変を感じ始めたのは、二歳を過ぎた頃からだった。

 

夢を見る。

 

知らない街。

 

見たこともない機械。

 

画面の中を走り回る、不思議な生き物たち。

 

赤と白のボール。

 

ゲーム機。

 

テレビ。

 

そして何度も聞いた名前。

 

――ポケットモンスター。

 

目が覚めるたび、夢の内容は少しずつ鮮明になっていった。

 

それは夢ではない。

 

記憶だった。

 

自分には、ここで生まれるより前の人生があった。

 

二十代まで生きた、一人の人間としての記憶。

 

なぜ死んだのか。

 

そこだけは妙に曖昧だった。

 

事故だったような気もするし、そうではなかったような気もする。

 

けれどレンにとって、死因はそれほど重要ではなかった。

 

重要なのは――。

 

三歳になったある日のこと。

 

レンは居間の床に座りながら、テレビを眺めていた。

 

画面にはニュース番組が映っている。

 

『――本日、ハナダシティ近郊では野生のポケモンが道路へ入り込み、一時交通が――』

 

映像が切り替わる。

 

そこに映った青いポケモンを見た瞬間、レンの身体が固まった。

 

「……ニドラン」

 

ぽつりと呟いた。

 

画面に映っていたのは、紛れもなくニドラン♂だった。

 

イラストでも、ゲームのCGでもない。

 

草むらの中を、本物の生き物として走っている。

 

心臓が大きく跳ねた。

 

レンは立ち上がると、窓へ駆け寄った。

 

まだ小さな身体では窓の位置が高い。椅子を引っ張ってきて、その上によじ登る。

 

窓の向こうには、のどかな町並みが広がっていた。

 

そして道路の端を、小さな鳥ポケモンが跳ねている。

 

茶色い羽。

 

鋭い嘴。

 

「……オニスズメ」

 

知っている。

 

間違えるはずがない。

 

テレビ。

 

ゲーム。

 

アニメ。

 

前世で何度見たか分からない。

 

だが今は、画面の向こうではない。

 

本物のオニスズメがいる。

 

レンはしばらく言葉を失っていた。

 

やがて、震える声が漏れた。

 

「ここ……ポケモンの世界なのか?」

 

その日から、レンは周囲を見る目を変えた。

 

家に置かれている本。

 

父親の仕事道具。

 

テレビ番組。

 

新聞。

 

町の看板。

 

今まで何気なく聞き流していた言葉の一つ一つが、前世の記憶と繋がっていく。

 

カントー地方。

 

ポケモンリーグ。

 

トキワシティ。

 

ニビシティ。

 

ハナダシティ。

 

そして、自分が暮らしている町。

 

母親と買い物へ出た日、レンは道の向こうに立っている看板を見上げた。

 

そこには大きく書かれていた。

 

『マサラタウン』

 

「…………」

 

レンはその場で立ち止まった。

 

「レン?」

 

手を繋いでいた母親が振り返る。

 

「どうしたの?」

 

「……なんでもない」

 

そう答えながらも、レンの頭の中はそれどころではなかった。

 

マサラタウン。

 

カントー地方の小さな町。

 

そして――。

 

(サトシが生まれ育った町……)

 

そこまで考えた瞬間。

 

「おーい!」

 

子供の声が響いた。

 

レンが振り返る。

 

道の向こうから、一人の少年が走ってきていた。

 

黒い髪。

 

まだ幼い顔。

 

勢いよく走っていた少年は、足元の小石を踏んだ。

 

「あっ」

 

転んだ。

 

盛大に。

 

「いたたた……」

 

レンは思わず目を瞬かせた。

 

少年は膝についた砂を払いながら立ち上がる。

 

そして、こちらに気づいた。

 

「ん?」

 

二人の視線が合った。

 

少年がにっと笑う。

 

「おまえ、レンだろ?」

 

「……そうだけど」

 

「やっぱり! 近くに住んでるよな!」

 

少年は当然のように近づいてきた。

 

レンの母親が微笑む。

 

「あら、サトシ君。今日も元気ね」

 

「うん!」

 

レンの思考が停止した。

 

(……サトシ)

 

今、母は確かにそう呼んだ。

 

少年――サトシはレンの前に立つと、興味津々といった様子で顔を覗き込んできた。

 

「なあレン! ポケモン好きか?」

 

あまりにもサトシらしい第一声だった。

 

レンは数秒黙ったあと、小さく笑った。

 

「好きだよ」

 

「ほんとか!」

 

サトシの目が輝いた。

 

「オレさ、大きくなったらポケモントレーナーになるんだ!」

 

知っている。

 

レンはその未来を知っていた。

 

目の前にいる少年がピカチュウと出会うことも。

 

カントーから始まり、数え切れないほどのポケモンや仲間と出会うことも。

 

何度負けても立ち上がり、遥かな高みへ進んでいくことも。

 

前世のレンは、その旅を画面越しに見ていた。

 

けれど今は違う。

 

サトシが目の前にいる。

 

まだピカチュウにも出会っていない、幼いサトシが。

 

「レンは?」

 

「え?」

 

「レンもトレーナーになるのか?」

 

レンは答えようとして、一度口を閉じた。

 

前世ではポケモンは物語だった。

 

ゲームだった。

 

憧れだった。

 

けれど今、この世界には本当にポケモンがいる。

 

自分も十歳になれば旅へ出られる。

 

ジムへ挑戦できる。

 

ポケモンリーグを目指せる。

 

四天王とも。

 

チャンピオンとも。

 

いつかは、世界中の強者とも戦える。

 

胸の奥から、今まで感じたことのない高揚感が込み上げてきた。

 

ただ旅をするだけじゃない。

 

せっかくこの世界に生まれたのだ。

 

なら――。

 

「なるよ」

 

レンは答えた。

 

「ほんとか!? じゃあ一緒だな!」

 

「でも」

 

「ん?」

 

レンは空を見上げた。

 

青い空を、一匹のピジョンが飛んでいる。

 

その姿を見ながら、静かに告げた。

 

「俺は、世界で一番強いトレーナーになる」

 

サトシが目を丸くした。

 

「世界で一番?」

 

「うん」

 

「じゃあオレはポケモンマスターになる!」

 

間髪入れずに返ってきた。

 

レンは思わず笑ってしまう。

 

「それ、どっちが上なんだ?」

 

「知らない!」

 

「知らないのかよ」

 

「でも、どっちもすっげーだろ!」

 

「……まあ、それはそうだな」

 

「よーし!」

 

サトシが拳を突き出した。

 

「どっちが先になれるか勝負だ、レン!」

 

三歳児がする約束としては、ずいぶん大きい。

 

けれどレンは、その拳を見つめたあと、自分の小さな拳を重ねた。

 

「負けないよ、サトシ」

 

「オレだって!」

 

二人の拳がぶつかった。

 

その日の夜。

 

レンは自室のベッドで天井を見つめていた。

 

興奮して眠れなかった。

 

ポケモンの世界。

 

マサラタウン。

 

そしてサトシ。

 

ここまで揃えば、偶然ではない。

 

自分が知っているアニメの世界と同じ、あるいは非常によく似た世界なのだろう。

 

なら、これから何が起きるのかもある程度は知っている。

 

だが――。

 

(知ってるからって、全部その通りになるとは限らない)

 

レンという人間は、前世のアニメには存在しなかった。

 

すでに本来存在しないはずの人間が一人、この世界にいる。

 

自分が何かをすれば、未来は変わる。

 

それにゲームの知識が、この現実の世界ですべて通用する保証もない。

 

ゲームでは数字だった能力も、ここでは生き物の身体能力。

 

技だってボタン一つで発動するわけではない。

 

食事も必要。

 

休養も必要。

 

怪我もする。

 

感情もある。

 

(だったら、ちゃんとこの世界で学ばないとな)

 

知識は使う。

 

使えるものを捨てる理由はない。

 

けれど知識だけで分かった気にはならない。

 

自分の目で見て。

 

触れて。

 

考える。

 

そして、いつか自分のポケモンと一緒に頂点へ行く。

 

レンは小さな手を天井へ伸ばした。

 

まだ自分のポケモンはいない。

 

旅立ちまでは七年もある。

 

焦る必要はない。

 

むしろ時間はいくらでもある。

 

ポケモンについて学べる。

 

身体について。

 

食事について。

 

技について。

 

バトルについて。

 

育成について。

 

前世の知識と、この世界で得る知識。

 

両方を使える。

 

「……最強、か」

 

自分で口にすると、途方もない目標だった。

 

四天王。

 

チャンピオン。

 

そして、その先にも強者はいる。

 

だが、不思議と無理だとは思わなかった。

 

やってみたい。

 

この世界で。

 

自分のポケモンたちと。

 

どこまで行けるのか。

 

レンはゆっくり目を閉じた。

 

まだ、このときのレンは知らない。

 

数年後。

 

一つのタマゴとの出会いが、自分の人生を大きく変えることを。

 

その小さな命が、やがてレンと共に世界の頂点を目指す、かけがえのない相棒になることを。

 

そしてもう一匹。

 

伯父である四天王シバのもとで過ごす、小さな青いポケモンとも出会うことを。

 

すべては、まだ先の話。

 

世界最強へ続く道は――。

 

この日、静かに始まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。