ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。
次に聞こえてきたのは、誰かの声。
「よしよし、レン。お腹すいたの?」
優しい女性の声だった。
けれど、そのときのレンには言葉の意味を理解する余裕などなかった。
視界はぼやけ、身体は思うように動かない。声を出そうとしても、口から漏れるのは意味を持たない泣き声だけ。
何が起きているのか理解できないまま、レンの意識は再び眠りへ落ちていった。
それからの日々は、ひどく曖昧だった。
眠って、起きて、泣いて、食べて。
自分では何一つ満足にできない。
それでも身体が成長するにつれ、少しずつ世界がはっきりと見えるようになった。
自分を抱き上げてくれる女性が母親。
仕事から帰るたびに頭を撫でてくれる男性が父親。
そして――自分の名前がレン。
そこまでは、ごく普通だった。
異変を感じ始めたのは、二歳を過ぎた頃からだった。
夢を見る。
知らない街。
見たこともない機械。
画面の中を走り回る、不思議な生き物たち。
赤と白のボール。
ゲーム機。
テレビ。
そして何度も聞いた名前。
――ポケットモンスター。
目が覚めるたび、夢の内容は少しずつ鮮明になっていった。
それは夢ではない。
記憶だった。
自分には、ここで生まれるより前の人生があった。
二十代まで生きた、一人の人間としての記憶。
なぜ死んだのか。
そこだけは妙に曖昧だった。
事故だったような気もするし、そうではなかったような気もする。
けれどレンにとって、死因はそれほど重要ではなかった。
重要なのは――。
三歳になったある日のこと。
レンは居間の床に座りながら、テレビを眺めていた。
画面にはニュース番組が映っている。
『――本日、ハナダシティ近郊では野生のポケモンが道路へ入り込み、一時交通が――』
映像が切り替わる。
そこに映った青いポケモンを見た瞬間、レンの身体が固まった。
「……ニドラン」
ぽつりと呟いた。
画面に映っていたのは、紛れもなくニドラン♂だった。
イラストでも、ゲームのCGでもない。
草むらの中を、本物の生き物として走っている。
心臓が大きく跳ねた。
レンは立ち上がると、窓へ駆け寄った。
まだ小さな身体では窓の位置が高い。椅子を引っ張ってきて、その上によじ登る。
窓の向こうには、のどかな町並みが広がっていた。
そして道路の端を、小さな鳥ポケモンが跳ねている。
茶色い羽。
鋭い嘴。
「……オニスズメ」
知っている。
間違えるはずがない。
テレビ。
ゲーム。
アニメ。
前世で何度見たか分からない。
だが今は、画面の向こうではない。
本物のオニスズメがいる。
レンはしばらく言葉を失っていた。
やがて、震える声が漏れた。
「ここ……ポケモンの世界なのか?」
その日から、レンは周囲を見る目を変えた。
家に置かれている本。
父親の仕事道具。
テレビ番組。
新聞。
町の看板。
今まで何気なく聞き流していた言葉の一つ一つが、前世の記憶と繋がっていく。
カントー地方。
ポケモンリーグ。
トキワシティ。
ニビシティ。
ハナダシティ。
そして、自分が暮らしている町。
母親と買い物へ出た日、レンは道の向こうに立っている看板を見上げた。
そこには大きく書かれていた。
『マサラタウン』
「…………」
レンはその場で立ち止まった。
「レン?」
手を繋いでいた母親が振り返る。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
そう答えながらも、レンの頭の中はそれどころではなかった。
マサラタウン。
カントー地方の小さな町。
そして――。
(サトシが生まれ育った町……)
そこまで考えた瞬間。
「おーい!」
子供の声が響いた。
レンが振り返る。
道の向こうから、一人の少年が走ってきていた。
黒い髪。
まだ幼い顔。
勢いよく走っていた少年は、足元の小石を踏んだ。
「あっ」
転んだ。
盛大に。
「いたたた……」
レンは思わず目を瞬かせた。
少年は膝についた砂を払いながら立ち上がる。
そして、こちらに気づいた。
「ん?」
二人の視線が合った。
少年がにっと笑う。
「おまえ、レンだろ?」
「……そうだけど」
「やっぱり! 近くに住んでるよな!」
少年は当然のように近づいてきた。
レンの母親が微笑む。
「あら、サトシ君。今日も元気ね」
「うん!」
レンの思考が停止した。
(……サトシ)
今、母は確かにそう呼んだ。
少年――サトシはレンの前に立つと、興味津々といった様子で顔を覗き込んできた。
「なあレン! ポケモン好きか?」
あまりにもサトシらしい第一声だった。
レンは数秒黙ったあと、小さく笑った。
「好きだよ」
「ほんとか!」
サトシの目が輝いた。
「オレさ、大きくなったらポケモントレーナーになるんだ!」
知っている。
レンはその未来を知っていた。
目の前にいる少年がピカチュウと出会うことも。
カントーから始まり、数え切れないほどのポケモンや仲間と出会うことも。
何度負けても立ち上がり、遥かな高みへ進んでいくことも。
前世のレンは、その旅を画面越しに見ていた。
けれど今は違う。
サトシが目の前にいる。
まだピカチュウにも出会っていない、幼いサトシが。
「レンは?」
「え?」
「レンもトレーナーになるのか?」
レンは答えようとして、一度口を閉じた。
前世ではポケモンは物語だった。
ゲームだった。
憧れだった。
けれど今、この世界には本当にポケモンがいる。
自分も十歳になれば旅へ出られる。
ジムへ挑戦できる。
ポケモンリーグを目指せる。
四天王とも。
チャンピオンとも。
いつかは、世界中の強者とも戦える。
胸の奥から、今まで感じたことのない高揚感が込み上げてきた。
ただ旅をするだけじゃない。
せっかくこの世界に生まれたのだ。
なら――。
「なるよ」
レンは答えた。
「ほんとか!? じゃあ一緒だな!」
「でも」
「ん?」
レンは空を見上げた。
青い空を、一匹のピジョンが飛んでいる。
その姿を見ながら、静かに告げた。
「俺は、世界で一番強いトレーナーになる」
サトシが目を丸くした。
「世界で一番?」
「うん」
「じゃあオレはポケモンマスターになる!」
間髪入れずに返ってきた。
レンは思わず笑ってしまう。
「それ、どっちが上なんだ?」
「知らない!」
「知らないのかよ」
「でも、どっちもすっげーだろ!」
「……まあ、それはそうだな」
「よーし!」
サトシが拳を突き出した。
「どっちが先になれるか勝負だ、レン!」
三歳児がする約束としては、ずいぶん大きい。
けれどレンは、その拳を見つめたあと、自分の小さな拳を重ねた。
「負けないよ、サトシ」
「オレだって!」
二人の拳がぶつかった。
その日の夜。
レンは自室のベッドで天井を見つめていた。
興奮して眠れなかった。
ポケモンの世界。
マサラタウン。
そしてサトシ。
ここまで揃えば、偶然ではない。
自分が知っているアニメの世界と同じ、あるいは非常によく似た世界なのだろう。
なら、これから何が起きるのかもある程度は知っている。
だが――。
(知ってるからって、全部その通りになるとは限らない)
レンという人間は、前世のアニメには存在しなかった。
すでに本来存在しないはずの人間が一人、この世界にいる。
自分が何かをすれば、未来は変わる。
それにゲームの知識が、この現実の世界ですべて通用する保証もない。
ゲームでは数字だった能力も、ここでは生き物の身体能力。
技だってボタン一つで発動するわけではない。
食事も必要。
休養も必要。
怪我もする。
感情もある。
(だったら、ちゃんとこの世界で学ばないとな)
知識は使う。
使えるものを捨てる理由はない。
けれど知識だけで分かった気にはならない。
自分の目で見て。
触れて。
考える。
そして、いつか自分のポケモンと一緒に頂点へ行く。
レンは小さな手を天井へ伸ばした。
まだ自分のポケモンはいない。
旅立ちまでは七年もある。
焦る必要はない。
むしろ時間はいくらでもある。
ポケモンについて学べる。
身体について。
食事について。
技について。
バトルについて。
育成について。
前世の知識と、この世界で得る知識。
両方を使える。
「……最強、か」
自分で口にすると、途方もない目標だった。
四天王。
チャンピオン。
そして、その先にも強者はいる。
だが、不思議と無理だとは思わなかった。
やってみたい。
この世界で。
自分のポケモンたちと。
どこまで行けるのか。
レンはゆっくり目を閉じた。
まだ、このときのレンは知らない。
数年後。
一つのタマゴとの出会いが、自分の人生を大きく変えることを。
その小さな命が、やがてレンと共に世界の頂点を目指す、かけがえのない相棒になることを。
そしてもう一匹。
伯父である四天王シバのもとで過ごす、小さな青いポケモンとも出会うことを。
すべては、まだ先の話。
世界最強へ続く道は――。
この日、静かに始まった。