ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
旅立ちまで一年を切った頃。
レンとヒトカゲの朝は、相変わらず早かった。
空がようやく白み始めた頃には庭へ出て、その日の体調を確かめる。身体に痛みがないか、前日の疲れが残っていないかを見たうえで、走り込みや方向転換、跳躍といった基礎練習へ移る。
それはヒトカゲが生まれて間もない頃から変わらない。
変わったのは、その中身だった。
「ヒトカゲ、次!」
「カゲ!」
庭の中央を走っていたヒトカゲが急停止する。
正面には木製の的。
その距離、およそ十メートル。
「『ひのこ』!」
「カゲェッ!」
口元から炎が飛び出した。
かつては小さな火の粉を散らすだけだった『ひのこ』が、今では狙った場所へまとまって飛んでいく。
ボッ!
的の中心付近へ命中した。
「そのまま右!」
「カゲ!」
ヒトカゲは命中を確認して立ち止まることなく、右へ走った。
別の的が動き出す。
速度を見る。
進行方向を見る。
そして、少し先へ。
「カゲッ!」
二発目の『ひのこ』。
炎と的が交差した。
命中。
「いい!」
レンの声にヒトカゲの口元が上がる。
だが、まだ終わらない。
背後から三つ目の的が動き出した。
ヒトカゲの耳が僅かに動く。
振り返る。
距離が近い。
炎ではない。
地面を蹴った。
「カゲ!」
一気に懐へ入り――。
「カゲッ!」
『ひっかく』。
爪が的を捉える。
以前より鋭い。
そして何より、攻撃後の姿勢が崩れない。
右腕を振り抜きながら足を踏み替え、すぐに次の相手へ身体を向ける。
レンはそれを確認してから手を上げた。
「そこまで!」
「カゲ!」
ヒトカゲがこちらへ走ってくる。
レンも手を上げた。
ぱちん!
すっかり二人の習慣になったハイタッチが、朝の庭に響いた。
「今のはかなりよかった」
「カゲ!」
「特に最後。『ひっかく』のあとに身体が流れなくなってきた」
「カゲ!」
褒められるたびに胸を張るところだけは、昔からあまり変わっていない。
レンは笑いながら水を渡した。
「でも、今日はここから」
「カゲ?」
ヒトカゲが水を飲みながら首を傾げる。
レンは庭の端に置いていたノートを開いた。
そこには、これまで積み重ねてきた練習内容が細かく記録されている。
『ひっかく』。
『ひのこ』。
『げんしのちから』。
それぞれの成功率。
疲労。
射程。
命中精度。
状況ごとの使いやすさ。
そして最近、レンが特に気になっているものがあった。
「『ひのこ』、かなり安定してきただろ?」
「カゲ!」
「威力も上がった」
「カゲ!」
「だったら、次に進もう」
ヒトカゲの目が輝いた。
「カゲ?」
レンは的を見る。
「もっと強い炎を使えるようになる」
「カゲ……!」
ヒトカゲの尻尾の炎が大きく揺れた。
◇
レンには前世の知識がある。
ヒトカゲが成長すれば、どのような技を覚えられるのかも知っている。
その一つが――『かえんほうしゃ』。
炎タイプを代表する強力な技。
しかし、知識として名前を知っていることと、目の前のヒトカゲに習得させられることはまったく別の話だ。
「最初から『かえんほうしゃ』を出そうとはしない」
「カゲ?」
「今のお前が使える『ひのこ』を変えていく」
レンは紙へ簡単な図を描いた。
「今は炎を一気に飛ばしてる」
「カゲ」
「今日は、いつもより少し長く出してみよう」
いきなり威力を上げない。
射程も求めない。
まず炎を維持する。
ヒトカゲの身体が無理なく扱える範囲で。
「やってみよう」
「カゲ!」
ヒトカゲが的の前へ立った。
距離は短い。
レンは少し離れた場所から見る。
「いつもの『ひのこ』」
「カゲッ!」
ボッ!
炎が飛ぶ。
命中。
「次。今より少しだけ長く」
「カゲ」
ヒトカゲが息を吸う。
「カゲェ……!」
ボォッ!
炎が伸びる。
しかし。
「カゲッ!?」
一瞬で途切れた。
ヒトカゲが咳き込む。
「ストップ」
レンはすぐに近づいた。
「大丈夫?」
「カゲ……」
「喉は?」
ヒトカゲが首を押さえる。
痛みというほどではなさそうだが、違和感はあるらしい。
「今日は無理しない」
「カゲ!」
「駄目」
「カゲー!」
「一回失敗したからって、すぐ繰り返す方が遠回りになる」
レンは水を渡した。
「どうして途切れたか考えてから」
ヒトカゲは不満そうだったが、水を受け取る。
レンも考えた。
単純に炎を長く出そうとして、力んだ。
一気に息を吐きすぎたのかもしれない。
「炎だけじゃないな」
「カゲ?」
「呼吸からやろう」
◇
その日から、新しい練習が加わった。
最初は炎すら出さない。
息を吸う。
一定の強さで吐く。
「ゆっくり」
「カゲェェ……」
「途中で強くしない」
「カゲェ……」
「そう」
サトシがそれを見たときは、本気で首を傾げた。
「何してんだ?」
「練習」
「技出してないぞ?」
「出さない練習」
「……それ練習なのか?」
「カゲ」
ヒトカゲが呆れたようにサトシを見る。
「なんだよその顔!」
レンは笑いながら説明した。
「今までは一瞬だけ炎を出してた。でももっと長く炎を出すなら、息の使い方も変えないと駄目だと思う」
「へぇ……」
サトシがヒトカゲを見る。
「じゃあオレもやる!」
「なんで?」
「こうだろ!」
大きく息を吸う。
「ふうううううううう!」
「…………」
「…………カゲ」
「どうだ!」
「何の特訓?」
「分かんない!」
「分からないでやってたのかよ」
「カゲカゲ!」
ヒトカゲが腹を抱えて笑った。
「笑うなよ!」
騒がしい時間を挟みながらも、練習は続いた。
そして数日後。
「やってみよう」
「カゲ!」
ヒトカゲが的を見る。
息を吸う。
無理に力まない。
いつもの『ひのこ』。
ただし、吐き出した炎を一瞬で終わらせない。
「カゲェェ……!」
ボォォ……!
炎が伸びた。
以前より長い。
一秒にも満たなかった炎が、僅かながら持続する。
「そのまま!」
「カゲェェ!」
ボォッ――。
途切れた。
ヒトカゲが息を吐く。
「カゲ……!」
「できた!」
レンが駆け寄る。
「今の!」
「カゲ!?」
「前より長かった!」
「カゲ!」
ヒトカゲが飛び跳ねた。
いつものように手を上げる。
ぱちん!
まだ『かえんほうしゃ』ではない。
強さも射程も足りない。
けれど、確実に一歩進んだ。
「この感覚を覚えよう」
「カゲ!」
◇
新しい技へ挑戦しているのは、炎だけではなかった。
ある日の午後。
レンはヒトカゲの『ひっかく』を見ていた。
「カゲッ!」
ザシュッ!
爪が的を捉える。
以前より速い。
鋭い。
踏み込みもいい。
「もう一回」
「カゲ!」
ザッ!
今度は斜め。
レンは腕を組む。
(そろそろ……)
『ひっかく』を一年近く磨いてきた。
爪を当てる。
それだけの練習ではない。
踏み込み。
重心移動。
身体の回転。
攻撃後の姿勢。
シバから学んだ、身体全体の力を攻撃へ伝える動きも取り入れている。
ならば。
「ヒトカゲ」
「カゲ?」
「今度は、もっと鋭く振ってみよう」
「カゲ?」
「力いっぱいじゃない」
レンは自分の腕を振って見せる。
「速く。相手の表面を切り裂くように」
ヒトカゲが的を見る。
右腕。
爪。
「カゲ……」
一度、ゆっくり振る。
違う。
もう一度。
「カゲ」
足を置き直す。
踏み込む。
腰。
肩。
腕。
シバから教わった動きを、ヒトカゲ自身の身体へ合わせてきた。
そして――。
「カゲッ!」
鋭く振り抜く。
ザシュッ!
「……!」
今までとは音が違った。
的の表面に、はっきりと深い傷が残っている。
ヒトカゲ自身も驚いた。
「カゲ……?」
レンは的へ近づいた。
傷を見る。
振り返る。
「もう一回」
「カゲ!」
二撃目。
「カゲェッ!」
ザシュッ!
さらに深い傷。
速さ。
鋭さ。
威力。
明らかに『ひっかく』とは違う。
レンの顔に笑みが広がった。
「できた」
「カゲ?」
「ヒトカゲ」
レンは手を上げる。
「今の――『きりさく』だ」
「カゲ……!」
ヒトカゲが自分の爪を見る。
「『ひっかく』をずっと練習してきたからできたんだ」
「カゲ!」
「新しく突然できるようになったんじゃない」
毎日。
何度も。
失敗し。
直して。
また振った。
その積み重ねが、一つ上の技へ繋がった。
ヒトカゲがレンへ駆け寄る。
「カゲ!」
ぱちん!
「よくやった!」
「カゲ!」
レンも嬉しかった。
前世では、レベルが上がれば技を覚える。
だがこの世界では、こうして積み重ねの先で技へ届くことがある。
その瞬間を目の前で見られる。
トレーナーとして、これほど嬉しいことはなかった。
「でも」
「カゲ?」
「『ひっかく』も捨てないよ」
ヒトカゲが首を傾げる。
「『きりさく』の方が強いからって、全部それでいいわけじゃない」
素早く軽く攻撃したい場面。
大きく踏み込めない場面。
威力より次の動きを優先したい場面。
状況によっては、慣れ親しんだ『ひっかく』の方が使いやすいこともある。
「使えるものは全部使おう」
「カゲ!」
覚えた技を忘れさせる必要などない。
レンとヒトカゲにとって、技は四つの枠へ押し込むものではなかった。
積み上げてきた経験そのものだ。
◇
そして、もう一つ。
それは狙って始めた練習ではなかった。
その日はサトシと一緒に森へ出ていた。
ヒトカゲの足場への対応力を鍛えるため、普段の庭とは違う場所を歩いていたのだ。
木の根。
落ち葉。
傾斜。
柔らかい土。
自然の中では、一歩ごとに足場が違う。
「うわっ!」
後ろで声がする。
レンが振り返る。
サトシが木の根に引っかかっていた。
「だから足元見ろって」
「転んでないからセーフ!」
「カゲカゲ」
「笑うなって!」
そのとき。
草むらが大きく揺れた。
「ん?」
レンの表情が変わる。
ヒトカゲもすぐに前へ出た。
「カゲ……!」
一匹の野生のコラッタが飛び出してきた。
「ラッタ!」
驚いている。
どうやらこちらが縄張りへ近づきすぎたらしい。
「下がって、サトシ」
「お、おう!」
レンはヒトカゲを見る。
「無理に戦わなくていい」
「カゲ」
ヒトカゲもすぐには攻撃しない。
しかしコラッタは興奮していた。
「ラッタ!」
地面を蹴る。
速い。
「来る!」
ヒトカゲが構えた。
コラッタが真正面から飛び込む。
「右へ!」
「カゲ!」
ヒトカゲが避ける。
コラッタはすぐに振り返る。
「ラッタ!」
再び突進。
ヒトカゲが避けようとする。
だが木々の間。
庭ほど自由に動けない。
「後ろは木だ!」
「カゲ!?」
一瞬、動きが止まる。
コラッタが迫る。
そのときだった。
「カゲッ!」
ヒトカゲが大きく息を吐いた。
炎ではない。
黒い煙が一気に噴き出した。
「うわっ!?」
サトシが声を上げる。
「ラッタ!?」
コラッタの視界が煙に覆われる。
突進の軌道がずれた。
ヒトカゲの横を通り過ぎる。
「今だ、こっち!」
「カゲ!」
レンとヒトカゲが煙の外へ移動する。
コラッタも煙から飛び出したが、先ほどまでの勢いはない。
レンたちとの距離が開いている。
「戦う気はないよ」
レンは静かに後退した。
ヒトカゲも攻撃しない。
コラッタはしばらく警戒していたものの、やがて草むらへ戻っていった。
静かになる。
数秒。
「……今の」
レンがヒトカゲを見る。
「カゲ?」
ヒトカゲ自身も分かっていないらしい。
サトシが興奮して駆け寄った。
「煙! 煙出したぞ!」
「見れば分かるよ」
「新しい技か!?」
レンは考える。
黒い煙。
視界を奪う。
そしてヒトカゲが習得できる技。
答えはすぐに出た。
「たぶん――『えんまく』」
「えんまく!」
「カゲ?」
ヒトカゲが首を傾げる。
レンは笑った。
「お前、また技覚えたみたいだぞ」
「カゲ!」
ヒトカゲの顔が一気に明るくなった。
だがレンが注目したのは、新技を覚えたことだけではない。
「それより、今の使い方よかった」
「カゲ?」
「攻撃しなかっただろ」
ヒトカゲはコラッタを倒そうとしなかった。
視界を奪い、その隙に離れた。
それで戦いを終わらせた。
「技って、相手を倒すためだけに使うものじゃないんだ」
「カゲ……」
レンの中で、さらにいくつもの使い方が浮かぶ。
視界を遮る。
位置を変える。
接近する。
距離を取る。
攻撃の瞬間を隠す。
相手の狙いを乱す。
(これ、かなり使える)
『えんまく』。
単純な攻撃力はない。
だからこそ、使い方次第でいくらでも化ける。
レンが笑った。
「帰ったら練習しよう」
「カゲ!」
「今日はもう使わないよ」
「カゲ!?」
「偶然出たばっかりなんだから、まず身体に負担がないか確認」
「カゲー!」
「さっき自分で戦わずに済ませたのに、そこは我慢できないのかよ」
サトシが大笑いした。
◇
『えんまく』を覚えてから、ヒトカゲの戦い方はさらに広がった。
「『えんまく』!」
「カゲ!」
黒煙が広がる。
ただし、レンは最初から広範囲を煙で埋めさせなかった。
「止めて!」
煙が途切れる。
「カゲ?」
「多すぎる」
「カゲ?」
「相手が見えなくなるけど、俺たちからも見えなくなる」
ヒトカゲが煙を見る。
「だから必要なところだけ」
視界を奪うなら、一瞬でもいい。
相手との間に壁を作る。
相手の顔周辺へ集中させる。
自分の移動方向だけを隠す。
用途によって量を変える。
「もう一回」
「カゲ!」
黒煙。
今度は先ほどより狭い。
「そのまま左へ!」
ヒトカゲが煙の陰を使って移動する。
「いい!」
次。
煙。
右へ行くように見せて――。
「カゲ!」
左。
レンは笑う。
(使える)
ヒトカゲも楽しそうだった。
力で押すだけではない。
相手を惑わせる。
考えさせる。
選択肢を増やす。
レンが目指す万能型の戦い方に、『えんまく』は非常によく合っていた。
◇
そして『ひのこ』の訓練も続いた。
一週間。
二週間。
三週間。
短時間だけ炎を維持する。
安定したら少し伸ばす。
疲労が強ければ休む。
炎が乱れれば『ひのこ』へ戻る。
無理に先へ進まない。
その繰り返しだった。
ある日の夕方。
「もう一回だけ」
「カゲ!」
レンが的を確認する。
十分な距離を取る。
周囲に燃えやすいものがないことも確認済み。
ヒトカゲが立つ。
「今まで通り」
「カゲ」
「力を一気に全部出さない」
「カゲ」
「炎を押し続ける」
ヒトカゲが息を吸う。
静かに。
深く。
レンは黙った。
「カゲ……」
ヒトカゲの目が的へ向く。
そして。
「カゲェェェェ――ッ!」
炎が放たれた。
いつもの『ひのこ』とは違う。
火の粉の塊ではない。
一本につながった炎。
ボォォォォォッ!
「……!」
レンの目が見開かれる。
炎が途切れない。
一秒。
さらに続く。
的を包み込む。
「そのまま!」
「カゲェェェェッ!」
炎がさらに強くなる。
ヒトカゲの足が地面を掴む。
身体はぶれない。
そして――。
「止め!」
炎が途切れた。
静寂。
的から煙が上がっている。
ヒトカゲは肩で息をしていた。
「カゲ……カゲ……」
レンはすぐに駆け寄る。
「大丈夫?」
「カゲ……!」
疲れている。
だが。
笑っている。
レンも笑った。
「できた」
「カゲ?」
「できたよ」
レンは焼けた的を見る。
「『かえんほうしゃ』」
「カゲ……!」
ヒトカゲが自分の口元へ触れる。
「お前が覚えたんだ」
「カゲ!」
「『ひのこ』をずっと練習してきたから」
「カゲ!」
レンが手を上げる。
ヒトカゲも上げる。
ぱちん!
「やったな!」
「カゲェ!」
レンはそのままヒトカゲを抱き上げた。
「カゲ!?」
「すごい!」
「カゲ!」
「ほんとにできた!」
一年前。
小さな『ひのこ』すら上手く出せなかった。
火の粉が散り。
狙いも定まらず。
少し使っただけで疲れていた。
それが今。
炎を一本の奔流として放った。
才能だけではない。
毎日積み上げた。
失敗して。
休んで。
考えて。
また練習した。
その全てが、今の一撃へ繋がっている。
「カゲ!」
ヒトカゲがレンの腕の中で拳を出した。
「うん」
こつん。
二人の拳が重なる。
◇
その夜。
レンは机に向かっていた。
隣ではヒトカゲが眠っている。
今日は疲れたのだろう。
いつもより早く寝た。
ノートを開く。
現在、ヒトカゲが使える技。
『ひっかく』
最初から使えた技。
今でも素早い近距離攻撃として使える。
『ひのこ』
最初は小さな炎しか出せなかった。
今では精度も高く、軽く素早く放てる炎技として十分に価値がある。
『げんしのちから』
生まれた頃から眠っていた、親から受け継いだと思われる技。
発動速度と精度は大きく成長したが、他の技より負担が大きい。
『えんまく』
新しく習得。
視界を遮り、回避、接近、離脱、位置変更などへ利用できる。
まだ煙の量と範囲の調整は練習中。
『きりさく』
『ひっかく』を磨き続けた先で習得。
現時点で近距離における強力な攻撃手段。
ただし『ひっかく』より動作が大きいため、状況によって使い分ける。
そして――。
『かえんほうしゃ』
『ひのこ』から発展。
威力、射程ともに大幅に上昇。
ただし、まだ長時間の使用は負担が大きい。
レンはそこまで書いて、ペンを止めた。
六つ。
ゲームなら、すでに技の数が多い。
けれど、この世界でそんなことを気にする必要はない。
『かえんほうしゃ』を覚えたからといって、『ひのこ』を捨てる理由はない。
『きりさく』を覚えたからといって、『ひっかく』が消えるわけでもない。
それぞれに違う使い道がある。
これからさらに増える。
そして――。
レンは眠るヒトカゲを見る。
「まだ先もある」
「……カゲ……」
寝言のような声。
レンは小さく笑った。
前世の知識には、もう一つ心当たりがある。
ヒトカゲが生まれたときから、どこかに眠っている可能性のある力。
けれど今の身体では扱えない。
おそらくリザードでもまだ早い。
もっと大きく。
もっと強く。
翼を持つほどまで成長した、その先で。
初めて形になるもの。
レンはその名前を口にはしなかった。
まだ必要ない。
今のヒトカゲには、今できることがある。
「焦らなくていい」
レンは静かに呟く。
旅立ちまで、まだ時間はある。
◇
翌朝。
「カゲ!」
「今日は休み」
「カゲ!?」
目覚めて早々、昨日覚えた『かえんほうしゃ』を練習する気満々だったヒトカゲが固まった。
「昨日かなり疲れてただろ」
「カゲ!」
「駄目」
「カゲー!」
「喉も休ませる」
「カゲ!」
「抗議しても変わらない」
そこへ。
「レンー!」
サトシの声。
「ヒトカゲー!」
庭へ駆け込んでくる。
「昨日『かえんほうしゃ』覚えたって本当か!?」
「誰から聞いたの?」
「お前のお母さん!」
「早いな……」
「見せてくれよ!」
「今日は使わない」
「ええええ!?」
今度はサトシまで抗議した。
「なんでだよ!」
「休養日だから」
「一回だけ!」
「駄目」
「ちょっとだけ!」
「駄目」
「カゲ!」
ヒトカゲがサトシ側につく。
「ほら、ヒトカゲもやりたいって!」
「二対一でも駄目」
「ケチ!」
「カゲー!」
レンはため息をついた。
それでも口元は笑っていた。
昨日より強くなった。
だから今日、さらに無理をする必要はない。
今日休めば、明日はもっといい状態で練習できる。
それを積み重ねる。
旅立ちまで。
そして旅立ったあとも。
ずっと。
「じゃあ今日は何するんだよ」
サトシが聞く。
レンは少し考えた。
「散歩」
「それだけ?」
「それだけ」
「カゲ……」
「休むのも特訓のうち」
レンはそう言って歩き始める。
ヒトカゲはまだ不満そうだったが、やがてその隣へ並んだ。
サトシも後を追う。
「なあレン」
「何?」
「あと一年もないんだよな」
「うん」
「旅」
レンは前を見る。
マサラタウンの外へ続く道。
「そうだね」
サトシが笑った。
「楽しみだな!」
「うん」
ヒトカゲも二人の間で顔を上げる。
「カゲ!」
レンは笑う。
以前のヒトカゲなら、ただ炎を吐いていた。
ただ爪を振っていた。
今は違う。
『ひのこ』は『かえんほうしゃ』へ繋がった。
『ひっかく』は『きりさく』へ繋がった。
危機の中で生まれた『えんまく』は、新しい戦術を作った。
けれど、それで完成したわけではない。
むしろ――これからだ。
『えんまく』と攻撃をどう組み合わせるか。
『ひのこ』と『かえんほうしゃ』をどう使い分けるか。
『ひっかく』と『きりさく』をどの距離で選ぶか。
『げんしのちから』をどこで切るか。
そして、それらをレンの指示だけではなく、ヒトカゲ自身の判断でも使えるようにする。
覚えるだけでは足りない。
使えるだけでも足りない。
自分たちの武器として磨き上げる。
レンが目指すのは、その先だ。
「ヒトカゲ」
「カゲ?」
「明日から忙しくなるぞ」
一瞬。
ヒトカゲの目が輝く。
「カゲ!」
「新しい技、全部使いこなせるようにする」
「カゲェ!」
拳が差し出される。
レンも自分の拳を合わせた。
こつん。
小さな炎から始まった相棒は、確実に強くなっている。
けれどレンは知っていた。
ヒトカゲの炎は、まだこんなものではない。
いつの日か空を飛び。
さらに巨大な炎を操り。
世界の頂点に立つ強者たちと真正面からぶつかる。
その未来へ続く道は、突然現れるものではない。
今日まで繰り返してきた『ひのこ』の一発。
『ひっかく』の一振り。
走った一歩。
休んだ一日。
その全てが繋がっている。
レンとヒトカゲは、サトシと並んでマサラタウンの道を歩いていく。
旅立ちの日は、少しずつ近づいていた。
そして、その日を迎える頃。
今よりさらに強くなったヒトカゲと共に最初の一歩を踏み出すために――。
二人の積み重ねは、今日も続いていく。