ポケットモンスター ―頂への軌跡―   作:あああああ

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第14話 同じ道を歩くなら

翌朝、レンが目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、二つの小さな影が向かい合っていた。

 

まだ完全には覚醒していない頭で身体を起こし、目を凝らす。そこにいたのは、昨日あれだけ激しいバトルをしたばかりのヒトカゲとリオルだった。

 

互いに腰を落とし、いつでも飛び出せるように構えている。

 

どう見ても、朝一番から再戦するつもりだった。

 

「……何してるの?」

 

「カゲ」

 

「リオ」

 

二匹は揃ってこちらを見たものの、悪びれる様子はない。

 

レンは小さく息を吐いた。

 

「駄目」

 

「カゲ!?」

 

「リオ!?」

 

驚きの声まで綺麗に重なった。

 

「昨日バトルしたばっかりだろ。身体に疲れが残ってないか確認する方が先」

 

ベッドから降りたレンは、まずヒトカゲの前にしゃがみ込んだ。肩や腕、腹部、脚と、昨日リオルの攻撃を受けた場所を中心に触れながら状態を確かめていく。

 

大きな怪我はない。歩き方にも不自然なところはなく、尻尾の炎も安定している。

 

それでも、筋肉には多少の張りが残っていた。

 

「やっぱり今日は軽くした方がいいな」

 

「カゲ……」

 

次にリオルへ向き直る。

 

「リオルも見ていい?」

 

「リオ」

 

了承を得てから、今度は『げんしのちから』や『きりさく』を受けた箇所を中心に確認する。こちらも怪我というほどではないものの、昨日の疲労が完全に抜けているわけではなかった。

 

「リオルも今日は休み」

 

「リオ……」

 

二匹がほとんど同時に肩を落とす。

 

その姿が妙に似ていて、レンは思わず笑ってしまった。

 

「本当に似てきたな」

 

「カゲ?」

 

「リオ?」

 

今度は同時に首を傾げる。

 

「そこまで一緒にしなくてもいいって」

 

ヒトカゲとリオルは顔を見合わせると、なぜか互いに納得したように頷いた。

 

「カゲ」

 

「リオ」

 

何を話しているのかは分からない。

 

けれど、昨日あれほど激しく戦ったにもかかわらず、二匹の関係が悪くなるどころか、以前より近くなっていることだけはレンにも分かった。

 

強いからこそ負けたくない。

 

負けたくないからこそ、もっと強くなりたい。

 

そして、どうせ強くなるのなら――こいつより先へ行きたい。

 

二匹にとって互いが、少しずつそんな存在になっているのだろう。

 

「とりあえず朝ご飯にしよう」

 

「カゲ!」

 

「リオ!」

 

再戦を止めたときとは打って変わって、二匹は元気よく部屋を飛び出していった。

 

「そこは素直なんだな……」

 

レンも笑いながら、その後を追った。

 

◇

 

朝食を終えると、レンはヒトカゲとリオルを連れて庭へ出た。

 

もちろん、本格的な特訓を始めるためではない。今日は休養日である以上、身体へ大きな負荷をかけるつもりはなかった。

 

代わりに行うのは、昨日のバトルの振り返りだ。

 

レンは地面へ腰を下ろすと、近くにあった小石をいくつか拾った。

 

「これがヒトカゲ」

 

「カゲ」

 

一つ置く。

 

「こっちがリオル」

 

「リオ?」

 

もう一つ。

 

リオルは不思議そうに地面を覗き込んだ。

 

ヒトカゲにとっては見慣れた光景だ。

 

バトルが終わったあと、互いの動きを簡単に再現しながら、何が良かったのか、何が悪かったのか、別の選択肢はなかったのかを考える。

 

勝ったときも。

 

負けたときも。

 

レンとヒトカゲは、ずっとそれを続けてきた。

 

「まず最初。リオルが一気に入ってきた」

 

レンがリオルを示す石を動かす。

 

「リオ」

 

「前に戦ったときより速くなってるのは分かった。でも、本当に困ったのは速さだけじゃなかった」

 

最初の拳を避けた直後に足払いが来て、倒れたヒトカゲが起き上がる頃には、もう次の攻撃へ移っていた。

 

以前よりも、一つ一つの動きが滑らかに繋がっている。

 

「攻撃が一個ずつじゃなくなってたんだ。一つ目を避けても、それで終わらない。次がすぐ来る」

 

リオルの耳がぴくりと動いた。

 

レンは素直に笑った。

 

「すごくよかった」

 

「リオ……!」

 

褒められると思っていなかったのか、リオルは一瞬目を丸くしたあと、少しだけ胸を張った。

 

隣でヒトカゲが腕を組む。

 

「カゲ」

 

「リオ?」

 

「カゲカゲ」

 

「リオ!」

 

どうやら昨日の相手として、ヒトカゲも同じことを感じていたらしい。

 

ただし、良かったところだけで終わらせるつもりはない。

 

「でも、後半は右へ動くときに少しだけ遅くなってた」

 

「リオ!」

 

今度こそ、リオルがはっきりと目を見開いた。

 

「自分でも気づいてた?」

 

「リオ……」

 

小さく頷く。

 

レンは自分の右肩を指した。

 

「たぶん、『げんしのちから』を受けたところ。そのあと『きりさく』も受けたから、無意識に庇ってたんだと思う」

 

リオルが自分の肩を見る。

 

「でも、それ自体は悪いことじゃないよ。痛い場所があれば身体が庇うのは普通だから」

 

大切なのは、そこからだ。

 

レンは二つの石を動かしながら説明を続ける。

 

「昨日のリオルは、右側が動きにくくなったことを隠そうとしてた。それも一つの方法だと思う。でも、相手が気づいてる可能性も考えた方がいい」

 

「リオ……」

 

「例えば、右が動きにくいって相手に気づかれたなら、それを逆に利用することもできる」

 

わざと右側へ隙を作る。

 

相手がそこを狙ってきた瞬間、待ち構えて反撃する。

 

弱くなった部分をただ隠すのではなく、相手がそこをどう見るかまで考える。

 

説明を聞いていたリオルの表情が、徐々に真剣なものへ変わっていった。

 

「リオ……!」

 

どうやら意味を理解したらしい。

 

ただ、レンはそこで言葉を止めなかった。

 

「でも、これは無理して動けって意味じゃないからね。本当に痛かったら止める。怪我を悪化させてまで勝つ必要はない」

 

「リオ」

 

「戦える状態なら、その中でどう補うかを考える。それだけ」

 

リオルは自分の拳を見つめ、しばらく考えてから静かに頷いた。

 

その様子を確認してから、レンは今度はヒトカゲへ顔を向ける。

 

「じゃあ次。お前」

 

「カゲ!」

 

なぜか胸を張った。

 

「昨日、最初に足払い食らったよね」

 

「カゲ……」

 

一瞬で胸がしぼむ。

 

横でリオルが笑った。

 

「リオ」

 

「カゲ!」

 

「喧嘩しない」

 

レンは苦笑しながら石を動かした。

 

「あのとき、ヒトカゲはリオルの拳ばっかり見てた。だから、その下から来た足に反応できなかった」

 

「カゲ……」

 

「相手が拳を使うからって、拳だけ見たら駄目だよ」

 

腕だけではない。

 

脚。

 

腰。

 

視線。

 

重心。

 

呼吸。

 

相手の全身から、次の動きを読む。

 

もちろん実戦の最中に一つ一つ考えている暇などない。だからこそ、普段の練習から見る癖をつけておく必要がある。

 

「次にリオルと戦うときは、もっと全身を見る」

 

「カゲ!」

 

「リオ!」

 

リオルが拳を上げる。

 

また同じ攻撃を狙ってやる、とでも言いたげだった。

 

ヒトカゲもすぐに拳を握り返す。

 

今度は絶対に食らわない。

 

その表情が分かりやすすぎて、レンは思わず笑った。

 

「それじゃあ最後。昨日、一番よかったところ」

 

今度こそヒトカゲの顔が明るくなる。

 

最後の『えんまく』。

 

そして、煙の向こうから放った『かえんほうしゃ』。

 

「あれは俺の指示じゃなかった」

 

「カゲ!」

 

「ヒトカゲが自分で考えて選んだ」

 

リオルが隣のヒトカゲを見る。

 

「リオ……」

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲは誇らしげに胸を張った。

 

「でも、俺も何もしてなかったわけじゃない。その前に、リオルの右側の動きが少し落ちてるって伝えた」

 

「カゲ」

 

「俺が外から見つけたことを伝えて、その情報を使って、最後はヒトカゲが自分で考えた」

 

レンは二匹を交互に見た。

 

「俺が全部決めるんじゃないんだ」

 

ヒトカゲが見るもの。

 

トレーナーであるレンが見るもの。

 

その二つは同じではない。

 

だからこそ、片方だけで戦う必要もない。

 

「一緒に考える。俺が見えてないものはヒトカゲが見ればいいし、ヒトカゲから見えないものは俺が見る」

 

レンは穏やかに笑った。

 

「それが、俺のやりたいバトルだから」

 

「リオ……」

 

庭を抜けた風が、草を小さく揺らす。

 

リオルは何も言わずにレンを見つめていたが、やがてその言葉を胸の内へ刻むように、ゆっくりと頷いた。

 

◇

 

午後になると、身体を固めない程度の軽い散歩へ出ることになった。

 

レンとヒトカゲ、リオル、そしてシバ。

 

そこへ当然のようにサトシも混ざっている。

 

「よーし! 今日は山まで行こうぜ!」

 

「休養日って言ってるだろ」

 

「歩くだけだって!」

 

「お前の『歩くだけ』は信用できないんだよ」

 

「なんでだよ!」

 

「前に散歩って言いながら途中で走り出したから」

 

「今日は走らない!」

 

そう宣言した直後、頭上を一匹のポッポが横切った。

 

「ポッポだ!」

 

サトシが勢いよく駆け出す。

 

「サトシ」

 

「あ」

 

三歩で止まった。

 

振り返ったサトシは、何事もなかったような顔を作る。

 

「……走ってない!」

 

「走ってたよ」

 

「カゲカゲ」

 

「リオ」

 

ヒトカゲとリオルまで笑い始めた。

 

「お前らまで笑うなよ!」

 

騒がしい。

 

けれど、レンはこういう時間が嫌いではなかった。

 

旅に出れば、きっと似たような日々が続いていく。

 

サトシと歩き、ヒトカゲと共に知らない土地へ行く。まだ見たことのないポケモンに出会い、知らないトレーナーと戦いながら、一歩ずつ世界を広げていく。

 

以前なら、それはまだ先の未来だった。

 

今は違う。

 

手を伸ばせば届きそうなところまで、旅立ちの日は近づいている。

 

「レン」

 

隣を歩いていたシバが、不意に口を開いた。

 

「何?」

 

「旅の準備は進んでいるか」

 

「うん。父さんと必要な物も確認してる」

 

「怖くはないか」

 

意外な問いだった。

 

レンは思わずシバを見る。

 

いつも強さについて語る叔父から、その言葉を聞くとは思っていなかった。

 

少し考えてから、正直に答える。

 

「怖くないって言ったら嘘かな」

 

前世の知識はある。

 

それでも、この世界でこれから何が起こるのかを全て知っているわけではない。

 

ましてやレン自身が存在し、サトシと共に旅をする以上、知っている未来がそのまま訪れる保証などどこにもなかった。

 

「何が起きるか分からないし。でも、楽しみの方がずっと大きい」

 

「そうか」

 

「シバおじさんは?」

 

「何がだ」

 

「最初に旅へ出たとき。怖くなかった?」

 

シバは少しの間、答えなかった。

 

やがて前を向いたまま言う。

 

「怖かった」

 

「へえ」

 

思わず声が出た。

 

シバがこちらを見る。

 

「意外か」

 

「ちょっと」

 

「俺も人間だ」

 

「それは知ってるよ」

 

レンが笑うと、シバもほんの僅かに表情を緩めた。

 

「強さとは、恐怖がなくなることではない」

 

その声に、レンは自然と耳を傾ける。

 

「恐怖を知ったうえで進むことだ。それに、ポケモンと共に旅をするなら、自分だけの命ではないことも忘れるな」

 

レンは前方へ目を向けた。

 

ヒトカゲとリオルが並んで歩いている。

 

少し先では、サトシがまた何かを見つけて騒いでいた。

 

「分かってる」

 

「ああ。ならいい」

 

短いやり取りだった。

 

けれど、それで十分だった。

 

◇

 

しばらく歩いたところで、先を歩いていたヒトカゲが突然足を止めた。

 

「カゲ?」

 

隣のリオルも、ほとんど同時に森の奥へ顔を向ける。

 

「リオ」

 

レンも立ち止まった。

 

「どうした?」

 

二匹が見ている先で、草むらが僅かに揺れた。

 

サトシが戻ってくる。

 

「何かいるのか?」

 

「静かに」

 

レンが声を落とす。

 

直後、今度は先ほどより大きく草木が揺れた。

 

ガサガサッ!

 

そして木々の間から、一匹のオニスズメが飛び出してくる。

 

「オニィ!」

 

一匹だけではなかった。

 

二匹、三匹と続き、さらに後方から何匹ものオニスズメが現れる。

 

「群れ……?」

 

レンはすぐに違和感を覚えた。

 

こちらを襲おうとしている飛び方ではない。

 

隊列は乱れ、後ろを気にする個体もいる。

 

何かから逃げている。

 

「伏せろ!」

 

シバの声に、全員が身体を低くした。

 

オニスズメの群れが頭上を通過する。

 

「うわっ!」

 

サトシが頭を抱える。

 

そのとき、群れから少し遅れていた一匹が、飛行中に木の枝へ身体をぶつけた。

 

「オニッ!」

 

体勢を崩す。

 

そのまま地面へ落ちていく。

 

「危ない!」

 

レンが駆け出すより早く、青い影が前へ飛び出した。

 

「リオ!」

 

リオルだ。

 

両腕を伸ばし、落ちてきたオニスズメを受け止める。

 

だが、落下の勢いまでは殺しきれない。

 

「リオ!?」

 

リオルの身体まで後ろへ倒れそうになった瞬間。

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲが横から飛び込み、その背中を支えた。

 

二匹で踏ん張る。

 

なんとか、オニスズメを地面へ叩きつけずに済んだ。

 

「大丈夫!?」

 

レンがすぐに駆け寄る。

 

まずヒトカゲとリオルを見る。

 

大きな怪我はない。

 

次にオニスズメ。

 

「オニ……」

 

意識はある。

 

ただ、片方の翼を気にしていた。

 

「枝にぶつけたのか……」

 

レンは手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 

相手は野生のポケモンだ。

 

怪我をしているからといって、勝手に触れていいわけではない。

 

ましてやオニスズメは気性が荒い。

 

「シバおじさん」

 

「ああ」

 

シバも近くへ来る。

 

オニスズメは警戒するようにこちらを睨んだ。

 

「オニ……!」

 

「大丈夫。何もしないよ」

 

レンは低い姿勢を保ったまま、必要以上に距離を詰めなかった。

 

言葉がどこまで通じるかは分からない。

 

それでも、声を荒らげず、敵意がないことを示す。

 

ヒトカゲも。

 

リオルも。

 

誰一匹として不用意に動かない。

 

しばらくすると、オニスズメの身体から少しずつ力が抜けていった。

 

レンは持ってきていた応急処置用品を取り出す。

 

「翼、見せてもらえる?」

 

「オニ……」

 

まだ警戒している。

 

なら待つ。

 

急がない。

 

数十秒ほどして、オニスズメが僅かに翼を開いた。

 

「ありがとう」

 

レンはようやく距離を縮めた。

 

大きな出血はない。

 

擦り傷があり、強くぶつけたことで痛みもあるようだ。

 

幸い、翼そのものが大きく変形している様子はない。

 

「無理に飛ばない方がいい」

 

「オニ……」

 

簡単な処置をするレンの姿を、リオルはすぐ隣で静かに見つめていた。

 

◇

 

少し休ませると、オニスズメは自分の力で立ち上がった。

 

慎重に翼を動かし、やがて一度大きく羽ばたく。

 

「まだ無理しない方が――」

 

「オニ!」

 

身体が僅かに浮いた。

 

「おっ!」

 

サトシが嬉しそうに声を上げる。

 

飛び方はまだ不安定だったが、近くの枝へ移る程度なら問題なさそうだ。

 

オニスズメは枝の上から一度だけレンたちを見た。

 

「オニ」

 

短く鳴く。

 

それが礼だったのかは分からない。

 

けれど、そのまま森の奥へ飛び去っていく姿を見て、サトシが大きく息を吐いた。

 

「よかったー!」

 

「群れに戻れるといいな」

 

「うん」

 

レンも頷いた。

 

ただ、気になることが一つ残っている。

 

先ほどの群れ。

 

あれは間違いなく、何かから逃げていた。

 

レンがシバを見ると、叔父も同じことを考えていたらしい。

 

「あの群れが気になるか」

 

「うん」

 

「確認するか?」

 

レンは森の奥を見る。

 

危険を冒してまで追いかける必要はない。

 

それでも、近くで何か異常が起きているなら、原因だけは把握しておきたかった。

 

「少しだけ」

 

「ああ」

 

「よし、じゃあ行こうぜ!」

 

サトシが真っ先に前へ出ようとする。

 

「サトシは俺より前に出ない」

 

「なんで!?」

 

「まだポケモン持ってないだろ」

 

「うっ……」

 

正論を突かれ、サトシが止まる。

 

レンはヒトカゲとリオルを見る。

 

「行こう」

 

「カゲ!」

 

「リオ!」

 

二匹を先頭に置き、レンたちは慎重に森の奥へ進んだ。

 

◇

 

原因は、それほど遠くない場所にいた。

 

「……あれか」

 

木々の間に見えた大きな影。

 

太い腕。

 

茶色い体毛。

 

野生のリングマだった。

 

「グマァ……!」

 

明らかに機嫌が悪い。

 

その周囲には、地面へ落ちた木の実がいくつも散らばっていた。

 

「オニスズメが木の実を取ろうとしたのかな」

 

レンが小声で呟く。

 

「可能性はある」

 

シバが答える。

 

縄張りを荒らされたのか。

 

餌を奪われそうになったのか。

 

正確な理由までは分からない。

 

ただ、今のリングマを刺激すべきではないことだけは確かだった。

 

「戻ろう」

 

レンはすぐに決めた。

 

戦う必要はない。

 

こちらに気づいていないのなら、そのまま離れればいい。

 

サトシも今回は素直に頷く。

 

「おう」

 

全員でゆっくりと後退する。

 

一歩。

 

二歩。

 

そのとき。

 

パキッ。

 

乾いた音が森へ響いた。

 

全員の動きが止まる。

 

サトシの足元で、細い枝が折れていた。

 

「…………」

 

リングマの耳が動く。

 

「グマ?」

 

ゆっくりと振り返る。

 

目が合った。

 

「…………」

 

「…………」

 

数秒の沈黙。

 

サトシが引きつった笑みを浮かべた。

 

「……まずい?」

 

レンも同じように笑った。

 

「かなり」

 

「グマァァァァ!」

 

咆哮が森を震わせた。

 

「走れ!」

 

次の瞬間、全員が一斉に駆け出した。

 

「うわああああ!」

 

「前見ろサトシ!」

 

「見てるって!」

 

「カゲ!」

 

「リオ!」

 

背後から木々を掻き分ける音が迫る。

 

リングマは大きな身体に似合わず速かった。

 

枝を折り、草を踏み潰しながら、一直線に追ってくる。

 

「このままだと追いつかれる!」

 

サトシの声に、レンが振り返った。

 

確かに距離が縮まっている。

 

このまま逃げ続けるのは危険だ。

 

「ヒトカゲ!」

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲが急停止する。

 

その隣で、リオルも自然に足を止めた。

 

「リオ!」

 

シバがレンを見る。

 

「やれるか」

 

レンは短く考えた。

 

昨日の疲労が残っている。

 

長く戦わせるべきではない。

 

それに、そもそもリングマを倒す必要がない。

 

目的は一つ。

 

安全に離れること。

 

「倒さない」

 

レンは答えた。

 

「追ってこられないだけの時間を作って逃げる」

 

シバが僅かに頷く。

 

「いい判断だ」

 

リングマが迫る。

 

「グマァ!」

 

「ヒトカゲ、『えんまく』!」

 

「カゲ!」

 

黒煙が一気に広がり、リングマの視界を覆った。

 

「グマ!?」

 

突進が止まる。

 

その隙にレンはリオルを見る。

 

「リオル、横から注意を引いて!」

 

「リオ!」

 

リオルが素早く煙の側面へ回り込み、太い木の幹へ拳を叩きつけた。

 

ドンッ!

 

「グマ!」

 

大きな音に反応し、リングマの顔がそちらを向く。

 

「今!」

 

レンたちは一斉に反対方向へ走った。

 

ヒトカゲもリオルもすぐに合流する。

 

しばらく走ったところで、後ろから再び咆哮が響いた。

 

「グマァ!」

 

「まだ来るぞ!」

 

煙から抜けたリングマが、再び追跡を始めている。

 

レンは走りながら周囲を見た。

 

木々。

 

傾斜。

 

岩。

 

そして前方に、一本の太い倒木がある。

 

その横には狭い隙間が空いていた。

 

人間と小型のポケモンなら通れる。

 

だがリングマには狭すぎる。

 

「右! あの倒木の横を抜ける!」

 

全員が進路を変えた。

 

レン。

 

サトシ。

 

ヒトカゲ。

 

リオル。

 

シバ。

 

順番に隙間を抜ける。

 

直後、リングマも到着した。

 

「グマァ!」

 

だが、大きな身体では通れない。

 

苛立ったように倒木を叩く。

 

「今のうちに離れよう!」

 

さらに距離を取る。

 

しばらく走り続けると、ようやくリングマの咆哮も聞こえなくなった。

 

◇

 

安全な場所まで戻ると、サトシがその場へ座り込んだ。

 

「疲れたぁ……」

 

「休養日のはずだったんだけどな」

 

レンも息を整える。

 

「カゲ……」

 

「リオ……」

 

ヒトカゲとリオルも、さすがに疲れたように並んで座った。

 

しばらくして、サトシが申し訳なさそうに頭を掻く。

 

「……ごめん」

 

「ん?」

 

「俺が枝踏んだから」

 

レンは少しだけ目を丸くした。

 

「珍しい」

 

「なんだよ!」

 

「いや、ちゃんと謝るんだと思って」

 

「オレだって謝るときは謝る!」

 

「うん。じゃあ次から気をつけよう」

 

「おう!」

 

引きずる必要はない。

 

誰にでも失敗はある。

 

大事なのは、そのあとだ。

 

シバが座っている二匹を見る。

 

「今の動きは悪くなかった」

 

「カゲ?」

 

「リオ?」

 

「相手を倒すことだけが勝ちではない」

 

レンは頷く。

 

「目的を達成できればいい」

 

「ああ」

 

リングマに勝つ必要などなかった。

 

『えんまく』で視界を奪い、リオルが別方向から注意を逸らし、その間に全員で離れる。

 

それで目的は達成している。

 

「二人とも、ありがとう」

 

「カゲ!」

 

「リオ!」

 

「助かったぞ!」

 

サトシも笑顔で続ける。

 

ヒトカゲは誇らしそうに胸を張り、リオルも少し嬉しそうに笑った。

 

そんな二匹を見ているうちに、レンはふと気づく。

 

「……相性いいな」

 

「カゲ?」

 

「リオ?」

 

「二人で動くとき」

 

昨日は敵同士だった。

 

今日は同じ側に立った。

 

ヒトカゲが煙で視界を奪い、リオルが別方向から注意を引く。

 

細かく役割を決めていたわけではない。それでも二匹は、互いの動きを邪魔することなく自然に役割を分けていた。

 

ヒトカゲとリオルも顔を見合わせる。

 

「カゲ」

 

「リオ」

 

少しして、ヒトカゲが拳を出した。

 

「カゲ!」

 

リオルも笑う。

 

「リオ!」

 

こつん。

 

二匹の拳が重なる。

 

その姿を見ながら、レンの頭に一つの想像が浮かんだ。

 

――もし、いつか。

 

この二匹が同じチームで戦うことになったら。

 

どれほど強くなれるのだろう。

 

考えるだけで胸が躍る。

 

けれど、レンはそれを口にはしなかった。

 

リオルにはリオルの道がある。

 

その道を決める権利は、レンではなくリオル自身にあるのだから。

 

◇

 

数日後。

 

シバが再びマサラタウンを離れる日が来た。

 

レンたちは町の外れまで見送りに来ていた。

 

「また来てください!」

 

サトシが元気よく言う。

 

「ああ」

 

「次に会うときは、オレもポケモン持ってるかもしれないから!」

 

「旅立ちまでまだ時間はあるだろう」

 

「でも次がいつか分からないじゃないですか!」

 

シバは何も答えなかった。

 

けれど、どこか面白そうな顔をしている。

 

その横では、ヒトカゲとリオルが向かい合っていた。

 

「カゲ」

 

「リオ」

 

もう言葉はいらない。

 

二匹が拳を出す。

 

こつん。

 

再戦の約束。

 

また強くなって会うという約束。

 

それだけで終わると思っていた。

 

しかし、リオルはヒトカゲから離れると、そのままレンの前まで歩いてきた。

 

「ん?」

 

「リオ」

 

リオルがレンを見上げる。

 

「どうした?」

 

答えはない。

 

ただ、真っ直ぐにこちらを見ている。

 

レンも急かさなかった。

 

やがてリオルが、ゆっくりと拳を差し出した。

 

レンは少し目を丸くする。

 

「……俺にも?」

 

「リオ」

 

思わず笑みがこぼれた。

 

レンも拳を出す。

 

こつん。

 

「またな」

 

「リオ」

 

「次に会うときも、もっと強くなってろよ」

 

「リオ!」

 

「俺たちも強くなる」

 

「カゲ!」

 

横からヒトカゲも声を上げる。

 

リオルが笑った。

 

そしてシバのもとへ戻る。

 

「行くぞ」

 

「リオ」

 

二つの背中が遠ざかっていく。

 

今回は、リオルが途中で足を止めることはなかった。

 

シバの横を、自分の足で歩いていく。

 

それでいい。

 

まだ今は。

 

レンはその姿が見えなくなるまで、静かに見送った。

 

◇

 

マサラタウンから十分に離れた頃。

 

それまで黙って歩いていたシバが、不意に口を開いた。

 

「リオル」

 

「リオ?」

 

「お前は、どうしたい」

 

リオルの足が止まった。

 

「リオ……?」

 

シバも立ち止まり、振り返る。

 

「俺について来たのは、お前が決めたことだ」

 

「リオ」

 

「だから、いつか俺から離れることを選ぶのも、お前自身だ」

 

リオルが目を見開いた。

 

シバは、それ以上何も言わなかった。

 

決めろとも言わない。

 

レンのところへ行けとも言わない。

 

ただ、選ぶ権利が自分にあるのだと伝えただけだった。

 

リオルはゆっくりと振り返る。

 

もうマサラタウンは見えない。

 

それでも、その向こうに何があるかは分かっている。

 

ヒトカゲ。

 

強い相手。

 

負けたくない相手。

 

一緒に鍛えると楽しい相手。

 

そして――レン。

 

自分の動きを見てくれた。

 

良かったところを褒め、悪かったところを一緒に考えてくれた。

 

ヒトカゲだけではなく、自分に対しても。

 

レンは以前言った。

 

自分が一番強くなれる形を探そう、と。

 

リオルは小さく拳を握った。

 

「リオ……」

 

それでも、すぐにマサラタウンへ戻ろうとはしなかった。

 

シバを見る。

 

まだ、この人から学びたいことがある。

 

もっと鍛えたい。

 

もっと強くなりたい。

 

そして――。

 

そのうえで、自分の道を選びたい。

 

「リオ」

 

リオルは再び前を向き、自分から歩き出した。

 

シバも何も言わず、その隣へ並ぶ。

 

答えはまだ出さない。

 

今すぐ選ぶ必要もない。

 

けれど、一つだけ以前とは明らかに違っていた。

 

リオルは初めて、自分自身へ問い始めている。

 

自分は、誰の隣で強くなりたいのか。

 

◇

 

同じ頃。

 

レンは自室でカレンダーを眺めていた。

 

旅立ちの日まで、残された時間はもうそれほど長くない。

 

以前は何年も先だった。

 

それが一年になり。

 

一年を切り。

 

今では、少しずつ具体的な準備を始める時期まで来ている。

 

「カゲ」

 

ヒトカゲが隣へやってきた。

 

レンはその頭を軽く撫でる。

 

「もうすぐだな」

 

「カゲ」

 

「楽しみ?」

 

「カゲ!」

 

迷いのない返事。

 

レンも笑った。

 

「俺も」

 

マサラタウンから始まる旅。

 

サトシと歩き。

 

ヒトカゲと戦い。

 

まだ知らない町へ行く。

 

まだ見たことのないポケモンと出会う。

 

ジムへ挑み、強いトレーナーと戦う。

 

勝つこともあれば、きっと負けることもある。

 

前世の知識があったとしても、それだけで世界の頂点へ行けるわけではない。

 

だからこそ。

 

「もっと強くなろう」

 

「カゲ!」

 

「でも、旅立つまでに完成しなくてもいい」

 

「カゲ?」

 

ヒトカゲが首を傾げる。

 

レンは窓の外へ視線を向けた。

 

「旅しながら強くなればいいんだ」

 

これまでずっと準備してきた。

 

それでも、十歳になった瞬間に全てが完成するわけではない。

 

レンも。

 

ヒトカゲも。

 

これから何年もかけて成長していく。

 

新しい技を覚え。

 

知らない戦い方を学び。

 

いつか進化し。

 

強敵とぶつかる。

 

その全てを積み重ねた先に、自分たちが目指す頂がある。

 

レンが拳を差し出した。

 

「一緒に行こうな」

 

「カゲ!」

 

こつん。

 

小さな拳が重なる。

 

レンの旅立ちは、もう遠い未来ではない。

 

そして同じ頃、マサラタウンから離れていく道の上では、一匹のリオルもまた、自分がこれから歩く道について考え始めていた。

 

今はまだ答えを出さない。

 

誰かに言われたから選ぶのでもない。

 

だからこそ、いつかその日が来たとき。

 

リオルが選ぶ道は、誰かから与えられたものではなく、自分自身が望んだ道になる。

 

一度離れたレン、ヒトカゲ、そしてリオルの道は、それぞれの場所で強さを求めながら――確実に、同じ未来へと近づき始めていた。

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