ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
シバとリオルがマサラタウンを離れてから、季節はさらに進んだ。
朝の空気には少しずつ冷たさが混じるようになり、庭を囲む草木の色も以前とは違っている。それでもレンとヒトカゲの日課は大きく変わらず、体調を確認してから身体を動かし、その日の目的に合わせた練習へ入る生活を続けていた。
ただし、内容は確実に変化している。
「ヒトカゲ、始めよう」
「カゲ!」
庭の中央でヒトカゲが構えた。
レンの前には三つの的がある。一つは固定され、残る二つは父に作ってもらった仕掛けで左右へ動くようになっていた。
今日の目的は、単純な命中練習ではない。
「一つ目!」
レンが仕掛けを動かすと、左側の的が走り出した。
ヒトカゲはすぐには攻撃せず、速度と方向を確かめてから口を開く。
「カゲッ!」
放たれたのは『ひのこ』。
狙ったのは的そのものではなく、その少し先だった。
動いてきた的が炎の軌道へ入り、命中する。
以前から続けてきた、動く相手の未来位置を狙う練習。その精度は、かなり高くなっていた。
「次!」
二つ目が反対側から動く。
今度は速い。
ヒトカゲは一瞬だけ『ひのこ』を放とうとして――やめた。
「カゲ!」
自分から走る。
距離を縮め、相手の進路へ先回りすると、鋭く腕を振り抜いた。
『きりさく』。
爪が的を捉える。
ザシュッ!
それでもヒトカゲは攻撃の成功に気を取られず、振り抜いた勢いを足運びへ繋げ、その場からすぐに離れた。
レンは何も言わない。
まだ三つ目がある。
固定された的。
距離は遠い。
ヒトカゲが振り返り、足を開く。
「カゲェェェ――ッ!」
『かえんほうしゃ』。
一本につながった炎が庭を走り、的の中心を包み込んだ。
以前のような大きな乱れはない。
炎を止めたあと、ヒトカゲは大きく息を吐いたものの、身体がふらつくこともなかった。
「そこまで!」
レンが声をかける。
ヒトカゲが振り返った。
「カゲ!」
レンも笑って手を上げる。
ぱちん!
「よかった。特に最後」
「カゲ!」
「『かえんほうしゃ』、かなり安定してきたな」
覚えたばかりの頃は、走った直後や方向転換のあとに使うと炎が乱れていた。
今でも『ひのこ』ほど気軽に使えるわけではない。それでも、呼吸と姿勢を意識することで、ある程度動いた直後でも威力を保てるようになっている。
だからといって、レンは『ひのこ』の練習を減らしてはいなかった。
むしろ『かえんほうしゃ』を覚えたことで、それぞれの役割がより明確になった。
素早く牽制するなら『ひのこ』。
動く相手を狙う場合も、現状では『ひのこ』の方が扱いやすい。
対して『かえんほうしゃ』は、隙を作ってから撃つ強力な一撃として使える。
「強い方を使えばいい、じゃない」
「カゲ」
「使いやすい方を使えばいい、でもない」
レンは二つの的を見る。
「必要な方を選ぶ」
「カゲ!」
ヒトカゲも、もうその考え方を理解し始めていた。
技を増やすだけでは強くなれない。
増えた選択肢を、正しく選べて初めて強さになる。
それは技だけではなく、これから先に覚えるであろう全ての戦い方にも通じるはずだった。
「今日はあと『えんまく』を少しやったら終わり」
「カゲ!」
「『げんしのちから』は?」
「カゲ!」
やりたいらしい。
「今日はなし」
「カゲー……」
「昨日使っただろ。まだ他の技より負担が大きいんだから」
ヒトカゲは不満そうにしながらも、以前のように食い下がることはなかった。
身体を休ませることも強くなるために必要。
それを、この一年近くでヒトカゲ自身も理解してきたのだ。
レンはそんな相棒の成長を感じながら、次の練習の準備を始めた。
◇
昼前になると、レンとヒトカゲはオーキド研究所へ向かった。
今日は練習のためではない。
研究所へ着くと、庭の向こうから聞き慣れた声が飛んでくる。
「レンー!」
「やっぱりいると思った」
サトシだった。
「やっぱりってなんだよ!」
「博士から呼ばれたなら、お前も来るだろ」
「そうだけどさ!」
サトシの足元へヒトカゲが近づく。
「カゲ」
「おう、ヒトカゲ!」
サトシがしゃがみ込む。
「また強くなったんだって?」
「カゲ!」
「いいなあ。オレも早くポケモン欲しい!」
「あと少しだろ」
「その少しが長いんだよ!」
レンにはその気持ちも分からなくはなかった。
自分にはすでにヒトカゲがいる。
けれどサトシにとっては、十歳になる日こそが本当の始まりだ。
研究所の扉が開く。
「おお、二人とも来たか」
「オーキド博士!」
白衣姿のオーキド博士が二人を迎えた。
「中へ入りなさい。今日は少し話しておきたいことがあってな」
レンとサトシは顔を見合わせる。
「旅のこと?」
レンが尋ねると、博士は笑った。
「その通りじゃ」
その一言で、サトシの顔が輝いた。
「よっしゃ!」
「まだ旅立ちじゃないぞ」
「分かってるって!」
どう見ても分かっていない勢いだった。
◇
研究所の中。
机の上には、いくつかの道具が置かれていた。
モンスターボール。
簡単な旅用品。
そして――。
「これが……」
サトシが身を乗り出す。
オーキド博士が一つの機械を手に取った。
「ポケモン図鑑じゃ」
「おおおおお!」
サトシの目が輝く。
レンも図鑑を見つめた。
知っている。
前世では何度も見た。
アニメの中でサトシが持っていたもの。
ゲームでも旅の目的の一つとして使われていた。
だが。
画面越しに見るのと、実際に目の前へ置かれているのではまるで違う。
「実際の図鑑って……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
危ない。
レンは口を閉じた。
オーキド博士は特に気にした様子もなく説明を続ける。
「図鑑には確認されているポケモンの情報が登録されておる。ただし、これに書かれていることが全てではない」
その言葉に、レンはすぐ反応した。
「個体差があるから?」
「それもある」
博士は頷く。
「同じ種類のポケモンであっても性格も違えば、得意なことも違う。生息環境によって行動が変わることもある」
「じゃあ図鑑が間違ってることもあるのか?」
サトシが聞く。
「間違いというより、図鑑はあくまで現在分かっている情報をまとめたものじゃ。新しい発見があれば情報も変わる」
レンは静かに頷いた。
その考え方は、自分が前世の知識と向き合う姿勢にも近い。
知っているから正しい。
そう決めつけない。
この世界で実際に見て、確かめる。
「図鑑を持っているから、ポケモンを見なくてよくなるわけではないんだね」
「むしろ逆じゃ」
博士が笑う。
「図鑑をきっかけに、もっとよく見るんじゃよ」
レンも笑った。
「うん」
「オレも見る!」
サトシが勢いよく手を上げる。
「ちゃんと見るぞ! いっぱい!」
「お前の場合、まず飛びつく前に見るところからだな」
「なんだよ!」
「カゲカゲ」
ヒトカゲが笑った。
「ヒトカゲまで笑うな!」
研究所に笑い声が広がった。
◇
その後、博士から旅立ちまでに必要な手続きについて説明を受けた。
十歳になれば、正式なポケモントレーナーとして登録できる。
旅を始める際には図鑑やモンスターボールなど、必要な道具も渡される。
サトシの場合は、オーキド研究所で最初のポケモンを受け取る予定になっていた。
「フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメ……」
サトシが指を折りながら呟く。
「どれにするかなぁ」
レンは隣で黙って聞いていた。
前世の記憶では。
サトシは旅立ちの日に寝坊する。
三匹のポケモンはすでに別の新人トレーナーたちへ渡され、最後に残っていたピカチュウと旅立つことになる。
そのピカチュウこそが、サトシにとってかけがえのない相棒になる。
けれど。
レンは口を出さなかった。
未来を知っているからといって、無理に同じ結果へ導くつもりはない。
自分がいる時点で、すでに知っている歴史とは違っている。
サトシが寝坊しなければ。
別のポケモンを選べば。
それも、この世界で起きた結果だ。
ただし。
「サトシ」
「ん?」
「当日は早く起きろよ」
「またそれかよ!」
「大事だから」
「絶対起きるって!」
サトシは胸を張った。
「オレがそんな大事な日に寝坊するわけないだろ!」
「…………」
「なんだよその顔!」
「いや」
レンは笑いを堪えた。
「何でもない」
「絶対なんか思ってるだろ!」
「カゲカゲ!」
ヒトカゲまで笑っている。
「ヒトカゲー!」
オーキド博士だけが、何のことか分からず首を傾げていた。
◇
帰宅後。
夕食まで少し時間があった。
レンは自室へ戻り、今日博士から聞いたことをノートへまとめていた。
トレーナー登録。
図鑑。
モンスターボール。
旅の準備。
書けば書くほど、旅立ちが現実のものとして感じられる。
「もうすぐか……」
「カゲ」
ベッドの上にいたヒトカゲが返事をする。
レンが振り返る。
「お前は最初から一緒だから、研究所で最初のポケモンを選ぶ必要ないな」
「カゲ!」
「俺の最初のポケモンは、もう決まってる」
「カゲ」
ヒトカゲが嬉しそうに胸を張る。
レンも笑った。
「というか、二年前から決まってるか」
卵を見つけた日。
孵化した日。
初めて指を握られた日。
初めて『ひっかく』を使った日。
小さな『ひのこ』が散った日。
初めて『げんしのちから』が発動した日。
ポッポとの初戦。
初勝利。
リオルとの出会い。
ユウトのイーブイとのトレーナー戦。
『えんまく』。
『きりさく』。
『かえんほうしゃ』。
振り返れば、すでにたくさんのものを積み重ねてきた。
まだ旅にすら出ていないのに。
「カゲ?」
ヒトカゲがレンの顔を覗き込む。
「なんでもない」
レンは頭を撫でた。
「ちょっと昔のこと思い出してただけ」
「カゲ」
そのとき。
机の端に置いていた通信端末が鳴った。
レンが画面を見る。
表示された名前に、少し目を見開く。
「……セレナ」
「カゲ?」
ヒトカゲも画面を覗き込む。
レンは通話を繋いだ。
「もしもし」
『レン?』
画面に映ったのは、久しぶりに見るセレナだった。
「久しぶり」
『久しぶり! ちゃんと出た』
「電話なんだから出るよ」
『だって、最近あんまり話せてなかったから』
「ごめん。練習とか旅の準備とかで」
『旅の準備?』
セレナの表情が変わる。
「うん。もう少しで十歳だから」
『……そっか』
セレナが少しだけ目を伏せる。
「どうしたの?」
『なんでもない』
そう言ったあと、すぐに笑った。
『ヒトカゲは?』
「いるよ」
レンが画面を向ける。
「カゲ!」
『わあ!』
セレナが目を丸くした。
『大きくなった?』
「カゲ?」
ヒトカゲが自分の身体を見る。
レンも見比べる。
「毎日見てるから分かりにくいけど、孵った頃と比べたらかなり」
『顔もなんか変わった』
「顔?」
『うん。前より自信ありそう』
「カゲ!」
褒められたと思ったらしい。
ヒトカゲが胸を張る。
『やっぱり変わってないところもあるね』
セレナが笑う。
レンもつられて笑った。
「技も増えたよ」
『本当?』
「『えんまく』と『きりさく』と『かえんほうしゃ』」
『三つも!?』
「カゲ!」
「全部いきなり覚えたわけじゃないよ。今までやってきた練習の延長」
レンは『ひっかく』から『きりさく』へ、『ひのこ』から『かえんほうしゃ』へ繋がっていったことを簡単に説明した。
セレナは途中で口を挟まず聞いていた。
『レンって、本当にずっとヒトカゲのこと見てるんだね』
「トレーナーだから」
『まだ正式にはトレーナーじゃないんでしょ?』
「……それ言われると弱いな」
『ふふっ』
レンは苦笑した。
「でも俺にとっては、もう相棒だから」
「カゲ!」
ヒトカゲがレンの腕へ身体を寄せる。
画面の向こうで、セレナの表情が柔らかくなった。
『いいな』
「何が?」
『そういうの』
セレナは少し考えるように視線を落とした。
『レンは、ずっとやりたいことが決まってるよね』
「世界で一番強いトレーナーになること?」
『うん』
「そうだね」
『サトシもポケモンマスターになるってずっと言ってるし』
「言ってる」
『私だけ、まだよく分からない』
レンは何も言わず、続きを待った。
『ポケモンは前より好きになったよ。サマーキャンプの頃みたいに、近くにいるだけで怖いってことも減ったし』
「うん」
『でも、だから何をしたいのって聞かれたら……まだ分からない』
レンは少し考えた。
前世の知識なら、セレナが将来どんな道へ進んでいくのかを知っている。
けれど、それをレンが教えることはできない。
それはセレナ自身が見つけるものだ。
「別に今決めなくてもいいんじゃない?」
『え?』
「俺がたまたま早かっただけだよ」
レンは椅子の背にもたれる。
「十歳になる前に夢が決まってないと駄目なんてルール、ないだろ?」
『……ないけど』
「だったら色々見ればいい」
『色々?』
「ポケモンも、人も、町も。やってみたいことがあったら試して、違ったら別のことを探せばいい」
レンは少し笑った。
「セレナが自分で、これが好きだって思えるものを見つければいいと思う」
画面の向こうで、セレナがしばらく黙った。
『……レンらしいね』
「そう?」
『うん』
少しだけ笑う。
『ありがとう』
「何もしてないけど」
『したの』
そう言われ、レンは首を傾げた。
ヒトカゲも同じように首を傾げる。
それを見たセレナが吹き出した。
『二人とも同じ顔してる』
「カゲ?」
「そんな似てる?」
『似てる』
「カゲ!」
なぜかヒトカゲは嬉しそうだった。
◇
それからしばらく、三人で話した。
ヒトカゲの練習。
サトシが相変わらず騒がしいこと。
オーキド博士から旅の説明を受けたこと。
セレナの最近の生活。
特別な話ではない。
それでも、久しぶりの会話は思っていた以上に長く続いた。
やがてセレナが時計を見る。
『もうこんな時間』
「ほんとだ」
『そろそろ切らないと』
「うん」
少しだけ沈黙。
『レン』
「何?」
『旅に出たら、連絡してね』
「もちろん」
『本当に?』
「するよ」
レンは即答した。
「ヒトカゲも見せる」
「カゲ!」
『約束ね』
「約束」
セレナが笑う。
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
「カゲ!」
『ヒトカゲもおやすみ』
通話が切れる。
画面が暗くなった。
レンは少しの間、その画面を見ていた。
「カゲ?」
「ん?」
ヒトカゲがじっとこちらを見ている。
「何?」
「カゲ」
「だから何」
「カゲカゲ」
なぜか笑っている。
「……よく分からないな」
レンは端末を机へ戻した。
ヒトカゲはまだ楽しそうだった。
◇
さらに月日は流れた。
旅立ちまでの時間が減っていくにつれて、レンの生活には練習以外の準備も増えていった。
父とは旅先での体調管理を確認する。
母とは衣服や生活用品を揃える。
オーキド博士からは、野生のポケモンとの接し方や旅先で守るべき決まりを改めて教わった。
サトシとは――。
「ゼニガメかなあ……」
「まだ迷ってるの?」
「ヒトカゲもいいんだよなあ」
「ずっとそれ言ってる」
「フシギダネも捨てがたい!」
「三匹に増えたじゃん」
「決められねえ!」
相変わらずだった。
レンは知っている未来を思い出すたび、笑いそうになるのを堪える。
本当に寝坊するのか。
それとも今回は間に合うのか。
自分がいることで、何かが変わるのか。
今のレンにも分からない。
だからこそ――少し楽しみでもあった。
◇
ある日の夕方。
練習を終えたレンとヒトカゲは、マサラタウンを見渡せる丘へ来ていた。
二人で並んで座る。
夕日に照らされた町。
生まれ育った場所。
ここから、旅が始まる。
「あと少しだな」
「カゲ」
ヒトカゲがレンの隣で尻尾を揺らす。
「二年前、お前が卵だった頃はさ」
「カゲ?」
「まだすごく先だと思ってた」
卵へ話しかけながら、旅のことを話した。
世界のことを話した。
自分の夢を話した。
あのときは、まだ返事すらなかった。
今は。
「カゲ!」
隣にいる。
自分で走る。
自分で考える。
自分で戦う。
そして一緒に頂を目指している。
レンは立ち上がった。
ヒトカゲも立つ。
「旅に出たら、もっと強いやつがいっぱいいる」
「カゲ」
「俺たちより強いトレーナーも、今はまだいくらでもいる」
「カゲ!」
ヒトカゲの目に迷いはない。
それを見て、レンも笑った。
「楽しみだな」
「カゲ!」
「全部越えていこう」
「カゲ!」
拳を差し出す。
ヒトカゲも拳を出した。
こつん。
夕日の下で、小さな二つの拳が重なる。
世界最強。
口で言うだけなら簡単だ。
けれど、レンはその言葉を夢だけで終わらせるつもりはなかった。
一日ずつ。
一戦ずつ。
一つずつ。
ヒトカゲと積み重ねていく。
やがてリオルとも、もう一度会うだろう。
そのときリオルが何を選ぶのかは、まだ分からない。
サトシがどんなポケモンと出会うのかも。
旅の中で何が変わっていくのかも。
分からないことばかりだ。
だからこそ、自分の目で確かめる。
知識だけに頼らず、目の前のポケモンを見て、その場で考え続ける。
レンがこの世界で見つけた、自分自身の戦い方だった。
「帰ろうか」
「カゲ」
丘を下り始める。
その先にはマサラタウンの灯りが見える。
今はまだ、帰る場所。
けれど、もうすぐ。
ここは――旅立つ場所になる。
レンはヒトカゲと肩を並べ、ゆっくりと家へ続く道を歩いていった。
世界の頂へ続く、本当の旅が始まるその日まで。
残された時間は、もう僅かだった。