ポケットモンスター ―頂への軌跡―   作:あああああ

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第16話 旅立ち前夜

十歳の誕生日が近づくにつれて、レンの部屋には少しずつ旅の道具が増えていった。

 

着替え、雨具、タオル、簡単な救急用品。ヒトカゲの体調を確認するための道具や、食事を保存するための容器もある。

 

そのほかにも必要になりそうなものを挙げればきりがないが、何でも持っていけばいいわけではない。

 

旅では、自分で荷物を背負って歩かなければならないからだ。

 

「多すぎるな……」

 

床へ並べた荷物を前に、レンは腕を組んだ。

 

「カゲ?」

 

隣ではヒトカゲが同じように腕を組んでいる。

 

レンが水筒を一つ持ち上げた。

 

「これはいる」

 

「カゲ」

 

「予備のタオルもいる」

 

「カゲ」

 

「こっちは……」

 

少し考える。

 

ヒトカゲも真剣な顔で覗き込む。

 

「いらないかな」

 

「カゲ」

 

二人で頷いた。

 

すると、部屋の扉の向こうから笑い声が聞こえた。

 

「何してるの?」

 

母だった。

 

「荷物の整理」

 

「それは見れば分かるけど」

 

母は部屋へ入ると、床に並べられた荷物と、その前で同じ格好をしているレンとヒトカゲを交互に見る。

 

「ヒトカゲにも聞いてるの?」

 

「一緒に旅するんだから」

 

「カゲ!」

 

当然だと言わんばかりにヒトカゲが胸を張った。

 

母は小さく笑う。

 

「じゃあ二人でちゃんと決めなさい。でも、これだけは持っていって」

 

差し出されたのは、小さな裁縫道具だった。

 

レンが少し眉を上げる。

 

「使うかな?」

 

「服が破れたときに困るでしょう」

 

「直せる自信ないんだけど」

 

「だから旅立つ前に覚えるの」

 

「……はい」

 

「カゲカゲ」

 

ヒトカゲが笑った。

 

「お前は服着てないから他人事だと思ってるだろ」

 

「カゲ!」

 

図星らしい。

 

母がまた笑う。

 

そんな何気ないやり取りも、あと少しで毎日のものではなくなる。

 

レンはそれを意識しながらも、口には出さなかった。

 

旅に出たい気持ちは変わらない。

 

ずっと待っていた。

 

それでも、今まで当たり前だった日々から離れるのだと考えれば、何も感じないわけではなかった。

 

◇

 

旅立ちが近づいても、レンとヒトカゲは練習を続けていた。

 

ただし、以前のように新しいことを次々と試してはいない。

 

今の目的は、新しい技を増やすことではなく、すでに持っているものを実戦で使える形に整えることだった。

 

その日の午後、レンはヒトカゲといつもの草地へ向かった。

 

地面には父と一緒に作った練習用の的がいくつか並べてある。

 

「今日は技そのものより、選び方」

 

「カゲ!」

 

「俺は最初だけ指示する。そのあとは自分で考えて」

 

ヒトカゲが頷く。

 

レンは一つ目の的を動かした。

 

「始め!」

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲが駆け出す。

 

正面の的が左右へ動く。

 

距離は近い。

 

ヒトカゲは炎を使わず、一気に懐へ飛び込んだ。

 

『ひっかく』。

 

爪が的を捉える。

 

しかし、それで終わりではない。

 

横から二つ目の的が動き出す。

 

ヒトカゲは着地と同時にそちらを見ると、すぐには追いかけなかった。

 

「カゲッ!」

 

『ひのこ』。

 

小さく素早い炎が、動く的の進行方向へ飛ぶ。

 

命中。

 

そこへ三つ目。

 

今度は遠い。

 

ヒトカゲが足を止める。

 

呼吸を整え、しっかりと地面を踏みしめた。

 

『かえんほうしゃ』を撃つ――。

 

そうレンは思った。

 

けれど。

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲは撃たなかった。

 

代わりに横へ走る。

 

「……なるほど」

 

正面からでは、その先に木があった。

 

練習用の的を狙うだけなら問題はない。

 

だが実戦なら、外した炎がその先へ飛んでいく。

 

ヒトカゲは位置を変え、安全な方向を確保してから足を止めた。

 

「カゲェェェッ!」

 

『かえんほうしゃ』。

 

炎が的を包む。

 

「いい判断!」

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲが嬉しそうに振り返る。

 

だが、練習は終わっていない。

 

レンが次の仕掛けを動かした。

 

背後から的が近づく。

 

ヒトカゲが気づいた。

 

振り返る。

 

距離が近い。

 

右腕を振り上げる。

 

『きりさく』――ではない。

 

直前で身体を沈め、的をやり過ごす。

 

そのまま背後へ回り込むと、軽く『ひっかく』を当てた。

 

レンは思わず笑った。

 

「そっちを選ぶか」

 

「カゲ!」

 

『きりさく』の方が威力は高い。

 

けれど、強い技ほど大きく振る必要があり、外したときの隙も生まれやすい。

 

今の場面では、確実に当てられる『ひっかく』を選んだ。

 

それでいい。

 

技の強さと、選択の正しさは別のものだ。

 

「まだ行くよ!」

 

「カゲ!」

 

次。

 

二つ同時。

 

ヒトカゲは一瞬考え、地面へ息を吐き出した。

 

ボフッ!

 

『えんまく』。

 

黒煙が広がる。

 

一つの的を煙で見えなくし、その間にもう一つへ接近する。

 

『きりさく』。

 

鋭い一撃で仕留めると、煙から出てきたもう一つの的へ『ひのこ』を放った。

 

命中。

 

ヒトカゲはそのまま次を待つ。

 

だが。

 

何も来ない。

 

「終わり!」

 

「カゲ?」

 

まだやれる。

 

そう言いたそうだった。

 

レンは笑う。

 

「今日はここまで」

 

「カゲー」

 

「最後まで動ける状態で終わるのも大事だよ。限界までやる日ばっかりじゃ駄目」

 

「カゲ……」

 

少し不満そうではあるものの、ヒトカゲは素直に戻ってきた。

 

レンは水を渡し、自分も隣へ座る。

 

「でも、かなりよかった」

 

「カゲ?」

 

「特に『かえんほうしゃ』を撃つ前」

 

木の位置まで見ていた。

 

それは単にバトルが上手くなったというだけではない。

 

旅に出れば、戦う場所は整えられた草地だけではなくなる。

 

森。

 

町。

 

山。

 

洞窟。

 

近くに人や野生のポケモンがいることだってある。

 

強い技を使えるからといって、どこでも撃っていいわけではない。

 

「旅に出たら、周りも見ないとな」

 

「カゲ」

 

ヒトカゲが頷く。

 

レンはその頭を撫でた。

 

「俺も見る。でも、お前も見てくれ」

 

「カゲ!」

 

いつものように、ヒトカゲが拳を出す。

 

レンも拳を合わせた。

 

「二人でな」

 

「カゲ!」

 

◇

 

その帰り道。

 

「レン!」

 

聞き慣れた声に振り返ると、サトシが走ってきた。

 

「何してたんだ?」

 

「ヒトカゲの練習」

 

「またか!」

 

「またっていうか、いつもだよ」

 

「カゲ」

 

サトシがヒトカゲを見る。

 

「そういえばさ、旅に出たらすぐバトルしようぜ!」

 

「ポケモンをもらったら?」

 

「もちろん!」

 

サトシは拳を握る。

 

「前に約束しただろ! オレがポケモンをもらったら、レンとヒトカゲに挑戦するって!」

 

レンは覚えていた。

 

まだヒトカゲが生まれて間もない頃。

 

サトシがヒトカゲと戦いたいと言い出し、自分にはポケモンがいないことに気づいた日だ。

 

あのとき、十歳になったら戦おうと約束した。

 

「いいよ」

 

「本当か!?」

 

「約束したから」

 

「よっしゃ!」

 

サトシが大きく拳を突き上げる。

 

「最初から勝つぞ!」

 

「カゲ!」

 

ヒトカゲがすぐに反応した。

 

「おっ、やる気か!」

 

「カゲ!」

 

「負けないからな!」

 

「カゲ!」

 

一人と一匹が睨み合う。

 

レンはその横で苦笑した。

 

「まだサトシのポケモン決まってないけどね」

 

「それは当日決める!」

 

「まだ決めてなかったの?」

 

「だって全部いいんだよ!」

 

相変わらずだった。

 

「でも絶対強いやつにする!」

 

その言葉に、レンは少しだけ首を傾げた。

 

「最初から強いやつじゃなくてもいいんじゃない?」

 

「え?」

 

サトシがこちらを見る。

 

「一緒に強くなればいい」

 

レンは隣のヒトカゲを見る。

 

生まれたばかりの頃から、今のように戦えたわけではない。

 

『ひのこ』すら上手く出せなかった。

 

『げんしのちから』は発動するだけで疲れていた。

 

走れば止まりきれず、攻撃すれば身体ごと前へ流れていた。

 

それでも、一つずつ積み重ねてきた。

 

「どのポケモンを選んでも、サトシがそいつと強くなればいいだろ」

 

サトシは少しだけ考えたあと。

 

「……それもそうだな!」

 

すぐ笑った。

 

「じゃあ、誰が来てもオレが強くする!」

 

「その言い方だと、また突っ走りそうで心配だけど」

 

「なんでだよ!」

 

「相手の話も聞けよ」

 

「分かってるって!」

 

本当に分かっているのだろうか。

 

レンは笑いながら歩き出した。

 

サトシも並ぶ。

 

ヒトカゲは二人の少し前を歩いている。

 

三人で歩くマサラタウンの道。

 

もうすぐ、この道の先へ進む日が来る。

 

◇

 

その夜。

 

レンが自室へ戻ると、机の上に一冊の新しいノートを置いた。

 

これまで使ってきた練習記録とは別のものだ。

 

表紙には何も書かれていない。

 

ヒトカゲがベッドから覗き込む。

 

「カゲ?」

 

「旅用」

 

「カゲ?」

 

「旅に出たら、知らないことがいっぱい出てくるだろ」

 

見たポケモン。

 

戦った相手。

 

気づいたこと。

 

失敗したこと。

 

ヒトカゲの体調。

 

新しく試した練習。

 

全部を記録する。

 

ポケモン図鑑があっても、自分自身で見たものまで全て残してくれるわけではない。

 

なら、自分で残せばいい。

 

レンは最初のページを開いた。

 

少し考えてから、一行だけ書く。

 

知っていることより、自分で確かめたことを大切にする。

 

前世の知識は武器だ。

 

これからも使う。

 

使えるものを捨てる理由などない。

 

けれど、それだけに頼るつもりもなかった。

 

ゲームで可能だったから。

 

アニメで見たから。

 

未来を知っているから。

 

それだけで目の前の現実を決めつければ、いつか必ず見誤る。

 

レンはペンを置いた。

 

「これでいいかな」

 

「カゲ」

 

ヒトカゲが何となく頷く。

 

「読めるの?」

 

「カゲ!」

 

自信満々だった。

 

「本当かな……」

 

そのとき、階下から父の声がした。

 

「レン、少しいいか?」

 

「はーい」

 

返事をして部屋を出る。

 

ヒトカゲも当然のようについてきた。

 

◇

 

居間では、父と母が待っていた。

 

テーブルの上には、旅用の鞄が置かれている。

 

「最終確認をしようと思ってな」

 

父が言う。

 

レンは椅子へ座った。

 

「うん」

 

父が一つずつ中身を確認していく。

 

応急処置用品。

 

食料。

 

水。

 

地図。

 

雨具。

 

着替え。

 

タオル。

 

野営に必要な最低限の道具。

 

母から教わった裁縫道具も入っている。

 

「覚えた?」

 

母が聞く。

 

「一応」

 

「一応?」

 

「……破れ方が普通なら」

 

母が笑った。

 

「最初はそれでいいわ」

 

最後に父が、ヒトカゲ用の用品を確認した。

 

「一番大事なのは、なくなったら補充することだ」

 

「うん」

 

「持って出たから安心、ではない。旅では予定通りに進まないこともある」

 

「分かってる」

 

父は頷いた。

 

それから、少しだけ表情を変える。

 

「レン」

 

「何?」

 

「昔、俺がお前に言ったことを覚えているか?」

 

何のことか。

 

すぐに分かった。

 

五歳の頃。

 

まだ自分のポケモンすらいなかったとき。

 

父から教わったこと。

 

「強くしたいからって、無茶をさせるのは育成じゃない」

 

「そうだ」

 

父がヒトカゲを見る。

 

「今まで、お前は守ってきた」

 

「カゲ」

 

ヒトカゲも父を見る。

 

「旅に出れば、今までより判断が難しくなる。勝ちたいと思う場面も増える。あと少し頑張れば勝てると思うこともあるだろう」

 

レンは黙って聞く。

 

「そのときも忘れるな」

 

「うん」

 

即答した。

 

「勝つために強くする。でも、勝つために壊したら意味がない」

 

父は静かに頷いた。

 

「それならいい」

 

今度は母が口を開いた。

 

「それから、レン自身もね」

 

「俺?」

 

「ポケモンの体調ばっかり気にして、自分が倒れたら駄目でしょう」

 

「……気をつけます」

 

「ちゃんと食べる。ちゃんと寝る」

 

「はい」

 

「危ないことを一人でやらない」

 

「はい」

 

「連絡できるときは連絡する」

 

「はい」

 

「それから――」

 

「母さん」

 

「何?」

 

「増えてない?」

 

「まだあるわよ」

 

「カゲカゲ」

 

ヒトカゲが笑う。

 

レンも笑った。

 

きっと旅立ちの日まで、何度も言われるのだろう。

 

それでも嫌ではなかった。

 

全部、自分たちが無事に帰ってくるための言葉だから。

 

◇

 

数日後。

 

ついに、旅立ちの日程が正式に決まった。

 

オーキド研究所からの連絡を聞いたサトシは、朝から町中に聞こえそうな声で喜んだ。

 

そしてレンも。

 

その日、自室のカレンダーに小さな印をつけた。

 

もう「いつか」ではない。

 

日付がある。

 

そこへ向かって、時間が進んでいる。

 

旅立ち前日の夜。

 

必要な荷物はすでに鞄へ入っていた。

 

何度確認したか分からない。

 

それでもレンは、もう一度だけ中身を見る。

 

「水筒」

 

「カゲ」

 

「食料」

 

「カゲ」

 

「応急処置」

 

「カゲ」

 

「着替え」

 

「カゲ」

 

「ノート」

 

「カゲ」

 

「よし」

 

鞄を閉じた。

 

ヒトカゲがベッドの上からレンを見る。

 

「カゲ?」

 

「終わり」

 

「カゲ!」

 

レンは机の上の時計を見る。

 

いつもより少し早い。

 

「今日はもう寝よう」

 

「カゲ?」

 

「明日起きられなかったら困るから」

 

そう言った瞬間。

 

レンは動きを止めた。

 

ヒトカゲも首を傾げる。

 

そして。

 

「……サトシ」

 

嫌な予感がした。

 

ものすごく。

 

前世の記憶が、これ以上ないほど強く警告している。

 

レンは通信端末を手に取った。

 

少し迷う。

 

「電話した方がいいかな」

 

「カゲ?」

 

「いや、でもここまで言って起きられないなら、それもサトシだし……」

 

『当日は早く起きろよ』

 

すでに何度も言った。

 

サトシはそのたびに胸を張っていた。

 

『オレがそんな大事な日に寝坊するわけないだろ!』

 

レンは端末を見る。

 

「…………」

 

「カゲ?」

 

「やめよう」

 

端末を戻した。

 

「本人に任せる」

 

「カゲ」

 

何が起きるか。

 

それも明日分かる。

 

レンは部屋の灯りを消した。

 

ベッドへ入る。

 

ヒトカゲの寝床は、すぐ隣にある。

 

孵化した最初の夜から変わらない距離だった。

 

暗闇の中。

 

「ヒトカゲ」

 

「カゲ?」

 

「明日だ」

 

少しだけ沈黙があった。

 

「カゲ」

 

いつもより静かな返事だった。

 

レンは天井を見る。

 

三歳の頃。

 

この世界がポケモンの世界だと気づいた。

 

五歳の頃には父から育成について学び、六歳の頃にはシバから強さについて教わった。

 

サマーキャンプではセレナと出会った。

 

八歳。

 

一つの卵を見つけた。

 

何のポケモンが生まれるかも分からないまま、大切に世話をした。

 

そして。

 

ヒトカゲが生まれた。

 

小さかった。

 

歩くことさえまだ危なっかしくて。

 

初めて使った『ひのこ』は、まともな炎にすらならなかった。

 

それでも。

 

一緒に走った。

 

一緒に考えた。

 

初めて戦った。

 

負けそうになった。

 

勝った。

 

新しい技を覚えた。

 

強い相手にも出会った。

 

リオルとも出会った。

 

まだ旅立ってすらいないのに、もうたくさんの思い出がある。

 

けれど。

 

明日からは。

 

もっと増える。

 

「カゲ」

 

物音がする。

 

ヒトカゲが寝床から出てきた。

 

ベッドの横へ来る。

 

レンは手を伸ばした。

 

ヒトカゲがその手を握る。

 

孵化した日と同じだった。

 

あのときより、少し大きくなった手。

 

少し硬くなった爪。

 

戦い、鍛えてきた身体。

 

それでも。

 

握り返してくる感触は変わらない。

 

「楽しみだな」

 

「カゲ」

 

「怖いこともあると思う」

 

「カゲ」

 

「負けることもある」

 

「カゲ」

 

レンは少し笑った。

 

「でも、絶対強くなる」

 

今度の返事は力強かった。

 

「カゲ!」

 

「世界で一番」

 

「カゲ!」

 

「一緒に行こう」

 

ヒトカゲが拳を出した。

 

暗闇の中で、レンも拳を出す。

 

こつん。

 

小さな音がした。

 

明日。

 

マサラタウンを出る。

 

サトシと共に。

 

ヒトカゲと共に。

 

まだ見ぬ世界へ。

 

そしてレンは知らない。

 

遠く離れた場所で、同じ夜空の下。

 

一匹のリオルが、シバの隣で静かに星を見上げていることを。

 

旅立ちの日は――もう明日だった。

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