ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
十歳の誕生日が近づくにつれて、レンの部屋には少しずつ旅の道具が増えていった。
着替え、雨具、タオル、簡単な救急用品。ヒトカゲの体調を確認するための道具や、食事を保存するための容器もある。
そのほかにも必要になりそうなものを挙げればきりがないが、何でも持っていけばいいわけではない。
旅では、自分で荷物を背負って歩かなければならないからだ。
「多すぎるな……」
床へ並べた荷物を前に、レンは腕を組んだ。
「カゲ?」
隣ではヒトカゲが同じように腕を組んでいる。
レンが水筒を一つ持ち上げた。
「これはいる」
「カゲ」
「予備のタオルもいる」
「カゲ」
「こっちは……」
少し考える。
ヒトカゲも真剣な顔で覗き込む。
「いらないかな」
「カゲ」
二人で頷いた。
すると、部屋の扉の向こうから笑い声が聞こえた。
「何してるの?」
母だった。
「荷物の整理」
「それは見れば分かるけど」
母は部屋へ入ると、床に並べられた荷物と、その前で同じ格好をしているレンとヒトカゲを交互に見る。
「ヒトカゲにも聞いてるの?」
「一緒に旅するんだから」
「カゲ!」
当然だと言わんばかりにヒトカゲが胸を張った。
母は小さく笑う。
「じゃあ二人でちゃんと決めなさい。でも、これだけは持っていって」
差し出されたのは、小さな裁縫道具だった。
レンが少し眉を上げる。
「使うかな?」
「服が破れたときに困るでしょう」
「直せる自信ないんだけど」
「だから旅立つ前に覚えるの」
「……はい」
「カゲカゲ」
ヒトカゲが笑った。
「お前は服着てないから他人事だと思ってるだろ」
「カゲ!」
図星らしい。
母がまた笑う。
そんな何気ないやり取りも、あと少しで毎日のものではなくなる。
レンはそれを意識しながらも、口には出さなかった。
旅に出たい気持ちは変わらない。
ずっと待っていた。
それでも、今まで当たり前だった日々から離れるのだと考えれば、何も感じないわけではなかった。
◇
旅立ちが近づいても、レンとヒトカゲは練習を続けていた。
ただし、以前のように新しいことを次々と試してはいない。
今の目的は、新しい技を増やすことではなく、すでに持っているものを実戦で使える形に整えることだった。
その日の午後、レンはヒトカゲといつもの草地へ向かった。
地面には父と一緒に作った練習用の的がいくつか並べてある。
「今日は技そのものより、選び方」
「カゲ!」
「俺は最初だけ指示する。そのあとは自分で考えて」
ヒトカゲが頷く。
レンは一つ目の的を動かした。
「始め!」
「カゲ!」
ヒトカゲが駆け出す。
正面の的が左右へ動く。
距離は近い。
ヒトカゲは炎を使わず、一気に懐へ飛び込んだ。
『ひっかく』。
爪が的を捉える。
しかし、それで終わりではない。
横から二つ目の的が動き出す。
ヒトカゲは着地と同時にそちらを見ると、すぐには追いかけなかった。
「カゲッ!」
『ひのこ』。
小さく素早い炎が、動く的の進行方向へ飛ぶ。
命中。
そこへ三つ目。
今度は遠い。
ヒトカゲが足を止める。
呼吸を整え、しっかりと地面を踏みしめた。
『かえんほうしゃ』を撃つ――。
そうレンは思った。
けれど。
「カゲ!」
ヒトカゲは撃たなかった。
代わりに横へ走る。
「……なるほど」
正面からでは、その先に木があった。
練習用の的を狙うだけなら問題はない。
だが実戦なら、外した炎がその先へ飛んでいく。
ヒトカゲは位置を変え、安全な方向を確保してから足を止めた。
「カゲェェェッ!」
『かえんほうしゃ』。
炎が的を包む。
「いい判断!」
「カゲ!」
ヒトカゲが嬉しそうに振り返る。
だが、練習は終わっていない。
レンが次の仕掛けを動かした。
背後から的が近づく。
ヒトカゲが気づいた。
振り返る。
距離が近い。
右腕を振り上げる。
『きりさく』――ではない。
直前で身体を沈め、的をやり過ごす。
そのまま背後へ回り込むと、軽く『ひっかく』を当てた。
レンは思わず笑った。
「そっちを選ぶか」
「カゲ!」
『きりさく』の方が威力は高い。
けれど、強い技ほど大きく振る必要があり、外したときの隙も生まれやすい。
今の場面では、確実に当てられる『ひっかく』を選んだ。
それでいい。
技の強さと、選択の正しさは別のものだ。
「まだ行くよ!」
「カゲ!」
次。
二つ同時。
ヒトカゲは一瞬考え、地面へ息を吐き出した。
ボフッ!
『えんまく』。
黒煙が広がる。
一つの的を煙で見えなくし、その間にもう一つへ接近する。
『きりさく』。
鋭い一撃で仕留めると、煙から出てきたもう一つの的へ『ひのこ』を放った。
命中。
ヒトカゲはそのまま次を待つ。
だが。
何も来ない。
「終わり!」
「カゲ?」
まだやれる。
そう言いたそうだった。
レンは笑う。
「今日はここまで」
「カゲー」
「最後まで動ける状態で終わるのも大事だよ。限界までやる日ばっかりじゃ駄目」
「カゲ……」
少し不満そうではあるものの、ヒトカゲは素直に戻ってきた。
レンは水を渡し、自分も隣へ座る。
「でも、かなりよかった」
「カゲ?」
「特に『かえんほうしゃ』を撃つ前」
木の位置まで見ていた。
それは単にバトルが上手くなったというだけではない。
旅に出れば、戦う場所は整えられた草地だけではなくなる。
森。
町。
山。
洞窟。
近くに人や野生のポケモンがいることだってある。
強い技を使えるからといって、どこでも撃っていいわけではない。
「旅に出たら、周りも見ないとな」
「カゲ」
ヒトカゲが頷く。
レンはその頭を撫でた。
「俺も見る。でも、お前も見てくれ」
「カゲ!」
いつものように、ヒトカゲが拳を出す。
レンも拳を合わせた。
「二人でな」
「カゲ!」
◇
その帰り道。
「レン!」
聞き慣れた声に振り返ると、サトシが走ってきた。
「何してたんだ?」
「ヒトカゲの練習」
「またか!」
「またっていうか、いつもだよ」
「カゲ」
サトシがヒトカゲを見る。
「そういえばさ、旅に出たらすぐバトルしようぜ!」
「ポケモンをもらったら?」
「もちろん!」
サトシは拳を握る。
「前に約束しただろ! オレがポケモンをもらったら、レンとヒトカゲに挑戦するって!」
レンは覚えていた。
まだヒトカゲが生まれて間もない頃。
サトシがヒトカゲと戦いたいと言い出し、自分にはポケモンがいないことに気づいた日だ。
あのとき、十歳になったら戦おうと約束した。
「いいよ」
「本当か!?」
「約束したから」
「よっしゃ!」
サトシが大きく拳を突き上げる。
「最初から勝つぞ!」
「カゲ!」
ヒトカゲがすぐに反応した。
「おっ、やる気か!」
「カゲ!」
「負けないからな!」
「カゲ!」
一人と一匹が睨み合う。
レンはその横で苦笑した。
「まだサトシのポケモン決まってないけどね」
「それは当日決める!」
「まだ決めてなかったの?」
「だって全部いいんだよ!」
相変わらずだった。
「でも絶対強いやつにする!」
その言葉に、レンは少しだけ首を傾げた。
「最初から強いやつじゃなくてもいいんじゃない?」
「え?」
サトシがこちらを見る。
「一緒に強くなればいい」
レンは隣のヒトカゲを見る。
生まれたばかりの頃から、今のように戦えたわけではない。
『ひのこ』すら上手く出せなかった。
『げんしのちから』は発動するだけで疲れていた。
走れば止まりきれず、攻撃すれば身体ごと前へ流れていた。
それでも、一つずつ積み重ねてきた。
「どのポケモンを選んでも、サトシがそいつと強くなればいいだろ」
サトシは少しだけ考えたあと。
「……それもそうだな!」
すぐ笑った。
「じゃあ、誰が来てもオレが強くする!」
「その言い方だと、また突っ走りそうで心配だけど」
「なんでだよ!」
「相手の話も聞けよ」
「分かってるって!」
本当に分かっているのだろうか。
レンは笑いながら歩き出した。
サトシも並ぶ。
ヒトカゲは二人の少し前を歩いている。
三人で歩くマサラタウンの道。
もうすぐ、この道の先へ進む日が来る。
◇
その夜。
レンが自室へ戻ると、机の上に一冊の新しいノートを置いた。
これまで使ってきた練習記録とは別のものだ。
表紙には何も書かれていない。
ヒトカゲがベッドから覗き込む。
「カゲ?」
「旅用」
「カゲ?」
「旅に出たら、知らないことがいっぱい出てくるだろ」
見たポケモン。
戦った相手。
気づいたこと。
失敗したこと。
ヒトカゲの体調。
新しく試した練習。
全部を記録する。
ポケモン図鑑があっても、自分自身で見たものまで全て残してくれるわけではない。
なら、自分で残せばいい。
レンは最初のページを開いた。
少し考えてから、一行だけ書く。
知っていることより、自分で確かめたことを大切にする。
前世の知識は武器だ。
これからも使う。
使えるものを捨てる理由などない。
けれど、それだけに頼るつもりもなかった。
ゲームで可能だったから。
アニメで見たから。
未来を知っているから。
それだけで目の前の現実を決めつければ、いつか必ず見誤る。
レンはペンを置いた。
「これでいいかな」
「カゲ」
ヒトカゲが何となく頷く。
「読めるの?」
「カゲ!」
自信満々だった。
「本当かな……」
そのとき、階下から父の声がした。
「レン、少しいいか?」
「はーい」
返事をして部屋を出る。
ヒトカゲも当然のようについてきた。
◇
居間では、父と母が待っていた。
テーブルの上には、旅用の鞄が置かれている。
「最終確認をしようと思ってな」
父が言う。
レンは椅子へ座った。
「うん」
父が一つずつ中身を確認していく。
応急処置用品。
食料。
水。
地図。
雨具。
着替え。
タオル。
野営に必要な最低限の道具。
母から教わった裁縫道具も入っている。
「覚えた?」
母が聞く。
「一応」
「一応?」
「……破れ方が普通なら」
母が笑った。
「最初はそれでいいわ」
最後に父が、ヒトカゲ用の用品を確認した。
「一番大事なのは、なくなったら補充することだ」
「うん」
「持って出たから安心、ではない。旅では予定通りに進まないこともある」
「分かってる」
父は頷いた。
それから、少しだけ表情を変える。
「レン」
「何?」
「昔、俺がお前に言ったことを覚えているか?」
何のことか。
すぐに分かった。
五歳の頃。
まだ自分のポケモンすらいなかったとき。
父から教わったこと。
「強くしたいからって、無茶をさせるのは育成じゃない」
「そうだ」
父がヒトカゲを見る。
「今まで、お前は守ってきた」
「カゲ」
ヒトカゲも父を見る。
「旅に出れば、今までより判断が難しくなる。勝ちたいと思う場面も増える。あと少し頑張れば勝てると思うこともあるだろう」
レンは黙って聞く。
「そのときも忘れるな」
「うん」
即答した。
「勝つために強くする。でも、勝つために壊したら意味がない」
父は静かに頷いた。
「それならいい」
今度は母が口を開いた。
「それから、レン自身もね」
「俺?」
「ポケモンの体調ばっかり気にして、自分が倒れたら駄目でしょう」
「……気をつけます」
「ちゃんと食べる。ちゃんと寝る」
「はい」
「危ないことを一人でやらない」
「はい」
「連絡できるときは連絡する」
「はい」
「それから――」
「母さん」
「何?」
「増えてない?」
「まだあるわよ」
「カゲカゲ」
ヒトカゲが笑う。
レンも笑った。
きっと旅立ちの日まで、何度も言われるのだろう。
それでも嫌ではなかった。
全部、自分たちが無事に帰ってくるための言葉だから。
◇
数日後。
ついに、旅立ちの日程が正式に決まった。
オーキド研究所からの連絡を聞いたサトシは、朝から町中に聞こえそうな声で喜んだ。
そしてレンも。
その日、自室のカレンダーに小さな印をつけた。
もう「いつか」ではない。
日付がある。
そこへ向かって、時間が進んでいる。
旅立ち前日の夜。
必要な荷物はすでに鞄へ入っていた。
何度確認したか分からない。
それでもレンは、もう一度だけ中身を見る。
「水筒」
「カゲ」
「食料」
「カゲ」
「応急処置」
「カゲ」
「着替え」
「カゲ」
「ノート」
「カゲ」
「よし」
鞄を閉じた。
ヒトカゲがベッドの上からレンを見る。
「カゲ?」
「終わり」
「カゲ!」
レンは机の上の時計を見る。
いつもより少し早い。
「今日はもう寝よう」
「カゲ?」
「明日起きられなかったら困るから」
そう言った瞬間。
レンは動きを止めた。
ヒトカゲも首を傾げる。
そして。
「……サトシ」
嫌な予感がした。
ものすごく。
前世の記憶が、これ以上ないほど強く警告している。
レンは通信端末を手に取った。
少し迷う。
「電話した方がいいかな」
「カゲ?」
「いや、でもここまで言って起きられないなら、それもサトシだし……」
『当日は早く起きろよ』
すでに何度も言った。
サトシはそのたびに胸を張っていた。
『オレがそんな大事な日に寝坊するわけないだろ!』
レンは端末を見る。
「…………」
「カゲ?」
「やめよう」
端末を戻した。
「本人に任せる」
「カゲ」
何が起きるか。
それも明日分かる。
レンは部屋の灯りを消した。
ベッドへ入る。
ヒトカゲの寝床は、すぐ隣にある。
孵化した最初の夜から変わらない距離だった。
暗闇の中。
「ヒトカゲ」
「カゲ?」
「明日だ」
少しだけ沈黙があった。
「カゲ」
いつもより静かな返事だった。
レンは天井を見る。
三歳の頃。
この世界がポケモンの世界だと気づいた。
五歳の頃には父から育成について学び、六歳の頃にはシバから強さについて教わった。
サマーキャンプではセレナと出会った。
八歳。
一つの卵を見つけた。
何のポケモンが生まれるかも分からないまま、大切に世話をした。
そして。
ヒトカゲが生まれた。
小さかった。
歩くことさえまだ危なっかしくて。
初めて使った『ひのこ』は、まともな炎にすらならなかった。
それでも。
一緒に走った。
一緒に考えた。
初めて戦った。
負けそうになった。
勝った。
新しい技を覚えた。
強い相手にも出会った。
リオルとも出会った。
まだ旅立ってすらいないのに、もうたくさんの思い出がある。
けれど。
明日からは。
もっと増える。
「カゲ」
物音がする。
ヒトカゲが寝床から出てきた。
ベッドの横へ来る。
レンは手を伸ばした。
ヒトカゲがその手を握る。
孵化した日と同じだった。
あのときより、少し大きくなった手。
少し硬くなった爪。
戦い、鍛えてきた身体。
それでも。
握り返してくる感触は変わらない。
「楽しみだな」
「カゲ」
「怖いこともあると思う」
「カゲ」
「負けることもある」
「カゲ」
レンは少し笑った。
「でも、絶対強くなる」
今度の返事は力強かった。
「カゲ!」
「世界で一番」
「カゲ!」
「一緒に行こう」
ヒトカゲが拳を出した。
暗闇の中で、レンも拳を出す。
こつん。
小さな音がした。
明日。
マサラタウンを出る。
サトシと共に。
ヒトカゲと共に。
まだ見ぬ世界へ。
そしてレンは知らない。
遠く離れた場所で、同じ夜空の下。
一匹のリオルが、シバの隣で静かに星を見上げていることを。
旅立ちの日は――もう明日だった。