ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
雨上がりの道にはいくつもの水溜まりが残り、雲の隙間から差し込む夕日が濡れた地面を淡く照らしていた。
レンとサトシは、そんな道をトキワシティへ向かって歩いていた。
いつもなら先へ出たがるヒトカゲも、今はレンの右隣を静かに歩いている。
オニスズメの群れから逃げる間に『ひのこ』や『えんまく』を何度も使ったため、足取りそのものはしっかりしていても疲労は隠せない。
左隣を歩くリオルも同様で、旅立ち直後に技の確認を行ったうえ、オニスズメから逃げるために長い距離を走っている。
「カゲ」
「リオ」
「もう少しだからね。二匹とも、無理して速く歩かなくていいよ」
レンがそう声をかけると、ヒトカゲとリオルは揃って頷いた。
本当ならモンスターボールへ戻して休ませてもいいのだが、二匹とも外を歩きたがったため、レンはその意思を尊重している。ただし呼吸や足取りには絶えず注意を払い、少しでも異変があればすぐに休ませるつもりだった。
その少し前では、サトシが傷ついたピカチュウを大切そうに抱えている。
「もう少しだからな、ピカチュウ。町に着いたら、すぐポケモンセンターに連れていくから」
「ピカ……」
返ってきた声は弱々しかった。
それでも、ピカチュウはもうサトシの腕から逃れようとはしていない。
旅立った直後は、サトシが近づけば離れ、触ろうとすれば電撃を浴びせ、命令にも従おうとしなかった。それが今は、サトシの腕へ身体を預けている。
オニスズメの群れを前に、サトシは自分の身を投げ出してピカチュウを守ろうとした。
そしてピカチュウもまた、自分の意思でサトシを守った。
あの嵐の中で起きたことが、二人の関係を確かに変え始めている。
だからこそ、レンは今のサトシなら分かっているだろうと思いながら声をかけた。
「サトシ」
「分かってるって。町に着いたら何より先にポケモンセンターだろ?」
予想以上に早い返事に、レンは少し笑った。
「うん。それならいい」
「絶対すぐ診てもらうからな、ピカチュウ」
「ピカ……」
やがて木々の向こうに建物が見え始めた。
「レン!」
「見えたね」
トキワシティ。
マサラタウンを出発した二人が最初に辿り着く町だった。
「よし、急ぐぞ!」
サトシが駆け出そうとしたため、レンはすぐに服を掴んだ。
「走らない」
「なんでだよ!? 急いだ方がいいだろ!」
「サトシ自身も怪我してるんだから、ここで転んだら余計に遅くなるでしょ。急ぐのと無茶するのは別」
「う……分かったよ」
渋々歩調を戻したサトシを見て、腕の中のピカチュウが小さく息を吐く。
「ピカ……」
「今、呆れた!?」
「たぶん」
「レンまで!?」
「カゲカゲ」
「リオ」
ヒトカゲとリオルまで楽しそうに声を上げる。
「お前らも笑うなよ!」
少しだけいつもの調子を取り戻したサトシの声が、雨上がりの道に響いた。
◇
トキワシティへ足を踏み入れると、レンは思わず周囲へ目を向けた。
マサラタウンとは比べものにならないほど建物が多く、通りには人やポケモンが行き交っている。店もあれば、旅装のトレーナーもいる。
正式なトレーナーとして初めて訪れた町。
本来なら、もっとゆっくり見て回りたいところだった。
しかし今は、それどころではない。
「ポケモンセンター、どこだ!?」
「近くの人に――」
レンが誰かに尋ねようとした、そのときだった。
「そこの二人、止まりなさい!」
鋭い声が響き、二人が振り返る。
こちらへ近づいてきたのは一台のバイクだった。運転しているのは青い制服を身につけた女性で、二人の前まで来ると素早くバイクを止める。
トキワシティの治安を守る警察官、ジュンサーだった。
「こんな時間に子供だけで何をしているの? それに――」
ジュンサーの視線がサトシの腕の中へ向いた途端、その表情が変わった。
「そのピカチュウ、どうしたの!?」
「オニスズメの群れに襲われたんです!」
「ポケモンセンターを探してます。ピカチュウを早く診てもらいたくて」
サトシとレンが続けて説明すると、ジュンサーはすぐにピカチュウの状態を確認した。
「分かったわ。ただ、その前に確認させて。あなたたちはポケモントレーナー?」
「はい!」
二人はそれぞれポケモン図鑑を取り出した。
ジュンサーが確認し、正式に登録されたトレーナーだと分かると、すぐにバイクを示す。
「乗って。ポケモンセンターまで送るわ!」
「お願いします!」
ピカチュウの状態を優先するため、レンも迷わなかった。
◇
ポケモンセンターへ到着すると、ジュンサーはすぐに中へ駆け込んだ。
「ジョーイさん! 怪我をしたピカチュウよ!」
受付にいた女性が振り返り、サトシの腕の中を見るなり表情を引き締める。
「こちらへ!」
「お願いします!」
ピカチュウはすぐ担架へ移された。
「ピカチュウ……!」
サトシが追いかけようとしたが、ジョーイが優しく制止する。
「大丈夫。私たちに任せて。あなたも怪我をしているでしょう? ここで待っていてね」
「でも……」
「サトシ」
レンが呼びかける。
サトシは閉じていく治療室の扉を見つめながら、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
治療室の扉が完全に閉まると、サトシは近くの椅子へ座った。普段なら落ち着きなく動き回っている少年が、今だけは両手を握ったまま黙り込んでいる。
レンは隣へ腰を下ろした。
すぐに慰めることはしなかった。
サトシ自身、分かっているはずだからだ。
オニスズメを怒らせたことも、最初はピカチュウの気持ちを考えずに戦わせようとしていたことも、自分の行動が今回の出来事につながったことも。
しばらくして、サトシが俯いたまま口を開いた。
「レン」
「うん?」
「オレ……もっとちゃんとしないとな」
レンは少しだけ考えてから頷いた。
「そうだね」
「そこは『そんなことない』って言うところじゃないのかよ」
「だって、ちゃんとしないと駄目だったでしょ」
「うっ……」
サトシは反論できなかった。
レンはそんな幼なじみを見て、少しだけ表情を和らげる。
「でも、今そう思えてるなら次は変えられるよ」
サトシが顔を上げた。
「失敗したことをなかったことにはできないけど、次に同じことをしないようにはできるから」
しばらくレンを見ていたサトシは、やがて小さく頷いた。
「……うん」
その返事を聞いたところで、レンの足元から二つの声がした。
「カゲ?」
「リオ?」
ヒトカゲとリオルが自分たちを指すようにレンを見上げている。
レンはすぐに立ち上がった。
「もちろん二匹も診てもらうよ」
「カゲ?」
「リオ?」
二匹とも揃って「自分たちは大丈夫だ」と言いたそうな顔をする。
「駄目。今日はかなり動いたんだから」
「カゲ……」
「リオ……」
「怪我してからじゃ遅いでしょ」
ちょうど治療室から戻ってきたジョーイが、その会話を聞いて二匹へ視線を向けた。
「その子たちもオニスズメと戦ったの?」
「はい。大きな怪我はないと思いますけど、二匹ともかなり走っています。ヒトカゲは『ひのこ』と『えんまく』を何度か使っていて、リオルも『でんこうせっか』を使いました」
「分かったわ。それなら二匹とも診てみましょう」
「お願いします」
「カゲ」
「リオ」
今度は二匹も素直にジョーイについていった。
◇
しばらくして、診察結果が伝えられた。
ピカチュウは傷こそ多かったものの、適切な治療を続ければ問題なく回復できるという。
その言葉を聞いた瞬間、サトシの全身から力が抜けた。
「よかったぁ……」
椅子へ深く沈み込むサトシを見て、レンもようやく胸を撫で下ろした。
ヒトカゲとリオルにも大きな怪我はなかった。ただし、ジョーイによれば二匹とも疲労が溜まっているらしい。
「特にヒトカゲは炎を何度も使ったみたいだから、今日はもうしっかり休ませてあげて。リオルにも疲労が出ているから、激しい運動は避けた方がいいわね」
「はい。今日はもう訓練させません」
レンが迷わず答えると、ヒトカゲとリオルが同時に振り返った。
「カゲ!?」
「リオ!?」
「何もしないよ」
「カゲ……」
「リオ……」
明らかに残念そうな二匹へ、レンはしゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫だから訓練するんじゃなくて、大丈夫なうちに休むの。明日の朝、身体の状態を確認してから決めよう」
父から何度も教えられてきた。
強くしたいからといって、無茶をさせるのは育成ではない。
それはマサラタウンにいるときだけ守る決まりではない。むしろ、何が起きるか分からない旅先だからこそ、以前より慎重に判断しなければならない。
二匹もレンの考えを理解したのか、少し不満そうながら最後には頷いた。
「カゲ」
「リオ」
「二匹とも偉いわね」
ジョーイが微笑む。
レンも笑って、二匹の頭を順番に撫でた。
そのときだった。
ポケモンセンターの扉が勢いよく開いた。
「いたぁぁぁぁぁ!」
「うわっ!?」
サトシが椅子から飛び上がる。
レンが振り返ると、入口には川辺で出会った橙色の髪の少女が立っていた。
しかも、その手には。
見るも無惨に黒焦げになった自転車がある。
「……来たか」
レンは小さく呟いた。
少女は真っ直ぐサトシへ向かってくると、黒焦げの自転車を突きつけた。
「ちょっと、あんた!」
「な、なんだよ!」
「なんだよじゃないわよ! 私の自転車、どうしてくれるの!?」
「だ、だから、あのときはピカチュウが!」
「『絶対返す』って言ったわよね!?」
「返したじゃん!」
「これを返したって言うの!?」
サトシは黒焦げの自転車を見る。
「……言わないです」
「でしょうね!」
完全に押されている。
レンが思わず額を押さえていると、少女はさらにサトシへ詰め寄った。
「大体、勝手に人の自転車を持っていくなんてどういうつもりよ!」
「でも、ピカチュウが大怪我してたんだ! 一刻も早くポケモンセンターへ連れていきたくて――」
「だからって、勝手に持っていっていいことにはならないでしょう!」
言い争いはまだ続きそうだった。
レンは二人の間へ入る。
「一回落ち着こう」
「何よ!」
少女がこちらを見る。
「サトシが勝手に自転車を借りたのは悪かった。それはちゃんと謝らないと駄目だと思う」
「レン!?」
「本当のことでしょ」
「う……」
「でも、あのときはピカチュウを助けるためだったのも本当だから。そこだけは分かってほしい」
少女はレンを睨んでいたが、やがて少しだけ表情を緩めた。
「……ピカチュウは?」
「今、治療してもらってる。大丈夫だって」
サトシが答える。
「そう……」
少女は治療室へ視線を向け、小さく息を吐いた。
「よかった」
その声には、本当に安心した様子が滲んでいた。
サトシもそれに気づいたらしく、少しだけ気まずそうな顔になる。
そして黒焦げの自転車を見たあと、少女へ向き直った。
「……ごめん」
「え?」
「勝手に持っていったのは悪かった。あのときはピカチュウを助けることで頭がいっぱいだったけど、それでも勝手に借りたのはオレだから」
少女は少し驚いたようにサトシを見る。
「でも、ピカチュウを助けたかったんだ。それだけは本当だ」
「……分かったわよ」
少女は腕を組んだ。
「でも、それと自転車は別だからね!」
「やっぱり!?」
「当たり前でしょ!」
再び声が大きくなる。
レンは小さく息を吐いた。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったね」
少女がこちらを見る。
「あ、そうだった。私はカスミ」
「俺はレン」
「オレはサトシ!」
「それはさっきから何度も聞いてる!」
「なんでだよ!?」
「自分で何回も言ってたでしょうが!」
「そうだった!」
レンは思わず笑った。
ヒトカゲとリオルも二人のやり取りを眺めながら、どこか呆れたような顔をしている。
どうやら。
この少女とも、これで終わりにはならなさそうだった。
◇
その頃。
夜を迎えたトキワシティの上空へ、一つの気球が近づいていた。
乗っているのは三つの影。
長い赤髪の女が眼下に見える建物を指さす。
「今夜の標的は、あのポケモンセンターよ!」
隣にいる青紫色の髪の男も、楽しそうに笑った。
「中にはたくさんのポケモンがいるはずだ。まとめていただいてしまえば大収穫!」
すると二人の間から、一匹のニャースが顔を出す。
「傷ついたポケモンまで狙うなんて、悪いやっちゃニャ」
「お前も同じだ!」
「ニャー!」
三人を乗せた気球は、静かにポケモンセンターへ近づいていった。
◇
センターでは、サトシが治療室の近くからほとんど離れようとしなかった。
カスミも自転車への怒りは残っているようだったが、ピカチュウの様子が気になるらしく、そのまま残っている。
レンは少し離れた場所でヒトカゲとリオルを休ませていた。
「今日は本当に終わりだからね」
「カゲ」
「リオ」
今度は二匹とも反論しなかった。
ヒトカゲはレンの右隣で身体を丸め、リオルは左側へ座っている。しばらくすると、リオルの身体が少しずつ傾き始め、そのままレンの肩へ頭を預けた。
「……寝た?」
「リオ……」
返事はない。
完全に目を閉じている。
その反対側ではヒトカゲも大きな欠伸をした。
「カゲェ……」
レンは思わず笑った。
「だから疲れてるって言ったでしょ」
二匹を起こさないよう静かにしていると、突然センター内へ警報音が響き渡った。
「な、何だ!?」
サトシが立ち上がり、カスミも周囲を見回す。
照明が切り替わり、ジョーイの表情が一変した。
「侵入者!?」
次の瞬間、大きな衝撃音とともに建物の一部が破壊され、煙がセンター内へ流れ込んできた。
眠っていたリオルが即座に目を開く。
ヒトカゲも立ち上がった。
煙の向こうから、二つの声が響く。
「なんだかんだと聞かれたら!」
「答えてあげるが世の情け!」
聞き覚えのある口上。
レンは目を細めた。
前世で何度も聞いたことがある。
やがて煙が薄れ、赤い髪の女と青紫色の髪の男、そして二足で立つニャースが姿を現した。
ムサシ。
コジロウ。
ニャース。
ロケット団。
もちろん、今のレンがその三人と直接会うのは初めてだ。
「ロケット団……!」
カスミが表情を変える。
「なんだよ、お前ら!」
サトシが前へ出ると、ムサシは得意げに笑った。
「決まってるでしょう? このポケモンセンターにいるポケモンたちをいただきに来たのよ!」
「傷ついている今なら抵抗も難しい。これほど都合のいい機会はない!」
「全部まとめていただくニャ!」
その言葉を聞いた瞬間、レンの表情から笑みが消えた。
前世で見ていた彼らには、どこか憎めない印象もあった。
何度も失敗しては吹き飛ばされ、時にはサトシたちと協力することさえある。
しかし、それは画面越しに見ていた物語の印象にすぎない。
今、目の前にいる三人は、傷ついたポケモンを盗むために医療施設へ押し入っている。
ならば、油断する理由など一つもなかった。
「ヒトカゲ、リオル」
「カゲ!」
「リオ!」
二匹がレンの左右へ並ぶ。
「無理はしない。二匹とも疲れてるのは変わらないからね。最優先は相手を倒すことじゃなくて、ここにいるポケモンを守ること」
「カゲ!」
「リオ!」
レンは続けてサトシとカスミを見る。
「避難を手伝おう!」
「おう!」
「分かったわ!」
三人が同時に動き出した。
◇
ジョーイたちは、治療中のポケモンを安全な場所へ移し始めた。
しかし、怪我をしているポケモンも多く、すぐに全員を避難させることはできない。
「リオル、ジョーイさんたちを手伝って!」
「リオ!」
リオルはすぐに走り出した。
怖がって動けなくなった小型のポケモンの前へしゃがみ、無理に押したり引いたりせず、安全な通路を示す。別のポケモンが転びそうになると、素早く身体を支えてから避難方向へ送り出した。
シバのもとで身につけた体捌きは、戦うためだけのものではない。
狭い場所を素早く移動し、周囲へぶつからずに行動する技術は、こういう場面でも役に立つ。
一方、レンはヒトカゲを自分の近くへ残した。
「ヒトカゲ、ここを守るよ。炎は必要なときだけ。設備にもポケモンにも絶対当てない」
「カゲ!」
ムサシたちが前へ進もうとする。
「邪魔する気!?」
「当たり前だ!」
サトシが叫んだ。
「ここには怪我してるポケモンがいるんだぞ!」
「だから狙ってるんじゃない!」
「最低だな、お前ら!」
「何ですってぇ!?」
ムサシがさらに前へ出ようとしたところで、レンが指示を飛ばす。
「ヒトカゲ、足元じゃなくて進行方向へ『ひのこ』!」
「カゲ!」
放たれた小さな炎が、ムサシたちの少し前を横切った。
直接攻撃ではない。
だが、前へ進めば炎に触れる位置を正確に塞がれ、三人は反射的に足を止めた。
「熱っ!」
「何なのよ、このヒトカゲ!」
「追わなくていい。そのまま!」
「カゲ!」
ここは屋内。
しかも医療施設。
『かえんほうしゃ』など使えるはずがない。『ひのこ』でさえ、撃つ方向を間違えれば火災につながる。
ならば、必要最低限の炎で進路だけを制限する。
勝つ必要はない。
一秒でも時間を稼げれば、その分だけ避難が進む。
「リオ!」
声に振り返ると、リオルが最後のポケモンを安全な通路へ送り出していた。
「全員行った?」
「リオ!」
「よし、戻って!」
「リオ!」
『でんこうせっか』。
リオルが床を蹴り、一気にレンのもとまで戻ってくる。
「速い!」
コジロウが目を見開いた。
「ニャかなか鍛えられてるリオルだニャ」
ニャースも興味深そうにリオルを見る。
レンはヒトカゲとリオルを左右へ置き、一歩前へ出た。
「これ以上は行かせない」
「カゲ!」
「リオ!」
「子供のくせに生意気ね!」
ムサシが苛立った声を上げた。
そのとき。
「待て!」
サトシの声が響いた。
全員が振り返る。
治療室の入口。
そこにピカチュウが立っていた。
「ピカ……」
治療を受けたとはいえ、身体にはまだ傷が残っている。
サトシはすぐに駆け寄った。
「ピカチュウ! 何してるんだよ!」
「ピカ」
ピカチュウはロケット団を見る。
その頬が僅かに光った。
だが。
「駄目だ!」
サトシが止めた。
ピカチュウが振り返る。
「ピカ?」
「まだ怪我してるだろ。今日はもう無理するな」
その言葉に、レンは少しだけ目を見開いた。
昨日までのサトシなら、真っ先に「戦ってくれ」と言っていただろう。
言うことを聞いてほしい。
自分のポケモンなのだから戦ってほしい。
そんな気持ちが先に出ていた。
けれど今は違う。
「オレたちでなんとかするから、お前は休んでろ」
サトシが笑う。
ピカチュウはしばらく黙ってサトシを見つめていた。
やがて一歩、前へ出る。
「ピカチュウ?」
もう一歩。
そして。
サトシの隣へ並んだ。
「……戦ってくれるのか?」
「ピカ!」
迷いのない返事。
サトシの顔に笑みが広がる。
昨日はサトシが戦わせようとした。
今は違う。
ピカチュウ自身が。
サトシと一緒に戦うことを選んだ。
「そっか」
サトシは拳を握る。
「じゃあ、一緒にやろう! ピカチュウ!」
「ピカ!」
すると、その声へ応えるように、センターの奥から次々と鳴き声が聞こえてきた。
「ピカ!」
「ピカピカ!」
「ピカ!」
現れたのは、ポケモンセンターにいた複数のピカチュウだった。
「な、何よ、この数!」
ムサシが後ずさる。
レンは集まってきたピカチュウたちの頬袋が一斉に光り始めたのを見て、すぐに状況を察した。
「ヒトカゲ、リオル、下がるよ!」
「カゲ!」
「リオ!」
「サトシも少し離れた方がいい!」
「え?」
その瞬間。
無数の電撃が走った。
「ピカァァァァァ!」
「ぎゃああああああ!」
「なんでこんなにぃぃぃ!」
「感電するニャァァァ!」
巨大な電撃がロケット団を包み込み、直後に激しい爆発が起こった。
レンはヒトカゲとリオルを庇うように身体を低くする。
煙が広がる。
その中から、ムサシたちが勢いよく夜空へ吹き飛ばされていった。
「こんなピカチュウ――!」
「普通じゃないぞぉぉぉ!」
「絶対捕まえるニャァァァ!」
三人の声が遠ざかっていく。
やがて静けさが戻ると、サトシが恐る恐る顔を上げた。
「……勝った?」
「ピカ」
「勝ったぁぁぁ!」
サトシが勢いよく飛び上がろうとした瞬間。
「走らない!」
「患者さん!」
レンとジョーイの声が綺麗に重なった。
「なんで!?」
「サトシも怪我してるでしょ!」
「ピカチュウだって治療中なのよ!」
「……はい」
さすがに二人同時に怒られれば、サトシも大人しくなる。
その様子を見ていたカスミが吹き出した。
「何よ、あんた。全然駄目じゃない」
「なんだと!?」
「ほら、また騒ぐ!」
「カスミが言ったんだろ!」
「私のせい!?」
再び始まった二人の言い争いを眺めながら、レンは大きく息を吐いた。
ヒトカゲとリオルが左右から見上げてくる。
「カゲ?」
「リオ?」
レンは少し考えてから苦笑した。
「旅って……毎日こんな感じじゃないよね?」
ヒトカゲとリオルも答えを知らない。
ただ。
二匹とも、なぜか同時に首を傾げた。
◇
騒動が落ち着いたあと、レンは壊れた壁や散らかったセンター内を眺めながら、先ほどのロケット団について考えていた。
前世では何度も見た三人だ。
何度挑んでも失敗し、何度吹き飛ばされても戻ってくる。時には敵とは思えないほど間の抜けた姿を見せ、状況によってはサトシたちと共闘することさえあった。
だからこそ、どこかで「いつものロケット団」という感覚を持ちかけていた。
けれど、それでは駄目だ。
この世界で実際に会った彼らは、傷ついたポケモンを奪うためにポケモンセンターを襲撃した。
「知ってるからって、油断していいわけじゃないよな……」
「カゲ?」
ヒトカゲがレンを見る。
「ううん。こっちの話」
レンはその頭を軽く撫でた。
旅立ち前夜、新しいノートの最初に書いた言葉を思い出す。
――知っていることより、自分で確かめたことを大切にする。
前世で知った情報は役に立つ。
それを捨てるつもりはない。
けれど、知識だけを見て目の前の現実を決めつければ、いつか必ず判断を誤る。
今日、自分の目で確かめた。
ロケット団は警戒すべき相手だ。
ならば次に会ったときも、そのつもりで向き合う。
それでいい。
レンがそう結論づける頃には、ヒトカゲとリオルは再び眠そうにしていた。
「もう寝ようか」
「カゲ……」
「リオ……」
今度こそ。
長かった旅立ち初日が終わろうとしていた。
◇
翌朝。
「ピカ!」
「おおっ!」
センター内へサトシの大声が響いた。
治療を終えたピカチュウが床を蹴り、自分からサトシの肩へ飛び乗ったのだ。
「ピカチュウ!」
「ピカ」
「レン! 見たか!?」
「見てたよ」
「自分から乗ったぞ!」
「うん」
「オレの肩に!」
「うん」
「自分から!」
「何回言うの?」
「だってすげえだろ!」
サトシが満面の笑みを浮かべる。
肩の上では、ピカチュウが呆れたような顔をしていた。
「ピカ……」
「その顔やめろよ!」
それでも電撃は飛んでこない。
レンはその様子を見ながら笑った。
まだ完璧なコンビではない。
昨日の出来事一つで、何もかも分かり合えたわけでもないだろう。
これから意見がぶつかることもある。
サトシが間違えることも。
ピカチュウが言うことを聞かないこともあるはずだ。
それでも。
二人の旅は確かに始まった。
「ヒトカゲ」
「カゲ!」
「リオル」
「リオ!」
二匹もジョーイの診察を終えている。
昨日の疲労はかなり抜けていたが、レンはそれだけで判断せず、改めて自分でも身体を確認した。
ヒトカゲの足取り。
肩や腕の動き。
呼吸。
尻尾の炎。
リオルも歩かせ、身体を軽く動かしてもらい、昨日負担のかかった場所に違和感がないかを見る。
問題はなさそうだった。
それでも。
「今日は軽めにしよう」
「カゲ」
「リオ」
「移動しながら身体を戻して、それから様子を見る。訓練するにしても軽いものだけね」
「カゲ!」
「リオ!」
二匹も素直に了承した。
レンが鞄を背負う。
「じゃあ、行こうか」
「おう!」
サトシも荷物を持ち、肩にはピカチュウ。
レンの左右にはヒトカゲとリオル。
ジョーイとジュンサーへ礼を告げ、ポケモンセンターを出ようとした。
その瞬間だった。
「ちょっと待ちなさい!」
聞き覚えのある声に、サトシの身体が固まる。
「……まさか」
恐る恐る振り返る。
そこには。
カスミ。
そして。
例の黒焦げの自転車。
「どこ行く気?」
「……旅だけど」
「へえ」
カスミは笑っている。
しかし目が笑っていない。
「私の自転車をこんなにしておいて?」
「だから謝っただろ!」
「謝ったら自転車が直るの!?」
「直らない!」
「でしょうね!」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」
「ちゃんと直しなさいよ!」
「今!?」
「今すぐじゃなくてもいいわよ!」
サトシは一瞬だけ安心する。
「じゃあ旅に行って――」
「私も行く」
「……え?」
「逃げられたら困るもの」
「ええええええ!?」
サトシの叫びがセンター中へ響いた。
「レン! なんとか言ってくれ!」
突然助けを求められ、レンは少し考える。
「サトシが勝手に借りたんだから」
「レン!?」
「正確には最後に自転車を黒焦げにしたのはピカチュウだけど、原因を作ったのはサトシだし」
「ピカ」
肩の上でピカチュウまで頷いた。
「ピカチュウまで!?」
「決まりね」
カスミが腕を組む。
「決まってない!」
「決まったの!」
「決まってない!」
また言い争いが始まる。
レンは隣のヒトカゲを見る。
ヒトカゲもレンを見る。
さらにリオルを見ると、リオルも同じようにこちらを見返していた。
三人は何となく顔を見合わせる。
そして。
「……行こうか」
「カゲ」
「リオ」
先に歩き始めた。
「あっ、待てよレン!」
「逃がさないわよ、サトシ!」
「だから逃げないって!」
「人の自転車を勝手に持っていった人の言葉をどう信用しろっていうのよ!」
「それは……!」
「ほら、言い返せない!」
騒がしい声が後ろから追ってくる。
レンは振り返り、小さく笑った。
昨日、マサラタウンを出たときには。
レンとサトシ。
ヒトカゲとリオル。
そしてピカチュウ。
それだけだった。
それが、たった一日で一人増えた。
この先。
どれだけの出会いが待っているのだろう。
レンはまだ知らない。
次に向かうトキワの森で、サトシがピカチュウに続く新しい仲間と出会うことも。
その小さな出会いが、やがて一匹のポケモンの大きな成長へ繋がっていくことも。
そしてレン自身もまた、旅に出る前の訓練だけでは得られなかったものを、一つずつ知っていくことになる。
知識だけでは分からない。
実際に歩き、出会い、戦い、自分の目で確かめなければ見えてこないものを。
レンはヒトカゲとリオルを連れ、サトシはピカチュウと歩き、その後ろから自転車の弁償を求めるカスミがついてくる。
三人と三匹の次なる目的地は――トキワの森。
世界の頂へ続く旅は、まだ始まったばかりだった。