ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
レンが六歳になった夏、普段は穏やかなマサラタウンに、いつになく多くの子供たちの声が響いていた。
町外れにあるオーキド研究所で、毎年恒例のポケモンサマーキャンプが開かれるからだ。マサラタウンの子供だけでなく、他の町や地方からも参加者が集まり、実際にポケモンと触れ合いながら、その生態や接し方を学ぶことになっている。
「レン! 早く行こうぜ!」
朝から家の前に響いた大声を聞き、レンは肩から鞄を提げて玄関を出た。そこには、待ちきれないと言わんばかりに身体を弾ませているサトシがいる。
「まだ集合時間まで余裕あるだろ」
「遅れるよりいいじゃん!」
「昨日、楽しみすぎて寝られないって言ってたのは誰だよ」
「オレ!」
胸を張って答えるサトシに、レンは呆れながらも笑ってしまう。
そんな二人を玄関先から見送っていたレンの母は、「二人とも、オーキド博士の言うことをちゃんと聞くのよ」と念を押した。
「はーい!」
「分かってるよ」
「特にサトシ君ね」
「なんでオレだけ!?」
不満そうな声を上げるサトシを横目に、レンは母へ手を振って歩き出した。
サマーキャンプという言葉には、レンにも覚えがあった。
前世で見たアニメの記憶を辿れば、幼いサトシがこのキャンプに参加し、後にカロス地方で再会することになる少女と出会っていたはずだ。
ただし、レンの記憶はアニメの出来事を一話ごとに完全保存しているわけではない。何歳の出来事だったのか、どんな順番で何が起こったのか、細かい部分になると曖昧だった。
それでも、一人の少女の名前だけは覚えている。
セレナ。
後にカロス地方でサトシと共に旅をすることになる少女だ。
もしかしたら今回のキャンプに参加しているかもしれない――そう考えていると、隣を歩いていたサトシが不思議そうに顔を覗き込んできた。
「レン、さっきからぼーっとしてるぞ」
「ちょっと考え事してただけ」
「キャンプで何するか?」
「まあ、そんなところかな」
「オレは絶対いっぱいポケモンと仲良くなる!」
勢いよく拳を突き上げるサトシに、レンは嫌な予感を覚えた。
「仲良くなるのはいいけど、野生のポケモンを追い回したりするなよ」
「分かってるって!」
「……本当に?」
まったく信用できない返事だった。
二人が研究所へ到着すると、すでに大勢の子供たちが集まっていた。マサラタウンでは見たことのない顔も多く、オーキド博士の知名度を考えれば、かなり遠方から来ている子もいるのだろう。
やがて全員が揃ったところで、オーキド博士が子供たちの前へ立った。
「みんな、よく来てくれた。このサマーキャンプでは、様々なポケモンを観察し、実際に触れ合いながら、ポケモンという生き物について学んでもらう」
その言葉だけで、子供たちから歓声が上がる。
オーキド博士は楽しそうに笑ったあと、人差し指を一本立てた。
「ただし、ポケモンを怖がらなければそれでいい、というわけではないぞ。時には、きちんと怖がることも大切じゃ」
予想外の言葉だったのか、何人かの子供が首を傾げる。
「野生のポケモンには、それぞれ性格があり、縄張りもある。見た目がかわいいからといって勝手に触れば、嫌がったり怒ったりするポケモンもおる。まず相手をよく見て、そのポケモンが何を考えているのか想像すること。それが仲良くなる第一歩じゃ」
レンは博士の話を聞きながら、小さく頷いた。
父から教わってきた育成の基本にも通じる話だった。
相手をよく見る。
種族だけで決めつけず、目の前にいる一匹が何を感じ、どんな状態なのかを考える。それは育成でも、初めて出会った野生のポケモンと接するときでも同じなのだろう。
一方、隣にいるサトシは今にも走り出しそうだった。
「よーし、いっぱい仲良くなるぞ!」
「今の話、本当に聞いてた?」
「聞いてたよ!」
元気よく返事をするサトシに若干の不安を覚えながら、レンもキャンプへ参加した。
最初に用意されていたのは、比較的人に慣れたポケモンたちとの触れ合いだった。ナゾノクサやコラッタ、ポッポ、ニドランなどが姿を見せるたびに、子供たちが嬉しそうに集まっていく。
レンも興味はあったが、すぐには近づかなかった。
少し離れた場所にいる一匹のニドラン♂が目に入り、その様子をじっと観察する。
他の子供が近づくたびに耳が細かく動き、身体を僅かに低くしている。逃げるほどではないものの、積極的に触れられたい様子でもない。
警戒しているのだろう。
レンは正面から近づかず、少し距離を空けた場所にしゃがみ込んだ。自分から手を伸ばすこともせず、そのまま待っていると、やがてニドランの方が興味を持ったらしく、鼻を動かしながら少しずつ近づいてくる。
「ニド?」
「こんにちは」
レンが静かに声をかけると、ニドランは差し出されていた手の匂いを嗅ぎ、鼻先を軽く触れさせた。
そこで初めて、レンは驚かせないようゆっくりと背中へ触れた。
「ほう」
背後から聞こえた声に振り返ると、オーキド博士が興味深そうに二人を見ていた。
「随分と慣れておるな、レン」
「父さんに、ポケモンに触る前にまず相手を見ろって言われてるから」
「なるほど。このニドランは少し臆病な性格をしておる。いきなり頭へ手を伸ばしていたら、角で威嚇されていたかもしれんな」
「やっぱり警戒してたんだ」
「うむ。知識を持つことも大切じゃが、それ以上に自分の目で見ることを忘れない。それはトレーナーになってからも大切なことじゃよ」
レンは素直に「うん」と頷いた。
自分の考え方をオーキド博士に認めてもらえたことが、少し嬉しかった。
しかし、そんな穏やかな時間は長く続かなかった。
「うわああああっ!」
研究所の敷地内に、聞き慣れた叫び声が響き渡った。
レンとオーキド博士が同時に振り返ると、そこには一匹のポッポを追いかけ回し、とうとう怒ったポッポに翼で頭を叩かれているサトシの姿があった。
「待ってくれよー! 仲良くしたいだけなんだって!」
「ポッポ!」
「……だから追いかけるなって言ったのに」
レンが額を押さえる隣で、オーキド博士も深いため息をつく。
「あやつはまず、話を最後まで聞くことから覚えた方がよさそうじゃな……」
その意見には、レンも全面的に同意した。
◇
昼を過ぎる頃には、初対面だった参加者たちの間にも少しずつ会話が生まれていた。
レンも何人かの子供と話したが、その途中で、少し離れた場所に一人で立っている少女が目に留まった。
肩ほどまで伸びた茶色の髪。周囲の子供たちが楽しそうにポケモンと触れ合っている中、その少女だけはどう近づけばいいのか分からないように、少し困った顔をしている。
その顔を見た瞬間、レンの前世の記憶と目の前の少女が重なった。
(……セレナだ)
やはり、このキャンプに来ていた。
もちろん、前世で知っているセレナよりずっと幼い。それでも面影は十分に残っている。
レンは声をかけようか迷った。
未来を知っているからという理由だけで、わざわざ接触するのも違う気がする。今の彼女は、まだ旅立ってすらいない六歳の女の子なのだから。
そう考えていた矢先、セレナの近くにあった草むらが大きく揺れた。
「ニド!」
飛び出してきたのは、一匹のニドラン♀だった。
ニドランに攻撃する意思はない。ただ草むらから飛び出した先に偶然セレナがいただけなのだろう。
しかし、突然目の前に現れたポケモンに驚いたセレナは、反射的に後ろへ下がった。
その踵が木の根に引っかかる。
「あっ……!」
身体が大きく傾いた。
レンは考えるより先に走っていた。
「危ない!」
伸ばした手でセレナの腕を掴む。
六歳の身体では完全に支えきれず、結局二人とも草の上へ倒れてしまったが、少なくともまともに地面へ叩きつけられることは避けられた。
「いたた……」
レンは身体を起こすと、すぐにセレナの様子を確認した。
「大丈夫? どこか痛くない?」
「う、うん……大丈夫」
膝には少し土がついている程度で、目立った怪我はない。
レンが安心して手を差し出すと、セレナはその手をしばらく見つめてから、恐る恐る握った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
立ち上がったあと、二人の間に少しだけ気まずい沈黙が流れた。
セレナは人見知りしているのか、こちらを見ながらも何を話せばいいのか迷っているようだった。
そこでレンから口を開いた。
「俺、レン。マサラタウンに住んでるんだ」
「レン……」
少女は名前を確かめるように繰り返し、それから小さく答えた。
「私はセレナ」
もちろん知っている――とは言えない。
レンは自然に会話を続けることにした。
「セレナはどこから来たの?」
「カロス地方」
「カロスか。かなり遠いな」
「うん。ママに、行ってきなさいって言われて……」
どこか歯切れの悪い答え方に、レンは首を傾げる。
「もしかして、自分から来たかったわけじゃない?」
図星だったらしく、セレナは驚いたようにレンを見てから、小さく頷いた。
「ポケモンが嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど……ちょっと怖いの」
先ほどニドランが飛び出してきた草むらへ、セレナが不安そうな視線を向ける。
レンはそれを否定しなかった。
「怖くてもいいんじゃない?」
「え?」
「オーキド博士も言ってただろ。怖いのに無理して近づく必要はないと思う」
意外だったのか、セレナが目を瞬く。
「レンは、ポケモンが怖くないの?」
「怖いポケモンは普通にいるよ。絶対に不用意に近づきたくないポケモンだっている」
前世の知識を思い返すだけでも、幼い子供が無警戒に近づくべきではないポケモンはいくらでも思いつく。
ゲームでは気軽に出会えても、この世界では実際に炎を吐き、電気を放ち、鋭い爪や牙を持つ生き物なのだ。
「でも、そのポケモンのことを知れば、怖くなくなることもあると思う」
「知る……?」
「何を嫌がるのか、どういうときに怒るのか、どうしたら仲良くなれるのか。そういうのが分かれば、さっきよりは怖くなくなるだろ?」
セレナはレンの言葉を聞きながら、何かを考えるように草むらへ視線を戻した。
そのときだった。
「レンー!」
遠くから聞こえてきた声に、レンは思わず苦笑した。
振り向けば、案の定サトシが全速力でこちらへ走ってくる。
「やっと見つけた! 何してるんだ?」
そこまで言ってから、サトシはレンの隣にいるセレナに気づいた。
「誰?」
「セレナ。カロス地方から来たんだって」
「カロス!?」
予想通り、サトシの目が一気に輝く。
「すっげー! なあ、カロスってどんなポケモンがいるんだ!?」
「え、えっと……」
勢いよく顔を近づけるサトシにセレナが困っているのを見て、レンは後ろからサトシの襟を掴んだ。
「近い」
「うわっ! 何すんだよ!」
「セレナが困ってる」
「あ……ごめん!」
サトシがすぐに頭を下げると、セレナは一瞬驚いたあと、くすっと小さく笑った。
それが、三人で交わした最初の会話だった。
◇
数日間のキャンプを過ごすうちに、レンとセレナは自然と一緒にいる時間が増えていった。
レンがポケモンを観察していると、いつの間にかセレナが隣から覗き込んでいる。
「レン、何見てるの?」
あるとき、レンが何羽かのポッポを眺めていると、セレナがそう尋ねてきた。
「翼の動き。同じポッポでも、飛び方が少しずつ違うんだ」
「同じポケモンなのに?」
「身体の大きさも違うし、得意な動きも違うからね。ほら、あっちのポッポは羽ばたく回数が少ないだろ?」
レンが指差すと、セレナも真剣にポッポを見つめる。
最初はポケモンを怖がっていた彼女も、こうして少し離れた場所から観察することには慣れてきていた。
時にはサトシも二人に加わったが、じっと観察することが苦手な彼は、数分もしないうちに自分からポケモンへ近づいていってしまう。
「サトシって、いつもああなの?」
走っていく背中を見ながらセレナが尋ねる。
「だいたいあんな感じ」
「レンは大変だね」
「最近、俺もそう思う」
「聞こえてるぞー!」
離れたところからサトシの抗議が飛んできて、二人は顔を見合わせて笑った。
そうして過ごした数日間は、レンが思っていた以上に早く過ぎていった。
やがて迎えたキャンプ最終日。
参加していた子供たちが次々と家族のもとへ帰っていき、セレナもカロス地方へ戻ることになった。
「じゃあね、レン」
「うん」
別れを前にしたセレナは、少し寂しそうに見えた。
出会ってから、まだ数日しか経っていない。
それでもレンにとって、セレナはもう「前世で知っているアニメの登場人物」ではなかった。
一緒に笑い、ポケモンを観察し、話をした一人の友達になっていた。
このまま二度と話さなくなるのは、レン自身も寂しい。
「セレナ」
「なに?」
「カロスに帰ってからも、また話さない?」
セレナが目を瞬いた。
「え?」
「連絡先を交換しようよ。カントーとカロスでも、電話なら話せるだろ?」
一瞬の間を置いて、セレナの表情がぱっと明るくなった。
「いいの?」
「もちろん」
二人は家の連絡先を交換した。
この世界には遠く離れた地方同士でも映像を繋げられる通信設備がある。会おうと思えば簡単には会えない距離でも、話すことまで諦める必要はない。
「レン」
「ん?」
「自分のポケモンができたら、教えてね」
「まだ何年も先だと思うけど?」
「それでも。絶対に教えて」
真剣な顔で念を押され、レンは笑いながら頷いた。
「分かった。約束する」
「うん!」
二人は小指を絡めて約束した。
このとき二人の間にあるのは、恋と呼ぶような感情ではない。ただ、離れたあとも話していたいと思える友達に出会えた。それだけの、けれど確かな繋がりだった。
やがてセレナを乗せた車がゆっくりと走り出す。
窓越しに手を振るセレナへ、レンもその姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
「なあ、レン」
隣に立っていたサトシが、不意に口を開く。
「何?」
「オレとも連絡先交換する?」
レンはしばらく無言でサトシを見た。
「……お前の家、歩いてすぐそこだろ」
「あ、そっか」
「というか、ほとんど毎日うちに来るじゃん」
「うん!」
あまりにも迷いのない返事に、レンは吹き出した。
六歳の夏。
レンは遠く離れたカロス地方に、一人の友達を作った。
これから何年もの間、声を聞き、互いの出来事を話しながら繋がっていくことになる少女との出会いだった。
そして季節は巡っていく。
父からポケモンの身体について学び、シバから戦いや鍛錬について教わり、サトシと騒がしい毎日を過ごしながら、レンは少しずつ成長していった。
七歳になり、やがて八歳を迎える。
まだ自分のポケモンを持っていないレンは知らない。
その八歳のある日、マサラタウン近郊で見つけることになる一つのタマゴが、自分の人生を大きく変えることを。
そして、その殻の中で眠る小さな命こそが――いつの日か世界の頂を共に目指す、かけがえのない相棒になることを。