ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
セレナと出会った夏から、二年の月日が流れた。
八歳になったレンの日常は、同年代の子供と比べれば少し変わっていた。
朝起きれば軽く身体を動かし、学校や家での勉強を終えればポケモンについて学ぶ。父が持っている専門書も、二年前には理解できなかった部分が少しずつ読めるようになり、休日にはオーキド研究所へ足を運んで、博士や研究員の許可を得ながらポケモンを観察することも増えていた。
もちろん、机に向かっているだけではない。
野生のポッポが飛び立つ瞬間の翼の使い方を眺めたり、コラッタが障害物の多い場所をどう走り抜けるのかを観察したりと、実際のポケモンから学べることも多かった。
前世で知っていた「ポケモン」という存在と、今この世界で生きているポケモン。
その二つは似ているようで、決して同じではない。
だからこそレンは、この世界で自分の目を使うことを大切にしていた。
そんなレンに対して、サトシは二年前からあまり変わっていない。
「レンー! 探検行こうぜ!」
休日の朝から窓の外に響いた声に、レンは読んでいた本から顔を上げた。
窓を開けて下を見ると、案の定サトシが家の前で大きく手を振っている。
「今日はどこ行くんだよ?」
「森!」
「広すぎるだろ。どの辺?」
「行けば分かる!」
「お前、何も考えてないだろ」
「考えてるって! まだ行ったことないところに行くんだ!」
それを普通は何も考えていないと言うのではないだろうか。
レンは呆れながらも本を閉じた。
二人だけで危険な場所へ入ることは禁止されているが、マサラタウンの近郊には大人たちから子供だけで行ってもよいと教えられている範囲がある。
その中なら、野生のポケモンを観察するにはちょうどいい。
「ちょっと待って。準備してくる」
「おう!」
水筒や簡単な救急用品などを鞄へ入れて外に出ると、サトシはすでに歩き出そうとしていた。
「サトシ」
「ん?」
「水持った?」
「……あ」
「やっぱり」
結局、レンの母からもう一本水筒を借りてから出発することになった。
◇
マサラタウンを離れ、二人は緩やかな丘を越えて森へ入った。
頭上ではポッポの群れが枝から枝へ移り、草むらでは時折コラッタの姿が見える。遠くから別のポケモンの鳴き声が聞こえるたびにサトシが反応するため、そのたびにレンが不用意に追いかけないよう止めなければならなかった。
「なあレン、あっち!」
「走るなって。足元見ろよ」
「大丈夫だって!」
そう言った直後に木の根につまずきかけたサトシを見て、レンはため息をついた。
「……説得力ないな」
「転んでないからセーフ!」
「そういう問題じゃない」
それでも二人で歩く時間は楽しかった。
しばらく森を進んだところで、レンは足を止めた。
「サトシ」
「どうした?」
「静かに」
先ほどまでとは違う声色に、サトシも素直に口を閉じる。
レンは周囲を見回した。
何かが聞こえたわけではない。
むしろ逆だった。
先ほどまで聞こえていたポッポやコラッタの気配が、この辺りだけ妙に少ない。
それに、少し先の草が不自然に倒れていた。
「何かいるのか?」
サトシが小声で尋ねる。
「分からない。でも、ちょっと変だ」
レンはすぐに近づかず、まず周囲を確認した。
大きなポケモンが潜んでいる可能性もある。野生のポケモン同士が争った直後なら、興奮した個体が残っていることも考えられる。
二人で慎重に進んでいくと、木々の間に少し開けた場所が見えてきた。
そこでレンは、再び足を止めた。
「……あれ」
大きな木の根元。
落ち葉に半分ほど隠れるようにして、一つのタマゴがあった。
「タマゴだ!」
サトシが声を上げた。
「静かに!」
レンは慌ててその口を塞ぐ。
「むぐっ!?」
「親が近くにいるかもしれないだろ」
サトシもようやく意味を理解したらしく、何度も頷いた。
レンは手を離し、改めてタマゴを見る。
大きさからしてポケモンのタマゴであることは間違いない。
しかし、なぜこんな場所に一つだけあるのか。
レンはすぐには触らなかった。
「どうする?」
「まず周りを調べる」
「持って帰らないのか?」
「親がいるなら、勝手に持っていったら駄目だろ」
「あ……そっか」
二人はタマゴから一定の距離を取り、周囲を調べ始めた。
巣らしいものはないか。
近くに親ポケモンはいないか。
人間が落とした可能性はないか。
地面にはいくつもの跡が残っていたが、子供二人ではそれだけから事情を判断することはできない。
時間をかけて周辺を探しても、それらしいポケモンは現れなかった。
「誰もいないな」
「うん……」
レンはタマゴの前にしゃがんだ。
表面には土が付着し、落ち葉も張りついている。
どれくらいここにあったのか分からない。
手を近づけたところで、レンは微かな温かさを感じた。
生きている。
そう思った瞬間、胸の奥に何かが込み上げた。
しかし、感情だけで決めるわけにはいかない。
「サトシ。一回町に戻ろう」
「タマゴは?」
「このまま置いていくのも心配だ」
レンは少し考えたあと、自分の上着を脱いだ。
直接乱暴に動かさないよう注意しながらタマゴを包み、両腕でしっかり抱える。
「オーキド博士に見てもらおう」
「分かった!」
帰り道は、来たときよりずっと慎重だった。
普段なら先へ先へと走っていくサトシも、このときばかりはレンの横を歩き、転びそうな場所があれば先に教えてくれた。
レンは腕の中にあるタマゴへ時折視線を落とす。
何のポケモンなのか。
どうしてあの場所にあったのか。
まだ何も分からない。
それでも、不思議と腕から離したくないと思っている自分がいた。
◇
「これは確かにポケモンのタマゴじゃな」
オーキド研究所。
事情を聞いた博士は、専用の機器を使ってタマゴの状態を調べていた。
レンとサトシは、その様子を少し離れた場所から見守っている。
連絡を受けたレンの両親も研究所へ来ていた。
「博士、中のポケモンは?」
レンが尋ねると、オーキド博士は検査結果を確認してから答えた。
「生きておるよ。今のところ大きな異常もなさそうじゃ」
レンの肩から力が抜けた。
「よかった……」
隣ではサトシもほっと息を吐いている。
「ただし」
オーキド博士の言葉に、レンは再び顔を上げた。
「お前さんたちが見つけた場所については、こちらでも確認する必要がある。野生のポケモンのタマゴなら、親が探している可能性があるからのう。それに、誰かが所有していたタマゴという可能性も捨てきれん」
「うん」
レンに異論はなかった。
見つけたから自分のもの。
そんな簡単な話ではない。
「レン」
父が隣に立つ。
「しばらく博士に預けよう」
レンはタマゴを見つめた。
ほんの少し寂しく感じたものの、頷く。
「分かった」
それから数日。
オーキド博士や研究員が発見場所周辺を調べ、マサラタウンや近隣にも確認を取った。
レンも毎日のように研究所を訪れた。
親ポケモンが見つかったなら、返す。
持ち主がいるなら、当然その人へ返す。
そう理解している。
それでも研究所へ来るたび、レンの足は自然とタマゴが保管されている部屋へ向かった。
「今日も来たのか」
研究員に笑われながら、レンはタマゴの前に座る。
「暇だったから」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「……暇なんだよ」
本当は違う。
気になって仕方がないのだ。
レンは保温装置の向こうにあるタマゴを眺めながら、その中で眠っている命へ静かに話しかけることもあった。
今日見たポケモンのこと。
サトシがまた無茶をして怒られたこと。
父から新しく教わったこと。
そして時には、カロスにいるセレナのこと。
返事などない。
それでも、なぜか話したくなった。
数日後。
オーキド博士からレンの家へ連絡が入った。
発見場所の周辺を調査したが、タマゴを守っていると思われる親ポケモンは確認できなかった。
近隣でタマゴを紛失したという届け出もない。
さらにしばらく様子を見ることにはなったが、このまま親や所有者が見つからなければ、保護したポケモンとして今後どうするか考える必要があるという。
その日の夕食後、レンは両親と向き合っていた。
「レン」
父が静かに尋ねる。
「あのタマゴを、お前が育てたいのか?」
レンはすぐに答えようとして、やめた。
欲しいかどうかだけなら、答えはとっくに決まっている。
欲しい。
自分で育てたい。
けれど、ポケモンを育てるというのは、そんな軽いものではない。
食事が必要になる。
健康管理もしなければならない。
遊びたいときだけ遊んで、面倒になれば放っておくなど許されない。
「……育てたい」
今度は迷わず答えた。
「ちゃんと勉強する。ご飯も、健康管理も、できないところは父さんたちに教えてもらう。旅に出られる歳になるまで俺一人じゃできないことがあるのも分かってる」
父は黙って聞いている。
レンはさらに続けた。
「それでも、俺が育てたい」
母が父を見る。
二人はしばらく視線を交わしたあと、父が小さく息を吐いた。
「最初から、そのつもりだったんじゃないのか?」
「え?」
「ここ数年、お前が何のためにあれだけ勉強してきたのかは見ていたからな」
父が笑う。
「ただし、最後まで責任を持つこと。ポケモンはお前が強くなるための道具じゃない」
「分かってる」
「なら、俺は反対しない」
母も優しく微笑んだ。
「私もよ」
レンの表情が一気に明るくなった。
ただし、正式にレンが保護することになったとしても、十歳になるまでは両親やオーキド博士の協力を受けながら育てることになる。
それで十分だった。
◇
さらに時間が経ち、親も元の所有者も現れなかった。
そして正式に、レンの家でタマゴを保護することが決まった。
研究所からタマゴを受け取った日。
レンは壊れ物を扱うように、慎重にその温もりを腕へ抱いた。
初めて森で見つけたときとは違う。
今度は、この命を守る責任がある。
「これからよろしく」
レンが小さく呟く。
当然、返事はない。
それでもタマゴを抱く腕には自然と力がこもった。
家へ帰ると、父と一緒にタマゴを安全に管理する環境を整えた。温度や湿度について教わり、何か異変があればすぐ大人へ知らせるよう念を押される。
その日の夜。
自分の部屋で、レンはタマゴの前に座っていた。
机の上に置かれた通信端末には、カロス地方へ繋ぐための連絡先が表示されている。
約二年前。
一人の少女と交わした約束を思い出す。
――自分のポケモンができたら、教えてね。
まだ孵化していない以上、「自分のポケモンができた」と言っていいのかは分からない。
それでも、黙っている理由もなかった。
レンは通信を繋いだ。
少しして画面が明るくなり、見慣れた茶色の髪の少女が映る。
『レン?』
「久しぶり、セレナ」
『久しぶり! どうしたの?』
レンは少し笑ってから、端末の向きを変えた。
『……タマゴ?』
「うん」
画面の向こうでセレナの目が大きくなる。
「森で見つけたんだ。いろいろ調べてもらって、今日から俺の家で育てることになった」
『ほんと!?』
「まだ何のポケモンかは分からないけど」
セレナは画面越しにタマゴをじっと見つめていたが、やがて嬉しそうに笑った。
『よかったね、レン』
「うん」
その一言に、レンも自然と笑顔になる。
『生まれたら、絶対見せてね』
「もちろん。そのために連絡したんだから」
『約束だよ?』
「約束」
通話を終えたあと、レンは再びタマゴへ目を向けた。
どんなポケモンが生まれてくるのだろう。
大人しいのか。
活発なのか。
バトルが好きなのか、それとも別のことが好きなのか。
前世の知識があっても、タマゴの中にいる一匹の性格までは分からない。
だからこそ楽しみだった。
レンはまだ知らない。
その殻の中で眠っているのが、炎を尻尾に宿すポケモン――ヒトカゲであることを。
そして、その小さなヒトカゲと二年間を共に過ごし、育て、鍛え、笑い、時にはぶつかりながら、十歳の旅立ちを迎えることを。
やがて世界中の強敵を相手に戦うことになる、一番最初の相棒。
その出会いは今、確かにレンの腕の中にあった。