ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
レンの家にポケモンのタマゴがやって来てから、生活は少しずつ変わっていった。
朝起きれば、まず保温器の状態を確認する。学校から帰ってきたときも、鞄を置いて手を洗えば自然と足はタマゴのある部屋へ向かい、父から教わった通りに温度や湿度を確かめた。
タマゴそのものに変化がないかも毎日観察し、その結果はノートへ書き残している。少しでも気になることがあれば父へ相談し、必要ならオーキド博士にも確認してもらう。
最初の数日は、目に見える変化などほとんどなかった。
それでもレンは飽きなかった。
「今日も変わらないな」
保温器の前に座り、タマゴへ話しかける。
「まあ、元気ならそれでいいけど」
当然ながら返事はない。それでもレンは、学校であったことやサトシがまた野生のポケモンを追いかけて大人に怒られたこと、父から新しく教えてもらったことなどを話した。
時には、十歳になって旅へ出たら何をしたいのかという話もする。
各地のジムへ挑戦したい。
強いトレーナーたちと戦いたい。
今まで見たことのないポケモンを、自分の目で見てみたい。
そしていつか、世界で一番強いトレーナーになりたい。
「もしお前も旅が好きなら、一緒にいろんなところへ行けたらいいな」
そう言ってから、レンは少し考える。
「……まあ、まだ何が生まれるかも分からないんだけど」
自分で言って、自分で笑った。
まだ殻の中にいるポケモンへそんな話をする息子を、父は少し離れた場所から見守っていた。
「毎日よく話すことがあるな」
「聞こえてるかもしれないだろ?」
「可能性はあるよ。孵化が近づけば、外からの音や刺激に反応することもあるからな」
それを聞いてレンが嬉しそうにタマゴを見ると、父は苦笑した。
「だからって、一日中話しかけるなよ。休ませることも大切だからな」
「分かってるよ」
前世のゲームなら、ポケモンのタマゴは一定の距離を移動すれば孵化する。
しかし、この世界では当然そんな単純なものではない。
温度や湿度を整え、中にいる命が順調に育っているか確認しながら、自ら殻を破る日を待つ。
いつ生まれるのか。
どんなポケモンなのか。
どんな性格をしているのか。
前世から多くの知識を持っているレンにも、それだけは分からなかった。
だからこそ、楽しみだった。
◇
「まだ生まれないのか?」
ある日の放課後。
遊びに来たサトシが、保温器へ顔を近づけながら尋ねた。
「まだ」
「いつ生まれる?」
「分からない」
「明日?」
「だから分からないって」
「じゃあ今日!」
「可能性はあるけど……」
レンが苦笑すると、サトシは角度を変えながらタマゴを眺め始めた。
「何が生まれると思う?」
「それ聞くの、何回目だよ」
「オレはヒトカゲだと思う!」
その名前を聞いて、レンの視線がタマゴへ向く。
「なんで?」
「なんとなく!」
「根拠ないじゃん」
「でも当たるかもしれないだろ?」
「まあ、それはそうだけど」
レンもヒトカゲなら嬉しいと思わないわけではなかった。
前世から好きだったポケモンの一匹であり、その最終進化であるリザードンについてもよく知っている。
だが、それはレンの希望にすぎない。
何が生まれても、このタマゴを育てると決めたことに変わりはなかった。
「俺は何でもいいよ」
「えー?」
「元気に生まれてくれれば、それでいい」
サトシは一瞬だけ考え、それから笑った。
「それもそうだな!」
その直後だった。
――コトッ。
小さな音がした。
二人の動きが止まる。
「……レン」
「うん」
タマゴが僅かに動いていた。
二人は息を潜めるように見つめる。
数秒後、もう一度タマゴが揺れた。
今度は見間違いではない。
「レン!」
「父さん呼んでくる!」
待ち続けた瞬間が、ついに訪れようとしていた。
◇
連絡を受けたオーキド博士が到着する頃には、タマゴは一定の間隔で動くようになっていた。
レンの両親とサトシ、オーキド博士が少し離れたところから見守っている。
「博士……」
「うむ。孵化が始まったようじゃ」
レンの胸が大きく高鳴った。
タマゴが揺れるたび、中から殻を押しているような音が聞こえる。
思わず近づきたくなったが、レンはその場で踏みとどまった。
自分の力で殻を破ろうとしているのなら、必要もないのに人間が手を出すべきではない。
「頑張れ……」
レンにできるのは、見守ることだけだった。
やがて――。
ピシッ。
殻の表面に小さな亀裂が走る。
「おおっ!」
サトシが思わず声を上げた。
亀裂は少しずつ広がり、そのたびに内側から殻を押す音が聞こえてくる。
そして、しばらくして。
パキッ!
殻の一部が外れた。
そこから最初に現れたのは、小さなオレンジ色の手だった。
レンの心臓が大きく跳ねる。
さらに殻が割れ、丸みを帯びた頭が姿を見せる。続いてオレンジ色の身体がゆっくりと外へ抜け出し、最後に現れた小さな尻尾の先では、一つの炎が揺れていた。
「カゲ……」
まだ弱々しい、それでも確かな鳴き声。
「ヒトカゲだ!」
サトシが嬉しそうに叫んだ。
レンはすぐには何も言えなかった。
ヒトカゲというポケモンなら知っている。
前世では何度も見たし、この世界に生まれてからも資料や実物を目にしてきた。
それでも、目の前にいるヒトカゲは、これまで見てきたどのヒトカゲとも違って見えた。
森で見つけた一つのタマゴ。
毎日状態を確認し、何度も話しかけながら生まれてくる日を待っていた、その中にいた命だ。
ヒトカゲはゆっくりと目を開けると、初めて見る世界を確かめるように周囲を見回した。
オーキド博士。
レンの父と母。
サトシ。
そして最後に、その視線がレンのところで止まった。
「……ヒトカゲ」
レンは静かに名前を呼び、自分から近づくのではなく、その場へしゃがんだ。
「初めまして。俺はレン」
「カゲ……?」
ヒトカゲが首を傾げる。
どこまで言葉を理解しているのかは分からない。それでもレンは微笑んだ。
「ずっと待ってたんだ」
ヒトカゲはしばらくレンを見つめていた。
やがて、何かを確かめるように鼻を小さく動かす。
それから覚束ない足取りで、一歩。
また一歩。
レンの方へ歩き始めた。
途中で足をもつれさせ、前へ倒れそうになる。
「あっ」
レンは反射的に手を伸ばした。
その腕の中へ、ヒトカゲの小さな身体が収まる。
「大丈夫?」
「カゲ……」
ヒトカゲは驚いたようにレンを見上げた。
レンはすぐに立たせようとした。
しかし、その瞬間。
ヒトカゲの小さな手がレンの服を掴んだ。
「……ヒトカゲ?」
離れない。
レンが動かなければ、そのまま胸元へ身体を預けている。
「もしかすると、タマゴの中にいた頃からレンの声を聞いていたのかもしれんな」
オーキド博士が穏やかに言った。
本当にそうなのかは分からない。
けれどレンは、その言葉が少し嬉しかった。
「俺のこと、分かる?」
「カゲ……」
答えるように小さく鳴き、ヒトカゲはレンの服を握ったまま目を細めた。
レンもその身体をそっと抱える。
温かい。
ゲームの中にいるキャラクターではない。
アニメの画面の向こうにいた存在でもない。
小さな身体で呼吸し、レンの腕の中で確かに生きている。
「これからよろしく、ヒトカゲ」
「カゲ」
今度の声は、先ほどより少しだけ安心しているように聞こえた。
それが、レンと最初の相棒が交わした初めての挨拶だった。
◇
もちろん、生まれたその日から特訓を始めるようなことはしなかった。
最初に必要なのは健康状態の確認だ。
オーキド博士と父に診てもらった結果、身体に大きな異常はなく、尻尾の炎も安定していた。
診察の最中、ヒトカゲは少し落ち着かなかった。
身体へ器具を当てられるたびにレンの方を振り返り、その姿が見えなくなると不安そうに声を上げる。
「ここにいるよ」
レンが近くへ座ると、それだけで少し落ち着いた。
「随分懐かれたのう」
「そうかな」
「カゲ」
ヒトカゲがレンの指を握る。
「……そうみたい」
思わず笑ってしまった。
その夜、ヒトカゲのために用意した寝床もあった。
柔らかい敷物を用意し、尻尾の炎にも十分配慮した場所だ。
「ここで寝るんだよ」
「カゲ」
ヒトカゲを寝床へ連れていく。
最初は素直に横になった。
レンも安心して自分のベッドへ向かう。
しかし数分後。
――ぺた、ぺた。
小さな足音が聞こえた。
「ん?」
振り返る。
ヒトカゲが立っている。
「どうした?」
「カゲ……」
レンが近づくと、ヒトカゲは安心したように身体を寄せてきた。
寝床へ戻してみる。
しばらくすると、また出てくる。
二回。
三回。
「もしかして、一人が嫌なのか?」
「カゲ……」
ヒトカゲがレンの服を掴む。
レンは困ったように笑った。
結局、寝床をレンのベッドのすぐ横へ移すことになった。
「これならいい?」
「カゲ」
今度は出てこなかった。
寝床へ横になったヒトカゲは、レンの姿が見えることを確かめると安心したように目を閉じる。
「おやすみ」
「……カゲ」
数分もしないうちに、小さな寝息が聞こえてきた。
レンは暗い部屋の中でしばらくその姿を眺めていた。
まだ今日生まれたばかり。
それなのに、不思議なほど大切に思えた。
◇
それから数日間、レンはできるだけ多くの時間をヒトカゲと一緒に過ごした。
食事の量や食欲、睡眠時間、体温、歩き方を確認することはもちろんだが、それだけではない。
一緒に庭を歩き、遊び、休む。
レンが本を読んでいると、ヒトカゲは最初こそ本そのものに興味を示してページを触ろうとしていたが、やがて内容が分からないと悟ったのか、レンの横へ座るようになった。
それでも時折、
「カゲ?」
と本を覗き込んでくる。
「これはポケモンの身体について書いてあるんだ」
「カゲ」
「お前のことも載ってるぞ」
ヒトカゲが急に興味を示した。
レンがヒトカゲのページを見せると、挿絵と自分の身体を交互に見る。
「カゲ?」
「うん。お前」
「カゲ!」
なぜか嬉しそうだった。
別の日には、庭でレンが転がしたボールを追いかけた。
最初は追いつけず、ボールが柵へぶつかって止まる。
「カゲ……」
「もう一回やる?」
「カゲ!」
二度目。
また失敗。
三度目。
今度は追いついたものの、勢い余ってボールごと転がった。
「ヒトカゲ!」
レンが駆け寄る。
「大丈夫か?」
「カ、カゲ……」
ヒトカゲは少し目を回していた。
だが怪我がないことを確認すると、すぐに立ち上がる。
そして――またボールを見る。
「まだやるの?」
「カゲ!」
「負けず嫌いだなあ……」
レンが苦笑しながらもう一度ボールを転がす。
四度目。
ヒトカゲは先ほどより少し早く走り出し、今度こそ転がるボールへ追いついた。
両手で抱える。
「カゲ!」
「やったな!」
レンが笑顔で手を上げる。
するとヒトカゲは一瞬その手を見たあと、何を思ったのか、自分の小さな手をレンの掌へぶつけた。
ぱちん。
「……ハイタッチ?」
「カゲ!」
「どこで覚えたんだよ」
サトシかもしれない。
そう思いながら、レンはもう一度手を差し出した。
「もう一回」
「カゲ!」
ぱちん。
今度はさっきよりいい音が鳴った。
それ以来、何か上手くできるたびに、ヒトカゲはレンへ手を向けるようになった。
◇
サトシが遊びに来れば、当然ヒトカゲにも構いたがった。
「ヒトカゲ! 今日はオレと遊ぼうぜ!」
「カゲ?」
「競走だ!」
「カゲ!」
ヒトカゲはすぐに乗った。
庭の端から端まで。
一人と一匹が並ぶ。
「よーい……スタート!」
レンの合図と同時に二人が飛び出した。
当然ながら八歳のサトシと生まれて間もないヒトカゲでは歩幅が違う。
サトシが先行する。
「オレの勝ちだー!」
「カゲ……!」
その声を聞いた瞬間、ヒトカゲの目つきが変わった。
「……あ」
レンには分かった。
これは負けず嫌いに火がついた顔だ。
「カゲェ!」
ヒトカゲが必死に足を動かす。
結局、僅かな差でサトシが先にゴールした。
「よっしゃあ!」
「カゲ……!」
ヒトカゲが悔しそうに地面を叩く。
「ヒトカゲ、まだ身体の大きさが違うんだから――」
レンが慰めようとすると、ヒトカゲは首を横に振った。
そしてスタート地点を指さす。
「カゲ!」
「もう一回やるのか?」
「カゲ!」
サトシの顔も輝く。
「いいぜ!」
「お前ら……」
レンは呆れながらも笑った。
結局、その日は何度も競走することになった。
ヒトカゲは一度もサトシに勝てなかった。
それでも回数を重ねるたびに、走り方は少しずつ変わった。
足を無闇に前へ出すのではなく、身体を前へ傾ける。
曲がるときには速度を落としすぎない。
サトシがどう走っているのかを見る。
レンはそれに気づいていた。
(負けるのは嫌い。でも、ただ悔しがるだけじゃない)
負けたら、次はどうすればいいかを自分なりに考えている。
まだ幼い。
それでも、その性質はトレーニングをする上で大きな長所になるだろう。
ただし。
「はい、今日は終わり」
「カゲ!?」
「ええー!」
ヒトカゲだけでなくサトシまで抗議する。
「ヒトカゲはまだ生まれたばかりなんだから、走らせすぎない」
「あと一回!」
「駄目」
「カゲー!」
「二人で同じ顔しても駄目」
レンが譲らないと分かると、サトシとヒトカゲは揃って肩を落とした。
そんな二人を見ていると、レンまで笑えてくる。
◇
ある夜。
外では激しい雨が降っていた。
窓を叩く雨粒の音に混じって、時折遠くから雷鳴が響く。
レンが机で本を読んでいると、足元へ何かが触れた。
「ん?」
ヒトカゲだった。
いつもなら寝床で眠っている時間だ。
「どうした?」
「カゲ……」
その直後。
ゴロゴロ――!
大きな雷鳴が響いた。
ヒトカゲの身体が僅かに跳ねる。
「雷、苦手?」
「カ、カゲ」
否定するように首を横へ振った。
しかし、直後にもう一度雷が鳴ると、レンの脚へぴたりと身体を寄せた。
レンは思わず笑いそうになったが、からかうのはやめた。
「こっち来る?」
少しだけ腕を広げる。
ヒトカゲは数秒迷ったあと、レンの膝へよじ登ってきた。
「別に怖くてもいいよ」
「カゲ……」
「俺だって苦手なものくらいあるし」
レンはそう言いながら、ヒトカゲの頭を撫でた。
しばらくすると雷鳴は遠ざかっていった。
それでもヒトカゲは膝から降りようとしない。
「もう大丈夫そうだけど」
「カゲ」
「……そこがいい?」
「カゲ」
仕方なく、レンはそのまま本を読み続けた。
やがて膝の上から規則正しい寝息が聞こえてくる。
レンが本を閉じて見下ろすと、ヒトカゲは完全に眠っていた。
小さな手が、レンの服を掴んでいる。
「……しょうがないな」
そう言いながらも、レンの表情は柔らかかった。
ヒトカゲを起こさないように抱き上げ、寝床まで運ぶ。
その途中で目を覚ましたヒトカゲが、薄く目を開いた。
「カゲ……」
「寝てていいよ」
レンの声を聞くと、再び目を閉じる。
その姿を見て、レンはふと思った。
ヒトカゲにとって、自分はもう「タマゴのそばにいた人間」だけではなくなっているのかもしれない。
そしてレンにとっても、この小さなヒトカゲはただの「最初のポケモン」ではなかった。
世界最強になるために必要な戦力。
そんな言葉だけで表せる存在ではない。
家族に近くて。
友達に近くて。
それでも、そのどちらとも少し違う。
――相棒。
その言葉が、一番しっくりきた。
◇
さらに数日が経った。
ヒトカゲの健康状態は安定している。
食欲もあり、庭を走り回れるほど身体も新しい環境に馴染んだ。
何より、身体を動かすことが好きだ。
レンが庭へ出るだけで、何かするのかと期待するようについてくる。
そろそろ次の段階へ進んでもいい。
だからこそレンは、いきなり野生のポケモンと戦わせるのではなく、最初にヒトカゲ自身の力を知ることにした。
「ヒトカゲ」
「カゲ!」
呼べば、すぐに走ってくる。
「今日はちょっと違うことをやってみよう」
「カゲ?」
「お前が今、どんな技を使えるのか確認したいんだ」
一瞬だけ意味を考えるように首を傾げたあと、ヒトカゲの目が輝いた。
「カゲ!」
「言っとくけど、バトルじゃないからな」
「カゲ……」
露骨に勢いが落ちる。
「そんなに戦いたいの?」
「カゲ!」
即答だった。
レンは思わず笑った。
「じゃあ、ちゃんと準備しないとな」
実戦に出すならなおさらだ。
何ができるのか。
どんな動きを得意としているのか。
どこに弱点があるのか。
それを知らずに戦わせるつもりはない。
父にも相談し、庭の安全を確認する。
特に炎を使う可能性があるため、燃え移りそうなものは遠ざけ、練習用の的も準備した。
「よし」
レンがヒトカゲを見る。
「やってみよう」
「カゲ!」
最初に確認するのは、最も単純な攻撃だった。
「この的を、爪で攻撃してみて」
ヒトカゲは自分の手を見る。
それから的へ視線を向けた。
少し考えるような仕草をしたあと、勢いよく駆け出す。
「カゲッ!」
右腕を振り抜く。
ザッ!
鋭い爪が的の表面を削った。
(『ひっかく』)
レンはノートへ書き込みながら、今の動きを思い返す。
「もう一回できる?」
「カゲ!」
今度も右腕。
一度目より強く踏み込み、爪を振る。
傷は深くなった。
だが、勢いをつけすぎたことで上半身が前へ流れる。
「ストップ」
「カゲ?」
「今の攻撃、強かった。でも――」
レンはヒトカゲの前へ立ち、自分で動きを見せた。
「攻撃したあとにこうなると、次の動きが遅くなるだろ?」
腕を大きく振って、わざと体勢を崩す。
「だから、こう」
今度は踏み込みを少し抑え、攻撃後にも足を残す。
ヒトカゲは真剣な顔で見ていた。
「やってみる?」
「カゲ!」
再び的へ向かう。
「カゲッ!」
爪を振り抜く。
威力そのものは先ほどより少し落ちた。
それでも攻撃後の身体は流れず、その場へしっかり残っている。
「そう、それ!」
レンが手を上げる。
ヒトカゲは嬉しそうに駆け寄り、
ぱちん!
いつものようにハイタッチした。
「カゲ!」
「覚えるの早いな」
レンも笑う。
ノートへ記録する。
『ひっかく』――使用可能。右腕が自然。踏み込みが強すぎる傾向あり。修正への反応は良好。
次は炎だった。
「口から炎を出せそう?」
「カゲ?」
ヒトカゲは自分の尻尾を振り返った。
それから口元へ手を当てる。
どうやら本人にも分からないらしい。
「やってみようか。無理に大きい炎を出さなくていい」
レンはヒトカゲの前へしゃがむ。
「身体の中にある熱を感じて、それを口の方へ持ってくる感じで」
「カゲ……」
ヒトカゲが的へ向き直る。
息を吸い込み、口を開く。
しかし何も起きない。
「カゲ……」
少し悔しそうな顔をする。
「大丈夫。一回でできなくてもいいよ」
「カゲ」
ヒトカゲがもう一度構える。
レンは横から余計な言葉を挟まず、見守った。
しばらくして――。
「カゲ……!」
口元から、小さな火の粉が漏れた。
ヒトカゲの目が見開かれる。
「それだ。そのまま前へ!」
レンの声に反応し、ヒトカゲが顔を上げた。
「カゲェッ!」
小さな炎が口から飛び出した。
まだまとまりは悪く、火の粉を散らしながら飛んだ炎が的へぶつかる。
「できた!」
「カゲ!」
ヒトカゲが勢いよく振り返る。
レンも手を出した。
ぱちん!
二度目のハイタッチ。
ヒトカゲは自分が炎を出せたことがよほど嬉しいのか、その場で跳ねている。
「『ひのこ』だな」
レンも嬉しかった。
だが、観察は忘れない。
威力は低い。
方向も安定していない。
炎の量にもばらつきがある。
もう一回!と言わんばかりにヒトカゲが的へ向き直ったが、レンは止めた。
「一旦休憩」
「カゲ!?」
「初めて使ったんだから、何回も連続でやらない」
「カゲー……」
「そんな顔しても駄目」
ヒトカゲは不満そうだ。
レンはその頭を撫でた。
「使えるって分かったんだから、それで十分。これから上手くしていけばいいだろ?」
「カゲ……」
「明日もやるから」
「カゲ!」
すぐ機嫌が直った。
本当に分かりやすい。
『ひのこ』――使用可能。威力・方向ともに不安定。制御を優先。
これで二つ。
『ひっかく』と『ひのこ』。
今日はここまででもよかった。
しかし。
「カゲ……」
ヒトカゲが再び的を見ていた。
「どうした?」
『ひっかく』の構えではない。
炎を吐こうとしている様子でもない。
それなのに、何かをしようとしている。
レンは声をかけず、観察する。
ヒトカゲの表情は真剣だった。
本人にも、それが何なのか分かっていないように見える。
ただ身体の奥にある何かを、本能的に引き出そうとしている。
「無理しなくていいよ」
「カゲ」
「でも、やってみたいならやってみよう」
レンの言葉を聞いたヒトカゲが頷く。
「カゲ……!」
身体へ力を込める。
しばらくは何も起きない。
だが――。
カタッ。
足元の小石が震えた。
「……え?」
レンが目を見開く。
一つの石が浮かび上がった。
さらに二つ。
三つ。
ヒトカゲ自身も驚いている。
「カ、カゲ!?」
集中が途切れた瞬間、浮かんでいた石が地面へ落ちた。
レンは黙ってその光景を見る。
知っている。
前世でも何度も見た技だ。
「……『げんしのちから』?」
「カゲ?」
ヒトカゲが首を傾げる。
タマゴから受け継いだ技。
そう考えるのが自然だった。
「もう一回だけやってみる?」
「カゲ!」
ヒトカゲは再び集中する。
先ほどより時間はかかったものの、小石がゆっくりと浮かび上がった。
「そのまま的へ!」
「カゲッ!」
岩が飛ぶ。
しかし速度は遅く、狙いも大きく外れた。
的へ届く前に勢いを失い、地面へ転がる。
「カゲ……」
ヒトカゲの肩が落ちた。
レンはすぐに近づいた。
「失敗じゃないよ」
「カゲ?」
「最初よりちゃんと自分で出せた」
レンは地面へ落ちた石を拾う。
「今日はそれで十分」
「カゲ……」
それでも納得していない顔だった。
どうやら、できなかったことそのものが悔しいらしい。
レンは少し考え、拳を差し出した。
「じゃあ約束しよう」
「カゲ?」
「いつか絶対、自由に使えるようになろう」
ヒトカゲはレンの拳を見る。
やがて意味を理解したのか、小さな拳を作った。
こつん。
二つの拳が触れる。
「俺もどうやったら上手く使えるか考える。だから一緒に練習しよう」
「カゲ!」
先ほどまで落ち込んでいたヒトカゲの顔に、再び笑顔が戻った。
レンも笑い返した。
『げんしのちから』――使用可能。親から受け継いだ技と思われる。現時点では発動に時間がかかり、威力・速度・命中精度すべて未熟。身体への負担も大きい。
現在確認できた技は三つ。
『ひっかく』。
『ひのこ』。
『げんしのちから』。
このヒトカゲには、まだ表へ出ていない力も眠っているかもしれない。
だが、それを焦って引き出す必要はない。
今の身体では扱えず、成長して初めて使える力だってあるはずだ。
いつかリザードンへ進化し、大きな翼と強靭な身体を得たとき。
そのとき初めて形になる力もあるだろう。
だから今は、目の前にある三つを磨けばいい。
「今日は終わり」
「カゲ!?」
「駄目。終わり」
「カゲー!」
「また明日」
「……カゲ」
「明日は今日より少し上手くできるかもよ?」
ヒトカゲが顔を上げる。
「カゲ!」
レンが手を上げる。
ヒトカゲも笑いながら駆け寄ってくる。
ぱちん!
庭に、気持ちのいい音が響いた。
◇
その夜、レンはカロス地方へ映像通話を繋いだ。
画面にセレナが映ると、レンの隣にいたヒトカゲが興味深そうに端末へ顔を近づける。
『レン!』
「久しぶり、セレナ」
『タマゴは!?』
「もう生まれたよ」
レンが端末を少し動かした。
「ほら」
「カゲ?」
『わあ……!』
セレナの表情が一気に明るくなる。
『ヒトカゲだったんだ! かわいい!』
「ヒトカゲ、セレナだよ。タマゴだった頃から、お前が生まれるのを楽しみにしてたんだ」
『初めまして、ヒトカゲ』
セレナが画面越しに手を振る。
ヒトカゲはその動きをじっと見つめる。
やがて、自分も片手を上げた。
「カゲ!」
『レン! 今、手振ってくれた!』
「振ったな」
『かわいい……!』
セレナの反応が面白いのか、ヒトカゲはもう一度手を振る。
『また振ってくれた!』
「気に入られたんじゃない?」
『ほんと?』
「カゲ!」
セレナが嬉しそうに笑った。
その後、今日初めて技を確認したことを話す。
『もうバトルしたの?』
「まだ」
レンは首を振る。
「実戦に出す前に、まず何ができるのか知らないと危ないから。今日は使える技を確認しただけ」
『どんな技?』
「『ひっかく』と『ひのこ』。それから『げんしのちから』」
『げんしのちから?』
「うん。これには俺も驚いた」
レンがヒトカゲを見る。
ヒトカゲもレンを見る。
自然と目が合った。
「まだ上手く使えないけどね」
「カゲ!」
『でも、ヒトカゲならできるよ』
「カゲ!」
「ほら。セレナも応援してるぞ」
ヒトカゲが胸を張る。
『レンもすごく楽しそう』
「そう?」
『うん。前に話してたときよりずっと』
言われて初めて、レンは気づいた。
確かに楽しい。
強くなるための方法を考えるのも。
ヒトカゲの知らなかった一面を見つけるのも。
上手くいかなくて一緒に悩むのも。
成功してハイタッチするのも。
全部が楽しかった。
「明日から少しずつ練習するんだ」
『頑張ってね、ヒトカゲ』
「カゲ!」
『レンもね』
「もちろん」
レンは今度こそ迷わず答えた。
「二人で強くなるよ」
◇
通話を終えたあと、レンは今日の記録をノートへまとめていた。
ヒトカゲは隣で横になっている。
『ひっかく』は攻撃後の体勢。
『ひのこ』は制御。
『げんしのちから』は発動速度から始める必要がある。
そして技だけでは足りない。
走る。
止まる。
曲がる。
跳ぶ。
避ける。
相手を見る。
レンの声を聞く。
さらに、その先。
レンから指示されるまで何もしないポケモンにはしたくなかった。
バトルでは一瞬の判断が勝敗を分ける。
レン自身も高速で指示を出せるトレーナーになるつもりだが、それでも全てを指示できるわけではない。
ヒトカゲ自身が相手を見て、考え、レンの意図を理解して動く。
いつかは言葉一つで。
もっと先では、僅かな仕草だけでも互いの考えが分かる。
そんな関係になれたら強い。
レンがそこまで考えたときだった。
「カゲ……」
隣から声がする。
見ると、ヒトカゲが眠そうな顔でレンを見上げていた。
「眠いなら先に寝てていいよ」
「カゲ」
ヒトカゲは動かない。
「……俺を待ってるの?」
「カゲ」
レンは時計を見る。
「分かった。俺も終わりにする」
ノートを閉じる。
その瞬間、ヒトカゲが満足そうに寝床へ向かった。
「本当に分かりやすいな」
レンもベッドへ入る。
部屋の明かりを消した。
「おやすみ、ヒトカゲ」
「カゲ……」
静かな夜。
しばらくすると、隣から小さな足音が聞こえた。
レンが目を開ける。
「ヒトカゲ?」
暗闇の中で、ヒトカゲがベッドの横に立っていた。
「どうした?」
「カゲ……」
レンが手を伸ばす。
ヒトカゲはその手へ自分の額を寄せた。
どうやら何かあったわけではない。
ただ、レンがそこにいることを確かめたかったらしい。
レンはそのまま頭を撫でる。
「ちゃんといるよ」
「カゲ」
「これからも」
ヒトカゲの目が細くなる。
レンは小さく笑った。
「旅に出るときも一緒に行こう」
ヒトカゲが顔を上げる。
まだ「旅」というものが何なのか、完全には理解していないかもしれない。
それでもレンは続けた。
「いろんな場所へ行って、いろんなポケモンを見て、いっぱい戦って……一緒に強くなろう」
「カゲ……」
「俺は世界で一番強いトレーナーになる」
幼い頃から何度も口にしてきた夢。
だが今までとは少し違った。
これまでは、自分一人の夢だった。
今は違う。
「だからさ」
レンはヒトカゲへ拳を差し出した。
「一緒に頂点まで行こう」
ヒトカゲはレンを見つめる。
差し出された拳を見る。
そして――。
「カゲ!」
小さな拳が、レンの拳へ重なった。
こつん。
たったそれだけの音。
それでもレンには、それが一つの約束のように感じられた。
ヒトカゲはそのまま寝床へ戻るかと思ったが、少し迷ったあと、レンのベッドの横へ身体を丸めた。
どうやら今夜はそこがいいらしい。
「そこにするの?」
「カゲ」
「分かった」
レンはベッドから毛布を少しだけ下ろし、ヒトカゲの身体へかけてやった。
尻尾の炎には触れないよう慎重に。
「おやすみ、相棒」
「……カゲ」
やがて聞こえてくる穏やかな寝息。
レンも目を閉じる。
世界最強。
その頂がどれほど遠いのか、今のレンにはまだ分からない。
きっと何度も負ける。
思い通りにならないこともある。
知識だけでは越えられない壁にも出会うだろう。
それでも。
その道を、もう一人で歩く必要はない。
隣には、タマゴの頃から見守り、生まれた瞬間をこの目で見届けた最初の相棒がいる。
そしてヒトカゲにとっても、レンは生まれて最初に信じたトレーナーになりつつあった。
二人の間にあるものは、まだ始まったばかりだ。
これから一緒に食べて、遊んで、学んで、鍛えて、戦う。
勝てば一緒に喜び、負ければ一緒に悔しがる。
そうして積み重ねた時間が、いつの日か誰にも真似できない絆になる。
旅立ちまで、あと二年。
世界の頂へ続くレンとヒトカゲの軌跡は、この小さな約束から本当の意味で始まった。