ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
野生のポッポとの初めてのバトルから、一夜が明けた。
朝、レンが目を覚ますより先にヒトカゲはすでに起きていた。
寝床の上に座り、じっとこちらを見ている。
「……おはよう」
「カゲ!」
元気のいい返事が返ってきた。
昨日『たいあたり』を受けた肩は、父から大きな問題はないと診断されている。それでもレンはベッドから降りると、最初にヒトカゲの前へしゃがんだ。
「肩、見せて」
「カゲ?」
「昨日ぶつかられたところ」
ヒトカゲは素直に身体を向ける。
レンは腫れがないか確認し、軽く触れて反応を見る。
「痛い?」
「カゲ」
平気だと言いたげに胸を張る。
「じゃあ少し動かしてみて」
ヒトカゲが腕を回す。
特に動きがおかしい様子もない。
それでもレンはすぐに「よし、特訓だ」とは言わなかった。
「今日は軽めにしよう」
「カゲ!?」
「そんな驚く?」
「カゲ、カゲ!」
ヒトカゲは昨日の続きを今すぐ始めたいらしい。
「昨日初めて実戦したんだから、身体に疲れが残ってるかもしれないだろ」
「カゲ……」
「強くなるために練習するんだから、練習で身体を壊したら意味ないよ」
ヒトカゲは不満そうだったが、最後には渋々頷いた。
レンはそんな相棒の頭を撫でる。
「その代わり、今日は昨日のバトルを一緒に考えよう」
「カゲ?」
「俺だけじゃなくて、ヒトカゲも」
ヒトカゲが首を傾げた。
◇
朝食後。
庭へ出たレンは、地面に簡単な図を描いた。
ヒトカゲ。
ポッポ。
二匹の位置関係を石で表す。
「昨日、最初にポッポがこう来ただろ?」
レンがポッポに見立てた石を動かす。
「俺が『右へ避けろ』って言った。でも、お前はちょっと遅れた」
「カゲ……」
ヒトカゲの肩が落ちる。
「責めてるんじゃないよ」
レンはすぐに続けた。
「俺の指示も遅かった。それに初めて本気で向かってくる相手を見たんだから、怖くなるのも普通だよ」
「カゲ」
「大事なのは次」
二度目の『たいあたり』。
レンは石を動かす。
「このときは避けられた」
「カゲ!」
ヒトカゲの表情が明るくなる。
「なんでだと思う?」
「カゲ?」
当然、言葉で答えが返ってくるわけではない。
それでもレンは待った。
ヒトカゲは地面の石を見る。
ポッポ役の石。
自分役の石。
そして――ポッポ役の石をじっと見つめた。
「相手を見たから?」
「カゲ!」
「俺もそう思う」
最初は「攻撃される」ということそのものに意識を奪われた。
だが二度目は、ポッポを見ていた。
翼。
身体の向き。
飛んでくる軌道。
それを見たから避けられた。
「だったら、次は最初から相手を見られるようになればいい」
「カゲ……!」
ヒトカゲが真剣な顔で頷く。
レンは次に『かぜおこし』の場面を再現した。
「これはどうだった?」
「カゲ……」
ヒトカゲが腕で顔を覆う。
昨日、風へ耐えていたときの姿だ。
「強かった?」
「カゲ!」
かなり強く頷いた。
レンは笑った。
「俺も見てて分かった」
ただし問題は、強かったことではない。
あのときレンは、風が弱まるまで耐えさせてから『ひのこ』を撃たせた。
結果として成功した。
けれど、それが常に正解とは限らない。
もっと強い『かぜおこし』だったら。
相手が風を止めずに別の攻撃へ繋げてきたら。
そもそも耐えられないほどの攻撃だったら。
「耐える以外にも方法が欲しいな」
「カゲ?」
「例えば――」
レンが立ち上がる。
「風が真正面から来るなら、横へ逃げる」
庭を走り、横方向へ移動する。
「近くに岩があれば、その後ろに入る。地面が窪んでたら姿勢を低くする。相手が技を出す前に攻撃する方法もある」
「カゲ……」
ヒトカゲが真剣に聞いている。
「正解は一個じゃないんだ」
バトルは選択肢の積み重ねだ。
ゲームなら決められた技を選ぶ。
しかし、この世界では立ち位置も、地形も、攻撃の角度も、相手との距離も変化し続ける。
同じ『ひのこ』でも、真正面から撃つのと、相手の動く先へ撃つのでは意味が違う。
『ひっかく』も同じ。
ただ爪を振るうだけではない。
相手の攻撃を避けながら使うこともできる。
踏み込んで使う。
待ち構えて使う。
飛び込んで使う。
一つの技でも、使い方はいくらでもある。
「だからヒトカゲにも考えてほしい」
「カゲ?」
「俺が全部言うんじゃなくてさ」
レンはヒトカゲの目を見る。
「自分で見て、自分で考えて動いていい」
ヒトカゲは黙っている。
「もちろん、俺も指示する。お前から見えないものが俺には見えることもあるから」
トレーナーはバトル全体を見ることができる。
ポケモンは目の前の相手を最も近くで感じられる。
どちらか片方だけで戦うのではない。
「俺が考える。ヒトカゲも考える」
レンは拳を差し出した。
「二人で戦おう」
ヒトカゲはその拳を見つめ――。
「カゲ!」
こつん。
自分の拳を重ねた。
◇
その日から、練習内容が少し変わった。
レンが出す指示を減らしたのだ。
「始めるよ」
「カゲ!」
庭の反対側にはサトシが立っている。
その手には柔らかい練習用のボールがいくつも抱えられていた。
「本当に投げていいんだな?」
「いいよ。ただし顔を狙うなよ」
「分かってる!」
サトシが一つ目を構える。
ヒトカゲは少し腰を落とした。
「じゃあ――いくぞ!」
ボールが飛ぶ。
レンは何も言わない。
ヒトカゲは自分で軌道を見る。
身体を右へずらした。
ボールが横を抜ける。
「おお!」
サトシが目を輝かせる。
「もう一個!」
二球目。
今度は少し右寄り。
ヒトカゲは左へ避けた。
三球目。
低い。
跳ぶ必要はない。
足を少し引くだけで避ける。
レンは黙って観察していた。
(いい)
無駄な動きが減っている。
だが――。
「いくぞ!」
サトシが二つのボールを持った。
「え?」
レンが止めるより先に、二球を続けて投げる。
一つ目をヒトカゲが避ける。
その先へ二つ目。
「カゲ!?」
避けた方向へボールが来る。
「しゃがめ!」
レンが即座に指示する。
「カゲ!」
ヒトカゲが身体を沈める。
頭上をボールが通過した。
「……サトシ」
「あ」
レンがじっと見る。
「二個投げるなら先に言って」
「ご、ごめん」
「カゲ!」
ヒトカゲまでサトシを睨む。
「悪かったって!」
サトシが両手を合わせる。
レンはため息をついた。
だが――。
今の動きそのものは悪くなかった。
一球目はヒトカゲ自身が判断した。
二球目はレンが補った。
(こういう感じか)
全部を指示する必要はない。
だが全部をヒトカゲへ任せる必要もない。
必要な瞬間だけ声を入れる。
「もう一回やろう」
「カゲ!」
「次は一個ずつな」
「分かってるよ!」
「本当に?」
「分かってるって!」
「カゲ」
「ヒトカゲまで疑うなよ!」
庭に笑い声が響いた。
◇
数日後。
今度は『ひのこ』の練習方法を変えた。
固定された的だけを狙うのではない。
父に手伝ってもらい、安全な練習場所へ簡単な移動式の的を用意した。
紐を使い、左右へ動かすことができる。
「カゲ……」
ヒトカゲの目が的を追う。
レンは隣に立っていた。
「撃っていいよ」
「カゲ!」
ヒトカゲが『ひのこ』を放つ。
外れた。
的はそのまま動く。
「カゲ……!」
すぐ二発目を撃とうとする。
「待って」
ヒトカゲが止まる。
「今、的がいる場所を狙っただろ?」
「カゲ?」
「動いてる相手なら、技が届く頃にはそこにいない」
レンは的を動かす。
右から左へ。
「今じゃなくて――」
少し先を指差す。
「これから来る場所を狙う」
ヒトカゲが考える。
「やってみよう」
再開。
的が動く。
ヒトカゲが口を開いた。
だが、すぐには撃たない。
目で追う。
速度を見る。
そして――。
「カゲェ!」
『ひのこ』。
炎が飛ぶ。
的が進む。
その二つが交差した。
ボッ!
「当たった!」
「カゲ!」
ヒトカゲが飛び跳ねる。
レンへ走ってきて手を上げる。
ぱちん!
「今の感覚、覚えとこう」
「カゲ!」
偶然かもしれない。
それでも構わない。
一度できたなら、次は意識してできるようにする。
十回に一回なら、五回に一回。
五回に一回なら、二回に一回。
最後には、それを当たり前にする。
レンが考える育成とは、そういうものだった。
◇
『げんしのちから』については、さらに慎重に進めた。
毎日は使わせない。
数日置き。
体調がいい日に限る。
最初は石を浮かせるだけ。
次に飛ばす。
その次は一つの的へ集中させる。
「カゲ……!」
小石が震える。
浮かぶ。
以前はそれだけで数秒かかっていた。
今は少し早い。
「焦らなくていい」
「カゲ……!」
ヒトカゲが集中する。
レンはその様子を細かく観察する。
呼吸。
姿勢。
視線。
尻尾の炎。
発動前後の疲労。
何度も使わせれば、もっと早く上達するかもしれない。
だが身体がまだ幼い。
今必要なのは、短期間で完成させることではない。
これから何年も強くなり続けられる身体を作ることだ。
「今日はここまで」
「カゲ!?」
「成功したから終わり」
「カゲー!」
ヒトカゲが抗議する。
「もう一回やったら失敗するかもしれないだろ?」
「カゲ」
「成功した感覚を残して終わろう」
「……カゲ」
少し考えたあと、ヒトカゲが頷いた。
以前なら、ただ「もっとやりたい」と主張していただろう。
最近は、レンが止める理由そのものを理解しようとするようになっていた。
それもまた成長だった。
◇
そしてある日の午後。
「レン!」
庭へ駆け込んできたサトシが、いきなり叫んだ。
「バトルしようぜ!」
「誰と誰が?」
「オレとヒトカゲ!」
「どうやって?」
「…………」
サトシが止まる。
レンはヒトカゲを見る。
ヒトカゲもサトシを見る。
「カゲ?」
「……オレ、ポケモン持ってなかった」
「今気づいたの?」
「でもバトルしたい!」
「無理だって」
「じゃあ野生のポケモン捕まえる!」
「モンスターボール持ってないだろ」
「オーキド博士にもらう!」
「八歳じゃ正式なトレーナーじゃないんだから無理」
「うぅ……!」
本気で悔しがっている。
ヒトカゲがそんなサトシを見上げる。
「カゲ」
「ヒトカゲぇ……!」
「カゲ……」
何故か二人で分かり合っていた。
レンは呆れながらも、少しだけ笑った。
あと二年。
サトシもポケモンを持つ。
そして旅へ出る。
前世の記憶通りなら、その相棒は――。
(ピカチュウ)
ただし、それが絶対だとは考えない。
自分が存在している時点で、すでに前世で知っていた世界と完全に同じではない。
未来は変わる。
変わって当然だ。
それでも。
「サトシ」
「ん?」
「十歳になったらバトルしよう」
サトシの目が輝く。
「ほんとか!?」
「お互い自分のポケモンで」
「やる!」
サトシが拳を突き出した。
「絶対だからな!」
「分かってるよ」
拳を合わせる。
その下で。
「カゲ!」
ヒトカゲまで拳を出してきた。
「ヒトカゲも?」
「カゲ!」
「じゃあ三人で」
三つの拳が重なる。
サトシが笑う。
「絶対負けないからな!」
レンも笑った。
「こっちも負ける気ないよ」
「カゲ!」
その約束が果たされる日は、まだ少し先だった。
◇
それからさらに時間が流れた。
ヒトカゲが生まれてから、三か月。
身体つきは少しずつしっかりしてきた。
走る速度。
止まる技術。
身体の切り返し。
技の精度。
その全てが、孵化直後とは比べものにならない。
何より大きく変わったのは、レンとの意思疎通だった。
「ヒトカゲ」
「カゲ!」
朝。
レンが庭へ出る。
それだけでヒトカゲは何をするのか理解している。
今日は回避訓練。
レンは柔らかいボールを持った。
「始めるよ」
「カゲ」
一球目。
ヒトカゲが避ける。
二球目。
避ける。
三球目。
わざと避けにくい位置へ投げる。
ヒトカゲは身体を捻る。
それでも完全には避けきれない。
「カゲッ!」
ボールが肩へ当たった。
以前なら悔しがっていただろう。
だが今はすぐにレンを見る。
「今の、どうだった?」
「カゲ……」
ヒトカゲは自分が避けた方向を見る。
それから首を傾げた。
「最初の動きが大きすぎた」
レンが実際に動いて見せる。
「最初にここまで動いたから、次の逃げ道がなくなった」
「カゲ」
「小さく避けられる攻撃なら、小さく避ける」
必要以上に動けば、その分だけ次の行動が遅れる。
ほんの僅かな差。
今のヒトカゲには必要ないかもしれない。
だがレンが目指しているのは、ただ強いポケモンではない。
世界の頂点で戦えるポケモンだ。
ならば、いつか必要になる。
「もう一回」
「カゲ!」
レンがボールを投げる。
今度は最小限の動き。
頬のすぐ横をボールが通過する。
ヒトカゲはもう次のボールを見ている。
「いい!」
レンの声が飛ぶ。
ヒトカゲの口元が少し上がった。
◇
その日の夕方。
レンとヒトカゲは、以前ポッポと戦った草原を訪れていた。
特別な目的があったわけではない。
軽い散歩と、自然の足場に慣れるためだ。
夕日に照らされた草が揺れている。
「カゲ」
ヒトカゲが少し前を歩く。
以前よりレンとの距離を自然に意識するようになり、勝手に遠くへ行くこともない。
そんなヒトカゲが突然立ち止まった。
「どうした?」
「カゲ……」
視線の先。
一匹のポッポがいた。
レンも足を止める。
同じ個体か。
野生のポケモンには個体差がある。見た目だけで確実に判断するのは難しい。
しかし。
「ポッ」
ポッポもこちらを見た。
ヒトカゲの目が細くなる。
「カゲ……!」
尻尾の炎が僅かに大きく揺れた。
「もしかして、あのときの?」
「ポッポ!」
返事の代わりに、ポッポが翼を広げる。
ヒトカゲが一歩前へ出た。
レンを見る。
以前なら、すぐに戦おうとしていた。
今は違う。
まずレンへ意思を伝えている。
「戦いたい?」
「カゲ!」
レンはポッポを見る。
相手も逃げない。
「分かった」
レンも前へ出た。
「今度こそ決着つけよう」
「カゲ!」
ポッポが地面を蹴った。
速い。
『たいあたり』。
だが――。
レンは指示を出さなかった。
ヒトカゲはポッポを見ている。
距離。
速度。
軌道。
直前。
すっ。
身体を半歩だけずらした。
ポッポが横を通り過ぎる。
「ポッ!?」
以前のような大きな回避ではない。
必要な分だけ。
そして。
「今!」
その一言で十分だった。
ヒトカゲが反転する。
「カゲッ!」
『ひっかく』。
爪がポッポの背を捉えた。
「ポォッ!」
ポッポが体勢を崩しながらも羽ばたく。
空へ。
レンは追わせない。
「カゲ!」
ヒトカゲもその場で止まり、上を見る。
ポッポが翼を大きく広げる。
『かぜおこし』。
「ポォォ!」
強風が吹き荒れた。
以前なら耐えた。
だが。
「カゲ!」
ヒトカゲが自分から走り出す。
真正面ではない。
横。
風をまともに受ける場所から外れようとしている。
レンの口元が上がる。
(覚えてた)
数日前に一緒に考えた。
耐えるだけが正解ではない。
ポッポが向きを変える。
風がヒトカゲを追う。
だが向きを変えながら『かぜおこし』を維持したことで、僅かに風が弱まった。
「ヒトカゲ!」
レンが叫ぶ。
それだけ。
細かな指示はしない。
ヒトカゲが振り返る。
口元へ炎が集まる。
レンと視線が重なった。
(今だ)
言葉にするより先に。
「カゲェッ!」
『ひのこ』が放たれた。
ポッポが移動しようとする。
しかし炎が向かったのは、ポッポがいた場所ではない。
その少し先。
「ポッ!?」
ボッ!
命中。
練習してきた先読み。
炎を受けたポッポの高度が落ちる。
「行け!」
「カゲ!」
ヒトカゲが駆ける。
ポッポも必死に羽ばたく。
再び高度を取ろうとする。
だが間に合わない。
ヒトカゲが地面を蹴った。
「カゲッ!」
跳ぶ。
爪を構える。
ポッポもただ攻撃を受けるだけではない。
翼を振る。
風。
空中でヒトカゲの身体が揺れた。
「カゲ!?」
このままでは『ひっかく』が届かない。
レンの頭が高速で回る。
距離。
高度。
ヒトカゲの体勢。
使える技。
『ひのこ』では間に合わない。
『ひっかく』は届かない。
なら。
「ヒトカゲ!」
一瞬だけ、視線が重なる。
「『げんしのちから』!」
「カゲ!」
空中。
足場がない。
集中する時間も短い。
それでも。
これまで何度も繰り返してきた。
ヒトカゲの周囲に、淡い光とともに岩石が生み出される。
以前のように、長い時間はかからない。
「カゲェッ!」
放つ。
岩石が飛ぶ。
「ポッ!?」
至近距離。
ポッポに命中した。
「ポォッ!」
ポッポが地面へ落ちる。
ヒトカゲも着地した。
少し体勢が崩れる。
だが転ばない。
すぐにポッポへ向き直った。
「カゲ……!」
息は荒い。
『げんしのちから』を使った影響もある。
それでも、その目はまだ戦っていた。
ポッポが身体を起こす。
翼を広げようとする。
しかし――。
「ポ……」
力が抜けた。
その場へ倒れる。
ヒトカゲはすぐには動かなかった。
本当に終わったのか確かめるように、相手を見ている。
数秒。
レンが静かに言った。
「……勝ったよ」
「カゲ?」
ヒトカゲが振り返る。
「俺たちの勝ちだ」
一瞬。
意味を理解したヒトカゲの表情が弾けた。
「カゲェェ!」
レンへ走ってくる。
「うわっ!」
勢いのまま胸へ飛び込んできた。
レンはなんとか受け止める。
「やったな!」
「カゲ! カゲ!」
「初勝利だ!」
ヒトカゲが両手を上げる。
レンも片手を上げる。
ぱちん!
乾いた音が夕暮れの草原へ響いた。
だが喜んだのは、ほんの少しだけ。
レンはすぐに倒れているポッポへ向かった。
「ヒトカゲ、ちょっと待ってて」
「カゲ?」
「相手の様子を見る」
近づき、状態を確認する。
意識はある。
大きな怪我もなさそうだ。
戦闘不能にはなったが、少し休めば飛べるようになるだろう。
レンは持ってきていた水と簡単な応急処置用品を取り出した。
ヒトカゲも隣へ座る。
「カゲ……」
さっきまで戦っていた相手を心配そうに見ている。
「大丈夫だと思う」
レンは優しく答えた。
「でも、戦って終わりじゃないから」
ヒトカゲがレンを見る。
「俺たちは強くなるために戦う。でも相手を傷つけたいわけじゃない」
「カゲ」
ヒトカゲは静かに頷いた。
しばらくすると。
「ポ……」
ポッポが目を開いた。
ヒトカゲが身構えかける。
だが攻撃はしない。
ポッポもヒトカゲを見る。
二匹はしばらく見つめ合った。
やがて。
「ポッ」
ポッポが小さく鳴いた。
「カゲ」
ヒトカゲも返す。
何を話したのか、レンには分からない。
それでも険悪なものではないことだけは分かった。
ポッポは立ち上がり、翼を動かす。
一度。
二度。
そして空へ飛び上がった。
夕日に向かって飛んでいく。
「カゲ!」
ヒトカゲが手を振る。
「ポッポー!」
遠くから声が返ってきた。
レンもその姿を見送った。
◇
帰り道。
ヒトカゲはずっと上機嫌だった。
「カゲ、カゲ!」
「分かった分かった。嬉しいのは分かったから」
「カゲ!」
何度目か分からない勝利の報告をされる。
レンも嬉しかった。
だが頭の中では、すでに今日のバトルを振り返っていた。
最初の回避。
自分で判断した。
『かぜおこし』への対応。
以前話したことを覚えていた。
『ひのこ』。
動いている相手の少し先を狙った。
最後の『げんしのちから』。
レンの指示を受け、短い時間で発動した。
どれも、突然できるようになったわけではない。
毎日の小さな練習。
失敗。
修正。
その積み重ねだ。
そして。
(俺も前より見えてた)
ヒトカゲだけではない。
レン自身も変わっていた。
最初のバトルでは、ポッポの動きに対応してから指示を考える場面があった。
今日は違った。
相手が何をしようとしているのか。
その次に何が起きるのか。
以前より早く見えていた。
知識だけではない。
実際にヒトカゲと戦った経験が、自分の中へ積み上がっている。
レンは隣を歩くヒトカゲを見る。
「俺たち、ちゃんと強くなってるな」
「カゲ?」
「まだちょっとだけだけど」
ヒトカゲが立ち止まった。
「カゲ!」
不満そうだ。
「ちょっとじゃない?」
「カゲ!」
「じゃあ、かなり?」
「カゲ!」
どうやらそれなら満足らしい。
「調子に乗るなよ」
「カゲー!」
レンは笑う。
その日の夕暮れ。
家へ続く道を、一人と一匹が並んで歩いていく。
世界最強など、まだ遥か遠い。
カントーの強豪トレーナー。
ジムリーダー。
四天王。
その先には、レンがまだ直接見たことすらないほどの強者たちがいる。
今のヒトカゲでは届かない。
今のレンでも届かない。
だからこそ――面白い。
今日より明日。
明日より、その次。
一つずつ積み上げればいい。
レンが目指しているのは、生まれた瞬間から完成された強さではない。
どこまでも伸び続ける強さだ。
ヒトカゲがレンを見上げた。
「カゲ!」
「ん?」
小さな拳が差し出される。
もうレンから求めたものではなかった。
ヒトカゲ自身からだ。
レンは笑い、自分の拳を重ねる。
こつん。
「次も勝とう」
「カゲ!」
二人で考え。
二人で鍛え。
二人で戦う。
タマゴから生まれたばかりだった小さなヒトカゲは、少しずつレンの相棒として歩き始めていた。
そしてレンもまた、知識を持っているだけの少年から、一匹のポケモンと共に成長するトレーナーへと変わり始めていた。
旅立ちの日まで、まだ時間はある。
その二年間が、自分たちをどこまで強くするのか。
レンにもまだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
今日の勝利は小さな一勝にすぎない。
それでも――。
世界の頂を目指す二人にとって、それは初めて自分たちの力で掴み取った、確かな勝利だった。