ポケットモンスター ―頂への軌跡― 作:あああああ
ヒトカゲが生まれてから、半年ほどが過ぎた。
季節が移り変わっても、レンとヒトカゲの一日は大きく変わらない。
朝起きれば体調を確認し、食事を取る。
身体を休める時間を確保しながら基礎的な運動を行い、日によって技の練習を組み合わせる。
毎日激しい特訓をするわけではない。
身体を大きく動かした翌日は軽い運動だけにすることもあれば、完全に休む日もある。
最初の頃、休養日になるたび不満そうにしていたヒトカゲも、最近では少しだけ理解するようになった。
もっとも――。
「カゲ!」
「今日は休み」
「カゲ!」
「昨日かなり走っただろ」
「カゲー!」
納得することと、素直に休みたいと思うことは別らしい。
レンが庭へ出るだけで、ヒトカゲは期待に満ちた顔で後を追ってくる。
「今日は散歩だけ」
「カゲ……」
「そんな顔する?」
尻尾の炎まで元気をなくしたように見える。
レンは苦笑しながら、その頭を軽く撫でた。
「明日はちゃんとやるから」
「カゲ?」
「約束」
レンが拳を出す。
ヒトカゲはようやく機嫌を直し、小さな拳を合わせた。
こつん。
それも、いつの間にか二人の習慣になっていた。
◇
半年間で、ヒトカゲは確実に成長していた。
身体そのものが少し大きくなっただけではない。
走るときの重心。
急停止。
方向転換。
跳躍。
着地。
そうした基本動作は、孵化したばかりの頃とは比べものにならないほど滑らかになっている。
『ひっかく』も変わった。
最初は右腕を力任せに振り抜き、その勢いで身体まで流れていた。
今では踏み込みから攻撃、そして次の動作までが一つにつながり始めている。
「ヒトカゲ、右!」
「カゲ!」
庭に置かれた的へ走る。
右腕。
『ひっかく』。
ザッ!
命中した瞬間には、すでに足が動いている。
「次、後ろ!」
ヒトカゲは振り向く。
二つ目の的。
今度は正面から突っ込まない。
一歩横へ入り込み――。
「カゲッ!」
爪を振るった。
「いい!」
レンが声を上げる。
ヒトカゲは嬉しそうに振り返るものの、以前のようにそこで完全には止まらない。
次があるかもしれない。
それを理解し、周囲を見ている。
「終わり」
その言葉を聞いて初めて、ヒトカゲがレンへ駆け寄った。
ぱちん!
二人の手が重なる。
『ひのこ』も、ただ炎を吐くだけの技ではなくなっていた。
動かない的ならかなり安定して命中する。
移動する的に対しても、相手の進行方向を読んで撃てるようになってきた。
威力そのものを無理に上げるより、レンはまず精度を優先した。
どれだけ強い炎でも当たらなければ意味がない。
そして――。
「次は『げんしのちから』」
「カゲ!」
ヒトカゲが的を見る。
以前のように長時間集中する必要はない。
「カゲ……!」
力を込める。
地面の石が震えた。
いくつもの岩石が浮かび上がる。
「カゲッ!」
放つ。
岩石が飛び――。
ドンッ!
一つ。
ドンッ!
二つ。
最後の一つだけは外れた。
「二発命中」
「カゲ!」
「でも最後は右にずれたな」
「カゲ……」
ヒトカゲも分かっているらしい。
喜んだ直後には的を見て考えている。
レンはその姿を見ながらノートへ記録する。
発動速度は大きく改善。
命中精度も上昇。
ただし『ひっかく』や『ひのこ』より消耗が大きいことに変わりはない。
「今日はこれで終わり」
「カゲ」
以前のような激しい抗議はなかった。
ヒトカゲ自身も『げんしのちから』を使った後の疲労を理解するようになっている。
レンは水を渡した。
ヒトカゲは両手で受け取り、ゆっくり飲む。
「半年か」
「カゲ?」
「お前が生まれてから」
レンが隣へ座る。
半年前。
歩くことすら覚束なかった小さなヒトカゲ。
今ではレンの隣で走り、考え、戦う。
「強くなったな」
「カゲ!」
当然だ、と言わんばかりに胸を張った。
「でもまだまだ」
「カゲ!?」
「俺たちが目指してるところ、忘れた?」
ヒトカゲが一瞬黙る。
そして。
「カゲ!」
拳を突き出した。
レンも笑う。
「そうだな」
こつん。
「世界の頂点だ」
◇
その日の午後。
玄関の方から母の驚いた声が聞こえた。
「あら、お兄ちゃん」
レンは読んでいた本から顔を上げた。
「……お兄ちゃん?」
母がそう呼ぶ相手は一人しか思い浮かばない。
「まさか」
「カゲ?」
レンが立ち上がる。
ヒトカゲもすぐ後を追った。
玄関へ向かうと、そこには見覚えのある大柄な男が立っていた。
鍛え抜かれた身体。
険しく見える顔つき。
しかしレンを見ると、その表情が僅かに緩んだ。
「久しぶりだな、レン」
「シバおじさん!」
カントー四天王。
格闘ポケモンの使い手――シバ。
レンにとっては母方の叔父でもある。
「前より少し大きくなったな」
「半年くらいじゃそんなに変わらないよ」
「子供の半年は大きい」
シバが答える。
だが、その視線はすぐレンの隣へ移った。
「その子か」
「カゲ?」
ヒトカゲがシバを見上げる。
「うん。ヒトカゲ」
レンは少し誇らしげに答えた。
「俺の相棒」
「ほう」
シバが腰を落とす。
ヒトカゲと同じ高さまで視線を下げた。
「初めましてだな」
「カゲ」
ヒトカゲは警戒こそしていないものの、シバのことをじっと観察している。
シバも同じだった。
脚。
腕。
立ち方。
尻尾。
呼吸。
ほんの数秒。
それだけで、何かを見抜いたように口元を緩める。
「随分鍛えているようだな」
レンの目が輝いた。
「分かるの?」
「身体を見ればな」
シバはヒトカゲの脚へ目を向ける。
「ただ筋肉をつけただけではない。よく走らせている。それに止まる練習もしているな」
「……すご」
レンが素直に感心する。
「まだある。右腕で攻撃することが多いだろう」
「うん」
「だが右だけを極端に鍛えてはいない。身体の左右差を広げないようにしている」
レンは思わず笑った。
「全部当たってる」
「カゲ?」
ヒトカゲは自分の身体とシバを交互に見る。
「この人、すごく強いんだよ」
「カゲ?」
「俺の叔父さんで、四天王」
その瞬間。
ヒトカゲの目が変わった。
「カゲ!」
「……嫌な予感がする」
レンが呟く。
ヒトカゲはシバの前へ進み出ると、拳を構えた。
「カゲ!」
シバが眉を上げる。
「俺と戦いたいのか?」
「カゲ!」
「やっぱり……」
レンは額へ手を当てた。
相手が強いと知った瞬間これである。
しかしシバは笑った。
「いい目をしている」
「シバおじさん、本気で相手しないでよ」
「分かっている」
「カゲ!」
「ヒトカゲも挑発しない」
「カゲー!」
どうやら「やれる」と主張しているらしい。
シバはそんなヒトカゲをしばらく見つめたあと、立ち上がった。
「俺と戦うのはまだ早い」
「カゲ……!」
「だが」
シバが家の外へ視線を向ける。
「相手ならいる」
「え?」
レンが聞き返す。
シバは何も答えず、玄関から外へ出た。
レンとヒトカゲも後を追う。
そして――。
庭の端。
一本の木の陰から、小さな影が姿を現した。
青い身体。
黒い模様。
顔の横から伸びる、特徴的な感覚器官。
レンの足が止まる。
(……リオル)
知っている。
前世で何度も見た。
そして、その進化先も。
ルカリオ。
レンが前世から特に好きだったポケモンの一匹だ。
しかし、その事実よりも先に気になったことがあった。
リオルはシバの隣へ来なかった。
少し離れた場所から、こちらを観察している。
「シバおじさん、そのリオルは?」
「少し前、山で修行しているときに出会った」
シバが答える。
「怪我をしていた」
「野生?」
「ああ」
シバは頷いた。
「手当てをしたあと、元気になれば山へ戻ると思っていたんだがな」
「リオ」
リオルがシバを見る。
「どういうわけか、ついてくるようになった」
レンはリオルへ視線を戻した。
(シバおじさんのポケモンじゃない)
少なくとも正式に捕獲されたわけではないらしい。
シバの近くにいる。
だが、完全に懐いているという感じとも少し違う。
「バトルが好きなの?」
レンが尋ねる。
「かなりな」
シバの答えは短かった。
その瞬間。
「カゲ!」
ヒトカゲが一歩前へ出た。
リオルの耳が動く。
「リオ」
二匹の視線がぶつかった。
ヒトカゲが拳を握る。
リオルも僅かに腰を落とす。
「……もしかして」
レンが呟く。
「カゲ!」
「リオ!」
どうやら、説明はいらないらしい。
シバが腕を組む。
「似た者同士かもしれんな」
「会って十秒くらいなんだけど」
「十分だろう」
「何が?」
シバは答えず、僅かに笑った。
◇
その日は、すぐにバトルをさせることはなかった。
レンはまずリオルについてシバから話を聞いた。
数週間前。
山中で傷ついているリオルを発見したこと。
傷そのものは重傷ではなかったものの、かなり消耗していたこと。
手当てをしたあとも人間へ簡単には近づかなかったこと。
回復したあと、一度は山へ戻ったこと。
しかし翌朝には、シバが修行していた場所へ姿を見せたこと。
それから少しずつ行動を共にするようになったという。
「捕まえないの?」
レンが尋ねる。
「本人が望んでいない」
シバは即答した。
レンはその答えを聞いて、少し嬉しくなった。
「じゃあ無理に捕まえる必要ないね」
「ああ」
リオル自身がどうしたいのか。
それが一番大切だ。
その考えはレンも同じだった。
「リオルはシバおじさんと一緒に修行してるの?」
「勝手に混ざってくる」
「リオ!」
少し離れたところから抗議する声が飛んできた。
シバが笑う。
「本人としては、正式に参加しているつもりらしい」
レンも笑った。
「なるほど」
一方。
ヒトカゲはそんな会話より、リオルの方が気になって仕方がない。
「カゲ」
「リオ」
少し離れた場所で向かい合っている。
ヒトカゲが右へ動く。
リオルの視線が追う。
リオルが左へ動く。
今度はヒトカゲが追う。
「何してるんだろ」
「互いを見ている」
シバが言った。
「強さを測っているのかもしれん」
「カゲ」
「リオ」
ヒトカゲが一歩。
リオルも一歩。
そして。
ヒトカゲが突然走った。
「カゲ!」
「リオ!」
リオルも走る。
攻撃――ではなかった。
庭を横切る。
「え?」
レンが見ている前で、二匹はそのまま庭の端まで走った。
ヒトカゲが先に木へ触れる。
「カゲ!」
「リオ!」
僅かに遅れてリオル。
ヒトカゲが得意げに胸を張った。
リオルの眉が動く。
次の瞬間、リオルが反対側を指差した。
「リオ!」
「カゲ!」
再び走る。
「……競走?」
「そのようだな」
レンとシバが並んで眺める。
今度はリオルが先着した。
「リオ!」
「カゲ……!」
ヒトカゲが悔しそうに地面を踏む。
すぐに三回目。
「止めなくていいの?」
レンが尋ねる。
「まだ問題ない」
シバは二匹の動きを見ている。
「だが、あのヒトカゲは本当に負けず嫌いだな」
「うん」
「お前に似たか?」
「……どうだろ」
レンは否定しきれなかった。
三回目。
今度はほぼ同時。
ヒトカゲとリオルが顔を見合わせる。
「カゲ!」
「リオ!」
いつの間にか二匹とも楽しそうだった。
◇
翌朝。
レンが庭へ出ると、シバはすでに身体を動かしていた。
その少し離れたところでは、リオルが一人で拳を振っている。
真っ直ぐ。
速い。
「……綺麗だな」
レンが呟く。
「カゲ?」
ヒトカゲもリオルを見る。
ただ力任せに拳を出しているわけではない。
下半身から力を伝え、最後に拳を伸ばす。
打ったあとも体勢が崩れない。
シバの動きを見て覚えたのだろう。
ヒトカゲがじっと見つめている。
そして。
「カゲ」
自分も拳を振った。
レンが目を瞬く。
もう一度。
「カゲッ!」
当然、リオルほど綺麗ではない。
そもそもヒトカゲとリオルでは身体の作りが違う。
「真似したい?」
「カゲ!」
レンは少し考える。
そのままコピーさせるべきではない。
身体の構造が違う以上、同じ動きをしても同じ結果にはならない。
だが――。
「シバおじさん」
「なんだ」
「ヒトカゲにも、身体の力を上手く攻撃へ乗せる方法って教えられる?」
シバがヒトカゲを見る。
「リオルと同じ型は合わんぞ」
「うん。それは分かってる」
レンは頷く。
「ヒトカゲに合う形で」
シバの目が僅かに細くなった。
以前、レンが六歳だった頃。
同じ種類のポケモンでも、それぞれに合った鍛え方があるのではないか。
そんな話をしたことがある。
どうやらシバも覚えていたらしい。
「いいだろう」
シバが立ち上がる。
「見ていろ」
「カゲ!」
レンも隣へ座った。
教わるのはヒトカゲだけではない。
自分も見る。
覚える。
そして、今後の育成へ取り入れる。
シバはヒトカゲの前へ立つ。
「攻撃は腕だけでするものではない」
「カゲ?」
「地面を踏む」
シバがゆっくり動く。
「脚から腰へ。腰から肩へ。そして最後に腕へ伝える」
拳が突き出される。
速くはない。
それでも、身体全体が一つにつながっている。
レンは食い入るように見つめた。
(運動連鎖……)
前世でも概念としては知っていた。
しかし目の前で四天王クラスの使い手が実演すると、理解の深さがまるで違う。
ヒトカゲが真似をする。
「カゲ!」
腕を振る。
「違う」
シバがすぐに止める。
「腕が先だ」
ヒトカゲが首を傾げる。
レンは横から自分の脚を指差した。
「最初はこっち」
「カゲ?」
「踏んでから、身体を回す」
ヒトカゲがもう一度試す。
踏む。
腰を動かす。
腕。
「カゲッ!」
先ほどより鋭い。
「そうだ」
シバが頷いた。
ヒトカゲの顔が明るくなる。
「カゲ!」
少し離れた場所で見ていたリオルも反応した。
「リオ」
どこか満足そうだ。
ヒトカゲが振り返る。
「カゲ!」
まるで「見たか」とでも言っているようだった。
「リオ」
リオルが拳を構える。
そして一発。
シュッ!
空気を切る音。
ヒトカゲが固まる。
「カゲ……」
まだ全然違う。
それが分かったらしい。
「カゲェ!」
再び練習を始める。
レンは笑った。
「いい刺激になってるな」
「リオルにとっても同じだ」
シバが言う。
「え?」
レンが見る。
リオルは平静を装っている。
しかし、その視線はずっとヒトカゲを追っていた。
「一人で鍛えることと、競う相手がいることは違う」
「……なるほど」
「負けたくない相手がいれば、自分では気づかなかったものが見えることもある」
レンは二匹を見る。
ヒトカゲ。
リオル。
まだ出会って二日目。
それでも、すでに互いを強く意識している。
「だったら」
レンが笑う。
「一回ちゃんと戦ってみる?」
その瞬間。
「カゲ!」
「リオ!」
二匹が同時に振り返った。
シバが僅かに口元を上げる。
「聞こえていたらしいな」
「みたいだね」
レンは立ち上がった。
ヒトカゲがすぐ隣へ来る。
「やる?」
「カゲ!」
リオルもシバを見る。
「リオ!」
だがシバは首を横へ振った。
「俺は指示を出さん」
「え?」
「リオルは俺のポケモンではない」
シバはリオルを見る。
「自分で戦え」
「リオ!」
リオルは迷わず頷いた。
レンは少し考える。
野生のリオル。
ただし普通の野生とは違う。
シバの修行を間近で見て、身体の使い方も学んでいる。
対するヒトカゲにはレンがいる。
「俺は指示していい?」
「それがお前たちの戦い方ならな」
レンはヒトカゲを見る。
「どうする?」
「カゲ!」
当然、やる。
その目がそう言っていた。
◇
庭の中央。
ヒトカゲとリオルが向かい合う。
レンはヒトカゲの後方へ立つ。
シバは少し離れた場所から腕を組んで見ていた。
正式な試合ではない。
勝敗以上に、互いが今どれほど動けるのかを見るための練習試合。
それでも。
二匹の表情は真剣だった。
「カゲ……!」
「リオ……!」
レンも集中する。
リオルがどんな技を使えるのかは知らない。
前世の知識だけで決めつけてはいけない。
見る。
最初の一手から。
「始め!」
シバの声が響いた。
先に動いたのは――リオルだった。
「リオ!」
速い。
一気に距離を詰める。
(近接戦を仕掛ける!)
「ヒトカゲ、相手を見ろ!」
「カゲ!」
リオルの拳。
ヒトカゲが横へ動く。
避けた。
だが。
「リオ!」
リオルがすぐ踏み込む。
二発目。
「カゲッ!?」
ヒトカゲが腕で受ける。
身体が後ろへ押された。
(速い……!)
ポッポとは違う。
攻撃を一度避けて終わりではない。
すぐ次が来る。
「距離を取れ!」
ヒトカゲが後ろへ跳ぶ。
リオルが追う。
「『ひのこ』!」
「カゲェ!」
炎が放たれる。
リオルは前進を止め、横へ跳んだ。
炎が空を切る。
(見てから避けた)
反応が速い。
リオルが再び距離を詰める。
「カゲ!」
今度はヒトカゲも待たない。
自分から前へ出た。
『ひっかく』。
リオルの拳。
ガッ!
互いの攻撃がぶつかる。
「カゲッ!」
「リオッ!」
押し合う。
力だけなら大きな差はない。
だが――。
リオルが一歩踏み込んだ。
腰。
肩。
腕。
先ほどシバが教えていた身体の連動。
「リオ!」
ヒトカゲが弾かれる。
「カゲッ!」
地面を転がる。
「ヒトカゲ!」
すぐに立つ。
「カゲ!」
まだ戦える。
むしろ目はさらに燃えていた。
レンも笑った。
(強い)
今のヒトカゲにとって、最高の相手だ。
リオルが走る。
ヒトカゲも構える。
「今度は正面から受けるな!」
「カゲ!」
リオルが踏み込む。
直前。
ヒトカゲが半歩ずれた。
拳が横を通る。
「『ひっかく』!」
「カゲッ!」
横から爪を振る。
「リオ!?」
命中。
リオルがよろめく。
だがヒトカゲは追いすぎない。
すぐに距離を取る。
「いい!」
レンが声を上げる。
リオルの表情が変わった。
「リオ……!」
嬉しそうだった。
攻撃を受けたのに。
いや。
強い相手と戦えているからこそ、嬉しいのだ。
ヒトカゲも同じ。
「カゲ……!」
二匹が笑う。
次の瞬間、同時に走り出した。
「カゲ!」
「リオ!」
拳。
爪。
回避。
踏み込み。
互いに攻撃し、避け、また距離を詰める。
ヒトカゲが『ひのこ』を放つ。
リオルが低く潜る。
そのまま接近。
「下がるな! 横!」
「カゲ!」
ヒトカゲが回り込む。
リオルも方向を変える。
速い。
(だったら――)
レンは周囲を見る。
距離はある。
「ヒトカゲ、『げんしのちから』!」
「カゲ!」
ヒトカゲが力を集中させる。
岩石が浮かぶ。
リオルが止まった。
初めて見る技。
一瞬だけ判断が遅れる。
「放て!」
「カゲェッ!」
岩石が飛ぶ。
「リオ!」
リオルが避ける。
一つ。
二つ。
だが三つ目。
「リオッ!」
肩へ命中。
リオルの身体が崩れる。
「今だ!」
「カゲ!」
ヒトカゲが走った。
一気に距離を詰める。
「『ひっかく』!」
「カゲェ!」
爪を振り上げる。
リオルが顔を上げた。
その瞬間――。
「リオッ!」
拳が突き出された。
「カゲ!?」
ヒトカゲの『ひっかく』。
リオルの拳。
ほぼ同時。
二匹の身体がぶつかった。
そして――。
ドサッ!
ヒトカゲが倒れる。
リオルも膝をついた。
「ヒトカゲ!」
レンが駆け寄ろうとする。
だが。
「カゲ……!」
ヒトカゲが腕を震わせながら身体を起こす。
反対側。
「リオ……!」
リオルも立ち上がった。
二匹とも息が荒い。
それでも構える。
「……まだやるのか」
シバが呟く。
「カゲ!」
「リオ!」
どうやら、そのつもりらしい。
レンはヒトカゲを見る。
足元。
呼吸。
尻尾の炎。
まだ動ける。
だがかなり消耗している。
リオルも同じだ。
次で決まる。
二匹も分かっているのだろう。
ヒトカゲが腰を落とす。
リオルも拳を構える。
レンは息を吸った。
「ヒトカゲ」
「カゲ」
「相手を最後まで見ろ」
「カゲ!」
それ以上は言わなかった。
リオルが動く。
ヒトカゲも走る。
真正面。
互いに距離が縮まる。
リオルが拳を引いた。
ヒトカゲが右腕を構える。
あと三歩。
二歩。
一歩――。
リオルの拳が放たれる。
その瞬間。
ヒトカゲが身体を沈めた。
「リオ!?」
拳が頭上を抜ける。
レンは目を見開いた。
指示していない。
ヒトカゲ自身の判断だ。
そして。
踏む。
腰を回す。
肩。
腕。
さっきシバから教わったばかりの動き。
「カゲェッ!」
『ひっかく』。
爪がリオルを捉えた。
「リオッ!」
リオルの身体が後ろへ飛ぶ。
地面を転がり――止まった。
「リオ……」
起き上がろうとする。
一度。
しかし腕から力が抜けた。
「そこまでだ」
シバの声が響いた。
ヒトカゲが動きを止める。
「カゲ……?」
「リオルはもう十分だ」
数秒。
ヒトカゲはリオルを見る。
やがて。
「カゲ……」
緊張が抜けた。
その場へ座り込む。
「ヒトカゲ!」
レンが駆け寄る。
「大丈夫?」
「カゲ……」
疲れている。
だが笑っていた。
「勝ったよ」
「カゲ?」
「お前の勝ち」
ヒトカゲの目が大きくなる。
次の瞬間。
「カゲェェ!」
残っていた力を全部使うように、レンへ飛びついた。
「うわっ!」
レンが受け止める。
「やったな!」
「カゲ!」
ぱちん!
少し弱い。
それでも二人はいつものハイタッチを交わした。
◇
リオルもシバに状態を確認してもらい、少し休むと身体を起こした。
大きな怪我はない。
ヒトカゲも同様だった。
レンは水を飲ませながら、その身体を細かく確認する。
「今日はもう終わりだからな」
「カゲ……」
さすがに今回は反論しなかった。
そのとき。
「リオ」
声がした。
ヒトカゲが顔を上げる。
リオルが立っている。
「カゲ」
二匹が見つめ合う。
リオルが拳を出した。
ヒトカゲが一瞬だけ目を丸くする。
そして。
にっ。
笑った。
「カゲ!」
こつん。
拳と拳が重なる。
勝った方が偉い。
負けた方が劣る。
そんな空気ではなかった。
次は負けない。
次も負けない。
二匹の表情は、そんなことを言い合っているように見えた。
レンは静かにその光景を見ていた。
シバが隣へ来る。
「どうだった」
「強かった」
レンは即答した。
「リオルも。ヒトカゲも」
「お前自身は?」
レンは少し考えた。
「まだ遅い」
「ほう」
「途中でリオルの動きを見てから考えてた場面が何回かあった。もっと早く次を読めたと思う」
シバは何も言わない。
「それに最後の動き」
レンがヒトカゲを見る。
「あれは俺の指示じゃない」
「なら、問題があるか?」
「ない」
レンは首を横に振った。
むしろ逆だ。
「嬉しかった」
自分で見て。
考えて。
以前練習した回避を使い。
ほんの少し前に習った身体の使い方まで試した。
レンが理想としていた戦い方。
その芽が、確かに見えた。
「俺が全部決めるより、ヒトカゲと二人で考えた方が強くなれる」
シバが僅かに笑った。
「六歳の頃よりは、トレーナーらしくなったな」
「まだ正式なトレーナーじゃないけど」
「資格の話ではない」
レンはヒトカゲを見る。
ヒトカゲもこちらを見た。
「カゲ!」
「うん」
自然に意味が分かった気がした。
次もやろう。
もっと強くなろう。
そんな声だった。
◇
シバがマサラタウンに滞在している間、リオルは毎日のようにレンの家へやって来た。
ヒトカゲと競走する。
一緒に基礎練習をする。
時には軽く技を交える。
食事をするときも、気づけば二匹は近くに座っていた。
仲がいいのか。
ライバルなのか。
レンにはよく分からない。
おそらく両方なのだろう。
「カゲ!」
「リオ!」
今日も庭で競走している。
「またやってる」
レンが笑う。
その隣でシバが腕を組んでいた。
「リオルも変わった」
「そうなの?」
「ああ」
「どこが?」
シバは少し考える。
「以前より楽しそうに修行する」
レンは庭を見る。
ヒトカゲが先行。
リオルが追う。
途中でリオルが追い抜く。
ヒトカゲが必死に追う。
ゴール。
「リオ!」
「カゲー!」
リオルの勝ち。
ヒトカゲが悔しそうに叫ぶ。
その直後には、もう一度スタート地点へ向かっていた。
レンは笑った。
「相性いいのかもね」
「そうかもしれんな」
シバは短く答えた。
そして、二匹ではなく――レンを見た。
「……何?」
「いや」
シバはそれ以上言わなかった。
ただ、何かを確かめるようにレンとリオルを交互に見ている。
レンはまだ知らない。
この出会いが、数日だけのものでは終わらないことを。
今はまだ、リオルはシバについて歩く野生のポケモン。
レンのポケモンではない。
ヒトカゲにとっては、突然現れた強い競争相手。
レンにとっても、シバと行動を共にしている一匹のリオルにすぎなかった。
それでも。
「レン!」
庭の外からサトシの声が響く。
「ん?」
「カゲ!」
「リオ?」
三人が同時に振り返る。
サトシが全速力で走ってきた。
「シバさん来てるって本当かー!」
「今さら!?」
「母ちゃんがさっき教えてくれた!」
勢いよく庭へ入ってきたサトシが、シバを見て目を輝かせる。
「うおおお! 本物の四天王だ!」
「久しぶりだな」
「オレとも勝負してください!」
「お前はポケモンを持っていないだろう」
「……そうだった!」
レンが額を押さえる。
ヒトカゲが笑い、
「カゲカゲ!」
リオルまで僅かに口元を緩めた。
「リ、リオ」
「今笑っただろ!?」
「リオ」
「絶対笑った!」
騒がしくなった庭に、レンも笑う。
ヒトカゲがいて。
サトシがいて。
シバがいて。
そして今は、リオルもいる。
旅立ちまでは、まだ一年以上ある。
焦る必要はない。
もっと学べる。
もっと鍛えられる。
もっと強くなれる。
そして何より――。
新しい出会いは、自分たちだけでは見つけられなかった強さを教えてくれる。
レンはヒトカゲを見る。
ヒトカゲの隣にはリオルがいる。
二匹はすでに、次は何を競うかという顔で互いを見ていた。
「またバトルするつもり?」
「カゲ!」
「リオ!」
同時に返事が返ってくる。
「今日は駄目。休養」
「カゲ!?」
「リオ!?」
今度は抗議まで同時だった。
レンは思わず吹き出した。
出会ったばかりなのに、妙なところまで似ている。
この日から。
レンとヒトカゲの日々に、もう一匹の小さな挑戦者が加わった。
まだ仲間ではない。
まだ同じ旅を歩く存在でもない。
けれどいつの日か――。
ヒトカゲとは違う形でレンの隣に立ち、共に世界の頂を目指すことになる青いポケモンとの縁は、確かにここから始まっていた。