。。。。
寂しげな場所に出た。
風が頼りなさげに吹いている。
「外に出られたかな。にしても、内と勝手がこうも変わらないなんて。本当に大丈夫なのかな」
上を向けば空が見えるし、下を向けば地面がある。だけど───改めて辺りを見渡しても、ここの何とも言えない空気感は相変わらず。
「ふー」
息を吐き、その場で空気を取り換える。
歩みを早める。
早くここは抜けた方がいい。
それに。
「早く世界を試したい。さっがんばろ」
。。。。
あれからかなり歩いたが、人の姿が一向に見えない。
世界と比べてはこの体はあまりにも小さいが故に、大地の広さと比べては一歩一歩がどこか物寂しげだった。
その一歩の及ばなさを差し引いても、そろそろ何か見えてきてもいい気がするのに、なにも起こらない。
足が欲しい。
「…………」
こんな考えが過ってくる時点で、おそらく頃合いってやつでしょう。
考えるのはやめて、無為に任せましょう。
。。。。
気付くといつの間にか荒野に立っている。
最近雨が降ったのだろうか。いわゆる荒野の匂いの強い場所だった。
「何も……ありませんね」
辺りには少し目立って乱立する岩があるくらいで、人影は勿論、動物の気配もない。
轍も足跡もそこにはなく、ただ開けた閑静な荒野がそこにはあるだけ。
陽は高く照っていて、厳しい熱がこの小さな体にまとわりついてくる。
飲まず食わずでここまで歩いてきた身にとって、これは少々厳しい仕打ち。
悪路も多かったからか着ていたローブにも汚れが目立ち、熱せられた大地の匂いと共に、乾燥した植物の油分らしき匂いも鼻をかすめてくる。
匂いの出所を探るようにあたりを軽く見渡すと、それらしき植物を見つけた。
それに引き寄せられるように、限界が近いだろうこの体もいざなわれていく。
触れられる距離にまで来た。その植物は岩肌のわずかなくぼみに根を張り、赤紫色の茎をもつ目に見えた蕾もない、一見ただの棒の群生だった。それもかなりの数。
見たことのない植物だ。忘れているだけかもしれないが。
「うーん」
それから、多角的に注意深く観察を重ね、いよいよ決心して触診に移り、何本か折ったり、裂いたりまた匂いを嗅いだりを繰り返し───。
そして改めて、空を見上げ、地面を見下ろし、辺りに目を配ってから、呟く。
「これはいい! よし。食べよう」
────。
舌が痺れるようだ。体は強く不調を訴えかけてきている。
食した後で文句を言われても仕方がないので、何とか気合でそれを黙らせる。
これは外れだったか。他のはどうだろう。
そう思い岩肌に手をつくが、どうやらいざ口に入れるまでの先ほどの数多の実験もどきによって、数を尽いてしまったらしい。
この岩はかなり大きいもので、群生していた数も相当のものだったのだが、その大きな岩の岩陰に、無残な姿で積み重なった赤紫色の残骸が放られていた。
無いものは無く、もう仕方がないので少し離れたまた別の岩まで歩く。
思った通りそこにも同じものがあった。
そしてそこでも数を尽く。
「この匂いも少し厳しくなってきましたか」
そんなこんなを何回かと繰り返して辺りを往復する中で、当たりを引けたのは数えられるくらい少なかった。
「ん。上出来」
白のローブは白を失っていた。
今この荒野にあるのは歩き回ったが為の自身ですら見失う程の目立たない足跡と、例にもれずの岩、あとは無数に散らばった石などのちいさな障害物で、これにより無駄に歩くだけでもいやに消耗させられる。
「…………」
陽はさらに照ってきていた。変わらず飲食を経ておらず、無駄に歩き回ったせいで体は本当にくたくただった。
そろそろ本当に何とかしなきゃ、と腰を上げる。
異変に気付いた。
とっさに息を殺して岩陰に隠れる。
「…………」
何か音が聞こえた。
近づいてくる。
「…………」
それは周期性を見いだせるようなリズムを伴ってだんだんとこちらに近づいてくる。
この音には覚えがあった。これは、悪路のような足回りの悪い道をゆくときの車輪との走行音。
改めて辺りを見渡しても、この辺りは小石や出っ張りが多いからか、かなり距離があるだろうに地と車両との干渉音が耳に届くのだ。
ここにいても、独特な振動や波がくみ取れる。
さらに耳や神経を澄ませば、それもどうやら、かなりの荷のある被牽引車だろうと思う。馬辺りが動力だろうか。
幽かだが生き物の気配がある気がする。
ここはいくらかの巨岩の他には目立って何もない荒野であり、その岩陰以外に身を遮る場所はない。
────言葉が通じる相手だろうか。
どんどん音は近づいてくる。この岩陰から顔を出せばおそらくかなり近い位置に相手を視界に捉えることができるだろう。
さすがに、まだここで顔を出す勇気はない。
車体を含む人工的な音の他に、毛色の違った波が混じり始める。
これは───声だ。それも複数。
何か言っている。
「うっせェな! いいから黙ってろ!」
「仕方ないでしょう? 僕としてもここは好ましくない場所でしたよ。あなたには周りを見るということがそんなにも難しい芸当となってしまうのでしょうか? そんなことはないと、思っていたのですがね」
「静かにして。気を抜きすぎ」
ひとまず声の数は三つ。強く何かを言い合っているようだ。
「俺にはやることがあったっつってんだろ! 早く入らなきゃならなかったんだッ! それなのによ、お前らがぐずぐずしてっから! 今こんなところに在らされてるんだろーが」
「あははは!? ────まだやります? この流れ。僕はやるならもっと違うことしたいなっ!?」
「はぁ、もう。いい加減にして! 道のことを今更どう嘆いたってなにも変わらないでしょ! どっちにしてもやることは変わらないんだから」
今現在隠れている岩との距離もかなり近づき、隠れている岩陰にすら迫ろうとしたそのタイミングで、目の前の一行はなぜか進行を緩め、その後、すこしもたもたと進んだかと思うと、この巨岩の目の前に停止した。
こちらに気付いたのか?とも思ったがどうやら違う様子。
荷を引かせていた動力の動物でも休ませるのだろうか。
巨岩を挟んで正面にて彼らが停留し始めたのち、やはりそれからも言い合いが続けられていた。
さらに五感を集中させる。
────。
幾ばくかの逡巡があった。
今自身が置かれている状況。不透明な環境。いろいろ。
────よかった。これならいける。
そんなある種の見込みから、一息に身をさらす判断を決める。
何より、早く疎通が取りたかった。
そして一身に岩陰から飛び出した。
「うお」
「なんでしょうこの子」
「……落ち着いて」
いきなり見知らぬ子どもが目の前に現れて、どうやらかなり驚いている様子。
そしてやはり、すぐに視認できた人型の生命体の数は三。どうやら人間とみて間違いもなさそうだ。
一目見てわかる情報は、三人のうち、男が二人。女が一人。
男の方は茶髪と金髪。女の方は黒髪だった。
そのうち茶髪の男がうるさい方で、金髪はそのいやらしい相手。黒髪の女は諫め役に思えた。
この間も三人はこちらを警戒している。
そしてなぜか不思議な場の流れの下、この場に介した四人全員がその後ろ────否が応でも目につく
「…………」
それは───やはり被牽引車で、引かせていた動力の動物はどう見ても馬。二頭おり、どちらの馬もかなり大きく力強さがうかがえた。
そして。その馬が引いてきたその車両。その荷。
言うならば────負の匂い。
荷の内は膜のようなもので遮られており、中を直接見ることは叶わない。それでも隠し切れないほどのかなりの数の命を感じる。
こちらがそのことを汲んでしまったことに気付かれたのか、前の三人は再度こちらに目を落とす。先ほどまでの警戒の色と共に、そこには確かな敵意の色が強く宿っていた。
場の空気が、ある特定の区切りをつけに移ろっていくのを否応なく感じ取れた。
目の前の三人がそれぞれに目を配りあった後、黒髪の女が口火を切った。
「ここでは殺せない」
金髪の男が続く。
「なら言われた通りにでしょう。この子も持っていきます」
茶髪の男は喋らない。
陽はさらに高く昇り、すでに痛々しいまでの光を身に差し込んできている。
そのせいだろうか。体からは危ういほどの汗が迸っている。
茶髪の男も金髪の男も黒髪の女に場をゆだねるのがわかった。
「…………」
目の前の女が刹那───視界から消える。
行く末は感じてはいる。しかし───抵抗を試みることにする。
本能に命を差し出す感覚に、全存在を没入させた。
突如────腹部に衝撃が走った。
ぼろきれの様に吹っ飛ばされ固い地面に体を打つ。
受け身を取ろうと体を翻したその後、勢いを殺しきれずに、小石や土の多くに体のあらゆる部位を打たれながら、引きずられたように距離を転がった。
声にならない声が漏れ、自身の状態に意識を巡らす。
幸い意識は保てた。だが───。
打ち所が悪かったのか首はほとんど動かせず、辛うじて腹部に目を落としても、あまりの衝撃に体内の状態を見通せない。
だが間違いなく、数多の骨は折れ、皮膚は裂け、間接は壊れて、脈は破れ、臓物は部分的につぶれただろう。呼吸音には空気が抜けるような頼りない音が混じっている。
特にひどいのが左腕で、五指の内四本がただ皮により掌に連なってぶら下がっているだけの状態になり、当然何の力もそこへは伝わせられず、永久の脱力状態へと陥った。左腕そのものはあらぬ方向へと折れ曲がり、肘からは間接部と皮を破って骨と肉が露出している。
気を失いそうになるほどの脳への衝撃と、それを辛うじてつなぎとめるだけの激痛、こみ上げてくる吐き気。
出血は少ない。外より内へのダメージが深刻だった。
目に見えて酷い外傷である左腕の様相。幸運にもうまくダメージを逃がせた右腕を動かして、まず肉と骨が露出した波打つように折れた左腕を力任せにまっすぐへと戻す。力は伝わせられないが、左腕のシルエットは戻り始めた。
霞がかったような視界ごしに、この状況を直にあてがった当人である黒髪の女の方を見る。その女は────。
「……ッ! どうしてよけようとしたの!?」
「…………」
───そんなどこか場に浮いた言葉に応えたのは、あれから口を開いていなかった茶髪の男だった。
「お、お前! 今の首に入ってたら死んでただろ! 絶対殺すなよ!?」
───どうやら先ほどのひどい一撃は、抑えた力で首を打ち、命ではなく意識を刈り取ろうとしての所業だったらしい。
金髪の男もそれに応える。
「これはやりすぎです! もうその子の体はぼろぼろになってしまいました! 今からまたあの一撃を見舞いでもしようものですと、今度は間違いなく死んでしまうでしょう!」
「え、で、でも……うん。ごめん」
黒髪の女が一人、今尚苦難の表情とうめき声を重ね、くずおれている場所へと近づいてくる。
「ごめんね」
それから。
言葉をかえせるわけもなく、ただ抵抗むなしく抱きかかえられては、あの荷の方へと連れていかれた。
。。。。
やはりあの荷のところに置かれるらしい。
あれから黒髪の女に持ち上げられ、停留していた車両の方に連れていかれると、そこでは茶髪の男と金髪の男が車両を出す準備をしていた。
「はやくしろ」
茶髪の男から声がかかり、黒髪の女は手早に車両の中へと上がると、そこで抱えるのをやめ、自力で立たせようと手を放してきた。
まだ尚、当然その足取りはおぼつかず、当然体の内部の損傷もそのままだった。
それから促されるように背を押され、そしてそこで、荷の中身との対面を果たした。
それと目が合う。
「ひっ」
そんな
どうやらそれは、惨たらしい様相を呈した今のこの姿を見てのものではなく、背後に立つこの黒髪の女をみて漏れた音のようだった。
隠されていたその荷の中身。
そこには───。
九人の人間が詰められていた。
その内、大人といえるほどの年かさを擁する人物は見当たらなかった。
いずれもこの車両に介した人物の年齢は、皆が15歳以下だろう。
「好きなとこ座って」
黒髪の女が背後からそんなことを言う。
再度辺りを見渡し、そこにいる九人の一人一人に視線を配る。
誰も目線を合わせようとしない。
その間もやはり自身の体の状態は深刻だった。
黒髪の女からの先ほどの嬲りによって負った体への損傷の数々。なんとか痛みがこの意識を取りつないでいた。立っているのもやっとだった。何度もふらついてはそばにあるなにか掴める物にもたれかかって、なんとか立ちなおすということを繰り返していた。
体に鞭を打って、この荷台部屋を一周してみた。
すると、どこに座ろうとするのかに依らず、行く先々で皆が皆、面白いように捌けていく。
どうやらこの場に在って、一番の異物としての立ち位置に収まってしまったらしい。
結局入って来た場所からすぐの、右斜め前、右側の壁に背をもたれかけて座った。
もちろん、その位置にもともといた子も含めて、だれも近くにはいなくなった。
重い空気が場に立ち込めていた。
馬の力強い鳴き声がして、いよいよ車両は動き始めた。
「……ッ……ッ…………これからどうなるのかな…………」
言葉が口から洩れた。
笛のような高い咳が止まらなくなってきていた。
。。。。
少し意識が飛んでいたのだろうか。私は意識を再浮上させる。
(眠っていたのか……)
開きづらい目を辛うじて開き、辺りを見渡す。
どうやらすっかり陽は暮れかけて、ただでさえ重い空気の立ち込めるこの荷室は、一層不気味さを増していた。
それ以上に気になるのはやはり自身の体調だった。
どうやら熱がひどい。
咳もひどくなっている。
ただでさえ異物としての立ち位置に落ち着いていた。よって、このひどい体調が催す生活音が、より一層みなの気を障るのではと思い、辺りを見渡すがどうやら皆にとってもそれどころではないらしい。
「……ぅ……ぅぅ…………」
「……助けて……だれか……」
「くそッ……くそッ!!」
「やだよお……お兄ちゃん……ッ」
「…………」
「怖いよ……ぉ…………ママ…………パパ…………」
「ぅぅ……大……丈夫……だよ…………主が……手を差し伸べて…………」
「……チッ…………ばかが」
「ははははははは」
この九人がこんな調子を続ける間も、変わらずあの三人の会話は聞こえてくる。
「腹減ったんじゃねェか? 俺らもそろそろ休むか。もう危地は脱したろ」
茶髪の男だろう。
「そうですね。僕ももういいと思いますよ」
こっちは金髪の方。
「私、荷室を見てくる」
───黒髪の女だ。荷室に来る。
「…………」
ガタゴト、と車両の先頭側から物音がして、他の九人も身をこわばらせるのがわかった。
例の黒髪の女が荷室に姿を見せる。女は首をまわしこの場全体を一瞥。
「…………あれ?」
こちらと目が合う。
「……! ぇ、あ…………ごめん!!」
「へ?」
なにやらこちらに謝罪を投げたかと思うと、足早に元来た方を戻っていく。
その間───。
「あの子、あの変な子! あの時のままだった……んだけど!」
そんな悲鳴のような声が、この車両に響き渡った。
その声に、他の二人がこたえている。
「あの時のままってなんだよ」
「え? まさか、傷放置ですか!? あの傷を!? 直してないんですか?」
「……な、なんでか忘れちゃってて…………ッ」
「嘆きたいのはあの子の方でしょう! 死んでしまってはいませんか?」
金髪が驚いている。
「一応生きてたよ。ひどいありさまだったけど」
「ちょっとひどいですよそれ! 早く治してあげなさい! こういう時のために盗ったんでしょう」
やはり金髪の声が伝う。
「……そ、それが……その…………あの『
「はぁ? 何やってんですか!」
「おい、だから何の話だよ」
ようやく茶髪が話に入る。
「ですからね。あの岩陰から出てきてひどい目に合わせてしまいましたあの汚れたローブの子供。今の今まであの時の傷のまま放置していたようですよ! しかもそれだけではありません。あまつさえ治癒の『由貢』まで無くしたようです」
「さいですか」
どうやらあの茶髪を以てして絶句するほどの所業を、あの黒髪はしでかしていた。
「で、どうすんだ。『由貢』はあれだけだろ。使えなきゃどのみち死ぬ。今まで息があったことの方が驚きだろ」
「…………」
「はあ───次の拠点まで行こうとのことですよ。そこになら『由貢』もあるでしょう、と」
黒髪の沈黙に金髪はその意味を酌んだ。
「はぁ? もうここまできたらほっとけよ。俺も馬ももう疲れて──────ああ! 分かったよ! どうなっても知らねえぞ」
茶髪は覚悟を決めたようだ。
「あなたはともかく、確かに馬を酷使すべきではありませんけどね。この馬は特別製でしょう。ここまでこれほどの荷をたった二匹で軽々引けるほどのね。これも私物でしたね───確かにうなずけますね」
「…………ま、次の拠点まで行くってのはわかったけどよ、どちらにせよ一回停めるぜ。荷の状態も酌まなきゃなんねェしよ」
「それには僕も賛成です」
「……私も」
どうやら落としどころも見つけたようだ。
このやり取りの間も陽は沈んで行っている。
もうすぐ夜が訪れる。
。。。。
そんなこんなであれから少し進み、ある森に入ったところで馬は止まった。
荷の十人はそこで下ろされ、状態の確認が入るそうだ。
辺りはすっかり暗くなり、森の視界の悪さも相まって足元を見るのも覚束ない。
例の三人で何かを話している間、荷の十人は開けた場所で放置されていた。
その間、九人の様子を見ていたが誰もここから逃げ出す素振りすらしていなかった。それにやっぱり誰も目を合わせようとはしてこない。
と、思っていたのだけれど、そうして観察を続けていると一人こちらと目が合った相手がいた。
夜の静寂を差し引いても長い髪はとても暗く静かな色をしていて、年は九歳くらいだろうか。当然年上に見える。というよりも、年下と思わしき子なんてここにはいないようだった。
視線が交わる事数瞬。特に何かが起こるわけでもなく、自然と視線は外される。
そうしていると、いつのまにか戻って来た茶髪の男がこちらに近づき声をかけてきた。
「よ! ひでェ目にあったな。ま、次の拠点はあとちょっとだ。そこまで生きていられりゃァ、生もつなげるだろ」
そんな投げかけに、こちらも言葉をかえすことに決める。
気になりすぎることがあったのだ。
「あの……『
「よく聞けんなお前。ああ。ま、言ってもいいだろ。『由貢』ってのは作用のことだ。───俺たちの話を聞いてたんだろ? なら、次の拠点にはお前を治せるなにかがあると思ってればいい」
(由貢……作用…………)
「ふー。にしてもこの手の森は虫が多くていやだな」
茶髪の男は周りを飛び回る虫を手で振り払っている。
それからまた言葉を続ける。
「あと少し休憩したらまた走り出すぞ」
そう言って茶髪の男はほかの二人の方へと戻っていった。
「…………」
。。。。
特に何か目立ったことをされるわけでもなく、十人はすぐに荷室に戻されると、ほどなく馬が走り始めた。
明かりも何もない暗闇の荷室に、荷の十人は置かれていた。
目の前の相手の顔すらまともに覚えられないほどの黒の中に在って、やはりその間も───一つの視線を覚え続けていた。
夜が更け、世も静まり返っていたある地点。
馬が止まる。
三人の様子を汲むべく耳をそばだてると、どうやらイレギュラー発生の様だ。
「おいどうする。ここで止まんのはやべェぞ。てかこの道がやべェ」
「……引き返しましょう。それしかありません。荷を捨てればまだ抜けられる。もともと君のわがままで始まった蛇足の航路。───君もいいですね?」
「……あの子は?」
「言わずともわかっていることを僕にわざわざ聞く必要はないでしょう。ここで捨てる。あれがなくてもどのみち死体を乗せ続けるわけにはいきませんから。由貢もないんです。可哀想なら楽にしてやりなさい。後始末はこっちでつけますから」
「…………わかった」
どうやら今度こそ、本当に命の取り立てが始まるようだ。
荷室に黒髪の女の姿が現れる。暗闇が相まって顔色はうかがえない。
今までの場の空気感との違いを皆が感じ取った。いくつかの短い悲鳴が上がる。
「ごめんね。今度は楽にするから」
その言葉に身を震わせたのはむしろ私を含まない方の九人だった。
「…………」
その言葉にこたえない。
まるでそうならないことを知っているかのようにその態度は静かだった。
いや、本当にそうなるのだと分かっていても、何の後悔も窺えないのか。
黒髪の女には、私の姿はそう見えていた。
黒髪の女が発した言葉に何をかえすこともなく、既に片目も見えずらい、片腕の感覚もないその体を、ぼろきれのような残骸を、背にある壁に体を引きずらせるようにして立ち上がり、ただ、外を目指して歩き始めた。
「…………なんて子」
ここに乗せられた時の逆をたどり、この車両から身を下ろす。
そのさなか、荷室の方から一つの声が上がった。
「ねえ。あの。どうしてあの子はここで下りなきゃならなくなったのですか」
聞き覚えのない、初めて聞く声だった。
そのことから、その声の主は先刻あの森で私と目が合い、それからずっとこちらに視線を注いでいたあの長髪の子だとわかる。
私が眠りから目覚めたときの荷の九人の錯乱状態。その中で唯一、声を出していない子がその子だった。
黒髪の女が答える。
「馬が、ちょっとね…………」
二人のやり取りが終わるのも待たず、私はいよいよ地面に足を下ろしていた。
ぬるい風が吹いていて私の体をなでていく。
空には黒が落ちていて、煌々と命を燃やす星々がこちらを見下ろしていた。
二匹の馬が啼いている。
「…………」
───ああ。
ここはまだ、あそこから抜け出したばかりのはずなのに。
無量の由縁を経て紡ぎ守った灯も、世界としてのなんら大きな役目に着くこともなくその日常の中、無為に消え落ちかけている。
どれだけの御膳立てを経ていようと、往々にしてこういうことはあるものだ。
天は気まぐれで、人の事情など酌んではくれない。
人が生涯をかけて組める最大のなんらかを以てしても、それらは神の寝返り一つですべてが無に帰るのだ。
人が人の世でゆるしを経ずとも生きられるのに、神の所業に人のゆるしが必要だろうか。
黒髪の女が下りてくる。
続いて茶髪の男も。金髪の男も下りてくる。
「…………」
───風が気持ちいい。
今日は良い日だ。
最初に口を開いたのは茶髪の男だった。
「悪いな。お前とは奇妙な縁だが、別に死んでほしいとは思ってなかったぜ」
「…………」
「『由貢』があればよかったんだけどね。僕らでもこれはどうしようもありません」
「…………」
「もとはといえば、私のせい。君の不幸は私に基づいていたよね。ごめんなさい」
「…………」
左腕はもう機能していない。片目は落ちかけている。体の内部の損傷もあのままだ。これからずっと、抱えていかねばならないことは途方もなく大きいのだろう。
この状況で生き延びても、先に在るのは目に見えた生き地獄だろうか。
私にはとても────もしここに由貢とやらがあったところで、それが変わるとも思えなかった。
「…………」
あきらめるのか?まだ私として在れているのに。
体の一部が壊れたからなんだというのだろうか。
私はこの地にまだ立てている。
「どうする? 頼めばこいつが一息に楽にしてくれるぞ。それとも───本当にどうやってか、ここから生きてみるか?」
「本当に、どうしてこのタイミングだったんだろうね。馬が不調なんてさ。あの馬に限ってこんな事そう起きることでもないでしょうに。君は天に嫌われでもしているのでしょうかね」
「私がここでも『由貢』を持っていれば。また私だ。ごめんなさい」
声も出にくくなった喉を震わせ、辛うじて声を絞る。
「……ここから生きて…………みるというのは難し……そうですか」
「ああ。まずその体じゃすぐ死ぬだろうし…………というよりも、なぜまだそんな体で生きていられるんだ? お前」
「……ここは何か特異な…………環境なのでしょうか...」
「それには僕が答えましょう。不憫な君への手向けとしてね。別にこっちは話しても差し支えありませんから。まずなんで君をここに下ろすことになったのか。まず第一に馬の突然の不調。本来ならここもすぐに抜けられる予定でしてね当初の目安でならここを通っても問題なかったのですよ。第二に、ここはある力が届く場所でして君も察してはいるでしょうが、僕たちはアングラ世界の住人だから、その力にはとことん都合が悪いのです」
「今……は…………?」
「元々問題ない経路だったと言ったでしょう? 今馬を休ませていますから。ここから先へは行かず、すぐに引き返すので問題はありません」
金髪の男の話し方はどことなく遠回りだ。
「ここに届く力は……
「まあ、そんなところです」
「…………そっか……」
黒髪の女が言葉を絞り出す。
「……ねぇ。言わなくていいの? この子に、ここで下ろされる本当の理由」
黒髪からこんな言葉がこぼれたのち、茶髪の男に、二人の意識が向くのがわかった。
「俺は──」
「僕は、このままでいいと思いますよ。ここでこの子を降ろしてしまうという事です。だって、これはある種、こちらの身勝手な演算によるものですから。この理由を当人に打ち明けたところで、この子が一体何をできるというのです? それを差し引いても、どのみちこの体では長く持たないでしょう。他でもないあなたがあまりぶれないでください。こっちだって心は痛む」
「でもさ、その、この今の状況それ自体がさ、疑いの反証にはならないかな。この子は正真正銘瀕死の重体でいるんだよ。ここまで来てしまった、来れてしまったのもこの子の周りに超常的な手掛かりがなかったから。この子からは、由貢のそれらしき痕跡の一つもないんだよ? それが一つの説明になってると思う」
「言いたいことはわかりますよ。でも僕にはそれはむしろ真逆の説得力を持っているように思えてならない。超常的な背景もなしに、この空気を纏える天性の何かがあるということの方が、非超常のみで説明できてしまうということの方が、僕には恐ろしいと思える。────どうなんだい」
場の温度はどんどんおかしくなっていく。
目の前の三人は、それがなにかがわからない。
二人の視線が茶髪の男に戻ってくる。
「……ああ……………こいつはここで下ろす。その決定に間違えはない」
「よし、僕もそれに続きます」
「……………」
そして。ひずみは臨界点を迎える。
それには黒髪の女が最初に気付いた。
「……ッ!? え? ちょっとなにこれ! 空! 空!」
黒髪の女が叫ぶ。
二人が続く。
「…………な、なんだよこれ」
「これは……………」
「ッ! やっぱりこの子は危険でした。 早く! 早く楽にしてあげなさい! ────!? 何をしているのですか! 早く!」
金髪の男が黒髪の女に向かって叫びを投げるが、なぜか言葉が返ってこない。
気付くと、黒髪の女はなぜか少し離れた車両の場所まで戻っていて、なにやらかがんでいる様子。
「あいつ…………なにやってやがんだ?」
そのさなかも、今尚、空では不可思議な筋の明滅が続いていた。
「チッ。くそ、あなたは持ってきているんでしょうね!?」
「ぇ、あ」
「由貢ですよ。由貢。得物でも構いません! 持ってるなら早くこの子を! やれないのでしたら僕にそれを渡してください!」
「あ、ああ。わかった。くそッ」
場に在った子の首には死神の鎌が掛かっている。
なぜか予兆なく唐突に顕現した空の異体は、場の緊張を一息に破綻させて、その子供の生命活動を奪わせる流れを生んだ。
その発展はもう止まらないだろう。
そして今、その話題の向いているその子本人。
今尚その命、刈り取られんとしているその首の持ち主。
その仕打ちを為さんとする三人全員を以てして、その所業は自分たちの身勝手な演算による賜物だと打ち明けられている当人。
辺りで起こる異常気象の原因すらあてがわれているその体の。
その年にして、ぼろきれの様相を呈するまでの悲惨な目にあっているその子供が、その口から場に零れ落とした言葉はこの場ではいっぺん浮いた音となって空に落ちていく。
────。
「きれい」
「…………」
「…………」
一人、その少年だけは空を見ていた。
一回り以上背丈の大きい複数人から向けられる強烈な殺意の渦中に、これ以上ないくらいの無防備でいながら、それでも彼だけが空を見ていた。
「…………」
「…………」
変わらず不可視に、この場にはまた新たな流れが生まれ始める。
態度が変わっていくのがわかった。
その様が、これまでそれを通して見させられていたであろう全ての色眼鏡の準備をたやすく破り、思わずと、これまで刷り込まれていたその相手への全てを覆す。
それ程の純粋さに見えてならなかったからだった。
純粋な心と表現がこぼれた様に思えてならなかったからだった。
「……なぁ本当にこいつ……俺やっぱ」
「…………」
茶髪の弱音らしき言葉にも、金髪の男の方はそれどころではない様子だった。
そうしている間に、二人は先ほどまで馬の方にいた黒髪の女がこちらに戻ってきていることに気付く。
手元には────何か遊ばせている。
二人は尋ねる。
「僕の呼びかけも無視して、一体全体、君はなにをしていたのですか」
「────? なんだ? 俺の『由貢』が、揺れてる。お前、それ」
「…………うん。私の『由貢』だよ」
二人は暴発する。
「はぁ!? な、なにを言ってるんだよ! は? 由貢? へ? 君はそれをなくしたって言ってたじゃないか! 嘘だったのか? あったなら今までのこれはなんだよ! 何の意味があったんだよ!?」
「ちゃんと俺たちにも説明してくれ。どういう意味だよ。由貢はなくしたんだろ? 実際、これまで俺の方に反応もなかったんだからな」
その二人の当然の疑問に、その疑問を投げかけられた黒髪の女は答える。
「本当になくしてたよ。それは嘘じゃない…………でも、さっき馬車の方から変な音がしてるのに気づいて、それが気になって私が車両のところに戻ったとき…………落ちてたんだ」
「落ちていた? なぜこんなところに落ちているのですか」
「それは私もわからないけど…………本当に落ちてたんだ」
「…………」
どうやら『由貢』というやつは、
考えは正しかったということだろうか。意味があったのは体か? 命か? いや、意識だろうか。
この場に奇妙な空気が立ち込めるような錯覚を皆が感じ取っていた。
それを一思いに払拭でもしようと思ったのか、茶髪は言葉をひねり出した。
「なあおい。その由貢があったってんなら、さ。やっぱり俺、こいつ」
「助けたい?」
「ああ。あん時は、勘からあんなこと言っちまったけどよ。やっぱ俺にはどうもこいつが────悪魔には思えなくなっちまって。それに────どのみちそうするしか…………」
「なんかずっとらしくないよ。うん。私はいいよ。もともと言ったのは私。それに私は酷いことしすぎてたし」
二人の視線が金髪の男に集まる。
「手段があるのにわざわざ馬には回復の時間を取るという事ですか。……好きにしてください。やるなら早急に頼みますよ。早くここを離れましょう。思いのほか長居しすぎました…………はあ、もうくたくただよ」
そう言い残した後、金髪の男だけ車両の方へと覚束ない足取りの下、ふらふらと遠のいていった。
この場には三人が残る。そのうち二人の視線が、私一人に向けられる。
「じっとしててね」
黒髪の女は何度目か目の謝罪の言葉を口にした後、その『由貢』とよばれている物体を掌に包み始めた。
目にした時間は短かったが、治癒用だというその由貢と呼ばれた物体は、青いぼろきれのような布が、手のひらに収まるくらいのサイズ感でふわふわと宙に浮かんでいた。
どうやらそれで、私の体を直してくれるつもりらしい。
私は今、その奇術を振るおうとする当人を含め、三人を観察している。
黒い髪は私より少し長いくらいか。はっきりとした顔立ちの女の人類種だ。
次に茶髪の男。
文字通りの茶色の髪は短髪で、特徴的なのは強い意志を宿した瞳だ。
最後に金髪の男。
今この場にはいないが、茶髪の男より少し長いくらいの金髪で────一番やりやすい相手だった。
そんなこんなで頭の中を整理している間も、やはり体をめぐる痛みが引いていく気配はない。
二人の方へと目をやると、どうやらまたイレギュラーに見舞われている様子。目に見えて慌てふためいている。
特に由貢という奇術を振るわんとする当人。黒髪の女の焦燥具合はすごかった。
「……ッ……な、なんで!? なんで成功しないの!? ど、どうしよう。なんでよ! なんでできないの!」
「お、落ち着け。焦ってたらできるもんもできなくなるぞ。特にこれは治癒の由貢なんだ。術を施す相手をよく見て。相手を正しく覚えるんだ」
「............」
汗の滲んだ顔をこちらに向けながら、覚束ない足取りで黒髪の女はこちらに近づいてくる。
「……手。ごめんね。おねがい。手を…………手を出して。手を貸して」
そう言って目の前にまで来た黒髪の女は、私の手をとって、また由貢を堪え始めた。
「…………で、できない! だ、だめッ! ぅう…………こんなこと、在り得ない! ぁ、ぁ、も、もしかして、こ、この子…………」
「考えるんじゃねえ! そんなはずはない。そんなはずはないんだ!」
黒髪の女が何か言おうとしたのを、茶髪の男が決死の形相で言葉をかぶせた。
何を言おうとしたのだろう。先の会話から考えて、悪魔とでも言おうとしたのだろうか。
「でもできないの! どうしてもできないの! もう…………そうとしか…………考えらない!」
「ッ……お前にできなきゃ誰にできるんだよ。ちゃんとやってるのかよ!」
「そこまで言うならそっちがやってみてよ!」
「できたらやってる! 俺らの中で、今それを扱えるのはお前だけだろ! 自分の役割を疎かにすんじゃねえ!」
決壊しそうだ。
何に中てられたのだろう。
「私のせいじゃ……こ…………この子が…………この子がッ!!────────『
────。
「お、、お前!! 俺の前で! 俺の前で! 今…………その──言葉を……!!」
どうやら尋常ではない様子は二人共で同じ様子。
特に、『反威体質』という単語が場に出てからの茶髪の男の焦燥具合は、由貢が不発だった時の黒髪の女の時の比ではなかった。
「あ」
思わずと声が漏れた。
「あ……ぐッ…………ぁ、ぁ……あ…………」
「あ、ご、ごめ……っ…………! わ、わざとじゃ…………待って、待って、行かないで!」
何が起こっているのだろう。
茶髪の男が、目の前で文字通り変容していく。
「あ、ああ…………『
一瞬、『愚者様』だなんて、なにかけしかけられているのかとも思ったが、どうやら目の前の相手は本気で何かにおびえている様子。
何せこちらを見てすらいない。
一体────いや、今はまだいいだろう。
今もまだ茶髪の男の異形化が進んでいた。
既に本人は言語能力すら失っているように思える。声すらあげなくなったからだ。
今は黒髪の女が、なんとか茶髪の男を呼び戻そうとするかのごとく、あたふたしながら体をゆすったり、声をかけたりしているが、やはり異形化の進行はとどまる様子がない。
それにしても、目に見えて異形の化け物といえる形になっているのに、凶暴性はあまりうかがえないのは、茶髪の男の本来の素養によるところが大きいのだろうか。
既に顔が割れ、手足は不均一にサイズ感を変え合っていて、背丈そのものも大きくなり始めていた。
私はその様子を前にしながら、異形化の方ではなく、黒髪の対応の方を観察し続けていた。
「考えないで」、「早く忘れて」、「追わないで」、そのような珍妙な言葉の羅列が今尚、私の耳には届き続けているのだ。
私は一度、その現場からは目を離して金髪の男が帰った先に視線を向ける。
(あっちはどうなっているかな)
馬の方に視線をやる。
馬は、少し荒れているな。この異形化も干渉しているか。
問題はない。
改めて異形化の現場に目をやると、どうやら黒髪の女は異形化の止まる様子のない茶髪の男に対して、施術方法を変えるらしい。
手元には────由貢。だがあの青いぼろきれのような布には見えない。
あれは────茶髪の男が持っていたという方の『由貢』だろうか。
治癒の方を使おうとしていた時と同じように、その不可思議な様相を呈する物体を、自身の手のひらで包み、胸の前で力を込めている。
その様はさながら主に祈りをささげる聖女のごとき神聖さを放っていた。
周囲で何かの密度が確かに変わり始める。
その平衡の先には、奇術を施さんとする黒髪の女がいる。
そして目に見えてその体は光を堪え始めた。
「…………」
途端。
こちらにいてもそれを感じ取れるほどの衝撃波が届いた。
おそらく────あの荒野で動いた時よりも早く動いたのだろう。
気が付くと、男の異形化は収まっていた。
というより、進行が止まっただけの様だ。進行した分の異形化は保たれているように見える。
その現場に介していても、その結果に女は驚いた様子はない。
動かなくなった異形の者の体を隅々と触り始めた。
かと思うと、今度はさっき使って不発に終わった方の、もともと本人が持っていた治癒用の由貢を取り出す。
例にもれず同じように掌でそれを包み、力を込めている。
すると────。
なんという事でしょう。
みるみる異形化が退行していくではありませんか。
その成果に伴って、使い手の女はどんどん肩の上げ下げが大きくなっていく。
ここからでも聞こえるくらいの過呼吸を起こしている。
治癒の力だろうその効力は、異形化進行の全てを取り除くまでには至らなかったようだ。
ある点から、茶髪の男の状態は変化しなくなったかと思うと、例の由貢は目に見えて霧散し、男の顔は少し割れたままとなった。
空間が元の比率に戻っていく。
女は、目の前のその男の状態をみてどうやらかなりホッとした様子だった。
数舜、自身の過呼吸を抑え込んでから、茶髪の男には背を向けて、どうやらこちらに歩いてくる。その様はさながら生まれたての小鹿という修飾が為されるほどにフラフラで、足を前に出すことに苦労しているようだった。
その様子から、自身も無傷ではないことを今初めて知ったのだろう。
ここから見ても、あの足は間違いなく折れている。
先ほどの凄まじい衝撃波を生んだのだろうその時の動きの際に、足を折ったのだ。
フラフラとした足取りで、ようやっと私の下まで歩いてこれた。
開口一番、目の前の相手は何を言うのかと少し迷ったようすで、こんな言葉を口に出した。
「君は悪魔じゃない」
ああこの女は。
「…………」
「さっきは、あんなこと言ってごめんね」
どうやら目の前の女は私に対して『反威体質』という言葉を用いたことに、かなりの心苦しさを抱いていたようだ。
それにしても反、威、体質、か。
「気にしていませんよ。それに、私には意味がさっぱりわかりませんでした。────『反威体質』、でしたっけ?」
「ッ」
態と言った言葉だったが、どうやら本当に、大きな意味を持つ言葉らしい。
「君は…………悪魔じゃない。『反威体質』なんかじゃ、ない!」
「…………」
強い人、とはこういう相手の事を云うのだろうか。
先ほど私に対しての奇術が不発に終わった際、二人で言い合っていた言葉が再生される。
「治癒の由貢は君にしか使えない」
先ほど衝撃波を生んだ由貢、茶髪が持っていた方の由貢をこの人は使えていた。
治癒だけが君にしか使えない。
それにはどうやら、この精神性、精神力の度量が関係しているように思えてならない。
(私が使えなかった理由もそこにあるのでしょうか)
悪魔じゃない。そう言ってくれた人に言葉をかえす。
「……そう、ですか…………ありがとう」
「ううん。いいの────あ、あ」
顔色が変わる。
私の体を黒髪の女は改めて見直す。
自身があの荒野で嬲り、つけた体への損壊。
そのこと。
君があまりにも普通に、流暢に振舞っているから、そのことがうっかり抜け落ちていた。───そんな顔をしている。
まるで私が君をその傷で荷室に放置してしまった時と同じように、と。
どこかそれを聞くのをためらうようにして、そんな疑問を口にした。
「…………ねえ。元からそんなに喋れてたっけ?」
「最初からこうでしたよ」
「でも…………」
変わらず体は目に見えてボロボロだよ?
そんな言葉が顔に現れている。
事実、あれから、最初から、痛みは何ら引いてなどいない。それどころか、刻一刻と痛みは激しさを増していっている。
おそらく医術に通じているのだろう目の前の相手はそれを肌で理解していて、それゆえに私が今尚汗一つかかず、これほどの静かさを以て自身と疎通を取れている状況に、気が気でないのだ。
「もういいじゃないですか。さ、早く荷室に戻りましょう。金髪の方も寂しがっているでしょうから」
「うん」
そうして二人で、金髪の男もいる車両を目指して歩いていく。
ひとまず茶髪の男は放置の方針のようだ。
────。
「君があれ程に純粋に見えたから」
「…………」
「それにほら。あの馬を見ればわかるんだよ? さ。いこいこ」
馬。
そんな単語を落として黒髪の女は足取りも合わせず、折れた足で駆けていった。
「…………」
今もまだ放置されたままの茶髪の男を一瞥する。
黒髪の女の背中は、もうかなりの位置まで駆けて行ってしまっている。
私もその後に続いていく。
。。。。
黒髪の女は出入り口の前で立ち尽くしている。
こちらには背が向いているため、表情はうかがえない。
荷室の方からは否が応でも耳に入る特異な音が立ち続けている。
私は合流する前に、馬の方へと向かっていった。
二頭ともこちらに気付いたようだ。くくられた縄の届く範囲で、こちらに最大限近づいてくる。
二頭ともが嬉しそうに尻尾を上げて、なでてやると目を細め、鼻を前に突き出してくる。
私は動物の好意を自在に手繰ることができた。
動物は本能やらの第六感で、人の本性を見抜くという。
純粋な心を見初めるという。
それは間違っていないのだろう。
ならば動物の中に、一度見染めた相手から裏切られた個体は存在し得ないのだろうか。
悪魔は動物に好かれないのだろうか。
それも違う。
今尚、この世には人間、非人間に依らず、裏切りの関係は後を絶たない。
なぜ命は裏切られるのか。
その相手に、純粋な心を垣間見たからに他ならない。
誰もが、相手から純粋な心を酌み得るからに他ならない。
全ての命は純粋さを築き、それを酌むことができる。
そして、其の純粋さを見せ合って尚、その後でもその命同志で裏切り合えもする。
動物は賢い。
故に自身の裁量に全存在を没入できる。信じられる。信じてしまう。
相手の純粋を気付けてしまう。
目の前に悪魔がいて、自身の五感全てを完璧なまでに擬態できる術を有していた時、果たして相手の正体に気付けるだろうか。
第六感が働くだろうか。
それとも、何らかの超常的な力が天によってもたらされ、正体を見破る手助けをしてくれるだろうか。
天意は、決して悪意のいずれかにも寄らず、悪意が天に肖れることはないと言い切れるだろうか。
ああ思い返しても。
あのタイミングの極光は奇跡だった。私は何もしていない。
この場合どちらにとっての奇跡だったのか。
もはや言うまでもないだろう──?
この場合の全ての答えは明快で、天をも騙せる擬態をすれば良かった。
そうすれば、天は悪魔にも味方をする。
簡単だった。気負いもしていなかった。
あらゆる擬態それ以前に天も神も、悪魔ですらないただの人にも騙されるんですよ。
「そうでしょう?」
後ろに立っていた黒髪の女と、金髪の男。
そのうち後者は目に見えて満身創痍だった。
よだれを垂らしながら金髪の男がこちらをにらんでいる。
「君がやったのですか」
「──? なにをですか」
「今更とぼける必要が……君には……ありますか? あの荷の状態。この馬のことも」
尋常ではない様子の金髪の男だが、その声に続いたのは黒髪の女だった。
「荷室の…………あの子たち全員が廃人…………の様になっていた。声もまともにしゃべれず────そして、あれから最初に車両に戻った彼も、その影響を受けていてね」
「そうですか」
投げかけられた内容は確かに私が描いた通りに進んではいるようだ。
でもその内容には一つ引っかかる部分もあった。
「本当に全員でしたか?」
「え?」
自分の言葉に、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう黒髪の女は、私の投げかけには一応、是を返した。
「…………仕方ありません。質問を受け付けることにします。なにかありますか」
。。。。
目の前には、汚れたローブを身にまとった五、六歳ほどの背丈の少年がいた。
他の二人が悪魔だといった小さな子。私がそれを否定したかった子。
「…………仕方ありません。質問を受け付けることにします。なにかありますか」
何もわからない。私には、何も。
どうしてこんなことになっているんだろう。どうして、目の前の子は、あの荷室の状態が自分の手によるものだと周りに思わせてしまうようなふるまいをしているのだろう。
質問は、しなきゃいけない。
もう、詰まされているとしても。
「先の質問────荷のありさまは、なに?」
そう投げかけるので精いっぱいだった。
正直、この時点では答えをあまり期待はしていなかった。けど────。
まるでその子は、目の前にいる私たちではない他のだれかにでも説明するかのように、流暢に全てを話し始めた。
「廃人になっていたのでしょう? 確かにその原因は私が持ち込んだある流体にあります。それは簡単に言えば強度な神経症を誘引する代物でして廃人になってしまったのはそのせいでしょう」
質問を続ける。
「なにをどうやって呷らせたの」
「空気感染、飛沫感染です。私が用いた流体には確かに毒性がありましたが、本来その作用の程度はそれ単体では目に見えた影響に至るには無視できる範囲です。もちろん個人差はありました。たとえば、体の大きさによって大いに侵されていく速さは異なるでしょう」
「どうして、荷室だけがあの状態になっていたの」
「全ての流体に言えることですが、毒性を有する物体がその中心から拡散するにあたり、当然それらの発生源からの距離によってどれほどの毒性を期待できるかは変わってきます。仮に荷室をその毒性の発生源に置いたとすれば、荷室と車両先頭とでは少なからずその進行の具合には違いが出てきます。ましてそれが、発生源に近い位置にいるのが子供で、遠くにいるのが大人なのなら子供だけを先に侵していくのはそう難しい事ではありません。先に述べた通り、私が用いた流体は通常それ単体での毒性は無視できる程度のものでした。ただでさえ侵されるのには量がいる。 そうなればその流体によって荷の九人だけを毒に侵し、あなた方三人だけその進行を遅らせるなんてことはだれにでもできます。あなた方三人のところにまでそれが及んだ時には、既に発生源からの大きな拡散を経てしまった後ですから」
「……その流体ってのは?」
「それはある植物から生まれるものです」
そう言って目の前のその子は自身の口からある
「それは…………『
私にはそれは見覚えがあった。だからその呟きは、思わずと零した言葉に過ぎなかった。過ぎなかったのに。
目の前の子は思いもよらない反応をかえしてきた。
「そうですか。これは『
「え?」
「確かに思い返せば、実は梅のようでしたね」
どういうこと? 何で使った本人がその名前すら知らないの?
私の頭は疑問で埋め尽くされ、もう何を聞けばいいのかわからなくなっていた。
そんな私を見かねたのか、満身創痍の横の彼が言葉を続けてくれた。
「どういうことですか。確かに、厭梅には神経症を誘引する……毒性がありますが、本来、そう…………本来、君自身が言ったように無視できる程度のもののはずです。到底…………たとえ子供に対してだとしてもそれでは廃人にまでは至らせられません」
当然の疑問に、その子は涼しげに答える。
「はい。間違っていません。でも言ったではありませんか。単体では難しいだけだと。その量では無理なのなら、人を廃人に持っていけるぐらいの量を用意して、荷の廃人を作ればいいだけでしょう」
「通りません。それ程の量をいったいどこに用意していたというのですか。到底隠し通せる量であるはずはありません。そのために、森でも荷室は調べたのです。荷室にも馬にも車両にも何の痕跡もありませんでした。……………………なぜ君は無事なんだ」
やっぱりこの疑問にもその子は答える。
「量は体の中に隠しました。飛沫感染だと言ったでしょう。厭梅を私の体で宿り木にして、周囲に毒性を媒介しました」
「宿り木? まさかッ君は実を…………厭梅の実を食べたのですか!? 恒久作用ですよ! いえ、違う。そうではなく、君も荷の一人だったでしょう? なぜ君にはその影響が及んでいないのですか? 宿り木状態の者には自身の毒性が作用しなくなるのですか? そんなはずはありません」
私は話に割り込んだ。
「ま、待って! それより、それより…………どうしてこんなことをしたの!? 本当に君が今の状況を作ったのだとしたら、どうして、いったい何の目的があってこんなことをしようと思ったの!?」
「私は待っていたんです。あなたたちを」
「は?」
「あの場所で待っていたんです」
「…………」
「待っていた? どういう意味ですか? 僕たちは初対面でしょう。君に待たれる謂れがありませんよ」
「私にとっても初対面でしたよ。初対面のあなたたちをあそこで待っていたんです」
「あの荒野で……ってこと?」
「はい」
「何のために?」
「全知全能へと至るため」
「……意味が、わからないよ…………」
「私はあの荒野であなたたちを待っていました。その進路を乗っ取るためにです。その為に、あなた方を詰ませたつもりです。私の繰った通りに、物語は動いていましたか? 今の状況は、あなたたちにとって、ちゃんと詰まれているのでしょうか? 詰まれていないのなら私は困ってしまいますよ」
そう。今、私たちは詰んでいる。
今この場所で止まらされ、馬が患い、あの荷の九人が侵された時点で。
もう。先は────。
それからその子は私と隣の彼を順々に目を配った後────。
「よかった。ちゃんと詰んでたみたいですね」
「…………」
「…………」
「はい。────まず私は荒野で神経症の類を誘引する組成を持つ物体を探していました。そしてそれを見つけ、量を体内に確保したのち、巨岩の岩影に隠れました。決して深刻に侵しては、侵されてはならない子供の荷、人間の荷を積んだあなたたち一行がそこを通るからです。お目当ての一行が私が隠れた巨岩の目の前に止まるのでそして────」
聞き捨てならない言葉が飛び交っていた。
私も、隣の彼も、その異様な状況に、逆に冷静さを取り戻してきていた。
気づけばその子の言葉を遮っていた。
「言ってる意味が分かりません。僕たちが知りたいのはなぜ初対面であるはずの僕たちを君はあそこで待てていたのかということです」
「そ、そうだよ。君があの岩陰からあのタイミングで出てきたときは驚いたけど、私たちはもともとあの岩の前で、あそこで停留するつもりなんてなかったんだよ? 君は知らないかもしれないけど、あの時馬の調子がおかしかったんだ。だから一度馬を止めただけなんだよ」
「最後まで話を聞いてください。私はあの荒野で、私が岩陰に隠れたタイミングで、その岩の前にあなたたちが停留することを知っていたんですよ? そうじゃなければわざわざ岩陰になんて隠れません」
「ですからその意味が分からないと言っているのですよ。僕たちはあの岩前に来る前からの馬の不調によって、たまたまあの岩陰の前で、一度馬を止めただけにすぎないのですから。いきなり君の隠れていた岩を通ろうとするその時、急に馬が不調になったわけじゃないのですよ。だから君はそこで待てるはずがないと言っているのです」
「うん。彼が言ってることは間違ってないよ。私たちはわけあってあの荒野を通らなきゃならなくて、でも思いのほか悪路がひどくてみんなピリピリしてたんだ。あの岩にいたなら君も聞こえてたんじゃない? 私たちの喧嘩。それくらい、私たちにとっても、あそこは通りたい場所じゃなかったんだ」
「──? あなたたちは、あの荒野に入ったあたりから急に不調を帯び始めた馬が気がかりで、このまま酷くなるようならどこかで一度、予定にはないが停留しようと考えていて、その間、想像以上に悪路と化していた荒野を進む中でもやはり馬は一向に不調が消えず、際してあなた方三人側にも鬱憤がたまっていきいよいよケンカが始まったんじゃないんですか? そしてとうとう一度止めようと思い、私が隠れていた岩の前に停止してくれたのかと思っていたのですが────違うのですか?」
「…………君は一体何を言っているのですか────そもそも……あの荒野には岩はほかにもありました。進む中で馬の不調を感じ始めてからもいくつもの岩のそばを素通りしたんです。停留しようとする場所が、君のいた岩だとは決して事前には決めてなどいませんでした。どこで止まってもおかしくなかったのです…………荒野には何もおかしなことはなかった…………おかしなことは…………ありませんでした」
「…………」
「石が置かれていませんでしたか? 無数の石が、その悪路を為すに至った出っ張りが。おかしいですね。私はローブが汚れるまで、大量の置き石や仕掛けをしていたはずなんですが。あの荒野には目に見えて何かを遮れるようなものは、荒野に点在する岩くらいでしたよね? でも、岩がどこに立っていようと、車両の乗り心地にはあまり干渉しないのでは? あなた方がケンカをし始めるくらい、荒野の旅路を嘆き始めたのは数多に点在した悪路の原因、
「…………」
「…………」
「どうして馬が、あれ程に上物の馬が、私に出会ってから、いいえ、荒野に入り始めてからことごとく不調を訴え始めていたと思いますか? なぜ決まって馬は岩の近くを走っていたと思いますか?」
もう聞きたくない。
「……君が作ったという、その、悪路で…………消耗したからですか」
「いいえ違いますよ。あれ程の大きな荷をたったの二頭で引けてしまうような個体が、いったいどうして、ただわずらわしいだけの作られた悪路で、不調に至るまで消耗するでしょうか。そんな理想的な筋肉を有した生き物にはそれこそ神経性の毒でも呷ってしまわない限り、走るのをやめたりするとは思えません」
今度は────私が聞く。
「厭梅がこれまでの馬の不調の原因…………ってこと?」
「はい」
「君は確かに障れる量の厭梅を持っていたようですが…………それで一体、君と出会う前の馬を、どうやって侵すというのですか? 馬の不調は、あなたと出会う前から、荒野に入った時からのものです」
「荷にやった時と同じでいいんですよ。量を用意した厭梅を馬に中るようにすればいい」
「それをいつやったのかと聞いているのです」
「予め量を置いておいた場所を馬に通ってもらうんです」
「…………」
「…………」
たどり着いた単語を、口から零す。
「岩…………」
「そうです。私は馬がそばを通ることになる数々の岩の後ろに大量の厭梅の茎の残骸を放っておきました。私は初めて荒野にてあの植物を見たとき、匂いを嗅いだ時、すぐにおおよその組成を理解しました。実験も────食味もしましたしね。群生状態では心もとなかったので、全ての個体を壊して中身を流出させておきました。あてがわれ続ける悪路の様相により、馬はルートを順に逸らされ多くの岩のそばを通る。その裏には必ず大量の厭梅の茎の残骸が放られており、馬はそれに中てられていく」
「つまり君は、馬の全ての状態変化をあらかじめ仕込んだ置き石とその先々に放っておいた毒性とやらを以てだけで自身に都合よく全ての発展を動かしたといいたいわけですか。はははは、────ばかが! 不可能でしょう! できるわけがありません!」
「…………どうして私にそれができないんですか」
「…………」
その子の視線に耐えられなくなったのか、慌てざまに言葉を紡ぐ。
私は、もう何も言う気力がない。
「…………じゃ、じゃあ! 仮に! 君にそんな所業が可能だとして、そんな悪魔的な計算ができるとして、ですよ、物理的に手足も時間も足りないでしょう!? 本当なら君は一体何日あの荒野にいたというのですか! 僕たちがあの日、あの時間にあそこを通ることを知っていなければそれ程の準備のしようがありません」
「なぜあの日、あの時間に、荷に子供を乗せた一行が通ることを知っていたのか。結論から言えば、正確な時期は知らなかった。ただ、近いうちにそんな属性の特異な一行がそこを通ることはわかっていた。だからそれまで待った。そしてあなたたちが訪れた。それからは、音、───波です。置き石や出っ張りでのフィールドは物見も兼ねていたのです。
「でたらめはやめませんか。そんなことが人間にできてたまりますか」
私はそれに思い当たっていた。
彼も、それはよぎっているはず。でも、だからこそ、
「決定論的カオス」
「これは初期値鋭敏性というカオス理論の壁があるがために、確率論的に扱わざるおえないもの。だが理論上は決定論的である」
「言葉遊びはやめてください。これは決定論と呼べるような次元ではありません。宇宙の全ての原子の位置と運動量とをおよそ完全と呼べるまでに把握できるような超知性が存在し得たとしても、君の言う悪路を作る段階で止まるのですよ。なぜなら、人間の有する神経のきめ細かさには限界があります。ミクロな計算にも都合がとれるような配置を、人間の手足では為し様がないからです。たった一つ、その石が置かれる角度、深度、形状を人の目では見極めがつかないほどの差異を含むだけで、その後の全ての分岐は採算からはもう到底追えなくなるほどに外れていくのです。そして、もしそこでうまく組み立てられていたとしても、あくまでそれは静止状態での話。あそこは荒野ですよ。風が吹き、陽は照るのです。その些細な干渉からですら、いともたやすくその準備は崩せてしまう。その天にさえ及んで、其の演算を為したとでも言ってみますか? 冗談にもなっていませんよ。これほどつまらない諧謔には僕は初めて出会いましたね」
私としても、彼の意見に賛成だった。どうやっても在り得ないとしか思えない。もしこの子がやったとする偉業が、馬のルートを操作して、その不調の進捗を自在に繰ってみせたというだけであれば、私はまだ信じていたかもしれない。
でも、あの荒野がそこに訪れる全ての一行の初期値を自在に手繰れる作りになっていた、それを演算しきれる能力を有していたというのは到底信じられることではなかった。
目の前のその子が、他の子と、いや、私たちとですら、到底同じ位置に属させられないかもしれないだろう存在だとしても、それでも在り得ないだろうというほかなかった。
それくらい、その子のした説明は現実離れしすぎていた。
その子の方を見る。
その子は、今まで見せてこなかったような────どこか悲しそうな表情をして、私の視線を追いかえした。
「あなたもそう思うのですか」
その子が私に問いかける。
「わからない。でも、彼の言ってることの方が信じやすいのは確かだよ。これほどの所業に、無理くりにでも演算的な理由付けを為せてしまう余地が残っていることがそもそもとしておかしなことだと思うし、理論上は、いや、うん、絶対に不可能だとは言えないのかもしれないという事もわかっているつもりだよ。君はそうとしか説明してくれるつもりはないように思えるし、だとしたら君の説明で信じるほかないのもわかってるんだ。実際、君が私たち一行にとっても予想外だった停留位置になぜか最初からいて、君という存在の影が見え始めてからこれまでなかった馬の不調が重なり出して、そしてあの荷の状態を作ったという事実は消えないわけで、いろいろなことが君の存在を併せて考えることで繋がりを得られるとも思うけど────」
「僕には通らないと見るや、やりやすそうな彼女に乗り換えですか? 質問を受け付けると自分で言っておいて、説明は放棄するのですかね。ちゃんとした動機の説明も得られないようですし、僕たちは無意味に詰まされてしまったというわけですか。片手間に子供に詰まされる僕。僕はなんて弱いんだろう。弱さとは悲しさですね」
「…………」
────。
「おまえはわたしじゃぜんちぜんのうになれないといっている」
「は? 全知全能? 無理でしょう」
「あ、ちょっと!」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ッ!?」
一瞬何が起こったのか分からなかった。
不可思議な不協和音とも言うべき波が、その子からは急に発し出されたかと思うと、その様は順々に辺り一帯へと干渉していく。そんな妙な錯覚に見舞われた。
どこかその様は、私に子の癇癪を想起させた。
でも明らかにそんな様子ではなかった。その只ならぬ本人の狂騒。まるでその子自身に、その内部に、存在に何か問題が生じているかのように、不可解に苦しみだしている。いったい何が起こっているのか。
この子は本当に何者なのか。
「────あ」
その狂気は急に収まった。
「あ、私としたことが。久々の人との会話でらしくないところを見せてしまいまして、申し訳ございません」
「えっと、大丈夫なの?」
「はい」
「…………僕にあたらないでくださいね。僕は今傷心中なのですから」
「いえ。こちらこそ私が未熟なばっかりにどうもごめんなさい。────先が思いやられますよね」
「…………」
「少し時間をいただけませんか。もう少し深いところに入らないと、あなたからのゆるしは得られないように思えたので。────ちょっと取り出してきます」
「あ、ちょっと。深いところって何? 取り出すってどういうこと?」
「…………」
私の問いかけに応えることもなく目の前のその子は、なぜか目をつむると、自身の体をえぐり始めた。
────えぐり始めた。
得物も使わず、素手で、自身の体をえぐり始めた。
「あ、は? ちょっと! 何やってるの!? ────ッ」
その子にとびかかりそれをやめさせようとするも、なぜか私が地面に落ちることになった。
足が折れていて踏ん張りがきかないとしても、その顛末は予想していなかった。
(なんて力────その小さな体のどこにそんな膂力が)
目の前にあるのは止めることのできない異様な光景。でもそれはすぐに落ち着きを取り戻し始めた。
「…………」
その子の周りには小さな血の池ができていた。
それからその子は、右腕を動かし始める。その腕を、その子自身の顔の方へと持っていく。
どうしようもなく嫌な予感がして、私はそれを止めるべく、またとびかかろうとしていた。
それを、隣の彼に制止される。
「何で止めるのっ」
「うるさい。見させて」
「なにをいって」
視線を戻すとその子の右腕は、既に顔へと接地していた。
そして指を────自身の左目へと手繰っていく。
「やめて!!!!」
「────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────」
「え?」
「は?」
気付くと、その子の右手には自身の眼球が取り出されていた。
ぽっかりと空いた右目の眼窩はそこから一切の情報が抜け落ちてしまったかのように、現実感というものが存在していなかった。
右手に自身の眼球を遊ばせながら、その子はこっちに────いや、隣の彼の方へと歩いていく。
その子がそれから口を開くのがわかった。
「───────はこの場で私が全知全能には至れないと覚えている」
──? 今なんて言ったのだろう。私には聞き取れなかった。
彼は聞き取れたのだろうか。
彼の方を見る。
彼は────青ざめているように見えた。彼と出会ってから、あんな顔をしているのを今まで見たことがなかった。
今、何が起きたのだろう。
「どう…………して…………」
彼はどうやらただならぬ様子。
それから彼はぶつぶつと何かを口から漏らし続けていたが、ついぞ私になにかの疎通を取ろうとする素振りの一つももたらさなかった。
「フフフフ」
「…………」
彼は今尚、右手で、右掌で、指で、自身の左の眼球を遊ばせ続けている。
左目があるはずの場所からは、血の涙があふれ、それが頬を伝っていた。
私はその異様な光景に、文字通り言葉をなくして立ち尽くすほかなかった。
彼の方にいたその子が、只ならぬ様子の彼を放ってこちらに歩いてくる。
「えーと、どこまで話をしたのでしたか。かなり脱線してしまいましたが、質問を続けてくれますか?」
どこか場違いなその言葉は、不思議と頭に浸透していく。
「わ、わかった」
「はい」
何を言おう。何を聞かなければならないのだろう。
「あ、え、と、ど、どうして」
私は話を戻そうとするがあまり、その勢いだけが先行して、言葉は言いきれずに途中で途切れてしまった。
「どうして」。私は、
でも、目の前のその子はそれがわかっているかのように、私の言葉も待たずに先の質問へと答え始めた。
「荒野の状態です。あそこはよく雨が降るのでしょう? 頃合いですし、そろそろ、あなた方の立場を確認しましょう。───ここで触れざるを得ない要素は、そう、荷の子供です。なぜか荷に詰められた九人の子供。それはひとえに、商品でした」
そう。あの子たちは商品。
「荒野にてあの岩の前に一行を止めてから、一度もあなたたちは名前を呼び合っていませんでしたね。名前の秘匿、その開示。存在の不透明さ。あなた達は名前を呼び合わないのではなく、名前を呼び合えないのです。互いの名前すら知らないのではないですか? それはひとえにその、人に言えない稼業故でしょうか。いいえ。由貢の共鳴を逃れられていたとあってはそれだけではないはずです。私はそれに、先ほどの異形化の現場も併せて考えてみました」
近づいてきている。
────由貢?
「あの時の現場は、間違いなく私に対する由貢の不発を機縁としていました。ならその不発を催した由貢は不良品だったのか? 異形化した状態のあの彼には作用しているように見えた。つまり私にだけその由貢が作用しなかった。それに対してあなたは私を反威体質という言葉で表した。あの時のあなた方二人のやり取りからして、治癒の由貢は対象となる相手を正しく認識しなければならないのでしょう。あなたは一度、奇術が成功しないと分かるや否や、私の腕に触れなおしてからもう一度行使しようとし直していましたね。私に作用しなかったのは私の形を覚えられなかったから。覚えられないから反威体質。反威体質とはなにか、他者にその自己の形を覚えさせない素養を持つもの、その自己を正しく覚えようとするものを思わずと憚らせてしまうような者。狂気、狂人。術を施す側の状態が不発云々という結果には少なからず寄与している。あの時、私に対してあなたの由貢が不発と化したとき、それに対して二人は一度、私を反威体質だとみてしまうということをとても嫌がっていた。あなたは私に悪魔を重ねることも避けていましたね。反威体質とは悪魔と謳われてしまうふるまいを為しかねない状態を有するもの、もしくはそれに近しい状態の者。異形化が始まってからのあなたの彼への声掛けは「忘れて」「考えないで」「追わないで」でした。そしてその前にあなたは、愚者様に慈悲を求めた。あの時の行動は、茶髪の彼の異形化を止める為でしたね。異形化進行、反威体質、由貢、荷の子供。そして愚者様。あなたの声掛けが、異形化進行の逆行を提起していたのだとしたら、異形化とは、なにかを覚え、考え、追ったから起こった。そうつまり
「............」
「これほどの馬。この仕事に際して与えられたものだった。でもその仕事は受けさせられたものだった。ここでの馬の不調はここから先に進むには深刻な要素と化していた。なぜならここには都合の悪い力が有るから。でも不調の起こる前なら問題なかった。三人はこの馬の危機感知能力を頼りにしていた。この馬は雨にも敏感だった? 頼りにするようにと言われていた。目が見えない状態でその力の影響圏をこれ以上進むわけには行かなかった。すでに経てきた元の道に戻ることを選択した。ここで馬が不調になる前、あの時森に止まる前、茶髪の彼が誰よりこの仕事の成果を求めていたはずなのに、彼はあの時休みたがった。荒野の時の損壊のまま放置されていたという私を助けたがらなかった。森で彼だけが私に接触を図っていた。その前の三人での会話の時点で、彼から私への危険度の共有が為されていた。彼は肌で私のしたことを勘づきかけていた。だから森に止まった。彼は虫がたかってくるかを、いえ森の反応を確認したかった。自身が何かに侵されている可能性に思い当っていた。彼だけが、あの時荒野で喋らない時間があった。彼だけが、あの時点の私の体内から
文字通り頭が壊れそうだった。
「あなた方一行が、子供の荷を積んだ一行が、逃げられない状況下の一行が、荒野に訪れます。全ての運動を私に動かされながら、動力の馬を侵しながらまず、私が隠れている岩の前に止まります。私はそこで選択ができます。この一行にするのか、しないのか。多くの情報を得るのには、相手を怒らせるのも効果的です。ケンカしながらその場に止まる一行からは多くをくみ取り、私はこの一行を使うことに決めました。岩陰から姿を見せ、一行をしっかり観察します。この時点では、私はまだ由貢を知りません。私が姿を見せてからの場の流れがある区切り、つまり、あなたが私を無力化する方向へと移ろっていく段階で、私はこの一行には何らかの医療技術、大きな救護の素養を懐に控えていることに気付きました。いきなりの荒療治、判断への自信、根拠、予防線。私はそこで、その正体がなんなのか、正直迷っていました。超常によるものなのか、非超常によるものなのかをです。前者のものを目にしたことはありませんでしたが、一応その線も考えました。その素養は超常的か、非超常的か、ですが後者なのなら、私が思い当たらないはずはないと思い、前者だとわかります。場の空気、目線、微表情、所作、重心。そのどれもが、あなたがそれを有していると物語っていました。初めて相対したとき、あなたは顔左面、顔右面、首、そして胴左、右、腰、左足、右足の順で一瞥していました。その後他の二人から目くばせを得るに至り、まず左手、右手の順、左足、右足の順に力を流していました。この流れは私の首を狙いに来るまでに二十四回ありました。そのうち十八回目、左手の指は小指薬指中指人差し指親指の順番で動かされたのち、右手の指は薬指、中指、人差し指、親指、小指の順で反応していました。その際、私はあなたの右手の親指を見たことに気付いたからです。金髪の男が言葉を紡いだ後、私のいた岩を見た後、私を見ることなく茶髪の男の方を見ました。風が吹いていました。あなたの髪は右に流れたとき、手ではなく足から反応していました。あなたはあの時私の視線を覚えていた。私はあなたの湶を右上部、左上部、右下部、左下部と見直して、その時茶髪の男はあなたのまわした首左側面へと視線を一瞥しました。私は茶髪の男が背を伸ばしなおすと同時に右手を小指、親指、中指、薬指、人差し指の順で動かすという事を、あなたが金髪の男の左目を見る時と併せて計四回行いました。そのうちの三回目で、あなたは唯一反応しなかったその時、左足の母指球に重心を左から右に移しました。靴ごしの動きから、あなたの左足はその時、小指、親指、人差し指、中指、薬指と隆起しました。あなたはその前の私のどこか作為的な視線を覚えて、意識的に無意識を保とうとしたから右側の反応が遅れたのでした。超常的な素養には現物が在り、実体があり、右胸元に忍んでいて、サイズ感はそれほど大きくない、茶髪の男が小石を小石の影上側を見ながらおざなりに蹴った時、あなたは私の手のひらを見ました。あなたの見かけの身体情報、つまり身長、手足の長さ、体形から、私の首を打つ瞬間、どうすれば私はそれをスることができるのかを計算します。結果、片腕を可動域を超えて壊せば可能と分かったので、その方針に固めます。どのみちそれから起こる事象は、ただの人類種の視力しか有していない自分では追うことはできないだろうと思っていたので、私は動きを事前に仕込むだけでした。開始前から所作で誘い、いざあなたが動いたその時の速さを以て、やはり強く超常的な何かの実在を確信しました。それからあなたは私をぼろきれの様に吹っ飛ばすのですがその間私はあなたの胸元に手を突っ込んでいたのでした。そこで初めてあの青いぼろきれのような浮遊体と対面。ひとまずギリギリでしたが無理をして口から飲み込みました。その後共鳴が起こらなかったのは片方を体内に納めたからだとみていますが、どうでしょうか。その後あなたはくずおれた私を拾いに来ます。そのタイミングで私は体内の瘴気を少し開放しました。私の心理操作と併せて、その時のあなたに私の治療を素通りさせるためです。先ほど経た場の発展からあなたの神経系の癖を紐解き、こちらの所作を以て干渉させます。さっき異形化の現場を後にする際にも同じことをしましたね。私はそれから荷室に置かれることになります。私はこの時、必ず満たさねばならない条件を抱えていました。それは、あなた方の会話を聞き漏らしてはならないという事です。外からの目算では荷の場所からでも先頭をうかがい知ることができるだろうとの実感を得ていましたからそれ程心配していませんでした。最悪声そのものが聞こえなくても、波の干渉から共感覚に近しい感覚を作ることも最悪できましたので、私は抵抗することなく連れられることを選んだのです。その機会はついぞありませんでした。外からでは荷室の内部は見えないように膜で隠されていましたが、ある程度の内部構造は汲むことができていました。それから座る場所を選ぶ際に、一応荷室を一周して、既に先頭部分に座っていた二人の会話が最も聞きやすかった位置を選んでそこに座ります。あなたは私の治療も忘れて、そこから帰っていきました。その間に漏らしていた瘴気によって、荷の九人も少々障られてしまいましたが、その後森の開けた場所で下ろされ、体調も戻っていった様子でした。この時すでに、茶髪のあの彼は、薄々そのことに感づいていましたね。ですがもうどうすることもできないので、他の二人の提案通り次の拠点をそれでも目指していました。その後、また馬の不調がぶり返し、森で下りた時にすでに共有されていた私への危惧と、心ばかりの死体同行云々との事情を併せて私をそこで捨てることに決めます。この時の馬の不調は、厭梅による瘴気の方ではなく、もともと三人が頼りにしていた馬の危機感知能力の方に依って足が止まっています。いよいよ私は車両から降ろされるというその間、先刻の体験から荷の子供たちだけが侵されるギリギリの量の瘴気をあなたが私を降ろしに来る前から放出していました。あなたはそのときに呷ってしまった量によって、軽率にも反威体質という言葉を異形化のあの現場では発してしまう衰弱具合になっていたのです。あなたがあの長髪の子供と話してる隙に私は一足先に外に出ました。その時に、実は由貢を吐き戻し出入りのそばに落としていました。実は私も、荷室にいる時、自分でも由貢を使えないか試していたんですよ? 初めて見るものでしたから、気になってしょうがなかったんです。通常時の由貢それ自体は光っていたりしていませんでしたから暗い荷室で私はいろいろ試してみました。私の周りは捌けられていましたからね、こそこそやっていたつもりです。どうしても、その由貢とやらは私に応える気配が皆無でしたので、どのみちその時点で、拠点に向かわれても意味がないという判断もしてしまいました。だから今いるこの場所で、ネタ晴らしをしようと思ったんです。もう荒野の時点でいつでも詰めていたので、実はいつでもよかったんです。あ、そうです。茶髪の彼は一人、荒野の時点で感づいていたといいましたよね。本当にやり様はなかったと思いますか?私の目的は荷を侵すことです。あの時点では、私が既に荷の子供の存在に確信を持っていたとしても、まだ一度も目視すらできていない状態でした。あの時点で、なぜ彼は、私を乗せない判断やら、それこそ殺してしまう判断やらできないと考えたのだと思いますか」
「…………」
「…………はっ。確かにあの時点でも何かを本当に肌で感じていたのでしたら、その時に君を壊しておけばこんなことにはなってなかったのでしょうね!」
いつのまにか息絶え絶えながらも嫌味を言える余力を出せるようになっていた彼が、何も言えない私の代わりに言葉を放ったようだ。
「彼を責めるのはお門違いですよ。荒野の時点で、私の事を薄々でも感じ取っただけでもちゃんとすごいんですよ? おそらくあの時点では全ての概要は理解していなかったんでしょうね。そもそもあなたたちには、あの場で私を殺したくない理由もあったでしょう。それは指示ではないですか? それに、あの場で彼がとった行動は図らずとも最善でしたよ」
「…………」
「どういう意味です?」
「おそらく第六感でも働いたのでしょう。あの場で、私の意識を奪ってはならなかった。奪えばたちまち、辺り一帯に私の体内の瘴気が流出し、悲惨な劇薬と化していたでしょうから」
「…………」
「説明してくれようとしているのなら、もっとわかりやすく言ってくれないですかね。僕に理解させようとする気あるわけ? そもそもさ、…………僕たちにこれほどのことをしてまで、君は一体何が望みなのかな、ですか」
もうどこか、この壊れかけた彼の態度はおかしくなっていた。
「久しぶりの人との会話だったので、必要以上に長くなってしまってましたね。そろそろおひらきにもしたいでしょうし、いいですよ。ぜひ聞いていってください」
ようやく、私たちに彼の理由を教えてくれるらしい。
「ここまでいろいろと話してきましたけど、そこには常にこの厭梅の瘴気がありましたね。────なぜ私が厭梅の瘴気に侵されないのか不思議ではありませんか?」
なぜか場の空気が軽くなり始めているのを感じていた。
誰がそうしているのかは、私にもわかる。
「荷の廃人たちにも言えることなのですが、私がそれに侵されていないことからもわかるように実は手立てがあります。今はまだ明かせませんが。つまり私がいいたいのはですね。荷を戻してほしいなら私の言うこと聞いてくださいってことなんです。茶髪の彼も私が最後はこの要求をしてくるだろうと読んだから、あの時、治癒の由貢があったとわかって、それを私に使おうとするのを是としていたのです」
「どういうこと」
私が反応できるなげかけが来たので、私は話に合流する。
でもどこかそれは流れに沿わない言葉になってしまった。
「君はさ、実を食べて…………体で宿り木みたいにした…………んだよね」
「そうです。まず私はあの荒野で初めて厭梅という植物を見て、その組成、生態を紐解きました。特異な寄生性とその強さに目をつけ、意を決して私を以て宿り木とすることに決めたのです。神経症等の誘引物。自由に振るえればうれしい出会いとなりますが、実用的な量を持ち歩くのは少々手間になります。体にためれるのなら便利だと思いましてね。つまり今の私の体内には神経症を誘える流体が満ちているという事です。これまでなぜいつでもあなたたちを侵せたのに、荷の九人だけを侵してきたのかの理由はそれです。私は目に見えて、膂力や身体面で劣る分、既にある自己の身体操作に長けています。厭梅の瘴気の外への開閉もこれらの体温、心拍、血流、間接操作等、反射と綿密な神経系操作の賜物です。そう、なぜ私の意識を飛ばしてはならないのか。それは意識が手放されれば、この操作が行えなくなり、無差別に瘴気が及んでしまうからです。それだけなら最悪周囲の影響無視で寝るのも辞さない私ですが、実は宿り木と化させてしまった副作用がありまして。この宿り木は常に体を乗っ取ろうとしてくるんです。一度意識を落としても見たんですが、取り戻すのが本当にギリギリでした。たぶん次堕ちたら戻ってこれないくらいです」
「へ? じゃあ君────」
「はい。私はもう眠ることができません」
「なにやってるの!? 厭梅の瘴気をためれたとして、眠れなくなることと見合ってないでしょ!」
「ええ。なので少々困ってるんです。さすがに不眠を通すのにも限界がありまして、その限界を迎える前に、私が基盤を整えるのを手伝ってほしいんです。できれば不眠による負債を取り除き続けられる何らかの手立ての確立を。幸い、今のこの宿り木状態によって、かなりの痛みが体に常駐しているため、ちょっとやそっとじゃ意識が飛ぶことはないと思いますが。万が一もありますから。それに、私寝るのは結構好きなのでどうにか寝れるようにもなりたいんです」
「じゃあなんでそんな真似したの」
「……………………いろんなことが同時に進んでいる。その同時進行が手に余り始めてきているのです。私としても、今は全知全能を目指す身で、全てを抱えていたい気持ちはやまやまなんですがこのままでは道半ばで零し切ってしまいそうで。それは本意ではないのです」
「うまくいかないとどうなるの」
「私が詰みます」
場の流れが、ある一定の区切りをつけに移ろっていくのが私にはわかった。
その元凶は、この子、ではなく、今私の隣にいる彼。
彼が、しようとしていること。
彼の手には、由貢が取り出されていた。
その見た目は真っ黒な蛭のように蠢いている。
「あははは!! 詰んじゃうってほんと? じゃあさ、今から君のことをさ! 赦さないふりとかしてみてもいいかな!? 君も僕も、どうもらしくなくハイになっちゃってるみたいですよ!よ! …………そう。そうだよ。君さ、これだけのことをしてみちゃったんでしょうよ? こんな閉め方でいいのかね? らしくもないんじゃないかな。君は、ほらもっとこう、どこか純粋さが厳しくも窺えるような恐怖を強いてこそ上手にたためると僕はおもうんだけどなあ。どのみち僕たちは詰みかけてしまったという事実があるのですよね。荒野からの君の見立てではさ、ここで僕たちが君の従僕をゆるす事がすべての前提になってたんじゃないのかな。それを知ったらさ、それを思ったらさ、もう僕は、僕はね、今から拾えるかもしれない自分の命があるとしても、どうしても、君の全てを台無しにしたくなるんだよな!? えっへっへっへ。瘴気を呷らせて止めるでもしてみますか。僕は呷り切る前に相打ち覚悟でらしくもなく特攻するけど! ね!ねえ! 君は由貢を使った戦いについてこれないと僕は見てるんだけどな? 君、彼の由貢も見たんだったんですよね。これも同種のものですとも。ふふふふふふふふふふ。ここで君の全てが台無しになるより面白い事があれば僕の気は変わるかもしれませんよ。そうです。裸で土下座とかどうですか。それ以外じゃ僕は君をゆるせそうにはないよ! 君にはできないでしょうけどほほほほ─────やっちゃだめだよ? 君はそんなことしない」
「やめて!」私はそんな言葉を発しようとして、でもすぐにその子が言葉を返したがために、私の喉にはあらゆる言葉がつっかえた。
「何か勘違いしてるみたいですけど、私、別に土下座でもなんでも必要であればして見せます。私もハイになってしまっていました。反省しなくてはなりません。フフフフフフフフフフ」
そんなことを言いながらも、今尚それをして見せる気配はみじんもなかった。
「今あなたに対してそれをして見せないのは、別にそれをして見せる必要がないからです。────それにしても。フフフフ。ゆるさない、ですか。ゆるしを得るのにあなたにゆるされる必要がありますか? ゆるされずともゆるさせる術などいくらでもあるのですよ? 私はそこを経たいだけです。通してくれずとも結構ですよ。通させるだけです」
「なめやがってぇさ!!」
彼の手に、その黒い由貢が掲げられる。
「ゆるすつもりなどないのでしょうあなたからも、私は変わらずゆるしを経てから先へと進みます」
空間の状態が変相していき、不可思議な場の流れが生まれる。
「ゆるしてやるものか、ゆるすものかと構えている、構えをとっている相手程、何かをゆるさせるというのは容易なことです」
「だまれぇ!」
その中心にはその黒い由貢。
「それにほら。ゆるさないなんて言ってみながらも、言ったそばからそんな私とですらもう口をきき始めてしまっているではありませんか。由貢の使用に集中しなくてよろしいのですか?」
あの子はというと、なぜか瘴気を出す気配すらない。
すぐそばにいる私にすら一切その影響が及んでいないことからもそれは明らかだった。
本当に、彼は由貢を起動する気だ。
私は、どうすれば────。
この子に、どうなってほしいのだろう。
───あ。
目が合う。血の涙は乾いていた。
「少し、いえ、かなり下がっておいてください」
「わ、わかった」
まだ尚右手で遊ばせていた自身の左目を、空になった自身の眼窩に納め直すのが見えた。
そして────。
「…………ここまでですか」
そんな呟きが私には聞こえた気がした。
「くずおれろ! クソガキぃ!」
私を以てしてもその初動をとらえるのでやっとだった。
彼はその由貢を起動したかと思うと、例にもれず、その体には光を堪え始めた。
地を蹴ったのだろう。そこだけまず像がぶれた。
間違いなく、これは避けきれな────。
え?
その刹那。
その不可避の衝迫の向かう先にはその小さき子供がいる。
その子の体は間違いなく膨張していた。
それは。そう見まがうことなき────異形化。
異形化? どうやって? 彼は、組織のことなど何も知らないはず。
私ですら異形化してしまえるほど愚者様のことは知らないのに。
どうして。どうやって────。
「きゃ」
とてつもない衝撃波が私を襲い、私は二人を見失う。
次にその場に目を向けた時に在った光景に、私は思わず目を疑った。
何が起こったのだろう。
その場にいるその二人────ではなく三人。
そうそこにいたのは全部で三人。
この攻撃を仕掛けただろう金髪の彼は、なぜか地面に頽れていて────。
次にその攻撃を受けただろう、異形化疑惑のあるその子は、元の姿に戻っていて────。
そして最後に、顔の割れた茶髪の男がそこには立っていた。
他にも奇妙な点があった。
なぜか今になって、あの感覚の再現がよぎる。
これは瘴気だ。あの子の体内に立ち込めた、厭梅の瘴気。
私はそれに気づいてすぐ、それを体に巡らせないよう気を付けた。
それはただでさえ少ない量だったうえに、あの中心地からは離れさせられていたから大きな影響としては及ばなかった。
どうして、今になって瘴気を出したんだろう。
地に頽れた彼を除く二人と目が合った。
まずその二人で目を配り合ったのち、頽れた彼を放置してこちらに二人で近づいてきた。
私から、声をかける。
「あ、えーと。二人ともさ、無事だったんだね……へへ」
二人は確かにこちらを一瞥した後、その返事をすることなく二人で話し始めた。
「ぎりぎりだったな」
「もうだめかと思いました。間に合ってくれてホッとしています」
「無理やり目覚めさせといてよくいうな」
「どこまで理解してくれてますか。あそこで助けてくれたってことは、私に使われてくれるってことでいいんでしょうか」
「…………ああ、ま。それしかねェだろ」
私も疑問を投げかける。
「あの、まずどうやって君は目覚めたの? 由貢を使った私だからこそわかることだけど、一命をとりとめただけでも奇跡みたいなものだったのに、なんでもう起きれたの?」
彼が答える。
「ああ、悪夢を見させられてな。無理やりおこされたんだ」
「悪夢?」
それには彼ではなくその子が答えた。
「瘴気ですよ。あなたが彼を寝かせて、その足で私の方へとフラフラと歩いてこれた後の、あれから折れた足で私の下から金髪の彼が戻った方へと駆けて行ってしまった時です。その時に、瘴気を彼に宛がっておいたんです」
「え? でもなんともなさそうだよ?」
「調整しましたから。まあでも賭けでした。そのまま目覚める機会も奪って廃人にしてしまう可能性もないわけではなかったです。最後にあの種の人間は盤上をひっくり返したがるって相場が決まっていますから。その時は彼に止めてもらおうと思っていました」
あの種の人間。とは今も頽れてる彼の事だろう。
「無茶苦茶だよ」
私のつぶやきに、彼は思いがけない言葉を返した。
「信じていましたから。天は彼を生かすだろう。そういう熱を彼が持ってると信じていました。結局のところいつの時代も往々にして、作為では熱にはかなわないものです」
ああ。
やっぱり、この子は────うん、きっと。
「は。俺は大した人間じゃねえよ。こんな仕事を引き受けてんだからな。このやり取りを荷の子供が見てたらぜってえ呪われんぞ」
「関係ありませんよ。悪者にも嫌われ者にも奇跡はちゃんと降りかかってしまうものです」
「……そうかよ。とにかく、お前が俺を使うってんならこれからの事ちゃんと説明しろよな。それと、あの荷は絶対だぞ」
「わかっていますよ。ひとまずあのままとなってしまうのは心苦しいですが、必ず戻します。戻さないと私も困りますからね」
「はあ。じゃあ、まあ俺はあいつを回収して、馬んとこに戻ってるぜ」
「わかりました。でもまだ中には入らないでくださいね。薄れているでしょうが瘴気はまだ立ち込めているでしょうから」
目の前の子の言葉に背中から手を振ってこたえると彼は一人先に戻っていく。
この場には、私とこの子が残された。
どうしても、同じようなことを聞いてしまう自分が抑えられない。
「ねえ。やっぱり君は───。ううん。あのさ、どうしてこんな方法を取ったの? かなり───残酷なやり方を選んでるじゃない。私が言えたことじゃないけどさ。君は一体何を目指しているの? さっきみたいにはぐらかさないで、教えてくれないかな」
私の気の抜けた言葉に彼は心底不思議そうな顔で答えた。
「──? ですから私は全知全能になるんですよ? そう言ってるではありませんか」
わかっている。なんとなく。私は今、また、同じミスを犯そうとしている。
でも、言葉は止まらない。
「で、でもさ。こんなことは、その────全知全能になるのに必ずしも必要なことなの? 君にならもっと」
いつのまにか自然と納まっていたその子の左目が私を見据えている。
「何が言いたいんですか。私はしたいようにしているだけです。私はその時の私が必要だと思ってきたことしか経ていません」
さっきから私は、本当に、どの口でものを言ってるんだろう。今尚目の前の子供に目立つ、酷い傷をつけてきたのは他でもない私なのに。
「で、でもさっき、あんなこと言ってたじゃない! やっぱり、誰かを傷つけたいわけじゃないんでしょう? それにほら、あの時、君に馬もなついていたし!」
どんどん、ダメな方へと流れていく。
止まらなきゃ。また、また───聞きたくないことを聞いてしまいそうで────。
「はあ。危ういですね。見たいものしか見ようとしない。私が言えたことでもないのかもしれませんがね。───あなた、動物に好かれてしまうでしょう?」
思いがけず、そんなことを聞かれる。
「え? う、うん」
「どうにも馬だの、動物だの、純粋さだのに私以上にとらわれているようですけれども、馬に好かれるからなんだというのです? 動物を懐かせられるから、その人は悪魔などではないと?」
「だ、だってそうじゃない? 動物に好かれる人とそうじゃない人がいる。それを何かのはかりに使っても駄目じゃないでしょ? 私も君も、悪魔なんかじゃないんだよ!」
────。
「知っていますか。悪魔とは元来より、純粋なるモノとして謳われている側面もあるんですよ。あなたの危うい純粋さはまるで子供が無自覚に場に線を引いていく様に似ています。馬。いえ、本能の澄んだ動物たちからの好意の具合というのが、あなたには本当に大きな位置に置かれているのですね。それこそ、私が立てた鍵と同じくらいの程度で」
「……鍵…………?」
「私からも、一つ聞いてもいいですか」
「……うん」
「馬が、この場所で止まった理由を覚えていますか」
「え、うん。今までは瘴気で、君が不調にしてたんでしょ。でもここで止まったのにそれは使ってないんだよね」
「はい。馬がここで止まった時、私は荷室にいましたから。そこからでは外で引いている馬だけに瘴気を中てるのは難しいでしょう。では───荷室から馬を障ることはできないと思いますか」
「うん。それは無理だよ。あのこ達はこれ以上進みたがらなくなったから止まったんだもん。これまでもあのこ達の危機感知能力には助けられてきてたからさっきの不調もそのせいだよ」
「もし仮に、あの荷室には悪魔が乗っていて、そのことに馬が気付いたとしたら、そこで馬は足を止めると思いますか」
「だから悪魔なんて────」
「本当に悪魔なんてものがいたのなら、馬はそいつをそもそも荷室に上げるようなことにはならない?」
「……うん」
「────私は確かに、あの時厭梅の瘴気は出していなかった。でも、馬の有する第六感に障らせる意味での瘴気なら、あの時私は充分に放っていたつもりですよ」
「…………」
「言ったでしょう。私には治癒の由貢を求める意味では拠点に行く意味はなくなっていたと。だから早くネタ晴らしをしたかったんだと」
「…………」
「これまで悉く、馬の不調には私が関わってきていたのに、本当に、あのタイミングでだけ、私が何も原因を擁していないなんてこと、あると思っていたのですか?」
「…………」
「そもそもね、あなたが指針とする動物自体が、悪魔である可能性だってあるんですからね」
「…………」
「ですからね、何が言いたいのかというと」
「第六感は悪魔にも働くんですよ」
「私がそうとは言いません。私はただの人間ですよ」
「私は確かに今回の一役。通して悪意を抱いてすらいませんでしたから。だから馬の能力も働かなかった。それは間違いじゃない。この場合、私の相手は法則でしたね。相手はあなたたちじゃない。だからあなたたち相手には奇跡も何も手繰ろうとする必要もなく、それこそ────子供が場に線を引くときくらいの純粋な気持ちで臨んでいました」
「悪意もなく、危機感知にも映らず、そんな状態のままでも、あの荷の状態は作れてしまうのですよ」
「…………」
なぜだろう。私はいま。あの時の、そう。この子が異形化したときの状況を思い出していた。
私が見たあれは本当に錯覚だったのだろうか。
思い返してみても、あれは確かに異形化しているように見えた。
どうしてあの後、遅れて瘴気が生まれていたのか、と。
「…………」
────あ。
「わかりましたか?」
────。
ああ。やっと───。
そういう───ことなのね。
「ふふふふ」
それじゃあ確かに、それが人のなせる業であっていいはずがないよ。
それを為せた君が、ただの人であっていいはずがないよ。
異形化は愚者様に近づいたから起こる。
その存在に十分に近づけてしまうから起こる。
あの時、間違いなくこの子は異形化していた。
左目を見ても、それは間違いなかった。
じゃあこの子はどうやって異形化を着て見せたのだろう。
────この子は、この子は本当にあの一瞬で、確かに愚者様に追いついたんだ。
異形化してしまった時のあの時の彼が、私がこぼした言葉からの連想を経て、異形化に必要なくらいのその存在への理解を伴って、距離を近づけて、異形化したみたいに。
この子は。何も知らない状態から、一瞬で。
私から、私を、経て、使って、私ですらまだ届いていない場所まで行ってしまえたんだ。
もう私よりも、この子の方が愚者様に詳しいんだ。
この子の方が近づいているんだ。
そして、それから、君は、そう、君は。
私が無意味と分かっていながら異形化したときの彼に投げかけていたあの言葉を。
そのまま実行したんだ。
一度、追いついた後で。
愚者様に、近づいた後で。
その後で、君は。
そのために経たことを忘れてしまえたんだ。意識して、無意識に戻せてしまえたんだ。追うのをやめれたんだ。
君はあの時確かに、意識を手放してたんだね。
もう次は戻ってこれないだろうと言っていたのに。
────それも、嘘だったの?
だから、体の操作を手放した時間分、君から瘴気が漏れたんだ。
君は最初からそのつもりで、私をそこから遠ざけたんだね。
そのおかげで、私は文字通りの無傷だった。一度経験して見せた彼と違って、私はまだ体への準備が為せていないようなもの。あの時放られた瘴気の量がどれほどだったのかは分からないけれど、無事では済まなかったんじゃないかな。
やさしさ? 温かさ? 誠実さ?
それを、どう形容するべきか少し迷って。
それから私は────ある前提を、その約束をなぜか今覚えていた。
この子が手繰った今回の一幕、その全ての前提部分。そこへの私たちとの約束。
この子が、あの時私の状態を案じたかもしれないという事実。
私にはむしろそれは、それらは、この子からの私への不可思議な行いは、それらに一風違った結論を出させてしまった。
────君は本当にあの荷を戻してくれるんだよね?
混沌も純粋も君ほど自在に手繰れる────そんな命がこの地に存在し得ていいはずがない。
君があの時、どこか狂乱した彼に、何を言っていたのか、言ってしまえたのかがようやくわかったよ。
「
ああ。この子は。この目の前の相手は。
「私がこの地に引いた線は悪魔のものよりきれいでしたか」
この子は────悪魔そのものだ。
そして私もまた────。
。。。。
私の後ろを、黒髪の女────チェチタが覚束ない足取りでついて来ている。
その足取りの覚束なさ。それは足の負傷だけによるものではないだろう。
馬の近くには茶髪の男と一緒に、金髪の男も地に捨てられながら私たち二人を待っている。
茶髪の男は私とその後ろのチェチタを一瞥したのち、再度私に視線を戻した。
「なにがあった」、目はそう言っている。
私がそれに答えるつもりがないのだろうことを察知したのか、自ら別の話題を場に落とした。
「なあ。今日はどうすんだ。結局後ろ戻んのかよ?」
「今日はここで休みましょう」
「あのなあ。ここは長居すべき場所じゃねえだろ。戻るか進むかだろーが────ほんとにここでいいのかよ」
「私は今日、ここにいたい気分です。私の勘は外れませんから。安心して休んでください」
茶髪の男はいくばくかの逡巡の後、「わかったよ。ま、この空の下なら悪くねえ」とだけ返した。
私が近くにいる二頭の馬に目をやると、二頭は変わらず私に向けて目を細めては、その鼻まで突きだしてくる。
私はそれをなでることなく荷室の方へと戻っていく。
その間やはり例にもれず、茶髪の男の声がかかる。
「あ、おい。結局荷室に戻んのかよ。てかまだ瘴気抜けてねえぞ」
私はその忠告も無視して中に入り、定位置と化していた荷室右側の壁に背を持たれかけて座った
私は目を閉じる。
暗闇の中に在って、私の脳裏には今の外の様子、今の空の様子がまざまざと浮かんでいた。
あれから空は筋の明滅を繰り返し、先ほどついに空はある状態で落ち着いた。
それは見るものすべての心を奪えるだろう神秘の音色を視覚から流し込んでくるような奇跡のみわざ。
あの光景はこれからも私の心に残り続けるだろう。
「…………」
それにしても、やはりあの異形化はかなり無茶をした。もう片眼は完全に失明し、手の指は五本ではなくなった。
私は目を開き、今この場にある全ての荷を確認する。
やはりこの場の八人の荷は今尚廃人の様に頽れていて、声にもならない声を上げ続けている。
「…………」
私は、声がかかるのを今かと待っていた。
「…………」
私はそれまで、先ほどの光景を頭の中で再生することにした。
「…………」
そして。
「運がいいんだね。羨ましい限りだよ。────それ頼りだと困るんだけど」
この場には八人の喘ぎ声が飛び交っている。
「あなたにも何か覚え違いがあるみたいですね」
その中に在って、浮いた声が二つ。
「何?」
私と────。
「君たち相手に、奇跡は必要ありません」
あの長髪の子。
「っそ」
長髪の子に視線を戻す。
もう目が合うことはなかった。
「…………」
あなたたちにはわからない。何も覚えていないあなたたちには。
厭梅の瘴気が充満した荷室に私は座り込んでいる。
荷の八人は今尚声にもならない声を上げ、必死に生を伸ばしている。
あの三人は、まだ外にいるのだろう。彼らも、見納めておきたいはずだ。
空が動いていたあの時。確かに在れは奇跡だった。私は何もしていない。
あの時起きていた筋の明滅は、先ほど壮大な遍歴を以て落ち着いた。
その様は極光と呼ばれている。
別名、オーロラ。
見まがうことなき世の神秘。
「ふふふふ。ようやく帰ってきましたよ。お出迎えをありがとう。世界」