S.T.A.L.K.E.R. すばらしき開かれた世界で ~ZONEが日本にやってきた~ 作:廃墟ゲー大好き
グラリ、と体育館の重いスチール製のドアが大きく揺れた。
「……なんだ?」
勝馬が不機嫌そうに振り返った瞬間、金属を激しく叩きつけるような凄まじい衝撃音が響き、ドアの隙間からどっと湿った生臭い風が吹き込んだ。
「ひっ……!」
「な、何かいるぞ!」
避難民たちが悲鳴を上げて後退すると、智力が不快そうに顔を歪めた。
「ドアの鍵は施錠されているはずだ、慌てないで——」
と言いかけたその時、チェーンが千切れて落ちる音とともに、体育館のドアが内側へ向かって大きく弾け飛んだ。
破片を散らして飛び込んできたのは、ピンク色の猫くらいの大きさの怪物。
パチンコ屋の軒下で暴れていたあの「巨大ネズミ」だった。
ネズミはカミソリのように尖った無数の前歯から、粘着質な唾液を垂らしている。
「ハッ、ビビらせやがって! 気味悪ぃけど、所詮はドブネズミだ!」
勝馬が鼻で笑い、ファイティングポーズをとって間合いを詰めた。
日本王者たる彼の踏み込みは鋭く、素手とはいえ打撃の威力は一撃必殺の域にある。しかし——ここには防衛線も、グローブも、身を守る防具すらなかった。
「死ねやッ!」
勝馬の右ストレートが突き出される。
だが、巨ネズミの動きは人間の反射神経の限界を超えていた。
猫以上の瞬発力で拳を容易く回避した怪物は、勝馬のステップインの隙を見逃さず、その極太の足に飛びついた。
「が、ああっ!?」
鋭い爪がジーンズを裂き、肉を削ぎ落とす。
プロのボクサーのステップも、獣が相手では何の役にも立たない。コタロウのような柴犬が持つ野生のしなやかさと反射速度に比べれば人間の動きは遅い。
犬と人間の反射速度には、生物学的に明確な差がある。
視覚刺激に対する人間の反応速度が0.2秒から0.3秒であるのに対し、犬はわずか0.05秒から0.1秒。実に半分以下のタイムラグしか存在しない。
理由は単純だ。犬の身体が人間よりも小さいためである。
体が小さければ小さいほど、目から入った情報が脳を経由し、末端の筋肉へ届くまでの物理的な伝達距離(リアクションタイム)は短くなる。
加えて、犬の筋肉は人間と比べて「速筋繊維」の割合が圧倒的に高い。
長距離を走り続けるマラソンには向かないが、一瞬の爆発的なダッシュや回避行動において、人間以上の瞬発力を発揮するのだ。
「離れ——っ、この、離れろッ!」
足にしがみついたネズミを叩き落とそうと勝馬が振り下ろした拳に、巨ネズミの顎が喰らいつく。激しい破骨音とともに勝馬の悲鳴が体育館に響き渡った。王者の誇りは瞬時に打ち砕かれ、鮮血が床を赤く染めていく。
「狂暴な個体だ、離れろ勝馬! 論理的撤退を——」
智力が青ざめた顔で指示を出そうとしたが、時すでに遅かった。
崩れ落ちた勝馬の背後、破られたドアの向こうから、数十対の赤い眼光が暗闇の中に浮かび上がる。一匹ですら無防備な人間を食い破る怪物が、群れで雪崩れ込んできたのだ。
「いやあああッ!」
「助けて! 誰か助けてくれ!」
秩序は一瞬で崩壊した。
勝馬は血の海で叫び続け、智力の「落ち着け」という声は踏み荒らす群衆の足音にかき消される。ルールも、偏差値も、ボクシングのタイトルも、異形の食欲の前では等しく無力だった。体育館は一瞬にして、阿鼻叫喚の屠殺場へと変貌を遂げた。
★
「……なんだ?」
校門の手前で足を止めた佐藤の耳に、雨上がりの湿った空気を伝って、体育館の方角から凄まじい絶叫と悲鳴が飛び込んできた。
直後、足元にいたコタロウが低く唸り声を上げ、佐藤のズボンの
「あぁ、行ったりなんかしないよ」
(……助けに入る? ——論外だ。行かなくて、正解だったな)
武器らしい武器もなければ防具もない。
相手は数十匹の未知の怪物。
入れば自分とコタロウが肉の塊に変わるだけで、何一つ状況は変わらない。
誰かを救うための正義感も、ヒーローごっこをする余裕も、この狂った世界には存在しない。生き残るための唯一の解は、「関わらないこと」だけだ。
「帰ろうか、コタロウ」
「わう!」
佐藤は冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、静かに校門の前を離れた。
人恋しさに流されてあの中に入っていれば、彼も「餌」になっていただろう。
鍵をかければ安全だと思い込み、タイトルや偏差値で人間関係をこねくり回していた勝馬と智力は、最初の試練で全滅した。
ここには警察も、救助隊も、ヒーローも来ない。
佐藤は一度だけ暗闇の学校を振り返り、二度と視線を戻さなかった。