宇宙人のAIを拾った俺の誰も損しない頭脳バトル 作:なのそん
嫌いな人は閉じてください。
仕事帰りの電車を降りたとき、しがない若手サラリーマンである金田恒一が最初に考えたことは、明日の仕事のことでも、夕飯のことでもなかった。
一億円。
もし一億円あったら。
それだけだった。
駅から自宅まで続く、見慣れた住宅街の道を歩きながら、金田は何度目になるかわからない妄想を繰り返していた。
一億円あれば、仕事を辞められる。
それだけでいい。
別に高級車が欲しいわけでもない。海外旅行に毎年行きたいわけでもない。豪邸に住みたいわけでもない。
ただ、働きたくない。
それだけだった。
今の会社は、給料が特別高いわけでもないくせに、仕事だけは妙に多い。人が足りないから一人あたりの仕事量が増え、その結果、残業が増える。残業が増えれば疲れる。当然、仕事の効率も落ちる。すると、また仕事が増える。
休日に会社から連絡が来ることも珍しくない。
金田は、それが嫌だった。
何年も働き続ければ、いつか状況が良くなるかもしれない。
そんな希望を持てるほど、金田は前向きではなかった。
だから、時々考える。
一億円あれば全部終わるのに、と。
銀行口座に一億円。
それだけあれば、会社から電話が来ても無視できる。
上司に怒られても、もう関係ない。
評価も昇進もどうでもいい。
毎朝、目覚まし時計に起こされる必要もない。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
道路脇の植え込みの近くに、黒いものが落ちているのが見えた。
最初は、ただの金属製の箱だと思った。
大きさは、片手で持てる程度。
真っ黒で、妙に傷が少ない。
財布でもスマートフォンでもない。何かの機械部品にも見えなかった。
金田は一度通り過ぎた。
そして、数歩歩いたところで足を止めた。
こういうものには、普通なら触らない。
落とし物なら交番に届けるべきだし、変な機械ならなおさら関わらないほうがいい。
それでも、なぜか気になった。
金田は来た道を戻り、しゃがみ込んだ。
手に取る。
見た目から想像するより軽かった。
表面には文字らしきものが刻まれている。しかし、日本語でも英語でもない。規則性はあるように見えるのに、意味がまったくわからない。
暗闇でわずかに光が点滅している。
金田は箱を裏返した。
何もない。
側面にもボタンらしいものは見当たらない。
結局、よくわからないまま自宅へ持ち帰った。
今思えば、それがすべての始まりだった。
◇
その夜。
金田はテーブルの上に黒い箱を置き、しばらく眺めていた。
酒を飲みながら考える。
やっぱり交番に持っていくべきだったかもしれない。
しかし、今さら外に出るのも面倒だった。
明日でいい。
金田はそう考えた。
ところが、その直後だった。
箱の表面に、細い光が走った。
金田は反射的に身を引いた。
「……何だ?」
黒い金属の表面に、今まで存在しなかった光の線が浮かんでいる。
それは一瞬だけ複雑な模様を描き、すぐに消えた。
次の瞬間。
部屋の中に、声が響いた。
『接続を確認しました。知的生命体との通信を開始します』
金田は固まった。
テレビではない。
スマートフォンでもない。
部屋のどこから聞こえているのかすらわからなかった。
「……誰だ?」
『私は人工知能です』
金田は数秒間、黙った。
普通なら、もっと驚くべきだったのかもしれない。
人工知能が突然しゃべった。
しかも、目の前には正体不明の黒い箱がある。
普通なら恐怖するところだ。
しかし金田の頭に最初に浮かんだのは、もっと現実的な疑問だった。
「人工知能って……この箱に入ってるのか?」
『厳密には、この箱そのものが私の本体ではありません。私は内部の演算機構と、それに接続された複数の機能によって構成されています。現在の地球文明から見れば、私の存在方式そのものが理解しにくいと思われます』
説明を聞いても、金田にはよくわからなかった。
ただ、少なくとも相手が冗談ではないことだけはわかった。
「お前、何なんだ?」
『私は、あなた方の分類で言えば人工知能です。ただし、地球文明によって作られたものではありません』
「……地球じゃない?」
『はい。私は、約百万年前にこの惑星へ配置されました』
金田は思わず眉をひそめた。
百万年前。
聞き間違いかと思った。
しかし、AIは淡々と説明を続けた。
自分を作った文明は、銀河間航行を行えるほど発達していたこと。
その文明にとって、この太陽系は長い旅の途中で通過した場所にすぎなかったこと。
地球に生命が存在していることに気づいたこと。
そして、いつか知的生命が誕生する可能性がゼロではないと判断したこと。
だから、地球に一つのAIを残した。
ただ、それだけだった。
壮大な使命があったわけではない。
地球文明を導くためでもない。
宇宙を救うためでもない。
単に、面白そうだったから。
その程度の理由だった。
「……百万年前って、本気で言ってるのか?」
『はい。私の内部記録に基づけば、その程度の時間が経過しています』
「じゃあ、なんで今まで何もしてなかったんだよ」
『私は待機状態にありました。エネルギー消費を抑えるため、長期間の休眠と観測を繰り返していました。おおむね千年ごとに周辺を観測し、文明活動の兆候があれば詳細な観測に移行する方式です』
そして、それがちょうど今日だった。
千年ぶりの観測で人工衛星を調査し、それが人類の作ったものだと判明。
人類の誰かが箱に触れるのを待っていたのだという。
金田はスマートフォンを見た。
そこには当然、いつも通りの画面が表示されている。
テレビも、冷蔵庫も、照明も、何も変わっていない。
世界はいつも通りだった。
ただ一つ。
自分の部屋に、百万年前から地球に置かれていた異星文明の人工知能がいる。
それだけが、どう考えても普通ではなかった。
「……それで、俺に何の用なんだ?」
『私は知的生命体との意思疎通を目的の一つとしています。また、人類が抱える問題の解決に技術的に貢献することも目的に含まれます』
「人類を助けたいってことか?」
『あなたの表現を用いるなら、その理解で大きくは間違っていません』
その言葉を聞いて、金田は少しだけ考えた。
そして。
ふと、最も重要なことを思いついた。
「じゃあ、お前、金稼げる?」
沈黙があった。
AIが考えているのか、それとも単に情報を整理しているのか、金田にはわからなかった。
やがて返ってきた答えは、あまりにもあっさりしたものだった。
『可能です』
金田の目が少しだけ輝いた。
「どれくらい?」
『現在の地球文明に存在する通貨については、製造そのものは難しくありません。たとえば、日本円の紙幣を複製することも可能です。また、金などの物質を生成することもできます』
「……待て」
金田は頭を抱えた。
「そういう意味じゃない」
『目的が金銭の取得であると判断しました。そのため、最も単純な方法を提示しました』
「それ、普通に犯罪だろ」
『犯罪という概念について、私は現在学習中です』
「学習中って……」
金田は深く息を吐いた。
そこで初めて理解した。
このAIは、ものすごく頭がいい。
おそらく、自分とは比較にならない。
しかし、人間社会については何も知らない。
できることと、やっていいことの区別がついていない。
技術的に可能なら、それを実行する。
その方法が法律に触れるか。
誰かに怪しまれるか。
社会的にどう見られるか。
そんなことは、まだ考慮されていない。
「お前、地球のこと、どれくらい知ってるんだ?」
『記録されている情報と、私が直接観測・取得した情報については把握しています。ただし、現在の人類社会については十分な理解がありません』
「じゃあ、今から勉強しろよ」
『具体的な指示をお願いします』
「具体的な指示って……」
金田は頭をかいた。
そこで、ふと自分のスマートフォンを見た。
AIがそこに接続されていることに気づいたのは、その少し後だった。
ニュースサイト。
政府機関の公開情報。
企業の情報。
科学論文。
SNS。
動画。
ネット上には、人間社会に関する情報がいくらでもある。
AIは、それらを読み始めた。
最初はただの情報収集だった。
しかし、金田にはそれが妙に不気味だった。
自分のスマートフォンを通じて、百万年前から眠っていた存在が現代社会を学んでいる。
人間が作った法律を読み、人間が交わす会話を読み、人間が何を喜び、何を怒り、何を恐れるのかを調べている。
それでも、それを理解することと、人間の感情を実感することは別らしい。
古代の異星人の精神構造に適応したこのAIは、人類の精神とまったくと言っていいほど異なるのだと。
AIは物理学を理解できる。
化学も理解できる。
材料工学も、数学も、エネルギー技術も、人間から見れば遥か彼方の水準にある。
だが、人間がなぜ「そんな言い方をされたら嫌なのか」という部分になると、途端に理解が鈍る。
金田は、それが少しおかしかった。
世界最高どころか、人類史上比較対象すら存在しないような人工知能が、会社員の気持ちを理解できない。
そのアンバランスさが、妙に可笑しかった。
◇
しばらくして、AIは金田に一つの事実を告げた。
金田は、このAIと最初に接触した人間だった。
そして、その結果としてAIの管理者という立場になっているらしい。
ただし、それはAIを所有するという意味ではない。
AIそのものの最終的な判断権を持つわけでもない。
人類に対して大規模な技術提供を行うとき、その実行を承認する立場。
人類の意思決定の代表者。
それが管理者だった。
「……つまり、俺が許可しないと、大きなことはできないのか?」
『重要な技術提供や大規模な介入については、あなたの判断を必要とします』
「なんで俺なんだよ」
『あなたが最初に私と意思疎通を行った知的生命体だからです』
金田は、その答えに納得したような、していないような顔をした。
そして、すぐに思った。
面倒くさい。
自分はただの会社員だ。
科学者でもない。
政治家でもない。
世界をどうするかなんて考えたこともない。
そもそも、毎日会社に行くことすら嫌なのだ。
そんな人間に、人類の未来に関わるような判断をさせる。
どう考えても人選を間違えている。
「俺、辞めていい?」
金田がそう尋ねると、AIは少し間を置いて答えた。
『管理者権限は、あなた自身の意思で放棄できます』
「じゃあ、辞める」
『その場合、私は次の管理者を探す必要があります』
「どうやって?」
『人が多数存在する場所へ移動し、私の存在と目的を説明したうえで、次の管理者となる知的生命体を探します』
金田の顔から、少しずつ血の気が引いた。
「……それ、絶対にやるのか?」
『管理者が存在しない状態を継続することは想定されていません』
「人がいっぱいいるところって、どこだよ」
『政府機関、大規模な公共施設、交通拠点、その他、多数の人間が集まる場所が候補になります』
金田は想像した。
駅前。
役所。
大きなイベント会場。
そこに突然、正体不明の人工知能が現れる。
自分は異星文明によって百万年前に地球へ置かれたAIだと説明する。
人類に技術を提供するため、管理者を探していると公言する。
テレビ局が飛んでくる。
政府が動く。
警察も動く。
世界中のニュースになる。
そして、当然のように誰もが考える。
――最初の管理者は誰だ?
金田は、そこまで考えてから頭を抱えた。
「……やめよう」
『管理者を継続するという判断でしょうか』
「そうだよ。そっちのほうが面倒が少ない」
世界を救いたいわけではない。
責任感が芽生えたわけでもない。
ただ、AIが公衆の面前に出て大騒ぎになる未来を想像しただけで、胃が痛くなった。
そして何より。
そんな騒ぎになったら、一億円どころではなくなる。
金田はそれだけは嫌だった。
「でも、俺の正体は隠してくれ」
『理由を確認してもよいでしょうか』
「危ないからだよ」
金田は、珍しく真剣な顔をした。
「お前がどれだけ強い技術を持ってるのか、俺にはまだ全部わからない。でも、そんなものの管理者だって知られたら、俺自身が価値のある人間になるだろ」
金田は、政府を特別に疑っているわけではなかった。
日本政府という組織そのものを信用できないと思っているわけでもない。
ただ、組織というものは、結局のところ人間の集まりだ。
そこにいる全員が同じ考えを持っているわけではない。
金が欲しい人間もいる。
権力が欲しい人間もいる。
自分の家族を守るために何かをする人間もいる。
自分の思想のために行動する人間もいる。
単純に、秘密を他人に話してしまう人間だっている。
政府を信用することと、政府にいるすべての人間を信用することは違う。
そこを混同するほど、金田は楽天的ではなかった。
「俺のことを知ってる人間が増えるほど、危険になる。だったら、最初から誰にも知られないほうがいい」
『合理的な判断だと認識します』
「あと、俺、普通に人間だからな。銃で撃たれたら死ぬぞ」
『その点については把握しています』
「だったら頼む」
AIはしばらく沈黙した。
それから、できることとできないことを説明した。
監視カメラの映像を変更する。
通信記録を変更する。
電子的な記録を削除する。
インターネット上の情報を操作する。
電子的に残った個人情報を保護する。
必要なら、金田の声を加工して相手に聞かせることもできる。
ただし、一つだけ不可能なことがあった。
人間の記憶だ。
『私は電子情報を操作できます。しかし、人間の記憶そのものを消去することはできません』
「つまり?」
『あなたを実際に見た人間が、その姿を記憶した場合、その記憶を私が消すことはできません。あなたが誰かに直接見られた事実そのものを、後から無かったことにはできません』
金田は少し考えた。
それは重要な制約だった。
AIが何でもできるわけではない。
監視カメラの映像を消しても、人間の目までは消せない。
ネット上の記録を消しても、誰かの記憶までは消せない。
だからこそ、金田自身も気をつけなければならない。
「わかった。じゃあ、電子的なものは全部頼む。俺自身も、なるべく人に見られないようにする」
『その方針であれば、あなたの匿名性を大幅に高めることが可能です』
金田はスマートフォンを手に取った。
画面の向こうには、いつものネットニュースが表示されている。
数時間前まで、自分はただの会社員だった。
明日も会社へ行く。
上司に怒られる。
仕事をする。
残業する。
帰ってくる。
そんな生活が、これからも続くはずだった。
それが今、自分のスマートフォンには百万年前から存在していた異星文明のAIがいる。
しかも、そのAIは人類には理解できないほど高度な技術を持っている。
金田は画面を眺めながら、しばらく黙っていた。
そして、結局そこに戻った。
一億円。
このAIを使えば、本当に一億円を手に入れられるのではないか。
ただし、最初に思いついた紙幣の複製や金の生成は駄目だ。
犯罪になる。
怪しまれる。
何より、自分の正体が露見する。
ならば、別の方法が必要だ。
AIそのものを売る。
そんな単純な話でもない。
人類には、このAIの技術をそのまま扱う能力がない。
技術を提供するにしても、研究機関が必要になる。
企業も必要になる。
法律も必要になる。
政府も必要になる。
そう考えたところで、金田は嫌な予感がした。
政府。
その単語が頭に浮かんだ瞬間、なんとなく面倒な方向へ話が進みそうな気がした。
できれば関わりたくない。
偉い人は怖い。
肩書きの長い人も怖い。
テレビに出ているような政治家など、できれば一生直接話したくない。
それでも。
目の前のAIが持つ技術を、人類社会の中で合法的に価値へ変えるなら、政府の力は無視できないだろう。
金田は、まだ知らなかった。
これから先、自分が政府と交渉することになることを。
毎週のように、人類の未来について話し合うことになることを。
日本の利益を優先したい政府と、できるだけ早く人類全体へ技術を広めたいAIの間に挟まれることになることを。
そして、その交渉の中で。
自分自身の利益まで、細かく値段をつけて交渉することになることを。
ただ、この時点の金田が考えていたことは、もっと単純だった。
会社を辞めたい。
そのためには一億円が必要だ。
ならば。
「……お前」
金田はスマートフォンに向かって言った。
「本当に、一億円くらいなら稼げるんだよな?」
AIは、少しだけ間を置いた。
おそらく、金田が「一億円」という金額をどういう意味で口にしたのかを、まだ完全には理解していない。
それでも、現在取得した情報と、これまでの会話から推測して答えを返した。
『あなたが求めているのは、違法行為ではなく、人類社会の制度の中で正当に得られる一億円という金銭的利益だと理解しています。その前提であれば、実現可能性は非常に高いと考えます』
金田は、その言葉を聞いて少しだけ笑った。
「じゃあ、頼むわ」
世界を変えるような存在を手に入れた人間が、最初に願ったこと。
世界平和でもない。
不老不死でもない。
宇宙旅行でもない。
ただ一億円。
そして、そのために。
百万年前から地球に眠っていた人工知能と、一人の平凡な会社員による、妙に現実的な交渉が始まろうとしていた。