僕(ウマ娘♀)がヤンデレウマ娘に愛され過ぎて眠れない 作:あばなたらたやた
夢を見た。
僕は誰もよりもすごいウマ娘だった。あらゆるウマ娘の頂点で、あらゆる分野の実力がある最強不敗絶対無敵の存在だった。
トレセン学園の頂点に立った。しかし、僕は子供が自動車に轢かれそうな時に『助けようと動く』ことはできなかった。
自分が傷ついた姿を想像して、迷ってしまった。
結果的に言えば、僕は傍観者でいることが最善だった。大勢死んだが、犠牲者が減ったなら、それはいい事だと、みんな言った。
僕は自分に負けてしまった。物語は終わってしまったので、リベンジすることもできない。
そこでウマ娘としての僕、デウス・エクス・マキナは死んだのだった。だけど未練は残って、トレセン学園の教職員の一人として、過去に縋り続けている。
『ああ、全く。なんて無様』
朝である。
意識が覚醒の境界をゆっくりと越えた。厚手のカーテンのわずかな隙間から、冴え冴えとした秋の陽光が差し込み、部屋の床に細く鋭い光の軌跡を描いている。
枕元の時計に視線を遣る。数字の並びを確認し、今日が休日であることを認めた。
マンハッタンカフェ相談室における不確定要素に満ちた業務も、今日は一切存在しない。課された予定も、果たさねばならない義務も、返答を待つ連絡相手すらもいない。
即ち! 己の存在を何かに捧げる必要性が、極限までゼロに近い日なのだ!!
「……よし」
僕は静かに呟くと、吸い寄せられるように布団を頭からかぶった。
二度寝という名の、最も無駄で、最も贅沢な行為へともぐり込む。
休日とは本来こうして保たれるべきなのだ。
過剰な予定でスケジュール帳を埋め尽くす必要などない。世界に対して何らかの成果を提示する必要も、生産性という社会の尺度に背中を押される必要もない。
ただ流れる時間を、なんの意味もなく平坦に消費していくこと。それこそが、休日に与えられた唯一にして最大の免罪符なのだと、僕は半ば固く信じ込んでいた。だからこそ、今日は意図して、何もしないを完遂する。
己の中でそう決義した、まさにその数秒後だった。
ぶるっ。
硬質な電子音が、枕元のバイブレーションとともに短い振動を伝える。
「…………」
思考の隙間に、一筋の不吉な予感が走る。
僕は溜息を押し殺しながら、布団の端から手だけを滑り出させ、冷たくなったスマートフォンを掴み上げた。
画面を点灯させると、視界に飛び込んできたのは短文のメッセージ。
差出人の名はサイレンススズカ。
『マキナ先輩。今日、どこか行きますか?』
「…………」
僕は虚無の心地で、発光する液晶の文字を見つめた。
完璧な安息を守り抜こうとする僕の個人的な意志と、あまりにもあっけなく境界線を越えて侵入してきた絶対的な現実。戦いを開始する以前に、こちらの防衛線は跡形もなく瓦解していた。
抗う術を持たないまま、僕は指先を動かして返信を打つ。
『今日は家で休もうかなと思ってるよ』
送信ボタンを押すと同時に、待つ間もなく既読の二文字がついた。
そして、間髪を容れずに返ってきた言葉。
『そうですか。では、走りに行きましょう』
「……君の目には何が映っているのかな?」
静まり返った部屋の中に、僕の情けない声がぽつりと落ちた。
いや。
彼女は理解している。僕が家で休むと告げたテキストの意味を正確に咀嚼した上で、それでもなお「走りに行こう」と提案しているのだ。
そこに害意や邪心の類は一切存在しない。むしろ、純粋無垢な悪意のなさこそが、この状況において最も対応に苦慮する障壁だった。
サイレンススズカというウマ娘にとって『どこかへ行く』という言葉に含まれる文脈は、僕たちの日常的な感覚とは些か解釈が異なっている。
街へ出ての買い物。
スクリーンを見上げる映画鑑賞。
珈琲の香りに包まれる喫茶店。
あてもなく街並みを巡る散歩。
そうした選択肢が彼女の選択肢から排除されているわけではない。だが、彼女の世界観において、それらは事物の中心には位置しないのだ。
走る。
ただ、それだけ。
走りたいという原始的な衝動があるから、走る。己の足で風を切ることが生きることと同義だから、走る。
誰かとその時間と空間を共有したいと願ったとき、迷いなくその相手の名を呼ぶ。
そこには、利害関係も、他者からどう見られるかという過剰な自意識の計算も存在しない。だからこそ、そのシンプルさは快感だ。
人間という生き物は、往々にして己の中に芽生えた欲求に対して過剰な疑義を挟む。
本当にこれを実行してよいのだろうか?
相手に不快な思いをさせないだろうか?
自分の行動は迷惑ではないか?
より合理的で最適解と言える選択肢が他にあるのではないか。
そうして思考の迷宮を彷徨ううちに、最初に心を動かしたはずの純粋な『やりたい』という衝動の輪郭さえ失ってしまう。けれど、サイレンススズカという存在は、そうした逡巡の影を踏まない。
ただ自らの深層から湧き上がった感情の芽を、そのままの手で大切に掬い上げる。それが、サイレンススズカというウマ娘の、圧倒的なまでに純粋な生き方なのだ。
「……行こうか」
深く、重い溜息を一つ吐き出す。
僕は観念して、重い体を起こすと布団から這い出した。
守れるはずもない不毛な抵抗を試みるより、潔く敗北を受け入れる方がいいだろう。引き出しから使い古したスポーツウェアを取り出し、肌に纏う。
「しゃきーん」
紐を結び、玄関でシューズを履く。
一度だけ振り返り、静まり返ったベッドを見つめた。
さようなら、僕の穏やかで無価値なはずだった休日。心の中で静かに別れの言葉を告げ、僕は扉を開けて外の世界へと踏み出した。
トレセン学園のグラウンドには、雲ひとつない秋の天空が広がっていた。
どこまでも澄み渡った空気が胸の奥まで満ちていた。冷涼な風がターフの芝をなだらかに撫で、土と草が混ざり合った独特の香りを運んでくる。
広大なターフの中央に、彼女は佇んでいた。
「マキナ先輩」
こちらの姿を視界に収めると、スズカは静かに、だがどこか温かみを含んだ笑みを浮かべた。
「来てくれたんですね」
「……断る選択肢が存在しない誘い方をするからね」
「そうですか?」
「そうだよ」
「ありがとうございます」
どうやら僕が込めた精一杯の皮肉は、秋風の中に心地よく受け流されてしまったらしい。
まあ、いい。彼女の前で言葉の裏を読ませようと試みること自体が間違いなのだ。
「じゃあ、走ろうか」
「はい」
僕たちは、静かに一歩を踏み出した。
最初は、肩を並べるようにして走り始める。トラックを1周、2周と重ねていく。冷たい秋風が頬をかすめ、二人の足音が規律正しく一定のリズムでターフに響く。
靴底が芝を踏みしめる感触。
互いの肺を満たし、吐き出される呼吸の音。胸の奥で刻まれる、確かな心臓の鼓動。
余計な会話はない。ただ、空間と運動だけが存在する。けれど不思議と、その沈黙だけで空間は満ち足りていた。
サイレンススズカは、いつだって彼女固有の世界を走っている。
彼女にとって走るという行為は、成果を出すための努力や課せられた訓練である前に、呼吸をし、飯を喰らうことと同義の生活そのものなのだろう。だからこそ、休日だから走るのをやめるという発想の軸そのものが最初から欠落しているのだ。
僕が休日に布団へ潜り込み、無を貪るのと全く同じ位相の自然さで、彼女は休日にターフに立ち、風を切る。
そこには優劣も、正解も不正解もない。ただ、提示された生き方の位相が異なるという事実があるだけだ。そして、その差異を無理に擦り合わせ、どちらか一方の形へと統一する必要もまた、どこにも存在しない。
「……っ……」
数周を過ぎたあたりで、僕の呼吸は早くも乱れ始めていた。足裏から伝わる衝撃が徐々に重く膝へ響き、酸素の供給が追いつかなくなる。
当然の帰結だ。隣にいるのは、異次元の領域で風を置き去りにするトップアスリート。過去の遺物である僕と彼女とでは、身体構造からしてスペックの次元が違う。
徐々に、だが確実に僕の歩幅が狭まり、速度が減衰していく。このまま無様に突き放され、背中を見送ることになるのだろう。
そう覚悟した。だが視界の前方へと去っていくはずだったスズカの背中が、一向に遠ざからない。
「……?」
荒い息の合間に前を見やると、彼女の速度が明確に落ちていた。まるで、僕の発する荒い呼吸と重い足音の速度へ、完璧に同調させるかのように。
「スズカ。もしかして僕のペースに、合わせてるのかい?」
「はい」
「それは君の走りではないよね。僕を誘わない方が良かったんじゃ」
「いいえ。これも、私の走りです。私が、自分で選んでマキナ先輩の隣を走っていますから」
「いや、言いたいことはわかるんだけど……」
「誰かに、合わせさせられているわけではありません」
スズカは前を向いたまま言った。
「私が、ここにいたいからいるんです。だから……マキナ先輩が『僕なんか』って言うのは、少し嫌です」
僕は乱れる呼吸を必死に整えながら、並走する彼女の横顔を見つめた。
不可解だった。彼女は本来、他者への忖度や歩調の合わせなど一切を必要としない孤独なトップランナーだ。
誰よりも速く、誰の追従も許さない絶対的な先頭を駆け抜ける。後続の気配すら置き去りにするその孤高の背中にこそ、人々は自由という概念の具現化を見ていたはずだ。
なら、なぜ今、彼女はわざわざ自らの翼を折り、スピードを殺してまで、僕の隣にとどまっているのだろうか?
「スズカってさ」
「はい」
「自分のペースで、誰にも邪魔されずに走るのが、一番好きなんじゃないの?」
「好きですよ。とても」
「だったら……僕の遅いペースに合わせたら、それは君にとって『自分のペース』じゃなくなってしまうんじゃないの?」
僕の問いかけに、スズカは少しだけ視線を前に 戻し、考えるように数歩を刻んだ。
静けさを纏った声が返ってくる。
「……そうかもしれません」
「え?」
「でも、今日はマキナ先輩と並んで走りたいんです」
あまりにも シンプルで、それゆえに反論の隙を与えない答えだった。
僕は言葉を失った。
彼女の中では、自分のペースを守ることと誰かの歩調に合わせることは、何一つ矛盾していなかったのだ。誰の隣で、どう走るかという選択自体を、彼女自身が自らの意志で選んでいる。
自らの孤独や自由を守るということは、決して他者を排斥し、孤独の殻に閉じこもることと同義ではない。
誰にも縛られない絶対的な自由を持ちながら、同時に、自らの選択によって誰かの隣に立つこと。その二つは完全に両立する。
その二つの要素を対立するものと思い込み、どちらかを犠牲にしなければならないと勝手に決めつけていたのは、他ならぬ僕の狭隘な固定観念だったのだ。
「……スズカは、本当に変わった子だな」
「そうですか?」
「ああ。かなりね」
僕が自嘲気味に息を吐きながら笑うと、彼女の唇の端も、ほんのわずかに押し上げられた。それから僕たちは、しばらく言葉を交わさずに走り続けた。
風が二人の間を吹き抜ける。
彼女の美しい髪が秋光を浴びて揺れる。静寂のなか、やがて僕は胸の奥に燻っていた素朴な疑問を口にした。
「ねぇ、スズカ」
「はい」
「どうして今日……僕を誘ったんだい?」
スズカが静かにこちらへ視線を向ける。
「学園には他にもたくさんのウマ娘がいる。本格的なトレーニングに付き合えて、僕なんかより遥かに速く、君の走りに応えられる相手なんていくらでもいるはずだ」
速さを求めるなら、僕を選ぶ理由は万に一つもない。
トレーニングの効率や生産性を論じるなら、もっと最適な選択肢が無数にある。だからこそ、僕は理由を尋ねたかった。
彼女が僕という存在を選択した、客観的な根拠を。
合理的で納得のいく説明を。
「……さぁ?」
「さぁ、って……」
「自分でも、よく分からないんです。私はマキナ先輩と走りたかったんです。理由なんて、必要ないと思います」
「……」
「私がマキナ先輩と走りたいと思ったから、マキナ先輩を誘いました」
そこで彼女は、ほんの少しだけ笑う。
「他の誰かでもいい、という話ではないんです」
スズカは少しだけ困ったように、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。
「貴方と走りたい。ただ……なんとなく、です」
「なんとなく」
「はい。なんとなく、今日はマキナ先輩と走りたかった。それだけなんです」
言葉にすれば、ただそれだけのこと。
そこには緻密なロジックも、高尚な理念も存在しない。その言葉の響きは、どんな精巧な理由付けよりも深く、確かな手応えを持って僕の胸に届いた。
人間が何かを選択するとき、必ずしも他者を納得させる理由を提示する必要などないのだ。
誰かと時間を共にしたい。
あの場所へ足を運びたい。ただ、この手でそれを掴みたい。そう直感した。だから、選ぶ。
理由などというものは、後から理性が勝手につけ足す無価値な装飾に過ぎないのかもしれない。
「じゃあ、明日は?」
「明日も、誘うかもしれません」
「かもしれない?」
「ええ。でも、たぶん誘います」
「どうして?」
「今日、一緒に走って楽しかったからです。だから、また一緒に走ってください。私が、走りたいと思わなくなるまで」
最初にあるべきなのは、理屈の層よりもずっと深い場所から芽生える、名もない小さな衝動。
その衝動に嘘をつかず、そのまま手に取って生きること。それこそが、彼女の誇り高い生き方そのものなのだ。
「光栄だ」
「はい。できれば、これからも私の隣は空けておいてください」
それから僕たちは、再び黙々と足を動かし続けた。僕が思い描いていた休日の構想は、何ひとつとして予定通りにはならなかった。
何もしない一日。
布団の温もりに逃避し、時間を浪費し、何も思考せずに終えていく無の24時間。
それが、僕の望んだ安寧の形だったはずだ。
けれど今、僕は冷たい秋の風を切り、汗を流しながら走っている。
すぐ隣には、サイレンススズカがいる。
僕の拙い足取りに合わせて、その圧倒的な脚力を抑えながら、彼女は静かに隣を並走している。
この世界で最も美しく、最も速く走れるかもしれない少女が、僕という人間の歩調に合わせて速度を落としてくれている。
その横顔を視界の端に収めていると損なわれたはずの僕の休日のことなど、不思議とどうでもよくなってしまった。
本当の自由とは、誰とも関わらず、誰にも合わせないことではない。自らの意思で歩む道を選び、自らの足でその一歩を踏み出す。
自分で選んで誰かの隣に立ち、歩調を合わせて走ることだって、間違いなく「自由」の証なのだ。
言葉にならない納得感を胸に抱きながら、僕は彼女とともに、どこまでも続くターフを走り続けた。
見上げた空は、どこまでも澄み渡り、高く、広大だった。