高度育成高等学校を卒業してから、三年が経過した。
二十一歳になった今でも、オレには理解できていないものがいくつもある。
人間がなぜ必要以上に他人へ干渉するのか。合理性とは無関係な感情によって判断を変えるのか。
将来の利益にも繋がらない思い出を写真として残し、それを何年も大切に保管するのか。
学校にいた三年間で、それらについて多少は学んだつもりだった。
堀北や龍園、一之瀬、坂柳、軽井沢を始め、多くの人間と接する機会があった。
ホワイトルームにいた頃には経験できなかった出来事も十分すぎるほど経験した。
それでも、どうしても実感として理解できないものが一つ残っている。
家族だった。
もちろん、言葉としての意味なら知っている。
血縁や婚姻などによって結びつき、生活を共有する人間の集団。
社会制度として考えるなら、それほど難しい概念ではない。
家族がどのような役割を持ち、一般的な家庭で親と子がどのような関係を築くのかも、知識として説明することはできる。
問題は、オレ自身がそれを経験したことがないということだった。
父親はいる。
しかし、あの男との関係を一般的な意味での親子関係と呼ぶことには無理がある。
オレにとって父親は、自分をこの世へ誕生させた人間であると同時に、
ホワイトルームという施設を作り上げ、そこでオレを教育した人間でもある。
親子という言葉から多くの人間が連想するであろう温かな記憶は存在しない。
母親についても同様だった。
そして兄弟姉妹もいない。
だからオレは、家族というものを知識として知っていても、感覚としては知らない。
高校生活を終えた後、いつかそのことを学ぶ機会もあるのではないかと漠然と考えていた。
だが、卒業後の三年間は、そんな悠長な時間を与えてはくれなかった。
「清隆先輩、また考え事ですか?」
向かい側から声をかけられ、オレは意識を現実へ戻した。
小さなテーブルを挟んだ先で、天沢一夏がコンビニで買ってきたプリンの蓋を開けていた。
高校を卒業して三年。
オレたちは今、都内にある小さな賃貸住宅で暮らしている。
正確には暮らしているというより、一時的な滞在場所として利用していると言った方がいいかもしれない。
長期間同じ場所に留まらない。
必要以上に周囲との関係を作らない。
身元に繋がる情報を残さない。
それが、オレたちの現在の生活だった。
「少しな」
「へえ。何を考えてたんです?」
天沢はプリンを一口食べると、スプーンを咥えたままこちらを見る。
「家族についてだ」
その瞬間、天沢の動きが止まった。
数秒後、口からスプーンを抜く。
「……清隆先輩が?」
「ああ」
「家族について?」
「そうだ」
「似合わないですね」
否定する理由はなかった。
「オレもそう思う」
「そこ認めちゃうんだ」
天沢は楽しそうに笑った。
彼女もまた、オレと同じだった。
ホワイトルームで育ち、そこで教育を受けた。
卒業後、オレはホワイトルームへ戻ることを拒否した。
当然、それで終わる話ではなかった。
父はオレを諦めなかった。
天沢が一年遅れて学校を卒業し、同じ選択をしたのはその翌年のことだ。
卒業式の翌日、天沢は何の連絡もなくオレの借りていた部屋の前に立っていた。
「綾小路先輩、一人で逃げるなんてずるいですよ」
そう言って、当たり前のように上がり込んできた。
天沢についても、父は諦めなかった。
オレは三年間、天沢はそのうちの二年間、完全な自由を手に入れられないまま生活してきた。
何度か居場所を変え、必要に応じて協力者の力も借りた。
高校にいた頃より自由になったはずなのに、社会へ出て初めて、
自分たちが普通の人間として生きることの難しさを知ったとも言える。
天沢はプリンを食べながら、少し考えるように天井を見上げた。
「でも、あたしも家族ってよく分かんないかも。清隆先輩よりは知ってるつもりですけど、
普通の家庭で毎日暮らした経験なんてありませんし」
「そうだろうな」
「急にどうしたんです?まさか結婚したくなったとか?」
「その予定はない」
「即答なんですね」
天沢は少し不満そうな顔をしたが、すぐに元の表情へ戻った。
「それなら、家族について勉強でもするんですか?本屋さんへ行けば、家族について書かれた本くらいありそうですけど」
「本を読めば知識は得られる。ただ、それでは今までと変わらない」
「じゃあ、どうするんです?」
その問いに対する答えは、すでに出ていた。
「実際に家族と同じ環境で暮らしてみればいい」
天沢は再びスプーンを止めた。
今度は先ほどより長い沈黙だった。
「……はい?」
「共同生活をする」
「清隆先輩とあたしで?」
「二人では家族というより同居人に近い」
「まあ、そうですね」
「だから人数を増やす」
天沢の目が徐々に輝き始めた。
こういう時の彼女は分かりやすい。
面白そうなことが始まると判断したらしい。
「何人くらいです?」
「七人を考えている」
「多くないですか?」
「一般的な家庭よりは多いかもしれない」
「誰を入れるつもりなんです?」
オレは事前に考えていた名前を順番に挙げた。
「オレと天沢。それから堀北、龍園、宝泉、一之瀬、坂柳だ」
天沢は黙った。
笑顔のまま固まっている。
やがて、ゆっくりとプリンをテーブルへ置いた。
「清隆先輩」
「なんだ?」
「家族について勉強する前に、人選について勉強した方がいいんじゃないですか?」
「問題があるか?」
「問題しかないですよ」
天沢は呆れたように額へ手を当てた。
「堀北先輩と龍園先輩を同じ家に入れるんですよね?そこへ宝泉くんまで追加するんですか?」
「ああ」
「家庭内戦争でも始めるつもりです?」
「そのつもりはない」
「本人たちにそのつもりがなくても始まりそうなんですけど」
それについては否定できなかった。
しかし、人選に理由がないわけではない。
「今挙げた人間には共通点がある」
「どんな?」
「帰る場所がない、あるいは帰る場所を失いつつある」
天沢から笑みが消えた。
オレは順番に説明した。
「堀北は三年前の事故で家族を失った。現在は一人で暮らしている。龍園と宝泉は卒業後、社会の表側から外れた。
一之瀬も中学時代の件が世間に知られたことで仕事を失い、母親との関係も悪化している」
「坂柳先輩は?」
「余命一年だと聞いている」
天沢は何も言わなかった。
坂柳有栖の身体が強くないことは、高校時代から全員が知っていた。
しかし、余命という具体的な数字を聞けば意味が違う。
「……本当なんです?」
「本人から聞いた」
「そっか」
天沢は視線を落とした。
しばらくしてから、再びオレを見る。
「だから集めるんですか?」
「それだけじゃない」
オレ自身もホワイトルームへ戻ることはできない。
天沢も同じだ。
七人全員が、かつて当然のように存在していた場所へ戻れない、あるいは戻ることを望んでいない。
それなら、一つの場所へ集まって生活するという選択肢があってもいい。
「それに、オレは家族について知りたい」
「やっぱりそこに戻るんですね」
「重要なことだ」
「清隆先輩らしいと言えば、らしいですけど」
天沢は少し考えた後、口元に笑みを浮かべた。
「いいですよ。あたしは参加します」
「そうか」
「面白そうですし。それに、清隆先輩と一緒なら」
最後の部分だけ少し声色が変わったように聞こえたが、深く考える必要はないだろう。
「問題は場所だな」
「七人で暮らせるところですよね。今から借りるんですか?」
「いや」
オレは立ち上がった。
「候補はある」
「どこです?」
「堀北の家だ」
「…………」
天沢は三度目の沈黙を見せた。
「堀北先輩、絶対怒りますよ?」
「だろうな」
「分かってるのに行くんですね」
「ああ」
それから一時間後。
オレと天沢は堀北の自宅を訪れていた。
卒業後、堀北鈴音が住み続けている家は、現在の彼女一人で暮らすには広すぎた。
かつて両親と兄がいた家。
三年前の交通事故で、その三人を同時に失った。
堀北本人が事故に巻き込まれなかったのは、偶然だった。
それ以来、彼女はこの家で一人暮らしを続けている。
インターホンを押す。
少しして玄関が開いた。
「久しぶりね、綾小路くん」
堀北は高校時代より髪を少し伸ばしていた。
服装も制服ではない。
それでも、腕を組んでこちらを見る姿には高校時代と大きな違いがなかった。
「久しぶりだな」
「天沢さんまで一緒なのね」
「お久しぶりです、鈴音ちゃん」
「その呼び方は相変わらずなのね」
天沢はオレと話す時には堀北先輩と呼ぶくせに、本人の前では決まってちゃん付けにする。
どうやら、呼び方ひとつで相手の反応を楽しんでいるらしかった。
堀北は小さく息を吐いた。
「それで、突然どうしたの?電話では話したいことがあるとしか聞いていないけれど」
「中で話してもいいか?」
「構わないわ」
家へ入る。
玄関には靴が一足しかなかった。
それだけで、この家に住んでいる人間が一人しかいないことが分かる。
リビングへ案内された。
広い。
四人掛けより大きな食卓があり、ソファも複数人が座れる。
かつて家族で暮らしていた頃の形が、そのまま残っているのだろう。
堀北はオレたちへ飲み物を用意すると、向かい側へ座った。
「それで?」
「堀北」
「何?」
「ここで共同生活をしないか」
堀北は瞬きをした。
「……誰と?」
「オレと天沢。それから龍園、宝泉、一之瀬、坂柳だ」
堀北は何も言わなかった。
数秒間、室内には時計の音だけが響いた。
「帰って」
予想通りだった。
「まだ説明していない」
「説明を聞く必要がある?」
「あると思う」
「私にはないわ」
堀北は額を押さえた。
「あなたが三年ぶりに突然訪ねてきたと思ったら、龍園くんと宝泉くんを私の家に住まわせたいですって?
それだけでも十分に帰ってもらう理由になるでしょう」
「あたしも住みますよ」
「天沢さん、それは安心材料になっていないわ」
「酷いですね」
「事実を言っているだけよ」
高校時代から、この二人の距離感はあまり変わっていないらしい。
「期間は決めてもいい」
「期間の問題ではないわ」
「部屋は余っているだろう」
堀北の表情が変わった。
オレはそこで初めて、言葉を選ぶべきだったかもしれないと考えた。
この家に部屋が余っている理由は明白だ。
堀北は少しの間黙っていたが、感情的に怒ることはなかった。
「……そうね。余っているわ」
「堀北先輩」
「いいのよ、天沢さん。事実だから」
堀北はテーブルの上へ視線を落とした。
「父と母の部屋も、兄さんの部屋も、そのまま残してある。使う人はいないもの」
その声には、三年前でも高校時代でも聞いたことのない響きがあった。
「だからといって、そこへ龍園くんや宝泉くんを入れるという発想にはならないけれど」
「そこは安心しました」
天沢が頷いた。
「天沢さん、あなたはどちらの味方なの?」
「面白い方です」
「聞いた私が馬鹿だったわ」
堀北はため息をついた。
「そもそも、どうしてそんなことを思いついたの?」
「家族について知りたいからだ」
「……家族?」
「ああ」
オレは天沢へ話した内容を、堀北にも説明した。
自分には一般的な家庭生活の経験がないこと。
知識として家族を理解していても、実感が伴っていないこと。
実際に複数人で生活すれば、何か分かるかもしれないと考えたこと。
そして、選んだ人間たちがそれぞれ帰る場所に問題を抱えていること。
堀北は途中から口を挟まなかった。
すべて聞き終えると、呆れたような、それでいて少し困ったような顔をする。
「相変わらずなのね、あなた」
「そうか?」
「普通の人は家族について知りたいからといって、昔の同級生を七人集めて共同生活を始めたりしないわ」
「では、どうする?」
「知らないわよ。普通は自然に家族を作っていくものじゃないの?」
「その自然という部分が分からない」
堀北は言葉を失った。
天沢が横で吹き出した。
「清隆先輩、本当にこういう人なんですよ」
「あなたに説明されなくても知っているわ」
堀北はしばらく考えていた。
「他の人には話したの?」
「まだだ」
「私が最初?」
「場所を提供してもらえなければ計画そのものが成立しにくいからな」
「つまり、私の了承を取ってから他の人を誘うつもりだったのね」
「そうなる」
「断ったら?」
「別の方法を考える」
堀北は黙った。
そして、リビングを見回した。
オレもその視線を追う。
大きな食卓。
複数人用のソファ。
棚には家族写真がいくつか残っている。
高校生だった堀北。
その隣に立つ兄。
両親。
写真の中には四人いる。
しかし、この家にいるのは今、堀北一人だけだった。
「……条件があるわ」
予想外の言葉だった。
「聞こう」
「まず、これは永続的な話ではない。試験的な共同生活よ。合わないと判断したら終わりにする」
「ああ」
「家事は全員で分担する。食費や光熱費も可能な範囲で負担してもらう。
自分のことを他人へ押しつけない。それから、家の中で暴力は禁止」
最後だけ明らかに龍園と宝泉を想定している。
「妥当だと思う」
「そして一番重要なのは、私の家だからといって好き勝手にしないこと。特に龍園くんと宝泉くんには最初に念を押して」
「分かった」
「まだ許可したとは言っていないわ」
「条件を出した時点で、かなり許可に近づいていると思うが」
「あなた、そういうところは昔から本当に可愛げがないわね」
堀北は不満そうにこちらを見た。
しかし、最終的には小さく息を吐く。
「一ヶ月」
「一ヶ月?」
「まず一ヶ月だけ。それで問題が起きるようなら終わり。これが条件よ」
「十分だ」
「本当に龍園くんたちが了承するとは思えないけれど」
「それはこれから確認する」
堀北の許可を得た翌日。
オレと天沢は龍園と宝泉を呼び出した。
場所は人目の少ない喫茶店だった。
二人は卒業後、似たような世界へ進んだ。
まともな企業へ就職する道を選ばず、法に触れないぎりぎりの仕事から、そうとは言い切れない仕事まで関わっているという。
龍園は高校時代より髪を伸ばしていた。
宝泉も身体がさらに大きくなっている。
二人が並んでいるだけで、店内の空気が少し悪くなったように感じる。
「で、何の用だ、綾小路」
龍園が椅子へ深く腰掛けながら聞いた。
「共同生活をしないか」
「は?」
宝泉が眉を寄せる。
「誰とだよ」
「オレ、天沢、堀北、一之瀬、坂柳。それからおまえたちだ」
龍園は数秒黙った後、肩を揺らして笑い始めた。
「ククッ……おまえ、卒業して三年経って頭でも打ったか?」
「正常だ」
「それで正常なら余計にタチ悪ぃな」
宝泉は露骨に嫌そうな顔をしている。
「なんで俺がてめえらと仲良しごっこしなきゃならねえんだ」
「一之瀬もいる」
「……あ?」
反応が変わった。
天沢が隣で口元を押さえた。
龍園も見逃さなかった。
「そういや宝泉、おまえ一之瀬の名前が出ると分かりやすかったな」
「うるせえぞ龍園」
「俺は何も言ってねえ。勝手に反応したのはおまえだ」
「ぶっ殺すぞ」
「堀北の家では暴力禁止だ」
オレが告げると、二人が同時にこちらを見る。
「もうルールまであんのかよ」
龍園はますます面白そうに笑った。
「鈴音が了承したってのが一番笑えるな」
「一ヶ月限定だ」
「ククッ、いいぜ」
意外にも龍園の答えは早かった。
「暇潰しにはなりそうだ。おまえらが家族ごっこして何日持つのか見届けてやるよ」
「俺はやるとは言ってねえぞ」
宝泉が不機嫌そうに言う。
龍園が横目で見る。
「一之瀬も来るぞ」
「それがどうした」
「別に?」
「その顔やめろ」
どうやら宝泉についても、それほど時間はかからなそうだった。
一之瀬とは、その日の夕方に会った。
高校時代より髪は少し伸びていた。
笑顔も残っている。
しかし、以前のような無条件の明るさではなかった。
中学三年の時に起こした万引き。
高校時代には限られた人間しか知らなかった過去が、卒業後に何らかの形で外部へ漏れた。
一度インターネットへ広がった情報は消えない。
彼女がどれだけ高校時代に努力してきたかを知らない人間にとって、
一之瀬帆波は「過去に万引きをした女」という情報だけで判断できる存在になった。
仕事を失い、母親との関係も悪化した。
それでも一之瀬は、オレたちを見ると笑った。
「久しぶり、綾小路くん。天沢さんも」
「お久しぶりです、一之瀬先輩」
話を説明すると、一之瀬は驚いた。
「七人で?」
「ああ」
「堀北さんの家に?」
「そうだ」
「龍園くんと宝泉くんも?」
「ああ」
一之瀬は困ったように笑った。
「すごい組み合わせだね」
「あたしもそう言ったんですよ」
天沢が同意する。
一之瀬は少し考えた。
「でも……いいかもしれない」
「いいのか?」
「うん。今の部屋に一人でいても、考えなくていいことまで考えちゃうから。
それに、みんなと暮らすなんて高校生の頃にもなかったし」
一之瀬はそう言って笑った。
今度の笑顔は、最初より少し自然に見えた。
残る一人。
坂柳有栖。
彼女と会ったのは病院だった。
坂柳は窓際の椅子へ座り、外を眺めていた。
三年前と比べれば、身体は少し細くなっている。
杖も変わらず傍らに置かれていた。
「面白いことを考えましたね、綾小路くん」
説明を聞き終えた坂柳は笑った。
「参加するのか?」
「ええ。ぜひ」
迷いはなかった。
「余命一年と聞いた」
「そのようですね」
他人の話でもしているような口調だった。
「怖くないのか?」
「怖くないと言えば嘘になります。しかし、今さら取り乱したところで時間が増えるわけでもありませんから」
坂柳は窓の外へ目を向けた。
「それより、死ぬまでに少し変わった経験をしてみたいと思っていたところです」
「七人で暮らすことが?」
「はい」
坂柳は再びこちらを見る。
「私はこれまで、家族には恵まれていました。父からも愛情を受けて育ちました。ですから、綾小路くんとは逆ですね」
「そうだな」
「そんな私が、家族を知らないあなたの家族役になる。なかなか面白そうではありませんか?」
「家族役という表現が正しいかは分からない」
「だから学ぶのでしょう?」
その通りだった。
坂柳は少しだけ目を細める。
「それに、一年もあれば十分です。最後に皆さんと暮らせるのなら、退屈はしなさそうですから」
この時のオレは、その言葉をそのまま受け取った。
一年あれば十分。
坂柳本人がそう言うなら、そうなのだろうと。
それが後に変化することを、まだ誰も知らなかった。
そして一週間後。
堀北家の玄関には、七人分の靴が並んでいた。
「何よこれ」
堀北の声が響く。
共同生活初日の夕方。
リビングには大量の荷物が置かれている。
「俺の荷物だ」
宝泉が答える。
「見れば分かるわ。どうしてこんなに多いのかと聞いているの」
「一ヶ月住むんだろ。普通だろうが」
「普通の人は一ヶ月の共同生活にダンベルを持ってこないわよ!」
「筋トレどうすんだよ」
「知らないわよ!」
少し離れた場所では、龍園がソファへ座りながら笑っている。
「ククッ、初日からこれか。先が思いやられるな、鈴音」
「あなたも他人事ではないわよ、龍園くん。どうして勝手に一番大きなソファを占領しているの?」
「早い者勝ちだろ」
「ここはあなたの家ではないのよ!」
「今日から俺の家でもあるんじゃねえのか?」
堀北の額に青筋が浮かんだような気がした。
「清隆先輩、これどこに置けばいいです?」
天沢が大きな袋を抱えてやってくる。
「何が入っている?」
「お菓子です」
「全部?」
「一ヶ月分です」
「天沢さん!」
堀北が今度は天沢へ向かった。
一之瀬は大量の食材を前に困ったように笑っている。
「とりあえず今日の夕食は私が作るね。七人分って、どのくらい作ればいいのかな」
「俺は多めだ」
宝泉が即答した。
「聞いてねえぞ」
龍園が笑う。
「てめえに聞いてねえよ」
「二人とも喧嘩しないでね?」
一之瀬が言うと、宝泉はそれまでの勢いを失った。
「……別に喧嘩してねえ」
「そう?ならよかった」
一之瀬は安心したように笑う。
龍園はその様子を見ていた。
「ククッ」
「何笑ってやがる」
「何でもねえよ」
「ぶっ殺すぞ」
「宝泉くん!」
堀北の声が飛んでくる。
「家の中で暴力は禁止だと言ったでしょう!」
「まだ何もしてねえだろ!」
騒がしい。
坂柳はその光景をソファの端から楽しそうに眺めていた。
「素晴らしいですね」
「何がだ?」
「まだ一時間も経っていないのに、すでに家族らしくありませんか?」
オレには判断できなかった。
「一般家庭でも、こんなに騒がしいものなのか?」
「家庭によるでしょう」
「そうか」
参考にならない。
夕食が完成する頃には、さらにいくつかの問題が発生していた。
風呂の順番。
冷蔵庫の使用範囲。
食器を誰が洗うのか。
洗濯物をどう分けるのか。
龍園が喫煙するならどこなのか。
宝泉のダンベルをどこへ置くのか。
天沢のお菓子を共用扱いにするのか。
坂柳にどこまで家事を任せるのか。
堀北は途中から紙とペンを取り出し、共同生活の規則を書き始めた。
「これでは駄目ね。明日までにルールを作るわ」
「本当に刑務所みてえになってきたな」
龍園が言う。
「あなたたちが最低限の常識を持っていれば必要ないのよ!」
それでも、夕食の時間になると七人全員が食卓へ集まった。
一之瀬が作った料理が並ぶ。
七人分の食器。
七人分の椅子。
オレは自分の席へ座りながら周囲を見る。
右側には天沢。
向かいには堀北。
その隣には坂柳。
龍園は奥の席へ座り、宝泉は一之瀬の近くを確保していた。
「宝泉、おまえ何でそこなんだ?」
龍園が聞く。
「空いてたからだ」
「他にも空いてただろ」
「うるせえ」
「龍園くん、宝泉くんをからかわないで」
一之瀬が困ったように笑う。
「俺は何も言ってねえだろ」
「顔が言ってるわよ」
堀北が呆れたように指摘した。
坂柳も小さく笑っている。
「随分と分かりやすい方ですね」
「てめえら、いい加減にしろよ」
宝泉が不機嫌そうに睨む。
しかし、一之瀬が隣で、
「宝泉くん、ご飯これくらいでいい?」
と尋ねると、すぐにそちらへ顔を向けた。
「もっと」
「これくらい?」
「ああ」
龍園がまた笑う。
宝泉が睨む。
一之瀬は理由が分からず首を傾げる。
天沢は面白そうに眺めている。
堀北は初日から疲れ切ったような顔をしている。
坂柳だけは、この騒々しさそのものを楽しんでいた。
オレは全員を観察する。
これまでにも大勢で食事をした経験はある。
高校時代にもあった。
しかし、これは少し違う。
食事が終わった後、それぞれ別の場所へ帰るわけではない。
全員が同じ家に残る。
明日の朝になれば、また顔を合わせる。
そして明日の夜も、同じ食卓を囲む可能性が高い。
それが一ヶ月続く。
家族について学ぶという目的から考えれば、悪くない環境だと思う。
そこで、ふと気づいた。
「どうしたの、綾小路くん?」
一之瀬が尋ねてくる。
「いや」
一般家庭の食事について調べた時、家族全員で食卓を囲む際には、
食事を始める前に言葉を交わす習慣があることを思い出した。
実践しておいた方がいいだろう。
オレは箸を持つ前に、全員を見る。
「いただきます」
沈黙が生まれた。
六人がこちらを見る。
「何だ?」
「いえ……」
堀北がわずかに目を丸くしている。
「あなたが率先してそういうことを言うとは思わなかっただけよ」
「食事の前には言うものだろう」
「そうだけど」
天沢が吹き出した。
「清隆先輩、本当に家族の勉強してるんですね」
「そのための共同生活だからな」
「なんだか小学生みたいで可愛いですね」
「そうか?」
「天沢さん、あまりからかわないの」
一之瀬が笑う。
「でも、せっかくだし、みんなで言おうよ」
「俺はやらねえぞ」
宝泉が拒否する。
「宝泉くん」
一之瀬が名前を呼ぶ。
宝泉は黙った。
数秒後、面倒そうに箸を持つ。
「……分かったよ」
龍園がまた肩を揺らした。
「ククッ」
「てめえは笑うな」
「はいはい。喧嘩は禁止よ」
堀北が止める。
一之瀬が笑顔で全員を見回した。
「それじゃ、改めて」
七人が食卓を囲む。
「いただきます」
声が重なった。
オレも同じ言葉を口にした。
その瞬間に何か特別な感情が生まれたわけではない。
家族というものを理解できたわけでもない。
ただ、目の前には六人がいる。
誰も血縁関係にはない。
性格も違う。
歩いてきた人生も違う。
三年前なら、この七人が一つの家で夕食を食べる未来を想像した人間は一人もいなかっただろう。
本来なら、大学へ通っていてもおかしくない年齢だった。
それでもこの食卓に、学生は一人もいない。
堀北は合格していた大学への入学を、事故の後に取りやめた。
一之瀬は卒業してすぐ働き始め、龍園と宝泉は最初から進学を選ばなかった。
坂柳は治療を優先し、オレと天沢には一つの場所に四年間通い続ける自由がなかった。
同級生たちが講義や就職活動の話をしている間、オレたちはそれぞれ別の理由で、普通の進路から外れていた。
それでも今、同じ食卓を囲んでいる。
食事が始まれば、すぐにまた騒がしくなった。
宝泉が一之瀬の料理を無言で何度もおかわりし、それを龍園が面白がる。
天沢がオレの皿から勝手に一つ取ろうとして、堀北から「自分の分を食べなさい」と注意される。
坂柳はそんな堀北を見て、
「すっかりお母様ですね」
と言い、堀北から睨まれる。
「誰がお母様よ」
「ではお姉様でしょうか?」
「そういう問題ではないわ」
「堀北先輩、お母さんならあたしのお菓子代も出してください」
「天沢さんまで便乗しないで!」
「ククッ。大変だな、母親役は」
「龍園くん!」
一之瀬が笑い、坂柳も笑う。
宝泉まで僅かに口元を緩めていた。
オレはその光景を見ながら食事を続ける。
家族とは何なのか。
まだ分からない。
おそらく、一日や二日で理解できるものではないのだろう。
だから学べばいい。
明日の朝も、その次の日も、この六人と生活しながら観察していけばいい。
そう考えながら、何気なくリビングの端へ視線を向けた。
棚の上に、一枚の写真が置かれている。
高校生だった堀北と、その兄、両親が並んで写っている写真だった。
写真の中では四人が同じ場所にいる。
今、この家の食卓には七人がいる。
堀北もオレと同じように、その写真へ一瞬だけ視線を向けた。
しかし、何も言わなかった。
代わりに、宝泉へ注意する。
「宝泉くん、ご飯粒を落としているわよ」
「あ? 後で拾う」
「今拾いなさい」
「細けえな」
「共同生活をするなら最低限のことよ」
「鈴音、やっぱりおまえ母親役でいいんじゃねえか?」
「龍園くん、あなたも黙りなさい!」
また声が響いた。
この家がこれほど騒がしくなったのは、おそらく三年ぶりなのだろう。
それが堀北にとって良いことなのかは、今のオレには判断できない。
坂柳にとって。
一之瀬にとって。
龍園にとって。
宝泉にとって。
天沢にとって。
そしてオレ自身にとって。
この共同生活が何をもたらすのかも、まだ分からない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、家族について学ぶために始めたこの計画は、
初日の夕食が終わるより前から、オレの想定していた実験より遥かに複雑なものになり始めていた。
食卓の向こう側で、一之瀬が笑っている。
天沢が何かを言いながらオレの皿を狙っている。
堀北がそれを止める。
龍園が面白がる。
宝泉が一之瀬のおかわりを待っている。
坂柳が静かに全員を眺めている。
オレはその中心で、六人の声を聞いていた。
家族というものを、オレは知らない。
だから、これから知ればいい。
七人の奇妙な家族計画は、こうして始まった。