トレセン学園は府中市の住宅街にあって、場違いに巨大だ。住宅がない所を選んで建てたつもりが、宅地開発がどんどん進んで、周りを住宅に囲まれてしまっている。校舎は映画にでも出てきそうなヨーロッパ風のデザインで、それに惹かれて入学するウマ娘もいるほどである。
90年1月の冬休み明け、たくさんのウマ娘が学園に登校してきている。今年は暖冬で、妙に暖かい。コートを着ていないウマ娘すらいる。校舎は朝のおしゃべりに興じるウマ娘で賑わっている。
シロガネモルフェが自分の教室に入ると、室内は浮ついた様子だ。それもそのはずで、モルフェと同期は1月からトゥインクルシリーズの1年度になっているのだ。ウマ娘はトゥインクルシリーズに登録することで競走ウマ娘になる。1年度はジュニア期という通称で呼ばれることもある。シリーズでは中等部1年生の1月から競走ウマ娘の1年度になる。同期は1年度になってから最初の登校なので、競走ウマ娘になった感想を話し合っているのだ。その姿はまるで青リンゴにすら成っていない小さなリンゴの実のようだ。
モルフェたちは世代でいうと91世代である。これは91年に2年度クラシック期になるウマ娘を指す。今年のシリーズでは90世代のクラシックレースが控えているので、91世代が赤リンゴになって収穫されるのはまだ先の話だ。
モルフェが自分の席のそばまで行くと、隣のナイスネイチャと目が合う。
「おはようございます。ネイチャさん」
「おはよー。モルフェ」
ネイチャは赤味のある鹿毛で、ツインテールを膨らませた房にしていて、とても可愛らしい毛並みだ。それに比べて、モルフェの毛色はダークグレーで、不揃いの白抜けがあり、あまり綺麗とは言い難い。芦毛なので成長するにつれて毛色が少しずつ白く抜けていくが、抜け具合にズレがあるので、こんな不揃いになっている。自分の毛色はトゥインクルシリーズで人気者になれるような色ではない。別にそれでも構わない。人気者になりに来たのではないのだから。
「もうすぐ選抜レースがあるじゃない? 気が重いよね~」
モルフェが席に着くと、ネイチャが冗談めかして話しかけてくる。ネイチャとは入学してからの付き合いなので、本当に気が重いのだと分かる。
「ネイチャさんの末脚ならトレーナーがすぐに見つかりますよ」
「余裕のあるモルフェさんには不安なんてないでしょうなぁ、さすがスカウト入学」
ネイチャは途端に卑屈になる。モルフェがスカウト入学であると知ったときから、ネイチャは時々こんな調子になる。
「そこまで余裕じゃありませんよ。選抜レースに来るトレーナーが私の走りを気に入らない人ばかりかもしれないじゃないですか」
1年度になったウマ娘が最初にすることは選抜レースでトレーナーに実力を見せることだ。そうしてトレーナーと契約してチームに入る。そうしないとレースに出走できない。
「まさか。モルフェならトレーナー選びたい放題でしょ?」
たぶんそうはならない。モルフェが三女神様から授かった力と、その力でやりたいことは、相手を選ぶだろうから。それはまだ誰にも話せないことだ。
適当にごまかして会話していると、ここに来るはずのないウマ娘が教室の入口に現れる。
「シロガネモルフェはいる?」
現れたのは世間に知らない者がいないほどの有名ウマ娘、オグリキャップである。
もうすぐホームルームが始まる時間だというのに、オグリはジャージを着ている。膝下まで届くようなライトグレーのポニーテールは色合いが綺麗で、モルフェの毛色とは大違いである。
オグリはモルフェの三つ年上の88世代で、高等部1年生のトゥインクルシリーズ4年度だ。88年にカサマツのローカルシリーズから中央のトゥインクルシリーズに移籍し、重賞を六連勝し、レースブームを生み出した。その年の有マ記念と89年のマイルチャンピオンシップを勝ち、GⅠでも通じることを示し続けている。先月の有マ記念ではイナリワンの5着と振るわなかった。しかし先々月のジャパンカップではフォークインと激しい叩き合いを演じ、クビ差で2着となり、高い評価を得ている。ブームは終わる気配がなく、レースを知らない人でもオグリだけは知っているのが当たり前になっている。
そのオグリがモルフェに会いに来ている。モルフェはオグリには会ったこともないのだが。生ける伝説のいきなりの登場に、教室では熱を帯びたささやきが広がっている。オグリは近くにいたウマ娘にモルフェの席を教えられて、モルフェの元にやってくる。
「私はオグリキャップだ。シロガネモルフェ、ろっぺ……ムサカトレーナーが呼んでいる。放課後、ムサカトレーナーの部屋に来て欲しい」
教室のささやきがざわめきに変わる。モルフェは六平トレーナーの名前に覚えがある。確かオグリのトレーナーのはずだ。雑誌で見たことがある。アロハシャツを着ている老人だ。
「まさかスカウト!?」
ネイチャが驚く。この時期にトレーナーが呼んでいるとなれば、チームへのスカウトというのが一番に思いつくことだ。
「どんなご用件でしょうか?」
「来たら話すそうだ」
モルフェはこの場では用件までは聞けないと察して、トレーナー室を訪ねることを受け入れる。
オグリはモルフェの返事を確認すると、教室から去っていく。
オグリがいなくなると、クラスメートが一斉にモルフェの元に集まってきて、口々に質問したり褒めたりする。
モルフェが受け答えしていると、一人のウマ娘が他のウマ娘たちを押しのけてモルフェの前にやってくる。
「なんでお前なんかが、オグリのチームにスカウトされるんだ?」
そう言い放ったのは、黒っぽく艶のある鹿毛を持ち、いかにも好バ体という見た目のウマ娘、サンゼウスだ。
ゼウスのバ体は存在感が抜群で、いつも周りのウマ娘を圧倒している。名血、好バ体、フランスでトレーニングを受けたという、三拍子そろった名若駒らしい。本人がいつもそう自慢しているのだ。
「まだスカウトだと決まったわけじゃありませんよ」
「オレ様のような優秀な若駒を差し置いて、なんでお前なんかに声がかかる?」
スカウトだと決まってないと言っているのに。ゼウスはいつも人の話を聞いていない。
「さあ? 六平トレーナーに聞いてください」
「お前が聞いてこい。スカウト入学だからって、偉そうにするなよ?」
「はいはい」
モルフェが雑に返事をすると、ゼウスは不機嫌そうに自分の席へ戻っていく。ゼウスは人には偉そうにするなと言うが、自分は誰にでも偉そうに話すのだ。
担任が教室に入ってくる。集まったウマ娘たちはホームルームの始まりを察して、自分の席へ戻っていく。
教室ではホームルームが始まり、担任が今年度の学校の方針だとかいう、どうでもよさそうなことを話している。
モルフェは担任の話を聞き流しながら、六平トレーナーからの呼び出しについて考えている。もしチームへのスカウトだとして、六平トレーナーはモルフェを受け入れるだろうか? そうでないことも、かなりありえる。
モルフェには他のウマ娘にはない力と、その力でやりたいことがある。三女神様から授かった、ウマ娘の夢を食べる力。そして、ウマ娘の夢を食べたい。ウマ娘の夢を食べることを、誰もが受け入れるというわけではないだろう。夢を食べられたウマ娘がどうなるか、相手が知ってしまったら。六平トレーナーがどんな人物なのか、よく確かめねばならない。
Ψ
モルフェが六平から呼び出された日の前月、89年12月末、校舎は冬休みに入って人の気配がない。トレーニング施設も人の気配が減っている。その年のシリーズが終わって、ウマ娘は休養に入ったり、帰省したりしているのだ。
トレセン学園にはトレーナー専用の施設であるトレーナー室がある。トレーナー室があるトレーナー棟はトレセン学園の隅の、用がなければ来ないような所にある。トレーナーも休みを取る者が多く、トレーナー棟はしんとしている。外観の美しさに気を配った校舎とは違い、トレーナー棟は機能しか考えなかったようなデザインだ。いくつもの四角い箱のような建物が敷地の境界に対して斜めに並んでいる。あとから建設された施設であるため、余っているスペースに無理に詰め込んだような配置なのである。
六平銀次郎のトレーナー室は他のトレーナーの部屋よりも少し広い。優秀なトレーナーほど広い部屋が使えるのだ。とはいえ、部屋の広さを大いに利用しているかというと、そうでもない。むしろ物や飾りはそんなに多くなく、広々としている。六平はあまり部屋がごちゃごちゃするのは好きではないのだ。トレーナーの中には、担当したウマ娘の功績を見せつけるように部屋中に飾る者もいる。過去の担当の功績を今の担当に見せつけてどうするのか。気後れさせるだけだ。
六平はトレーナー室でシンボリルドルフと密談をしている。ルドルフから内密にと言われたので、わざわざ冬休みのトレーナー室を選んだのである。
六平はお気に入りのアロハシャツをジャケットの下にしっかり着込んでいる。冬でもいつもアロハシャツなのだ。
「シロガネモルフェ? ああ、お前がスカウトして入学させたとかいう?」
六平はルドルフにそう返しながら、意外な名前が出たなと思う。ルドルフが話題にするのは一線級のウマ娘ぐらいだからだ。モルフェは来月から新バになる、ひよっこに過ぎない。
ルドルフは史上唯一の七冠を達成した名バである。日本で知らない者はおらず、海外のレース関係者にまで知られているほどだ。引退後の87年に異例の在学中にトレセン学園のスカウトマンに就任した。そして在学中にオグリキャップを学園にスカウトした。オグリキャップの成功によって、スカウトマンとしての名声をほしいままにしている。
ルドルフはボトムスがスラックスになっているフォレスト・グリーンのスーツを着ている。88年に卒業し、今は学園勤めなのだ。ルドルフはスーツの色を現役時代の勝負服の色に合わせている。
「えぇ、彼女の面倒を見てほしいのです」
六平はルドルフが内密にと言ってきた理由を理解する。スカウトマンがウマ娘をトレーナーに紹介することは禁じられているのである。たとえスカウトされて入学したウマ娘でも、トレーナーとの契約は平等に競うべきだ、ということになっているのだ。六平は乗り気がしない。秘密の企みが楽しい歳ではない。
「例のテイオーはどうした? お気に入りだろ?」
トウカイテイオーはモルフェの同期である。ルドルフの近縁で、ルドルフ本人から期待しているウマ娘として名前が出たこともあるほどだ。ルドルフが世話を頼んでくるなら、テイオーのほうが自然だ。
「モルフェはテイオーを超える可能性がある」
「モルフェがそれほどのウマ娘だなんて噂は聞いてねぇ。つーより、来年の新バで噂になってるのはテイオーだけだ」
「モルフェはすでに……領域に到達している」
「ありえん!」
領域は一握りの競走ウマ娘が己の走りを究めた末に到達する境地だ。精神の集中が限界まで達した際に、潜在能力を限界まで引き出す状態である。ひよっこが到達することなど、まずありえないものだ。
「私がこの目で見て確認しました。小6の夏のポニーレースで、彼女は領域に入り、勝利した。私はそのレースを観戦していたからこそ、彼女をスカウトしたのです」
ルドルフのように領域に到達したウマ娘は、他のウマ娘が領域に到達したことを知覚できる、らしい。六平はウマ娘でないので本当かどうかは分からない。知覚できるルドルフが言うということは、間違いないのだろうか?
「仮に信じたとして、なんで俺なんだ?」
「彼女は領域が何なのか知らずに入っている。領域を持つウマ娘を育てた経験のあるトレーナーが彼女に教えなければ。そうしないと、彼女が無茶をやり、潰れかねない」
特別な才能を持つ新バが、自分が育てなかったばかりに潰れていく。うぬぼれだが、自分なら助けられるのではないかと思ってしまう。おそらくルドルフも同じ気持ちだろう。引き受けてもいいかもしれない。
「紹介禁止の件はどうする?」
「紹介はしていません。モルフェに何も伝えず、あなたが新バに目を付けて青田買いした、ということにすればよいのです。それならただのスカウト。選抜レース前からチーム入りの内々定を出すなど、よくあること」
紹介禁止ルールの抜け穴を突くのは黙認されている。スカウトで入学したウマ娘が酷いトレーナーに捕まったりすると、スカウトマンの実績に傷が付きかねないからである。六平は長いキャリアの中で様々なルールを迂回することもあった。
「かつての生徒会長が、悪事を覚えたな」
「唯一抜きん出て並ぶ者なし、それを実現するためなら」
Ψ
六平がモルフェを呼び出した日の放課後、六平のトレーナー室の、六平がルドルフと密談したのと同じ場所で、ルドルフがいた所に今度はモルフェがいる。六平はモルフェと面談している。事実上の紹介であることをごまかすために、モルフェのところへオグリを呼びにやって、スカウトであると派手にアピールしておいた。今ごろは噂になっているだろう。
六平はいつも掛けているゴーグル型のサングラス越しに、モルフェを観察する。バ体は並みといったところ。まだらな毛色のせいか、見た目の印象だけなら走りそうには見えない。モルフェは平然としている。新バが初めてトレーナーと一対一で会うとなれば、多少は緊張するものだ。動じない大物なのか、何も考えていないバカなのか、分からない。
「お前のレースを見たルドルフは言っていた。お前が……領域に到達していると」
「そういえば、ルドルフさんもそんなことを言っていました。でも領域が何なのか知らないんです」
この受け答えはルドルフとの話から想定していたことだ。六平はあらかじめ頭の中で用意しておいた領域の説明を始める。入ったときの状態、実在していること、到達するまでの過程、科学的な理論。しかし説明すればするほど、モルフェが興味を失っていくのが目に見えるようだ。普通、領域の話を聞いたウマ娘は強い興味を示すものだ。ウマ娘が強くなるという話なのだから、当然である。
「私はそんな力は持っていません。私が持っているのは三女神様から授かった力なんです」
モルフェは意味不明なことを言い始める。無知ゆえに領域が自分の力だと認識できず、三女神からもらったと思い込んでいるのだろうか。
「その力がどんなものか説明してみろ」
モルフェはすぐには答えず、言葉を探している様子だ。
「相手の力を弱めて、自分の力を強めるような、そんな力です」
領域は自分の力を引き出すものに過ぎない。相手への影響力は僅かなものだ。せいぜいが、驚異的な走力が相手を萎縮させる程度のもの。モルフェは搦め手で相手を弱めるような技術のことを言っているのかもしれない。だとしたら領域ではない。ルドルフの勘違いだろうか。ポニー時代に領域に到達したなどという話よりは信じられる。
「ルドルフに見込まれる何かは持ってるっつーわけだ」
「そうですね」
まるで、持っているという事実を言っただけのような口調だ。実力を誇りにするわけでも、謙遜するわけでもない。自分の実力についてなぜこんなあっさりとした返事になるのか。本当に何かを持っているのかどうか、疑わしくなってくる。焚きつけて様子を見てみるか。
「今月の選抜レースでお前の力を見せてみろ。使い物になるならチームに入れる」
六平がそう言うと、モルフェは少し体を引く。トレーナーに契約すると言われて慎重になるのは、トレーナーに対して譲れない基準を持っているということである。
「唯一抜きん出て並ぶ者なし。六平トレーナーは、この言葉をどう解釈しますか?」
モルフェは六平を推し量るつもりなのだろう。六平ほどの功績を持つトレーナーに対して、なかなか良い態度である。
「頂点を取れってこったろ?」
「頂点を取るには、自分が上に上る方法と、他人を下に落とす方法があります。どちらを選んでも、唯一抜きん出ることには変わらない、そう思いませんか?」
モルフェは今まででもっとも集中した視線を六平へ向ける。六平は察する。モルフェは他人を蹴落とすつもりなのだ。相手の力を弱めるような技術を使って。それを嫌うトレーナーもいるが、六平は気にしていない。相手の力を弱めることも、技術の一つにすぎないからだ。
「そうだな。変わらんだろ」
六平がそう言うと、モルフェは悦に入ったような笑みを浮かべて、六平を見つめる。モルフェが初めて見せる、強い感情だ。六平は得体の知れない何かに自分が認知されてしまったような悪寒を覚える。
「選抜レースが楽しみです。フフフ……」
他人を蹴落とすことに喜びを見出す。長年トレーナーをしてきた六平にはモルフェの危うさが感じられる。だが、本当に精神面の危うさだけだろうか? モルフェは搦め手でも領域でもない何かを持っているのでは? では何なのかといわれても、何の心当たりもないが。
Ψ
トレセン学園の校舎の正面には三女神の像がある。三女神の像は噴水になっている。三柱の神が背中合わせになり、肩に担いだ壺から水を噴き出している。かつては信仰の対象だった三女神も、時代が進むにつれて、ただの伝説のようになった。もはや三女神の像は待ち合わせの目印ぐらいにしか思われていない。
六平との面談を終えた夕暮れ時、シロガネモルフェは三女神の像の前に立ち、胸の前で指を組み、俯き、目を閉じている。ときおり、三女神様に祈りを捧げることがあるのだ。校舎の窓から漏れてくる声や、周囲のベンチから聞こえてくる話し声を、水音が掻き消している。
祈りながら、モルフェは自分の力について考える。モルフェはウマ娘の夢を食べることができる。ダービーに出たい、三冠を取りたい、最強のステイヤーになりたい、そんな夢を。夢こそがウマ娘を走らせる原動力なのだ。つまり、夢を食べられたウマ娘は……。
モルフェはこの力に名前を付けた。
〈ドリームイーター〉
夢を食べる者。
三女神様が、モルフェにウマ娘の夢を食べさせようと、ドリームイーターを授けてくださったのだ。モルフェはそのことを忘れないように、右耳に三女神の像のイヤリングを着けている。イヤリングのギラギラしたニッケルメッキの表面を夕日が照らしている。安物のアクセサリーだが、三女神様をいつも近くに感じられるようで、気に入っている。
モルフェは選抜レースのことを考える。六平トレーナーとの約束で、選抜レースで力を見せることになった。次の食事はメイクデビューにしようと思っていた。それまでリンゴが育つのを待ったほうが美味しくなる。それが選抜レースになるとは。しかもトレーナーのお墨付きで。小さなリンゴの実を一つだけ味見して、スカウトまでしてもらえる。モルフェが他人を下に落とす手段を使っても、六平トレーナーは気にしないだろう。唯一抜きん出るという結果さえ渡せばよい。良いトレーナーが見つかった。
食事が楽しみだ。