シロガネモルフェが六平トレーナーと、選抜レースで力を見せると約束した翌日の朝。ホームルームが始まる前の教室で、モルフェはクラスメートに囲まれている。クラスメートは昨日の六平トレーナーからの呼び出しがどうなったか聞きたがっているのだ。輪の中にはナイスネイチャも入っている。ネイチャはわざわざ椅子をモルフェのそばまで持ってきて、自分が輪に入るようにしている。
「選抜レースで力を見せることになりました。使い物になるならチームに入れてくれるそうです」
モルフェの言葉に周りのクラスメートが色めき立つ。
「やっぱスカウトだったじゃん! それにしても、『使い物になるなら』ってどういうこと!? 誘っといて断ることもあるってこと!?」
ネイチャが大げさに言ってみせると、周囲の反応は昨日とは違う。昨日はオグリや六平といった有名人と関わることを褒めるような反応がほとんどだったが、今日は緊張した反応を見せるウマ娘が多数を占めている。「厳しくない?」だとか「トップのチームだとモルフェでも入れるかどうか分からないんだ」だとか言っていることから察するに、条件付きでスカウトというところに反応しているようだ。
「いいじゃありませんか。勝てばいいわけですし」
「その勝てるかどうかが……って、モルフェには心配なんてないか。プレッシャーぜんぜん感じてなさそうだし?」
「そうですね。むしろ楽しみなんです」
「どういう神経してんの? 漫画の主人公かなにか?」
ネイチャにはモルフェが主人公に見えるらしい。ストーリー仕立てにするとは面白い考えかただ。ストーリーになるようなことは起こらないと思う。モルフェは食べる者で、相手は食べられる者なのだ。人間がリンゴの木にやってきて、リンゴをもいで食べたという話がストーリーになるだろうか?
選抜レースがどうのという話に興じていると、乱暴な声掛けで他のウマ娘をどかしながら、一人のウマ娘が輪の中に入り込んでくる。こんな光景を昨日も見た気がする。サンゼウスだ。
「お前なんかが選抜レースで勝てるわけがない!」
ゼウスは最初の一言からもう襲歩である。府中の正面の直線を走っているつもりなのかもしれない。
「はぁ、なんでそう思うんです?」
どうせくだらない話なので無視したいが、ゼウスは少し話に付き合ってあげないとうるさいのだ。
「血統が違う。いいか、オレ様にはイギリスの血が流れている。レースはブラッド・スポーツなんだよ」
この「イギリスの血」自慢もゼウスの定番だ。これは事実らしい。ただ、そんな事実を持つウマ娘はいくらでもいるのだが。イギリスからの移住ウマ娘の血筋は日本ウマ娘の能力向上に大いに貢献している。現代の日本ウマ娘の特徴は、在来ウマ娘と移住ウマ娘の血が混ざり合ってできたものだ。つまりウマ娘ならイギリスの血が入っていておかしくないのである。
「そうですね。ほとんど血統のスポーツでしょうね」
「よく分かってるじゃないか。お前は一般家系だ。一般家系のウマ娘はレースで成功することはない」
一般家系にも成功例はあるのだが。オグリキャップがよい例だ。つい昨日、彼女が教室に来たばかりだが、ゼウスは忘れてしまったんだろう。
「私が成功しないなら、別に怒らなくてもいいじゃありませんか」
「忠告してやったんだ。変な夢を見ないようにな」
ゼウスは満足したのか、さっさと自分の席へ戻っていく。ゼウスはいつも会話に乱入してきては、言いたいことを一方的に言っていくのである。もう慣れたものだ。
それにしても、ゼウスは私が見ている夢を気にしている暇があるのだろうか? 自分が見ている夢を気にしたほうがいいだろう。私に食べられてしまうかもしれないのだから。そう思うと、ゼウスがどんな夢を持っているか気になってくる。イギリスかぶれだから、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでも目指しているのだろうか? もし選抜レースの相手がゼウスになったら……ゼウスのような才能のあるリンゴはもっと育ってから収穫したほうがいいとは思うが、食べてよいとなれば、食べたくなってしまうだろう。
Ψ
「ねぇ、りんごコロッケ食べに行かない?」
ある日の最後の授業と帰りのホームルームのわずかな間の教室で、モルフェはネイチャから耳慣れない名前の料理を聞いた。
「りんごコロッケ? コロッケにリンゴが入ってるんですか?」
「そーよ、甘いリンゴが入っててデザート感覚のコロッケってわけ。商店街の肉屋の期間限定メニュー」
「選抜レースに向けて自主練しようと思ってたんですが……」
「美味しい物を食べたほうがはかどるじゃん。リンゴみたいなハートの形してて、かじるとリンゴの香ばしさが広がって、ジャガイモのホクホクとリンゴのシャキシャキが合わさって……」
ネイチャのりんごコロッケの宣伝を聞いていると、ちょっと食べたくなってきてしまう。
「美味しそうだとは思いますが」
「でしょ! それにただ買い食いするだけじゃないし。ロードワークよこれは! 商店街まで駈歩するついでに買い食いするってこと」
自主練といってもコースを予約しているわけでもなし。ロードワークはありかもしれない。基礎はポニー時代に身に着けているのだ。選抜レースに備えるなら、スタミナを鍛えるのはよいかもしれない。
「そうですね。ロードワークに行きましょうか」
別にりんごコロッケの誘惑に屈したわけではない。
Ψ
四角いレンガ風のブロックが隙間なく敷き詰められた狭い道を、たくさんの人が歩いている。道の両側には店舗と住宅が一緒になった昔ながらの建物が並んでいる。ジャージ姿で軽く汗をかいたモルフェとネイチャは商店街を歩いている。
お目当ての肉屋の近くまで来ると、肉屋の前に見覚えのあるウマ娘がいることに気付く。ジャージ姿で、膝下まで届くようなライトグレーのポニーテールを持ったウマ娘、先日教室に現れた有名ウマ娘、オグリキャップだ。オグリは手に持った袋から何かを取り出しては、夢中で食べている。オグリも肉屋に買い食いに来たのだろうか?
「こんにちは。オグリさん」
「こんちはー」
モルフェとネイチャが近くまで行って声をかけると、オグリはモルフェのほうに顔を向けながら、手に持った衣の付いた揚げ物を口に入れる。袋を見るに、ちょうど最後の一個のようだ。
「……こんにちは。シロガネモルフェ」
オグリはモルフェを見つめながらモグモグと噛み、あっという間に飲み込んで、挨拶を返す。
「あーっ! りんごコロッケが! ない!」
ネイチャの突然の声をきっかけに、ネイチャが見つめる先をモルフェが見ると、店のショーケースに空のトレーがあり、カードには「期間限定 りんごコロッケ」と書かれている。トレーが空ということは、売り切れのようだ。
「すまない。私が食べてしまった」
そう言ったのはオグリだ。言葉とは裏腹に、オグリはちっともすまなそうではない。むしろ声に満足したような響きがある。
「ずいぶんたくさん食べてたみたいだけど、いったい何個?」
ネイチャが恨みがましい口調でオグリに問う。
「5個だけ」
「5個もじゃん!」
オグリは首をかしげる。5個は多くないと言わんばかりだ。モルフェはオグリが健啖家で有名であることを思い出す。5個くらい軽く食べてしまうのだろう。
モルフェがオグリを何となく見ていると、自分たちと同じように汗をかいていることに気付く。
「オグリさんも、ロードワークついでに買い食いですか?」
「あぁ、ここのりんごコロッケが気に入った。毎日通うつもりだ」
オグリは子供のような無邪気さで言った。まるで子供が食欲を夢に変換し、バケツ一杯のプリンを食べることが夢だと言っているような感じだ。モルフェはオグリから美味しそうな匂いを感じ始める。
「毎日食べ尽くすつもりでしょ!? こんなライバルがいるんじゃ食べられないじゃん!」
ネイチャはりんごコロッケが食べられないことを気にしているが、モルフェはオグリが気になってしかたがない。もしオグリからりんごコロッケを食べるという夢を奪ったらどうなるのだろう?
「ネイチャさん、りんごコロッケを食べるいい方法がありますよ」
「いい方法?」
「オグリさんと私たちで勝負しましょう。明日から何日かの間、先にここに着いたほうだけがりんごコロッケを食べられるというのはどうでしょう?」
「なにその発想。スポ根に目覚めちゃったの?」
ネイチャの反応はイマイチだ。オグリの顔色はまんざらでもないという感じだ。
「ネイチャさんは意外と勝負が好きでしょう? クラス練習ではいつも周りと張り合ってるじゃありませんか」
ネイチャの表情が固まる。本人は隠しているが、彼女は負けず嫌いだ。いつもこっそりと張り合ってくるのを、モルフェは感じている。ネイチャは何と言おうか迷っているようだ。もう一押ししよう。
「いつも買い食いに付き合ってあげてるじゃありませんか。今度は私の勝負に付き合ってくれませんか?」
「……はぁ、しょうがないなぁ。スポ根に目覚めた友人のために、一肌脱いであげますよ~」
ネイチャはさも仕方がないといった体を装っているが、モルフェとの付き合いのためというのはただの言い訳だろう。本当はスポ根したがっているに違いない。
「私もいいぞ。私は……勝つ」
そう言ったオグリの表情は、前走の有マ記念で5着になってしまったウマ娘のものには見えない。負けに甘んじていない。スポ根ウマ娘はもう一人いるようだ。
モルフェだけがスポ根するつもりがない。やりたいことは狩りだ。トロフィーはりんごコロッケに見えて、実はオグリ。りんごコロッケ狩りに見せたオグリ狩りだ。オグリがりんごコロッケのために毎日通うと言ったときの純粋さ。これほど食に純粋な心を持っているウマ娘がいるだろうか? この夢なら、澄んだりんごジュースのような爽やかな味がすることだろう。熱々のコロッケをお供にして、冷えたジュースを味わうのだ。
ロードワークにおまけの味覚を足して、楽しめるようにしようと思っていたが、思わぬ味覚に出会ってしまった。これほど心躍るロードワークはそうない。
Ψ
トレセン学園の北側、校舎の裏手には広大なコースが造られている。コースの周りを分厚い林が取り囲んでおり、ここが住宅街の真ん中であることを忘れてしまうほどだ。カプセルのような形の楕円がサイズを変えていくつも重なっていて、それぞれの円周がコースになっている。二つある芝コースは、芝がすっかり茶色くなっている。冬になると芝は冬眠に入り、茶色くなってしまうのだ。
モルフェとクラスメートたちは内側の小さいほうの芝コースで、互いの距離を少し開けて、それぞれ準備運動をしている。一人の若い男性が準備運動をしているウマ娘を見て回っている。今日はクラス練習の日なのだ。モルフェたちは当然、まだトレーナーと契約していない。そういうウマ娘はクラス単位で集められて、教官から指導を受ける。
「ねぇモルフェ、選抜レースはどの距離を選ぶの?」
ネイチャがモルフェのそばでストレッチをしながら尋ねてくる。周りのウマ娘たちが耳をピクリと動かして、モルフェたちの会話を聞こうとしているのが分かる。少し離れたところでは、サンゼウスがこっちに顔を向けたようだ。みんな強力なライバルの動きが気になるのだ。上には上がいるので自慢にはならないが、モルフェはクラス内では上澄みだと思われている。
「芝1400mにしますよ」
最初の選抜レースで選べる距離は1000m・1200m・1400mの三つだけだ。クラシックレースなどと比べれば短く感じるが、本格化前のウマ娘に合わせた距離だからだ。ウマ娘は本格化することによってだんだんと長い距離を走れるようになっていく。ウマ娘の本格化の始まりは早くても1年度の春なので、今のモルフェたちには1400mでも長い。
「だと思った。さすがクラシックで活躍予定のウマ娘は違うわ~」
周りもネイチャと似たような感想を持った気配がする。誰が言い出したのか、クラシックレースに進むなら選抜レースでは芝の一番長い距離を走る、と言われている。
「ネイチャさんはどうするんです?」
「もうちょっと情報を集めないとね。決めるのはそれから」
「私以外のウマ娘の情報も集めるんですね。あとは誰の?」
「そりゃあもちろん、91世代の主人公、トウカイテイオーに決まってるじゃん」
トウカイテイオー。それはトレセン学園では知らない者がいないほど有名だ。モルフェもクラスの中では有名なほうだが、テイオーは格が違う。世代を超えて先輩すらもテイオーを知っている。ウマ娘だけでなくトレーナーにまで知られているらしい。
「シンボリルドルフの後継者、でしたっけ?」
モルフェはネイチャに背中を押されて前屈をしながら尋ねる。トモに当たる茶色い芝は暖冬のせいかあまり冷たくない。
「そう、あのシンボリルドルフと血の繋がりを持つ伝説の勇者。ルドルフすらも第2のルドルフだと期待をかけている、未来の三冠ウマ娘」
ネイチャはモルフェの背中を押しながら、アニメのナレーターのように言う。血の繋がりは本当らしいが、他の部分は大げさでちょっと怪しい。
「そんなにすごいとどうして分かるんですか? まだ選抜レースすら走ってないのに」
「テイオーと同じクラスの娘から聞いたのよ。テイオーと併せをすると、誰がやってもテイオーが圧勝しちゃうから、もう誰も併せをしなくなったって」
モルフェはクラスメートとの併せで圧勝したことはない。併せで本気を出したことはない、つまりドリームイーターを使ったことはないが、使っても圧勝とはいかないだろう。
モルフェはトゥインクルシリーズで食べるべき究極の相手について考えることがある。そういう相手が現れるかもしれないと期待している。三冠ルドルフが、一つ上の世代の三冠ミスターシービーとライバルになったように。モルフェにとって、テイオーが究極の相手になるのだろうか?
Ψ
「テンはレースでとても重要だ。短距離ならそれだけで決め手になることもある。長距離でも有利な位置を取ろうとすれば発走直後のキレが重要になる。重要なのはスムーズに走り出し、スムーズに加速すること。最初はストライドを小さく、加速と共に広くしていく」
教官がモルフェたちに説明をしている。モルフェたちは内側の小さいほうの芝コースに集合して、聞き耳を立てている。もっとも、ウマ娘の耳はだいたいは立っているが。
「そこの『2』のハロン棒から、あそこの『0』のハロン棒までがちょうど1ハロン。1ハロンダッシュをしてもらう。重要なのはできるだけ早く最高速まで上げること」
モルフェはキレよりもノビ、つまり加速よりも最高速の維持のほうが得意だ。とはいえ、キレも同世代ではトップレベルのものを持っている。加速のような基礎の技術については、ポニー時代の練習で完璧に身に付けた。1ハロンダッシュで負けることはまずないだろう。
Ψ
クラスメートは6人ずつに分かれて1ハロンダッシュをこなしている。モルフェの番が回ってくる。教官が適当に選んだらしい組み合わせで、サンゼウスと同じ組になる。ゼウスはモルフェと同じ組になると分かるやいなや、聞こえるように舌打ちをする。
モルフェたちが『2』のハロン棒の地点に横一列に並び、それぞれが発走の構えを取る。
「ゼウス、ストライドが広すぎる」
教官がゼウスに注意する。その声色は冷ややかだ。ゼウスは入学してからというもの、何度もこの教官に歯向かっているので、教官のゼウスに接する態度は冷え込んでいる。
「オレ様はこれぐらいがちょうどいいんだ。バ体が大きいんだよ」
ゼウスの「ちょうどいい」を見てみようと、モルフェは体を捻ってゼウスの広げた脚の幅を見る。どう見ても広すぎである。駈歩の幅だ。発走のときは小幅から始めないといけない。
「これは物理の法則だ。小さいストライドから加速を始めないと、加速力は大きくならない」
「これでいいとうちで雇ったトレーナーから言われてる」
名門の家系では家がトレーナーを雇って、ポニーの専属をさせることも多いらしい。トレーナーのほとんどはトレセンで働いているが、安定した高収入を求めて名門に雇われる者もいる。贅沢なことだ。
「ポニーならそれでもいいが、競走ウマ娘ならそれじゃ困る。これは競走の基礎だ」
「おい! オレ様はライセンスを持ったトレーナーから言われてるんだ! 教官が偉そうに指図するな!」
ゼウスの発言は場を凍らせる。教官はトレーナーライセンスがなくてもできるのだ。教官はトレーナーになる前の下積みをしていたり、教官の仕事が気に入ってやっていたりする。いくらライセンスがないといっても、指導者には変わりない。ゼウスの態度は指導者に対するものではない。
「ならいい。勝手にしろ」
教官の声は凍り付いている。ゼウスはしてやったりの表情だ。
こんなゼウスでも、走るとクラス内ではトップレベルに速いのだ。恵まれたバ体ですべてを解決してしまうのがゼウスだ。まさに才能の塊。モルフェはポニーレース時代、自分よりも技術で劣りながら、才能で上回る相手と何度か戦った。そういう相手を狩るのは得意であり、楽しみなのだ。才能は美味しい夢を生み出す。とはいえ、1ハロンダッシュでゼウスを食べてしまうのは惜しい。やはり未来の獲物の一人とすべきだろう。
Ψ
教官が捨て台詞を残して自分から離れていくのを見て、サンゼウスは満足する。三流の教官を引き下がらせてやった。この教官はトレーナーライセンスも取れないのにウマ娘を指導している無能で、名門であるゼウスに突っかかってくるやっかいな奴だ。こういう、コンプレックスからゼウスに突っかかってくる者は多い。毎回、文句を付けてくる資格がないことを指摘してやらないといけないのだ。
ゼウスは前を向き、スタートの態勢を整える。こちらを見ていたシロガネモルフェも同じように前を向く。モルフェはこちらをじろじろ見ていることがある。モルフェはおそらく、自分が成功していると勘違いしているんだろう。それでゼウスを見下している。モルフェは教官の覚えがいい。家柄がないから必死に媚びを売って、成功したつもりなのだ。トゥインクルシリーズで走るようになれば、すぐに化けの皮が剥がれるだろう。
「位置について!」
ゲート代わりのスターターを務めるウマ娘が赤い旗を上げながら、大きな声を出す。ゼウスの準備は万全だ。
「よーい! ……ドン!」
スターターが旗を振り下ろすと同時に「ドン!」と発声し、それを合図にゼウスとライバルたちはスタートする。
スタートは横一列にならない。ゼウスは少し遅れる。だがそれは想定内だ。ゼウスのバ体は大きいからストライドも大きくなる。だからスタート直後は加速がゆっくりになるのだ。あとから追い上げてしまえばよいだけのことだ。一番うまくスタートしたのはモルフェのようだ。気味が悪いほど滑らかにスタートしている。フライングしたんじゃないだろうな?
スピードが上がるにつれて、ゼウスは他のウマ娘を追い上げる。ある程度スピードが出てしまえばモノが違う。モルフェは少し遠い。スタートがうまかった分、リードしているようだ。だが心配はいらない。モルフェのストライドはゼウスより小さい。あれではたいしたトップスピードは得られまい。
半分の100mを走ったとき、ゼウスは異変に気付く。すべてのライバルに追い着いている。モルフェを除いて。モルフェがまだ1バ身ほど先を走っているのだ。しかも、ゼウスとモルフェの差はほんの少しずつしか縮まっていない。まずい!
ゼウスはありったけの力で加速する。ところが、モルフェもさらに加速する。モルフェのフォームをよく見ると、タネが分かる。ストライドが広くなっている。モルフェは速度を上げるにつれて滑らかにストライドを広げていっているのだ。小さいバ体の奴は小手先のテクニックを使ってくる。
残り50mという所で、ゼウスとモルフェはトップスピードに達する。わずかにゼウスのほうが速い。しかし、できてしまったバ身差を覆すほどのスピード差がない。
モルフェが顔を動かして、後ろを走るゼウスをチラリと横目で見てくる。目を細め、不気味な薄笑いを浮かべている。ゼウスを見下す、いつもの顔だ。腹立たしくてたまらない。
モルフェが顔を前へ向けたとき、モルフェは『0』のハロン棒を通り過ぎる。ゼウスは3/4バ身遅れてゴールする。
まともなレースなら勝っていたはずだ。直線が300m以上あって、襲歩から勝負を始めれば。200mをスタートからなんていう、ひどい戦いでなければ。
Ψ
1ハロンダッシュを終えたゼウスたちはスタート地点に戻るためにコースの端を歩いている。コース内を次のダッシュのグループが走っていく。モルフェは帰りまでもハナを取り、他のウマ娘たちを引き連れている。モルフェにたかっているのは普段からモルフェに媚びを売っている連中だ。連中はダッシュの結果について盛んにモルフェを褒めている。本物のレースで勝ったわけでもないのに、ものが見えていない。
「シロガネモルフェ、いいダッシュだった。まさに手本だ。お前には教えることはないな」
「ありがとうございます。教官」
モルフェがスタート地点まで辿り着くと、教官がモルフェを褒める。ゼウスに接したときと違い、やけに上機嫌だ。モルフェは以前から小手先のテクニックだけはうまいのだ。そのせいで、モルフェばかりが評価される。このままではゼウスの正しい実力が周りに伝わらない。
レースがしたい。レースなら自分が勝つはずなのだ。選抜レースでモルフェと同じレースに出る方法はないだろうか? 同じ距離を選んでも同じレースに出られるとは限らない。人数オーバーになれば、同じ距離のレースが追加されて、抽選で振り分けられてしまう。最初の選抜レースには同期全員が申し込むから、いくつもの同じ距離のレースが作られる。
待てよ、選抜レースの抽選をするのはトレセン学園のスタッフだ。その者さえ押さえれば、振り分けをいじることもできるのではないか……。
Ψ
1月の日の入りは早く、辺りはもう薄暗くなっている。クラス練習の時間はすでに終わっていて、教官と多くのクラスメートはコースを去っている。残っているのは、モルフェ、ゼウス、ネイチャ、4~5人のクラスメートだ。モルフェはゼウスから話があると言われて残り、他のウマ娘はヤジウマである。ヤジウマはモルフェとゼウスの会話が明らかに聞こえるだろう少しだけ離れた所で、二人をうかがっている。夜のコース使用は原則として禁止されているため、モルフェたち以外の者の気配はない。
「モルフェ、お前は選抜レースで使い物になると判断されなければ六平のチームに入れてもらえない、ということでいいな?」
「そうですよ」
「1着が取れなかったら、六平のチーム入りを断れ」
「はぁ?」
モルフェには話が見えない。六平トレーナーがモルフェをチームに入れるかどうかを決めるためのレースなのに、モルフェのほうから断るとは?
「お前が負けても六平がお前を認めてしまうかもしれない。勝てとは言われてないからな。だが、負けるような奴は使い物にならない。だからその時はお前がチーム入りを辞退するんだ」
「私のレースです。ゼウスさんが関わっていないのに、なぜゼウスさんの言う通りにしないといけないんですか?」
「勝つ自信がないのか?」
「私と六平トレーナーの間の話です。ゼウスさんがどう思おうと、どうしようもないでしょうね」
ゼウスはすぐには反応できないようだ。自信があるかどうかの返事によってどう反応するか考えていたんだろう。だがモルフェにとって、この件に関係ない者からの横槍などどうでもいいのだ。
「選抜レースでオレ様に負けても、自信を持って六平のチームに入れるのか?」
「なに言ってるんです? ゼウスさんとどうやって対決すると言うんですか?」
モルフェが質問すると、ゼウスはしてやったりの顔になる。ろくでもないことでも考えているのか。
「選抜レースの振り分けの抽選はトレセン学園のスタッフがやっている。オレ様の祖父はURAの理事なんだよ。スタッフの中には祖父に恩がある奴も多い。祖父からそいつらに圧力をかけさせる。選抜レースの振り分けを正しくやらせればいいんだ。オレ様の実力がモルフェを相手に証明されるように、正しくな」
モルフェが「正しく」の意味を理解したとき、モルフェの中でゼウスの存在が決定的に変わる。もう未来の獲物ではない。今の獲物だ。思わず笑みがこぼれる。ヤジウマたちも言葉の意味を理解したようだ。互いに耳打ちしたりしている。
「フフフ……いいですよ。私が1着を取れなかったら、六平トレーナーのチーム入りを断ります。ただし、ゼウスさんが1着を取れなかったときの条件も決めますよ」
「あぁ? なぜオレ様がそんな条件を決められなきゃならない」
ゼウスは本当に一方的なウマ娘だ。相手に条件を突きつけるのに、自分が条件を突きつけられることは考えにない。それでも構わない。これは三女神様の意思により強制できるのだから。
「ゼウスさんが1着を取れなかったら、夢を諦めてもらいます」
「は? ……バカバカしい。お前がオレ様の夢を知っているとでも?」
「ゼウスさんが自分で知っていれば十分です」
モルフェの言い分にゼウスは困惑を顔に浮かべるが、すぐにあくどい笑みに変わる。
「いいだろう。その条件を呑もう」
ゼウスがあまりにあっけなく受け入れたので、モルフェは満面の笑みをもう我慢できない。ゼウスは自分に何が起こるのか分かっていないのだ。自分の運命を知らない生贄の家畜のようなもの。いざ負けたとなれば、いいかげんな夢でもでっちあげて、それを諦めたと言い張るつもりなんだろう。でもそれはできない。三女神様の力には誰も逆らえないのだ。
三女神様はいつもモルフェを導いてくださる。モルフェは選抜レースで狩る相手が誰になるのか、ずっと気になっていた。相手はすぐそばにいたのに、いつまでもそれに気付かないでいた。だから三女神様はこんなに分かりやすいヒントをくれたのである。
次の獲物をサンゼウスにせよ。三女神様はそう命じている!