0話 憧れた少女
凍えるように寒かった。
私の身体を支配するのはそれだけだった。手足は小刻みに震え、歯はカチカチと鳴り、呼吸は乱れるように浅い。
普通なら身体をさすったり、手のひらに息を吐いたりして暖を取るのだろう。けれど、今の私――
そもそも、今、私の感じてるこの寒さは、周囲の気温がもたらすものではない。身体の内側から這い上がり、全身を蝕んでいく寒さだった。
言うなれば、血の気が引いていく、その感覚が私の身体を支配する寒さだった。それが、身体の熱を、力を、思考力を根こそぎ奪っていた。
その感覚を引きおこしている原因、それは、
――恐怖だった。
「ぎしし!」
虫のさざめきにも似た乾いた嗤いを漏らしながら、私の方へとじわり、じわりとにじり寄ってくるのは、全長十メートルを超える骨格恐竜。
氷柱のような牙。
鞭のようにしなやかな尻尾。
カチ、カチ、と顎を鳴らすその仕草は、
「こ、こないで……」
私は尻もちをついたまま床を這い骨格恐竜から距離をとる―—
「っ!?」
背中に伝わる冷たくて硬い感触。振り返れば、館内を支える円柱が、無情にも私の退路を塞いでいた。
「ぎしゃああああ!!!」
「……っ!?」
爪で黒板を引き裂くような耳障りな金切り声。私は背筋に無数の虫が這い回るような悪寒が全身を駆け巡り、喉まで込み上げた悲鳴は恐怖に押し潰され、かすかな息となって漏れた。
その咆哮に弾かれるように振り返った私。
ドン! ドン! ドン!
咆哮の余韻を打ち消すような重低音とともに、骨格恐竜が一直線に駆け出した。
――に、逃げなきゃ……!
逃走本能は必死に警鐘を鳴らしている。けれど、それとは裏腹に、震える体はぴくりとも動かなかった。いや、そもそも、立ち上がるという動作そのものを私は体に指令を出してない。
視線は骨格恐竜に縫い止められ、意識のすべてが、その巨体だけに囚われていた。
気づけば、その巨体が落とす影が私をすっぽりと包み込む。
未だに心は恐怖で蝕んでいる。それなのに、頭の中だけは、寄せていた波がすーっと引いていくように、不気味なほど静まり返っていた。
おそらく恐怖が限界値を超えすぎて、一周回って悟りでも開いたのだろうと思う。
骨格恐竜は次のフェーズに入り、ぱっくりと口を開けて、私を頭から丸呑みしようとしていた。
――終わるんだ
――ここで終わるんだ
――私の人生がここで……終わるんだ。
死の間際だと言うのに、乱すことなく冷静に私は自身の終わりを自覚する。人は死の間際、走馬灯を見るというが、残念ながら私には何も映らなかった。
当たり前だ。
だって、私は”何か”を成し遂げたこともない。”何か”に人生を懸けたこともない。それ以前に、私はその”何か”すら見つけらてない。ただ漫然と時間だけを浪費して生きてきた。
そんな空っぽの人生に、振り返るほどの思い出なんてあるはずがない。
不意に視界が滲む。
頬を伝う涙は止まることなく私の輪郭に沿って流れていき、ぽたぽたと床へ落ち続けていく。
別に涙を流したいと思って流しているわけではない。ただ、勝手に流れるのだ。自分の意思とは無関係に、涙が勝手に流れるのだ。
故にどうして私が涙を流しているのかその意味は自分でも分からなかった。
その答えを見つけられないまま、骨格恐竜の鍾乳洞のような鋭い牙が目前まで迫る。あと少しで、その牙が私を噛み砕く。あと少しで……
――本当に終わるの?
――私の人生は、ここで幕を閉じるの?
――何も残せなかった人生のままほんとに死ぬの?
「い、やだよ……ひっぐ……ぐすっ……」
堰を切ったように涙が溢れ、嗚咽が喉を震わせて、私は泣いた。
そのとき、ようやく私が涙してる理由に気付く。
――いや……なんだ。
空っぽの人生のまま終わるのが。
何も成し遂げられず、何も残せないまま人生の幕を閉じるのが、どうしようもなく嫌なんだ。
その本心を知った瞬間、抑え込んでいた感情が一気に溢れ出し、気づけば私はその想いを口にしていた。
「こんな……こんな人生で……!」
「ぎしゃあああああああああああ!!!」
骨格恐竜の咆哮すら振り払うように、私は全身を震わせ、喉が潰れることも構わず、魂の底から叫んだ。
「終わりたくないっ!!」
ドゴォォォォォォン!!!!!!
音だけが、世界を満たした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
風を感じる。
土の匂いが鼻をくすぐる。
そして何より、誰かにそっと抱き支えられているような、人肌の温もり。
――生きてる?
朧げな意識の中、私は今、自分の身に何が起きているのか確かめようと、重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
――天使。
暗闇から顔を覗かせたのは、思わず天使と形容してしまうほどに可憐で美しい少女だった。
透き通るように整った顔立ちに、私は息を呑み、目を奪われる。
私の視線に気づいたのか、少女はゆっくりとこちらに顔を向けて、ふわりと微笑んだ。まるで大丈夫だよ、とそう語りかけてくれているような、優しく慈愛に満ちた笑み。
その神々しく眩しい笑みに、私の目も身も心も全て奪われてしまう。しかし、その刹那、突如として、体の内側がふわりと浮くような感覚が私に襲い掛かる。
「へ……?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
背筋を冷たいものが駆け抜け、私は嫌な予感に駆られながら、ぎぎぎ……と錆びついた機械のようにぎこちなく首を下へ向けた。
私の視界に映るのは、恐竜博物館四階フロアの全景だった。
展示品の配置も、広々とした床も、林立する柱も、まるで箱庭を見下ろしているかのように一望できた。
ついさっきまで私を喰らおうとしていた骨格恐竜でさえ、今では米粒ほどの大きさにしか見えない。
「きゃあああああああああ!!!」
私は喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げる。
あまりの高さに全身が総毛立ち、たまらず私は少女へしがみついた。細い肩へ必死に腕を回し、落ちるまいと力いっぱい抱きついたまま、恐怖でぎゅっと目を固く閉じる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう、大丈夫よ」
川のせせらぎのような透き通った声が私の鼓膜を優しく揺らす。
その声に促されるように、私はゆっくりと目を開ける。視界には閉じる前と変らぬ美しい少女の顔が映っていた。
「ごめんね。あなたを助けたい一心だったから、手荒な真似になってしまって」
少女は申し訳なさそうに目を伏せてそう言うと、私をそっと壁際に座らせた。
「きしゃああああああああああ!!!!!」
「っ!?」
夢うつつだった私は、骨格恐竜の怒りに満ちた咆哮により現実へと引き戻される。
「ちょっと待っててね。今、あの『ゴースト』をやっつけてくるから」
少女は安心させるように微笑むと、私の頭を優しく一撫で。それだけで、私の胸を締め付けていた恐怖はきれいさっぱり拭き取られた。
少女は私が安心したのを確認してから、土埃から顔を出した骨格恐竜――もとい、ゴーストへと歩み出す。
その途中。
少女は腰に携えている鞘に手をかけると、すーっと刀を引き抜く。現れた刀身は彼女が身に纏う制服の白と近しい色を示していた。
コツ。
立ち止まる一拍。
少女のローファーが響かせる澄んだ音は、揺るがない自信そのものだった。刀を構える少女に、ゴーストは警戒を強めながら、真正面から向き合う。
館内は静まり返り、張り詰めた空気だけが支配していた。
その緊張に当てられた私は、思わず……
――ごくり。
「きしゃああああああああ!!!」
私の鳴らした喉の音がゴーストの闘争心を刺激させたのか、少女に雄叫びをまき散らす。
少女の腰まで届く黒髪が大きく靡くほどの音圧。だが、それに対し本人は微動だにせず、流麗な佇まいのままそこに立っていた。
雄叫びの余韻が霧散しきる前に、ゴーストは臨戦態勢に移行し、少女へと猪突猛進。
脚が地面を踏みつけるたびに、ドン、ドン、と地響きが響く。
十メートル近い巨体が車の速度(時速五十キロ)ほどで突っ込んでくる状況。私だったら恐怖から背を向けて一目散に尻尾巻いて逃げる。
でも、目の前の少女は違う。
こんな状況下でも、恐怖で取り乱すことなく毅然とした佇まいを崩さず、自分の間合いに来るのをじっと待っていた。
「きしゃあああああああ!!!」
ゴーストは仕留めたと言わんばかりの歓喜の咆哮を上げながら、少女を頭からかぶりつこうとする。
その瞬間。
ゴーストの足元に綺羅星の如き輝きが横一直線の軌跡を描いた。
「きしゃあああああああああああああ!!!!」
ゴーストは大きくのけ反り、天に痛みを訴える。
その轟きが空気を震わせる中、ぱたん、と乾いた音が響く。
音の方向に視線を向けると、先ほどの少女の一閃によって断ち切られた片足が、力なく地に伏せていた。
それは暗に、いずれお前もこうなるぞと、ゴーストの運命の行方を示唆しているような気がした。
痛みの引いたゴーストは、ゆっくりと体を捻り、少女の位置を捉える。
今度こそ仕留める――その意志を宿すように、尻尾を持ち上げた。狙いを定めたゴーストは、それを、少女に叩きつける。
ドゴォォォォォォォン!!!!!!
凄まじい衝撃とともに、地面が爆ぜ、土煙が一気に噴き上がる。尾の一撃はゴースト周辺の展示物を巻き込み、雪崩のように崩壊させた。
崩れ落ちたそれらは瞬く間に塵へと還り、抉れた床の上へ雨のようにぱらぱらと降り注ぐ。
少女はというと、尾の一撃が生んだ爆風を巧みに利用し、その身を高く宙へと躍らせていた。
空中でくるりと、体を捻って、間近の円柱へと軽やかに着地。そのまま流れるように壁を蹴り、骨格恐竜の尻尾を目指す。
「はあ!」
少女は勇敢な叫びを上げ、白刃の残滓を引きながら、尻尾を一刀両断。
「ぎしゃああああ!!」
ゴーストは、走った激痛に耐えきれず、低く歪んだ悲鳴を漏らした。それでもなお、苦悶を振り払うようにして、反撃へと転じる。
少女はゴーストの反撃をひらりと躱すと、次の瞬間には、攻めに転じ、鋭い一撃を叩きこむ。
まさしく蝶のように舞い、蜂のように刺す。その洗練された戦いは、一つの芸術と呼ぶにふさわしく、気付けば私は目の前の戦いに夢中になってしまい、感嘆を漏らしていた。
「凄い……」
――ドクンッ。
心臓が大きく脈打った。
まるで恋に落ちたかのように胸の奥が熱を帯び、その熱は全身へと駆け巡る。息が苦しくなるほど激しい鼓動。にもかかわらず、私はその熱に不思議と不快感はなかった。むしろ、ずっとその熱に身を委ねていたいとさえ思えるほどに心地が良い。
自分の身に何が起きているのか分からず戸惑う。それでも今は、その答えを探すよりも、目の前で繰り広げられる戦いから目を離したくなかった。
「き、しゃああ………」
少女の攻撃の応酬により、ゴーストは満身創痍。
戦う前に轟かせた咆哮の凶悪さは、今は見る影もなく、弱弱しい悲鳴へと退化していた。
ゴーストは少女の強さを垣間見て、自分じゃ敵わないと骨の髄まで分からされたのか、炎のように燃えていた闘争心は、消えかけていた。
――それでも。
「きしゃあああああああああああああああああ!!!」
ゴーストは今までで一番の咆哮を上げて自身を奮い立たせ、消えかかった闘争心を再燃させる。
奮い立たせた勢いのまま、ゴーストは脚を踏み込み、少女へと跳びかかる。
あっという間に陰に包み込まれていく少女。淡い影は徐々に濃くなり――、
ドッゴォォォォォォォォォン!!!
爆ぜる音が、空間そのものを打ち砕いたかのように響き渡った。
衝撃は目に見えぬ波となって広がり、世界の輪郭をわずかに歪ませた。
少女はまたもやゴーストの攻撃の爆風を利用して宙へ舞い、円柱を蹴り、ゴーストへと駆ける。
「きしゃ!」
ゴーストは、避けられることも、抗われることも、すべて織り込み済みだと言わんばかりに、静かに、少女を見据えている。
ゴーストはしっかりと少女が落下する軌道を予測して口を開けた。
この状況は、最悪だった。
少女の身体は宙に浮いており、蹴るべき地もなく、掴むべきものもなく、もはや自分の意思だけで、軌道を変える手段は無いに等しい。
完全に詰んでいた。
誰がどう見ても、終わりの形だった。
――しかし。
「きしゃ!?」
少女はあろうことか、身体をわずかに捻り、ゴーストの捕食を間一髪で回避した。
「はああああああ!!」
裂帛の気合いとともに、少女の振るう刃は骨格恐竜の背中を断ち裂く。
ただ、刃はここで止まることなく、さらに深くへ侵食。
刃が向かう先――青い水晶玉のようなものが腹部の骨骨に厳重に守られていた。
通称『コア』と呼ばれるそれは、ゴーストにとっての生命線で、それを破壊されたゴーストはもれなく消滅――人間でいうところの死を意味する。
刃は抵抗なくお腹へと侵入し、ついにコアを捉えるとそのまま――
一刀両断。
「きしゃあ、ああ……」
ゴーストの断末魔が響く。
両断されたコアは、青い燐光を輝かせながらいくつもの破片となって空へと溶けてゆく。
その情景はまるでダイヤモンドダストの如く幻想的で神秘的であった。
少女は戦いが終わった余韻も味わうことなく、ポケットから黒い端末を取り出して、どこかに連絡していた。
戦いは終わったというのに、私の胸の奥の『熱』は冷めあらぬままだった。むしろ、その『熱』は天井知らずに熱くなっていくようで……
「あ……そっか」
その瞬間、私はようやく気づいた。
この胸を焦がす熱の正体に。
それは、私がずっと探し求めていたもの。
何度願っても。
何度望んでも。
それでも手に入らなかったもの。
それが今、私の中に『熱』となって存在していた。
この『熱』の正体、それは――。
「……これが、”憧れ”なんだ」
その言葉は不思議なくらいに違和感なく胸の奥にすっと溶けていったのだった。