「ん……」
「ひ、光ちゃん!」
目を覚ました私を出迎えたのは、涙ぐんだ凜ちゃんだった。その涙は窓から差し込む温かな陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
「あ、こ、がれ……」
「ひ、光ちゃん……?」
うわごとを呟きながら私はその輝きを求めて手を伸ばす。
突飛な行動を起こす私に凜ちゃんの表情は困惑し、瞳からは頭がおかしくなった私を憂いていた。
凜ちゃんの都合なんか知ったとこかという風に私は迷いなく腕を伸ばし続ける。
ひゅー……
「あ……」
私が輝きに触れる前に一筋の風がその輝きを奪い去ってしまう。
私は腕を伸ばしたまま静止させるが、指先はまだ輝きがそこにあると錯覚しているのか、ぴくぴくと中途半端に動いていた。
「ひ、光ちゃん!」
「!?」
私の名前を叫ぶ凜ちゃんの声が、私を現実へと引き戻す。凜ちゃんは私の右手を両手で優しく、そして、力強く包み込む。
まるで現実へと引き戻した私をもう一度逃避行を起こさないようにという凜ちゃんの意志がこもっているように感じた。
「り、んちゃ……ん」
「ひ、光ちゃん、まだ戦いの疲れが残ってるみたいだから、もうちょっとだけ寝た方がいいよ」
凜ちゃんはそう言って両手で包み込んでいた私の右手を布団へと潜り込ませる。
子供を寝かしつけるように私の頭を優しく、割れ物を扱うかの如く優しく、撫でる。凜ちゃんは安心させるように微笑んでいた。
けれども、隠し切れない悲痛な表情がにじみ出ており、その中途半端さがどことなく曇り空に似ているなと思いながら、いつの間にか私は眠りに就いていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(光ちゃん)
――やめて。
(あなたは)
――やめてやめて。
(いくら努力しても)
――やめてやめてやめてやめてやめてやめて。
(憧れにはなれないのよ)
「やめてえええええええええ!!!」
私は叫びながら飛び起きた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
悪夢を見た私の体は、じめっとした嫌な汗をかいていた。その汗は接着剤のように肌と病院服をくっつけて、その感覚がまた気持ち悪い。
辺りを見渡し、一度目覚めたときにいた凜ちゃんの姿は消失していた。窓から差し込む日差しは明るく、しかし、吹き込む風は冷たさが際立っていた。
今何時だろうと目の前の机にある黒い端末で時刻を確認すると、四月十五日、月曜日、九時と表示されていた。
一度目を覚ました時の、時間をはっきり確認したわけではないのであやふやだけど、肌感的には、お昼ちょっとすぎだったと思う。
そして、数分もしないうちにすぐ、もう一度寝て、現在まで中途覚醒もなく夢の中にいたのなら、私はほとんどまる一日、眠り姫状態だったことになる。
月曜、九時ということは、一限目の授業が始まっているはずだ。
昨日の雫さんの戦いで負傷した体の傷も完治しており、今からでも授業に出ようと思えば全然出れてしまう。
グレーティアの性質上、活動は三年間が限度。それ以降は効果を発現できないため、事実上のゴーストバスターズは引退となってしまう。
三つ葉女学院を卒業後の進路は人それぞれだが、多くの人は三つ葉女学院に貢献したいと思う人が多く、大学などで医学を勉強した後、三つ葉女学院が運営する病院先で勤務したり、或いは、金山理事長の下でゴーストの研究に勤しんだりする。
一番多いのは、ここの教員として働くことで、私の現担任の朝倉先生もその一人だ。
その他は、三つ葉女学院で貯めたお金を使って会社を作ったり、それか、会社を作る前にいったん大学で経済を学んだり、カフェなどの自営業を営んだりと、十人十色だ。
推薦とか海外への留学を希望するのであれば、授業に出てそれなりの成績を収めないといけないが、私の場合、それはあまり考えていない。
万が一気が変わってそれらのことを視野に入ったとしても、私はまだ高校一年生。
挽回のチャンスはいくらでもある。一日くらい欠席しても大丈夫だろう……たぶん。
それに体は完全に回復したけど、心の傷は全然癒えてない。穴が空いたままだ。何せ『憧れ』を失ったのだから。
「はあ」
私はため息をつき、起こしていた上半身をベッドに戻し、白い天井をぼーっと眺める。
あれだけ寝たはずなのに身体は脱力感に満ちていた。
寝ようにも完全に頭は覚醒しきっており、何より寝たらまた悪夢を見そうで怖い。
あの悪夢を……
「憧れになんてなれない……か」
現実世界でも夢の中でも雫さんにはっきりと告げられた。告げられてしまった。よりにもよって憧れの張本人に。
「はは、今思えば私ってバカだなあ。自分が凡人であることは自分で一番理解しているのに。凡人がいくら努力しても凡人であるのは変わりないのに。何が雫さんのようになりたい、だよ!」
自分のバカさ加減にむかつきすぎて、反射的に右手で拳を作り、病室のベッドに思いっきりぶつけた。
あれだけ手に入れたいと願った憧れに今は、嫌悪感しかなかった。憧れは毒だと、人の理性を崩壊させる毒だと身に沁みてわからされてしまったから。
「憧れなんか持つんじゃなかった……て、はは、それも無理な話か」
私は力無く自嘲する。
憧れは恋でいう、一目惚れみたいなものだ。ある種、病気といってもいい。
運命がそうさせたなら自分が望む望まないに限らず、憧れは必然だった。そういう事だ。回避する術なんてない。
それに、あそこで雫さんが助けに来なければ私は今頃、天の上。どっちにしろ袋小路だったわけだ。
「むしろ、これでよかったかもしれない」
雫さんが諦めろと言わなければ私は、永遠とゴールの見えない道を進んでいただろう。むしろ、地獄から引きずり上げてくれたのだから感謝すべきではなかろうか。
「これからどうしようかなあ」
白い天井をキャンパスに未来予想図を描く。憧れを失った今、目指す努力の矛先は、周囲のレベルに追いつくこと、これだと思う。
幸いにも、刀の技術は師匠が教えてくれる。師匠の教えに従っていれば、自ずと周囲との差は縮まることだろう。
問題はパートナーだが、私の希望としては、凛ちゃんか師匠の二人のどちらかがいい。
見ず知らずの人と組むと緊張してしまって、迷惑をかけてしまうかもしれない。
――最悪の場合、命を落としてしまう可能性だって……
それを考慮してあの二人がいいのだが、二人がパートナーを作ったのかは、私の知らぬところ。
もし、作ってた場合、私は諦める他ない。
「私、大丈夫かなあ、この先不安だなあ」
私は将来の不安から、はあ、と盛大なため息をこぼす。
未来予想図を描くのに夢中になっていた私は、三限のチャイムも耳入らず、病室の扉が開くその瞬間まで、自分の世界に入り込んでいったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
がらがらがら。
「あら? 神崎さん起きてたのね」
病室の扉から姿を現したのは、トレイを持ち運ぶ朝倉先生だった。
「あはは、ほとんどまる一日寝てましたから」
「そう、それは良かったわ。病院食を持ってきたけど、食べれそう?」
そう言われて、そういえば昨日から何も食べてなかった事を思い出す。
ぐぅーーー!!
「あ……」
「ふふ、随分とお盛んな事」
「っ~、は、恥ずかしい……」
朝倉先生は手に持つお盆を私の前の机に置く。
「ほら、しっかり食べなさい」
「は、はい。えっと、いただきます!」
病院食なだけあってトレイの上に並べられた料理は色彩折々で、The・健康食を地でいくようなメニューだった。
だからこそ、味付けは薄味で質素な感じかと思いきや。
「おいしい……」
舌も満足なほどにしっかりとした味付けがされていた。
各々の料理を舌鼓しながら食べていった料理は、気づけばもう、すっからかんになっていた。
ちょっと物足りなさはあったが、病院食だから仕方なし。
「ごちそうさまでした! 凄く美味しかったです!」
「そう、それは何よりだわ……よかった思ったよりも元気そうで。水無月さんから相当状態が悪いって聞かされてたから、一体どんな状態かと覚悟してきたんだけど」
「凛ちゃんから?」
「ええ、そうよ。彼女ったら授業中ずっと上の空で、ちっとも授業を聞いてなかったの。友達の心配もわかるけど、そこはちゃんとメリハリをつけるために、水無月さんには、前の神崎さんのように、鞭を施させてもらったわ」
私にトラウマを植え付けた、あの忌まわしき儀式を、あの引っ込み思案な性格の凜ちゃんがクラスメイト達の観衆の前で……それはさぞかし、凜ちゃんにとってそれはそれは、私以上のトラウマになったに違いない。
私のせいで、受けなくてもいい罰を凜ちゃんに受けさせてしまった罪悪感が、間接的に私の心にも鞭でぶたれたような痛みが走る。
「それを
「そう、だったんですか……あれ、なら凜ちゃんは?」
私はきょろきょろと辺りを見渡す。
朝倉先生の話を聞く限り、凜ちゃんはお見舞いに顔を出しても良さそうなのだが、一向に姿を見せる気配がない。
「私が神崎さんと二人でお話しさせてって頼んだのよ。彼女、案外頑固でね。全然首を縦に振ってくれなかったよ。よほど神崎さんが心配だったのね。説得するのに頭を悩ませたわ」
朝倉先生は額に右手を抑え、苦労を露にする。
朝倉先生の酷く疲れ切った表情を見るに、凜ちゃんは余程、首を縦に振らなかったらしい。
凜ちゃんに心配をかけたのもそうだが、朝倉先生にも気苦労をかけたことに申し訳なさを感じてしまう。
「すみません、私のせいで」
私の謝罪に朝倉先生は首を振る。
「いいわ。それほど、神崎さんが大事ってことだから。まったく、こんな友達思いの子なかなかいないんだから、大事にしなきゃだめよ?」
凜ちゃんは授業が身に入らない程にずっと私のことを心配してくれていたことを、今日一日を通して朝倉先生から聞いて本当にいい友達を持ったなあ、と改めて実感する。
だからこそ、もっと大事にしようと思える。
「は、はい。それはもちろんです!」
「ほんとにわかっているのかしら? 今もこうやって心配かけているのに」
私の返事は朝倉先生には信用に欠けるらしい。
疑いの眼差しを向け、現在進行形で凜ちゃんを心配かけていることを咎められてしまう。
「う……えっと、それは」
咎められたことを引き出しに出された私は、言葉を喉に詰まらせてたじろいでしまう。
そんな私の様子を見てからに、朝倉先生は穏やかに笑顔を振りかざし、右手を左右に振る。
「なんて、うそうそ。ちょっとした仕返しを水無月さんの代わりにね。あの子、たぶんあなたのことを怒らなさそうだから」
確かに今の状態の凛ちゃんなら怒るより心配の方が勝つだろう。
元気になった私を見ても安心感が際だち、怒りなんて眼中に留まらないはずだ。
心配をかけた意趣返しとして、朝倉先生が代わりなのはいいけど。
「ううぅ…… 今のちょっと心臓に悪かったですよお」
「そりゃね、仕返しなんだから。ちゃんとあの子の怒りを受けなさい」
「はい……」
昨日から凜ちゃんに色々迷惑をかけてしまったので、その制裁は甘んじて受けることにする。
「さてと、本題に入りましょうか。神崎さんにはちゃんと元気になってもらわないと、水無月さんとの約束を破ることになってしまうから」
おそらく凜ちゃんとの交渉の際に、私を元気づけることを条件に引いてくれたのだと何となく察する。
確かに昨日は心がかき乱されて過ぎて、精神的にも身体的にも元気がからっからだった。
しかし、一日中寝ていたからか、頭は冴え、ベッドの上で色々考えて思考がまとまったことで、もう元気も元気、超元気であった。
「あ、あの、先生」
「あら、何かしら?」
「水を差すようで申し訳ないのですが、えっと、私はもう元気なので、本題に入る必要性はありませんよ?」
「体はね。でも、心は違う。がんばって元気を取り
先程も申告した通り私はもう何もかも吹っ切れて、体も心も元気いっぱい。
朝倉先生は取り繕うなんて言っているが、私は別に取り繕っている自覚はない。自然体だ。
「そんなこと……」
「そんなことあるのよ。神崎さんは自分ではわからないでしょうけど、ずっと死んだ魚のような、
「う、嘘です。だって私は……」
自然体なのに朝倉先生から覇気のない瞳と言われて、私は納得いかなかった。
そんな私に朝倉先生は、腰のポーチから手のひらサイズの開閉式の手鏡を私に渡す。
「嘘だと思うなら、確認なさい。ほら、鏡貸してあげるから、たぶん、自分で見ても一目瞭然だと思うから」
それを手にした私は口のように閉じる鏡をぱかっとこじ開け、顔が鏡に映るように移動させていく。鏡は収まる範囲内で私の顔を局所的に映し出し、
――そして。
「!?」
私は声を犠牲にして、全霊をかけて最大限の驚きを表した。
「うそ、なんで? なんで私、こんな……」
そこに映し出されていたのは、光すら宿ってない真っ黒な瞳。まるで、絶望を表すかのような瞳だった。
この瞳は昨日、私が雫さんと戦う前にすれ違った少女と全く同じ瞳だった。
意味がわからない。
だって私は憧れを諦めたどころか、毛嫌いまでした。
その上、今後の展望を未来予想図に描き、新たな目標まで立てて、わくわくを
「分かったかしら? あなたがいくら元気だと口で言っても、あなたの目は、瞳は、嘘をつかない。ほんと、目は口ほどにものを言うってよく言ったものだわ」
朝倉先生が昔のことわざに感心している横目に私は、あっかんべーとするように、指で瞼を下げて、じっくり観察する。
だが、どれだけ鮮明に見ても、瞳の感情は変わることはなかった。
「神崎さん、あなた昨日、白雪雫さんと戦ったんですって?」
「は、はい」
朝倉先生は昨日のパートナー選抜の話を用いだしてきた。おそらくそれも凜ちゃんから聞いたのだろう。
「水無月さんが言うには、あなたが発狂する前、白雪さんと何か話してたみたいだけど?」
「は、はい。えっと、憧れについて語ってました」
あの会話は、吹っ切れた今でこそ思い出しても胸が痛む、ことはないけど、私が憧れと別れを告げなければ、思い出すに堪えない出来事だろう。
「何言われたの?」
「それは……私は白雪先輩のようにはなれないって、憧れにはなれないって、だから、諦めなさいって……」
「そう、それで? 神崎さんは白雪さんからその言葉を受け取って『はい、わかりました』って納得したの?」
私は、脚を包み込む白い布団に視線を落としながら、とつとつ言葉を零していく。
「さい、しょは、納得できませんでした。けど、戦いが終わり、病室で冷静になって改めて考えると、その通りだなって、納得しちゃいました」
ぽつり、ぽつり、と言葉を零す度に、胸の内側が少しずつ冷えていく。
「当然……ですよね。だって、凡人の私が、いくら努力しても、辿り着けない領域に白雪、先輩がいるんですから……」
笑おうとした。
だけど浮かんだのは、笑顔なんかじゃない。
ひび割れたみたいに歪んだ、自嘲だけだった。
「あ、あはは、憧れって怖いですよね。理性を極限まで刺激して、本能では最初から分かりきってることを理性でかき消すんですから。でも、白雪先輩のおかげで、当たり前のことを知覚できて、諦める決心がつきました」
白雪雫。
その名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。
強くて、美しくて、圧倒的で。
天に二物も三物も与えられた、まさに神に愛された人で。
そんな才能あふれる人の背中を私はずっと追いかけてきた。いつかその背中に手が届くと信じて。
努力を積み重ねていればいい。
傷だらけになってでも進み続けていればいい。
苦しみに耐え、辛さに耐え、それでも前に向いていればいい。
そうすれば、いつかきっと追いつく日が来ると、私は信じて疑わなかった。
――だけど。
現実は非情で、残酷で、私のその想いを容易く打ち破った。
憧れに近づいてると思っていた。
けれどそれは私の幻想で、実際にはただ距離を離されていく一方で、縮まるどころか遠く、遠く離れていた。
私が必死に一歩進む間に、あの人は二歩も、三歩も先へ進んでいく。
私の今までの積み重ねた努力も、傷だらけになってでも進み続けた信念も、苦痛にもまれてなお耐え続けた意思も、無意味で、無価値で、何もかもが無駄だった。
一歩進むのにこれだけ全力投球して、やっとなのに、あの人はそれをあざ笑うかのように、距離を離していく。
お前は”凡人”だと、絶対的な”才能”の差には抗えないのだと、そう告げているみたいに。
そこで理解した。理解してしまった。理解せざる得なかった。
私のような”凡人”がどれだけ足掻こうと、血反吐を吐こうと、所詮は”凡人”の域にしか留まらないだと。
どうして、私みたいな”凡人”が雫さんに追いつけると、同じ土俵に立てるなどと思えようか。
最初から追いつけるはずもないのに。そんな希望なんてあるあずもないのに。
これも全て”憧れ”という呪いのせいだ。
あの輝きに目を奪われたから。
あの輝きに手を伸ばしてしまったから。
現実を知った今、私の胸中を満たすのは、ただただ悲痛だった。
だから私は憧れを、
憎んで
恨んで
毛嫌いして――
諦めた。
「ねえ、神崎さん、あなた気づいてる? 自分が泣いてると言うことを」
「え……?」
言われた私は初めて頬へと触れて、輪郭をなぞるようにゆっくりと目元に向かって右手の指を滑らせる。
そして、目元に触れ、そっと離した。
「なんで……?」
手のひら――正確には人差し指と中指の先にてかりが走っていた。
私は自分が涙している理由が分からず、その答えを探ろうと、湿った二つの指と親指をひたすら擦り合わせた。
自分自身のことなのに、自分のことが分からず困惑してしまう。
「なん、で、? なんで、なんで、なんで! も、う、憧れは、諦めて……」
私が嘆いている間も、雫は、ぽたり、ぽたり、と絶え間なく零れ落ち、シーツにシミを作っていく。
さっきの瞳もそう、今の涙もそう、どうして自分の意思とは裏腹の感情が溢れ出てくるのか分からなかった。
諦めたはずだった。
受け入れたはずだった。
なのに……なのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるような苦しいのだろう。
「違うわ神崎さん。あなたは最初から諦めてなかった。いえ、違うわね。あなたの憧れはずっと輝いてた。それを、神崎さんは無理やり箱に閉じ込めて見えないようにしていただけ」
「違います……っ!」
私は反射的に否定を叫んでいた。
「私の憧れは雫さんにこなごなに砕かれたんです! だから、もう輝きなんて……!」
あの戦いを思い出す。
暴力的なまでの力の差。
圧倒的なまでの技術の差。
――そして。
絶望的なまでの才能の差。
それらの”差”は私の中にあった憧れという宝石を粉々に砕いた――無慈悲に、無情に、無残に。
残ったのは原形すら失った”塵”だけだ。何もない。何かですらない、ただのゴミ。
――そう思っていた。
「くだかれた、ねえ。じゃあ聞くけど、神崎さんは、粉々に砕かれた宝石をみて、あれは、宝石じゃないって思うの?」
「い、いきなり、何ですか?」
朝倉先生の質問の意図が分からずに、答えるよりも先に聞き返してしまう。
「いいから答えて!」
私の聞き返しに朝倉先生は圧をかけるように大きめの声を出して一蹴する。
その圧に私は本能で屈してしまい、口からついて出てしまっていた。
「っ……!? そ、それは、思いません」
「それはどうしてかしら?」
「どうしてと言いましても、そりゃあ、宝石を砕いてるんですから、粉々になろうとも宝石は宝石で――」
そこまで言って私は息を呑んだ。
私はどうして朝倉先生がこの質問をしたのか、その意図を理解した。
砕けてもなお、宝石は宝石のままなのだ。形を失っても、輝きまで消えるわけじゃない。
つまり――。
「あら、気づいちゃった? そうよね。神崎さんは自分で言ってたものね。『憧れを粉々に砕かれた』って。そして、最後にこうも言った。『輝きはもう……』って。これって今の話と合致した内容だと思わない? 神崎さんは、憧れを輝くものだと思っている。つまり。それって例えるなら、憧れを宝石みたいだと比喩しているわよね。だって宝石は輝くから宝石っていうもの。じゃあ、今の話と照らし合わせるとその憧れという名の宝石を粉々に砕いても、なんら変わりはない。ただ、形が細かくなっだけで、輝きは失っていない」
「そ、そんなのは、こじつけ、です」
言いたいことは分かる。
だけど、それはそれ、これはこれだ。憧れを宝石に比喩したとて、私の心はとっくに憧れとはケリをつけている。だから、もう胸はスッキリしていて――。
スッキリ……していて……
「往生際の悪い子ね。素直になったらどう? 憧れは諦めてませんって。薄々自分でも感じてるでしょ?」
「そん……な、こと……」
頭では否定の言葉が完璧に刻まれているのに、口から漏れ出た否定は、完璧とは程遠い歪さを帯びていた。
まるで、自分自身すら騙せていないみたいに。
「もう、仕方ないわね」
朝倉先生は可愛らしく頬を膨らませながら、私の輪郭に沿って伝う一筋の涙を人差し指で掬い上げる。
そして、その拭った人差し指をじっと見つめ――
「えい!」
「んぐ!? うえぇ、しょっぱい……」
舌に乗った自分の涙は、実にしょっぱくて、思わず、顔をしかめてしまう。そんなしかめっ面の私を見て、朝倉先生はくすりと笑う。
「ふふ、ずいぶんしょっぱかったのね。ねえ、神崎さんは、”嬉し涙”と”悔し涙”って耳にしたことある?」
「えっと、は、はい」
もちろん知っている。
嬉しいときに流す涙がうれし涙、悔しいときに流す涙が悔し涙だ。
誰だって知っている、ごく当たり前の言葉だ。
「じゃあこれは知ってる? 二つの涙で”味”が違うことを」
「え、そうなんですか?」
初耳だった。
てっきり、“嬉し涙”も“悔し涙”も、ただ呼び方が違うだけだと思っていた。感情に名前をつけて区別しているだけで、流れる涙そのものは全部同じなのだと。
けれど、朝倉先生はゆっくりと頷く。
「ええ。実は、悔し涙の方がナトリウムが含まれていて、よりしょっぱいらしいの」
「それは初めて知りました。じゃあ、さっき私が感じたのは、悔し、なみ、だ……?」
無意識に私は自分の唇に触れた。
今もなお舌に残る強い塩気は、苦くて、しょっぱくて、胸の奥まで突き刺さるような味。
そして、その味はどこかで見覚えがあった。
それは私がパートナー選抜の際、意識を失う寸前に味わったしょっぱさだった。
あの時、私は圧倒的なまでの敗北を期し、憧れを砕かれ、絶望の淵に扮していた。
自分にはもう無理だと、追いつけるわけもないと、無謀なんだと、届かない現実を知ってもう終わったのだと、そう思っていた。
――諦めた、つもりだった。
あの涙は私の憧れを失わせるための、絶望の涙だと思っていた。でも本当は、その真逆だった。それは、
――希望に満ちた涙だった。
「ねえ、神崎さん。もう、いいんじゃない?」
朝倉先生の優しい声色が、私の胸の内にある想いを掬い上げていく。それと同時にまた涙が溢れていく。
やっぱり、その涙もしょっぱかった。
「正直になりなさいよ。あなたは、最初から諦めてなんてなかったの」
胸の奥に押し込めていた熱い感情が泉のように溢れ出していく。
パートナー選抜のとき。
憧れを砕かれ、絶望の底へ沈みながら、それでも私は手を伸ばし続けた。
雫さんの、塵ひとつないローファー。
凜ちゃんの、こぼれ落ちた涙。
壊れた憧れの残滓《ざんし》に縋るみたいに、私はそれらを“輝き”の代わりにして、必死に掴もうとしていた。
――諦め、きれなかったのだ。
胸を引き裂かれるほど現実を突きつけられても、私の中の憧れだけは、消えてなんていなかった。
憧れはずっと私の中にあったのに、私が見ないふりをしていただけだった。
悔しかった。
悔しくて悔しくて、悔しすぎるくらいに悔しくて、悔しくてたまらないほどに悔しかった。
「ぁ……」
違うと思いたかった。
もう終わったんだって、自分に言い聞かせてきた。
でも、本当はずっと。
ずっと――。
「わ、たし……」
喉が震える。
涙で視界が滲む。
それでも、ようやく掴んだ本心を、今度こそ手放したくなかった。
「わたし、は……!」
胸の奥で
「あきらめたく、ないっ!!」
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
その涙は今まで一番しょっぱかった。でも、それは……、
――私の”憧れ”が死んでいない証だった。