【百合】ゴーストバスターズ   作:空空空空

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20話 災厄な存在

 雫さんとパートナーの契りを交わした翌日。

 

 私たちは任務のため、福岡にある高層ビルの屋上に立っていた。

 

「じゃあ、準備はいい?」

 

「は、はい! が、がんばります!」

 

「よし。じゃあ、行きましょうか」

 

 雫さんはそう言うなり、一切のためらいなく屋上から身を投げ出す。私もその背中を追い、空へと飛び出した。

 

 

 

 

 

                  *

 

 

 

 

 

 商店街のアーケードをくぐると、腹の奥が煮えくり返るような轟きが私の耳に響く。

 

「ぎしゃああああああああああ!!!!」

 

 その雄叫びと共に、ドン! ドン! ドン! と地響きを鳴らしながら、こちらへ迫ってきたのは――

 

「っ……!」

 

 半年前、私が命の危機に瀕したあの日と同じ姿をした骨格恐竜。

 

 あの日と寸分違わぬ姿かたち大きさの、ティラノサウルス。

 

 あの時の私は恐怖に呑まれ、子リスのように怯えることしかできなかった。

 

 正直、今でもあの日の記憶は鮮明だ。トラウマが蘇り、身体は恐怖で震えている。

 

 だけど、あの頃とは違う。

 

 私は足をしっかりと地に踏み締め、背筋を伸ばし、敵の一挙手一投足を見据えている。

 

 もう、怯えるだけの私はいない。

 

 それになにより、私の隣には雫さんがいる。

 

 あの日、命を救ってくれた人。私の人生を変えてくれた憧れの人。

 

 あの日を境に、私はただひたすら、その背中を追い続けてきた。

 

 紆余曲折はありながらも、それでも努力を積み重ねた先で、私は”ゴーストバスターズ”となり、今は憧れだった人のパートナーとして、その隣に立っている。

 

 もう、あの日の私じゃない。

 

 恐怖に怯えるだけだった少女は、もうどこにもいない。

 

 今の私は、人類の希望を背負う。

 

 

 

 

 

 ――ゴーストバスターズだ!

 

 

 

 

「行くよ! 光ちゃん!」

 

「はい!」

 

 雫さんの掛け声と共に、私たちは骨格恐竜――ゴーストへと駆け出した。

 

「ぎしゃああああああああああ!!!!」

 

 ゴーストは、向かってくる私たちに闘志を燃やした咆哮を轟かせながら、腰を捻り、巨大な尻尾を薙ぎ払う。

 

 私は集中力を研ぎ澄まし、縄跳びの要領でタイミングよく跳躍して回避する。

 

 一方、雫さんは、躱す要領はが私と同じだが、着地地点は、その尻尾の上。そこから、不安定な尾の道を覚束なく、軽快な足取りで伝っていく。

 

「きしゃああ!!」

 

 鬱陶しい羽虫を振り払うかの如く、ゴーストは尻尾を激しく振り回す。だが、雫さんはそれすらも利用し、弾かれた勢いで、遙か上空へと高く舞う。

 

 ゴーストは自分より頭上にいる雫さんに釘付けで、足元にいる私への注意は散漫。

 

「はあ!」

 

 ゴーストが雫さんに気を取られている間に私は懐に入ると、左後脚目掛けて刀を振るう。

 

 残念ながらあの時の雫さんのように断ち切ることは出来ず、刃は中途半端な場所で留まってしまう。

 

 それでも……

 

「きしゃあああ!!!!」

 

 ゴーストは痛みの悲鳴とともに体勢を大きく傾ける。

 

「ナイスよ、光ちゃん!」

 

 その声と同時に、雫さんが刃を振りかざしながら、空から舞い降りる。

 

「きしゃ!?」

 

 痛みから解放されたゴーストだが、もう、雫さんの刃は目と鼻の先。

 

「はああああ!!」

 

 一閃。

 

 雫さんの白き刃が、腹部のコアごとぶった斬った。

 

「きしゃ、あああ……」

 

 コアを斬られたゴーストは断末魔を残しながら、骨格を包んでいた淡く青い炎が星屑のように夜空へ溶けていく。

 

 やがて最後の火の粉までも消え去ると――

 

 ドォンッ!

 

 真っ二つになった巨体は左右へ崩れ落ち、商店街を大きく揺らした。

 

 私と雫さんを挟み込むような形に横倒しになった骨格恐竜の残骸を、私は呆然と見ていた。

 

 頭は空白で満たされ、まるで夢でも見ているような心地だった。

 

「光ちゃん!」

 

「しず、くさん……」

 

「やったね! 初めてのゴースト討伐だよ!」

 

 雫さんはそう言って、私に手のひらを向ける。その言葉で夢心地だった私の頭の中は、現実へと引き戻される。

 

 ――やった……

 

 ――やったんだ。

 

 ――私、やったんだ!

 

 その事実を受け入れた私は喜びに満ち溢れ、

 

「はい! やりました!」

 

 私は雫さんの向けられた手のひらに自身の手のひらをぶつけて、ハイタッチをしようとした……

 

 

 

 

 

 ――その瞬間。

 

 

 

 

「!? 光ちゃん!」

 

 切羽詰まった声を上げると共に、雫さんは押し倒す。

 

 ヒュッ!

 

 風を斬るような一筋の残滓を引きながら、私たちの頭上に一本の凶器が素通りする。

 

「エモノ、シトメ、ソコネタ」

 

 ロボットのように、カタコトな言葉が私の鼓膜を震わせる。

 

「く……! よりにもよって”人型”なんて。光ちゃん、立てる?」

 

「は、はい!」

 

 雫さんは私を引っ張り上げて、立たしてくれる。

 

 正面を見た私の視界に映るのは――酷く瘦せこけた男性の姿だった。

 

 身にまとっているのは、薄汚れたTシャツと擦り切れたズボン。

 

 まるで長い間、路上を彷徨っていた浮浪者のような風貌だ。

 

 左手には一本のフォーク。

 

 そして空だった右の手のひらが、不意に淡く輝き始める。

 

 光が収束した次の瞬間、そこには一本のナイフが握られていた。

 

 さらに胸――心臓の位置には、先ほど討伐した骨格恐竜と同じ”青い水晶玉”が埋め込まれている。

 

 淡く燐光を放つそれは、自らがゴーストであることを示唆していた。

 

 ゴーストの多くは『憑依型』と称される、さっきのゴーストのように物質へ憑依し、それを自在に操って力を振ることが出来る。

 

 しかし、ごく稀に、私たちの目の前にいるような、人の姿のまま現れるゴーストが存在する。

 

 『人型』と呼ばれ、ゴーストの中で、最悪の部類に入る存在だ。

 

 憑依能力こそ持たないが、その身一つで振るう戦闘能力は圧倒的。それこそ、先ほど討伐したゴーストが、赤子同然と思えるほどに。

 

 三つ葉女学院では、任務中に隊員が負傷したり、想定外の事態が発生したりした場合に備え、『補欠』と呼ばれる待機要員が配置されている。

 

 そして、その補欠の中には、万が一、人型ゴーストが出現した場合に備え、人型と互角以上に渡り合える実力者が必ず待機している。

 

 それほどまでに、『人型』は危険な存在なのだ。

 

 男はニィっと悪魔染みた嗤いを浮かべながら、真っ黒の瞳はきょろきょろと私と雫さんを交互に品定めをして、そして――、

 

「オマエカラ、タベル」

 

 男は私へと駆けた。

 

 消えたと錯覚するほどの疾風の如き速さ。

 

 男が私の懐にたどり着いたときには、既にナイフを斜め下から斬り上げていた。

 

 私の認識速度すら置き去りにする一撃。

 

 脳は理解しているのに、身体は防御も回避もできない。ただ、その軌道を見つめることしかできなかった。

 

 このままじゃ……!

 

 脳内では危険を告げる警鐘が鳴り響いている。だが、現実では身体は金縛りにあったように動かない。

 

 ――そして。

 

「!?」

 

 白き刃が、男の首を断つ勢いで閃く。

 

 男は一瞬で攻撃を捨て、背中から地面に倒れ込んだ。その反動を利用して身体を跳ね上げ、鋭い蹴りを放つ。

 

 生足が、私の顎を捉えようと迫る。

 

「右に跳んで!」

 

「!?」

 

 雫さんの指示を脳が理解するより早く、身体が反射的に動いていた。

 

 男の蹴りは空を裂き、私の目の前を風圧だけ残して通り過ぎる。その勢いのまま男はバック転のように身を翻し、私たちから距離を取った。

 

 音もなく鮮やかに着地した男は、ゆっくりと視線を私から外す。

 

「シトメ、ソコネタ。オマエ、アト。サキ、ソッチ、シトメル」

 

 濁った声とともに、その双眸は雫さんを捉える。

 

「光ちゃん。今のうちに逃げて」

 

「そ、そんな……! わ、私も一緒に戦います!」

 

 私はもう、雫さんのパートナーだ。

 

 雫さんだけを戦わせて、自分だけ逃げるなんてできない。

 

「今の攻撃で分かったでしょ? あれがどれだけ凶悪か。私一人なら対処できる。でも、あなたを守りながら戦う余裕はない。悪いけど、この場ではあなたは足手まといよ」

 

 男から一瞬たりとも視線を逸らさぬまま、雫さんは冷たく言い放った。

 

 胸に、鋭い痛みが走る。

 

 反論なんてできなかった。たった一度の攻防で、『人型』の強さは嫌というほど思い知らされた。雫さんがいなければ、私は間違いなく死んでいた。

 

 それでも――私は、雫さんのパートナーとして、隣に立ちたかった。

 

「私は雫さんのパートナーです! パートナーが戦うなら、私も――」

 

「これは感情論で片付く問題じゃないのよ!」

 

 鋭い叱責が、私の言葉を断ち切る。

 

 ――その瞬間だった。

 

 私へ向けられた雫さんの視線が、ほんの一瞬だけ男から逸れた。

 

 その刹那の一瞬。

 

「っ!?」

 

 男は間合いを詰め、雫さんの懐に入り、ナイフを先端を雫さんに向ける。

 

「くっ……!」

 

「雫さん!」

 

 雫さんは男の刺突を咄嗟の判断で、刀を盾にして防ぐことが出来たものの、その衝撃までは殺しきれず、後方へ弾かれるように吹き飛ぶ。

 

 私は吹き飛ばされた雫さんを考えるよりも先に追いかけようとしてしまう。

 

 

 

 ――すぐ傍に、『ゴースト』がいることも忘れて。

 

 

 

「ハラヘッタ……」

 

「!?」

 

 男は腹に右手を当て、じゅるりと唾を飲み込むように口端を濡らした。それを左手の甲で乱暴に拭い、舌なめずりをする。

 

 そして――我慢の限界を迎えたように、下からナイフを振り上げた。

 

 その軌道を、私はゆっくりとした時間の中で視ていた。

 

 雫さんが油断していたとはいえ、あの人を吹き飛ばすほどの一撃だ。その腕力がどれほど規格外なのかは、考えるまでもない。

 

 そんな剛腕から繰り出された刃を、私なんかが受け止められるはずがない。受ければ、雫さん同様、身体ごと吹き飛ぶ。

 

 かといって、今さら避けようにも遅すぎる。太刀筋は鋭く、速く、私の反応など嘲笑うように迫ってくる。

 

 どうすることもできない私は、恐怖に身体を強張らせ、思わず目を閉じた。

 

 怖い。

 

 死ぬことも、もちろん怖い。

 

 だけど、それ以上に恐ろしかったのは、このまま何もできずに終わることだった。

 

 ゴーストに一矢報いることすらできず、最後まで足手まといのままで終わってしまうこと。

 

 そして、雫さんに私の死という後悔まで背負わせてしまうこと。

 

 ――それだけは、嫌だった。

 

 私が食い下がったせいで、雫さんは隙を突かれた。

 

 あのとき、雫さんの言葉に素直に従っていれば。

 

 私が意地なんて張らなければ。

 

 こんな状況には、ならなかったのに。

 

 私のせいで……

 

 

 

 ――ううん、まだ終わったわけじゃないよ、私! 諦めるな!

 

 

 

 後悔を振り切るように、私は強引に思考を回転させる。

 

 目を開けた私は、絶望的状況から打破するため、時間を置き去りにした感覚の中で必死に考える。

 

 現状、男の刃はすでに私を捉えている。回避は不可能。できるのは、刀で受けることだけ。

 

 だが防御に回れば、そのまま天井まで吹き飛ばされる。

 

 商店街を覆うアーチ状の天井。その高さに届くまでに、足で着地できればいい。

 

 失敗すれば――おそらく、死ぬ。

 

 私は助けてくれたあの日を思い出す。

 

 雫さんが、骨格恐竜の攻撃後の爆風を利用して宙を制した光景。

 

 ――大丈夫。私ならできる!

 

 自分に言い聞かせ、刃の軌道へ自身の刃を重ねる。

 

 ――そして。

 

 甲高い金属音。

 

 手に物凄い衝撃が走るのと共に、視界が反転。

 

 まるでジェットコースターのような加速と暴風。

 

 私の身体はみるみると天井への階段へとひた走る。

 

 そんな中、私は必死に身体を捻らせて、無理やりにでも脚からの着地の体勢を目指していく。

 

 ――くっ! 風圧が凄くて、思った通りに身体が動かせない。

 

 思った以上の加速で放り上げられ、暴風の中での身体は融通があまり効きにくく悪戦苦闘する私。

 

 ――出来る、出来る、出来る、出来る!

 

 肌感で天井までの距離はだいたい分かる。もう残り数メートルもない。それでも、私は鼓舞することで、冷静に身体を制御していき――。

 

 

 

 

 

 

「はあ……はあ……」

 

 荒い息遣いだけが、やけに大きく響いていた。

 

 ――かろうじて、命は繋いだ。

 

 そう思った、刹那。

 

 男が跳んでいた。

 

 何十メートルもの距離を無視するように踏み込み、空間を蹂躙しながらこちらへ迫ってくる。

 

「くっ……!」

 

 人の身体能力を軽く凌駕する、人型ゴーストに苦悶の表情を私は浮かべてしまう。

 

 その勢いは一切の衰えはなく、跳躍の最中、ナイフと刀が交差する。明確な殺意が、空中でこちらへ向けられていた。

 

 ――迎え撃つしかない。

 

 私は覚悟を決めて、曲げていた膝を伸ばし男へと立ち向かう。

 

 男はクロスを崩し、右手を自身の左腰辺りに引き寄せる。おそらくは、間合いに入った瞬間に右斜め上へとナイフを振るうのだと見て取れた。

 

 なら、間合いに入られる前に私が刀を振るえばいい。

 

 刀のリーチはナイフを圧倒している。

 

 空中では回避もできない。先に斬り込めば、相手は防御せざるを得ない、少なくとも確実な生存は約束される――はずだった。

 

「なっ……!? くっ!」

 

 不意に男は左手を器用に動かし、フォークを鷲づかむように持ち替えた。そして、自身の右肩にそれを持ってくると、思いっきり私に投げ飛ばした。

 

 ヒュッ!

 

 風を斬る乾いた音。

 

 私は投げられたフォークの対処に、刀を盾にして防いだ。

 

 音に反して、手に伝わる衝撃は重く、一瞬だけ腕が痺れる。

 

 その痺れに一瞬だけ気を取られている間に、ゴーストは、本来は薙ぐはずだったナイフを、刺突するように正面へと差し出す。

 

 伸ばした肘の長さも加わって、間合いはほぼ消えており、私は刀を盾にする動作から他に移行する暇がない。

 

 そして、ナイフの切っ先は、その軌道上からズレる位置――私の脳天へと収束していた。

 

 このままだと、私の脳天はくし刺しに。

 

 だけど、もう防御の手札は切っている。

 

 ――これで、終わり……? ううん、ダメ! 

 

 ――最後の最後まであきらめちゃダメ!

 

 ――防御が出来ないなら、無理やりにでも回避するまで!

 

 私の意識は回避一点に絞る。

 

 私は力の限り腰を無理やりでも捻った。

 

 次の瞬間――ナイフの切っ先が、髪をかすめて突き抜けた。

 

 間一髪で回避した私は、無意識に刀を構えて、捻転力を生かした斬り払いをお見舞いする。

 

 刃は男の腰辺りを捉えた。

 

 男は今もなお、体勢は変わらず、ナイフを天井に突きつけてる形。

 

 男は首を動かし、私の刃の軌道を視線でなぞる。だけど、それだけで、身体はそれに反応できていない。

 

 胴と脚を断てば、それで十分だ。コアが無事でも戦闘不能にはできる。

 

 ――いける!

 

「はああああああ!!!」

 

 私は闘気の雄叫びを上げながら、渾身の刀を振るった。

 

 

 

 

 

 私の刃は――

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 男の左手にあるフォークに阻まれていた。

 

 予想だにしない光景に、私の思考はかき乱されていた。

 

 私の刃はフォークの隙間にぴたりと挟まっていた。

 

 しかも、渾身の一撃だったはずなのに、男はまるで子どもの遊びでも受け止めるかのように、軽々と受け止めている。

 

 男は口元を歪めると、身体を翻し、手にしたナイフとフォークを私へ投げ放った。

 

 私は迫り来る凶器を必死に刀で弾く。

 

 だが、男は次々とナイフとフォークを生成し、休むことなく投げ続けてくる。

 

 凶器の嵐をどうにか捌くも、しかし落下姿勢は崩れたままだ。

 

 このままでは背中から地面へ叩きつけられる。

 

 数十メートルの高さからの落下。重力は容赦なく私を引き寄せ、凶器を弾くたびに体勢はさらに乱れ、落下速度は増していく。

 

 立て直す余裕などない。

 

 防ぐだけで精一杯だった。

 

 体勢を変えようにも、凶器の応酬に対応を見舞われ、身動きは取れず、今度こそ、万事休すだった。

 

 ――ああ。これで、終わりなんだ。本当にこれで……

 

 ただ、迫りくる死を、不思議なくらい冷静に事実として捉えていた。

 

 ――せっかく、雫さんの隣に立てたのに……でも、それは仕方ない。だって、私が招いたことだから。私が悪いから。これは、私の因果応報。受けるべき罰なんだ。

 

 それでも――

 

「もっと……一緒にいたかったなぁ」

 

 私が死ねば、雫さんはきっと、この死を一生背負ってしまう。

 

 そんな未来だけは嫌だった。

 

 本当に、嫌だった。

 

 しかし、もう叶わぬ願い。

 

 だから私は最後に、雫さんに向けて。

 

「ごめん、なさい……!」

 

 そう、小さく呟いた。

 

 ――その瞬間。

 

「光ちゃん!」

 

 心地よい声が私の鼓膜を優しく叩く。

 

 ゴーストもその声が届いたのか、意識が雫さんの方へと向く。

 

 攻撃が一瞬途切れた隙を突き、雫さんは一気に私との距離を詰めると、落下する私を抱き留めた。

 

 しかし、ゴーストも黙って見送るほど甘くはなかった。

 

 遠ざかる私たちの背中へ向け、無数のナイフとフォークを容赦なく投げ放つ。

 

 銃弾のような速さで飛んでくるそれらを、雫さんは後ろに目があるかのように、全て紙一重で躱していく。

 

 そのまま商店街を駆け抜け、大きな広場へ飛び出すと、飛来する凶器の軌道を読んで鋭く進路を変え、一気に射線から離脱した。

 

「光ちゃん。私があいつの注意を引きつける。隙ができたら合図するから、その瞬間に攻撃して。いい?」

 

「え……?」

 

 思わず間の抜けた声が漏れた。

 

 また「逃げて」と言われるものだとばかり思っていた。

 

 だけど雫さんはそうは言わず、私を戦力として組み込んだ作戦を立ててくれた。その事実が信じられず、私は返事をすることさえ忘れ、ただ雫さんを見つめていた。

 

「……嫌ならいいわ。その時は、私が一人で片付けるから」

 

「や、やります! やらせてください!」

 

 言い切ったあとになって、ようやく胸の奥がじんと熱くなった。

 

「じゃあ、よろしくね」

 

「はい!」

 

 作戦を確認し終えた、その瞬間。

 

 男がゆらりと姿を現した。

 

「コレデ、オワリ、スル。ソロソロ、ゲンカイ!」

 

 飢えを隠そうともせず、その濁った声には獲物を喰らいたいという欲望だけが滲んでいた。

 

「行くよ! 光ちゃん!」

 

「はい!」

 

 雫さんは地を蹴り、男との距離を瞬く間に詰める。

 

 二人の剣戟が激しく交錯し、飛び散る火花が縦横無尽に闇夜を照らす。私は巻き込まれないよう距離を取りながら、その攻防を固唾をのんで見守る。

 

 男は雫さんへの対処で手一杯なのか、私には目もくれない。それほどまでに、ゴーストは雫さんを脅威と見なしている証拠。

 

 とはいえ、雫さんの表情は著しくない。その表情は苦悶に満ちていて、額には汗が滲んでいた。

 

 相当に余裕が無いことが明白だ。

 

 激しい剣戟が交錯する中、ゴーストは時々、痛みを訴える声が轟いていた。現状は、雫さんの方が、一枚上手のようであった。

 

 ――だけど、それはあくまで『今』だけ。

 

 ゴーストには、人間のように疲労するという概念がない。それは、人間である雫さんにとってあまりにも酷な条件だった。

 

 長引けば長引くほど、その差は確実に雫さんを追い詰め、やがて今の優勢さえ覆してしまうだろう。

 

 以前、SNSで見た雫さんの投稿を思い出す。

 

 去年の十二月頃、人型ゴーストを討伐した時の写真には、コアを両断した姿と引き換えに、全身へ傷を負った雫さんの姿が写っていた。

 

 あの勝利も、決して楽なものではなかったはずだ。

 

 もし無尽蔵の体力が有していたなら、雫さんは傷一つ負わず勝てるのだろう。

 

 だけど現実は違う。

 

 時間が経てば、この戦況はいずれ覆る。

 

 しかも、人型ゴーストはコアを破壊しない限り、半永久的に存在し続ける。

 

 朝四時を迎えれば、ゴーストの活発化は収まるのと同時に、ゴーストへの攻撃は一切通用しなくなる。

 

 それまでに決着をつけられなければ、この人型は翌日もどこかに存在し続ける。再びこの地に現れるかもしれないし、別の場所へ移るかもしれない。それは誰にも分からない。神のみぞ知る領域だ。

 

 そして、その影響は翌日の任務に向かう別の誰かへと及ぶ。

 

 人型と戦うに足る実力を学院に認められた者ならまだいい。

 

 けれど、そうでない者が遭遇すれば、命を落とす危険すらある。

 

 そんな結末になれば、雫さんの今の頑張りは無に帰るどころか、討伐し損ねたという事実が、きっと深い罪悪感となって心を蝕むだろう。

 

 それだけは、絶対に嫌だった。

 

 それに、もしこの場で討伐し損ねたとすれば、その責は私にもある。

 

 最初に雫さんの指示を聞かなかったせいで、本来なら避けられたはずの消耗を与えてしまった。

 

 もしそれがこの戦いの結末を左右する決定打になったのなら――その責を負うのは、私だけでいい。身勝手に招いた結果だ。それは甘んじて受けるつもりだ。

 

 けれど、その結果として誰かにまで必要のない罪を背負わせることだけは、したくなかった。

 

 そんな未来だけは、絶対に避けなければならない。

 

 だからこそ私は、雫さんの戦いを無駄にしないために。

 

 そして、未来を掴むために。

 

 雫さんの合図が来た、その瞬間に迷わず動けるよう、全神経を戦場へと研ぎ澄ませた。

 

 雫さんの呼吸が乱れていき、徐々に戦況の均衡が崩れ始めていた。

 

 そして――

 

 雫さんの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。

 

 疲労が積み重なった末に生(・)ま(・)れ(・)た(・)よ(・)う(・)に(・)見(・)え(・)る(・)、刹那にも満たない隙。

 

「メシダアアアアアアア!!!」

 

 ゴーストは歓喜の雄叫びを上げ、勝機とばかりに右手のナイフを大きく振りかぶる。

 

 その一撃を誘い出すには、十分すぎる"隙"だった。

 

 ナイフが雫さんを捉えた瞬間、鋭い金属音が響いた。

 

「ナ!?」

 

 雫さんはナイフを真正面から受け止めたのではない。刃を左斜め下へと流し、その軌道に沿ってナイフを滑らせたのだ。

 

 勝利を確信していたゴーストは反応が一瞬遅れる。滑り落ちるナイフを咄嗟に手放せず、身体ごと前へ引っ張られて、大きく体勢を崩した。

 

「光ちゃん、今!」

 

 雫さんの合図とともに、私は地を蹴った。

 

 ゴーストの背後から、私は迷わず刀を振り下ろす。

 

 刃は右肩口から深く食い込み、手には本物の肉を断つような、生々しい感触が伝わってくる。

 

 それは、訓練の授業で人間を模した人形に振るったときの感触と同じだった。

 

 訓練では、人型との戦闘に備え、人間を模した人形を相手に刀を振るう授業があった。

 

 人体の感触まで再現されたその訓練は、飛び降り訓練以上に残酷だった。

 

 精神的に追い詰められ、涙を流す者もいれば、体調を崩す者もいた。

 

 私も例外ではない。恐怖で身体の震えが止まらず、立っていることすら苦しかった。

 

 それでも、生徒たちは辛いながらも必死に向き合い続け、その訓練を乗り越えてきた。

 

 あの過酷な訓練を乗り越えたからこそ、この感触に動揺することはなかった。

 

 ――だけど。

 

「や、めて、くれ……」

 

「!?」

 

 男は苦しげに首をこちらへ向け、悲痛な表情で声を絞り出した。

 

 訓練用の人形はいくら斬っても、苦しむことはない。命乞いをすることも、恐怖を浮かべることもない。

 

 だけど、目の前の人型ゴーストは違った。死を前にした恐怖が、その声にも、その表情にもありありと浮かんでいる。

 

 今まで聞いてきた濁った声も、今まで見てきた虚ろな姿はどこにもない。

 

 目の前にいたのは、死を恐れ、助けを求める一人の”人間”だった。

 

 その姿に私は息を呑み、気づけば振り抜くはずだった刃は止まっていた。

 

 その隙を、ゴーストは見逃さなかった。

 

 ナイフを手放し、滑り落ちる勢いを利用して腰を捻る。

 

 振り向きざま、左手のフォークを私の側頭部めがけて突き出した。

 

 反応が遅れた私は、迫りくる切っ先を見つめることしかできない。

 

 その先端が目と鼻の先まで迫った――その瞬間。

 

 フォークは、不意にその勢いを失った。

 

 何が起きたのか理解する間もなく、男の身体はコアごと真横に両断されていた。

 

 一拍遅れて、その身体は切断面を境に静かにずれ落ちると、やがて全身は青いガラス片へと姿を変えて、夜空へ吸い込まれるように舞い上がっていった。

 

 こうして、人型ゴーストとの死闘は静かに幕を下ろした。

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