「あ! ひ、光ちゃん」
目を覚ました私を見るなり、凜ちゃんがほっと胸を撫で下ろす。その双眸には、今にもこぼれ落ちそうな涙が滲んでいた。
この学院に来てから、まだ一ヶ月も経っていない。
それなのに、この病室の天井や白いカーテン、消毒液の匂いまでもが、妙に見慣れたものになっていた。
もはや第二の実家と言ってしまってもいいくらいだ。
窓の外へ目を向けると、空はすでに薄闇に包まれ、一日の終わりを静かに告げている。
全身の傷は完治してるものの、しかし失った血液まで元通りになるわけではない。。体は鉛のように重く、起き上がるだけでもひどく億劫だった
「凜ちゃん。私、どのくらい気を失ってたの?」
「あ、えっと……ろ、六時間くらいかな」
私と立花さんが戦ったのは、十三時半。そこから六時間もの間、気を失っていたのだとしたら、今は、十七時半。
あと三十分で師匠との鍛錬の時間だ。
行かないと。
師匠は私との鍛錬を大切にしている。そのひと時を台無しにするようなことはしたくない。
それに、眠っていた時間の遅れを、少しでも強さで取り返さなければ、雫さんとの差は開いていく一方だ。
そう自分に言い聞かせると、私は全身を覆う倦怠感に抗うように身体へ鞭を打ち、無理やり上体を起こした。
「ひ、光ちゃん。もうちょっと寝てた方がいいよ」
「あはは。もう大丈夫だから気にしないで。それに、もうすぐ師匠との鍛錬があるから――あっ……」
貧血の状態でいきなり上体を起こしたせいだろう。
ぐらり、と視界が揺れ、一瞬だけ意識が遠のく。倒れそうになる身体を、私はどうにか踏みとどまった。
「神崎さん。無理は身体に、毒、ですよ」
「し、師匠!?」
「あ、嵐山さん!?」
聞き慣れた穏やかな声に振り向くと、病室の入り口には師匠が静かに立っていた。私と凜ちゃんは、揃って目を丸くする。
「ほら、神崎さん。病院食を持ってきましたから食べてください」
師匠は、私たちの驚いた様子など意にも介さず、料理の載ったトレイを私の前にあるテーブルへ静かに置いた。
「私が神崎さんを看てますから水無月さんは何か食べてきてください」
「え? えっと……わ、わたしは別に食べなくても……」
煮え切らない返事を聞いた師匠は、「はぁ……」と深々とため息を吐く。
「せっかく四季が気を遣ってあげたのに……もういいです。では、単刀直入に言います」
師匠は凜ちゃんの体全体を見渡すと、
「水無月さん。汗臭いので、お風呂に入ってきてください」
「く、臭っ!?」
あまりにも遠慮のない物言いに、凜ちゃんは肩をびくりと震わせ、その場で固まってしまう。
「はい。臭いです。なので速やかにお風呂に入ることをお勧めします。『神崎さん』に臭いと思われたいなら別にいいですけど」
「っ!?」
私の名前が出た瞬間に、凜ちゃんの体は大きく弾み、右手で自身のジャージの胸元を引っ張る。
そして、くんくんと犬のよう嗅ぐと、「ううぅ……た、確かに、く、臭いかも……」と表情を曇らせた。
それでも私の傍を離れたくないのだろう。凜ちゃんは私と自分の体へ何度も視線を行き来させ、どうするべきか迷うように唇をきゅっと噛んだ。
「え、えっと。ひ、光ちゃん。わ、わたし、お風呂入ってくるから。えっと、その……す、少しの間、嵐山さんに看てもらって。ほ、本当にご、ごめんね。い、急いで戻ってくるから!」
しばらく葛藤した末、凜ちゃんは名残惜しそうに私を見つめ、お風呂へ向かう決心をした。
「あ、ちょっと待ってください」
扉に手をかけた凜ちゃんに師匠はストップをかけた。振り返った凜ちゃんは眉間に
「な、何、かな?」
「神崎さん。それだけじゃ足りませんよね?」
「え?」
「足りないようなので、おにぎり二つと後は、クッキー的なお菓子を買ってきてください」
私が口を開くよりも早く、師匠は当然のように凜ちゃんへお使いを頼んだ。
「し、師匠!? わ、私、何も――むぐっ!」
反論しようとした瞬間、師匠の手が私の口を塞ぐ。
「た・り・ま・せ・ん・よ・ね!」
一語一語に重圧を乗せるような凄みのある声音。
有無を言わせないその迫力に、私は本能的に逆らえず、口を塞がれたまま激しくうんうんと首を縦に振る。
「あ、う、うん。わ、分かった、よ。ひ、光ちゃん。他にほ、欲しいものある?」
「あ、ええっと……だ、大丈夫」
私の返事を聞くと、凜ちゃんは「わ、分かった」と小さく頷き、慌ただしく病室を後にした。
「な、なんで師匠は凜ちゃんにあんなお使いを頼んだんですか? それに、私まで強引に肯定させて……何を考えてるんですか?」
師匠は凜ちゃんの去って行った扉の方角に視線を向けたまま口を開く。
「水無月さんはあなたのことになると周りが見えなくなりますから。きっとご飯も食べずにあなたの体調が良くなるまで、ずっと傍でつきそう、そう思いました。」
その声音には凜ちゃんの
確かに凜ちゃんの献身ぶりを
実際、師匠に食事を勧められたときも、「わ、わたしは別に食べなくても……」と遠慮していた。
あの反応は、私を優先して食事を抜くつもりだったのだろうと思う。師匠の見立ては、おそらく間違っていない。
師匠は小さく「はあ」とため息をつき、どこか困ったように肩をすくめると、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「水無月さんは神崎さんのことを愛してやまないらしいので、その想いを少しだけ利用させていただきました」
「あ、もしかして、匂いを指摘したのって」
師匠は私の言葉に「はい」と頷いた。
「水無月さんは訓練が終わると、シャワーも浴びずに真っ先にあなたのもとへ駆けつけていました。それを知っていたので、あなたの前で体臭を指摘すれば、『臭いと思われたくない』という気持ちから、さすがに一度はあなたの傍を離れるだろうと考えたのです」
師匠はその後に肩をすくませながら「ただ……」と言葉を続ける。
「ちょっと、危なかったですがね。まさか、あそこであれほど迷われるとは思っていませんでしたが」
その表情は呆れているというより、水無月さんの一途さを改めて思い知らされた、と言いたげだった。
「ここからは神崎さんの疑問についてですが、四季は、水無月さんに『食事を済ませてきてください』と伝えたところで、あなたのことが気掛かりで、ろくに食べもせず戻ってくるだろうと考えました」
確かに、さっきのやり取りを思い返しても、凜ちゃんにとって食事は自分の中で優先順位の低いものだった。私の傍にいることのほうが、よほど大切なのだ。
だからこそ、たとえ食事を勧められても、私のことが気掛かりで、ろくに食べもせず戻ってきてしまう。
そして、「ちゃんと食べてきたから大丈夫だよ」と、何事もなかったように微笑み、私を安心させようと誤魔化すのだろう。そんな姿が容易く目に浮かぶ。
「そこで、あのお使いです」
びしりと師匠は人差し指を伸ばす。
「神崎さんが『これを買ってきてほしい』と頼めば、水無月さんはその願いを何よりも優先します。あなたなら尚更です」
そこまで聞いて、私はようやく師匠の真意を理解した。
「あ……もしかして、私に何か買ってきてって頼んだのは、私のためじゃなくて……凜ちゃんのため、だったんですか?」
師匠は私の問いに、「ええ、そうです」と頷く。
「あれは、いわば水無月さんにきちんと食事を摂ってもらうためのお使いです。神崎さんだって、食事をしている姿を見られれば安心でしょう?」
「もちろんです」
「な・の・で」
師匠はぐっと身を乗り出し、私の目の前へ人差し指を突きつけた。
「神崎さんは、水無月さんが買ってきたものを絶対に食べてはいけませんよ! 絶対に、です」
「わ、分かりました」
その気迫に押され、私は思わず背筋を伸ばして師匠の忠告に頷く。師匠はそれを見て「よろしい」と一言だけ残し、私から顔を離した。
「では、神崎さんも、ちゃっちゃと料理を食べてください」
「えっと、師匠……」
「なんですか?」
「今日の鍛錬は、やっぱり中止……ですか?」
「そんなの当たり前ですよ。ご自身の状態を見れば分かるでしょう。無駄口を叩いていないで、さっさと食べてください」
「……そう、ですよね」
分かっていた。
上体を起こすだけで立ち眩みがする今の私に、まともな鍛錬などできるはずがない。
そんなことは、誰よりも自分が一番よく分かっている。
それでも、胸の奥では「強くなりたい」という想いが
そして何より、師匠が大切にしてくれている鍛錬の時間を、私のせいで潰してしまうことが申し訳なくて仕方なかった。
それでも、この身体では何一つできない。悔しくても、もどかしくても、その現実を受け入れるしかなかった。
「師匠……ごめんなさい」
「なんですか、
「だって……師匠は私との鍛錬の時間を大切にしてくれているのに、それを無駄にしてしまって……」
師匠は小さく息をつくと、呆れたように肩をすくめた。
「別に、あなたの責任ではありません。今は余計なことを考えず、さっさと食べてください。冷めたら、せっかくの料理が台無しですし、何より作ってくれた人に失礼です」
「……そうですね。いただきます」
師匠に促され、私は箸を取り、料理に口を付ける。優しい味がして、張り詰めていた心も、その温もりとともに少しずつほどけていくような気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ひ、光ちゃん! か、買ってきたよ!」
そう言って凜ちゃんは、手に提げた白い袋を掲げる。薄い袋越しには、おにぎりが二つと、お菓子らしきものが入っているのが見て取れた。
「ありがとう、凜ちゃん」
ちょこちょこと凜ちゃんは私のもとへ小走りで駆け寄ると、テーブルの上に袋の中身を一つずつ並べていった。
ついさっき病院食を食べたばかりだというのに、目の前に並んだおにぎり二つとクッキーを見た途端、眠っていた食欲がむくりと顔を出す。
並べられた食べ物をじっと見つめていると……
「こほん!」
「っ……!」
すぐ傍からわざとらしい咳払いが聞こえた。視線を向ければ、師匠が鋭い眼差しで私を見つめていた。
「あ、えっと、凜ちゃん。ごめん。せっかく買ってきてもらったんだけど、えっと、私、お腹いっぱいで……」
「そ、そうなんだ……」
「ほ、ほんとにごめんね!」
「あ、ううん。き、気にしないで、いいよ」
「だから、その、せっかくだから買ってきたものは凜ちゃんが食べてよ」
「う、ううん。も、もしかしたら、ひ、光ちゃん。急にお腹が空くかもしれないから、取っておく、よ」
「え? あ……」
凜ちゃんは万が一に私がお腹が空いたときに備えて、保存しておく選択肢を取り、テーブルに並べられた食べ物をもう一度、袋に入れなおす。
私はまさかの行動にあっけに取られてしまい、固まったまま動けなかった。
「じゃあ、四季が食べますね」
「え……? あ!」
師匠はおにぎりを一つテーブルから手に取ると、躊躇することなく、包装を開封していく。
「あ、嵐山さん! な、何してるの!?」
「何って、おにぎりを食べようとしてるだけですが?」
あまりにも当然といった口調に、凜ちゃんは目を丸くし、口を半開きにしたまま言葉を失う。
「あ……すみません。やっぱり急にお腹がいっぱいなったので、水無月さんに差し上げます」
「そ、そんな、勝手な!」
「ですが、どうします? もう開封してしまいましたし、このまま放置するのももったいないでしょう?」
師匠は右手に持つおにぎりをわざとらしく上げ下げして、凜ちゃんに視線誘導していく。凜ちゃんの視線は、まるで吸い寄せられるようにおにぎりを追う。
くきゅるるる……。
「あう……」
凜ちゃんの胃がおずおずと手を上げ、空腹を自己申告する。
「ほら、水無月さん、お腹が空いているみたいですし、食べてください。ここで倒れられたら、困りますし……ね?」
師匠は私にちらりと目配せをする。何を言ってほしいのか、瞬時に理解した私は小さく頷き、その意図に応えるように口を開く。
「う、うん。凜ちゃん、私のことは気にしないで食べて。凜ちゃんが倒れたら、私、悲しいから」
「悲しい……。わ、分かった。じゃ、じゃあ遠慮なく、い、いただくね」
凜ちゃんは私の「悲しい」という一言に背中を押されたように、小さく頷くと師匠からおにぎりを受け取った。
そして、おずおずと一口頬張り、もぐもぐと食べ始める。
頬をいっぱいに膨らませて夢中で頬張る姿は、まるで子リスのようだった。その愛らしい様子を眺めているだけで、私の頬が自然と緩んでしまう。
師匠と私は、そんな凜ちゃんがおにぎりを食べ終えるまで、見守り続けたのであった。
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「それにしても、神崎さん。とんだ『災難』でしたね」
師匠の指す『災難』とは、おそらく、立花さんとの模擬戦のことを言ってるのだろう。
「さ、流石にあそこまでやるのは、違うよ! 見てて凄く辛かった……」
凜ちゃんはあの光景を思い出したように表情を悲痛で曇らせ、小さく俯いた。
「水無月さんあの後、立花さんに食ってかかっていましたからね」
師匠のその一言に、私は目を見開く。
「え……!? り、凜ちゃん、本当なの!?」
「だ、だって……ひ、光ちゃんを、あ、あそこまで傷つけたから……ゆ、許せなくて」
「勢い余って楯突きすぎて、危うく立花さんに殴られそうになりましたけどね」
「えええっ!? り、凜ちゃん、大丈夫だったの!?」
「う、うん……。と、途中で朝倉先生が止めてくれたから、大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがほどけるように、私は安堵の息を吐く。
「そ、そうなんだ。よかったぁ……」
まさか、私が意識を失った後にそんな惨劇になっていたなんて思ってもみなかった。
凜ちゃんが殴られかけたと聞いた時は、冷や汗をかいたが、怪我一つなく無事だったと知って、心の底からほっとする私。
凛ちゃんはどこまでも私の事を想っていてくれて嬉しい反面、その想いが強すぎるがあまり、自分の身を
私だって、大切な友達が傷つく姿なんて見たくないのだから。
「立花さん、相当神崎さんを目の敵にしていますからね。当分はつっかかってくるでしょう。なんせ、自ら『天才』を名乗るくらいですから。あの方のプライドは相当高いですよ」
立花さんのプライドの高さは筋金入りだ。今日の戦いでよく思い知った。
立花さんは自らを『天才』と称し、それ以外の人間を見下していた。彼女にとって、自分に及ばない者は皆、『凡人』でしかないのだろう。
一方で、自分が認めた『天才』には惜しみない敬意を向ける。
模擬戦で雫さんについて語る姿は、尊敬というより、もはや崇拝に近いものだった。それが何よりも証左だ。
だからこそ、信じられないのだろう。
『凡人』だと見下している私が、その雫さんのパートナーであるという事実が。
……まあ、その気持ちは私にも分かる。
正々堂々と戦い、雫さんが提示した勝利条件を満たした。その結果、私は雫さんとパートナーになることが出来た。
頭では理解している。けれど今でも、「どうして私が勝てたんだろう」と不思議に思うことがある。
それでも、結果は結果だ。私が勝ち、雫さんとパートナーになったという事実だけは、誰にも覆せない。
……もっとも、半年前の私がその話を聞いても、きっと立花さんと同じように信じなかっただろう。
あの日の勝負を見届けたのは、私を含めた四人だけ。真相を知る者は、それ以外にいない。
事情を知らない立花さんからすれば、私が何らかの不正な手段で雫さんに取り入ったと考えてしまうのも、無理もない話。しかも、学院で最弱の部類に入るであろう私なんかが、だ。
当然と言えば当然だ。
おそらく、立花さんは私が雫さんの隣に立ち続ける限り、突っかかってくるだろうと思う。
「ううぅ……胃がキリキリするよぉ」
私は明日からの学院生活の憂鬱さに弱音を吐き、痛む胃を優しく摩る。
「ひ、光ちゃん! あ、安心して、わ、わたしが命をかけて守る、から!」
凜ちゃんは勢いよく身を乗り出し、「ふんす!」と鼻息荒く意気込んだ。
「うう……ありがとう凛ちゃん。でも、命は大事にして〜」
涙ぐむほど嬉しかったけれど、その頼もしすぎる宣言には思わずツッコミを入れずにはいられなかった私なのであった。