ふくらんだ期待を胸に門を潜り抜けた私だったが。
「そうだった、入場八時からだった……」
自身のドジさ加減の呆れ具合に、せっかく膨らませた期待は盛大なため息により尻すぼんでしまう。
入学式は私の目の前にある赤茶を基調としたバロック調の建物――講堂で行われる。
私は入学式が開始される時間は最重要項目だからしっかり覚えていたものの、入場時間に関しては、見、はしたが、覚えておくほどではないと思い、早急に頭から追いやった。
「せっかく早く着いたから、講堂で仮眠を取ろうと思ったのに……」
昨日は学院での生活のことを妄想するがあまり、なかなか眠りに就けず、ようやく眠りに落ちたかと思えば、夜明け前に目を覚ましてしまう始末。
もう一度寝ようと試みた私だったが、完全に目が冴えてしまい結局寝付くことは叶わなかった。
しかたなしに寝ることは諦めた私はささっと身支度を整えると時間までのんびり一人でくつろいでいた――途中。
いきなりふわっと眠気が襲い掛かり、私は一瞬だけ寝落ち。
不幸中の幸いで、なんとかすぐに目を覚まし事なきを得たが、流石に肝を冷やした私は再び寝落ちしてしまうことを懸念し、学院の講堂で仮眠を取ることを決断。
入場時間が抜け落ちたまま善は急げの気持ちで足早に家から出た私は、結果として、三十分ほど早く着いてしまい、講堂で仮眠すると言う計画はとん挫する羽目に。
「はあ、起きたことは仕方ない。残り三十分、どこかベンチに座って暇をつぶそう……」
私は来た道を引き返して、四方に小道が伸びる校舎前の噴水広場のベンチで腰を下ろす。
学院の敷地内の探索にも出かけようか考えたが、広大すぎるが故、迷子になって、入学式に遅れるなんてことになったら、学院生活での私の立場がなくなってしまう。
それは是が非でも回避したかった私は、探索を断念し大人しく待つことにした。
携帯を取り出して、母に学院に早く着きすぎて講堂が開いてなかったことを、照れてるうさぎのスタンプと共にメッセージに送信して自身の失敗談を茶化す。
「もしかして、光ちゃん?」
川のせせらぎのような透明感ある声音が私の鼓膜を心地よく叩いた。
私はその声にそっと手を引かれるように、ゆっくりと顔を上げる。
――天使がいた。
絹のように長い黒髪を携え、こちらを見つめる黒い瞳は優しく温かい。輪郭は綺麗な卵型で、白い肌が春の陽光に反射して煌めいている。
トレーニング後なのか、一筋の雫が首筋に沿って流れ落ち、紺色のジャージ服の裏側へと姿を消す。
「し、ずく、さん……?」
かすれる声で名前を呼ぶと、彼女はわずかに目を細め、やわらかに微笑む。
「私のこと、覚えていてくれたんだ」
「忘れるはず、ありません」
そう、忘れるはずがない。
命を救われた恩人――それだけではない。半年前のあの日からずっと、
「ふふふ、ありがとう。それにしても、たった半年しか経ってないのに、光ちゃんったらまた一段と可愛くなって」
「ふえ!? か、かわいい!?」
不意にかけられた言葉に、私は理解が追いつくより先に、顔の温度が一気に跳ね上がった。
きっと今の私の顔はリンゴのように赤くなっているに違いない。
憧れの人からストレートに『可愛い』と告げられて、嬉しくならない人なんているはずもない。少なくとも、私は口元が緩みそうになっていた。
ただ、それを表に出すことはしたくなかった。
だって、そんなみっともない姿を憧れの人に晒したくないから。
「し、雫さんも、えっと、半年前よりも、大人っぽくなって、さらに美しさに磨きかかったというか、かっこよくなったというか……」
私は意識を誤魔化すために、雫さんの容姿を褒め称える。
しかし、さっき受け取った言葉がまだ熱を持っているせいで、思考がかき乱されてしまい、伝えたいことを上手く形にならず、途切れ途切れになってしまう。
「ふふ、ありがとう」
しどろもどろの私の言葉を、雫さんはバカにしたり、からかったりすることなく、真っ直ぐに受け取ってくれる。
「光ちゃん、髪伸ばしてるんだね。あの時はショートだったから、声をかけるとき、ドキドキしたよ。人違いだったらどうしようって」
「そこまで覚えているんですか!?」
思わず声が裏返る。
たった一度の出会いだ。
それも雫さんに至っては、私以外にも数えきれないほどの窮地を救い、多くの人と関わってきてはずだ。
そんな中で、私の顔も名前も、ひいては髪型まで覚えているなんて――とんでもない記憶力だ。
「助けた人と今まで会話こそあれど、自己紹介なんてしたことがなかったから、ちょっと新鮮でね。だから、光ちゃんのことは印象に残ってたんだ」
「そ、そうだったんですか……!」
ゴーストとの戦闘後に、雫さんに名前を聞いたことが、幸運にも印象付ける決定打になっていたらしい。
あの時に勇気を出してほんとによかったと心の底から思う。
――よくやった、私!
「なんか、光ちゃん凄く嬉しそうだね?」
「はい! だって憧れの人に私を覚えていてくれていたんですから!」
さっきまでみっともない姿を晒けだすのを躊躇していた私はどこへやら。
覚えていてくれた喜びが
「憧れ? 光ちゃんは、私に憧れてるの?」
「はい! 半年前、雫さんの戦いを見て、それで……ここに入学したのも、そのお、雫さんに憧れて。それで、その……」
私は自身の黒い髪をくるくると指で巻きつけながら、言葉を続ける。
「髪を伸ばし始めたのも、少しでも雫さんに近づけたって、そう実感したくて……」
「……そう、なんだ」
雫さんの歯切れの悪い返事を聞いた私は、ふと顔を上げる。そこに映るのは表情が曇る雫さんの顔が。
「あ……、わ、私……!」
それに気づいた私は、今の発言を頭の中でなぞり、ようやく自分がどれほど気持ち悪いことを口走っていたことに遅らばせながら気がつく。
私は、羞恥と後悔が一気にのしかかり、息が詰まりそうになる。
「ご、ごご、ごめんなさい! 私、凄く変な事口走りましたよね! えっと、その、あの……! そ、それじゃあ、わ、私、入学式があるので、そ、その、失礼しまああああす!」
「え、あ……!」
完全にパニック状態に陥った私は早口でまくしたてて、雫さんの返事を待つ前に
*
「うぅ……雫さんに絶対変なやつだと思われたよお」
つい先ほどのやり取りが、何度も頭の中で繰り返される。そのたびに胸の奥がじわりと羞恥を帯び、私は一人、小さく身悶える。
「次、雫さんと会ったらどんな顔をしたらいいんだろう……」
投げかけた言葉に返事があるはずもなく、空気に溶けて消えていく。もしも時間を巻き戻せたなら――。
そんな叶いもしない"たられば"に縋りながら、私はしばらく後悔の底でもがいていた。
やがて、逃げ場のない現実に観念して、「はあ」とため息を吐く。
「それにしても……えへへ、こんな初日に雫さんと再会できるなんて運がよかったなあ」
三つ葉女学院は全寮制だ。
いずれ再会する日が来るだろうと思っていたけれど、それが入学初日だなんて、さすがに予想外だった。
半年前よりも大人びた雫さんは、その魅力も相まって、また一段階、美しさが磨きかかっていた。
半年前でも十分な美しさだったのに、まだ美しさを磨けれる余地があるなんて、人間という種族の秘めたる凄さに感銘するばかりだ。
また次、会えたら今度はたくさんお話したいな、と思いつつ、別れの仕方があれだったから、まずは私の印象を正すところから始めないと、私の心が持たない。
「次、雫さんと話す機会があれば、今度はまともな自分でいるようにするぞ!」
私はぐっ! と、小さく握り拳を作りながら、自分に決意表明を課した。
「あ、あのお……」
「ひゃ、ひゃい!?」
完全に思考の底へ沈んでいた私は、不意に背後から差し込んだ声に、心臓がドクン! と跳ねた。