私が”憧れ”に関心を持ったのは、小学五年生の頃。とある密着番組を視聴してた時だった。
密着されていたのは、一人のフィギュアスケート選手。
その子は、オリンピックで選手たちが氷上を優雅に舞う姿を見て胸を熱くし、”憧れた”という。そして、その憧れを叶えるため、学校を早退してでも練習に打ち込み、スケートへ人生のすべてを捧げていた。
ある日、スケートの稽古をするその子はプログラムの難しい技がどうしても成功せず、思い悩んでいた。試合も目前となり、コーチから、今回はその技を構成から外して、難易度を下げた技に変更しようと持ち掛けた。
しかしその子は、この技構成で頑張りたいと決意を露にして、試合までずっとその技を練習した。
どんなに転んでも、どんだけ失敗しても、その子は立ち上がり、何度も何度も練習を重ねた。
試合日数が迫る焦りから、時には悲観に暮れ、涙することもあった。しかし、一度たりとも弱音を吐くことはなく、むしろ双眸は曇ることなく、輝きに満ち溢れていた。
その子の毎日はその難しい技を成功できない苦しさでいっぱいなはずなのに、不思議と楽しそうだった。夢中で努力し、充実した日々を送り、自分の人生を心から謳歌しているように見えた。
その姿は私にはあまりにも眩しく、自分とはまるで違う世界に生きる人のような神々しささえ感じた。
──そして私は、そんな姿が羨ましくて仕方がなかった。
私はそこで初めて”憧れ”に強い関心を覚えた。
試合の日。その子は練習で今まで一度たりとも成功しなかった大技を本番で奇跡的に成功し、優勝し、密着最後のインタビューでその子は、”憧れ”を以ていつかオリンピックに出て金メダルを取ると意気込んでいた。
優勝したことも相まって、さらにその子の双眸は一層の眩しく輝き、まるで、宝石のように美しかった。
その番組が終わってからというものの、私の毎日は”憧れ”を求めることへと費やした。
普段見ないスポーツの番組とか、ドラマとか、政治関係など、あらゆる番組を散策した。
クラシックなど自分から進んで聞かないような曲を聞いたりした。
恋愛小説、漫画ばかり読んでいた私は、それ以外の純文学などの本を読み漁った。
外では、ガラス越しから料理を作る様子をまじかで観察したり、テレビで見た、気になったスポーツなどを、両親に頼んで、実際に足を運んで観戦したりもした。
きっとどこかで、私の胸を焦がす『憧れ』に出会える。
そんな期待を胸に、さまざまな世界へ触れ続けた。
けれど、どれだけ探しても、私の心が熱くなることはなく、そこで私は悟った。自分には憧れることなんて出来ないんだ、と。
そう思ってからは、あの番組で見た彼女の輝かしい毎日と、自分の何も変わらない日常を比べるようになった。
比べるたびに、私の人生から色彩は少しずつ失われていく。気づけば世界は、セピア色に色褪せたような、味気ないものになっていた。
私はこのまま何も変わらない変哲で味気ない人生を送るんだと、悲観していたところに、一縷の望みが降ってきた。
偶然目にしたテレビ番組で、インタビューを受けていた人が「あの人の『人間性』に憧れています」と語っていたのだ。
『人間性』にも、人は憧れることができる。
その新たな可能性を知った私は再び希望に満たされ、その日を境に、人間観察も『憧れ探し』の一つとして始めることにした。
――だけど。
その希望もあっけなく砕け、私の胸中には完全な諦めが支配していた。
私がやってきたことは全て、無駄で無意味で――そもそも、最初から憧れを求めること自体、無謀だったのだと、理解した。理解させられた。
私は色あせた世界で生きることを受け入れ、憧れを追い求めることも、中学に入ってからはやめた。
だって、求めたところで私は憧れることなんて出来ないということを、骨の髄まで思い知らされてしまったから。
それでも、どこかで――。
ほんのわずかに、期待していたのかもしれない。だからこそ、私は白雪雫さんに――『憧れ』に出会えたのだと思う。
『憧れ』に触れた瞬間、私の世界は何もかもが変わった。
色の抜け落ちた風景は、まるで絵画のように色鮮やかに彩られた。
失った光は、まるで陽に照らされた湖面のように煌めいていた。
ただひとつの『憧れ』という宝石を手にしただけで、こうも世界は見違えるのかと驚き、感動した。
――そして。
ついに『憧れ』を持つ者の一人になった私は、歓喜に打ちひしがれたのだった。
*
――なんだか懐かしい夢を見た気がする。
のんきにも私はそんなことを心の中でぼやきながら、寝ぼけ
どうやらノートを書いている途中に私は力尽きたらしい。
その証拠に、"一"という数字が、縦に伸びすぎて、ノートの枠組みからはみ出す勢いだった。
「おはようございます、神崎さん」
「っ!?」
その不気味なほどに穏やかな声色に私の心は冷や汗をかく。私は本能よりも先に、視線を、その
「ずいぶんと気持ちよさそうに寝ていましたね」
「あ、あさく、ら、せんせ、い……!?」
「ええ、そうですよ。今、三限目の数学の授業を担当していて、そして、あなたの担任の朝倉先生ですよ。昨日の今日で、私のことを忘れかけてるなんて、先生は悲しいです……」
朝倉先生は目元を手の甲でふきふきし、わざとらしく悲しい演技を披露する。
「あ、いえ……! わ、忘れてないです!」
「授業中に寝る人の言葉は信用なりません。きっちり、私と言う人間をこの身に刻んであげます!」
バシン!
「っ!?」
朝倉先生は腰に添えてある黒い
「では、神崎さん。この場で腕立てを五回だけやってもらおうかしら。後ろのスペースが空いてるから、そこでやってちょうだい」
「は、はい……」
刻み込むと意気込んでいたから、てっきりその鞭でビシバシと叩かれるかと思っていた。
しかし、どうやらそこまでの
とはいえ、この公開処刑は恥ずかしさ極まりないので、私は一早くこの状況から脱するために、てきぱき行動する。
「準備が整ったようですね――さて、よっこらしょ」
「ぐえっ!」
朝倉先生は年寄りじみたセリフと共に私の背中を椅子代わりにする。
宙に浮かしたお腹は磁石の如く地面に引き寄せられ、私はまともに身体を動かせない。
出来ることは、「うぐぐ……」とうめき声を上げることだけ。
――待って待って! まさかこのままとか、言わないよ、ね?
「じゃあ、神崎さん。腕立て伏せ五回、始めてください。ああ、ちゃんとしっかり自分の口でカウントしてください。カウントしなかったら、その一回は無効となりますので」
心の中の不安は見事に的中し、私は絶望に打ちひしがれる。そんな絶望中の私に、
バシン!
「いっ!?」
無慈悲な鞭が振り下ろされる。
お尻を打ち据えた衝撃は、風船が破裂したかのように鋭く全身へ弾けた。私はまるで家畜にでもなったような気分だった。
音だけを聞けば痛そうな響きだが、実を言うと、全く痛くない。
けれど、私は、唐突なお尻の衝撃と音に、脳が痛みと錯覚し、無意識に痛みを漏らす声を出してしまった。
「この鞭は攻撃力が皆無で痛くないはずです。それより、いいんですか? 五回腕立て伏せを終わらせないと、神崎さんはずっとこのままですよ? 三限目が終わるまでとかそんな
――待って待って待って! 嘘だよ、ね? 冗談だよね?
私は朝倉先生の無慈悲すぎる宣告に頭の処理が追い付かない。
「安心してください。私はどんな体勢でも眠れます。ノートパソコンを誰かに持ってきてもらう必要はありますが、仕事も出来ます。食事も誰かに持ってきてもらう必要はありますが、問題ないです。あ、安心してください。神崎さんにもちゃんと食事も飲み物も与えますので。まあ、私と違って、神崎さんには、ワンちゃん用のお皿に乗せて、ワンちゃんのように口だけで飲み食いしてもらいますが。あ、あと、お風呂は当然入らせません。大丈夫です。私もお風呂に入りませんから。これでも、昔、一週間くらいお風呂に入らなかったことが結構あってですね、慣れっこなので気にしないでください。神崎さんがもし、そんな生活をお望みなら、腕立てをする必要はありませんが、どうです?」
――どうです? じゃない! 絶対にそんな生活は嫌だ!
朝倉先生のまくし立てるような言葉から、どんどんと湧き出る無慈悲の
「神崎さんが嫌だと言うなら――それ以上は言わなくても分かりますよね?」
朝倉先生は私の反抗心を
朝倉先生は本気で、私が五回の腕立て伏せを達成するまで、ここをどかないのだろう。
――だったら!
私は腹を括る。
そもそもこれは自分の自業自得で居眠りさえしなかったら、訪れることはなかった未来。
それを現実にしたのは、他ならぬ自分自身のせい。
それに、クラスメイト達をこんなしょうもないことに、時間を使わしてしまうのは申し訳が立たない。
私は腕、脚、腰、腹筋にありったけの力を入れて――
「い……ち!」
朝倉先生もろとも持ちあげた。
火事場のバカ力と言うやつだろう。
正直、心の底で持ち上げるの何て絶対に不可能だと思っていたが、人間と言うのは不思議なもので、その不可能を可能してしまう。
「はあ、はあ、はあ」
一回目が終わった私はしっかり呼吸を整えてから、再度、力を込める。
一回やっただけで、ほとんどの力を使い果たしたが、それでも、懸命に力を振り絞る。
「に……い!」
ゆっくりと、でも、着実に回数を積み重ねていき、
――そして、遂に。
「ご、おおお……お! はあはあはあ」
「はい、お疲れ様。今後は居眠りしないように、ね?」
私の背中から離れた朝倉先生は、うつ伏せで、死んだゴキブリ状態の私にそう言った。
「はあはあ、は……い。すみ、ふぁせん、でし、た……はあ、はあ」
こんな醜態を公衆の面前で晒した私はトラウマでしかなく、今後絶対に朝倉先生の前で過ちを犯すまいと決意を固めた。
その後は、特に何事も起こることはなく、三限目は終了。
次はいよいよ訓練。どんなことをするのか未知数の中、ドキドキしながら昼休みを過ごしたのであった。