入学式から二週間が過ぎ、四月も中旬に入った。
そして、この二週間のうちに、一年生の四つのクラス――AからDまでの空気感は、驚くほどくっきりと色分けされ始めていた。
「……おい相良、聞いたか? 隣のCクラスとDクラス、なんかすでに学級崩壊一歩手前らしいぞ」
「へえ、そうなの? そういえば、昨日ケヤキモールのゲーセン行った時も、Dクラスの連中が平日の昼間っから制服のシャツ出しっぱなしで大騒ぎしてたもんなあ」
四月中旬の昼休み。一年Bクラスの教室は、穏やかで規則正しい空気に包まれていた。 俺の前の席に座る柴田が、購買で買ってきた焼きそばパンを頬張りながら、呆れたように肩をすくめる。
柴田の言う通りだった。この学校には授業中の私語や居眠り、さらにはスマホの操作や遅刻をしても、教師がほとんど注意しないという奇妙な特徴がある。 最初はどのクラスの生徒も様子見をしていたのだが、一週間も経つと「なんだ、この学校の先生は怒らないんだ!」と味を占める生徒が続出し始めたのだ。特にCクラスやDクラスでは、授業中に堂々とイヤホンをして音楽を聴いたり、昼休みが終わっても教室に戻らずにカフェで油を売ったりする生徒が日増しに増えているという噂だった。
それに対して、俺たち一年Bクラスはどうなっているかというと――。
「みんなー、そろそろ午後の予鈴が鳴る時間だよ! 移動授業じゃないけど、机の上は片付けて、次の数学の準備をしておこうね!」
教卓の前に立った一之瀬帆波が、鈴を転がすような明るい声で呼びかける。 すると、教室のあちこちで談笑していた男女が「はーい!」「おっと、もうそんな時間か」と素直に自分の席へと戻っていく。遅刻者はゼロ、授業中の居眠りやスマホいじりもほぼ皆無。まるで全国模試の会場か、伝統ある進学校の特進クラスのように、Bクラスの規律は美しく保たれていた。
(……まあ、半分は一之瀬のカリスマ性と神崎の睨みのおかげ。で、残りの半分は、俺たちの『ちょっとした種明かし』のおかげだけどな)
俺は自分の席でパックのカフェオレを飲みながら、教室の後ろの隅――廊下側の席で、頬杖をついて窓の外を眺めている姫野ユキへとチラリと視線を送った。俺の視線に気づいたのか、姫野さんはわずかにこちらを向き、誰にも気づかれないくらい小さく肩をすくめてみせた。
時間を少し巻き戻すと、入学二日目の朝のことだ。俺は登校してすぐ、一之瀬と神崎の二人を廊下の隅に呼び出し、前日に姫野さんにも話した『仮説』を打ち明けたのだ。
『昨日、モールで上級生が「五月の頭になれば現実を知る」って笑ってるのを聞いたんだよね。それに、校内の防犯カメラの数、ちょっと異常じゃない? もしかしたら俺たちの生活態度とか、ポイントの使い方まで、全部裏で採点されてるんじゃないかな』
俺がそう切り出すと、神崎はハッとしたように目を鋭くし、「……実は俺も、星之宮先生の説明には何か重要な前提が抜け落ちていると感じていた」と深く頷いた。 一之瀬も最初は驚いていたが、すぐに真剣な表情になり、「もし相良君の言う通りなら、みんなで気をつけないと大変なことになるかもね。よし、今日のホームルームで私からみんなに呼びかけてみるよ!」と即座に行動に移してくれたのだ。
一之瀬の「念のため、来月まではみんな真面目に授業を受けて、ポイントも大切にしよう!」という呼びかけは、彼女の持つ圧倒的な好感度も相まって、Bクラスの全体にすんなりと受け入れられた。 少なくとも、表面上は。
「――あーあ、なんか最近、ちょっと息苦しくね?」
その日の放課後。 五時間目の授業が終わり、一之瀬が「じゃあ、今日も図書室で一緒に予習・復習する人は行こうか!」とクラスの半分ほどを引き連れて教室を出ていった直後のことだった。
教室の後ろの方で、机の上に足を投げ出すようにして座っていた別府が、大きく伸びをしながら不満げな声を上げた。 その周りには、猪狩や津辺といった、普段は俺や柴田ともよくつるんでいる遊び好きの男子グループが四、五人集まっている。柴田はすでにサッカー部の部活へと飛び出していっており、神崎も一之瀬たちと一緒に図書室へ向かったため、教室に残っているのは彼らと、帰り支度をしている数人の女子(その中には姫野さんもいた)、そして俺だけだった。
「だよなあ。CクラスやDクラスの奴らはさ、毎日放課後にカラオケ行ったり、最新の服買ったりしてめちゃくちゃ楽しそうなのにさ。俺たちばっかり『無駄遣い控えよう』『授業は真面目に受けよう』って、なんか中学生より窮屈じゃね?」
「一之瀬さんが可愛いから今まで合わせてきたけどさ、ぶっちゃけ先生も怒んないんだし、ちょっとくらいスマホいじったり、パーッとポイント使ったりしてもバレやしねえだろ」
「それな! 神崎の奴なんて、俺が授業中にちょっとあくびしただけで睨んでくるしさ。あいつ何様だよって感じだよな」
猪狩と津辺が、溜まっていた鬱憤を吐き出すように口々に同調する。 帰り支度をしていた女子たちが、少し気まずそうに顔を見合わせて足早に教室を出ていった。
一番後ろの席で鞄に教科書を詰めていた姫野さんが、俺の方をチラッと見て、『ほら、お調子者の出番よ』とでも言いたげな冷ややかな目線を送ってくる。
(……やれやれ。やっぱり出てきたか、こういう『見えない火種』が)
俺は内心でため息をついた。 一之瀬は太陽だし、神崎は正しい。だけど、人間というのは「正しいこと」ばかりを押し付けられると、どれだけ相手が善意であっても必ず反発したくなる生き物だ。 特に高校生なんて、親元を離れて十万円もの大金を手にしたばかりなのだ。他クラスの生徒が羽を伸ばして遊んでいるのを横目に見ながら、自分たちだけ『まだ証拠もない採点』に怯えて禁欲生活を強いられれば、不満が溜まらない方がおかしい。
もしここで、この五人が「もう一之瀬たちの言うことなんか聞くかよ」とサボり始めたり、それを神崎が頭ごなしに叱りつけたりすれば、Bクラスの『全員仲良し』という看板には簡単にヒビが入る。
「おーおー、別府に猪狩、なんか盛り上がってるねえ。なに、今からどっか遊びに行く相談?」
俺は自分の鞄を肩にかけながら、いつもの軽快な調子で彼らの輪の中へと割り込んでいった。
「あ、相良。いやさ、今みんなで話してたんだけどよ、俺たちちょっと真面目すぎねえかって話」
「一之瀬さんや神崎が言ってる『学校に採点されてるかも』って話さ、あれ、そもそも相良が言い出したんだろ? 二週間経っても先生から何にも言われないし、やっぱり考えすぎなんじゃねえの?」
別府が少し尖った口調で俺を見上げてくる。 ここで「いや、絶対に採点されてるから我慢しろ!」と正論をぶつけるのは、素人のやることだ。交渉の基本は、まず相手の感情を百パーセント肯定してやることから始まる。
「――いやあ、ぶっちゃけさ、俺も最近ちょっとそう思ってたんだよね!」
俺は声を潜め、いたずらっ子のようにニッと笑って別府の肩を組んだ。
「えっ、お前もかよ?」
「あたりまえじゃん! 俺だって男だもん、せっかく十万ポイントもあるのに、毎日お利口さんに授業受けて寮に帰るだけなんて、正直ストレス溜まるっての。神崎のあの真面目すぎる目つき、俺もたまに『うわ、怒られる!』ってビビってるからね?」
俺が神崎のモノマネをして眉間に皺を寄せてみせると、別府や猪狩たちが「ぷっ、ははは!」「似てる似てる!」と一気に相好を崩した。 よし、まずは『俺は神崎側の人間じゃなくて、お前たちと同じ穴のムジナだよ』というアピールに成功だ。
「だろー? じゃあさ相良、今から俺たちと一緒にケヤキモールのボウリング場とカラオケ行こうぜ! VIPルーム借り切って、パーッと豪遊しようや!」
「お、VIPルーム! いい響きだねえ!」
俺は一度大きくノってみせてから、ふと「……あー、でもなあ」と、わざとらしく腕を組んで渋い顔をしてみせた。
「なんだよ、やっぱり一之瀬さんの目が怖いのか?」
「いやいや、そうじゃなくてさ。俺、実は昨日、またちょっと面白い噂を小耳に挟んじゃってさ。別府たちだけにこっそり教えるけど……隣のCクラスとDクラス、四月に入ってからもうクラスの半分以上がポイント使い果たして、今月から『カップ麺生活』に入ってる奴が結構いるらしいんだよ」
「えっ、マジで!? まだ四月半分だぞ!?」
「マジマジ。しかもさ、もし万が一、五月の頭に『やっぱり生活態度が悪いクラスはポイント減らします』ってなったら、あいつら来月、水しか飲めなくなるじゃん? それ、さすがにちょっとダサくない?」
俺が面白おかしく危機感を煽ると、猪狩や津辺が「うわ、それは嫌だな……」「一ヶ月間、水と無料の山菜定食だけはキツいぞ」とゴクリと喉を鳴らした。
「でもさ、別府たちの言う『息苦しい』ってのも、俺はめちゃくちゃ分かるわけよ。あと二週間もずっとお坊さんみたいな生活してたら、俺たちが先に干からびちゃうよな」
俺はそこでポンと手を叩き、五人の顔をぐるりと見回して、とっておきの『代替案』を提示した。
「だからさ、こうしようぜ。ケヤキモールのVIPルームで何万ポイントも使うのは、五月一日になって『本当に安全だ』って分かってからのお楽しみに取っておく。……その代わり、今週末の金曜日の夜、俺の部屋に集まって『Bクラス男子・春のゲーム&闇鍋大会』をやらない?」
「えっ、闇鍋&ゲーム大会!?」
「そう! 柴田が買った最新のウイイレとスマブラを持ち込んでもらってさ、食材はスーパーの一番安い特売品と、各自が百ポイント以内で買ってきた『秘密の食材』を持ち寄るの。それなら一人あたり五百ポイントもかからないし、寮の部屋だから一之瀬さんや神崎に小言を言われることもない。夜通し騒いで、日頃のストレスを全部ぶちまけようぜ!」
俺が身を乗り出して提案すると、別府たちの目がみるみるうちに輝き始めた。 彼らが本当に求めていたのは、別に「高額な買い物」や「授業のサボり」そのものじゃない。『優等生のルールに縛られず、男子同士でバカ騒ぎして羽を伸ばす時間』が欲しかっただけなのだ。
「おい、それめちゃくちゃ面白そうじゃね!?」
「俺、お菓子コーナーからヤバいグミ買ってきて鍋にぶち込んでやるぜ!」
「よし決まりだ! じゃあ金曜日まで、授業中におかしなことして神崎に目つけられないように大人しくしとくか!」
「おう! 金曜日の夜はオールだから、むしろ昼間はちゃんと寝とかないとな! じゃあな相良、柴田にも俺たちから言っとくわ!」
さっきまでの不満げな空気が嘘のように、別府や猪狩たちは「何入れようかな〜」「絶対負けねえからな!」と肩を組んで大盛り上がりしながら、意気揚々と教室を出ていった。
嵐のように去っていった五人の足音が廊下の奥へと消えていく。 静まり返った放課後の教室で、俺は「……ふぅーっ」と、肺の中の空気を全部吐き出すような深いため息をついた。
「……相変わらず、見事な手口ね。詐欺師にでもなるつもり?」
後ろから、呆れ果てたような、でもどこか感心したような声が降ってきた。 振り返ると、まだ帰らずに教室の後ろの扉の近くに立っていた姫野さんが、鞄を肩にかけたまま俺を見つめていた。
「ひっどいなあ、姫野さん。俺はクラスメイトの親睦を深めるために、自分の部屋と五百ポイントを提供する善良な市民だよ?」
「どこがよ。あいつらが『ポイントを使いたい』『サボりたい』って言ってたのを、いつの間にか『金曜日まで真面目に授業を受ける』っていう結論にすり替えてたじゃない。しかも、自分の部屋の掃除と片付けの手間まで背負い込んで……ほんと、お人好しにも程があるわ」
姫野さんはやれやれと首を振ったが、俺は苦笑いしながら窓際の机に寄りかかった。
「まあね。でも、一之瀬さんや神崎がどれだけ正しいことを言ってても、全員があの二人みたいに強いわけじゃないからさ。ああやってたまに『ガス抜き』をしてやらないと、いつか絶対にどこかで爆発するよ。俺の部屋がちょっと散らかるくらいでクラスの平和が買えるなら、安いもんだって」
「……あんたってさ」
姫野さんが、ふと足を止めて、少しだけ真剣な目で俺を見た。 西日が差し込む教室の中で、彼女のセミロングの髪がオレンジ色に透けて見える。
「一之瀬さんみたいにみんなの前で旗を振るわけでもなく、神崎君みたいに正論で引っ張るわけでもなく……そうやって誰も見てないところで、ずっとクラスの綻びを繕い続けるつもりなの?」
「さあね。俺はリーダーなんて柄じゃないし、目立つのも柄じゃないからさ。ただ、せっかく縁あって同じクラスになったんだし、みんなが笑ってられた方がいいじゃん」
俺がいつもの調子で肩をすくめると、姫野さんは数秒間だけ俺の顔をじっと見つめ――それから、ぷいっと横を向いて言った。
「……バカみたい。そんなこと続けてたら、金曜日の闇鍋の前に、あんたの胃に穴が空くわよ」
「はは、違いない。あ、だったらさ、姫野さん。今から俺の『胃薬代わり』に、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
「……は? なにそれ、意味わかんないんだけど」
「ケヤキモールの裏手にさ、人が全然来ない静かなベンチがあるの、こないだ見つけたんだよね。そこで缶コーヒーでも飲みながら、俺の愚痴を五分だけ聞いてくれたら、俺の胃もだいぶ助かるんだけどな。もちろん、コーヒー代は俺持ちで!」
俺が両手を合わせて拝むように頼み込むと、姫野さんは呆れたように鼻を鳴らした。
「……五分だけよ。私、帰って見たいテレビがあるんだから」
「よし、交渉成立! じゃあ行こうか、俺の頼れる共犯者さん!」
俺たちは並んで放課後の教室を出た。 しかし、そのケヤキモールの裏手へと向かう道すがら、俺と姫野さんは、他クラスの『本当の怪物たち』が引き起こした最初の衝突現場に、図らずも出くわすことになるのだった。
作者はこの4クラスならBクラスに入りたいです。