ケヤキモールの華やかな正面エントランスを避け、建物の東側にある搬入口近くの細い遊歩道へと回り込む。 ここまで来ると、放課後のモールに溢れかえっている生徒たちの話し声もほとんど届かない。綺麗に刈り込まれた生垣の奥に、木漏れ日が落ちる木製のベンチがぽつんと二つだけ並んでいた。
「ほら、ここ。自販機もすぐそこにあるし、誰も来ない穴場なんだよね」
「……あんた、よくこんな場所見つけたわね。さては授業サボってウロウロしてたんじゃないでしょうね?」
「人聞きが悪いなあ。こないだ寮の買い出しの帰りに、たまたま近道しようとして迷い込んだだけだっての。ほら、ブラックでよかったよね?」
俺は近くの自販機で買ってきたばかりの缶コーヒーを、ベンチに腰掛けた姫野さんへと手渡した。自分用には、甘ったるいミルクたっぷりのカフェオレを選ぶ。 プシュッ、と二つの缶がほぼ同時に開く音が、静かな夕暮れの空気の中に小気味よく響いた。
「……ふぅ。あー、甘いもんが脳に染み渡る……」
「子どもみたいな味覚ね。で? 五分間の愚痴っていうのは何よ。別府君たちのこと?」
「いや、別府たちは根が素直だから、実はそんなに手はかからないんだよ。あいつらはただ、ちょっとガスを抜いてやればまたすぐに元気になるからさ」
俺はベンチの背もたれに深く体重を預け、空を見上げた。 少しだけ冷たくなり始めた春の風が、俺の制服のネクタイと、隣に座る姫野さんのセミロングの髪を優しく揺らしていく。
「じゃあ、何が胃にくるのよ。一之瀬さん?」
「……まあ、一之瀬さんというか、今のうちのクラスの『空気そのもの』かな」
俺は缶のカフェオレを一口飲み、誰にも聞かれないように声を落とした。
「一之瀬さんはすごいよ。あんなに打算がなくて、心の底から『クラス全員で仲良くしよう』って思える人間、俺は初めて見た。神崎も真面目で頼りになるし、柴田もムードメーカーとして最高だ。おかげでうちのクラスは、たぶん一年生の四クラスの中で一番まとまってる」
「うん。私もそう思う。ちょっと眩しすぎて目が潰れそうになるくらいにはね」
「だろ? でもさ……全員が『一之瀬さんが言うなら大丈夫』『みんな一緒なら安心』って、ひとつの綺麗な空気の中にどっぷり浸かっちゃってるのって、俺、実はすごく危ういんじゃないかなって思うんだよね」
俺が本音をぽつりと零すと、姫野さんは缶コーヒーを口に運ぶ手を止め、横目でじっと俺の顔を見た。
「……危うい、って?」
「だってさ、もし俺の予想通り、この学校が俺たちを裏で採点して競わせるような場所だったとしたら、これから先、絶対に『仲良しこよし』だけじゃ乗り切れない場面が出てくると思うんだよ。誰かを疑わなきゃいけなかったり、誰かと泥臭い取引をしなきゃいけなかったりさ。そういう時に、みんなが一之瀬さんの綺麗事だけに寄りかかってたら……一之瀬さん自身が、いつか全部の重荷を背負い込んで潰れちゃうんじゃないかって気がするんだ」
中学の頃、俺がいろんなグループの揉め事を仲裁してきた中で一番タチが悪かったのが、『善意の塊みたいなリーダーが、全員の期待に応えようとしてパンクし、結果としてグループ全体が空中分解する』というパターンだった。 今のBクラスには、その予備軍みたいな匂いがうっすらと漂っている。
「……あんた、お調子者のフリして、ほんとにそういうところばっかり見てるのね」
姫野さんは少しだけ呆れたように、けれどどこか柔らかい声で言った。
「でも、まあ……言いたいことは分かるわ。私も、あの一之瀬さんの『誰も傷つかない世界』みたいな空気、居心地がいい反面、なんか嘘くさいっていうか、地に足がついてない感じがして落ち着かなかったから。……あんたみたいに、裏で損得勘定して走り回ってる奴を見てる方が、よっぽど人間らしくて安心するわよ」
「おっ、なにそれ。もしかして俺、今めちゃくちゃ褒められてる?」
「褒めてないわよ、バカ。ただの感想」
姫野さんがぷいっと顔を背けて缶コーヒーを飲む。その耳たぶがほんの少しだけ赤くなっているように見えて、俺の心臓が、交渉の時とはまったく違うリズムでトクンと跳ねた。 ヤバい。いつもの営業トークならいくらでも軽口が叩けるのに、こうやって素の状態で女の子から肯定されると、どう反応していいか分からなくなる。俺は誤魔化すようにカフェオレを一気に半分ほど飲み干して、むせそうになるのを必死で堪えた。
――その時だった。
「――ぐ、うっ……! はぁ、はぁ……っ!」
生垣の向こう側、搬入口へと続くさらに裏手の路地から、くぐもった苦悶の呻き声と、何かがコンクリートの壁にぶつかる鈍い音が聞こえてきた。 俺と姫野さんは同時にビクッと肩を震わせ、顔を見合わせた。俺は反射的に人差し指を自分の唇に当て、姫野さんの肩をそっと引いて、生垣の陰へと身を潜めた。
葉っぱの隙間からそっと覗き見ると、そこには四人の男子生徒がいた。 壁際に尻餅をつき、脇腹を押さえて苦痛に顔を歪めているのは、入学初日に俺がカフェでパフェを奢ったCクラスの小宮と近藤だ。そして、そのすぐ横では、あの威勢のよかった石崎が、片膝をついて口の端から血を拭っている。
三人をたったひとりで圧倒し、見下ろしていたのは、肩まで伸びた赤紫色の長髪をオールバックにした男だった。そしてその少し後ろには、メガネをかけた神経質そうな男子生徒(たしか同じCクラスの金田だ)が、蒼白な顔で立ち尽くしている。
「ククッ、どうした石崎。てめえが小宮たちを連れて『俺のやり方には従えねえ』って吠えたから、わざわざ相手してやったんだぜ? もう終わりかよ」
「く、くそっ……! なんだよてめえのその喧嘩……目潰しでもなんでもありじゃねえか……!」
石崎が悔しそうに睨み上げるが、赤紫色の髪の男――龍園翔は、まるで猛獣が獲物を弄ぶような獰猛な笑みを浮かべて、石崎の胸ぐらを片手で掴み上げた。
「当たり前だろうが。喧嘩ってのはな、勝つための『手段』だ。ルールなんざクソ喰らえなんだよ。……だが、てめえらのその無駄な反抗心のおかげで、いい実験ができたぜ」
龍園はそう言うと、建物の軒先――防犯カメラのレンズがギリギリ届かない死角の天井をチラリと見上げた。
「おい金田。これで三日目だが、教師どもから俺への呼び出しもなけりゃ、端末のポイントが減らされた形跡もねえ。つまりどういうことだ?」
「えっ……あ、ああ。監視カメラの死角で起きた生徒間のトラブルは、被害者が教師に駆け込まない限り、学校側は『感知しない』か『黙認する』仕様になってる可能性が高い……と」
「そういうことだ。この学校には何か裏のルールがあるみてえだが、要は『証拠さえ残さずに相手を黙らせれば、暴力だろうが脅迫だろうが使い放題』ってこった」
龍園は心底楽しそうに喉を鳴らして笑うと、掴んでいた石崎の胸ぐらを乱暴に突き放した。そして、冷え切った蛇のような瞳で石崎と小宮、近藤の三人を順番に見下ろす。
「いいか、よく聞け石崎。俺の目的は、このCクラスを俺ひとりの『完全な独裁国家』にすることだ。一之瀬みてえな甘いおままごとでもなけりゃ、Aクラスみてえな窮屈な派閥争いでもねえ。俺が頭で、てめえらは俺の手足だ。……ここで俺の軍門に下って甘い汁を吸うか、それとも三年間、カメラの死角に入るたびに俺に骨を折られ続けるか。好きな方を選べ」
「……っ! わ、分かったよ……! あんたの勝ちだ、龍園……いや、龍園さん……!」
石崎が完全に心を折られた顔で頭を垂れる。小宮と近藤も、恐怖に引きつった顔で何度も頷いていた。 隣にいた姫野さんが、息を呑んで自分の口元を両手で押さえる。彼女の肩が小さく震えているのが分かり、俺は咄嗟に自分の手を彼女の背中に添えて、「大丈夫、動かないで」と声を出さずに口パクで伝えた。
(……なんて奴だ。ただの喧嘩自慢の不良なんかじゃない。あいつ、Cクラスを統一するための『見せしめ』と、学校の『監視システムの穴の検証』を、同時にやってのけたのか……!)
俺の背筋を、氷水でも浴びせられたような冷たい汗が流れ落ちていく。 俺が四月に入ってから、「監視カメラが多いから真面目にやろう」なんていうディフェンスのことばかり考えていた間に、あの龍園という男は『どうすれば監視の目をかいくぐってルール違反(暴力)を武器として使えるか』を実験していたのだ。 しかも、初日に俺が四千五百ポイントを使ってようやく懐柔した石崎たちを、あいつは一円のコストもかけず、たった数分の暴力と恐怖だけで完全に自分の『駒』にしてしまった。
「ククッ、物分かりがいいじゃねえか。だったら立て、石崎。てめえのそのガタイと喧嘩っ早さは、これから他クラスを潰すのにいくらでも使い道がある」
龍園は満足そうに頷くと、ふと足を止め、俺たちが隠れている生垣の方をチラリと振り返った。
(――っ!? 気づかれたか!?)
俺は息を止め、万が一見つかったら姫野さんを逃がして自分が前に出る覚悟を決めた。心臓の音が、自分の耳元で早鐘のように鳴り響いている。 だが、ちょうどその瞬間、モールの搬入口のシャッターがガシャンと大きな音を立てて開き、作業員の姿が見えた。龍園は「チッ、風か」とつまらなそうに鼻を鳴らすと、「行くぞ、野郎ども」と背を向け、石崎たちを引き連れて大通りの方へと姿を消していった。
「……はぁ、はぁ……っ。い、行った……?」
完全に足音が消えたことを確認してから、俺と姫野さんはへたり込むようにベンチへと座り直した。 姫野さんの顔は真っ青だった。もちろん、俺の顔だって似たようなものだろう。自分の手のひらを見ると、情けないことにびっしょりと手汗をかいていた。
「な、なんなのよ、あの龍園って奴……! 自分のクラスの仲間を殴って従わせるなんて、ただの野蛮人じゃない……でも、言ってることはすごく計算高くて……」
「……ああ。あいつにとって暴力は、俺にとっての『お世辞や奢り』と同じ、ただの交渉ツールなんだよ。しかも、カメラの死角まで計算して学校のルールを試してやがった」
俺は震える息をなんとか整えながら、冷たくなった缶のカフェオレを握りしめた。 俺が今まで培ってきた『双方の顔を立てて丸く収める仲裁術』なんて、あの男の前ではどれほど通用するだろうか。もし、あいつが牙を剥いてBクラスに襲いかかってきたら、一之瀬さんの善意や神崎の正論だけでは、間違いなく食い荒らされる。
「……ごめん、姫野さん。俺の愚痴に付き合わせたせいで、とんでもない場面に出くわしちゃったな」
「別に、あんたのせいじゃないでしょ……。むしろ、あんたがすぐに口を塞いでくれなかったら、私、声を出してたかもしれないし」
姫野さんはまだ少し震える声でそう言うと、自分の膝の上でギュッと拳を握りしめた。
「……相良君。あんたがさっき言ってた意味、今なら嫌っていうほど分かるわ。こんな学校で、あんな合理的な怪物が隣のクラスで牙を研いでるのに、『みんな仲良く』だけで三年間過ごせるわけないわね」
「ああ。……だから、せめて最初の五月の発表までは、絶対にBクラスからボロを出さないようにしないと。あんな奴らに付け入る隙を見せたら、ひとたまりもないからな」
俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく深く頷いた。 ただの『クラスの空気から逃げるための共犯者』だった俺と姫野さんの関係が、この瞬間、確かな危機感を共有する『本当の相棒』へと変わったのを、俺は肌で感じていた。
それから二週間あまり。 週末に俺の部屋で開催した『Bクラス男子・闇鍋&ゲーム大会』は大成功に終わり、別府や猪狩たちのストレスは見事に解消された。彼らは約束通り、四月の終わりまで一度も遅刻やサボりをすることなく、真面目に授業を受け切った。
そして迎えた、五月一日の朝。
「――おっはよー、一年Bクラスのみんな! 連休に入る前に、今日は先生からとーっても大事なお知らせがありまーす!」
朝のホームルーム。担任の星之宮知恵先生が、いつも以上に上機嫌なステップで教壇へと上がってきた。 その手には、丸められた大きな模造紙が握られている。
「まずはみんな、自分の端末を見てみて? 今月分のプライベートポイントが、ちゃんと振り込まれてるはずだから」
星之宮先生の言葉に、教室中が一斉に自分の学生証を取り出して画面を確認した。 俺も自分の端末を起動する。先月の残高『92,100 Pt』に、今月分の支給額がプラスされて表示されていた。
今月の支給額――『65,000 Pt』。
「えっ……? ろ、65,000ポイント!? なんで100,000じゃないんだ!?」
「おい、これバグじゃねえのか!?」
柴田や別府たちが、驚きの声を上げる。 だが、星之宮先生は教卓に模造紙をバンと広げ、黒板にマグネットで貼り付けた。そこに書かれていたのは、一年生の各クラスに割り振られた『クラスポイント(CP)』の一覧表だった。
一年Aクラス:940 CP 一年Bクラス:650 CP 一年Cクラス:490 CP 一年Dクラス:0 CP
「えー、驚いているところ悪いんだけど、これがこの高度育成高等学校の本当の姿、『Sシステム』の結果です! 毎月支給されるポイントは、『クラスポイント×100』! みんなの四月中の遅刻、私語、居眠り、その他の素行不良がぜーんぶ減点対象になって、一ヶ月後にこうやって反映されるってわけ!」
星之宮先生がウインクを飛ばしながら、残酷なルールを軽快に説明していく。 そして、一番下の『一年Dクラス:0 CP』という数字を指差して、クスクスと笑った。
「ほら見て? Dクラスなんて、毎日遅刻とサボり三昧だったから、今月の支給額はゼロ! 一円も貰えないの! それに比べたら、うちのBクラスが『650ポイント』も残せたのは、新入生としては歴代トップクラスの優秀さだよー! これも全部、一之瀬さんや神崎君、それに相良君たちが最初から『気をつけよう』って声をかけてたおかげだね。えらいえらい!」
星之宮先生がパチパチと手を叩くと、最初は「100,000じゃないのか」と落胆していたBクラスの空気は、一瞬にして「Dクラスはゼロ!?」「じゃあ俺たち、めちゃくちゃ危ないところだったんじゃね!?」という安堵と歓喜へと変わった。
「す、すげえぞ相良! お前が最初に言ってた『採点されてるかも』って話、マジだったんだな!」
「金曜日、お前の部屋で闇鍋にしといて本当によかったぜ! もしあのままサボってカラオケ行ってたら、もっと減ってたってことだろ!?」
別府や猪狩、柴田たちが俺の机の周りに集まり、感謝の言葉を浴びせてくる。 教壇の近くでは、一之瀬と神崎が俺の方を向き、心からの信頼を込めた目で深く頷いてくれていた。
「いやー、俺の勘がたまたま当たっただけだって! それより、みんながちゃんと我慢して頑張ったおかげだよ!」
俺はクラスメイトたちの称賛を、いつもの百点満点の愛想笑いで受け流した。 教室中が「よし、五月からは減点ゼロを目指して、Aクラスを追い抜こう!」と、一之瀬を中心にさらなる団結で盛り上がっていく。
そんな熱狂の渦の中で、俺はそっと教室の後ろの隅へと視線を向けた。 姫野ユキは、盛り上がる周囲から少しだけ距離を置き、頬杖をついたままこちらを見ていた。
俺と目が合うと、彼女は自分の机の上でスマホを操作し、俺の端末に一通の短いショートメッセージを送ってきた。
『650ポイント、ね。……でも見て、Cクラスの490ポイント。あれだけ龍園たちが暴れてたのに半分近く残ってるってことは、やっぱりカメラの死角の暴力は減点されてないわよ。これからもっと面倒なことになりそうね、仲裁屋さん?』
俺は画面の文字を読み、背筋に小さな悪寒が走るのを感じながら、それでも口角を上げた。 そして、素早く画面をタップして返信を送る。
『違いないね。しかもこのあと来る5月の須藤たちのトラブルにも、あの石崎たちが絶対噛んでくるはずだ。……今月も俺の胃薬代わりのコーヒー、よろしく頼むよ、共犯者さん』
メッセージを受信した姫野さんが、画面を見て「……バカ」と小さく呟くのが、唇の動きで分かった。けれど、その横顔は四月の初日に見た時よりも、ずっと頼もしい相棒の顔をしていた。
ユキちゃん原作だと出番なさ過ぎて話口調がちょっとムズイ…"(-""-)"