六月に入り、季節は梅雨を飛び越えたかのような初夏の陽気を帯び始めていた。 五月の終わりに決着がついた『須藤の傷害事件』は、結果として俺たち一年生の勢力図に小さくない変動をもたらした。
六月一日に発表された最新のクラスポイントは、以下の通りだ。
一年Aクラス:1004 CP
一年Bクラス:720 CP
一年Cクラス:390 CP
一年Dクラス:87 CP
Aクラスと俺たちBクラスは、中間テストの高平均点によるボーナスをしっかり獲得してポイントを伸ばした。逆にCクラスは、石崎たち三人の虚偽申告と傷害事件のペナルティによって100ポイント近くをごっそり削り取られ、Bクラスとの差は『330ポイント』にまで広がったのだ。 ちなみに、Dクラスも中間テストのボーナスで87ポイントを獲得したはずなのだが、どういうわけか六月の支給額は先月に続いて『ゼロ(保留)』だったらしい。おそらく、須藤事件の審議が月末に食い込んだせいで、ポイントの反映が来月に持ち越されたのだろう。
「いやー、72,000ポイントかあ! 先月より7,000プライベートポイントもアップじゃん! これも全部、テスト前に相良が『75点まとめノート』を作ってくれたおかげだぜ!」
「そうそう! あ、でも相良の奴、俺たちに焼肉食べ放題を奢ったせいで、先月の残高すっからかんになったらしいけどな!」
六月上旬の昼休み。一年Bクラスの教室では、柴田や別府たちが自分の端末を見ながらホクホク顔で盛り上がっていた。 俺は自分の机に突っ伏しながら、「……うるさいなあ、男の約束を守った結果なんだから、少しは敬ってくれてもいいだろ」と力なく手を振ってみせた。実際、育ち盛りの運動部男子五人にケヤキモールの高級焼肉を腹いっぱい食わせたせいで、俺の個人ポイントは一晩にして25,000ポイントも吹き飛んだのである。
――そう、『個人』の分は、だ。
「じゃあみんな、今月も約束通り、支給された72,000ポイントのうち30,000ポイントを、私の端末に送金よろしくね!」
教壇の前に立った一之瀬帆波が、パンと手を叩いて明るい声で呼びかける。 すると、クラスメイトたちは誰ひとりとして文句を言うことなく、「はーい!」「ほらよ一之瀬、今送ったぜ!」と、次々に自分の端末を操作して一之瀬の口座へとポイントを送金し始めた。 ピピッ、ピピッ、と一之瀬の端末がひっきりなしに着金音を鳴らす。たった数分のうちに、四十人分の徴収額――今月分だけで1,000,000ポイント以上が、一之瀬ひとりの端末へと集約されていく。
これこそが、五月の中間テスト前に一之瀬と神崎が発案し、俺がルール設計を手伝ってスタートさせた、Bクラス独自の防衛システム――通称『一之瀬バンク』だった。
きっかけは、中間テストでDクラスが「ポイントを教師に払って須藤の赤点を買い取ったらしい」という噂が流れたことだった。 この学校では、プライベートポイントさえあれば『退学の取り消し』すら買える。さらには、噂によれば20,000,000ポイントで他クラスへの移籍チケットすら買えるという。
そこで一之瀬は、「これから先、誰かが病気やトラブルで退学になりそうになった時、クラス全員で助けられるように、毎月のポイントを少しずつ私の端末に集めて貯金しておかない?」と提案したのだ。
もちろん、最初は別府たちのような遊びたい盛りの連中から「えーっ、せっかくのポイントを没収されるのかよ」という不満が出かけた。 だから俺が間に入り、
『完全な没収ではなく、あくまで一之瀬銀行への預金とする』
『個人名義の預金残高は俺と神崎がダブルチェックで帳簿をつけ、どうしても個人的に大きな買い物がしたい時は申請すれば引き出せる』
『ただし、クラス全体の緊急時には全員の合意のもとで救済資金として使う』という柔軟な規約に整えてやったのだ。
一之瀬の圧倒的なクリーンさと人望、そして「いつでも引き出せるなら、自分で持ってて無駄遣いしちゃうより安心かも」という心理が働き、このシステムは満場一致で可決された。四月の余剰分と五月の徴収分、そして今回の六月分を合わせれば、一之瀬の端末にはすでに『4,000,000ポイント近くの大金』が眠っている計算になる。
「相良君、今月分の帳簿データの更新、確認お願いできるかな?」
「お、合点承知! どれどれ……うん、四十人全員分、きっちり一之瀬さんの端末に入金完了っと。いやあ、一之瀬さん、今や学年一の資産家だねえ。悪い虫がつかないように、俺たちがしっかりガードしないと!」
「あはは、もう、相良君ったら! これはみんなの大切なお金なんだから、1ポイントだって私物化したりしないよ!」
一之瀬は太陽のような笑顔で胸を張り、自分の学生証を大事そうにポケットへとしまった。神崎も「ああ。一之瀬の自己管理能力と誠実さは、クラス全員が知っている。これほど安全な金庫番はいないだろう」と満足そうに頷く。
だが、自分の席へ戻った俺の端末に、教室の後ろの隅から一通のショートメッセージが届いた。 差出人は、もちろん姫野ユキだ。
『……ねえ、相良君。私、やっぱりちょっとだけ怖いよ。一之瀬さんが悪い人じゃないのは百も承知だけど、クラス全員のお金をたった一人の端末に集めるなんて。もし一之瀬さんがあのCクラスの龍園や、Aクラスの連中に弱みを握られて脅されたら、どうなるの?』
俺は画面の文字を見つめ、誰にも気づかれないように小さく息を吐いた。 姫野さんの指摘は、俺が規約を作った時からずっと抱えていた懸念そのものだった。 Cクラスの龍園も、おそらく暴力と恐怖でクラスメイトからポイントを巻き上げているだろうが、あれは『独裁者による搾取』だ。それに対してうちのBクラスは、『無垢な善意と信頼による全権委任』である。
一之瀬帆波という少女の心が健康で、太陽であり続けている限り、このシステムは無敵の盾になる。だが、もしその太陽が曇り、彼女自身が誰かに依存したり、精神的に追い詰められたりした時
――この『4,000,000ポイント(いずれは数千万になるだろう資産)』は、Bクラス諸共心中する最大の爆弾になりかねない。
『だからこその、俺と神崎による帳簿のダブルチェックさ。……ま、一之瀬さんが変な奴に騙されないように、俺たちで目を光らせておくしかないね』
俺がそう返信を送ると、姫野さんは遠くの席からジトッと俺を見て、小さくため息をついた。
そんな水面下の危うさを孕みつつも、六月から七月中旬にかけて行われた一学期の期末テストも、俺たちBクラスは全員高得点で完璧に乗り切った。一之瀬の端末にある共有基金はさらに膨れ上がり、大きなトラブルは何ひとつ起きないまま、一学期の終業式を迎えることになったのだ。
「――うわあ、すっごいね相良君! 見て見て、本当に海の上だよ! 学校が夏休みにこんな豪華客船のクルーズ旅行をプレゼントしてくれるなんて、最高すぎない!?」
七月下旬。見渡す限りの青い海と、白い入道雲。 学校側が用意した超大型の豪華客船のオープンデッキで、一之瀬や網倉さん、柴田たちが潮風を浴びながら大はしゃぎしていた。 『一学期を無事に乗り切った一年生へのご褒美として、二週間の南の島への船旅へ招待する』――そんなうますぎる話に、Bクラスだけでなく他クラスの生徒たちもすっかりリゾート気分で浮かれきっている。
だが、デッキの白い手すりにもたれかかっていた俺と、その隣で日傘を差しながら冷たいレモネードを飲んでいた姫野ユキの二人だけは、まったく別の顔をしていた。
「……ねえ、あんたも当然、気づいてるわよね?」
「うん。四月の『十万ポイント支給』の時と、まったく同じ匂いがするね。あの高度育成高等学校が、何の裏もなしに一億円以上かかりそうなクルーズ旅行をタダでプレゼントしてくれるわけがない」
俺は目を細め、デッキのあちこちに立つ船員や、遠くに見える操舵室を見上げた。
「しかもさ、さっき乗船する時に見かけたけど、二年生や三年生の姿がひとりもなかった。一年生だけをこの船に詰め込んで、陸地から完全に切り離した……ってことは、この船の上か、あるいは向かっている先の『南の島』で、一学期のテストなんかとは比べ物にならない規模の『特別試験』が始まるって考えるのが自然だよね」
「……やっぱり。私も、荷物の検査がやけに厳しかったのが気になってた。それに、一之瀬さんの端末には今、クラスの共有ポイントが5,000,000近く入ってるんでしょ? もしポイントを使った駆け引きになったら、うちのクラスが一番狙われるんじゃない?」
「その通り。だから神崎には今朝、『今回の旅行中、一之瀬さんの端末からポイントを動かす時は、必ず俺と神崎の承認を通すルールを厳守させよう』って釘を刺しておいたよ」
俺が苦笑いして肩をすくめると、姫野さんは「あんた、ほんとに苦労が絶えないわね」と呆れたように笑った。 白地に淡い水色のストライプが入った夏用の私服ワンピースを着た姫野さんは、普段の制服姿よりもずっと大人っぽくて、潮風に揺れるセミロングの髪から覗くうなじに、俺はさっきから目のやり場に少し困っていたりする。
「……なに、相良君。さっきから私の顔に何かついてる?」
「えっ? あ、いや! なんでもないって! ただ、姫野さんのその私服、すごく似合ってて涼しそうだなーって思っただけ!」
「……っ、な、なによ急に。お世辞言ったって、このレモネードは一口もあげないわよ」
「いやいや、本心だっての! なんで俺が言うと全部お世辞か詐欺みたいに扱われるんだよ!」
顔を少し赤くして日傘で顔を隠す姫野さんと、そんな他愛もないやり取りをしていた時だった。
「――あれ、Bクラスの相良じゃないか。隣にいるのは姫野ちゃんだったかな? 奇遇だな、こんなところで会うなんて」
軽薄そうでいて、どこか抜け目のない明るい声が後ろから飛んできた。 振り返ると、そこには派手なアロハシャツを粋に着こなし、金髪をオールバック気味のツーブロックに整えた男子生徒が、片手を挙げて立っていた。 一年Aクラス――『橋本正義』。
「お、Aクラスの橋本くんじゃないか。どうしたの、俺みたいなBクラスの一般生徒にまで声をかけてくれるなんて、鼻が高いねえ」
俺は瞬時に『お調子者の相良』の笑顔を貼り付け、一歩前に出て姫野さんをさりげなく斜め後ろへと庇った。
「いやあ、一般生徒だなんて謙遜するなって。五月の須藤の審議で、Cクラスの石崎たちを見事なハッタリで自白させた『Bクラスの懐刀・相良縁』の名前は、俺たちAクラスでもちょっとした話題になってるんだぜ? おまけに、Bクラスで一之瀬を中心にやってる『ポイントの積立システム』、あれの規約を作ったのもお前なんだろ?」
「……へえ、そんなことまでAクラスに漏れてるのか。うちのクラスは口が堅いと思ってたんだけどな」
「はは、ケヤキモールでBクラスの連中が『今月のお小遣いは四万だからな〜』って話してるのを繋ぎ合わせれば、そのくらいの推理は簡単さ。で、相良。もし今ちょっと時間があるなら、あっちの船内ラウンジまで顔を出してみないか? 実はうちのクラスの『姫さん』が、一度お前と話してみたいって言っててさ」
橋本の口から出た『姫さん』という単語に、俺と姫野さんの眉が同時にピクリと動いた。 Aクラスを二分する二大派閥――堅実な『葛城康平』と、天才的な頭脳を持つ『坂柳有栖』。目の前にいる橋本は、間違いなくその『坂柳派』の中核メンバーだ。
「よし、じゃあお言葉に甘えて、少しだけご挨拶させてもらおうかな。案内してくれる、橋本くん?」
「オーケー、こっちだ。ついてきな」
橋本に案内されて足を踏み入れた船内のメインラウンジは、外デッキの陽気なリゾート気分とはまるで違う、ヒリつくような冷たい緊張感に支配されていた。 右側のテーブルにはスキンヘッドの巨漢・葛城康平。左側の窓際のソファー席には、杖を脇に置いた小柄で儚げな銀髪の美少女――坂柳有栖が優雅に足を組んで座り、背後には鬼頭隼と神室真澄が控えていた。
「……橋本。部外者を勝手にAクラスの集まっている場所に連れ込むなと言ったはずだ。……そこの二人は、Bクラスの相良と姫野だな?」
「おっと、葛城くん、邪魔するつもりはないんだよ! ただ、せっかくの船旅だからAクラスの皆さんにもご挨拶しておこうかなってさ」
俺が愛想よく頭を下げると、葛城は「……そちらこそ、Bクラスの堅実な戦いぶりは見事だった。特に一之瀬を軸にしたポイントの集約と、お前の調整力は侮れないと見ている」と、真面目な顔で返してきた。 だが、その会話を遮るように、窓際のソファーから鈴を転がすような少女の笑い声が響いた。
「フフッ、葛城くんったら、せっかく来てくださったんですから邪険に扱わなくてもよいではないですか。……ようこそ、Bクラスの相良縁くん、それに姫野ユキさん。お会いできて嬉しいですよ」
坂柳有栖が、薄紫色の瞳を細めて俺を見上げてきた。
「どうも、初めまして坂柳さん。俺みたいなBクラスの雑用係をご指名だなんて、どんな風の吹き回しかな?」
「雑用係、ですか。ご謙遜を。私、人を観察するのが趣味なものですから、興味深い動きをする方にはつい声をかけたくなってしまうんです」
坂柳は杖の柄に細い指先を添えながら、値踏みするように俺の顔をじっと見つめた。
「あなたは不思議な人ですね、相良くん。一之瀬帆波さんのように無邪気な善意を信じているわけでもなく、神崎隆二くんのように生真面目な正義感に縛られているわけでもない。相手のプライドをくすぐり、小銭と笑顔で妥協点を見つけ出し、誰も傷つかないように盤面を丸く収める……。まるで、この学校というチェス盤の上で『引き分け』ばかりを狙っているような立ち回りですね」
ひと息で俺の本質をズバリと言い当てられ、俺は背中に冷たいものが走るのを隠した。
「いやー、手厳しいな! 俺はただの平和主義者だよ」
「ふふ、そうですか。一之瀬さんの無垢なカリスマ性を利用してクラス全員のポイントをひとつの口座に集めさせ、自分はその裏で帳簿を握ってリスクを管理している……。今の時点で、彼女の端末には6,000,000を超えるポイントが眠っている計算になりますが、違いますか?」
隣にいた姫野さんが、息を呑む気配がした。 俺は笑顔を崩さないまま、内心で舌を巻く。ただ集めているだけでなく、俺たちが初期基金と毎月の徴収でいくら積み立てているかまで、ほぼ正確に試算しているのだ。
「ですが、忠告しておきますよ、相良くん。一人の人間に富と信頼を集中させるシステムは、平時には無類の強さを誇りますが……ひとたびその『中心人物』が壊れれば、クラス全体が連鎖倒産する諸刃の剣です。これからこの船が向かう『無人島』や、その先の特別試験で、あなたがどうやってその神輿を守り抜くのか、楽しみにしていますね」
「忠告ありがとう坂柳さん。でもさ、うちの神輿は見た目以上に頑丈だし、担ぎ手も優秀なんでね。……むしろ、Aクラスさんこそ、そのソファーの右側と左側にある『深い溝』に足をすくわれないように気をつけた方がいいんじゃないかな?」
俺が葛城派と坂柳派の分裂を皮肉たっぷりに突くと、坂柳の後ろにいた鬼頭がギロリと俺を睨みつけた。 坂柳自身はといえば、怒るどころか、ますます面白そうに目を細めて「ふふっ」と笑った。
「ええ、本当に愉快な人ですね。……ちなみに相良くん、五月の審議であなたと一緒に動いていたDクラスの『綾小路清隆くん』ですが、彼についてはどう思われますか?」
「え? 綾小路くん? うーん、ちょっと無口だけど、意外と機転が利くいい奴だったよ。彼がどうかしたの?」
「いいえ、なんでもありませんよ。ただ……彼と同じ空気を吸っているあなたが、少しだけ羨ましくなっただけです」
俺は「じゃあ、そろそろBクラスのみんなが探してる頃だから」と軽く手を振り、姫野さんを連れてラウンジの重い扉を押し開けた。
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