神代の旧きより、ウルフェン族は魔の森に棲む一族である。
生活の中で様々な掟を作り、厳しくも温かい森と共存してきた。
森は時に恵みを、時に成長のための試練を、そして時に避けようのない死をもたらす。
魔の森の中でもその奥地は荒ぶる古の神が住まう禁足地として掟に定められ、踏み入ったものは二度と帰って来ることがなかった。
部族はその神を恐れ、名すら呼ぼうとしない。
しかし、伝承の中に、その名前は未だ息づいている。
曰く。
その巨体は数多の戦士たちの返り血で紅く染まり――
その眼は憎悪と憤怒に支配され黄金に輝く。
その牙の前に立てるものなし。
生きとし生けるもの、近づくべからず。此れ逃げること能わず、遭わぬことのみ許されよう。
畏れよ、その名は――。
「――ヒヒイロカネ。」
ロウガがささやく。
一瞬、地鳴りが止んだと思ったとき、眼前の木々をなぎ倒しながら、雷がすぐそこに落ちたかのような音と共にソレは現れた。
告白するが、私は逃げなかったことを一瞬後悔した。
今しがたなぎ倒した木々ほどもあろうかという大きな牙。
人間など簡単に轢きつぶせるであろう、ブルドーザーを思わせる巨体、それを包む緋色の毛並み。
そこに顕現していたのは、確かに神というに相応しい威容をもつ巨大なイノシシだった。
前足で土をかき、大きく息を吸うと――
「まずい――」
とっさのことで私は防御が遅れた。
それを見て隣にいたロウガに耳をふさがれる。
次の瞬間、暴風に殴りつけられた。何が起きたかわからない。
身体がグワングワンする。
おそらく防御してもらわなかったら一撃KOだっただろう。
ロウガも耳をたたんでいたが、そこから血が流れている。
やや遅れて、状況を認識する。
ヒヒイロカネは、吠えたのだ。
動物の威嚇ではよくある、ただそれだけのことが、既に致命的だった。
あいつは頭を振りながら、こちらを伺っている。
普通の獲物なら、これだけで倒れて戦闘終了なんだろう。
早速想定外の行動というわけだ。
作戦開始後、奴が現れるまでのわずかな時間でロウガと交わした会話を回想する。
「作戦を整理しよう。といっても、その内容自体はシンプルなものだが」
「ええ。この作戦のポイントは2つ。まず1つめ。家はドアを閉じた時、外部との時間の流れが遮断される。それは裏を返すと、ドアを開けたままにしておけば、時間は共有されるということ。そして2つめは――」
ロウガがその先の言葉を引き取る。
「うん。私が家にいる時にノミやダニが一切いなかったのは、おそらくドアを通り抜ける際にそれらがバリアか何かで弾かれているからだと推測できる。おそらくあの家には、スズメの許可なしには入れないのだ。これら二つの要素を組み合わせればある一つの結論が導ける。」
「「ドアを開けはなしておけば、家の内側から一方的に攻撃ができる。」」
お互いに頷く。
当然不安要素はある。
そのバリアは本当にあるのか?あったとして、それは敵の攻撃にも耐えうるものなのか?
そして、そういった根本的な要素がクリアされていたとしても、今度の敵にはもう一つ厄介な点があった。
「私もやつとは一度戦っただけだ。それでもいくつかわかったことがある。」
「まず、やつは非常に賢く、そして臆病だ。おそらく、その気質がここまで生き延びさせたのだろう。凄まじい強さを誇りながら、相手へ無策に突進していったりはしない。思いもしない反撃を受けることを避けている。奴が近づいてくるのは、確実に相手を殺せると判断した時だけだ。」
「つまり、初めから家の中に籠っていても、射程外に逃げて我慢比べになってしまうだろうってことね。そうなるとこちらに勝ち目はないか。」
「ああ。だから初めに奴を怒らせて判断力を奪う必要がある。」
「どうすればいいの?」
「あのキノコの毒を塗った毒矢で眼を狙う。奴の毛は固く、とても矢が通る代物ではないが、目玉なら流石に攻撃は通るはずだし、毒も殺せないにしろある程度のダメージは与えられるはずだ。だが、ここでも問題が一つ。普通に狙ってもまず当たらない。頭を振ってかわされてしまう。」
沈黙。
ややあって、口を開いたのはロウガだった。
「――私が囮になる。」
「ダメ」
「スズメ、わかるだろう。それしかない。私との戦闘がはじまれば、奴とて必ず隙はできる、いや、作ってみせる。そこを狙って矢を撃ち込んでほしい」
「そんなの危険すぎる!!」
「どのみち失敗すれば二人とも死ぬ。遅いか早いかだけの差だ。」
「でも――」
うつむいてしまう。
自信がない。
私の一矢にすべてが懸かっている。
そんな重い役目、とても私には――
「スズメ。」
そっ、と頬に手が当てられ、上を向かされる。
ロウガと目が合う。
これから死ぬかもしれないというのに、その目には少しも恐れがなかった。
「君は私の命の恩人で、初めて出来た大切な親友だ。だから、敢えてこう言わせてもらう。」
「私はスズメを信じたのではない。私は私の考えを信じたんだ。……だから、もし失敗してもスズメの責任ではないさ」
「……ずるいなあ、もう」
先にズルをしたのはスズメだ、とロウガが笑った。
肩の力が抜ける。
それでも不思議なことに、体の内側からは何か温かい力が湧き出てくる感じがした。
「わかった。それで行きましょう」
――ついさっきの回想なのに、ずいぶん遠くに感じる。
ロウガを見上げる。ロウガはこちらを見て薄く微笑むと、放たれた矢のごとくヒヒイロカネに向かって飛び出していった。