ロウガは不思議な気持ちだった。
この温かい気持ちはなんだろう。命を懸けている恐怖でガタガタになりそうな身体を支える、この気持ち。
私は生まれてこのかた、友人というものを持ったことがない。
距離の遠い者は本当の私を知らなかっただろうし、父母や距離の近い同族はみな私を異端者として扱った。
王族の女でありながら定められた道に従わず、未知を恐れるべきでありながら好奇心が強く本を好む私を。
表立って文句を言われぬよう知だけでなく武も修業した。もはや部族で私に敵う者は誰もいないだろう。
しかし、どこまでいっても私は王族の女だった。
私が孤独に耐え、それでもやってこられたのは、ウルフェン族には一つの救いがあったからだ。たとえそれがどんなに不可能なことだったとしても。
“禁足地に行き、モンスターを数多討ち果たし、古の神とまみえた者。これをあらゆる掟に縛られぬ『英傑』とする。”
この掟ができた当時どう運用されていたのかはわからない。
もしかしたらいつか誰かに倒してほしいと願われて作られたのかもしれない。
だが、現在この掟は重い罪人に適用される体の良い死刑宣告であった。
ウルフェン族は味方殺しを禁じるが、その代わりとしてこれを言い渡されるのである。
そして、いよいよ他部族との縁談がはじまろうとした時。
私はこの掟に従うことを皆の前で宣言した。
父は頭を抱え母は卒倒し、居並ぶ家臣たちも目を見開いた。
迫るように父にも掟の開始宣言をするように促すと、考え直せ、と言われた。
「考え直す気はねえんだな?」
「父上。それは父としてのお言葉か、それとも部族の王としてのお言葉か?」
「生意気言いやがる――」
「父上、もし認めていただけないのでしたら、私は罪人となります。」
剣を抜き、切っ先を父上に向ける。
周囲にどよめきが走るのに構わず続ける。
「王殺し、親殺しはたとえ王族と言えどゆるされぬ大罪。当然あの掟に従うことになるでしょう。……しかし、私は尊敬する父にこのようなことはしたくありません。どうか、お許しを。」
「……ロウガ、てめえ……。」
父上は深くため息をついた。
「……ま、そのケツがむずがゆくなるような口調はともかく……態度だけは立派なもんだ」
そして、王として掟の開始を宣言するのだった。
ヒヒイロカネと対峙しながら、ロウガはその時のことを思い出していた。
眼前に立ちはだかる威容はまさにどうしようもない運命そのもの。
しっかりとその眼はこちらを捉えている。
先に仕掛けたのはロウガだった。
俊足を生かし、ヒヒイロカネの周りを走りながら、懐に忍ばせておいた石を次々とぶつける。
大したダメージにはならないだろうが、多少いらだたせることはできるだろう。
その証拠に、鼻息が荒くなってくる。
ヒヒイロカネは頭を動かしうるさい虫を振り払おうとするが、ひょいひょいとかわされてしまう。しかも、振り払おうとするたびに剣で傷をつけられていく。
せいぜいやや血が滲むくらいの傷だが、それでも鬱陶しいことに変わりはない。
と、突然その頭が深く沈んだ。牙が地面にめり込む。
一瞬の間の後、勢いよく空へと大地がえぐり飛ばされる。
砕けながら空へと上がった大地は大小の破片となってあたり一面に降り注いだ。
「くっ――」
大丈夫、落ち着いてやれば避けられる。
右、左、また左――
もうもうと立ち込める土煙。視界の端でそれが動くのを捉えた。
「――!」
千年の大樹すら薙ぐその牙。
とっさに跳ぶ。間一髪で先ほどまでいた空間が土煙ごと薙ぎ払われる。
小規模な竜巻すら起きているようだ。
しかし、なんとか避け――
「がっ……あ……!」
右腕の感覚がない。
そんな。確かに避けたはずだ。
振り返ると後ろの木々がまるで鋭利な刃物で切られたようになっていた。
それらに混じって、先ほどまで確かに自分のものだった腕が見える。
凄まじい速度の振り上げは真空を生み、それは鋭利な刃となって見た目以上のリーチを文字通り切り払ったのだ。
「クソ……化け物め……!」
剣は持っていた右腕ごと飛ばされてしまった。
もはや先ほどのような戦法をとることはできない。
初めに受けた咆哮で三半規管が損傷していたのもあり、腕からの出血と合わせて体がふらつき始めた。おそらく長くは戦えない
悪態をついて血の混じったつばを吐き捨てる。
やがて砂煙が晴れると、そこには変わらぬ姿のヒヒイロカネがいた。
(このままでは隙すら作れず文字通りの犬死だ)
自分が死ぬのはいい。
これは自分で選んだ自由の代償。
その結果が例え己の死でも受け入れてみせよう。
だが――
きっと見ている。
スズメは必死に声を押さえて私を見ているだろう。
震えているだろうか、悲しんでいるか、怒っているか。
自然と顔がほころぶ。
こんな時なのに、楽しかった時間が私の体を支えてくれる。
諦めるわけには、いかない。
「おい……このクソイノシシ……まだ怖いか?腕飛ばされた獲物一人満足に近寄れねえか?」
ピクリ、とヒヒイロカネの頭が動く。
言葉が理解できるかはわからない。だが、齢を重ねた化生。
向こうがどんな態度をとっているかは肌で理解する。
ふらり、ふらり、と飛ばされた剣の方に後ずさる。
「……てめえが神?は!笑わせんじゃねえよ。せいぜい根性無しのクソブタがいいとこだろ?……いっぱしの気概があるならさっさとぶっ殺してみやがれ!!!」
言い終わると同時に精一杯の力を振り絞って剣を拾おうと駆け出す。
ヒヒイロカネは怒りで咆哮し、突進した。
惰弱な獲物如きに何を恐れていたのだ。
もはや息も絶え絶え、今行けば確実に殺せる。
それに――この屈辱の代償を支払わせなければ。
(間に合え――)
しっかりと握ったままの右腕ごと剣を拾い、振り向く。
「――」
言葉にならない。
激痛。
下を見る。
ロウガの腹をぶち抜くように牙が突き刺さっている。
ヒヒイロカネの眼を見た。
「最後にみる顔――」
言葉と同時に、
「――よく覚えておけ」
剣を鼻先に思いっきり突き刺した。
一瞬ヒヒイロカネの動きが硬直する。
「スズメぇぇぇぇ!!!!」
同時に放たれた2本の矢。
まるで。
そこに当たるのが初めからわかっていたかのように。
美しい軌道を描いて両の眼に突き刺さった。