「……なあ」
――静かに揺れる水面。
「ん? なんだよ。怖いなら、もっと俺にしがみ付いてもいいぞ」
――しとしと
「コイツ、オレが女だって知ってから一気に態度が軟化してる……。まあ、そんなことはどうでもいいとして、どうしてオレたちはこんな風になっちゃってるんだ?」
「さーな。とりあえず言えるのは、不幸中の幸いって奴だろ。そう思うだろ?」
そうして俺は目の前に語りかける。
赤毛の持つカンテラに照らされ、覗くことが出来る藍色の左目が不気味に煌めく。
彼の存在の周りを白い霧が不規則に揺らめき、その姿を幽玄たるモノへと
そして怪物は、こちらに振り向いて、その大きな口を開け――
「ポワーン」
うん。シリアスにはなりっこないな、この鳴き声は。
そんなわけで俺たちはテントを片付け、進行を塞いでいた大きな湖を渡っていた。
先ほど現れた怪獣とやらに力を借りて、だ。
独特の鳴き声で返事した水色の首長竜さんは、気持ちよさそうに湖を泳いでいる。
そう! この子の正体は、可愛らしい顔立ちをしているラプラスちゃんであったのだ!
地形の影響なのかよく分からないが、コイツの声は近くで聞かないとこの洞窟内では低く聞こえるようである。
あの鳴き声のせいで、どこ行っても避けられていたに違いない。
「しかし本当に助かったな。行き詰っていたし、これでもうちょい先に進めれば出口見つかるかもしれないし」
「寝る気まんまんだったから眠てェけど」
「五月蠅い。寝言は寝て言え。それよかもっと引っ付け」
「お前はなんでこう、人間的に残念なんだろうな。オレを男だと思ってた時も態度悪かったけど、女と認識してから下衆すぎる」
「文句あるのかよ。これが紳士たる俺だ」
「突っ込みどころ多すぎてどこから言えばいいのか……。はあ、今みたいにポケモンに関しちゃ、知識もあるし扱うのも上手ェのに。天はニ物を与えないっていうの、よく分かった」
何を失礼な。と、言いたいところだが、俺的にコイツは男として接してきていたので、いきなり女と言われても対応しようがない。
ということで、あえてこういった下衆染みた人間を演じているのだ!
……ごめんなさい嘘です。今までと仕様が変わって、どう接すればいいのか分からないだけなんです。
だってさぁ、いきなり女だよ? って言われて、はいそうですか。それじゃコトネさんと同じように、年上の女の子として接していきますって出来ますか!?
俺には無理だよ。だからこんな風に、初々しい中学生みたいな反応しか出来ない。
非常にお恥ずかしい限りです。
「ポワワン」
そんな風に妙に気恥ずかしくなっていると、変わった鳴き声を放って空気を紛らわしてくれるラプラスちゃん。
うん。どう考えても、俺の知っているラプラスの鳴き声とは、何かが違う気がする。
まあポケモンにも個性というものがあるんだ。他の奴とは違うモノがあってもおかしくはない。
「お前、面白い声出すよな」
「……ポワン?」
ちょっとー!? 俺が言わないでおこうと思っていたこと、赤毛ちゃん何言ってるんですかねー!?
怒って俺たちを下ろすんじゃないかと危惧したが、別にそんなことはなく、ただ不思議な鳴き声を放っただけのラプラス。続いて、何? と言わんばかりに首を傾げている。
特別俺たちに何かをするということは無さそうだ。
そういえばだが、ラプラスは性格の優しいポケモンだ、という説明をゲームの図鑑で見た気がする。だから別に怒ったり悪いことをしたりは――――
――ん?
ちょっと待て。
俺、大変なことに気付いちまった。
ポ ケ モ ン 図 鑑。
貰って今まで、一度も活用したことがありません。
……冷や汗がとまんねぇ。
「お、おい。何いきなり震えだしてんだよ。怖ェじゃねェか」
「俺は……俺は……とんでもないことを……」
「マジでどうしちまったんだよ。心配になるだろうが」
そう言って俺の顔を後ろから覗いてくるユウキ。
確かに言われてみれば、女っぽい……か。
いや、現場を見たんだ。これ以上疑ってかかっても仕方がない――ってそういうことじゃねーよ!
俺はポケモンの権威たるオーキド博士に図鑑を任せれ、早二か月が経とうとしているのにさ! ポケモン図鑑のポの字も見てねーよ。これは傑作だぜHAHAHA!
ってなるわけないじゃん。
と、とりあえず。
「なに物凄い形相でバック漁ってんだジュンイチ。怖いぞ」
「一刻も早くこの状況を打破しなくちゃいけない、っていう使命感の下だ。邪魔するな」
「お、おう」
気持ち悪いよね? 頭おかしいよね?
そんなこと俺にも分かってんだよ! でもさ、俺はこれ以上何もしないでおくっていう選択肢が選べないんだよ!
少し背中でゴソゴソしちゃうけど、ラプラスちゃん許してね。
ついでに言うけど、俺は此奴が雄か雌かは知らない。ただ、可愛いなら基本はちゃん付けでいいだろう。
「お、あった」
そうして見つけたポケモン図鑑。
様々な荷物の下敷きになってましたは。
「何だそれ?」
「これな。こうやって一定のポケモンを対象にして蓋を開くと――」
『ラプラス。のりものポケモン。人を乗せて海を進むのが大好きな優しいポケモン。背中の乗り心地は抜群』
「こんな感じに説明が出るハイテク機械」
「……お前、あの研究所でこんなんも貰ってたのか?」
「いや、これはたまたま会ったオーキド博士に」
「オーキド博士ってたまたま会えるような人物じゃねェだろ!? すげェーじゃん! あた――じゃなかった、オレにも触らせて!」
「っちょ、馬鹿! 落ちたらどうする!?」
やんややんやと俺のポケモン図鑑を取り上げて来ようとする赤毛。
なんとか水に落ちないようにする俺。
そして背中で騒ぐ俺たちを、優しそうな瞳で見つめるラプラス。
……とりあえず賑やかにしつつ、俺たちはゆっくりと湖を進んだ。
*****
「……ん?」
気が付くと、ラプラスが湖の上で制止していた。
ふと俺は記憶を振り返る。確かラプラスの上でユウキと図鑑を争っていた俺だが、途中で諦めて渡したんだっけ。
その後の記憶がないことから、疲れて途中うとうとしていた、ということか。どうにもラプラスの首筋にのたれかかっていたようだし。
ユウキという赤毛は、ラプラスに乗っかっていた俺に体を預けていた。何だか一気に距離が詰まった気がするのは気のせいか。
……多分コイツ、人見知りなんだと思う。
「って、そんなことはどうでもいいとして……」
「ポワン?」
俺の発した独り言に、水面に制止しているラプラスが、不思議そうな声を出してこちらを見てきた。
疲れたのか、それともこの体勢のまま寝ていたのか――
しかしそんな思考は、目の前の景色を見た瞬間に吹き飛んでしまったのである。
言ってみれば、この眺めこそ、俺がこの世界で求めているものだった。
「…………すげぇ」
そこは行き止まりだった。ただそれはラプラスにとっての行き止まり。つまり奥へと続く道があったのだ。
しかし、そのことに驚いているわけじゃない。
ラプラスの角から発せられている“あやしいひかり”。そして壁沿いに不規則に並んでいる、青白く発光する石たち。
まるで俺を、儚い幻想郷へと誘うかのような――
人知において創り上げることの出来ない、自然が形成した唯一無二の彫刻。
ただただ、俺は網膜に目の前の絶景を焼き付けることに必死だった。
「ラプラス……お前、こういうの好きか?」
「ポワワーン」
「お前は自分の意志で、ここにいるのか?」
「ポワーン」
気の抜けるような返事だが、その意志ははっきりと読み取れる。
コイツは――俺と同類なのだ。不思議な物、美しい物に魅了されて、あちこちを泳ぎ回っては眺めてきていた。
最初はコイツの変な鳴き声が要因として、トレーナーに捨てられたり、仲間に置いていかれたりしてここに流れ着いたのかと思っていた。
しかし実際は違う。あらゆる場所を自分の意志で探索し、ここがただ単に気に入って棲みついていただけのだ。
「ラプラス、お前すげーセンスあるぜ。マジでびっくりしたわ。ここはお前が見つけた、とっておきの秘密の場所だったんだな」
ピタッと首筋に触れると、少しだけくすぐったそうに笑うラプラス。
微かに前方から流れてくる風が揺らし、波紋が静かに広がっていく。
脳内にこの光景がすぐさま浮かぶぐらい、俺とラプラスはじっと目の前の神秘的な世界を眺め続けた。
※図鑑の説明は金銀から