1話読み返して、あまりにもムービー文字起こししただけだったので、時間ある時に手を加えると思います
感想、評価お願いします
DDとエンソーオーダー上層部とのやりとり追加しました、結構大事な部分なのに何故入れ忘れるのか…、申し訳ございません
轟音。
ミサイルが右翼を直撃した。スーパーホーネットの機体が大きく跳ね、レイの身体がシートへ叩きつけられる。肩を固定していたハーネスが食い込み、胸が一瞬潰れたように感じた。警告音が一斉に鳴り始める。赤い警告灯がコックピットの中で明滅していた。焼けた配線の臭いと、燃料のような刺激臭が鼻を突く。何かが燃えている。何かが壊れている。機体が傾いた。そのまま、回転する。
空。海。空。海。
視界の中で、世界が何度も反転する。身体がシートに押しつけられ、内臓が浮き上がるような感覚に襲われる。計器の数字は意味を失い、赤い光と黒煙だけが視界の中を流れていく。
「コープ!」
レイは前席へ呼びかけた。返事はない。コープの身体は、シートに預けられたまま動かなかった。レイは手を伸ばすが、身体はシートに押しつけられている。機体はなおも回り続け、炎がキャノピーの向こうを走った。黒煙が視界を覆う。そして、海面が迫ってきた。
『俺にはまだ、この世に心残りがあるんだが……』
声がした。あまりにも静かな声だった。レイは前席を見た。コープは動かない。無線も沈黙している。それでも、その声だけが聞こえていた。
次の瞬間、視界のすべてが海で埋め尽くされた。青い海面。その向こうに、空すら見えなくなる。
『全てを失おうとしてる我々に残るのは、いつもこの海の水だけだ』
そして――激突。
世界が、白く弾けた。
⸻
冷たい。最初に感じたのは、それだった。次に感じたのは、重さだった。身体がシートに押しつけられている。耳の奥で何かが鳴っている。何かが周囲を満たしていく。
海水。
レイは反射的に息を止めた。目を開けると、コックピットの中に海水が流れ込んでいた。機体はまだ沈んでいる。上下が分からない。自分がどちらを向いているのかさえ分からない。キャノピーは、海面への激突ですでに吹き飛んでいた。そこから海水が激しく流れ込んでくる。冷たい水が首筋を伝い、フライトスーツの中へ入り込んでくる。
レイはシートベルトへ手を伸ばした。指が震える。バックルを探すが、見つからない。もう一度手を伸ばし、ようやく指先に触れた。外す。身体が自由になる。レイは前席へ向かった。
「コープ!」
返事はない。コープは動かない。シートに身体を預けたままだ。レイの位置から、その顔は見えなかった。
「コープ!」
レイは肩を掴んで揺さぶった。反応はない。もう一度、強く揺さぶる。それでも動かない。レイは両腕を回し、コープの身体を引き上げようとする。
重い。
水中では、思うように力が入らない。腕を動かすだけでも抵抗がある。それでも引く。一度、二度、何度も。機体は少しずつ沈んでいる。海面から差し込んでいた光も、遠ざかっていく。コックピットの周囲を満たしていた青い光が、次第に暗くなっていく。
レイは歯を食いしばった。まだだ。まだ、連れていける。
そのときだった。
『……青黒い孤独』
レイの動きが、一瞬止まった。コープは動かない。それでも声だけが聞こえる。
『世界の全てから切り離されてゆく……』
レイは何も答えなかった。ただ、もう一度コープを引いた。腕に力を込める。コープの身体が、わずかに浮く。だが、息が苦しい。肺が焼ける。もう長くは持たない。それでもレイは手を離さなかった。もう一度、力を込める。だが、動かない。視界が暗くなっていく。酸素がない。もう、限界だった。そのとき、指先に何かが引っかかった。
金属。
レイは反射的にそれを掴んだ。細いチェーンを引っ張る。
――ぶつり。
何かが切れた。
レイの手に残ったのは、ドッグタグだった。
コープの身体が、ゆっくりと離れていく。
「……コープ」
レイは手を伸ばした。届かない。もう一度伸ばす。それでも届かない。
「……すまない」
それだけを残して、レイはコープから離れた。これ以上ここにいれば、自分まで沈む。レイはドッグタグを握りしめ、上を向いた。
⸻
海面を目指す。それだけだった。腕を動かす。足を動かす。苦しい。身体が重い。濡れたフライトスーツが身体にまとわりつき、まるで水そのものがレイを引き戻そうとしているようだった。それでも上へ向かう。
やがてレイは、振り返った。海底へ沈んでいくスーパーホーネットが見えた。黒い機体。折れた翼。その傍らに、コープの姿がある。
レイは止まった。ただ、見つめた。機体が沈んでいく。コープも沈んでいく。どちらも、少しずつ小さくなる。手を伸ばしても、もう届かない。生きているのか。死んでいるのか。レイには分からなかった。ただ、二つの影が暗い海の底へ消えていく。その光景を、レイは呆然と見ていた。
『いや、まだあんたがいたか……』
レイは動かなかった。海底を見つめる。もう何も見えない。ただ、暗い海だけが広がっている。右手を開く。ドッグタグがあった。レイはそれを握り直した。
冷たい。
硬い。
それだけだった。
しばらく、レイは海底を見つめていた。やがて、
『浮かべ。』
レイが顔を上げる。遠い海面に、光が見えた。
『そして、生きて帰れ。』
レイはもう一度だけ、海底を見た。それから身体を反転させた。
上へ。光へ。
泳ぐ。一度。また一度。暗い海の中を、ひたすら上へ向かう。青黒かった水が、少しずつ明るくなっていく。海面が近づき、光が強くなる。そして――レイの身体が、海面を突き抜けた。
「――っ!」
大きく息を吸う。空気が肺へ流れ込む。
眩しい。
頭上には、青い空が広がっていた。海面が陽光を反射して、どこまでも明るく輝いている。レイは海に浮かびながら、空を見上げた。右手には、ドッグタグ。その冷たい感触だけが、確かに残っていた。
だが、身体はすぐに現実へ引き戻された。肺が痙攣する。焼けるような空気が、内部の組織を引っ掻く。塩辛い海水が喉から鼻へと逆流し、レイはもがきながら、苛烈な咳き込みに襲われる。何度も咳をする。胸の奥が痛い。体は震え、濡れた飛行服は氷のように冷たい。それでも、空気だけは吸えた。彼の周りでは、波が白く砕け、きらめく太陽の光が無数の破片となって海面を反射している。
世界は、あまりにも明るかった。
先ほどまでいた、あの青黒い、重く、静かな海底とは、全くの別世界だ。まるで悪夢から覚めた直後の、現実との断絶だった。彼は、しばらくの間、ただ呼吸することに全ての力を注いだ。息を吸い、吐き出す。それだけが、彼がまだ生きているという証明だった。やがて、咳が落ち着き、呼吸が少し穏やかになる。レイは、ゆっくりと顔を上げた。
空は、青く澄み渡っていた。雲一つない、完璧な空。だが、その美しさは、彼には何の慰めも与えなかった。彼の視線は、無意識に、自分のすぐ下の海中へと注がれる。水面を少し掻き分け、そこを覗き込もうとする。しかし、水面下は濁っており、暗い。先ほどまで自分がいた、あの深淵への入り口は、すぐそこにあるはずなのに、その姿を隠している。そこに、コープの姿はもう見えなかった。あの静かな影は、もう見えない。
「……コープ……」
かろうじて、絞り出すような声だった。だが、それ以上の言葉が、喉から出てこない。
その時だった。
ゴゴゴゴ……という、低く、遠い音が、水平線の彼方から聞こえてきた。レイは、耳を澄ました。エンジン音だ。戦闘機のような尖った轟音ではない。もっと、太く、低い響きだった。音は、急速に大きくなる。バシバシバシ、という、プロペラが空を切る鋭い音。
レイは、ゆっくりと、音のする方へ顔を向けた。
空の一点に、黒い染みが見える。それは、目に見える速さで大きくなり、やがてヘリコプターの形になった。
救助ヘリだ。
ヘリは、海面すれすれを、巧みに飛行している。スプレーが、両側に白い筋を描く。レイは、彼らに気づいてほしいと祈った。叫ぼうとする。だが、喉は焼けるように痛く、うまく声が出ない。小さく、それでも、必死の合図だった。ヘリは、レイの真上で、飛行を停止する。ローターの下降気流が海面をかき混ぜ、レイの体を揺さぶる。ドアが開き、二人の救助隊員が、ワイヤーに吊られて海面へと降りてくる。波をかき分け、彼らはレイに近づいてきた。
救助員が海面まで降下し、レイの身体を確保する。
「大丈夫だ、もう少しだ!」
声は聞こえていた。だが、その言葉に答えるだけの力は残っていなかった。
ワイヤーに身体を固定され、ゆっくりと海面から引き上げられる。その途中で、レイは無意識に右手を握りしめていた。指の間に、硬い金属の感触がある。
救助員がそれに気づいた。
「……それ、誰のだ?」
レイの唇が僅かに動いた。
「……コープ……」
それ以上は何も言わなかった。救助員も、それ以上は聞かなかった。戦場で拾う遺品には、問い詰めてはいけないものがある。
ヘリへ収容されたレイは床へ寝かされ、すぐに状態を確認された。
「脈、ある。細いが、ある」
「呼吸は?」
「浅い。海水を誤嚥してる。喉も腫れてる」
救助員がレイの頭部を確認する。
「頭部打撲。右耳から出血」
酸素マスクが顔へ当てられた。濡れたフライトスーツが切り開かれ、身体へ毛布が掛けられる。点滴の針が腕に刺され、冷え切った身体へ少しずつ温度が戻されていった。ローターの音が耳を圧迫する。レイは目を開けていた。だが、焦点は合っていない。その音の向こうから、別の声が聞こえた気がした。
『全てを失おうとしてる我々に残るのは、いつもこの海の水だけだ』
「……コープ……」
「今は喋るな。体力を温存しろ」
誰かの手が肩を押さえる。酸素マスクの内側で、レイは浅く息をした。意識がまた遠ざかっていく。右手だけは、最後まで開かなかった。その手の中には、コープのドッグタグが握られていた。
⸻
エンデュランスへ帰還した救難ヘリのローターが減速していく。海水を含んだ風が甲板を叩き、救難員の衣服を揺らす。周囲では艦載機の整備が続いていた。ジェットエンジンの試運転音、甲板員の怒鳴り声、工具が金属へ当たる音。レイが戻ってきたことを待ってくれるような静けさは、どこにもなかった。
「負傷者! 空軍大尉!」
レイは担架へ移され、そのまま艦内へ運び込まれた。艦内の通路は狭かった。担架が曲がり角を通るたび、救助員が身体を傾ける。配管やケーブルが天井を走り、古びた蛍光灯が一定の間隔で床を照らしている。ディーゼル燃料、潤滑油、消毒薬の匂いが混じっていた。足元から伝わる微かな振動は、巨大な艦そのものが生きているかのようだった。レイは目を閉じたまま、その振動を感じていた。
海では何もかもが静かだった。ここには音がある。人間の声がある。金属の音がある。戦争がまだ続いている。その振動の中を、レイは医務区画へ運ばれていく。
医務室は決して新しい設備ではなかった。壁には長年の使用で落ちない染みが残り、医療用ベッドの金属部分にも傷が目立つ。簡素な監視装置が患者の脈拍や酸素飽和度を表示していた。
その前へ、ロペスが入ってきた。疲労の色は隠せないが、視線は鋭い。
「意識レベルは?」
「低下しています。ただ、刺激には反応します」
ロペスはレイの瞳孔を確認し、呼吸音を聴診する。
「頭部打撲。右耳から出血。海水の誤嚥がある。肺にも水が入っている可能性が高い」
モニターを確認する。
「低体温もある。酸素化は……良くない」
レイの胸へ聴診器を当てる。
「肺の音がおかしい。誤嚥性肺炎のリスクもあるわね」
ロペスは少し黙った。
「長時間の低酸素状態があった可能性もある。内耳の損傷、鼓膜の損傷も疑うべき。頭部外傷についても、ここでは十分な検査ができない」
看護師が尋ねる。
「陸上の病院へ?」
「それが理想。でも近い施設でも三時間はかかる」
ロペスはモニターを見る。
「この状態で三時間の搬送は危険よ。途中で悪化したら持たない可能性がある」
看護師が黙った。
ロペスは続けた。
「それに、この海域は安全じゃない。戦闘空域を抜けなきゃならない。重体の患者を乗せた輸送機を、わざわざそこへ飛ばすことになる」
「……護衛を付けることは?」
「護衛を付ければ、それだけ準備に時間がかかる。そもそも護衛機を割ける保証もない。途中で攻撃を受ければ、患者どころか輸送機そのものが危険になる」
ロペスはレイを見る。
「陸上の病院へ送るのが理想。でも、理想と今できることは違う」
それが、現時点での最善の判断だった。そして同時に、レイをこの艦で治療し続けることも簡単ではなかった。
「できる処置を続ける。酸素、点滴、体温管理。頭部については経過を見るしかない」
そこで、ロペスはもう一度モニターを見た。数字は安定しているわけではない。だが、今すぐに死ぬとも限らない。
そのとき、医務室の扉が開いた。
入ってきた男は、ここだけ戦場とは別の場所にいるようだった。黒いスーツ。乱れのない身なり。濡れた負傷兵と血の匂い、消毒薬の中にあって、その男だけが場違いなほど清潔だった。
D.D.だった。
「いやあ、エンデュランスも流石に年季が入っていますねぇ」
ロペスが振り向く。
「……誰?」
「D.D.です。エンソー・オーダーからの出向広報担当、とでも思ってください」
D.D.は室内を見回した。
「まあ、これを近代化改修したのも我々なんですが」
軽く肩をすくめる。
「新品の空母も売り込んだんですが、あなた方の上層部に断られてしまいまして。いやあ、こんなことになるなら、もっと積極的に売り込んでおけばよかったですねぇ」
ロペスの表情は変わらなかった。
「何の用?」
「彼についてです」
D.D.はレイを見る。
ロペスはD.D.を見た。
「あなたたち、広告のためにこの艦へ来てるんでしょう?」
「ええ」
「なのに……医療スタッフがいるの?」
D.D.は少しだけ笑った。
「こういう場合に備えて、用意してあります」
ロペスの目が細くなる。
「広告担当が?」
「我が社では珍しくありませんよ」
D.D.は何でもないことのように言った。
「それに、我が社の社員は多芸なんです。一芸だけじゃ、やっていけませんからねぇ」
その言葉を聞いて、ロペスはますます警戒した。
「……何をするつもり?」
「彼を助けるための処置です」
D.D.はレイへ視線を戻す。
「我々の医療スタッフに処置させることはできます」
「どういう処置?」
「それを説明する前に、ひとつだけ」
D.D.は穏やかに言った。
「信用していただく必要はありません」
ロペスは黙っている。
「今、この患者を助けられる可能性のある人間がいる。それだけです」
「私たちじゃ助けられないと言いたいの?」
「いやいや、そうは申し上げていませんよ」
D.D.は一度、モニターへ目を向けた。
「ただ、選択肢が一つしかない状況より、二つある方がいいでしょう?」
ロペスはレイを見る。そして、D.D.を見る。
「……陸上へ送るより?」
「少なくとも、今この場所で処置できるという意味では」
「あなたたちの医療スタッフなら、この艦で何とかできる?」
「可能性はあります」
「可能性……」
ロペスは唇を噛んだ。信用できない。何をするのかも分からない。エンソー・オーダーが軍艦の医務室で、軍医に説明もせず何かの処置をする。医師としては、到底認められることではなかった。それでも、陸上へ送れば三時間。しかも戦闘空域を越えなければならない。この状態の患者を乗せて、無事に病院まで辿り着ける保証などない。このまま艦内で治療を続けても、設備には限界がある。
ロペスは目を閉じた。
「……分かった」
D.D.は黙ってロペスを見る。
「ただし、何かあったら――」
「ええ、全部私の責任です」
「……そう」
ロペスはD.D.から視線を外した。
「絶対に殺さないで」
「もちろんですよ」
D.D.は即答した。
「では、少々お待ちください」
ロペスはレイを見つめた。ほんの数秒。それから、ゆっくりと一歩下がった。
⸻
医務室から離れた艦内の一角。
D.D.は暗号化された通信端末を起動した。数秒の認証を経て、回線が繋がる。
『……何だ』
「処置を開始します」
『予定にはなかったはずだ』
「ええ。ですが、今しかありません」
『対象は?』
「レイ大尉」
D.D.は淡々と説明した。
「彼が、コープ中佐の最後の飛行に同乗していたという点です。それだけでも、確認する価値はあります」
『コープ中佐の記録に、そこまでの価値があるとは思えんが。書類上の数字だけを見れば、なおさらだ』
「数字だけでは、人間の価値は測れません」
『また君の哲学か?』
「いいえ。研究上の話です」
D.D.は静かに続けた。
「失敗した場合でも、結果は残ります」
『結果?』
「成功しなかった。それだけでも、今後の判断材料にはなるでしょう」
『……ずいぶん割り切るな』
「研究とは、そういうものです」
しばらく沈黙があった。
「今、この瞬間、偶然にも条件が揃っています。これほど都合のいい機会が、次にいつ訪れるかは分かりません」
『だから、今やれと言うのか』
「はい」
『……随分と急ぐな』
「機会というものは、待ってくれませんから」
『将来的な応用については?』
「可能性はあります」
『可能性、か』
「研究というのは、可能性を確かめるところから始まります」
また沈黙。
やがて通信の向こうから声がした。
『……承知した。D.D.』
「はい」
『一度だけだ。今回限りで、全ての結果を記録し、詳細な報告を求める。問題が起これば、君が全ての責任を取る』
「承知いたしました」
通信が切れた。D.D.は端末を閉じた。そして医務室へ戻る。
扉の向こうでは、すでに処置が始まっていた。
⸻
午後六時半過ぎ。
「……始めましょう」
「はい」
エンソーのスタッフが動き始めた。医務室の扉が閉じられ、外の喧騒が断ち切られる。室内に残されたのは、エンソー・オーダーのスタッフとD.D.、そして眠り続けるレイだけだった。
「室内、封鎖します」
スタッフの一人が扉を確認する。
「外部通信、遮断」
「医療記録端末との接続も切断しました」
「了解」
先ほどまで救命処置に使われていた医療機器の一部が、順番に停止していく。代わりに、持ち込まれた装置が起動した。低い駆動音。冷却ファンの音。規則的に点滅するインジケーター。普段この艦で使われている医療機器とは明らかに異なる、無機質な装置群だった。
D.D.は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
「生体情報を」
「心拍、八十六」
「血圧、やや低めですが維持」
「酸素飽和度、九十六」
「呼吸、安定」
スタッフが一つずつ数値を確認していく。レイの頭部には、先ほどまでの医療用センサーとは別の装置が取り付けられていた。こめかみ、額、後頭部、耳の後ろ。それぞれに小さな接点が設けられ、細いケーブルが装置へ伸びている。
別のスタッフがレイの瞳孔を確認した。
「意識反応なし」
「鎮静状態は?」
「追加不要。自発的な覚醒反応もありません」
「了解」
D.D.がベッドへ近づく。
「準備は?」
「完了まであと三十秒です」
「確認をもう一度」
スタッフが画面を切り替える。複数の項目が表示された。
「接続状態、正常」
「生体信号、取得可能」
「外部干渉、なし」
「記録系統、二重化済み」
「異常時の停止手順、確認済み」
「では、始めてください」
「了解」
一人のスタッフが装置の前に座り、もう一人がレイの頭部を確認する。別のスタッフは生命維持装置を監視している。誰も余計なことを言わない。医務室には、機械の作動音だけが響いていた。
D.D.の視線がレイの右手へ向く。そこには、救出されてからずっと握られたままのドッグタグがあった。
「……」
D.D.は何も言わず、視線を戻した。
「開始します」
短い電子音が鳴る。画面上に表示された波形が動き始めた。
「開始」
装置の駆動音が、わずかに高くなる。
「初期反応、正常」
「入力開始」
スタッフが画面を確認する。
「変化なし」
「続行」
数秒が過ぎる。
「……反応、出ました」
画面の一部に変化が現れた。
「どの程度?」
「まだ小さいです」
「記録」
「記録しています」
D.D.は画面を見つめていた。波形は安定している。だが、完全に一定ではない。細かな揺らぎが少しずつ増えていく。
「生体反応、上昇」
「予測範囲内?」
「はい」
「続けて」
スタッフが操作する。出力がわずかに変化した。
⸻
レイの意識の中で、何かが鳴った。
音だった。
何の音かは分からない。ただ、遠い。低い。それが少しずつ近づいてくる。
身体が沈む。
その感覚だけがあった。
⸻
「反応が変わりました」
「確認」
「活動量、上昇」
「急激ではありません」
「続行」
スタッフの指が操作盤を動く。画面上の波形が複数の領域に分かれて表示された。
「接続、維持」
「生体信号、問題なし」
「入力側、安定」
「出力側は?」
「……少し乱れています」
D.D.が画面を見る。
「許容範囲です」
「了解」
再び処置が続く。
⸻
レイの意識に、光が走った。
一瞬だけ。
何かが見えた気がした。
だが、意味を理解する前に消える。
暗闇。
次に聞こえたのは、風のような音だった。
それも、すぐに途切れた。
⸻
「反応が強くなっています」
「どこです?」
「複数箇所です」
スタッフが表示を切り替える。
「一部、同期しています」
「予定通り?」
「完全には一致していません」
D.D.が少しだけ眉を動かした。
「調整してください」
「了解」
出力が微調整される。
その直後、一度だけ警告音が鳴った。スタッフの手が止まる。
「警告」
「内容は?」
「一時的な変動です」
「生命状態は?」
「維持」
D.D.は数秒間、画面を見た。表情に大きな変化はない。
「続けてください」
「了解」
警告表示が消える。波形が再び動き始めた。
⸻
レイは、自分がどこにいるのか分からなかった。
何かに包まれている。
遠くで音がする。
近づいてくる。
そして、また遠ざかる。
それだけだった。
⸻
「安定してきました」
スタッフが言った。
「入力側、安定」
「生体反応も許容範囲」
「記録継続」
「了解」
装置の音が一定になる。D.D.は何も言わず、画面を見ている。数十秒。一分。さらに時間が過ぎる。
やがて、スタッフの一人が口を開いた。
「……終了条件を満たしました」
「確認」
「生命状態、安定」
「異常反応なし」
「記録、保存完了」
D.D.が短く頷く。
「じゃあ、終了してください」
「了解」
装置の出力が落ちる。駆動音が徐々に小さくなっていく。一つ、また一つとインジケーターが消えていき、最後に短い電子音が鳴った。
処置が終了した。
スタッフがレイの頭部から装置を外していく。接続部を一つずつ確認し、記録を保存する。
「生体情報、安定」
「経過観察へ移行します」
D.D.はベッドの横へ歩いた。
レイは眠っている。
意識は戻らない。
右手には、まだドッグタグが握られていた。
D.D.はそれを一度だけ見た。
「……経過を見ましょう」
「はい」
機械の音だけが、静かに医務室へ残った。
⸻
その頃、医務区画の別の場所では、ロペスが一人の整備員の腹部を押さえていた。止血用のガーゼはすでに血で赤く染まり、看護師が新しいものを差し出す。
「押さえて。強く」
「はい!」
「血圧は?」
「九十を切っています!」
「輸液を増やして。外科処置が必要ね。次の搬送まで状態を維持する」
ロペスは手を離さない。患者の顔色を確認し、呼吸を見て、出血量を判断する。ようやく状態が落ち着いたところで、別の声が飛んできた。
「中尉、次の患者です!」
「分かった。連れてきて」
レイのことを考える暇などない。そう思った直後、ロペスは無意識に、医務室の奥にある閉ざされた扉へ視線を向けた。そこにはD.D.たちがいる。何をしているのかは分からない。ただ、レイだけがあの扉の向こうにいる。
「中尉?」
「……何でもない。次を」
ロペスはすぐに視線を戻した。
次に運び込まれてきたのは、頭部を強く打った甲板員だった。額から血を流し、意識が朦朧としている。ロペスは傷口を確認し、瞳孔を確認し、看護師へ指示を出す。
「頭部外傷。意識レベルを継続監視。酸素を」
「はい!」
別のベッドでは火傷を負った整備兵が呻いている。その向こうでは、脚に破片を受けた兵士の処置が始まっている。ベッドはすでに埋まり、廊下にまで簡易の処置台が並んでいた。艦内へ運び込まれてくる負傷者は途切れない。血と消毒薬の匂いが混ざり、看護師たちは走り続けている。
ロペスも走った。一人の患者を診れば、次の患者が来る。止血をすれば、別の場所で呼ばれる。点滴を確認し、呼吸を確認し、意識を確認する。誰かの名前を呼び、誰かへ指示を出し、また次の患者へ向かう。それでも、何人目かの患者を処置している途中、ロペスの視線は時計へ向いた。
午後七時。
まだ終わらない。
午後八時。
まだ連絡はない。
「……何をしてるのよ」
小さく呟く。
だが、すぐに目の前の患者へ視線を戻した。
「先生!」
「どうしたの?」
「この人、呼吸が落ちています!」
「酸素を上げて。気道確保。私が見る」
ロペスは患者の肩を支え、呼吸状態を確認する。レイのことを考えている余裕などない。いや、考えている場合ではない。
ここには何十人もの患者がいる。
自分は医師だ。
なら、今目の前にいる患者を救う。
それしかない。
そう言い聞かせながら、ロペスはまた別の患者へ向かった。だが、意識の片隅からレイのことが消えることはなかった。閉ざされた扉の向こうで、D.D.は何をしているのか。レイは生きているのか。処置は終わったのか。何度も時計を見る。
午後九時を過ぎた頃、ようやく艦内電話が鳴った。
看護師が受話器を取る。
「医務区画です」
数秒、話を聞く。
そしてロペスを見る。
「中尉。D.D.さんからです」
ロペスの表情が変わった。
「……何て?」
「処置が終了した、と」
ロペスはすぐに立ち上がった。
「分かった。戻る」
手袋を外し、新しいものへ替える。そして今度こそ、閉じられていた医務室の扉へ向かった。
⸻
扉を開けた瞬間、ロペスの足が止まる。室内には、先ほどまで存在していた機材のほとんどが残っていなかった。銀色のケースは閉じられ、ケーブルもまとめられている。まるで、ここで何かが行われた痕跡そのものを片付けているようだった。
「……終わったの?」
「はい」
D.D.が答えた。
「処置は終了しました」
ロペスはすぐにレイのところへ向かった。モニターを確認する。呼吸。心拍。酸素飽和度。体温。数字は安定している。ロペスは一つずつ確認していった。
「……何をしたの?」
「必要な処置を」
「だから、その中身を聞いてるの」
D.D.は答えなかった。
ロペスは睨みつけた。だが、今はそれを追及するより患者が先だった。
「看護師」
「はい」
「この患者を通常の病床へ移す。酸素継続、点滴もそのまま。モニターを外さないで」
看護師たちが動き始める。レイの身体が別のベッドへ移される。
ロペスは最後までD.D.を見ていた。その目は、人を殺せそうなほど鋭かった。だが彼女は何も言わない。今はレイを診ることが先だった。
D.D.はそんなロペスを見送りながら、静かに笑った。
⸻
それから二日。レイは目を覚まさなかった。昏睡状態が続いた。ロペスは毎日、何度もレイの状態を確認した。呼吸。循環。瞳孔反応。酸素飽和度。脳機能。検査結果。幸い、状態が急激に悪化することはなかった。むしろ、奇妙なほど安定していた。処置を受ける前には危険な状態だったはずなのに、少なくとも生命維持という点では、予想していたほどの悪化を見せない。だが、意識だけが戻らない。
処置から二日目の夜。ロペスは記録端末を閉じ、眠り続けるレイを見た。
「……早く起きなさいよ」
当然、返事はない。医務室には、モニターの電子音だけが響いていた。
⸻
三日目の朝。
看護師がレイのベッド脇で記録を確認していた。その時だった。レイの指が、ほんのわずかに動いた。
「……?」
看護師が顔を上げる。
レイの瞼が震えている。
「レイ大尉?」
返事はない。しかし、もう一度呼びかける。
「レイ大尉。聞こえますか?」
ゆっくりと、瞼が開いた。焦点が合わない。視線が天井を彷徨う。
「……ここは……」
看護師はすぐに通信機へ手を伸ばした。
「レイ大尉が覚醒しました。ロペス中尉をお願いします」
通信を終えると、再びレイへ向き直る。
「レイ大尉。ここはエンデュランスの医務室です」
「……エンデュランス……」
「はい。私の声が聞こえますか?」
レイが小さく頷いた。
その直後、医務室の扉が開いた。
ロペスが入ってくる。
「どう?」
「覚醒しています。呼びかけに反応あり。会話も可能です」
「分かった」
ロペスはレイの傍らに立つ。
「レイ大尉。私が分かる?」
「……ロペス……中尉」
「そう。分かるのね」
瞳孔。呼吸。脈拍。意識レベル。ロペスは一つずつ確認していく。
「頭は痛い?」
「……少し」
「吐き気は?」
「……ない」
「耳は?」
「右が……変な感じです」
「分かった」
ロペスは記録を取る。
「無理に話さなくていいわ。意識が戻っただけでも十分」
レイはゆっくり目を閉じた。
しばらくしてから、掠れた声で尋ねた。
「……俺は、どれくらい?」
「二日ほど眠っていたわ」
「二日……」
レイはその言葉を反芻した。
そして、何かを思い出したように口を開く。
「……コープは?」
ロペスの手が止まった。
レイは、その沈黙を見た。
そして目を閉じた。
「……そうか」
それ以上、何も聞かなかった。
⸻
意識が戻ってからも、レイはすぐにベッドを離れられるようにはならなかった。さらに二日。少しずつ食事を始めた。水分。柔らかい食事。量は少ない。食べられるようになっただけでも回復の兆候ではあったが、十分な量には程遠い。
上体を起こせば眩暈がする。短い会話でも疲れる。立ち上がることは、まだ許可されていない。それでも検査結果だけは、日に日に良くなっていった。酸素投与量は減少。呼吸状態は改善。循環も安定。意識レベルも正常に近づいている。
ロペスは端末の数字を眺めながら、何度目か分からない溜息をついた。
「……おかしい」
看護師が振り返る。
「何がです?」
「回復が早すぎるのよ」
「でも、良くなってます」
「ええ」
ロペスは認める。
「それは間違いない」
だからこそ、分からない。
海水の誤嚥。頭部外傷。低酸素状態。耳の損傷。それだけの負傷を負った人間の回復速度としては、あまりにも早い。しかし、レイ自身はまだ明らかな病人だった。
ロペスはその事実を重視した。
「数字だけで判断しちゃ駄目」
「はい」
「この人はまだ戦闘機に乗れる状態じゃない」
そう言いながら、ロペスは記録端末を閉じた。
⸻
その翌日の午後。
医務室の扉が開いた。
ロペスは反射的に立ち上がる。
「副長」
ジェシカ・パイク大佐だった。
ロペスは敬礼する。
ベッドの上のレイも、それを見て身体を起こそうとした。
「……っ」
身体に力が入らない。
パイクは片手を上げた。
「そのままでいい、レイ大尉」
「……了解」
レイは再び枕へ身体を戻した。
パイクはベッド脇まで歩く。
「具合は?」
「数字はかなり改善しています」
ロペスが答える。
「ですが、まだ患者です」
「そうか」
パイクはレイを見る。
「レイ大尉」
「はい」
「飛行を許可する」
ロペスの顔が険しくなった。
「……大佐、本気ですか?」
「本気だ」
「数字は確かに改善しています。でも、頭部外傷があります。右耳の損傷も残っている。起立時の眩暈もある。体力だって十分に戻っていない」
「分かっている」
「なら、なぜ?」
パイクは短く答えた。
「人手がない」
ロペスは言葉を失った。
「それは医療上の理由にはなりません」
「戦争では理由になる」
静かな声だった。
パイクはレイを見る。
「レックス」
レイが顔を上げる。
「はい」
「コープ中佐は死んだ」
レイは静かに頷いた。
「……はい」
「君も知っているな」
「俺が見ました」
パイクはそれ以上、何も聞かなかった。
「彼の死は機密だ。知ることを許されている人間は限られる」
「分かっています」
「だが、彼が担っていたものまで失うわけにはいかない」
レイは黙って聞いている。
パイクは続けた。
「今は遥かなユージアの陸地を思い浮かべなさい」
レイが顔を上げる。
「あそこにはまだ、地獄の底の泥をなめながら生き延びている人たちがいる」
声は低く、静かだった。
「彼らの存在を常に思い浮かべるように」
一拍。
「レックス。これからはあなたがシーブの翼」
レイの目がわずかに見開かれる。
「彼らの希望をつなぎとめるために」
パイクはレイを見据えた。
「シーブの翼を存在させ続けることを命令する」
「……了解しました」
レイは答えた。
パイクは踵を返す。
「大佐」
ロペスが呼び止めた。
パイクが振り返る。
「この患者を飛ばせば、死ぬ可能性があります」
「分かっている」
「まだ完全には回復していません」
「分かっている」
「なら――」
パイクは静かに言った。
「生きて帰ってこいと、命じた」
それだけ残して、医務室を出ていった。
扉が閉まる。
ロペスはしばらく、その扉を見ていた。
「……まったく」
レイが声を掛ける。
「軍医」
「何?」
「俺……本当に飛ぶんですか?」
ロペスはレイを見る。数秒、沈黙した。
「……私に聞かないで」
レイは困ったような顔をした。
「ですよね」
「ですよね、じゃないの」
ロペスは額を押さえた。
「まだ患者なんだから」
⸻
しばらくして、再び扉が開いた。
「コワモテだよね? 彼女。おっかないったら」
D.D.だった。
ロペスの表情が露骨に険しくなる。
「あなた……」
「おや」
D.D.は穏やかに笑った。
「まだ怒ってます?」
「当たり前でしょう」
「困りましたねぇ」
D.D.は何食わぬ顔で医務室へ入ってくる。その手には、一つのヘルメットがあった。
レイの視線がそこへ向く。
白い塗装。左右の耳の上へ伸びるように描かれた、赤い翼。そして、その翼の下にプリントされた文字。
REX
レイは息を止めた。
「……これ」
「あなたのですよ」
D.D.はヘルメットを差し出す。
レイは受け取った。
「コープと……同じ」
「ええ」
D.D.は何でもないことのように答えた。
「同じものです」
その言葉が、妙に重かった。
レイはヘルメットを見つめる。
D.D.は続けた。
「副長の本当の意図は、もっと単純ですよ」
「……?」
「どんな戦闘からも、絶対に生きて帰ってこい」
レイは黙っている。
D.D.は笑った。
「軍人というのは、そういうことを直接言わないものですから」
そして、ヘルメットを指差す。
「撃墜数なんて情報はいくらでも作り出すさ」
レイがD.D.を見る。
D.D.は片目を閉じた。
「コープがそうだったように」
それは、この艦にいる人間なら知っている話だった。コープの公式な戦果と、実際の撃墜数が一致していないこと。それでも、彼がエンデュランスを守ってきたことまで嘘になるわけではない。数字が英雄を作る。戦争には、そういう英雄が必要になる。D.D.は、それをまるで当然のことのように語った。
「さあ」
その手には、ヘルメットがあった。D.D.はそれをレイへ差し出した。
レイは手を伸ばした。指先が、硬い表面に触れる。
冷たい。
新品のような感触だった。
だが、そのヘルメットはレイにとって新品ではなかった。あの機体の上にあったもの。あの空を飛んでいた男のもの。
レイは何も言わなかった。
D.D.は静かに笑う。
「今この瞬間から、君がこの戦争最大の撃墜王だ」
レイはヘルメットを両手で抱えた。まだ腕に十分な力はない。それでも、落とさなかった。
公式のDDが結局何したかったのかよくわからなかったので今作はDDはだいぶ味付け濃くなってます。
全国三千万のDDファンの皆様申し訳ございません
文句でもいいので感想待ってます