徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
眩しい光が目に入った。
何か大きな音がした。クラクションだったのか、急ブレーキだったのか、その辺りはもう曖昧だ。ただ、振り向いた先に車がいたことだけは覚えている。
随分と近かった。
まずい、と思ったような気もする。
そこから先は、ない。
「おぎゃああああああ」
次に意識がはっきりしたとき、耳元で赤ん坊が泣いていた。
うるさいな、と思った。
かなり元気な赤ん坊らしい。少しくらい静かにしてくれないものかと考えて、それが自分の声だと気づくまでに少し時間がかかった。
泣き止もうとしても、どうにもならない。
そもそも身体がまともに動かなかった。首には力が入らず、手足も自分のものとは思えないくらい頼りない。目を開けても辺りはぼんやりとしていて、明るいとか、人らしい何かが動いているとか、そのくらいしか分からなかった。
「まあ、なんと元気な若君でしょう」
「お方様もご無事にございます」
知らない女たちの声がする。
そのまま身体を持ち上げられたことで、ようやく俺は状況を理解し始めた。
どうも俺は、とんでもなく小さい。
少し前まで二十年以上生きた会社員だったはずなのに、今は自分で首を支えることすらできない。何か言おうとしても、口から出るのは意味のある言葉ではなく情けない泣き声だけだった。
ここまで揃えば、さすがに察する。
俺、赤ん坊になってるな。
そう思ったところで、車のことを思い出した。
衝突した瞬間は覚えていない。痛かったのかどうかも分からない。ただ、あの距離で車が迫ってきて、その後の記憶が綺麗に途切れている。
死んだのだろう。
交通事故か何かで。
そして、次に目を覚ましたら生まれたばかりの赤ん坊になっていた。
前世で小説や漫画を読んでいた身としては、思い当たる言葉が一つしかない。
転生である。
本当にあるんだな、これ。
驚きはした。
驚きはしたのだが、感動に浸っている余裕はあまりなかった。
何しろ赤ん坊というものは、思っていた以上に何もできない。
頭の中では普通に考えられるのに、身体の方はまるでついてこない。眠くなれば勝手に眠くなるし、腹が減れば落ち着かなくなる。自分では何もしたくないのに泣き出すことすらあった。
精神年齢が二十代なら赤ん坊生活も余裕なのでは、と最初は少し思った。
甘かった。
身体には身体の都合があるらしい。
前世では自分のことくらい自分でやっていたのに、今では寝る場所から食事まで全部他人任せである。最初のうちは妙な恥ずかしさもあったが、数日もすれば諦めた。
どうしようもないものは、どうしようもない。
そうして俺の二度目の人生は始まった。
前世の記憶が残っていること自体は、悪いことばかりでもなかった。
少なくとも、自分が今いる場所がおかしいことにはすぐ気づけた。
周囲の服装も、建物も、言葉遣いも現代とは違う。テレビもなければ電気の明かりもない。当然、スマートフォンなど影も形もなかった。
転生したうえに時代まで遡っているらしい。
そこまで分かったところで、次に気になったのは自分が誰なのかだった。
赤ん坊なので質問はできない。
仕方なく、周囲の会話を聞きながら少しずつ情報を集めた。
最初に覚えたのは、竹千代という名前だった。
どうやら俺のことをそう呼んでいる。
竹千代。
聞き覚えがあるような、ないような。
その時点では思い出せなかった。
やがて松平という名を聞いた。
三河、岡崎という地名も聞いた。
父親は広忠というらしい。
そこまで揃ったところで、頭の中に引っかかっていたものがようやく形になった。
待てよ。
松平。
三河。
岡崎。
竹千代。
これ、徳川家康じゃないか。
気づいた瞬間、しばらく何も考えられなかった。
歴史に詳しいわけではない俺でも、徳川家康くらいは知っている。
関ヶ原で勝って、江戸幕府を開いた人。
戦国時代を生き残って、最後には天下を取った人。
日本史の教科書で何度も見た名前だ。
徳川家康の幼名は、確か竹千代だった。
俺はどうやら、その竹千代として生まれてしまったらしい。
天下人。
将軍。
そんな言葉も頭には浮かんだ。
けれど、最初に強く思ったのは別のことだった。
戦国時代なのか、ここ。
天下人になれるかどうかより、そちらの方がよほど気になった。
◇
徳川家康になったと分かったからといって、幼児の俺に何かできるわけではなかった。
むしろ俺の二度目の人生は、最初から思っていたより忙しかった。
母とは幼いうちに離れた。
その後、今川へ人質に出されることになった。
この辺りは前世の俺も知っている。家康は今川家の人質だった。よし、少なくとも歴史から大きく外れてはいない。
そう安心していたら、今川へ向かう途中で話がおかしくなった。
気がつけば、俺は織田方の人質になっていた。
そんな話、あったっけ。
もちろん実際にはあったのだろう。俺が覚えていないだけだ。学校の授業で習った可能性もある。
当時の俺が真面目に聞いていたかについては、あまり自信がない。
こうして俺は、幼くして尾張で暮らすことになった。
人質と聞くと、前世ではもっと物々しいものを想像していた。
薄暗い牢に入れられて、食事は粗末で、常に見張りがいて――実際には、そこまで分かりやすい囚人生活ではなかった。
衣食住は与えられたし、世話をする者もいた。
ただし自由ではない。
勝手に外へ出ることもできなければ、俺が松平家の跡取りであることを周囲が忘れることもなかった。
それでも毎日怯えて暮らしていたわけではない。
人の目がある中で遊ぶこともあったし、甘いものが出れば普通に嬉しかった。走り回れば身体が軽く感じるし、疲れれば眠くなる。
大人の記憶を持っているから、子供らしさが全部消えるわけではないらしい。
むしろ困ったことに、子供の身体は遊びたがる。
最初は「俺は中身が大人なのだから」と少し格好をつけていたものの、一年も経つ頃には諦めた。
楽しいものは楽しい。
そこまで我慢しても仕方がない。
ただし怪我だけは怖かった。
木登りを誘われても、高いところまで行く気にはなれない。
歴史に名を残すはずの徳川家康が、幼少期に足を滑らせて人生終了。
そんな歴史改変だけは絶対に嫌だった。
尾張で暮らしている間に、この時代の言葉や作法にも慣れた。
その一方で、前世の知識が思ったほど便利ではないことにも気づいた。
俺は車を知っている。
電気を知っている。
スマートフォンだって使える。
だからといって、それを一から作れるかと聞かれれば無理である。
知っていることと、作れることは別だった。
当たり前の話だが、転生してから実感することになるとは思わなかった。
そんな生活を送っているうちに、父の広忠が死んだと知らされた。
そうか。
それだけだった。
父親だということは分かっている。
けれど、俺にとっては幼い頃からほとんど一緒に暮らしていない相手でもある。
悲しいかと聞かれても、正直なところ実感がない。
何とも思わない自分は薄情なのかもしれないが、ないものを無理に作ることもできなかった。
その後、俺は人質交換によって今川方へ渡ることになった。
今度こそ今川である。
ようやく知っている歴史に戻ってきた。
そのときの俺は、少し安心した。
後になって考えれば、自分の曖昧な歴史知識をずいぶん信用していたものだと思う。
◇
駿府での暮らしが始まった。
ここでも人質であることに変わりはない。
だが、牢へ閉じ込められているわけではなく、松平家の跡取りとして一定の扱いは受けていた。学ぶこともあれば、供を伴って外へ出ることもある。
駿府そのものも、俺が何となく想像していた戦国時代よりずっと賑やかだった。
人が行き交い、物が集まり、寺も屋敷もある。
そして今川義元。
前世での俺の知識では「桶狭間で信長に負けて死ぬ人」という印象がかなり強かった。
実際にその勢力の中で暮らしてみれば、それだけで済ませる方がおかしい。
これだけの土地と人間を動かしている。
少なくとも、何もできない間抜けな大名というわけではない。
未来の結果を知っているからといって、その人間のことまで知っているわけではない。
そのくらいは、幼い俺にも分かるようになっていた。
そんな駿府での暮らしにも慣れてきた、ある日のことだった。
供の者たちと外へ出た先で、大人同士の話が始まった。
すぐには終わりそうにない。
俺は邪魔にならない程度に離れ、ぼんやり周囲を眺めていた。
そこで、石の陰に妙なものを見つけた。
小さい。
色がやけに鮮やかで、柔らかそうな身体をしている。
虫ではない。
前世で見たものを思い返し、少し時間をかけて思い出した。
ウミウシ。
水族館か、テレビか、その辺りで見た覚えがある。
ただ、こんなところにいるものなのだろうか。
海でもない。
気になってしゃがみ込んだ。
近くに細い枝が落ちていたので、それを拾う。
生きているか確かめるくらいなら大丈夫だろう。
そっと枝先を近づけたところで。
「ちょっと待って、待って!」
声がした。
手が止まった。
女の声だった。
かなり近い。
俺は顔を上げて周囲を見た。
誰もいない。
少し離れたところに供の者たちがいるだけで、こちらを見ている者はいなかった。
「下! 下だって!」
また声がした。
恐る恐る視線を戻した。
そこには、さっきのウミウシがいる。
「そう、私!」
俺はしばらく黙った。
ウミウシも黙った。
いや。
今、私って言ったよな。
「……今、喋った?」
「喋ったよ。というか、さっきから喋ってるよ」
声は明るかった。
妙に普通だった。
それが逆に困る。
「そうか」
「うん」
「……そうか」
もう一度言った。
他に何と言えばいいのか分からなかった。
徳川家康に生まれ変わった時点で、俺の人生は十分おかしくなっている。
だからといって、喋るウミウシまで受け入れられるほど慣れてはいない。
「ねえ、もう枝で触らない?」
「ああ。悪かった」
「よかったー」
心底安心したような声だった。
俺は枝を地面へ置き、改めて目の前の生き物を見る。
どう見てもウミウシにしか見えない。
「お前……ウミウシでいいのか?」
「うーん。今はそんな感じ」
「今は?」
「あ」
口を滑らせたらしい。
しばらく待ったが、その先は出てこなかった。
まあ、いい。
喋っている時点で普通ではない。
一つずつ聞いた方がよさそうだ。
「名前は?」
「かぐや」
すぐに返ってきた。
「かぐや?」
「うん。かぐや」
名前まで随分それらしい。
俺がどう反応するべきか考えていると、今度はかぐやの方がこちらを見た。
見た、ような気がする。
「それで、ここどこ?」
「……場所も知らないのか」
「分かんない」
「駿府だ」
「すんぷ?」
まるで初めて聞いた言葉のように繰り返した。
どうやら本当に知らないらしい。
喋るウミウシだけでも十分なのに、迷子まで追加された。
少し面倒なものを見つけた気がしてきた。
「竹千代様」
離れたところから声が飛んできた。
俺は振り返った。
「ここにおる」
そう返してから、もう一度かぐやを見る。
「竹千代?」
しっかり聞かれていた。
「俺の名前だ」
「へえ。竹千代」
初対面とは思えないくらい気軽に呼ばれた。
まあ、名前くらいならいい。
問題は別にある。
「かぐや、お前の声って他の人にも聞こえるのか?」
「聞こえるよ?」
答えに迷いがない。
俺は少し考えた。
喋るウミウシをこの時代の人間が見つけたら、どうなるのだろう。
珍しい生き物として済むかもしれない。
済まないかもしれない。
少なくとも、今ここで大騒ぎになるのは避けたい。
「悪いけど、少し声を小さくしてくれ」
「何で?」
「人が来る。お前が喋るのを聞かれたら、面倒なことになるかもしれない」
「あー」
かぐやは少し考えたらしい。
「分かった」
意外と素直だった。
「それでさ」
「何だ?」
「私、どうすればいい?」
「……俺に聞くのか」
「だってここ知ってるんでしょ?」
その理屈でいけば確かに俺の方が詳しい。
詳しいが。
俺はまだ子供である。
しかも人質だ。
頼る相手としては、かなり微妙ではないだろうか。
「とりあえず、人に見つからないところへ移した方がいいな」
「連れてってくれるの?」
明るい声になった。
「このまま置いていって騒がれても困るからな」
「やった。竹千代、いい人だね」
「まだ何もしてないけど」
「じゃあこれからして」
随分と遠慮がない。
ただ、不思議と嫌な感じはしなかった。
そうして俺は、その日。
駿府の片隅で見つけた、かぐやという名前の喋るウミウシを連れて帰ることになった。
このときはまだ、こいつがどこから来たのかも、何者なのかも知らない。
かぐやの方も、俺が一度死んでこの時代に生まれ直した人間だとは知らなかった。
互いに知っていたのは、名前くらいだった。
その日の夜、かぐやはそのまま俺の居所にいた。
何者なのかも、どうしてこんな姿なのかも、まだほとんど分からない。
けれど、今さら外へ戻す気にもならなかった。
そして翌朝。
目を覚ますと、かぐやは昨日と変わらずそこにいた。
「おはよう、竹千代」
「……おはよう」
普通に挨拶を返してから、少しだけ思う。
どうやら俺の二度目の人生には、喋るウミウシまで加わることになったらしい。