徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
眩しい光が目に入った。
振り向いた先に、車がいた。
クラクションだったか、急ブレーキだったか。耳をつんざくような音がしたのを覚えている。車はもう目の前まで迫っていて、避けようにも足が動かなかった。
記憶はそこまでだった。
「おぎゃあああああ!」
うるさい。
何だ、この泣き声は。
耳元で赤ん坊が泣いている。随分と元気なことだが、こっちは今、かなり大事なことを思い出そうとしている。もう少し静かにしてくれないだろうか。
「おぎゃあああ!」
だから、うるさいって。
そこでようやく気づいた。
泣いているのは俺だった。
「まあ、なんと元気な若君でしょう」
「お方様もご無事にございます」
聞き慣れない女性たちの声がする。
何かを確かめようと目を開けたものの、周囲はぼんやりとしていて、ろくに見えない。身体を動かそうにも手足は頼りなく、首に至っては持ち上げることさえできなかった。
いや、ちょっと待ってくれ。
さっきまで俺は、二十年以上生きた成人男性だったはずだ。
それがどうして、こんなことになっている。
何か言おうとして口を開いた。
「あう」
……駄目だ。
まともな言葉にならない。
どうやら俺は、正真正銘、生まれたばかりの赤ん坊になってしまったらしい。
となると、あの車に轢かれて死んだのだろうか。衝突した瞬間は覚えていないが、あの距離では無事に済まなかった気がする。
そして気づけば赤ん坊。
前世で漫画や小説を読んでいた身としては、思い当たる言葉が一つしかない。
転生である。
本当にあるんだな、これ。
もっとも、感動に浸っている余裕はなかった。
何しろ赤ん坊というのは、思っていた以上に何もできない。
腹が減れば泣く。眠くなれば寝る。身体を動かそうにも思い通りにならず、何かを伝えたくても言葉が出ない。
精神年齢が二十代なら、赤ん坊生活も多少は楽なのではないか。
最初はそんなことを考えていた。
甘かった。
身体には身体の都合があるらしい。どれだけ頭の中で考えを巡らせようと、眠気が来れば抗えないし、腹が減れば落ち着かなくなる。
前世では一人でできていたことも、今では全部他人任せだ。
最初こそ妙な恥ずかしさがあったものの、いつまでも気にしていては生きていけない。
数日もすれば、俺は大人しく世話をされることにした。
諦めも肝心である。
そうして始まった二度目の人生だったが、しばらくすると、もう一つ奇妙なことに気づいた。
どう考えても、ここは現代日本ではない。
周囲の服装も、建物も、言葉遣いも違う。電気の明かりなど見当たらないし、身の回りにあるものも随分と古めかしい。
転生したうえに、時代まで遡ってしまったらしい。
それがいつの時代なのか、当初はさっぱり分からなかった。
何しろ、赤ん坊なので質問できないのである。
仕方なく、周囲の会話に耳を傾けることにした。
最初に覚えたのは、竹千代という名前だった。
どうやら俺のことをそう呼んでいるらしい。
竹千代。
随分と古風な名前だ。
そのうち、松平という家の名前を聞いた。
三河、岡崎という地名も耳にした。
父親の名は広忠というらしい。
そこまで揃ったところで、ようやく頭の中に引っかかっていたものが形になった。
……あれ?
松平。
三河。
岡崎。
竹千代。
これ、徳川家康じゃないか?
いやいや、まさか。
竹千代という名前の人間が、歴史上の徳川家康一人だけだったとは限らない。松平だって、それなりに大きな一族だったはずだ。
しかし、父親の名前まで一致するとなれば話は別である。
徳川家康。
関ヶ原で勝って、江戸幕府を開いた男。
戦国時代を生き残り、最後には天下人となった人物だ。
歴史に詳しくない俺でも、それくらいは知っている。
まさか、その本人として生まれるとは。
天下人。将軍。江戸幕府。
そんな言葉が次々と頭に浮かんだ。
なかなか、とんでもないことになったものだ。
しかし、しばらく考えているうちに、もっと大事な問題があることに気づいた。
徳川家康ってことは、今は戦国時代なんだよな。
つまり、戦争が当たり前に起こる時代である。
病気になっても現代の病院には行けないし、怪我をしたところで十分な治療を受けられるとは限らない。
そんな時代に生まれてしまった。
……大丈夫なのか、俺。
いや、待てよ。
徳川家康は長生きした人物だったはずだ。
確か七十歳を超えるまで生きていたし、最後には天下を取っている。
歴史通りに生きれば、少なくとも寿命で死ぬまでは生き残れるのではないだろうか。
そう考えると、少し気が楽になった。
別に天下を取ること自体に興味があるわけではない。
できることなら危ないことは避けたいし、面倒事にも巻き込まれたくない。
だが、徳川家康として生まれた以上、そうも言っていられないだろう。
とりあえず、目標は長生きである。
天下人になるのは、そのついででいい。
◇
徳川家康になったと分かったところで、俺に何かできるわけではなかった。
そもそも、まだ満足に走ることもできない年齢である。
そんな俺にも、歴史の方は容赦なくやってきた。
母とは幼いうちに離れ離れになり、やがて今川家へ人質として送られることになったのだ。
家康が今川家の人質だったことは知っている。
ならば仕方がない。
どうせ歴史通りなのだから、ここは大人しくしておこう。
そう思っていたら、途中で話がおかしくなった。
今川へ向かっていたはずなのに、気づけば俺は織田方の人質になっていたのである。
……あれ?
そんな話、あったっけ?
いや、実際にこうなっている以上、あったのだろう。
俺が知らなかっただけだ。
前世で日本史をもう少し真面目に勉強しておけばよかったと、このときばかりは後悔した。
もっとも、今さら教科書を読み返すこともできないのだが。
さて、織田方での人質生活である。
人質と聞けば、牢に入れられて粗末な飯を食わされるような生活を想像するかもしれない。
俺も最初はそう思っていた。
ところが実際には、そこまでひどい扱いを受けたわけではなかった。
食事は出るし、寝る場所もある。世話をしてくれる者もいた。
ただし、自由ではない。
どこへ行くにも大人がついてくるし、俺が松平家の跡取りであることを周囲が忘れることもなかった。
それでも、一日中怯えて暮らしていたわけではない。
子供同士で遊ぶこともあったし、甘いものが出れば普通に嬉しかった。
ある日など、同年代の子供たちに木登りを誘われた。
「竹千代、お前も登らぬか!」
すでに枝へしがみついていた子供が、得意げにこちらを見下ろしている。
俺は木を見上げた。
なかなか立派な木である。
落ちたら痛そうだ。
「いや、儂はよい」
「何じゃ、怖いのか!」
「……まあ、少しな」
笑われた。
別に構わない。
ここで格好をつけて木から落ち、歴史上の徳川家康が幼少期に事故死したなどということになったら、笑い話にもならない。
それに、この時代ではちょっとした怪我も怖い。
傷口から悪いものが入ったらどうする。
前世なら病院へ行けば済んだかもしれないが、ここにはそんな便利なものはないのだ。
そんなことを考えながら木の下で待っていると、やがて子供たちが降りてきた。
一人が足を滑らせ、尻餅をついた。
痛そうだった。
やっぱり登らなくて正解だったな。
そう思いつつも、転んだ子供に手を貸す。
そんな毎日だった。
中身が大人だからといって、子供としての生活が退屈だったわけではない。
走り回れば腹が減るし、遊び疲れれば眠くなる。身体が子供なのだから、当然といえば当然だ。
最初のうちは大人らしく振る舞おうとしていたものの、そんなことを続けても疲れるだけだった。
楽しいものは楽しい。
別に、それでいいではないか。
そうして尾張で暮らしているうちに、父が死んだという知らせが届いた。
松平広忠。
今の俺にとっては、実の父親である。
知らせを聞いたとき、最初に思い浮かんだのは歴史の知識だった。
そういえば、家康の父親は早くに亡くなっていたな。
少し遅れて、何とも言えない気分になった。
父親が死んだというのに、真っ先に考えたのがそれである。
ただ、俺には父と過ごした記憶がほとんどなかった。
最後に会ったとき、どんな顔をしていたのか。
思い出そうとしても、うまく思い出せない。
知らせを持ってきた者は、俺が何か言うのを待っていた。
「……父上は、いつ亡くなられた」
それだけ尋ねた。
相手は丁寧に答えてくれた。
俺は頷いた。
他に何を言えばいいのか分からなかった。
それからしばらくして、俺は人質交換によって今川方へ移されることになった。
今度こそ今川である。
ようやく自分の知っている歴史に戻ってきた。
俺は少し安心した。
◇
駿府は、思っていた以上に賑やかな町だった。
通りには人が行き交い、荷を積んだ馬が通る。商人たちの声が聞こえ、寺や屋敷も多い。
戦国時代といえば、戦ばかりしている印象があった俺には少し意外だった。
もっとも、よく考えれば当然かもしれない。
今川家は、この辺り一帯を治める大きな勢力なのだ。
人も物も集まってくる。
俺自身も松平家の跡取りという立場があるため、一定の待遇を受けていた。
人質だからといって牢に閉じ込められるわけではない。
手習いもあれば、武家の子として覚えなければならないこともある。
供を伴えば外へ出ることもできた。
ただし、好き勝手に出歩けるわけではない。
何をするにも、俺には松平家の跡取りという立場がついて回る。
それが少々面倒だった。
そして、今川義元。
前世での俺の印象は、正直に言ってあまりよくなかった。
何しろ、桶狭間で織田信長に負けて死ぬ人である。
学校の授業でも、勝った信長の方ばかりが印象に残っていた。
しかし、実際に駿府で暮らしてみれば、それだけで片づけられる人物ではないことが分かる。
これだけの土地と人間を治めているのだ。
少なくとも、何もできない間抜けな大名というわけではないだろう。
義元がどんな人物なのか、幼い俺に分かることは限られている。
それでも、前世で知っていた歴史上の人物と、実際にこの時代を生きている人間とは、少し違うものなのだと感じ始めていた。
そんな駿府での暮らしが落ち着いてきた、ある日のことだった。
◇
その日は、供の者たちと寺へ出向いていた。
大人同士の話が始まり、俺はその用が済むのを待っていたのだが、これがなかなか終わらない。
最初は大人しくしていたものの、さすがに退屈になってきた。
許しを得て庭へ出る。
もちろん、供の者の目が届く範囲である。
庭には石が置かれ、木々が植えられていた。
風が吹くたびに葉が擦れ合い、どこからか鳥の声が聞こえてくる。
何か面白いものでもないかと眺めていると、石の陰に妙な色が見えた。
最初は花びらかと思った。
しかし、近づいてみると違う。
小さくて、柔らかそうな生き物だった。
何だ、これ。
虫にしては形がおかしい。
それに、随分と色が鮮やかである。
しゃがみ込んでしばらく観察しているうちに、ふと思い出した。
ウミウシだ。
前世で水族館だったか、テレビだったか、とにかくどこかで見たことがある。
しかし、どうしてこんなところにウミウシがいるのだろう。
ここは海ではない。
そもそも、普通のウミウシは陸にいて大丈夫なのか?
気になって、近くに落ちていた細い枝を拾った。
生きているのか確かめようと枝先を近づける。
そのときだった。
「ちょっと待って! 待って待って!」
突然、少女の声がした。
驚いて手を引っ込める。
誰だ?
周囲を見回したが、誰もいない。
少し離れたところでは供の者たちが話をしているものの、こちらを見ている様子はなかった。
「下! 下だってば!」
また声がした。
下?
恐る恐る視線を戻す。
そこには、先ほどのウミウシがいた。
「そうそう、私!」
「…………」
俺はウミウシを見た。
ウミウシも、こちらを向いているようだった。
しばらく、そのまま動けなかった。
「ねえ、聞いてる?」
「……え?」
「枝! それ、もうちょっと離してくれる?」
俺は手に持っていた枝を見た。
次にウミウシを見る。
「……今、喋った?」
「うん、喋ったよ!」
元気のいい返事があった。
「…………」
「え、何その顔。そんなにびっくりした?」
そりゃするだろう。
俺は枝を地面に置き、改めて目の前の生き物を見つめた。
どう見てもウミウシである。
だが、喋っている。
「……もう一度、喋ってくれるか?」
「えっ、何で?」
「いや、確認したいことがあって」
「いいけど。こんにちは!」
喋った。
しかも、律儀に挨拶してくれた。
「……こんにちは」
つられて返事をしてしまった。
「はい、確認終わり! それでさ、もう突っつかない?」
「ああ。悪かった」
「よかったー。いきなり棒が来るんだもん、びっくりしたよ!」
それはこちらの台詞である。
もっとも、相手からすれば突然枝を近づけられたのだから、文句の一つも言いたくなるだろう。
「ええと……お前、ウミウシなのか?」
「うーん」
なぜか悩まれた。
「今はそんな感じかな?」
「今は?」
「あっ」
何か言いかけて、ウミウシは黙った。
しばらく待ってみたが、その先は出てこない。
……まあ、いいか。
喋っている時点で普通の生き物ではない。
今さら多少おかしなことがあっても驚かない。
いや、驚くだろうが、とりあえず話は聞けそうだ。
「名前はあるのか?」
「あるよ! かぐや!」
「かぐや?」
「うん!」
随分と可愛らしい名前である。
竹取物語のお姫様と同じだ。
もっとも、目の前にいるのは姫ではなくウミウシなのだが。
「それで、ここってどこ?」
今度はかぐやの方から尋ねてきた。
「駿府だ」
「すんぷ……ああ、駿府か!」
どうやら地名は知っているらしい。
「来たことがあるのか?」
「んー、ずっと前に近くまで来たことはあるかな。でも、今はさっぱり分かんないや」
「そうなのか」
「うん。町って、結構変わるからね!」
何でもないことのように言う。
まあ、確かに町は変わるものだろう。
俺だって前世では、久しぶりに出かけた場所が知らない店ばかりになっていて驚いたことがある。
とはいえ、ウミウシが町の変化について語るのは妙な感じだった。
「ところで、どうしてこんなところにいるんだ?」
「それがさー、ちょっと移動してたんだけど、途中で置いていかれちゃって」
「置いていかれた?」
「そう! 荷物に乗せてもらってたんだけど、途中で荷が分かれちゃったみたいでさ。気づいたら知らないところにいたんだよね」
なるほど。
いや、なるほどと言っていいのか分からないが。
少なくとも、どうして庭の石陰にウミウシがいるのかについては、多少説明がついた気がする。
「それで、どうするつもりなんだ?」
「うーん。まあ、何とかなるとは思うけど」
かぐやはあまり困っている様子ではなかった。
「とりあえず、ここがどこか分かったしね。あとは移動する方法を考えないと」
「自分では動けないのか?」
「動けるよ? でも、この身体だと遠くまで行くのは大変なんだよねー」
それはそうだろう。
目の前の小さな身体では、この庭を横切るだけでも一苦労しそうだった。
「竹千代様」
離れたところから声が飛んできた。
俺は振り返る。
「ここにおる」
そう返すと、供の者が軽く頭を下げた。
「そろそろお戻りになりますゆえ」
「分かった。すぐに行く」
そう言ってから、もう一度かぐやを見る。
「竹千代?」
名前を聞かれていたらしい。
「俺の名前だ」
「へえー。竹千代かぁ」
かぐやは何度か名前を繰り返した。
「うん、覚えた! よろしくね、竹千代!」
「ああ、よろしく」
ごく普通に挨拶を交わしてしまった。
喋るウミウシと。
……まあ、いいか。
それより問題は、供の者がこちらへ来ようとしていることだった。
「かぐや、悪いが少し声を落としてくれ」
「え? 何で?」
「人が来る。お前が喋っているのを聞かれたら、騒ぎになるかもしれない」
「あー、なるほどね」
かぐやはすぐに声を小さくした。
「これくらい?」
「ああ、それで頼む」
「了解!」
意外と素直だった。
俺は立ち上がろうとしたが、その前に一つ気になることがあった。
このまま、かぐやを置いていっていいのだろうか。
別に、俺が面倒を見る義理はない。
そもそも正体も分からない生き物だ。
ただ、もし誰かに見つかったらどうなるのだろう。
珍しい生き物として捕まえられるかもしれないし、喋ることが分かればもっと面倒なことになる可能性もある。
俺は少し考えてから尋ねた。
「……かぐや、お前、今夜はどこで過ごすつもりだ?」
「んー、まだ決めてない!」
「そうか」
「何かいい場所知ってる?」
「いや、そういうわけではないんだが……」
少し迷った。
知らない生き物を連れ帰るというのは、どう考えても面倒事である。
しかも俺は人質だ。
勝手なことをして騒ぎになれば、困るのは自分である。
それでも、このまま置いていくのは少し気になった。
「……俺のところに来るか?」
「えっ、いいの?」
「誰にも見つからないようにできるならな」
かぐやは一拍置いてから、明るい声を上げた。
「やった! 助かるー!」
「声」
「あっ、ごめん」
慌てて声が小さくなる。
俺は供の者たちを振り返った。
幸い、誰もこちらを見ていない。
今のうちだ。
懐に入れていた小さな布を取り出し、地面へ広げる。
「これに乗れるか?」
「うん、いけるよ!」
かぐやが布の上へ移動する。
思ったより時間がかかった。
何しろ身体が小さい。
途中で手を貸そうとすると、「大丈夫大丈夫!」と制止されたので、大人しく待つことにした。
ようやく布の上に乗ったところで、そっと持ち上げる。
「おおー!」
「大丈夫か?」
「うん! いい感じ!」
俺は布を折り、かぐやを圧迫しないよう気をつけながら懐へ収めた。
「帰るまで喋らないでくれよ」
「はーい」
今度は小さな声だった。
俺は何食わぬ顔で供の者たちのところへ戻った。
「竹千代様、何をなさっておいででした?」
「少し庭を見ておった」
「さようでございますか。では、参りましょう」
「うむ」
どうやら怪しまれてはいないらしい。
俺は胸を撫で下ろした。
その直後だった。
「ねえ、竹千代」
懐から小さな声がした。
おい。
「これ、結構揺れるね」
……頼むから黙っていてくれ。
俺は何でもない顔をしながら歩き続けた。
連れて帰ると決めたのは、少し早まったかもしれない。
◇
帰り着いてからも、しばらくは気が抜けなかった。
何しろ俺には身の回りの世話をする者がいる。
人の出入りも多い。
ようやく一人になれたところで、俺は懐からかぐやを取り出した。
「ぷはー! やっと出られた!」
「お前、途中で喋っただろう」
「えへへ、ごめんごめん。つい!」
あまり反省している様子はなかった。
ただ、本人なりに気を遣っていたのか、それ以降は帰り着くまで大人しくしてくれていた。
「それで、ここが竹千代の部屋?」
「ああ。正確には、俺が使わせてもらっている場所だけどな」
「へえー!」
かぐやは辺りを見回しているようだった。
俺は手習いに使っている文箱を引き寄せた。
中に入っていたものを取り出し、空いたところへかぐやを移す。
「ひとまず、ここでいいか?」
「うん! ありがと!」
「狭くないか?」
「平気平気。このくらいなら慣れてるよ」
「そうなのか」
「うん。もっとひどいところにもいたことあるし!」
何気ない一言だった。
しかし、妙に実感がある。
「……お前、一体どこから来たんだ?」
「んー?」
かぐやは少し考えた。
「いろんなところ!」
答えになっていない。
ただ、これ以上聞いても今は教えてくれそうになかった。
それから、食べ物や寝る場所についていくつか尋ねた。
普通のウミウシと同じように扱っていいものか分からなかったので、本人に聞くのが一番だと思ったのである。
かぐやは案外慣れた様子で、何が必要で、何をしなくてもいいのかを教えてくれた。
その説明を聞いて、俺は少し安心した。
少なくとも、今すぐ何か特別なものを用意しなければならないわけではないらしい。
「竹千代って、結構親切だね」
「そうか?」
「うん! 最初は枝で突っつこうとしてきたけど!」
「……それはもう謝っただろう」
「あはは! 冗談だって!」
楽しそうな声だった。
俺は文箱を置き直した。
明日から、どうしたものか。
このままずっと置いておくわけにもいかないかもしれない。
かといって、すぐにどこかへ送り出せるわけでもない。
まあ、ひとまず今夜はここでいいだろう。
そう考えていると、かぐやが声をかけてきた。
「ねえ、竹千代」
「何だ?」
「ここって、ずっと住んでるの?」
「いや、来たのは最近だ」
「そうなんだ。じゃあ、前はどこにいたの?」
「尾張だな」
「尾張かぁ。あっちから来たんだね」
「まあな」
そこから話は、俺が三河の松平家の生まれであることや、今は今川家の人質として駿府にいることに移っていった。
「人質?」
かぐやが聞き返した。
「ああ」
「じゃあ、好きなところに行けないんだ」
「そういうことになるな」
「ふーん……」
かぐやは少し黙った。
それから、何でもないように話題を変えた。
「じゃあさ、明日は何するの?」
「手習いだ」
「勉強?」
「まあ、そんなところだ」
「へえー。竹千代って大変だね!」
「そうでもないさ。慣れたからな」
実際、もう何年もこの時代で暮らしている。
不自由だと思うことはあっても、いちいち不満を口にしていてはきりがない。
かぐやはその後も、駿府の町についてあれこれ尋ねてきた。
俺が知っている範囲で答えると、時々妙なところで感心したり、笑ったりする。
話しているうちに、夜も更けてきた。
「……そろそろ寝るか」
「えー、もう?」
「明日も早いからな」
「そっかー。じゃあ仕方ないね」
案外あっさり引き下がった。
俺が布団に入ると、かぐやも大人しくなった。
しばらくして、小さな声がした。
「竹千代ー」
「……何だ?」
「今日はありがとね!」
「ああ」
「おやすみ!」
「おやすみ」
それで会話は終わった。
俺は目を閉じた。
まさか、戦国時代に転生したうえに、喋るウミウシまで拾うことになるとは。
世の中、本当に何が起こるか分からない。
ただ、今日一日を思い返してみると、案外面白かった気もする。
明日は何を聞かれるのだろう。
そんなことを考えているうちに、眠ってしまった。
◇
翌朝。
目を覚ますと、かぐやは昨日と変わらずそこにいた。
「おはよう、竹千代!」
「……おはよう」
普通に挨拶を返してから、少し考えた。
夢ではなかったらしい。
「ねえねえ、今日は何するの?」
「昨日も言っただろう。手習いだ」
「あ、そっか!」
「お前はどうする?」
「んー、ここで待ってる!」
意外だった。
てっきり一緒に行きたいと言い出すかと思っていた。
「いいのか?」
「だって、人に見つかったら困るんでしょ?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、竹千代が帰ってくるまで大人しくしてるよ」
なるほど。
ちゃんと考えているらしい。
俺は少し感心した。
「ただし、人が来たら隠れてくれよ」
「分かってるって!」
「声も出さないようにな」
「はいはーい!」
返事は軽かったが、その後のかぐやは本当に大人しくしていた。
人が近づけば声を潜め、姿を見られそうになれば隠れる。
どうやら、こうしたことには慣れているらしい。
もっとも、時々忘れることはあった。
特に何か面白いものを見つけたときが危ない。
それでも、何日か経つ頃には、俺もかぐやも互いの生活に少しずつ慣れてきた。
俺が手習いを終えて戻れば、かぐやが何か喋っている。
外へ出れば、帰ってきたときに何を見たのか尋ねられる。
俺が何か失敗すると笑うくせに、困っていると案外まともなことを言う。
一緒にいると、退屈する暇がなかった。
そんなある日のことだった。
俺は外で見た曲芸について、かぐやに話していた。
「それでな、男が皿を何枚も重ねて、そのまま歩いておったんだ」
「えー! 何それ、見たかった!」
「なかなか見事だったぞ」
「いいなー。そういうの、動画で撮ってきてくれたらいいのに!」
「……ん?」
思わず聞き返した。
「今、何て言った?」
「え?」
「動画って言わなかったか?」
かぐやが黙った。
珍しいことだった。
「……あー」
少ししてから、気まずそうな声がした。
「言っちゃった」
俺は文箱の方を見た。
動画。
間違いなく、そう言った。
この時代には存在しない言葉だ。
しかも、かぐやはそれを当たり前のように使った。
「お前、動画を知ってるのか?」
「……竹千代も知ってるの?」
質問で返された。
俺は少し迷った。
今まで誰にも話してこなかったことがある。
話しても信じてもらえないだろうし、そもそも話す必要がなかった。
だが、目の前にいるのは喋るウミウシである。
今さら妙な話をしたところで、驚くような相手なのだろうか。
「……知ってるぞ」
そう答えると、かぐやは急に勢いづいた。
「えっ、本当!? じゃあスマホとかも分かる?」
「分かるが……」
「えーっ!」
今度はかぐやが驚く番だった。
「ちょっと待って! 竹千代って、何者!?」
それは俺が聞きたい。
しかし、どうやら向こうも似たようなことを考えているらしい。
俺は少し考えてから尋ねた。
「かぐや、お前、この時代の人間じゃないのか?」
「……うん」
思っていたより、あっさりとした返事だった。
「私ね、もっとずっと後の時代から来たんだ」
「後の時代?」
「そう! 竹千代が生きてる時代より、ずーっと未来!」
「……未来人ってことか?」
「まあ、そうなるのかな」
かぐやは少し考えてから答えた。
「いろいろあって、ものすごく昔に来ちゃったんだよね。それからずっと、あっちこっち行ってるの」
「……どれくらい前に来たんだ?」
「うーん、どれくらいだろ」
かぐやは本当に分からないようだった。
「長い間だよ。もう、数えるのも大変なくらい!」
随分と大雑把な説明である。
しかし、ふざけている様子ではなかった。
かぐやがどれほど長く生きてきたのか、俺には想像もつかない。
ただ、目の前のウミウシが、普通の生き物ではないことだけは確かだった。
「……そうか」
「うん」
少しの間、二人とも黙っていた。
それから、かぐやが尋ねてきた。
「それでさ、竹千代は何で知ってるの?」
「ああ、それなんだが……」
俺は少し迷った。
しかし、ここまで来て隠していても仕方がない。
「実は俺も、この時代の人間じゃないんだ」
「…………え?」
今度こそ、かぐやが固まった。
「えっ、どういうこと!?」
「いや、そのままの意味なんだが」
「待って待って! 竹千代も未来から来たの!?」
「来たというか、生まれ直したというか……」
「生まれ直した?」
「ああ」
どこから説明するべきか迷った。
前世では普通に暮らしていたこと。
車に轢かれたらしいこと。
気づいたら赤ん坊になっていたこと。
それを順番に話した。
かぐやは途中で何度も質問してきた。
どんなところに住んでいたのか。
何をしていたのか。
本当に赤ん坊からやり直したのか。
話しているうちに、いつの間にか随分と時間が経っていた。
「えーっ! じゃあ竹千代って、見た目は子供だけど中身は大人なの!?」
「まあ、そういうことになるな」
「すごいね!」
「……そうか?」
「うん! だって、そんなの初めて聞いたもん!」
未来から来た喋るウミウシに驚かれるとは思わなかった。
しかし、かぐやは本当に楽しそうだった。
「あっ、でもさ」
「何だ?」
「前に死んじゃったんだよね?」
「ああ。そうなるな」
「そっか」
かぐやは少し黙った。
それから、普段と変わらない声で言った。
「でも、今はこうして生きてるんだね」
「……そうだな」
それ以上、何か言われることはなかった。
俺も特に話を広げなかった。
前世のことを思い出すのは、別に嫌いではない。
ただ、もう戻れないことも分かっている。
今さらどうしようもないことだ。
「ところで竹千代!」
「ん?」
「未来って、どんな感じだった?」
「未来?」
「うん! 竹千代がいたところ!」
「そうだな……」
俺は少し考えた。
どこから話せばいいのだろう。
車、電車、スマートフォン。
思いつくものはいくらでもある。
「そういえば、スマホを知ってるって言ってたな」
「うん!」
「じゃあ、俺のいた時代と近いのかもしれないな」
「そうかもね!」
それから二人で、前世にあったものについて話した。
意外なことに、かぐやも知っているものが多かった。
ただ、知らないものもあったし、逆に俺が聞いたことのないものもあった。
俺の方が昔の人間なのかもしれない。
あるいは、かぐやのいた未来では随分と技術が進んでいたのだろう。
どちらにせよ、今の俺には確かめようがない。
それでも、久しぶりに前世の話をするのは面白かった。
この時代では、誰にも通じない話だったからだ。
「ねえ、竹千代」
「何だ?」
「今度、もっといろいろ聞かせてよ!」
「ああ、いいぞ」
「やった!」
「ただし、俺もお前の話を聞きたいんだが」
「いいよ! 何が聞きたい?」
「そうだな……」
聞きたいことはいくらでもあった。
かぐやがどこから来たのか。
どうしてウミウシになっているのか。
今までどこで暮らしていたのか。
しかし、どれから聞くべきか迷っているうちに、かぐやが先に喋り始めた。
「そういえばね、昔、すっごく大きな町にいたことがあってさ!」
「ほう」
「そこでね、面白い人に会ったんだよ!」
俺はその話を聞くことにした。
かぐやの話は、あちこちに飛んだ。
途中で別のことを思い出したり、何かに気づいて話を戻したりするものだから、時々何の話をしていたのか分からなくなる。
それでも、不思議と退屈はしなかった。
かぐやが見てきたものは、俺の知らないものばかりだった。
そして、何より。
この時代で、未来の話を当たり前にできる相手がいる。
それが少し嬉しかった。
◇
それからも、かぐやは俺の居所にいた。
朝になれば挨拶をしてくるし、手習いをしていれば横から口を出す。
俺が外へ出るときには、何か面白いものがあったら教えてほしいと言う。
帰ってくれば、今日は何を見たのかと尋ねられる。
時々、こちらが聞いていないことまで喋り始める。
そのくせ、自分の話を聞いてほしいときには随分としつこい。
困ったものだった。
ただ、追い出そうと思ったことはない。
喋るウミウシが一匹増えたところで、俺の人質生活そのものが大きく変わったわけではなかった。
手習いは相変わらず面倒だし、覚えなければならないことも多い。
松平家の跡取りとしての立場も変わらない。
それでも、退屈だった時間が少しばかり賑やかになった。
ある日の夕方。
手習いを終えて部屋へ戻ると、かぐやが文箱から顔を出した。
「おかえり、竹千代!」
「ただいま」
「ねえ、今日は何か面白いことあった?」
「いや、特には……」
そう言いかけて、ふと思い出した。
そういえば、帰り道で少し変わったものを見た。
「そうだな。今日はな――」
俺が話し始めると、かぐやは嬉しそうに聞き入った。
途中で何度も口を挟んでくるので、なかなか話が進まない。
まあ、急ぐようなことでもない。
俺は腰を下ろし、最初から話してやることにした。