徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
天正十七年、秋。
「……今、何と申した?」
俺は書状から顔を上げた。
「北条方が、名胡桃城を奪い取ったとのことにございます」
数正が答えた。
「名胡桃……真田の城ではなかったか?」
「はっ。関白殿下の裁定により、真田領と定められた城にございます」
……何をやってるんだ、北条は。
俺は書状を机に置いた。
秀吉との和議がまとまってから、三年ほどが経っていた。
あれ以来、徳川は大きな戦をせずに済んでいる。もっとも、平和だから暇になるというわけでもない。甲斐と信濃の領地を整え、旧武田家臣たちを取り立て、城を修築し、年貢の取り決めを改める。やることはいくらでもあった。
今の居城である駿府城も、その一つだ。
秀吉に臣従した後、俺は浜松から駿府へ本拠を移した。
かつて今川家の人質として暮らした町である。子供の頃には供を連れなければ満足に出歩けなかった場所へ、今度は五か国を治める大名として戻ってきたのだ。
当初は、なかなか感慨深いものがあった。
しかし、城の普請にかかる費用を聞かされてからは、感傷に浸る余裕もなくなった。
人足を集めるにも銭がかかる。石垣にも、堀にも、御殿にも金がかかる。完成したと思えば、今度は城下の道や屋敷の割り当てで揉める。
城を持つというのは、維持費まで含めて考えなければならないらしい。
……まあ、当然か。
その駿府城も、今年になってようやく大きな普請が一段落したところだった。
少しは腰を落ち着けられると思っていたのだが。
「……それで、北条は何と申しておる?」
俺が尋ねると、数正は首を振った。
「詳しい事情は、まだ分かっておりませぬ。ただ、沼田を預かる北条方の城代が兵を動かした由にございます」
「氏直殿が命じたわけではないのか」
「そこまでは」
俺は腕を組んだ。
北条氏直。
つい数年前まで戦場で争っていた相手であり、今では俺の娘婿である。
督を嫁がせたことで、北条とは縁戚関係になった。
最初は随分と気を揉んだが、あの縁組によって両家の関係が落ち着いたことも確かだった。
しかし、秀吉に臣従してからは事情が変わった。
俺は豊臣政権に従っている。
一方、北条は関東に大きな勢力を保ち、秀吉からの上洛要求にもなかなか応じようとしない。
その両家の間に、俺の娘がいる。
……嫌な立場だなあ。
他人事なら、そんな感想で済ませられただろう。
だが、督は俺の娘だ。
北条と秀吉が戦になれば、あの子も巻き込まれる。
「数正。小田原へ使者を送れ」
「はっ」
「氏直殿に事情を確かめたい。それと、督がどうしておるかも調べてくれ」
「承知いたしました」
「真田にも使者を送ろう。こちらが事情を知らぬうちに兵を動かされては困る」
数正が頷いた。
俺は机の上に広げた絵図を見た。
沼田。
名胡桃。
小田原。
いずれも、駿府からは遠い。
しかし、この一件は遠い土地の争いで済みそうになかった。
秀吉は、大名同士が勝手に戦を始めることを禁じている。
領地争いが起きれば、関白の裁定に従わなければならない。
北条がその裁定を破ったとなれば、秀吉が黙っているとは思えなかった。
「……数正」
「はっ」
「小田原への使者には、できるだけ早く返事を持たせよ。氏直殿には、事の重大さを十分に伝えてくれ」
「御意」
「それから、駿河の東の守りも確かめたい。兵を動かすつもりはないが、伊豆方面の道は調べておこう」
数正は俺の顔を見た。
「……北条との戦に備えるのでございますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「備えだけはしておく。関白殿下が兵を挙げると決めてから慌てるのでは遅い」
数正が深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
数正が下がった後も、俺はしばらく絵図を眺めていた。
小田原征伐。
その名前は、前世でも聞いた覚えがある。
豊臣秀吉が大軍を率いて北条家を滅ぼした戦だ。
確か、その戦が終わった後、徳川家康は関東へ移されたはずだった。
……関東。
それも、江戸である。
今の東京だ。
前世の俺にとって、江戸という名前は歴史の教科書で見かけるものだったが、東京なら話は別だ。
日本の首都。
大勢の人が暮らし、高い建物が並び、電車が走り回っていた大都市。
俺だって行ったことがある。
しかし、今の江戸がどういう町なのかとなると、正直よく知らなかった。
江戸城があったことくらいは分かる。
徳川家康が江戸を発展させた、という話も覚えている。
だが、具体的に何をしたのか。
どこを掘り、どの道を整え、どうやってあれほど大きな町を造ったのか。
そんなことまで学校で習った記憶はない。
……いや、習ったのかもしれないけど。
覚えていないものは仕方がない。
「竹千代ー!」
文箱から声がした。
「さっきから何見てるの?」
「ああ、絵図だよ」
「また?」
かぐやが箱の縁から顔を出した。
「最近、ずーっとそれ見てない?」
「仕事だからね」
「でも、昨日も見てたじゃん!」
「昨日とは違うところだよ」
「どこ?」
俺は絵図を指差した。
「ここ。小田原ってところ」
「ふーん!」
かぐやが身を乗り出した。
「ねえ、竹千代。これって全部、実際に歩いたことあるの?」
「いや、ないところも多いよ」
「じゃあ、行ってみたい!」
「……何で?」
「だって、行ったことないんでしょ? 面白そうじゃん!」
実にかぐやらしい。
俺にとっては、行ったことのない土地など警戒する対象でしかない。道が分からないし、どんな領主がいるのかも調べなければならない。
こいつの場合は、それが全部楽しみになるらしい。
「まあ、機会があればな」
「やった!」
「まだ行くとは言ってないぞ」
「えー!」
俺は笑いながら絵図を畳んだ。
すると、かぐやが文箱の中から何かを押し出してきた。
小さな貝殻だった。
「竹千代、これ!」
「ああ、あのときの貝殻か」
以前、瀬名とかぐやと海へ出かけたときに拾ったものだ。
端が少し欠けている。
かぐやが俺にくれた貝殻である。
「ちゃんと持ってたんだね!」
「そりゃ、もらったからな」
「えへへ!」
かぐやは嬉しそうだった。
俺は貝殻を手に取り、机の端に置いた。
何の役に立つわけでもない。
だが、捨てる気にもならなかった。
「……ねえ、竹千代」
「ん?」
「今度はどこに行く?」
「そうだなあ」
俺は少し考えた。
駿府。
浜松。
岡崎。
長いこと、この辺りを行き来してきた。
かぐやとは、子供の頃から一緒だった。
この駿府の町で出会ってから、もう随分と時間が経っている。
「……もうしばらくは、ここにいたいかな」
「駿府?」
「ああ。せっかく城も整ったしね」
「そっか!」
かぐやが笑った。
「じゃあ、今度は駿府の町を探検しようよ!」
「それくらいなら、いいかな」
「やったー!」
俺も笑った。
このときは、まだ知らなかった。
せっかく整えた駿府の城を、間もなく手放すことになるとは。
◇
それから間もなく。
関白秀吉から、書状が届いた。
北条家に対し、討伐の意思を明らかにしたという。
「……ついに来たか」
書状を読み終え、俺は息を吐いた。
名胡桃城を奪った件について、北条方から十分な釈明が得られなかったらしい。
もはや、話し合いだけで済ませるつもりはないようだった。
「殿」
忠次が声をかけてきた。
「関白殿下より、出陣のご命令でございますか」
「……ああ」
俺は書状を畳んだ。
「北条を討つ。徳川にも兵を出すようにとのことだ」
忠次の表情が引き締まる。
「承知いたしました。では、早速軍勢を整えまする」
「待て」
俺は忠次を呼び止めた。
「その前に、小田原からの返事はどうなっておる?」
「まだ届いておりませぬ」
「……そうか」
俺は少し考えた。
秀吉が北条を討つと決めた。
その命令に従う以上、俺も兵を出さなければならない。
だが、北条氏直は俺の娘婿だ。
督は、今も小田原にいる。
「忠次。まずは出陣の支度を進めよ。兵糧と軍勢の数を確かめたい」
「はっ」
「それから、数正を呼んでくれ」
「数正を、でございますか」
「ああ。関白殿下に、もう一度お話ししたいことがある」
俺は書状を机に置いた。
北条が滅びることは知っている。
しかし、娘婿の氏直がどうなるのかまでは、よく覚えていない。
誰が死に、誰が生き残ったのか。
歴史の教科書は、そんなことまで教えてくれなかった。
だからといって、何もしないわけにはいかない。
「……氏直殿にも、最後の使者を送ろう」
俺は忠次を見た。
「今なら、まだ兵を退くこともできよう。関白殿下へ従う意思があるなら、俺が間に入ると伝えてくれ」
「承知いたしました」
「ただし、これで最後だとも伝えよ」
忠次が顔を上げた。
俺は続けた。
「返事を引き延ばしておる間に戦支度を整えるつもりなら、こちらも相応の備えをする。徳川が北条との縁だけで動くと思われては困る」
「……御意」
忠次が下がった。
俺は一人になった部屋で、もう一度絵図を広げた。
小田原。
その向こうには、広大な関東がある。
北条が滅べば、その土地を誰が治めるのか。
秀吉は、どうするつもりなのだろう。
俺はしばらく絵図を見つめていた。
……江戸、か。
その名前を、指でなぞった。
◇
小田原へ送った使者が戻ってきたのは、それから十日ほど経ってからだった。
「……返事は?」
俺が尋ねると、数正は持参した書状を差し出した。
北条氏直は、こちらの申し出に礼を述べていた。
秀吉との戦を望んでいるわけではないこと。名胡桃城の一件については、北条方にも言い分があること。徳川との縁は、今後も大切にしたいこと。
随分と丁寧な文章だった。
ただし、肝心なことが書かれていない。
「……で、上洛するとは言っておらぬのだな」
「はっ」
「城を返すとも?」
「それについても、明確なお返事はございませぬ」
俺は書状を机に置いた。
……駄目だ、こりゃ。
戦を避けたいと言いながら、秀吉の要求には応じない。
それで済む相手なら、俺だって何年も苦労しなかった。
「氏直殿は、関白殿下が本当に兵を出すとは思っておらぬのか?」
「あるいは、北条の城々があれば容易には負けぬとお考えなのやもしれませぬ」
「……小田原城か」
北条家の本拠である。
関東各地に支城を持ち、その中心に小田原城がある。北条家は長い年月をかけて、そこへ攻め込んできた敵を迎え撃つ仕組みを整えてきた。
武田信玄も、上杉謙信も、小田原を攻めたことがある。
だが、北条家は生き残っている。
その経験が、今回も通用すると考えているのかもしれない。
もっとも、今度の相手は豊臣秀吉だ。
「……数正。もう一度書状を出す」
「はっ」
「今回は、俺が直接書こう」
筆を取った。
氏直殿。
関白殿下は、すでに討伐をお決めになった。もはや、言葉を濁して済む段階ではない。
上洛する意思があるなら、いつ、誰が参上するのかを明らかにしていただきたい。
名胡桃城のことについても、処置を示していただきたい。
それができぬのであれば、徳川は関白殿下の命に従い、北条と戦う。
そこまで書いて、筆を止めた。
……少し厳しすぎるか?
いや、これくらい言わなければ伝わらないだろう。
俺は最後に一文を付け加えた。
督のことは、父として案じております。
「……これでよい」
数正へ渡すと、あいつは一通り目を通した。
「殿。これでは、北条方に最後通牒を突きつけるようなものにございますな」
「そのつもりで書いた」
「……承知いたしました」
「返事を待つ間も、出陣の支度は進めるぞ」
数正が頷いた。
俺は絵図を広げた。
氏直がどう答えるかは分からない。
だが、戦になれば、北条家を滅ぼすつもりで戦う。
娘婿だからといって、手を抜く気はなかった。
◇
天正十八年、正月。
京から、思いがけない知らせが届いた。
朝日姫が亡くなったという。
「……そうか」
書状を読み終えた俺は、しばらく黙っていた。
秀吉の妹であり、俺の妻となった女性だった。
政略結婚という事情もあって、夫婦として過ごした時間は長くない。朝日姫は母君の見舞いのため京へ上り、その後も体調が優れず、向こうで療養していた。
俺と瀬名の関係についても、朝日姫には随分と気を遣わせてしまった。
もっと上手く付き合う方法があったのではないか。
今になって、そんなことを考える。
「……殿」
瀬名が声をかけてきた。
「朝日姫様のことでございますね」
「ああ」
「ご病気が重いとは伺っておりましたが……」
瀬名は書状へ目を落とした。
「お見舞いの品をお送りしたときには、お返事もいただいておりました」
「そうだったな」
「……あの方も、随分と難しいお立場でございました」
俺は頷いた。
秀吉の妹。
徳川家康の妻。
それだけ聞けば立派な身分だが、本人が望んでそうなったわけではない。
俺も朝日姫を粗略に扱わぬよう努めてきたつもりだった。
しかし、それで本人が幸せだったかどうかまでは分からない。
「京へ弔いの使者を送ろう」
「はい」
「殿下にも、お悔やみを申し上げねばな」
瀬名が静かに頷いた。
外では北条征伐の準備が進んでいる。
そんな中でも、人は病に倒れ、命を落とす。
戦で死ぬ者ばかりを気にかけているうちに、こういう別れを迎えることもあるのだ。
俺は書状を丁寧に畳んだ。
◇
三月。
豊臣秀吉は、全国の諸大名を動員して北条征伐を開始した。
俺も徳川の軍勢を率いて出陣する。
出発前には、信康を呼び寄せた。
「父上。此度の出陣に、私もお連れいただけませぬか」
最初にそう言われた。
……やっぱり来たか。
今の信康は三十を過ぎている。
いつまでも若殿と呼んで済ませられる年齢ではない。
これまで兵糧の手配や領内の仕事を任せてきたが、本人としては不満もあるのだろう。
「今回の戦では、お前に別の仕事を頼みたい」
「……また、兵糧でございますか」
「そうだ」
信康の眉が動いた。
俺は続けた。
「だが、これまでとは違う。三河と遠江から運ぶ物資の取りまとめを、お前に任せようと思う」
「……私に?」
「ああ。数正とも相談し、必要な人員をつける。運び方や集積する場所については、お前が考えよ」
信康は黙った。
「ただし、必要な兵糧が届かねば前線の兵が困る。責任は重いぞ」
「承知しております」
「それと、勝手に兵を動かすことは許さぬ。護衛が必要なら、決められた範囲で使え。足りなければ俺に申し出よ」
そこまで言うと、信康が少し笑った。
「……父上」
「何だ」
「やはり、最後には細かいことまで仰るのですね」
……しまった。
「いや、今のは……」
「分かっております」
信康は頭を下げた。
「お任せください。必ず、必要なものをお届けいたします」
俺は頷いた。
「頼んだぞ」
信康が下がった後、しばらくその背中を眺めていた。
あれから十年以上が経った。
信康を岡崎城から退かせたときには、親子の仲が元に戻る日など来ないと思っていた。
だが、今はこうして仕事を任せられる。
信康も、以前ほど意地を張らなくなった。
もっとも、すべてが解決したわけではない。
兵を率いる権限も、家督を継ぐ立場も、まだ完全には戻していなかった。
それでも、今の信康なら。
……いや。
ここから先は、実際の働きを見て決めよう。
せっかく任せたのだから、今度こそ余計な口出しは控えるつもりだった。
◇
北条征伐は、予想どおり大規模な戦となった。
秀吉のもとには、全国から数えきれないほどの兵が集まっている。
織田の時代から従っていた武将もいれば、つい最近まで敵だった大名もいる。毛利、上杉、宇喜多をはじめ、各地の軍勢が次々と関東へ向かっていた。
正直、これほどの兵をよく集められるものだと思う。
「……殿下は、相変わらず派手なことをなさるな」
俺が呟くと、数正が頷いた。
「北条方に天下の勢いを見せつけるお考えもございましょう」
「だろうな」
秀吉は、兵を集めること自体を武器にしている。
北条だけでなく、まだ臣従していない大名たちにも見せつけているのだ。
これだけの軍勢を相手に、誰が逆らえるのか。
……いやはや。
俺が小牧・長久手で戦った相手とは、もはや規模が違う。
もっとも、だからといって徳川が何もしなくていいわけではなかった。
「忠勝。伊豆へ通じる道について、改めて調べてくれ」
「はっ!」
「小田原まで進むなら、山中城が厄介だ。あそこを放っておくわけにはいかぬ」
山中城は、北条が箱根方面の守りとして整えてきた城だ。
街道を押さえる位置にあり、簡単に通り抜けることはできない。
豊臣軍の大軍が進むにしても、あそこを攻め落とさなければ小田原へ近づくのは難しい。
「それから、韮山城にも兵が籠もっておる。伊豆の城々がどう動くか、今のうちに確かめたい」
「御意!」
俺は絵図へ目を落とした。
北条を滅ぼす。
それは秀吉の命令だ。
だが、戦う以上は俺自身も勝つつもりだった。
娘婿への情けで、徳川の兵を危険に晒すわけにはいかない。
◇
三月下旬。
豊臣軍は、山中城へ攻めかかった。
北条方もよく守った。
山の斜面を利用した城であり、攻める側は思うように進めない。守備兵の放つ鉄砲や矢によって、味方にも多くの死傷者が出た。
「……殿。山中城の守りは、予想以上に堅固にございます」
忠勝が報告してきた。
俺は陣から山の方を見た。
白い煙が上がっている。
鉄砲の音が、途切れ途切れに聞こえてきた。
「そうだな。だが、あそこで長く足止めされるわけにはいかぬ」
俺は絵図を広げた。
攻撃を受けている場所。
城兵が集まっている場所。
そして、まだ手薄な場所。
それらを確かめながら、諸将と相談する。
徳川勢だけで攻める戦ではない。
豊臣方の他の軍勢と足並みを揃えなければならなかった。
「忠勝。こちらの兵には、敵が城外へ出てきた場合に備えさせよ。勝手に前へ出て、他家の攻め口を乱すな」
「承知いたしました」
「直政には、道の確保を頼みたい。城を落とした後、大軍が通れるようにしておかねばならぬ」
「はっ」
俺は再び山へ目を向けた。
城が落ちても、そこで終わりではない。
小田原へ進むには兵糧を運ばねばならないし、負傷者を後方へ送る道も必要だ。
戦場で敵を斬るだけが、戦の仕事ではなかった。
やがて、山中城は落ちた。
豊臣方にも大きな犠牲が出た。
だが、これで小田原への道が開けた。
「……進むぞ」
俺は家臣たちへ命じた。
「北条の本拠は、すぐそこだ」
◇
四月。
小田原城を、豊臣軍が取り囲んだ。
俺は城の東側へ陣を構えた。
城の周囲には、すでに数多くの軍勢が集まっている。小田原へ通じる道は押さえられ、海にも豊臣方の船が現れていた。
「……これほどの囲みを受けても、城から出てこぬか」
忠次の報告を聞きながら、俺は小田原城を眺めた。
北条は籠城を選んだ。
野戦で秀吉の大軍を相手にするより、城に籠もって守る方がよいと考えたのだろう。
その判断自体は分かる。
小田原城には、長い年月をかけて整えた守りがある。
食糧も蓄えているはずだ。
だが、城に籠もれば、外の土地は敵に取られる。
支城が落ちれば、援軍も来なくなる。
そして、豊臣軍には兵が多い。
その兵を使って、各地の城を一つずつ落としていくこともできる。
「……殿。いかがなさいますか」
「包囲を固める。まず、こちらから城へ通じる道を押さえよ」
「はっ」
「それと、城下の者が逃れてくることもあろう。武具を持たぬ者は、身元を確かめたうえで通してやれ」
忠次が頷いた。
「承知いたしました」
「ただし、兵の格好を変えて出入りする者もおるかもしれぬ。そこは厳しく調べよ」
俺は絵図を指した。
「食糧を運び込む道は塞ぐ。使者を送る道は、こちらが許したときだけ通す。北条には、外から援軍が来ないことを分からせたい」
忠次が、少し険しい顔をした。
「長い包囲となりましょうな」
「ああ」
俺は頷いた。
「だが、城を力攻めして兵を失うよりはよい」
もっとも、長く囲めば、城内の者たちは苦しむ。
その中には督もいる。
俺は小田原城へ目を向けた。
……早く降ってくれよ。
そう思いながら、城を取り囲む兵の配置を確かめていた。
◇
秀吉に呼ばれたのは、包囲が始まって間もなくのことだった。
「家康殿! よう参られた!」
相変わらず、よく通る声である。
俺は頭を下げた。
「お召しにより、参上いたしました」
「いやいや。小田原のことでは、随分と働いていただいておるようですな」
「恐れ入ります」
秀吉は上機嫌だった。
陣中とは思えないほど立派な道具が揃い、茶の支度まで整えられている。
外では何万もの兵が城を囲んでいるというのに、当の秀吉は、まるで京で客を迎えているようだった。
……本当に、この人は余裕があるなあ。
もっとも、油断しているわけではないのだろう。
この男が何も考えずにくつろいでいるとは、とても思えない。
「家康殿。北条は、まだ降るつもりがないようですな」
「……そのように見受けられます」
「困ったものよ。せっかく、何度も上洛を勧めたというのに」
秀吉は笑った。
だが、その声には苛立ちが混じっていた。
「氏直殿には、儂も随分と譲歩したつもりでござる。沼田のことも、話し合いで決めようとした。それを、最後には城まで奪い取るとはな」
「……」
「家康殿。お主は、どう思う?」
俺は少し考えた。
答えにくい質問である。
氏直は娘婿だ。
しかし、北条が名胡桃城を奪ったことも事実であり、秀吉の命令を無視し続けていることも事実だった。
「北条方にも言い分はございましょう。しかし、殿下の裁定に従わなかった以上、責めを免れることは難しいと存じます」
秀吉が頷いた。
「うむ」
「ただ、氏直殿は私の娘婿にございます。最後には、降伏を勧める使者を送らせていただきたく存じます」
秀吉の目が細くなった。
「……まだ助けたいと?」
「はっ」
「儂がこれほどの兵を集めたというのに?」
「北条が降れば、戦も早く終わりましょう」
俺は頭を下げた。
「小田原城を開き、兵を収めるのであれば、氏直殿の命についてはお取りなしを願いたく存じます」
秀吉は、すぐには答えなかった。
しばらく俺を見ていた。
「……家康殿」
「はっ」
「お主は、娘婿のために儂へ逆らうつもりはないのであろうな」
「ございませぬ」
俺は顔を上げた。
「此度の戦では、徳川の兵も北条と戦っております。すでに山中城を攻め、小田原の包囲にも加わっております」
「うむ」
「氏直殿が最後まで抵抗するなら、私も兵を退くことはできませぬ」
秀吉が口元を緩めた。
「……なるほど」
俺は続けた。
「ですが、氏直殿が降伏し、城や兵糧を引き渡すなら、その後まで命を奪う必要はないと存じます。関東を治め直すためにも、旧北条家臣たちを従わせることが肝要かと」
秀吉は盃を置いた。
「……よく考えておるな」
「恐れ入ります」
「氏直は、お主の娘婿というだけではない。北条の当主でもある。その命を助ければ、従う者も出てこよう」
俺は黙って頷いた。
秀吉は笑った。
「よろしい。まずは、氏直がどこまで譲るか見てみようではないか」
「……ありがたき幸せ」
「ただし、家康殿」
そこで声が低くなった。
「氏直が降らぬなら、儂も容赦はできぬぞ」
「……承知しております」
俺は頭を下げた。
少なくとも、交渉の余地は残った。
だが、まだ何も決まっていない。
氏直が降伏しなければ、秀吉は北条を滅ぼす。
そして、俺もそのために兵を動かす。
それが今の立場だった。
◇
陣へ戻ると、督からの書状が届いていた。
小田原城に籠もっている娘から、ようやく便りが来たのである。
俺はすぐに封を切った。
書状には、まず自分は無事であることが記されていた。
氏直も健在であること。
城内では今も戦の準備が続いていること。
そして、最後にこう書かれていた。
『父上が城を囲んでおられることは、承知しております』
俺はそこで手を止めた。
……督。
続きを読む。
『私は北条へ嫁いだ身にございます。氏直殿をお支えすることが、今の私の務めと存じます』
しっかりした文章だった。
子供の頃、亀と一緒に駿府で遊んでいた姿を思い出す。
あの頃は、まだ幼かった。
その娘が、今では北条家の当主を支える妻になっている。
『ただ、父上にお願いがございます。氏直殿が降伏を決められた折には、どうか、その命をお助けくださいませ』
俺は書状を畳んだ。
……まったく。
親子で考えていることは同じか。
俺は小さく息を吐いた。
氏直を助けたい。
督も、そう願っている。
だが、戦を終わらせる決断をするのは、氏直自身だ。
そして、最終的な処罰を決めるのは秀吉である。
俺にできることは、その間に入り、助けられる条件を整えることだった。
「……数正」
「はっ」
「氏直殿へ書状を送る。督から便りが届いたことも伝えたい」
「承知いたしました」
「それと、こちらの条件を改めて記す」
俺は筆を取った。
小田原城を明け渡すこと。
各地の支城へ降伏を命じること。
武具と兵糧を引き渡すこと。
そして、関白殿下の裁定を受け入れること。
そこまで書いて、筆を止めた。
……厳しい条件だ。
だが、これだけの譲歩をしなければ、秀吉が氏直を助ける理由は弱い。
「……数正」
「はっ」
「この書状が届いた後も北条が戦を続けるなら、我らも包囲を強める。それは変わらぬ」
数正が頷いた。
「御意」
俺は筆を動かした。
◇
五月。
小田原城を囲む戦は、長引いていた。
北条方の支城は、各地で次々と落ちている。
豊臣軍の勢いは衰えず、逆に包囲は厳しくなるばかりだった。
俺も徳川勢を動かし、城から出てくる兵への備えを固めた。
「殿。城内より、兵が出てきたとの報告にございます」
「数は?」
「二百ほどにございます」
俺は絵図を指した。
「……こちらの柵を崩すつもりか」
「そのように見受けられます」
「ならば迎え撃て。だが、向こうが城へ退くなら、無理に追い込む必要はない」
家臣が頷く。
俺は続けた。
「それと、夜間の見張りを増やせ。小勢だからと侮るなよ。火を放たれれば、それだけで大損害になる」
「御意!」
徳川の陣では、兵糧の管理も厳しくしていた。
大軍が長く陣を構えれば、物資はどんどん減っていく。
城を囲む側だからといって、無限に食糧があるわけではない。
「殿。信康様より、兵糧が届いております」
ある日、使者が報告してきた。
「予定より二日早く、駿河へ運び込まれたとのことにございます」
「……二日早く?」
「はっ」
俺は少し驚いた。
信康には必要な数量と期限だけを伝えていた。
細かな運び方までは任せている。
それが、予定より早く届いたという。
「……どうやったんだ?」
報告を確かめると、輸送の途中で使う道を一部変更し、荷を集める場所も改めたらしい。
さらに、雨で道が悪くなることを見越して、前もって運べる物資を動かしていた。
「……へえ」
思わず笑った。
「なかなかやるじゃないか」
使者が顔を上げた。
「殿?」
「いや、こちらの話だ。信康には、よく働いてくれたと伝えてくれ」
「はっ!」
俺は少し考え、付け加えた。
「それから、今回の手配について、どこに費用がかかったかもまとめさせてくれ。次の輸送でも役に立つだろう」
「承知いたしました」
使者が下がった。
俺は報告書をもう一度見た。
……信康も、ちゃんと成長しているんだな。
親としては嬉しい。
だが、それだけでは済まない。
こうして実績を積ませれば、家臣たちも信康を再び重く見るようになる。
いずれ、家督のことも考えなければならない。
……まあ、今は小田原が先か。
俺は書付を畳んだ。
◇
その頃、秀吉から新たな話を持ちかけられた。
「家康殿。小田原の後のことを、考えておりましてな」
俺は頭を下げた。
「……と申されますと」
「北条が滅びれば、関東の土地が空く」
「はっ」
「その土地を、家康殿に治めていただこうと思うのだ」
俺は一瞬、返事ができなかった。
……来た。
知っていた。
歴史では、徳川家康は関東へ移される。
だが、いざ本人の口から聞くと、何とも言えない気分だった。
「……関東にございますか」
「うむ」
秀吉は頷いた。
「武蔵、相模、伊豆、上総、下総、上野。その他の土地も、仕置きに応じてお主に預けよう」
俺は頭の中で計算した。
広い。
随分と広い。
これまでの五か国より、はるかに大きな領地になる。
しかし。
「……殿下。三河、遠江、駿河、甲斐、信濃は、いかがなりまするか」
「当然、別の者に預けることとなろう」
……ですよね。
俺は顔を伏せた。
三河。
生まれ育った土地である。
遠江。
長く武田と争った土地だ。
駿河。
子供の頃、人質として暮らした。
甲斐と信濃も、ようやく落ち着き始めたところだった。
それらを全部手放せという。
しかも、家臣たちも引っ越さなければならない。
城だけではない。
田畑も、屋敷も、寺も、墓もある。
何十年も住み慣れた土地を離れ、新しい場所へ移るのである。
……ものすごく面倒だ。
「……家康殿?」
秀吉がこちらを見ていた。
俺は顔を上げた。
「恐れながら、一つお願いがございます」
「申されよ」
「関東へ移るとなれば、家臣たちの所領も改めねばなりませぬ。旧領を手放すまでの猶予をいただきたく存じます」
秀吉は頷いた。
「うむ。それはよかろう」
「それから、関東の土地について、詳しく調べることをお許しいただきたい。北条の旧臣がどのような所領を持ち、どこに城があるのか。分からぬままでは、家臣を配置できませぬ」
「もっともな話よ」
秀吉は笑った。
「家康殿ならば、そう申すと思っておった」
……本当に?
俺は少し嫌な予感がした。
秀吉は続けた。
「関東を治めるには、なかなか骨が折れよう。北条の旧臣も多いし、土地によっては荒れておるところもある」
「……はっ」
「だが、お主ほどの者ならば、任せられる」
そう言って、秀吉は笑った。
俺も頭を下げた。
……なるほど。
よくできている。
領地は増える。
表向きは大きな恩賞だ。
だが、住み慣れた土地から引き離され、東国の見知らぬ土地を治めることになる。
旧北条家臣を従え、荒れた土地を整え、城も造り直さなければならない。
その間、秀吉は西国と畿内を固められる。
……本当に、嫌なところを突いてくるなあ。
だが、俺は断るつもりはなかった。
これだけの土地を任されるなら、やりようはある。
北条の旧臣を取り込み、家臣たちを配置し、関東の支配を整える。
それができれば、徳川は今よりも大きな力を持つことになる。
「……殿下」
「何でござる?」
「関東をお預けいただくのであれば、責任を持って治めまする」
秀吉が笑った。
「頼もしいお言葉よ!」
俺も頭を下げた。
内心では、すでに別のことを考えていた。
……さて、どこを本拠にするか。
小田原は立派な城だ。
しかし、西へ偏りすぎている。
関東全体を治めるなら、もっと東に拠点を置いた方が便利かもしれない。
そのとき、ふと一つの地名が頭に浮かんだ。
江戸。
前世の東京だ。
……そうか。
俺は、思わず笑いそうになった。
なるほど、歴史の家康が江戸へ移った理由も、少し分かる気がした。
◇
その日の夜。
俺は忠次と数正を呼んだ。
「……関東へ国替え、にございますか」
忠次が重々しく繰り返した。
「そうだ」
「五か国をすべて手放すのでございますな」
「ああ」
数正が腕を組んだ。
「……殿。これは大きな話にございます」
「分かっておる」
「家臣たちの所領も、すべて改めねばなりませぬ。三河以来の譜代の者たちには、不満を抱く者もおりましょう」
「だろうな」
俺は頷いた。
「だから、今のうちに準備を進めたい」
二人が顔を上げた。
「まず、家臣たちの所領をすべて確かめる。石高だけでなく、家族や家臣の数も調べよ。関東へ移るとき、誰をどこへ配置するか決める必要がある」
「御意」
「それと、旧領に残してきた寺や墓のことも考えたい。全部を移せるわけではないが、放っておくわけにもいかぬ」
忠次が頷いた。
「……殿」
「何だ」
「三河を離れることに、未練はございませぬか」
俺は少し考えた。
「……あるよ」
思ったより簡単に答えが出た。
「生まれた土地だしな。岡崎も、浜松も、駿府も、随分と長く暮らした」
忠次は黙っていた。
俺は続けた。
「だが、関東へ移れば、徳川の土地は増える。今まで以上の兵を養えるようになるかもしれぬ」
「……」
「それに、関白殿下が命じておられるのだ。断って戦になるより、与えられた土地を使いこなした方がよい」
数正が頷いた。
「殿らしいお考えにございます」
「そうか?」
「はっ」
俺は絵図を広げた。
「それで、江戸という場所について調べたい」
数正が顔を上げた。
「江戸にございますか」
「ああ。武蔵にある城だ」
「太田道灌が築いた城にございますな。今は北条方の支城となっております」
「その江戸だ」
俺は絵図を指した。
「関東を治めるなら、あの辺りがよいのではないかと思っている」
忠次と数正が顔を見合わせた。
「……小田原ではなく?」
「ああ」
「江戸城は、小田原ほど立派な城ではございませぬぞ」
「承知しておる」
……実際には、まだ見ていないけど。
「だから、詳しく調べたい。城の守りだけでなく、周囲の土地や川、港についてもな」
数正が頷いた。
「では、物見を送りまする」
「ああ。頼む」
俺は絵図を見つめた。
江戸。
今はまだ、どのような町なのか分からない。
だが、海が近い。
川も多い。
関東各地から人や物を集めるには、悪くない場所のはずだ。
……少なくとも、前世ではそうなっていた。
もちろん、だからといって何もしなくても大都市になるわけではない。
そこは、自分たちで何とかするしかなかった。
◇
六月。
北条方の支城は、ほとんどが落ちていた。
小田原城の包囲は続いている。
城内では、降伏すべきかどうかを巡って意見が割れているという話も聞こえてきた。
俺は、氏直へ送る書状を改めて書き直していた。
「……殿」
数正が声をかけてきた。
「氏直殿より、返書が届いております」
俺は顔を上げた。
受け取った書状を開く。
氏直は、関白への降伏を考えているという。
ただし、北条家の者たちの命を助けてほしいと願っていた。
氏政をはじめ、一門や家臣たちの命である。
俺は書状を閉じた。
「……数正」
「はっ」
「もう一度、殿下へお取りなしを願おう」
「承知いたしました」
「ただし、氏政殿まで助けていただけるかどうかは分からぬ」
数正が頷いた。
俺は続けた。
「氏直殿には、そのことを隠さず伝える。降れば必ず全員助かるなどと、俺が勝手に約束するわけにはいかぬ」
「……御意」
俺は筆を取った。
氏直殿。
降伏をお考えであるなら、一日も早く決断なされよ。
城内の者たちが苦しむ時間を、これ以上延ばす必要はありませぬ。
命については、私も関白殿下へお取りなしを申し上げます。
ただし、すべての願いが叶うとは約束できませぬ。
……そこまで書いて、筆を止めた。
厳しい文章だった。
だが、今の俺にできることは、それくらいしかなかった。
氏直自身にも、決めてもらわなければならない。
◇
七月五日。
北条氏直が、ついに降伏した。
小田原城は開かれ、長く続いた戦が終わった。
俺はその知らせを聞き、深く息を吐いた。
「……終わったか」
「はっ」
数正が頷いた。
「氏直殿は、関白殿下の裁定を受け入れるお考えにございます」
「そうか」
俺は椅子から立ち上がった。
「城の受け取りについて、手配を進めよ。徳川の兵にも、勝手に城内へ入らぬよう命じたい」
「御意」
「それから、督の居所を確かめてくれ。無事なら、早く会いたい」
数正が頷いた。
俺は小田原城へ目を向けた。
長い包囲だった。
だが、城を落とすために大勢の兵が死んだわけではない。
それだけでも、よかったと思う。
もっとも、これで北条家の問題がすべて解決したわけではなかった。
氏直の命。
氏政の処遇。
そして、北条家臣たちの今後。
決めなければならないことは、まだ残っていた。
◇
督と再会したのは、城が開かれてから間もなくのことだった。
「……父上」
久しぶりに見る娘は、随分と疲れた顔をしていた。
俺は立ち上がった。
「督。無事だったか」
「はい」
「怪我はないか?」
「ございませぬ」
「食事は取れておるか?」
そこまで尋ねると、督が少し笑った。
「……父上」
「何だ?」
「そのように一度に尋ねられても、答えられませぬ」
……ああ。
そういえば、昔も似たようなことを言われた気がする。
俺は苦笑した。
「すまん。心配だったものだからな」
「……承知しております」
督は座り直した。
「父上。氏直殿のことを、お聞きになりましたか」
「ああ」
「関白殿下の裁定を待っております」
「そうだな」
俺は頷いた。
「できる限りのことはする。だが、すべてが俺の思いどおりになるわけではない」
督は黙っていた。
「氏直殿にも、それは伝えてある」
「……はい」
「督。お前は、どうしたい?」
娘が顔を上げた。
俺は続けた。
「氏直殿が助命されても、今までどおり小田原で暮らせるとは限らぬ。遠い土地へ送られることもあろう」
「承知しております」
「……それでも、氏直殿と共にいたいか」
督は、はっきりと頷いた。
「はい」
迷いのない返事だった。
俺は黙った。
「私は、北条へ嫁いだ身にございます」
督は続けた。
「氏直殿と共に暮らし、この家の者たちと日々を過ごしてまいりました。父上には感謝しております。ですが、私の夫は氏直殿にございます」
「……そうか」
「今、あの方を一人にすることはできませぬ」
俺は娘を見た。
いつの間にか、大人になっていた。
父親の言うことを聞くだけの子供ではない。
自分の立場も、望みも、はっきり持っている。
「……分かった」
俺は頷いた。
「氏直殿の命については、引き続き殿下へお願いする。お前が共にいたいということも、伝えておこう」
督が深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
俺は、その姿を見ながら思った。
……まったく。
娘というものは、いつの間にこんなに大きくなるのだろう。
亀もそうだった。
督もそうだ。
俺が知らないところで、ちゃんと自分の人生を歩んでいる。
嬉しいような、寂しいような。
何とも複雑な気分だった。
◇
北条氏直の命は、助けられることになった。
ただし、高野山への追放である。
北条家の当主としての地位は失い、領地も取り上げられる。
だが、命は残った。
俺はその知らせを聞き、ようやく肩の力を抜いた。
「……そうか」
数正が頷いた。
「関白殿下は、氏直殿の助命をお認めになりました」
「ありがたいことだ」
「ただし、氏政殿と氏照殿については……」
数正は言葉を濁した。
俺は頷いた。
「……聞いておる」
北条氏政と、その弟の氏照。
二人には切腹が命じられた。
俺も秀吉へ取りなしを願ったが、処分は覆らなかった。
北条家を長く率いてきた氏政は、今回の戦の責任を負わされることになったのである。
俺は、しばらく黙っていた。
……全員を助けることはできなかった。
だが、だからといって、何もできなかったわけではない。
氏直は生き残った。
督も無事だった。
それだけでも、今はよしとするしかない。
「数正」
「はっ」
「氏直殿が高野山へ向かう際には、道中の安全についても取り計らいたい。関白殿下のお許しをいただいたうえで、必要な手配をしてくれ」
「承知いたしました」
俺は頷いた。
氏直が命を助けられたからといって、今後も無事でいられるとは限らない。
だが、少なくとも今は生きている。
そのことを、督にも伝えなければならなかった。
◇
小田原城が開かれた後、関東の土地を巡る仕事が本格的に始まった。
北条の旧領を徳川へ引き渡す。
そのために、城の受け取りや所領の確認を進めなければならない。
旧北条家臣たちも、今後の処遇を気にしていた。
徳川へ仕える者もいれば、北条への忠義を捨てられない者もいる。
中には、家族を抱え、どうすればよいのか分からずにいる者もいた。
「……殿」
数正が書付を差し出した。
「関東の旧北条家臣たちについて、ひとまず調べがまとまりました」
「ご苦労」
俺は書付を開いた。
名前。
所領。
家族。
家臣の数。
そして、これまでの働き。
随分と多かった。
「……全部、確認するのか」
「はっ」
「……大変だな」
数正が苦笑した。
「殿。関東を治めるとは、そういうことにございます」
……分かってるよ。
分かってるけどさ。
俺は書付を閉じた。
「では、まず方針を決めよう」
数正が顔を上げた。
「旧北条家臣のうち、徳川へ仕える意思のある者は受け入れる。ただし、以前の所領をそのまま保証するわけにはいかぬ」
「御意」
「今まで北条に仕えていた者も、徳川へ従えば我らの家臣だ。働きに応じて取り立てる」
「はっ」
「それから、徳川の譜代の者たちにも、新たな城や所領を与えねばならぬ。こちらも不満が出ぬよう考えたい」
数正が頷いた。
俺は絵図を広げた。
関東。
広い。
実に広い。
しかし、その広さの分だけ、問題も多い。
「……まず、小田原には信頼できる者を置こう」
「はっ」
「西から関東へ入る道を押さえる城だ。ここを疎かにするわけにはいかぬ」
俺は別の場所を指した。
「上野にも、信濃方面を見張れる城が必要だ。それから房総にも、兵を置かなければならぬ」
忠次が頷いた。
「殿。では、江戸はいかがなさいます?」
俺は絵図を見た。
「……本拠にしたい」
「江戸を、でございますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「ただし、その前に一度、自分の目で確かめよう」
◇
七月下旬。
俺は、江戸へ向かった。
道中、何度も周囲の様子を確かめた。
田畑。
村。
川。
道。
そして、ところどころに残る北条方の城や砦。
関東は広い。
だが、土地によって様子が随分と違っていた。
豊かな田畑が広がる場所もあれば、まだ十分に開かれていない土地もある。
川の近くでは水があふれやすく、橋がないために大きく迂回しなければならない場所もあった。
「……これは、道を整えるだけでも随分とかかりそうだな」
俺が呟くと、数正が頷いた。
「しかし、これほどの土地を治められるのであれば、将来は大きな力となりましょう」
「そうだな」
俺は周囲を見回した。
確かに、土地は広い。
人も多い。
港もある。
これを上手く治めれば、徳川は今よりも豊かになる。
だが、そのためには、まず家臣たちを住まわせなければならない。
城を修築し、屋敷を造り、道を整え、年貢を集める仕組みを作る。
……うん。
仕事が山ほどあるな。
俺は小さく息を吐いた。
◇
八月一日。
ついに、江戸城へ入った。
「……ここが、江戸か」
目の前には、城があった。
しかし、駿府城とは比べものにならない。
立派な天守があるわけでもなく、建物も古びている。堀や土塁は残っているものの、手を入れなければならないところが多かった。
城下にも家々はある。
商人や職人も暮らしているし、海沿いには船が集まる場所もあった。
だが、駿府や小田原ほど賑わっているわけではない。
何より、周囲の土地が厄介だった。
「……随分と水が多いな」
俺が呟くと、数正が頷いた。
「海が入り込んでいる場所もございます。潮の満ち引きによって、地面の様子も変わるとのことにございます」
「……なるほど」
俺は周囲を見回した。
確かに、低い土地が多い。
雨が降れば、すぐにぬかるみそうだった。
前世の東京。
あれほど大きな町が、今はこんな姿をしている。
……いや、すごいな。
何をどうすれば、ここからあんな町になるんだ?
正直、想像もつかない。
「殿」
忠勝が声をかけてきた。
「いかがでございますか。江戸城は」
俺は少し考えた。
「……直すところが多そうだな」
「はっ」
「まず、城の守りを整えよう。それから、家臣たちの屋敷を造らねばならぬ」
俺は周囲を指した。
「道も広げたい。荷を運ぶ車や馬が通れぬようでは困る」
「御意」
「それと、川を使って物を運べるか調べよう。海も近い。船を使えれば、かなり便利になるはずだ」
数正が頷いた。
「では、早速調べさせまする」
俺は城を見上げた。
正直、今の段階では立派な城とは言い難い。
だが、場所は悪くない。
海がある。
川がある。
関東の各地へ通じる道もある。
これから人が集まれば、町も大きくなるだろう。
……もっとも、どこまで大きくできるかは、俺たち次第だけどな。
◇
江戸城へ入って数日後。
駿府から、瀬名がやってきた。
「……殿」
城を見た瀬名は、少し驚いたようだった。
「こちらが、江戸城にございますか」
「ああ」
「……随分と、駿府とは違いますね」
「そうだな」
俺は苦笑した。
駿府の城は、ようやく大きな普請を終えたばかりだった。
それを手放して、今度は江戸城を造り直す。
……本当に、何をやっているんだろうな。
「瀬名。しばらくは不便をかけると思う」
「承知しております」
「屋敷も、これから整えるところだ。足りないものがあれば言ってくれ」
瀬名は頷いた。
それから、少し笑った。
「殿」
「何だ?」
「また、最初からでございますね」
俺は顔を上げた。
「……そうだな」
「岡崎へ戻られた頃も、浜松へ移られた頃も、随分とお忙しゅうございました」
「……ああ」
瀬名は城の方を見た。
「ですが、今度は私も、最初からお手伝いできます」
俺は少し驚いた。
「……瀬名」
「殿がご政務でお忙しいのであれば、屋敷のことは私にお任せくださいませ」
「……助かる」
瀬名が笑った。
俺も笑った。
……本当に、助かるな。
家臣たちの配置。
旧北条家臣の取り立て。
城の修築。
町の整備。
考えなければならないことは多い。
その中で、屋敷のことまで一人で考えていたら、間違いなく頭が痛くなる。
「……それと、瀬名」
「はい」
「かぐやは?」
「お部屋におりますよ」
「もう出てきたのか」
「ええ。先ほどから、窓の外を眺めておられます」
俺は苦笑した。
……あいつ、早いなあ。
◇
「竹千代ー!」
部屋へ戻ると、かぐやが文箱から顔を出した。
「おかえり!」
「ただいま」
「ねえねえ、ここが江戸なの?」
「ああ。そうだよ」
「へえー!」
かぐやは窓の方へ身体を向けた。
「何か、思ってたのと違うね!」
「……まあ、そうだな」
「竹千代が前に話してくれた町って、ここなんでしょ?」
俺は頷いた。
「そうだよ。前世では東京って呼ばれてたところだ」
「東京!」
かぐやが嬉しそうに声を上げた。
「じゃあ、これからすっごく大きな町になるんだ!」
「……どうかな」
「えっ?」
「今のところ、何も決まってないからね」
かぐやが首を傾けるように身体を揺らした。
俺は窓の外を見た。
遠くに海が見える。
その手前には、まだ建物の少ない土地が広がっている。
「俺の知ってる東京になるまで、何百年もかかるんだよ。しかも、俺が知ってる歴史とは、もう違うことも起きてるし」
「そっかぁ」
かぐやは少し考えた。
それから、急に元気な声を出した。
「じゃあ、今から作ればいいじゃん!」
「……簡単に言うなあ」
「えー! だって、竹千代がここの殿様なんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「だったら、好きな町にできるじゃん!」
俺は笑った。
……好きな町、か。
そんなに簡単な話ではない。
土地を整えるにも、人を集めるにも、金がかかる。
それに、俺一人で決めていいものでもない。
ここには、もともと暮らしている人たちがいる。
その人たちの生活も考えなければならない。
「……そうだな」
俺は窓の外を見た。
「まずは、ちゃんと暮らせる町にしないとな」
「うん!」
かぐやが笑った。
「それでさ、竹千代!」
「何?」
「ここにも海があるんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、また海に行けるじゃん!」
「……またそれか」
「だって、海が近いんでしょ!」
「近いけどさ」
「やったー!」
かぐやは大喜びだった。
俺は苦笑した。
……本当に、こいつは変わらないな。
何十年も一緒にいる。
駿府で出会い、岡崎へ戻り、浜松へ移り、また駿府へ帰った。
そして今度は、江戸である。
俺がどれほど歳を取っても、かぐやは昔と同じ姿をしている。
これから先、何年一緒にいられるのだろう。
……いや。
今は、そんなことを考えても仕方ないか。
「竹千代!」
「ん?」
「早く町を見に行こうよ!」
「……今日は、まだ仕事があるんだけど」
「えー!」
俺は笑った。
「明日なら、少し時間が取れるかもしれない」
「本当!?」
「ああ」
「じゃあ、明日!」
「はいはい」
かぐやは満足そうに笑った。
◇
翌朝。
俺は、江戸城の周囲を歩いていた。
供には数人の家臣を連れている。
かぐやは、いつもの文箱の中だ。
「……殿」
数正が、少し困った顔をしていた。
「この辺りは、雨が降ると水が溜まりやすいとのことにございます」
「そうか」
俺は地面を見た。
確かに、低い土地だった。
ところどころに水が残っている。
「……ならば、水を流す道を考えなければならぬな」
「はっ」
「川の流れも調べたい。今ある水路を利用できるなら、それに越したことはない」
数正が頷いた。
俺は歩きながら、周囲を見回した。
この土地には、まだ十分に手を入れられていない場所が多い。
だが、何もないわけではない。
村もある。
商人もいる。
船も通っている。
つまり、すでに人が暮らし、物が動いているのだ。
そこへ徳川の家臣たちが移ってくる。
当然、今までのやり方だけでは足りなくなる。
「数正。まず、町の者たちから話を聞こう」
「町の者にございますか」
「ああ。どこで水が溢れるのか、どの道が通りにくいのか。ここに長く住んでいる者の方が、よく知っているだろう」
数正が頷いた。
「承知いたしました」
「それから、職人も集めたい。城を直すには、大工や石工が必要だ。道を整えるにも人手がいる」
「御意」
俺は立ち止まった。
遠くに、海が見えた。
その向こうには、まだ知らない土地が広がっている。
関東。
徳川が、新しく治めることになった土地である。
かつて三河一国を取り戻すだけでも苦労した俺が、今ではこれほど広い土地を預かっている。
……随分と遠くまで来たものだ。
「殿」
数正が声をかけてきた。
「今後の普請について、どこから手をつけまするか」
俺は少し考えた。
城を直す。
道を整える。
水を引く。
家臣たちの屋敷を造る。
どれも必要だ。
だが、最初に何をするかで、その後の仕事の進み方も変わる。
「……まず、人が住めるようにしよう」
俺は答えた。
「城も大事だが、ここへ来た家臣たちが暮らせぬようでは困る。それから、物を運ぶ道と水を確保したい」
「承知いたしました」
「城の修築も進める。ただし、一度に何もかも造ろうとするな。必要なところから手をつけよ」
数正が頷いた。
「御意」
俺は歩き出した。
今はまだ、小さな町だ。
だが、ここを徳川の本拠にする。
三河から連れてきた家臣たちも、甲斐や信濃から従ってきた者たちも、これからは関東で暮らすことになる。
そのためには、江戸をもっと大きな町にしなければならない。
……いや。
大きくするだけでは駄目だな。
人が住み、商いができ、戦が起きても守れる町にする。
それが、今の俺の仕事だ。
「……殿」
数正が尋ねた。
「江戸を、どのような町になさるおつもりで?」
俺は少し考えた。
前世の東京。
あれほど大きな町になるとは、今の家臣たちは誰も思っていないだろう。
俺だって、どうすればそこまで大きくできるのか分からない。
だが。
「……人が集まる町にしたいな」
俺は答えた。
「商人も、職人も、武士も。ここへ来れば仕事がある。暮らしていける。そう思えるような町にしたい」
数正が頷いた。
「……なるほど」
「そのためにも、まずは道と水だ。これがなければ、何も始まらぬ」
「承知いたしました」
俺は海の方へ目を向けた。
江戸。
これから、何十年もかけて造っていくことになる町だ。
前世の俺は、この場所がどれほど大きな都市になるのかを知っている。
だが、今の俺には、そこまで生きられるかどうかも分からない。
……まあ、いいか。
少なくとも、今できることはある。
俺は家臣たちへ声をかけ、城へ戻ることにした。
すると、懐の文箱から小さな声がした。
「……竹千代」
「ん?」
「お腹空いた!」
俺は思わず笑ってしまった。
「……お前、さっき食べたばっかりだろ」
「だって、いっぱい歩いたじゃん!」
「歩いたのは俺だよ!」
「えへへ!」
かぐやが笑った。
俺も笑いながら、城へ向かって歩き始めた。
江戸での暮らしが、こうして始まった。
◇
文禄三年、春。
江戸へ移ってから、四年が経とうとしていた。
町は少しずつ大きくなっている。城の修築も進み、以前は空き地ばかりだった場所にも家臣の屋敷が建ち始めた。道を整えたおかげで荷の運搬も楽になったし、商人たちの往来も増えた。
もっとも、問題がなくなったわけではない。
昨年など、大雨で川が増水し、せっかく整えた道が一部使えなくなった。工事をやり直すことになり、担当した奉行は随分と落ち込んでいた。
……まあ、水のことは本当に難しい。
前世の東京に立派な堤防があったことは覚えているが、だからといって自分で造れるわけではない。結局、その土地をよく知る者や普請に携わる職人たちに頼るしかなかった。
そんな折、大坂へ赴くことになった。
政務上の用件に加えて、昨年生まれた豊臣秀吉の男子、拾丸への祝意を改めて伝えるためでもある。
秀吉は、随分と喜んでいるらしい。
何しろ、待ち望んでいた男児である。
俺も信康が生まれたときには相当に浮かれた覚えがあるので、気持ちは分からなくもない。
ただ、秀吉ほどの権力者に子供が生まれるとなれば、それだけでは済まない。跡継ぎの問題がある。豊臣家には、すでに関白の位を継いだ秀次がいる。今後、両者の立場をどうするのか。俺には口を挟める話ではないが、諸大名にとっても無関係ではなかった。
「……さて、どうなることやら」
俺は書状を畳んだ。
「竹千代ー!」
文箱から声がした。
「今度のお出かけ、私も行くからね!」
「……まだ何も言ってないだろ」
「だって、大坂でしょ!」
かぐやが顔を出した。
「江戸も面白いけど、大坂も見たい!」
「前にも行ったことあるじゃないか」
「何回行ってもいいじゃん!」
……それはそうだが。
俺は文箱を見た。
大坂城には、大勢の人間がいる。
城内には豊臣家の家臣だけでなく、諸国の大名やその家族も出入りしている。そんなところで、かぐやが人目につけば面倒なことになる。ましてや、人の言葉を喋るところを誰かに見られでもしたら、どう説明すればいいのか分からない。
「……絶対に勝手に喋るなよ」
「分かってるって!」
「前もそう言ってたよな」
「今回は大丈夫!」
まったく信用できない返事だった。
しかし、かぐやを江戸に置いていくのも気が進まなかった。こいつ自身が行きたがっているし、何より、目を離したところで何をするか分からない。
結局、いつものように文箱へ入れて連れていくことになった。
◇
大坂城では、俺も瀬名も、それぞれに用事があった。
俺は秀吉や諸将との対面がある。
瀬名は、豊臣家の女性たちへの挨拶だ。
こうした付き合いも、大名の家にとっては大切な仕事である。女同士の交友を通じて話がまとまることもあるし、逆に些細な行き違いが家同士の問題になることもある。
瀬名は、俺よりよほど上手くやってくれていた。
「……殿。かぐや殿はこちらでお預かりいたしましょうか」
出かける前、瀬名がそう申し出た。
「いいのか?」
「ええ。殿はお話し合いが長くなるのでしょう」
「……そうだな」
「かぐや殿も、お部屋に一人では退屈でしょうから」
俺は文箱を見た。
「かぐや。瀬名と一緒にいるか?」
「うん!」
即答だった。
「じゃあ、頼む。ただし、くれぐれも――」
「分かってるって!」
また先に言われた。
……本当に分かっているのだろうか。
瀬名が笑った。
「ご心配なく。私が見ております」
「……頼んだ」
俺は二人を見送り、諸将との話し合いへ向かった。
このとき、もう少し念を押しておくべきだったと後になって思うことになる。
◇
大坂城の奥向き。
瀬名が案内されたのは、庭に面した小座敷だった。
先ほどまで、淀殿と呼ばれる女性と挨拶を交わしていた。
名は茶々。
浅井長政とお市の方の娘であり、今は豊臣秀吉の側室として、その男子を産んだ女性である。
秀吉の子を産んだというだけでも、城内での立場は重い。ましてや拾丸は、豊臣家の将来に関わる子供だった。
瀬名も、それを十分承知していた。
茶々は、思っていたより気さくな女性だった。
少なくとも、無闇に威張るようなところはない。ただし、相手の言葉にはよく耳を傾け、何か気になることがあれば、曖昧な返事では済ませない。
瀬名が江戸の話をすると、茶々は町の様子だけでなく、住まいを移した家臣たちが困っていないかまで尋ねてきた。
「江戸は、まだ不便なところが多いのでございましょう?」
「はい。ですが、少しずつ暮らしやすくなっております」
「そうですか。三河からお移りになった方々も、多いのでしょうね」
「ええ。長く住み慣れた土地を離れた者もおりますので、皆が慣れるまでには時間がかかるかと」
茶々は頷いた。
「住む場所が変わるというのは、なかなか大変なことですから」
その言い方が、妙に自然だった。
瀬名は、茶々が幼い頃に幾度も居場所を変えざるを得なかったことを思い出したが、口にはしなかった。
やがて、拾丸の様子を確かめるため、茶々は一度席を外した。
瀬名も、別室に控えていた文箱を手元へ持ってこさせた。
侍女が下がったのを確かめ、蓋を少し持ち上げる。
「……かぐや殿。お変わりはございませんか」
「瀬名ちゃん!」
箱の中から、元気な声がした。
「もう終わった?」
「まだ少しお話がございます」
「えー!」
かぐやは不満そうに身体を揺らした。
「竹千代もいないし、ずっと箱の中だし、つまんなーい!」
「申し訳ございません」
「瀬名ちゃんが謝ることじゃないよ!」
かぐやはすぐに機嫌を直した。
「ねえ、それよりさっきの甘い匂い、何?」
「お菓子でしょうか」
「そう! たぶんそれ!」
瀬名は思わず笑った。
「後でいただけるか、聞いてみましょう」
「やった!」
そのときだった。
「……どなたか、いらっしゃるのですか」
瀬名の手が止まった。
振り返る。
廊下の入り口に、茶々が立っていた。
◇
「……淀殿」
瀬名は、すぐに文箱の蓋を閉じた。
茶々の視線が、その手元へ向けられる。
「お話し声が聞こえましたので」
「……」
「どなたか、お連れなのでしょうか」
瀬名は答えに迷った。
普通なら、適当な説明をして済ませるところだろう。しかし、先ほどの声は明らかに幼い娘のようだった。しかも、その声が聞こえた場所には、文箱しかない。
茶々も、そのことに気づいているようだった。
「……その箱に、何か?」
瀬名は息を呑んだ。
どう答えるべきか考えた、その瞬間。
「ねえ、瀬名ちゃん!」
文箱の中から声がした。
「さっきの人、戻ってきたの?」
……ああ。
瀬名は、思わず目を閉じた。
茶々は、完全に動きを止めていた。
「……今のは」
「……」
「その箱から、聞こえましたね」
もう、ごまかしようがなかった。
瀬名は小さく息を吐いた。
「淀殿。大変申し訳ございませんが……お人払いをお願いできますでしょうか」
茶々はしばらく瀬名を見つめていた。
やがて、控えていた侍女へ声をかけた。
「少し、二人で話をいたします。呼ぶまで、こちらへは誰も通さぬように」
侍女が下がった。
庭の向こうからは、鳥の鳴く声が聞こえている。
瀬名は、茶々へ向き直った。
「……これからご覧いただくことは、どうか他言なさらぬようお願い申し上げます」
「……それほどのことなのですか」
「はい」
茶々の表情が、少し険しくなった。
瀬名は文箱へ手を伸ばした。
「かぐや殿」
「なーに?」
「……出てきていただけますか」
「えっ、いいの?」
「ええ」
「やった!」
蓋を開ける。
中から、小さな生き物が顔を出した。
「こんにちはー!」
茶々は何も言わなかった。
その目が、ゆっくりと大きくなる。
「……何なのでしょう、これは」
ようやく出てきた言葉が、それだった。
瀬名は、どう説明したものかと迷った。
「……海に棲む、小さな生き物に似た姿をしておりますが……」
「……海の生き物?」
茶々は、もう一度かぐやを見た。
「それが、人の言葉を?」
「うん!」
かぐやが元気よく答えた。
「私、喋れるよ!」
茶々は瀬名を見た。
瀬名は頷いた。
「……ご覧のとおりにございます」
茶々は、しばらく黙っていた。
「……そうですか」
ひとまず、そう答えた。
しかし、まったく納得していない顔だった。
◇
「……そなたは、いったい何者なのですか」
茶々が尋ねた。
かぐやは文箱の縁に身体を乗せていた。
「私? かぐや!」
「かぐや……」
「うん!」
「……それは、名前ですか?」
「そうだよ!」
茶々は少し考えた。
「では、かぐや。そなたは、どこから来たのです」
「えーっと……」
かぐやは考え込んだ。
「いろんなところ!」
「……いろんなところ?」
「うん! 海も山も、いろんなところに行ったよ!」
「……」
茶々は瀬名を見た。
瀬名は、申し訳なさそうに微笑んだ。
「……かぐや殿は、こういう方なのでございます」
「……なるほど」
何がなるほどなのか。
瀬名にも、よく分からなかった。
茶々は再びかぐやに向き直った。
「では、どうして徳川殿と一緒にいるのです」
「竹千代?」
「……竹千代?」
茶々の眉が上がった。
「徳川殿のことでしょうか」
「そうだよ!」
かぐやは得意げに身体を揺らした。
「ずーっと前から一緒なんだ!」
「……ずっと前から」
「うん! 竹千代がちっちゃかった頃から!」
茶々は、しばらく黙っていた。
あの徳川家康が、竹千代と呼ばれている。
それも、こんな小さな生き物から。
城内で大勢の家臣を従え、秀吉とも堂々と話をする大名である。その男が幼い頃から、この不思議な生き物を連れていたという。
……何とも、想像しがたい話だった。
「……徳川殿は、そなたが喋ることをご存じなのですね」
「もちろん!」
「ほかにも、知っている者がいるのですか」
かぐやは、少しだけ身体を傾けた。
「えーっと、竹千代と瀬名ちゃんと……」
「かぐや殿」
瀬名が、やんわりと声をかけた。
「あっ」
かぐやは口を閉じた。
茶々は、そのやり取りを見ていた。
「……あまり、人には知られたくないことなのですね」
瀬名は頭を下げた。
「はい。殿も、かぐや殿のことは大切にしておられます。ですが、このように不思議な存在であると知れれば、何が起こるか分かりませぬ」
茶々は頷いた。
「確かに、これほど珍しいものが見つかったと騒ぎになれば、面倒なことになりましょう」
そこで言葉を切った。
そして、もう一度かぐやを見た。
「……かぐや」
「なーに?」
「そなたは、怖くはないのですか」
「何が?」
「知らない者に見つかってしまうことが」
かぐやは、少し考えた。
「うーん。怖い人だったら嫌だなあ」
「……そうでしょうね」
「でも、あなたは怖い人?」
茶々は、意外そうに目を瞬いた。
「……私が?」
「うん!」
「……どうでしょうね」
茶々は小さく笑った。
「怖いと言う人も、いるかもしれません」
「へえ!」
かぐやは感心したようだった。
「じゃあ、今のところは大丈夫そう!」
「……どうしてです?」
「だって、まだ何もされてないもん!」
茶々は、今度こそ声を出して笑った。
◇
しばらくして、茶々はかぐやへ菓子を分けてやった。
先ほど、かぐやが気にしていたものだった。
小さく切り分けられた菓子を、かぐやは嬉しそうに眺めている。
「わあ! これ食べていいの?」
「ええ。どうぞ」
「ありがと!」
かぐやは早速、菓子を食べ始めた。
茶々は、その様子を興味深そうに眺めていた。
「……本当に食べるのですね」
「食べるよ!」
「……そうでしたか」
「おいしい!」
「それは、ようございました」
茶々は少し笑った。
最初の驚きがなくなったわけではない。
しかし、かぐやを見ていると、どうにも緊張が続かなかった。
この小さな生き物は、珍しいだけではない。
随分と騒がしく、遠慮がなく、目につくものすべてに興味を示す。
茶々が質問すれば答えるし、今度はかぐやの方から質問してくる。先ほどは庭に咲く花の名前を尋ねられた。次には菓子の作り方を聞かれた。そして今は、茶々の衣に刺繍された模様を気にしている。
「ねえ、それ何の花?」
「桜ですよ」
「桜! いいね!」
「お好きなのですか」
「うん! 花が咲くと、どこもきれいになるじゃん!」
茶々は、少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
庭には、春の花が咲いていた。
茶々も、昔から花を見るのは好きだった。
しかし、最近は庭に出る時間も少なくなっている。
拾丸が生まれてからというもの、息子のことを考える時間が増えた。城内の者たちは皆、拾丸を大切にしている。それはありがたいことだったが、母親として気を抜ける時間が増えたわけではない。
一度、幼い子供を失っている。
だからこそ、今度こそ健やかに育ってほしい。
そんな思いが、いつも胸の内にあった。
「ねえ、茶々!」
かぐやが声を上げた。
茶々は顔を上げた。
「……私のことですか?」
「そう!」
瀬名が慌てた。
「かぐや殿。淀殿にそのような呼び方は……」
しかし、茶々は片手を上げた。
「構いません」
「……淀殿」
「ここには、ほかの者はおりませんから」
茶々はかぐやを見た。
「ただし、人前ではそのように呼んではなりませんよ」
「分かった!」
かぐやは元気よく答えた。
茶々は、少しだけ笑った。
自分の名前を、こんなにも気軽に呼ばれたのは久しぶりだった。
◇
やがて、かぐやは菓子を食べ終えた。
「ごちそうさま!」
「お粗末さまでございました」
茶々が答えると、かぐやは身体を揺らした。
「ねえ、茶々」
「何でしょう」
「また遊びに来てもいい?」
瀬名が息を呑んだ。
「かぐや殿!」
「えっ、駄目?」
かぐやが振り返った。
瀬名は困り果てた。
大坂城の奥向きである。
しかも、相手は豊臣秀吉の側室だ。
気軽に遊びに来られるような場所ではない。
だが、茶々はかぐやを見つめたまま、少し考えていた。
「……そうですね」
やがて、静かに口を開いた。
「また、お会いできるのであれば」
「本当!?」
「ええ。ただし、徳川殿と瀬名殿のお許しが必要でしょう」
「じゃあ、竹千代にお願いしてみる!」
「……そうなさい」
茶々は笑った。
かぐやも嬉しそうだった。
その様子を見ながら、瀬名は思った。
……殿になんと申し上げればよいのでしょう。
かぐやを大坂城へ連れてきたのは自分だ。人目につかぬよう気をつけていたつもりだったのに、よりによって淀殿に声を聞かれてしまった。しかも、二人はもう次に会う約束をしようとしている。
殿が聞けば、どんな顔をなさるだろう。
考えただけで、少し気が重くなった。
◇
その日の夕刻。
瀬名から話を聞いた俺は、しばらく何も言えなかった。
「……淀殿に?」
「はい」
「かぐやが?」
「……はい」
「……喋ったのか?」
「喋りました」
俺は天井を見上げた。
……参ったな。
信長には最後まで知られずに済んだ。
秀吉にも知られていない。
家臣たちにも、かぐやの存在は隠している。
それなのに、まさか淀殿に見つかるとは。
しかも。
「……また会いたいと?」
「かぐや殿が、そのように申しております」
俺は文箱を見た。
かぐやは、何とも嬉しそうだった。
「だって茶々、面白いんだもん!」
「……お前なあ」
「それにお菓子もおいしかった!」
「そういう問題じゃないんだよ」
「えー!」
俺は額に手を当てた。
淀殿が、かぐやの秘密を知ってしまった。
それだけでも十分な問題である。
もし秀吉に知られれば、どうなるか分からない。
あの男なら、珍しい生き物として興味を持つかもしれない。
あるいは、徳川が何か秘密を隠していると考えるかもしれない。
……どちらにしても、面倒なことになる。
「瀬名。淀殿は、何と仰っておられた?」
「ほかの方には話さぬと、お約束くださいました」
「……そうか」
「かぐや殿のことを、大切になさっているのでしょうとも」
俺は黙った。
どうやら、事情はある程度理解してくれたらしい。
それでも、簡単に安心できる相手ではなかった。
淀殿は、豊臣家の中でも重要な立場にいる。
秀吉の男子を産んだ女性なのだ。
その淀殿が、かぐやの秘密を知っている。
……これをどう考えるべきか。
俺はしばらく悩んだ。
だが、もう見つかってしまったものは仕方がない。
今さら、なかったことにはできないのだから。
「……かぐや」
「なーに?」
「淀殿に会いたいなら、今度はちゃんと俺たちに相談してくれ」
「うん!」
「それから、誰にでも喋っていいわけじゃないからな」
「分かってるって!」
俺は、もう何度聞いたか分からない返事に苦笑した。
「……本当に頼むぞ」
「はーい!」
瀬名が笑った。
俺はため息をついた。
……まあ、いいか。
少なくとも、淀殿がかぐやを嫌っているわけではなさそうだ。
むしろ、気に入ってくれたらしい。
それなら、今後の付き合い方を考えるしかない。
ただし、かぐやを通じて豊臣家の内情を探るような真似はしない。
あいつは俺の友人であって、間者ではないのだから。
◇
翌日。
大坂城での用件を終えた俺は、帰り際に淀殿へ挨拶する機会を得た。
「徳川殿。お帰りになるそうですね」
「はい。江戸にて、まだ仕事が残っておりますゆえ」
「それは大変なことでしょう」
茶々は穏やかに笑った。
俺も頭を下げた。
少し世間話をした後、茶々がふと声を落とした。
「……徳川殿」
「はっ」
「瀬名殿は、たいそう面白いお連れの方をお持ちなのですね」
……来た。
俺は一瞬、返事に詰まった。
茶々は、それを見て小さく笑った。
「ご心配には及びません」
「……恐れ入ります」
「珍しいものを見たとは思いましたが、ほかの者へ話すつもりはございません」
俺は頭を下げた。
「……ありがたき幸せにございます」
茶々は少し考えた。
「徳川殿」
「はい」
「一つだけ、お願いがございます」
俺は顔を上げた。
「何でございましょう」
「また、あの子と話をしてもよろしいでしょうか」
……あの子。
かぐやのことだ。
俺は茶々を見た。
表情は穏やかだった。
しかし、ただ珍しいものを見たからもう一度見せてほしい、という顔ではなかった。
「……かぐやが望むのであれば」
俺は答えた。
「私からも、止めるつもりはございません」
茶々は、少し驚いたようだった。
「……あの子が望むのであれば、ですか」
「はい」
「徳川殿が、お決めになるのではなく?」
俺は苦笑した。
「私が何を申しても、あれはなかなか聞きませぬので」
茶々が声を上げて笑った。
「まあ!」
「……面目次第もございません」
「いいえ。何となく、分かる気がいたします」
茶々は、まだ笑っていた。
やがて、少しだけ声を落とした。
「……では、またお会いできることを楽しみにしております」
「はい」
俺は頭を下げた。
これで、すべての心配がなくなったわけではない。
だが、少なくとも茶々は、かぐやを無理に手元へ置こうとはしなかった。
それだけでも、ありがたかった。
◇
徳川家の一行が大坂城を離れた後。
茶々は、自室で茶を飲んでいた。
庭には、春の花が咲いている。
先ほどまで賑やかだった小さな客人は、もういない。
「……かぐや」
茶々は、そっとその名を口にした。
不思議な生き物だった。
あれほど小さく、見たこともない姿をしているのに、人間と同じように言葉を交わす。海に棲む生き物らしいが、いったい何なのだろう。
徳川家康とは、いつから一緒にいるのか。
尋ねたいことは、いくらでもあった。
しかし、不思議なことに、今思い出すのは、かぐやが菓子を食べて喜んでいた姿だった。
あれほど小さな身体なのに、何にでも興味を持ち、遠慮なく笑う。
自分の名前を呼ぶときにも、相手がどういう身分なのか、まるで気にしていなかった。
……茶々、ですか。
その名を、あんなふうに呼ばれたのは久しぶりだった。
父が生きていた頃。
母が生きていた頃。
妹たちと一緒に暮らしていた頃。
ふと、昔のことを思い出した。
ただし、懐かしさに浸っている時間は長くなかった。
奥から、子供の声が聞こえてきたのである。
拾丸が目を覚ましたらしい。
茶々はすぐに立ち上がった。
「今、参りますよ」
そう言って部屋を出ようとしたところで、一度だけ足を止めた。
かぐやは、また来たいと言っていた。
本当に、また会えるのだろうか。
徳川家は江戸にある。
豊臣家との付き合いがあるとはいえ、そう頻繁に訪ねてこられる距離ではない。
それでも、不思議と次の機会が楽しみだった。
「……また、お話ししましょうね」
誰に聞かせるでもなく呟き、茶々は息子の待つ部屋へ向かった。