徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
慶長元年、十月。
江戸では、秋も深まり始めていた。
城下の普請は相変わらず続いている。新しく掘った水路の脇では職人たちが土を運び、少し離れた場所では武家屋敷の建築が進んでいた。朝から槌の音が聞こえ、夕方になれば仕事を終えた人足たちが酒屋に集まる。四年前には寂しかった町が、ようやく人の暮らす場所らしくなってきた。
もっとも、俺の仕事は一向に減らない。
新しい屋敷が建てば井戸の相談が来る。井戸を掘れば水のことで揉める。道を広げれば田畑の持ち主から訴えが来る。誰も彼も言い分があり、しかも話を聞けば大抵それなりに筋が通っているものだから、余計に始末が悪かった。
そんな日の午後、京から書状が届いた。
酒井忠次が亡くなったという知らせだった。
「……そうか」
書状には、十月二十八日に息を引き取ったと記されていた。
享年七十。
随分と長生きした方なのだろう。
戦場で命を落とす者が珍しくないこの時代に、七十まで生きられたのだから、幸せな最期だったと言う人もいるかもしれない。
だが、今の俺には、あまりそういう気分になれなかった。
「殿」
傍らに控えていた石川数正が、静かに声をかけてきた。
「京へ、使者を送りましょうか」
「ああ。家次にも書状を出してくれ。葬儀のことや、何か困っていることがあれば知らせるようにと」
「承知いたしました」
数正は頭を下げた。
それから、少し迷うような素振りを見せた。
「……殿も、京へお参りになりますか」
「行きたいな」
俺は書状を机に置いた。
「ただ、今すぐというわけにはいかんだろう。江戸のこともあるし、伏見へ上る用事も残っている」
「では、日を改めて」
「ああ。そうしてくれ」
数正が退いた後、俺は改めて書状を手に取った。
酒井忠次。
俺が竹千代だった頃から、ずっと傍にいた男だ。
今川の人質として駿府にいた頃も、岡崎へ戻った頃も、三河をまとめるために家中がひっくり返りそうになった頃も、あいつはいつも近くにいた。
三方ヶ原では随分と苦労をかけた。
長篠では鳶ヶ巣山の砦を攻め、小牧・長久手では森長可の軍勢を破っている。
俺が戦に勝ったときにも、負けたときにも、忠次はそこにいた。
……本当に、長い付き合いだったな。
最後に会ったのは、京へ上った折だった。
あの頃には目が随分と悪くなっていたが、口の方は少しも衰えていなかった。
江戸の普請に金がかかると愚痴をこぼしたら、使える金があるのは結構なことだと笑われた。まだ働く気はないかと尋ねれば、年寄りをいつまでこき使うつもりかと呆れられた。
そして最後に、息子の家次のことを頼まれた。
俺は、その場で引き受けた。
特別な約束をしたとは思わなかった。
あれから、もう一度くらいは会えるだろうと考えていたのだ。
「……忠次」
小さく名前を呼んでみた。
当然、返事はない。
それでも、何となく部屋の入り口へ目を向けてしまった。
あいつなら、今頃何と言うだろう。
いつまでも書状を眺めていないで、先に仕事を片づけろとでも言うのだろうか。
……腹の立つことに、容易に想像できた。
俺は書状を丁寧に畳み、引き出しへしまった。
◇
その夜。
瀬名が部屋へやってきた。
「殿。忠次殿のこと、伺いました」
「ああ」
「長いこと、お仕えくださった方でしたね」
「そうだな」
瀬名は俺の傍に座った。
忠次は、信康の一件にも深く関わっている。
あの頃のことを思い出せば、瀬名にも複雑な感情があるだろう。
俺自身、忠次にすべてを正しく任せられたとは思っていない。信長との交渉も、家中の不満も、難しい仕事ばかり押しつけてしまった。
それでも、瀬名は何も責めなかった。
「……家次殿にも、よろしくお伝えくださいませ」
「ああ」
「私からも、お悔やみの書状を出したく存じます」
「頼む」
しばらく、二人とも黙っていた。
すると、文箱の蓋が少しだけ動いた。
「……竹千代」
かぐやが顔を出した。
「入っていい?」
俺は思わず苦笑した。
「もう出てるじゃないか」
「あっ、ほんとだ!」
かぐやは身体を揺らした。
いつもなら、そのまま何か騒ぎ始めるところである。
だが、今日は少し違った。
「……竹千代、元気ないね」
「そうかな」
「うん」
かぐやは文箱から出て、俺の方へ近づいてきた。
「誰か、亡くなったの?」
俺は少し驚いた。
「……分かるのか」
「だって、さっき瀬名ちゃんと話してたじゃん」
……そりゃそうか。
俺は笑いかけたが、うまく笑えなかった。
「忠次っていう、昔から一緒にいた家臣がね」
「ああ、忠次!」
かぐやが身体を起こした。
「あの、竹千代がよく名前呼んでた人?」
「そうそう」
「そっかぁ……」
かぐやは、しばらく黙っていた。
俺が人質だった頃から、忠次は徳川の家を支えてくれた。だから、かぐやも名前だけは何度も聞いている。
ただし、本人と顔を合わせたことはない。
かぐやの秘密を知っている者は、今でもごく限られている。
「……竹千代」
「何?」
「寂しい?」
俺は少し考えた。
「……寂しいよ」
口にしてみると、思ったより簡単だった。
かぐやは頷いた。
「そっか」
それから、俺の手へそっと身体を寄せた。
「じゃあ、今日は一緒にいようよ」
俺は小さな友人を見た。
「……いいのか?」
「もちろん!」
「貝殻を並べるのは?」
「明日!」
「お菓子は?」
「……それは食べたい!」
瀬名が笑った。
俺も、ようやく笑うことができた。
「分かった。じゃあ、少しだけ持ってこよう」
「やった!」
かぐやが嬉しそうに身体を揺らした。
忠次が亡くなったことは変わらない。
明日になれば、また山ほど仕事がある。
それでも、今夜くらいは。
……少し、ゆっくりしてもいいだろう。
◇
慶長三年、夏。
江戸へ移ってから、八年が経った。
町は以前より随分と賑やかになった。屋敷も店も増え、港へ出入りする船も多くなっている。もっとも、川が増水すれば相変わらず人足を集めて土を運ばなければならず、大雨の翌日には奉行が青い顔で報告に来る。
江戸という町は、どうも水との付き合いが難しい。
俺の知っている東京には、地下鉄だの高速道路だのがあった。
しかし、今の俺には、目の前の川一本をどう扱うかさえ簡単には決められない。
現代知識というものも、いざ使おうとすると案外頼りにならないものである。
「父上」
向かいに座っていた信康が、帳面を差し出した。
「こちらの村から、再び訴えが出ております」
「……またか」
俺は帳面を受け取った。
新しい水路を掘るために、一部の田畑を使った村である。
代わりの土地は与えていたのだが、そちらは元の田より水の便が悪いらしい。
「奉行は何と言っている?」
「土地は与えたのだから、年貢については以前の取り決めを守るべきだと」
「お前はどう思う?」
「実際に収穫が減るのであれば、改める必要があるかと」
俺は頷いた。
「そうだな」
「ただ、奉行は一度決めた年貢を容易に変えるべきではないと申しております」
「まあ、その言い分も分かる」
俺は帳面を置いた。
「だが、代わりの田を与えたから問題なしというわけにもいかんだろう。水の便が違えば、収穫も変わる」
「はい」
「ならば、実際の収穫を確かめてから決めよう。村の者にも、奉行にも話を聞いて――」
「父上」
「ん?」
信康が、少しだけ笑った。
「そこから先は、私にお任せいただけませぬか」
俺は口を閉じた。
……またやってしまった。
「……そうだな。任せる」
「ありがとうございます」
信康は帳面をまとめ、立ち上がった。
以前なら、あいつが奉行と揉めるのではないかと心配していただろう。
だが、今は違う。
信康も、もう三十代後半である。
関東へ移ってからは、領内の普請や物資の管理にも携わり、家臣たちからの信頼も少しずつ取り戻していた。
最近では、俺が不在でも相当な仕事を任せられる。
親としては、喜ばしいことだった。
しかし。
「……数正」
信康が退いた後、俺は傍らの数正へ声をかけた。
「家中では、信康のことをどう見ている?」
数正は、少し考えてから答えた。
「政務をよくお務めになると、評判にございます」
「そうか」
「ただ……」
「ただ?」
「嫡男としてのお立場については、未だ意見が分かれております」
俺は腕を組んだ。
……やっぱりか。
信康は生きている。
本来なら、俺の跡を継ぐ立場にあった。
しかし、かつて信長との一件が起きた際、俺はあいつを岡崎から退かせ、嫡男としての立場を停止させた。
その後も処分を解いていない。
一方、秀忠も成人し、今では多くの家臣が後継者の候補として見ている。
誰を継がせるか。
いつ決めるか。
その問題を、俺は何年も先送りにしてきた。
「……数正」
「はっ」
「近いうちに、二人と話さねばならんな」
「……家督のことにございますか」
「ああ」
俺は信康が置いていった帳面を見た。
忠次が生きていれば、何と言うだろう。
信康の働きを見て喜んでくれただろうか。
それとも、いつまでも決めない俺を叱っただろうか。
……きっと両方だな。
俺は小さく息を吐いた。
◇
その日の午後。
瀬名が、少し珍しいものを持ってきた。
小さな包みである。
「殿。伏見から届きました」
「伏見?」
「はい。淀殿からにございます」
俺は顔を上げた。
「……茶々殿からか」
「ええ」
瀬名は包みを開いた。
中には菓子が収められていた。
そして、短い書状が添えられている。
淀殿から瀬名への挨拶と、季節のこと。
その末尾に、少し変わった一文があった。
『以前、お目にかかった小さなお連れ様にも、お健やかにとお伝えくださいませ』
……ああ。
なるほど。
俺は思わず笑ってしまった。
「まだ覚えておられるのだな」
「ええ。時折、このようにお心遣いをいただいております」
瀬名も笑った。
文禄三年の春。
かぐやは大坂城で、茶々と出会った。
あのときは本当に肝を冷やした。
まさか豊臣家の奥向きで、かぐやの秘密が知られるとは思わなかったのである。
だが、茶々は約束を守ってくれた。
あれから四年。
かぐやのことが城内で噂になったという話は、一度も聞いていない。
「……かぐやは?」
「先ほどまで、貝殻を眺めておられましたが」
「呼んでやろう。喜ぶだろうしな」
瀬名が文箱の方へ声をかけた。
「かぐや殿。淀殿からお菓子が届きましたよ」
途端に、蓋が持ち上がった。
「茶々から!?」
かぐやが飛び出すように顔を出した。
「本当!?」
「ええ」
「やったー!」
俺は思わず笑った。
「……お前、よく聞こえたな」
「だって茶々でしょ!」
かぐやは菓子を見て、嬉しそうに身体を揺らした。
「これ、あのとき食べたのと似てる!」
「そうなのか?」
「うん! すっごくおいしかったやつ!」
瀬名が小皿へ取り分けてやると、かぐやは早速食べ始めた。
「おいしー!」
本当に幸せそうな声だった。
俺は瀬名と顔を見合わせた。
……まったく。
かぐやは、昔からこうだ。
駿府にいた頃も、岡崎へ戻った頃も、浜松へ移った頃も。
どれだけ年月が経っても、何かを見つけては楽しそうにしている。
「ねえ、竹千代!」
「何?」
「茶々に会いに行かないの?」
「……伏見にか?」
「うん!」
俺は少し考えた。
「今のところ、すぐに上る用事はないな」
「えー!」
「そう言われてもなあ」
かぐやは不満そうに身体を揺らした。
「じゃあ、次に行くときは私も連れてって!」
「……分かった、分かった」
「約束だよ!」
「はいはい」
瀬名が笑った。
俺も笑った。
茶々とかぐやは、あれから幾度か短い時間を共に過ごしている。
ただし、頻繁に会えるわけではない。
身分も、住む場所も違う。
何より、かぐやの存在を秘密にしておかなければならない。
それでも、茶々はこうして折々に気遣ってくれる。
かぐやも、茶々のことをよく覚えている。
……不思議な縁だな。
俺は菓子を一つ口へ運んだ。
なかなかうまかった。
◇
その数日後。
伏見から、急ぎの使者がやってきた。
「殿。太閤殿下のご容体が、いよいよ芳しくないとのことにございます」
俺は顔を上げた。
「……そうか」
豊臣秀吉。
天下を統一した男である。
近頃は病がちになっているという話を聞いていたが、どうやら想像していた以上に悪いらしい。
朝鮮への出兵も続いている。
諸大名たちは長い戦に疲れ、各地には不満も溜まっていた。
そして、豊臣家には幼い後継者がいる。
秀頼。
茶々が産んだ子供だ。
秀吉が死ねば、あの子が豊臣家を継ぐことになる。
……来たか。
前世の記憶では、この後に秀吉が死ぬ。
それから天下が揺れ、最後には関ヶ原の戦いが起きる。
ただし、そこへ至る細かな経緯まで覚えているわけではない。
しかも、今の歴史はすでに随分と変わってしまった。
信康は生きている。
瀬名も生きている。
数正も、今なお俺の傍にいる。
忠次については、結局、史実に近い時期に亡くなってしまった。
誰が生き残り、誰が死ぬのか。
どこまで歴史が変わるのか。
そんなこと、俺にも分からない。
「……数正」
「はっ」
「伏見へ上ろう」
「承知いたしました」
「江戸の留守は、信康と秀忠に任せる。二人を呼んでくれ」
数正が頭を下げた。
俺は、もう一度書状を見た。
秀吉の容体。
豊臣家の後継。
そして、これからの天下。
考えなければならないことは多かった。
◇
出立の前夜。
俺は書付をまとめながら、深く息を吐いた。
「……やれやれ」
「竹千代ー!」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、かぐやが文箱から身体を乗り出している。
「今度こそ伏見に行くんでしょ!」
「……耳が早いな」
「やっぱり!」
かぐやは嬉しそうだった。
「茶々に会えるかな!」
「……どうだろうな」
「えー!」
「向こうにも都合があるだろうし」
「じゃあ、会えるか聞いてみようよ!」
……簡単に言うなあ。
俺は苦笑した。
だが、考えてみれば悪い話ではない。
瀬名が伏見へ同行するなら、茶々へ挨拶する機会もあるだろう。
かぐやのことは、茶々も承知している。
あの人は、今まで秘密を守ってくれた。
「……そうだな」
俺は答えた。
「瀬名に相談してみよう」
「本当!?」
「ああ。ただし、約束は守ること。人前では勝手に喋らない」
「分かってるって!」
……何回聞いたかな、この返事。
俺は笑った。
すると、かぐやが少しだけ首を傾けるように身体を揺らした。
「ねえ、竹千代」
「何?」
「今度は長くいるの?」
「伏見にか?」
「うん!」
俺は少し考えた。
「……分からないな」
秀吉の容体次第では、長く滞在することになるだろう。
それに、これから先は簡単に江戸へ帰れないかもしれない。
「……仕事が増えそうだからね」
「そっかぁ」
かぐやは少し考えた。
それから、何かを思いついたように声を上げた。
「じゃあ、貝殻も持っていこう!」
「……何で?」
「茶々に見せるの!」
俺は思わず笑った。
「そうか」
「うん! 江戸で拾ったやつ!」
かぐやは嬉しそうに、文箱の底をごそごそと探り始めた。
俺はその様子を眺めながら、筆を置いた。
明日から、また忙しくなる。
秀吉と会えば、難しい話をすることになるだろう。
諸大名たちとも、今後のことを相談しなければならない。
一方、かぐやは茶々に見せる貝殻を選んでいる。
俺は、思わず小さく笑った。
……まあ、こういうのも悪くないか。
◇
数日後。
伏見城。
久しぶりに訪れた城は、以前にも増して警備が厳しくなっていた。
廊下には多くの家臣が控え、侍女たちも慌ただしく行き来している。
秀吉の病状が悪いという話は、どうやら本当らしい。
「徳川殿」
俺を迎えたのは、石田三成だった。
「遠路、ご苦労にございます」
「治部少輔殿。殿下のご容体はいかがにございますか」
三成は、少しだけ顔を伏せた。
「……芳しくございませぬ」
「そうですか」
「お目通りは、明日になるかと」
「承知いたしました」
俺は頷いた。
三成は、いつもどおり丁寧だった。
しかし、顔には疲れが見える。
秀吉の病。
朝鮮からの撤兵。
豊臣家の後継。
どれも、簡単に片づく話ではない。
今の三成は、そのすべてに関わっているのだろう。
……本当に、大変な役目だな。
俺は三成と今後の予定を確認し、用意された部屋へ向かった。
その頃。
伏見城の奥向きでは、もう一つの再会が始まろうとしていた。
◇
「瀬名殿。ようお越しくださいました」
茶々は、久しぶりに訪ねてきた瀬名を迎えた。
「淀殿。ご無沙汰いたしております」
二人は挨拶を交わした。
茶々は、少しやつれて見えた。
秀吉の病が重くなり、身の回りも慌ただしくなっている。幼い秀頼のこともある。落ち着いて過ごせる時間は、以前より少なくなっていた。
瀬名は、そうした事情に触れすぎないよう気をつけながら、江戸の様子を話した。
茶々も、時折笑みを見せて耳を傾けた。
やがて、茶々が小さく声を落とした。
「……ところで、瀬名殿」
「はい」
「今日は、あのお方もご一緒でしょうか」
瀬名は、一瞬だけ目を瞬いた。
そして、静かに微笑んだ。
「ええ」
「……そうですか」
茶々の表情が、少し明るくなった。
瀬名は、傍らへ置いていた小さな文箱に手を伸ばした。
茶々は人払いを命じ、侍女たちが下がったのを確かめる。
それから、瀬名がそっと蓋を開いた。
「……かぐや殿」
「はーい!」
中から、元気な声が飛び出した。
「茶々ー!」
「まあ!」
茶々は、思わず笑った。
「お久しゅうございます、かぐや」
「久しぶりー!」
かぐやは、嬉しそうに身体を揺らしていた。
「ねえねえ、見て! 江戸で拾った貝殻、持ってきたんだ!」
茶々は目を細めた。
「まあ。それは楽しみですね」
「いっぱいあるよ!」
かぐやが文箱の中を探り始める。
茶々は、その様子を眺めながら、久しぶりに肩の力が抜けるのを感じた。
以前、大坂城で初めて会ったときと、何も変わっていない。
あれから四年。
自分の周囲では、実に多くのことが変わった。
秀頼は成長した。
秀吉は病に倒れた。
豊臣家の将来についても、考えなければならないことが増えた。
しかし、目の前のかぐやは相変わらずだった。
「……茶々?」
かぐやが顔を上げた。
「どうしたの?」
「いいえ」
茶々は微笑んだ。
「そなたは、相変わらず元気ですね」
「もちろん!」
かぐやは得意げだった。
「だって、茶々に会えたもん!」
茶々は、少し驚いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうですか」
かぐやは、そのまま貝殻を並べ始めた。
白いもの。
薄桃色のもの。
少し欠けたもの。
どれも小さく、珍しい品というほどでもない。
けれど、かぐやは一つずつ嬉しそうに説明してくれた。
茶々も、いつの間にか身を乗り出していた。
その日の午後、奥向きの小座敷では、久しぶりに楽しげな笑い声が響いていた。
一方、城の別の場所では、徳川家康が豊臣秀吉との対面を待っていた。
それぞれの再会が、この先どのような意味を持つことになるのか。
このときは、まだ誰も知らなかった。
◇
翌朝、秀吉との対面が許された。
案内された部屋には、薬の匂いが漂っていた。
襖の向こうから咳が聞こえ、しばらくして小姓が姿を現した。俺が入ると、秀吉は布団に身体を預けたまま、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。
「……おお、家康殿か」
声が、以前とはまるで違っていた。
痩せた。
そう思った。
昨年会ったときにも顔色はよくなかったが、今は頬が落ち、首筋の骨まで浮いて見える。かつて諸大名を前に大声で笑い、誰よりもよく喋っていた男が、わずかに身体を起こすだけで息を乱していた。
俺は膝をつき、深く頭を下げた。
「お召しにより、参上いたしました」
「うむ。……遠かったであろう」
「江戸からの道にも、随分と慣れました」
「はは……そうか。あの湿地ばかりの土地も、住み慣れれば都か」
「まだ都と呼ぶには、少々見苦しいところがございます」
「家康殿がそう申すなら、よほどであろうな」
秀吉は笑った。
しかし、すぐに咳き込んだ。傍らの小姓が慌てて水を差し出す。
俺は口を閉じた。
何か気の利いた言葉をかけようにも、こういうときは何を言えばいいのか分からない。大丈夫ですか、と尋ねたところで大丈夫なはずもなく、どうか養生をと勧めても、本人はとうに耳にたこができるほど聞かされているだろう。
しばらくして、秀吉が小姓を下がらせた。
「……家康殿。今日は、お主に頼みがあってな」
「何なりと、お申しつけください」
そう答えると、秀吉は少し笑った。
「何なりと、か。……それでは、儂の代わりにもう十年ほど生きてもらおうかの」
「それは、私にも少々難しゅうございます」
「そうであろうな」
秀吉は、今度は静かに笑った。
やがて、笑みが消えた。
「秀頼のことじゃ」
俺は姿勢を正した。
「まだ幼い。儂が死ねば、あれを支える者がおらねばならぬ。利家にも頼んでおる。奉行衆にも、諸大名にもな」
「承知しております」
「じゃが、あれほどの天下を幼子一人に背負わせれば、どうなるか。儂とて分からぬ」
秀吉は、布団の上で指を動かした。
「……家康殿。お主には、関東を預けた」
「はっ」
「大きな土地よ。兵も養えよう。儂が死ねば、天下でお主に逆らえる者は、そう多くあるまい」
返事ができなかった。
病床にあってなお、この男はよく見ている。
俺が持つ力を。
徳川が、この十年ほどで手に入れたものを。
「儂はな、家康殿」
秀吉が続けた。
「お主を恐ろしいと思ったことが、幾度もある」
「……恐れ入ります」
「小牧で戦ったときも、関東へ移ってもらったときもじゃ。お主は、容易には崩れぬ。負ければ立て直し、勝っても浮かれぬ。……それが厄介でな」
俺は黙って聞いていた。
秀吉は、細い目でこちらを見た。
「じゃが、だからこそ頼みたい」
長い沈黙があった。
「……秀頼を、頼む」
俺は畳に両手をついた。
「秀頼様が豊臣家を継がれることに、異存はございませぬ」
「うむ」
「天下の政務についても、ほかの大老や奉行衆と相談し、できる限りお支えいたします」
秀吉は、俺を見つめたまま動かなかった。
そして、ふっと口元を緩めた。
「……できる限り、か」
俺の背筋に、少し冷たいものが走った。
「……はっ」
「よい。お主らしい返事じゃ」
秀吉は目を閉じた。
「徳川にも、家がある。妻も、子も、家臣もおろう。儂の息子のために、すべて捨てよとは言えぬわな」
……本当に、嫌なほど分かっている。
「じゃが、家康殿」
「はっ」
「どうか、秀頼には……」
言葉が途切れた。
秀吉はしばらく息を整え、それから続けた。
「……あれには、まだ何の罪もない」
俺は顔を上げた。
父親の顔だった。
関白でも、太閤でもない。
自分が死んだ後に残される息子を案じる、一人の父親だった。
信康のことが、頭をよぎった。
俺もかつて、息子を失いかけた。
あのとき、家臣たちが動いてくれなければ、今の信康はここにいない。瀬名だって同じだ。
人の親として、その恐ろしさは分かるつもりだった。
「……殿下」
俺は、もう一度頭を下げた。
「秀頼様のお命を、軽んじるようなことはいたしませぬ」
秀吉は、ゆっくりと頷いた。
「……頼んだぞ」
「はっ」
しばらくして、秀吉が手を伸ばした。
俺はその手を取った。
熱かった。
そして、驚くほど細かった。
◇
部屋を出た後、俺は廊下で足を止めた。
できる限りのことをする。
秀頼の命を軽んじない。
自分が口にした言葉を、頭の中で繰り返した。
俺は嘘をついたつもりはない。
ただ、秀吉が本当に望んでいるのは、そんなことではないだろう。
秀頼が豊臣家を継ぎ、秀吉の築いた天下を受け継ぐこと。
それを俺たちに支えてほしいのだ。
……分かっている。
分かってはいるが、それが十年後、二十年後も成り立つかどうかは、俺にも分からなかった。
徳川には、関東の領地がある。
何十年も苦労を共にしてきた家臣たちがいる。
息子たちの将来も考えなければならない。
そのすべてを守りながら、豊臣家も支える。
言葉にすれば簡単だ。
実際にやるとなれば、そうはいかない。
「……殿」
待っていた数正が近づいてきた。
「お目通りは、いかがにございましたか」
俺は、少し考えてから答えた。
「……秀頼様のことを頼まれた」
数正は静かに頷いた。
「さようにございますか」
「ああ」
「殿は、何と?」
「できる限りお支えすると申し上げた」
数正は俺を見た。
それから、何も言わずに頭を下げた。
長い付き合いである。
今の返事で、あいつが何を考えたのか。俺には何となく分かった。
だから、こちらから尋ねることもしなかった。
◇
その日の夕刻、秀頼に会った。
母親の茶々に付き添われ、小さな少年が座っていた。
豊臣秀頼。
まだ五歳ほどである。
家臣から教わっているのだろう。背筋を伸ばし、こちらが頭を下げると、少し遅れて会釈を返した。
「家康」
「はっ」
「父上から、そなたのことを聞いておる」
「それは、光栄にございます」
「戦が強いそうだな」
……おっと。
茶々が、ほんの少し口元を緩めた。
「恐れ入ります」
「父上とも戦ったことがあるのか」
「……ございます」
「どちらが勝ったのだ?」
なかなか厳しい質問だった。
俺は咳払いをした。
「戦場では私どもが勝ったこともございましたが、最後には和睦いたしました」
秀頼は首を傾げた。
「では、仲直りしたのか」
「はい」
「そうか」
それで納得したらしい。
俺は内心で胸を撫で下ろした。
子供というものは、時々、大人が一番答えに困ることを何気なく尋ねてくる。
信康も、亀も、昔はそうだった。
「……家康」
秀頼が、今度は少し声を落とした。
「父上は、よくなるのか」
俺は言葉に詰まった。
茶々が、静かに息子の肩へ手を置いた。
秀頼は、俺の顔を見つめている。
「……私にも、分かりませぬ」
結局、そう答えるほかなかった。
秀頼は俯いた。
「そうか」
その姿を見て、胸の奥が少し痛んだ。
天下人の子供だからといって、父親を失う悲しみまで小さくなるわけではない。
俺は、改めて頭を下げた。
「秀頼様。何かお困りのことがあれば、お知らせくださいませ。私にできることであれば、力を尽くします」
秀頼が顔を上げた。
「……家康に言えばよいのか」
「はい」
少年は、しばらく俺を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「分かった」
俺も頭を下げた。
そのとき、茶々と目が合った。
茶々は穏やかな顔をしていたが、何を考えているのかまでは分からなかった。
俺はもう一度礼を述べ、部屋を退出した。
◇
茶々のもとを辞した後も、秀頼の顔が頭から離れなかった。
とはいえ、いつまでも考え込んでいるわけにはいかない。
秀吉の病状が悪い以上、政務の引き継ぎを急がなければならなかった。大老と奉行衆の間で書状を交わし、朝鮮にいる諸将の帰還についても検討する。西国の大名たちは長く兵を出しており、海の向こうでどれほどの損害が出ているのか、正確な報告さえ揃っていなかった。
大軍を海から引き揚げるのは、出兵するのと同じくらい難しい。
船が足りなければ兵は帰れない。兵糧が途絶えれば、帰る前に飢える。しかも相手が黙って見送ってくれる保証もない。戦を始めた理由については、俺には今もよく分からないところがあるが、終わらせる以上は最後まで責任を持たなければならないだろう。
そんな話を数正としていると、三成が書状を抱えてやってきた。
「徳川殿。朝鮮の件にございますが」
「……ああ、ちょうどよかった」
俺は座る場所を示した。
「船の手配について、こちらでも考えていたところだ」
三成は少し驚いたようだったが、すぐに持参した書状を広げた。
それから、しばらく三人で話し合った。
驚くほど話が進んだ。
意見の違いがなかったわけではない。輸送の順番や港の使い方については何度も議論になったし、どの大名に何を負担させるかでも考えが分かれた。しかし、少なくとも兵を無事に帰すという目的は同じだった。
「……では、こちらは奉行衆で詰めていただきたい」
俺が言うと、三成は頷いた。
「承知いたしました。徳川殿にも、必要に応じてご相談申し上げます」
「頼む。関東からも手を貸せることがあれば、知らせてくれ」
三成は頭を下げた。
相変わらず細かい男だ。
だが、これほどの仕事を任せる相手としては、実に頼もしい。
……この人と、いずれ戦うかもしれないのか。
ふと、そんなことを考えた。
もちろん、まだ何も決まっていない。
俺の知っている歴史とは、すでにいろいろなことが違っている。
何より、今ここで三成と対立する理由はなかった。
「……治部少輔殿」
帰りかけた三成を呼び止めた。
「何でございましょう」
「殿下のご病状については、さぞご心配であろう」
三成の表情が、少し強張った。
「……はい」
「ご自身も、身体を壊されぬようにな」
三成は目を瞬いた。
それから、深く頭を下げた。
「……お気遣い、痛み入ります」
その声には、ひどく疲れた響きがあった。
◇
その頃、茶々の部屋では、かぐやが持参した貝殻を一つずつ並べていた。
瀬名は、茶々の勧めで少し離れた場所に座っている。
人払いは済ませてあった。
「これはね、瀬名ちゃんと一緒に選んだやつ!」
かぐやが示したのは、薄桃色の小さな貝殻だった。
「まあ。きれいですね」
「でしょ! これ、茶々にあげる!」
茶々は少し驚いた。
「私に?」
「うん!」
「……よろしいのですか。大切にしていたのでしょう?」
「大切だからあげるんだよ!」
かぐやは、何でもないことのように言った。
茶々は貝殻を手に取った。
小さく、軽い。
磨き上げられた宝物ではない。海辺へ行けば、ほかにも似たものを見つけられるかもしれない。
それでも、かぐやはこれを江戸から大事に運んできたのだ。
「……ありがとうございます」
茶々が言うと、かぐやは嬉しそうに笑った。
「ねえ、茶々。今度は何して遊ぶ?」
「そうですね……」
茶々は庭へ目を向けた。
花が咲いている。
以前、大坂城で会ったときにも、二人で庭の花を眺めた。
「お庭へ出たいところですが、今日は少し日差しが強いですね」
「じゃあ、涼しくなってから!」
「ええ。そうしましょう」
かぐやは満足そうに頷いた。
それから、茶々の顔をじっと見た。
「……茶々、眠い?」
「……どうしてです?」
「ちょっと疲れてるみたい」
茶々は、思わず頬に手を当てた。
「そんな顔をしておりますか」
「うん」
かぐやは少し考えた。
「じゃあ、今日は貝殻見るだけにしよっか」
「……構わないのですか」
「また遊べるじゃん!」
茶々は返事をしなかった。
また遊べる。
その言葉が、今はひどく羨ましかった。
自分も、以前はそう思っていた。
人と別れても、次がある。
離れ離れになっても、また会える。
だが、父にも母にも、もう会うことはできない。幼くして亡くした鶴松にも、二度と触れることはできない。
茶々は手の中の貝殻へ目を落とした。
「……かぐや」
「なーに?」
「そなたは、長いこと生きているのでしょう?」
かぐやが身体を揺らした。
「うん。すっごく長いよ!」
「……大切な人と、お別れしたことも?」
「あるよ」
あまりにもあっさりとした答えだった。
茶々は顔を上げた。
「……寂しくは、ありませんでしたか」
「寂しかったよ」
かぐやは、今度は少しも笑わなかった。
「すっごく寂しかった。今も会いたい人、いるもん」
茶々は黙った。
「……そうなのですか」
「うん!」
かぐやは、少しだけ身体を起こした。
「でも、茶々にも会えたし、竹千代もいるし、瀬名ちゃんもいるでしょ。楽しいこともいっぱいあるよ!」
茶々は目を伏せた。
悲しくなくなったわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、それでも今を楽しむことはできる。
かぐやが言っているのは、そういうことなのだろうか。
……いや。
きっと、そんなに難しいことを言ったつもりはないのだろう。
目の前の小さな友人は、今度は庭に飛んできた蝶を見つけ、そちらへ興味を移していた。
茶々は、思わず笑った。
「……かぐや」
「ん?」
「涼しくなったら、本当に庭へ出ましょう」
「やった!」
かぐやが元気よく返事をした。
茶々は、薄桃色の貝殻を袖の中へしまった。
◇
慶長三年、八月十八日。
豊臣秀吉が亡くなった。
その知らせを聞いたとき、俺はしばらく何も言えなかった。
覚悟していたことではある。
病状も見ていた。
前世の記憶にも、秀吉の死はあった。
それでも、本人から秀頼を託されて間もないこともあり、実感が追いつかなかった。
「……数正」
「はっ」
「まずは、朝鮮にいる諸将のことだ」
数正が頷いた。
秀吉の死を、すぐに広く知らせるわけにはいかない。
海の向こうには、まだ多くの兵がいる。
こちらの政権が混乱していると知られれば、撤退にも支障が出るかもしれなかった。
大老と奉行衆は協議し、しばらく秀吉の死を伏せたまま、兵の帰還を進めることになった。
実際、諸将に送られる書状には、秀吉の病が快方に向かっているかのような文言まで使われた。
……ひどい話だと思うかもしれない。
だが、ここで何万もの兵を危険に晒すよりは、まだましだった。
俺も、その判断に同意した。
◇
秀吉が亡くなってから、茶々はしばらく人と会うことを控えていた。
瀬名も、無理に訪ねるつもりはなかった。
だが、数日後、茶々の方から短い知らせが届いた。
静かに話のできる時間があるなら、会いたいという。
瀬名が返事をした。
そして、かぐやも一緒に連れていくことになった。
「茶々!」
文箱の蓋が開くと、かぐやが顔を出した。
茶々は座ったまま、ゆっくりと笑った。
「……かぐや」
「久しぶり!」
「ええ」
かぐやは、いつものように貝殻を持ってきていた。
ただ、茶々はすぐにはそれを見る気になれなかった。
かぐやも、少し話した後でそのことに気づいたらしい。
「……茶々」
「何でしょう」
「今日は、あんまり元気ない?」
茶々は、しばらく黙っていた。
瀬名が心配そうに見守っている。
「……そうですね」
茶々は答えた。
「少し、悲しいことがありました」
「そっか」
かぐやは、茶々の手元へ近づいた。
「じゃあ、今日は一緒にいようよ」
茶々は目を瞬いた。
「……それだけですか?」
「えっ?」
「何か、聞かないのですか」
かぐやは少し考えた。
「話したい?」
茶々は答えられなかった。
「話したかったら聞くよ!」
かぐやは続けた。
「でも、話したくないなら、別のことしよ!」
茶々は、思わず口元を押さえた。
笑ったつもりだった。
しかし、目の奥が熱くなった。
「……かぐや」
「なーに?」
「少しだけ、そばにいてください」
「うん!」
かぐやは元気よく答えた。
そして、しばらく何も言わなかった。
茶々も、それ以上は話さなかった。
瀬名は二人の様子を見ながら、黙って茶を飲んでいた。
部屋の外では、侍女たちが忙しなく行き来している。
豊臣家の将来を巡り、多くの人間が動き始めていた。
だが、その部屋では、誰も政治の話をしなかった。
◇
秀吉の死後、天下を治める仕事は五大老と五奉行に委ねられた。
徳川家康。
前田利家。
毛利輝元。
宇喜多秀家。
上杉景勝。
これが五大老。
そして、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以が奉行衆として政務を担う。
なるほど、こうして名前を並べれば立派なものだ。
だが、実際に働き始めると、すぐに問題が見えてきた。
全員、秀頼を支えることには同意している。
しかし、そのために何をするべきかとなると、意見が分かれるのである。
大名同士の争いをどう裁くか。
秀吉が決めた法度を、どこまで厳格に守らせるか。
朝鮮から戻った軍勢の処遇をどうするか。
何かを決めるたびに、何人もの人間が顔を合わせなければならなかった。
「……数正」
「はっ」
「秀吉殿は、よく一人でこれだけ決めていたな」
俺が言うと、数正は少し笑った。
「殿下にも、多くの方が仕えておられましたゆえ」
「それは分かってるんだが」
俺は机に積まれた書状を見た。
一枚を読んで返事を書けば、別の一枚が届く。
何かを認めれば別の者が不満を訴え、訴えを聞けば最初の決定を見直すことになる。
天下統一というのは、戦をなくすことだと思っていた。
どうやら、戦の代わりに書状が増えることでもあるらしい。
……誰もそんなことは教えてくれなかったぞ。
◇
問題の一つが、大名同士の縁組だった。
「徳川殿。伊達家との話について、お尋ねしたきことがございます」
三成は、いつものように書状を持ってやってきた。
俺は筆を置いた。
「聞こう」
「太閤殿下は、諸大名が勝手に婚姻を取り決めることを禁じておられました」
「承知しておる」
「では、なぜ伊達家と縁組の相談を進めておられるのです」
三成の声は静かだった。
静かなだけに、余計に厄介だった。
「まだ決めたわけではない。先方から話があったので、条件を聞いておるところだ」
「先方は、徳川殿に縁組の意思があると受け取るでしょう」
「……そうかもしれぬな」
「徳川殿がなされば、ほかの諸大名も倣います。そのとき、太閤殿下の法度はどうなりまするか」
俺は三成を見た。
言っていることは正しい。
少なくとも、筋は通っている。
だからこそ、腹立たしい。
いや、別に三成に腹を立てているわけではないのだが、正しいことを正しい順番で並べられると、こちらの言い訳が苦しくなるのである。
「治部少輔殿。俺が勝手に縁組を決めれば、問題になろう。だからこそ、ほかの大老にも話をしておる」
「話をすることと、許しを得ることは違います」
……はい。
そのとおりです。
もちろん、口には出さなかった。
「では、利家殿らも交えて話し合おう。治部少輔殿の考えも、そこで聞きたい」
三成は、しばらく俺を見ていた。
「……承知いたしました」
そう言って頭を下げる。
しかし、帰り際にもう一度こちらへ向き直った。
「徳川殿」
「何だ?」
「秀頼様は、まだ幼くあらせられます」
「ああ」
「今、我らが法度を軽んじれば、いずれ秀頼様がどのような命を下されても、諸大名は従わなくなりましょう」
俺は黙った。
三成は続けた。
「太閤殿下から託されたものを、お忘れなきよう」
それだけ言って、部屋を出ていった。
◇
「……随分と言われましたな」
数正が口を開いた。
俺は苦笑した。
「まあ、言っていることは分かる」
「ですが、殿にもお考えがございましょう」
「無論だ」
伊達との関係を強めれば、東国の守りは安定する。
婚姻によって争いを防げることもある。
何より、徳川だって自分の家のことを考えなければならない。
「……ただな、数正」
「はっ」
「三成殿の言い分が間違っているとも思わぬ」
俺は書状を手に取った。
「秀吉殿が亡くなった途端、俺が勝手に諸大名と縁組を結び始めたら、どう見える?」
数正は少し考えた。
「……徳川が、独自に勢力を広げようとしていると」
「そういうことだ」
そして、それは完全な誤解でもない。
俺は実際に徳川の力を強くしたいと思っている。
秀頼を守るためにも力は必要だが、その力が豊臣家のためにしか使われないとは、俺自身約束できない。
「……難しいですな」
数正が言った。
「本当にな」
俺は苦笑した。
「三成殿が俺を警戒する理由も分かる。だからといって、俺が何もせずにいればよいという話でもない」
数正は頷いた。
その日、俺は縁組の件について、改めてほかの大老へ書状を出すことにした。
ただし、話を進めること自体はやめなかった。
三成がそれを知れば、ますます機嫌を悪くするだろう。
……申し訳ないとは思うよ。
だが、譲れないところはある。
◇
慶長四年、春。
前田利家が亡くなった。
秀吉とは長い付き合いのある男であり、諸大名からの信頼も厚かった。
豊臣家にとっては、大きな損失だった。
俺にとっても、そうである。
利家がいれば、話の落としどころを探ることができた。
俺と三成の意見が食い違っても、利家が間に入ることで収まることがあった。
その利家が、もういない。
……忠次のときも思ったが、人は本当にあっけなくいなくなる。
そして、利家の死を待っていたかのように、豊臣家中の不満が噴き出した。
加藤清正。
福島正則。
黒田長政。
細川忠興。
そのほか、朝鮮で戦った諸将たちの一部が、三成を激しく恨んでいるという。
理由はいくつもあった。
軍功の扱い。
戦場から送った報告。
奉行衆の裁定。
長年の不満が積み重なっていた。
「……殿」
数正が報告してきた。
「清正殿らが、三成殿を襲う恐れがございます」
「……何をしているんだ、あの人たちは」
思わず本音が出た。
秀吉が亡くなってから、まだ一年も経っていない。
その間に今度は豊臣の家臣同士で斬り合うつもりなのか。
「……数正。まず清正殿たちへ使者を送れ。三成殿にも、身の安全を確かめるよう伝えたい」
「御意」
「それと、奉行衆にも知らせよ。家中の争いなのだから、俺一人で勝手に裁くわけにはいかぬ」
数正が頷いた。
「……殿は、三成殿をお助けになるので?」
俺は書付を置いた。
「死なれては困る」
「……」
「三成殿がいなくなれば、政務が滞る。あの人がどれだけ仕事を抱えておると思っているんだ」
数正は、少しだけ笑った。
俺は続けた。
「それに、私怨で奉行を討ってよいとなれば、天下の法度も何もあったものではないだろう」
三成は、俺を警戒している。
俺も、あの人の動きを警戒している。
しかし、それと殺してよいかどうかは別の話だ。
……まあ、今のうちに敵を一人減らせると考えることもできるんだろうが。
そんなことをして豊臣の政権が崩れれば、俺の責任も問われる。
何より、秀頼へどう説明するつもりだ。
父親の家臣たちが、勝手に争って殺し合いました。
俺は止められませんでした。
……冗談じゃない。
◇
結局、三成は奉行としての立場を退き、佐和山へ戻ることになった。
清正らにも、これ以上の争いを禁じた。
双方が納得したわけではない。
三成には三成の言い分があり、清正らにも譲れない思いがある。
俺は、どちらか一方が完全に正しいなどとは思っていなかった。
ただ、今の豊臣家が内輪揉めをしている余裕など、どこにもないことは確かだった。
「……治部少輔殿」
佐和山へ戻る前、三成と顔を合わせる機会があった。
三成は、ひどく疲れていた。
「徳川殿」
「此度は、大変であったな」
「……お恥ずかしい限りにございます」
「しばらく国で休まれるとよい」
三成は、少しだけ眉を動かした。
「……休むわけにはまいりませぬ」
「ほう」
「太閤殿下は、我らに秀頼様を託されました」
「……ああ」
「まだ、何も終わっておりませぬ」
俺は三成を見た。
その目は、まったく衰えていなかった。
身体は疲れていても、意志は折れていないらしい。
「……そうだな」
俺は頷いた。
「俺も、そう思う」
三成は深く頭を下げた。
それから、佐和山へ帰っていった。
俺は、その背中を見送った。
……本当に。
あの男とは、最後まで意見が合わないのかもしれないな。
◇
江戸へ戻ると、信康と秀忠が揃って出迎えてくれた。
「父上。お帰りなさいませ」
「ただいま。留守中、変わりはなかったか」
「大きな問題はございませぬ」
信康が答えた。
秀忠も頷く。
「兄上と相談し、普請も予定どおり進めております」
「それは結構だ」
俺は二人の顔を見た。
信康は、最近ますます父親に似てきた気がする。もっとも、その父親というのは俺のことなのだが、自分と似ているところを他人に見つけるのは、何となく気恥ずかしいものである。一方の秀忠は、慎重なところがある。何事もよく考えてから答えるし、信康ほど感情を表に出さない。
どちらも悪い男ではない。
そして、どちらも徳川を継ぐ資格のある男だった。
それが、今の俺を悩ませている。
「……父上」
信康が口を開いた。
「一つ、お尋ねしたきことがございます」
「何だ?」
「私の立場についてにございます」
……来たか。
秀忠が、わずかに顔を伏せた。
俺は二人を座らせた。
「聞こう」
信康は姿勢を正した。
「あれから二十年が経ちました。岡崎を退き、嫡男の立場を失ってから、私は父上のお申しつけに従ってまいりました」
「ああ」
「関東へ移ってからは政務も任せていただき、ありがたく思っております。ですが、私はいつまでこのままなのでございましょう」
信康の声は、落ち着いていた。
若い頃のように怒鳴ることも、苛立ちを隠さずに振る舞うこともない。
だからこそ、その言葉が重かった。
「父上は、私をお許しになったのでしょうか。それとも、今もなお、罪を償わせておられるのでしょうか」
俺は答えに詰まった。
信康を許す。
そんなことは、とっくの昔に済んでいるつもりだった。
だが、それを本人へきちんと伝えたことがあっただろうか。
仕事を与え、少しずつ権限を戻し、それで分かってくれると思っていなかったか。
「……信康」
「はい」
「俺は、お前を許しておる」
信康の表情が動いた。
「昔のことを、いつまでも責めるつもりはない。今のお前の働きも認めている」
「……では」
「だが、家督は別だ」
信康の顔が強張った。
俺は続けた。
「お前を嫡男の立場から退かせた後、秀忠を後継者と考えて動いてきた家臣たちもいる。今さら何もなかったことにはできぬ」
信康は黙った。
「それに、俺が一度処分を下した以上、元へ戻すなら家中へ説明する責任もある」
「……承知しております」
「お前のためだけに決めるわけにはいかぬ。秀忠のためだけにもな」
そこで秀忠が顔を上げた。
「父上」
「何だ?」
「私のことは、お気遣いなさらずとも」
……いや。
それは駄目だろう。
「秀忠。お前も徳川の一員だ。お前自身のことなのだから、遠慮して黙っておる必要はない」
秀忠は口を閉じた。
俺は二人を見た。
「次に大きな戦が起きれば、その後には必ず決める。それまで、二人とも今の仕事を続けてくれ」
信康は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
秀忠も続いた。
俺は二人を見送った。
……本当に、親というのは難しい。
息子を殺さずに済んだことを、昔は喜んでいた。
しかし、生きていれば、それで終わりではない。
その後の人生がある。
望みも、不満も、将来も。
俺は、いつの間にか大人になった二人の背中を思い出し、長く息を吐いた。
◇
慶長五年。
天下は、いよいよ落ち着かなくなっていた。
上杉景勝が会津で軍備を整えているという。
城を築き、道を直し、兵を集めている。
上杉方は、国の守りを固めているだけだと説明していた。
だが、会津は関東の北にある。
徳川の領地にとって、無関係ではない。
「……数正」
「はっ」
「景勝殿へ、改めて上洛を求める書状を出そう」
「承知いたしました」
「疑いを晴らしていただければ、それでよい。こちらも無用な戦は望まぬと伝えてくれ」
数正は頷いた。
しかし、返ってきた言葉は厳しかった。
上杉にも上杉の事情がある。
簡単に国を離れるわけにはいかない。
直江兼続の名で届いた返書には、そのような趣旨のことが記されていた。
俺は書状を読み、しばらく考えた。
……強気だな。
上杉が本当に戦を望んでいるのかは分からない。
だが、こちらの要求を退けたことは確かである。
「……会津へ兵を進める」
俺が言うと、数正が顔を上げた。
「よろしいので?」
「ああ。ただし、徳川だけで動くわけにはいかぬ。ほかの大老や奉行衆とも相談する」
「……豊臣家の命として、でございますな」
「そうだ」
俺は頷いた。
「会津の問題を放っておけば、諸大名の間にも不安が広がる。俺たちが何もしなければ、今度は豊臣の政務が軽んじられるだろう」
数正は静かに頷いた。
だが、俺の考えはそれだけではなかった。
会津の上杉が徳川に敵対するなら、関東の背後が脅かされる。
その危険を取り除きたい。
そして、豊臣家の政務を担う立場として軍勢を動かせば、諸大名との関係も確かめられる。
……俺に都合のよい話でもある。
そこを否定するつもりはなかった。
◇
出陣の前に、伏見城を鳥居元忠へ預けた。
元忠は、幼い頃から俺を支えてくれた家臣の一人である。
「……元忠」
「はっ」
「この城を頼む」
元忠は深く頭を下げた。
「お任せくだされ」
俺は絵図を指した。
「上杉へ兵を進めている間、西で何か動きがあるかもしれぬ。伏見は重要な城だが、敵の大軍に囲まれれば守りきれぬこともあろう」
「承知しております」
「そのときは、無理に城と運命を共にするな」
元忠が顔を上げた。
「……殿」
「撤退できる道を、あらかじめ確かめておけ。敵の数も分からぬうちに、討死する覚悟など決めるなよ」
元忠は、しばらく黙っていた。
それから、静かに笑った。
「殿は、随分とお優しくなられましたな」
「……何だと?」
「昔であれば、城を守り抜けと仰ったことでしょう」
俺は眉を寄せた。
「昔の俺は、そんなに無茶を言っていたか?」
「ははは!」
元忠は声を上げて笑った。
……否定してくれないのか。
俺も苦笑した。
しかし、笑っていられたのはそこまでだった。
「……元忠」
「はっ」
「忠次も、もうおらぬ」
元忠の表情が変わった。
「……はい」
「俺より先に死ぬ者を、これ以上増やしたくない」
しばらく沈黙が続いた。
元忠は、やがて深く頭を下げた。
「……ありがたきお言葉にございます」
それから、顔を上げた。
「ですが、殿。どうしても守らねばならぬ場所というものも、ございます」
俺は黙った。
元忠は続けた。
「伏見を失えば、敵は京を押さえ、天下に号令をかけることもできましょう。それを、易々と許すわけにはまいりませぬ」
「……分かっておる」
「ならば、私にお任せくだされ」
俺は元忠を見た。
忠次も、かつて似たような顔をしていた。
主君の命令を聞く顔ではない。
自分の役目を理解した武将の顔だ。
「……頼んだぞ」
結局、俺はそう言うしかなかった。
◇
七月。
下野国、小山。
会津へ向かっていた俺のもとへ、急報が届いた。
石田三成らが兵を挙げたという。
「……何?」
俺は書状を奪うように受け取った。
毛利輝元が大坂城へ入り、西国の諸将へ働きかけている。
宇喜多秀家も、こちらに敵対する動きを見せている。
そして、伏見城には敵勢が迫っているという。
「……元忠は?」
俺が尋ねると、使者は頭を下げた。
「城に籠もり、守りを固めております」
俺は目を閉じた。
……来たか。
前世の歴史で知っていた。
関ヶ原の前に、三成が挙兵する。
だが、その知識があっても、実際に知らせを聞けば身体が冷たくなる。
三成が動いた。
しかも、毛利や宇喜多まで加わっている。
大老のうち、すでに何人もの者が俺と敵対していることになる。
これは単に三成一人の反乱ではない。
豊臣政権そのものが、二つに割れ始めたのだ。
「……数正」
「はっ」
「諸将を集めよ」
俺は立ち上がった。
「会津へ進むか、西へ戻るか。今ここで決めねばならぬ」
◇
小山で開いた軍議には、多くの武将が集まった。
福島正則。
黒田長政。
細川忠興。
池田輝政。
山内一豊。
いずれも、豊臣家に仕えてきた者たちである。
俺が単に徳川の当主として命じただけでは、簡単には動いてくれないだろう。
「……皆に、聞いていただきたい」
俺は立ち上がった。
「大坂にて、石田治部少輔殿らが兵を挙げた。毛利輝元殿も、これに加わっておられる」
部屋が静かになった。
「このまま会津へ進めば、西を失う恐れがある。俺は軍を返し、西へ向かうべきと考えている」
福島正則が顔を上げた。
「……徳川殿」
「何だ?」
「我らの妻子は、大坂におります」
その声は重かった。
ほかにも、頷く者がいた。
俺は頷いた。
「承知しておる」
人質として大坂に家族を残している者もいる。
その者たちにとって、西へ戻るという判断は、家族の命を危険に晒すことにもなりかねなかった。
「……俺は、皆に無理強いをするつもりはない」
俺は続けた。
「西へ戻れば、豊臣の家臣同士で戦うことになる。何より、秀頼様の御前でそのような争いを起こすこと自体、俺も望んでおらぬ」
諸将は黙っていた。
「だが、治部少輔殿らが兵を挙げ、こちらへ向けるのであれば、迎え撃たねばならぬ。会津へ進んでいる間に西を押さえられれば、我らは帰る場所を失う」
俺は一人ずつ顔を見た。
「ここから先は、それぞれの家の行く末にも関わる。よく考えて決めていただきたい」
しばらく沈黙が続いた。
最初に立ち上がったのは、福島正則だった。
「徳川殿!」
「何だ」
「拙者は、西へ参ります!」
正則は顔を赤くしていた。
「石田治部の好き勝手にはさせませぬ!」
続いて、山内一豊が立ち上がった。
「拙者も、徳川殿にお従いいたします」
そして、自らの城を使ってほしいと申し出た。
ほかの諸将も、少しずつ態度を明らかにしていった。
全員が同じ理由で俺に従うわけではない。
三成を嫌う者もいる。
徳川との縁を重んじる者もいる。
自分の領地を守りたい者もいる。
だが、それで構わなかった。
俺だって、秀頼のためだけにここへ来ているわけではないのだから。
「……ありがたい」
俺は深く頭を下げた。
「では、西へ戻ろう」
諸将が頭を下げた。
俺は絵図へ目を落とした。
これで、ひとまず軍勢はまとまった。
しかし、本当に難しいのはここからだった。
◇
その夜、数正と二人になった。
「……殿」
「何だ?」
「三成殿らは、秀頼様のために兵を挙げたと申しております」
「……ああ」
俺は頷いた。
厄介なところだった。
三成も、秀頼を守ろうとしている。
俺も、秀吉から秀頼を託された。
そして今、双方が相手を豊臣家の秩序を乱す者として非難している。
「……数正」
「はっ」
「俺は、秀頼様に兵を向けるつもりはない」
「承知しております」
「だが、毛利や宇喜多がこちらへ兵を向けるなら、戦わねばならぬ」
数正は頷いた。
「……御意」
「三成殿を討つことになっても、それで豊臣家を滅ぼすつもりはない。大坂へも、できる限り兵を入れずに済ませたい」
俺は、そこで言葉を切った。
数正が待っている。
俺も自分の考えを確かめるように、続けた。
「……ただし」
「はい」
「この戦に勝てば、天下の形は変わる」
数正の表情が変わった。
「西軍の領地を取り上げ、味方した諸将へ与えることになる。そうなれば、徳川の力は今まで以上に大きくなるだろう」
「……はい」
「俺は、それを望んでおる」
口にしてみると、妙にすっきりした。
天下を治める力が欲しい。
徳川の家を、もっと強くしたい。
それは、否定しようのない本心だった。
「だが、秀頼様を守るという約束も、忘れておらぬ」
数正は黙っていた。
「……二つが両立せぬ日が来るかもしれぬな」
「そのときは、いかがなさいますか」
俺は、すぐには答えられなかった。
焚き火の音が聞こえる。
外では兵たちが見回りをしている。
「……そのとき、考える」
俺は答えた。
「今ここで立派なことを言っても、守れるかどうか分からぬ」
数正は静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は絵図を畳んだ。
まずは戦に勝たなければならない。
負けてしまえば、豊臣も徳川も、守るどころの話ではなくなる。
◇
西へ向かうにあたり、俺は信康と秀忠を呼んだ。
「秀忠」
「はっ」
「お前には、信濃を通って美濃へ向かってもらう」
秀忠が頷いた。
「承知いたしました」
「ただし、真田には気をつけろ。上田城を攻めることが目的ではない。西へ進むことが目的だ」
「御意」
「敵が妨害してくるなら、道を変えることも考えよ。戦を長引かせるな」
秀忠は深く頭を下げた。
次に、信康へ向き直った。
「信康」
「はい」
「お前は俺と共に進め」
信康が顔を上げた。
「……父上」
「兵の一部を預ける。久しぶりの大きな戦になるが、働いてもらいたい」
信康は、しばらく黙っていた。
「……私に、軍勢を?」
「ああ」
「……ありがたき幸せ」
深く頭を下げる。
俺は続けた。
「ただし、勝手に兵を動かすな。俺の指示に従い、家臣たちの意見も聞け」
「承知しております」
「戦功を焦るなよ」
信康は少しだけ笑った。
「……父上」
「何だ?」
「そのお言葉は、以前にも幾度か伺いました」
……しまった。
また同じことを言っていたらしい。
俺は咳払いをした。
「……とにかく、頼んだぞ」
「はっ!」
二人が下がった後、俺はしばらく絵図を眺めていた。
信康と秀忠。
どちらにも重要な役目を与えた。
だが、家督については、まだ答えを出せていない。
……今回の戦が終わったら、必ず決めよう。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
◇
西へ進む途中、伏見城が落ちたという知らせが届いた。
鳥居元忠は、討死した。
俺は、使者の報告を最後まで聞いた。
そして、しばらく何も言えなかった。
「……そうか」
ようやく、それだけ答えた。
元忠は最後まで城を守ったという。
退く機会がなかったのか。
それとも、退かないと決めたのか。
詳しいことは分からない。
だが、元忠が死んだことだけは確かだった。
「……数正」
「はっ」
「伏見で亡くなった者たちの名を、調べてくれ」
「承知いたしました」
「家族への知らせも必要だ。戦が終わった後のことも考えておこう」
数正が頷いた。
俺は目を閉じた。
忠次が死んだ。
そして今度は、元忠まで死んだ。
長く一緒にいた家臣たちが、一人ずついなくなる。
そのたびに、もう慣れたつもりでいた。
だが、まったく慣れていない。
元忠には、退いてもよいと伝えてあった。
それでも、あいつは城を守った。
俺のために。
徳川のために。
……何をやっているんだ、俺は。
そんなことを考えても、死んだ者は戻らない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……西へ進むぞ」
「はっ」
「元忠が守った時間を、無駄にはできぬ」
数正が深く頭を下げた。
◇
九月。
美濃では、すでに戦が始まっていた。
福島正則らが岐阜城を攻め落とし、こちらの進路を確保している。
一方、三成らも軍勢を集めていた。
宇喜多秀家。
小西行長。
大谷吉継。
そして、毛利の軍勢。
どれも侮れる相手ではない。
「……殿」
数正が書状を差し出した。
「小早川秀秋殿より、返事が届いております」
俺は受け取った。
小早川秀秋。
前世でも、関ヶ原について聞いたときに名前を覚えた武将だ。
確か、戦の途中で味方を変えたはずだった。
だが、今も同じことをするとは限らない。
しかも、こちらから働きかけていることが三成に知られれば、相手も備えるだろう。
「……数正」
「はっ」
「秀秋殿の家臣たちにも、話は通っておるか」
「黒田長政殿を通じて、働きかけております」
「そうか」
俺は頷いた。
「だが、返事があったからといって、それだけで味方と決めつけるな。戦場で実際に動くまでは、敵として備えておきたい」
「承知いたしました」
俺は絵図を広げた。
小早川。
毛利。
吉川。
それぞれに、こちらと交渉している者がいる。
だが、交渉に応じたからといって、必ず約束を守るわけではない。
……結局、戦場に出てみるまで分からないことばかりだな。
俺は苦笑した。
◇
九月十四日。
関ヶ原へ、両軍が集まった。
敵はよい場所を押さえている。
石田勢は笹尾山の辺りに陣を構え、宇喜多勢もこちらの正面にいる。
大谷勢は南に位置し、毛利方の軍勢も別の山に布陣していた。
もし全軍が一斉に攻めかかってくれば、こちらは苦しくなるだろう。
「……忠勝」
「はっ」
「毛利方の動きには、特に注意せよ」
「承知いたしました」
「小早川も同じだ。こちらへ味方するという話はあるが、まだ信用するな」
忠勝が頷いた。
俺は絵図へ目を落とした。
正面の敵だけを見ていればよい戦ではない。
各地の軍勢が、どこへ動くか。
それを見極めなければならなかった。
「……信康」
「はい」
「お前には、本陣の近くで兵を率いてもらう」
信康の表情が、少し変わった。
「……前線ではなく、でございますか」
「ああ」
「……承知いたしました」
不満そうだった。
無理もない。
長いこと兵を率いることができず、ようやく大きな戦に参加できたのである。
前へ出て、戦功を立てたいのだろう。
だが、今の俺には、信康を前線へ出すつもりはなかった。
「……信康」
「はい」
「本陣を守る者が必要だ。敵がこちらへ押し寄せたとき、お前には兵を動かしてもらう」
信康は黙った。
「俺がここで討たれれば、徳川の軍勢は崩れる。お前には、それを防いでもらいたい」
信康の表情が変わった。
「……承知いたしました」
深く頭を下げる。
俺は頷いた。
「頼むぞ」
◇
九月十五日。
朝から霧が出ていた。
遠くの山が、ほとんど見えない。
兵たちは鉄砲を確かめ、槍を持ち直している。馬のいななきが聞こえ、足軽たちが低い声で話していた。
俺は甲冑を整え、馬に乗った。
「……殿」
忠勝が近づいてきた。
「諸将、出陣の支度が整っております」
「そうか」
俺は頷いた。
「平八郎。頼んだぞ」
「お任せくだされ!」
忠勝は力強く答えた。
俺は周囲を見回した。
福島正則。
黒田長政。
井伊直政。
そして、徳川の家臣たち。
皆、それぞれの事情を抱えてここへ来た。
何年も前から一緒に戦ってきた者もいる。
つい最近まで敵だった者もいる。
そして、これから同じ戦場で命を懸ける。
……さて。
俺は手綱を握り直した。
前世の歴史では、徳川が勝つ。
だが、今の俺が勝つかどうかは分からない。
信康は生きている。
数正も、今なお俺の家臣としてここにいる。
その違いが、戦場にどのような影響を与えるのか。
そんなこと、誰にも分からない。
「……始めるぞ」
◇
戦が始まった。
霧の中から鉄砲の音が響いた。
続いて、怒号が上がる。
福島勢が宇喜多勢とぶつかり、黒田勢が石田勢へ攻めかかる。
前線では、早くも激しい戦になっていた。
「殿! 宇喜多勢の守り、堅固にございます!」
使者が駆け込んできた。
「分かっておる。正則殿には、無理に押し込まず、敵の動きを見ながら攻めるよう伝えよ」
「はっ!」
次々と報告が入る。
石田勢もよく戦っている。
黒田や細川の軍勢が攻めかかっても、簡単には崩れない。
……三成殿め。
あの人は、戦場では頼りないという話を聞いたこともあった。
しかし、実際には随分と粘り強い。
陣の備えも整っているし、兵の動きも悪くない。
「……殿」
数正が声をかけた。
「小早川勢は、なお動いておりませぬ」
俺は山の方を見た。
松尾山。
小早川秀秋が陣を構えている。
こちらへ味方するという話はあった。
だが、まだ動かない。
「……そうか」
俺は頷いた。
「ならば、こちらも備えを崩すな」
「御意」
「大谷勢が動く可能性もある。南の守りは厚くしておけ」
数正が頷いた。
俺は戦場を見渡した。
……嫌な感じだな。
こちらが勝っているとも、負けているとも言い難い。
もし毛利が動けば、さらに苦しくなる。
小早川が西軍に加われば、こちらの側面を突かれる。
何もかもが、まだ決まっていなかった。
◇
昼が近づいた頃。
「殿! 小早川勢が動き始めました!」
俺は顔を上げた。
「……どちらへ!」
使者が答えた。
「大谷勢の方へ向かっております!」
俺は息を呑んだ。
……来たか。
しかし、まだ安心できない。
小早川が大谷を攻めるつもりなのか。
それとも、何か別の動きなのか。
遠くの戦場では、煙が上がっている。
「……物見を出せ。小早川が実際にどこへ攻めかかるか確かめたい」
「はっ!」
次の報告を待つ。
その間にも、前線では戦が続いていた。
そして、ようやく知らせが届いた。
「殿! 小早川勢、大谷勢へ攻めかかっております!」
俺は拳を握った。
「……よし!」
近くにいた家臣たちが、こちらを見る。
俺は続けた。
「南の敵が崩れれば、正面の守りも薄くなる。諸将へ伝えよ。今が攻め時だ!」
「はっ!」
俺は馬を進めた。
敵の陣が乱れ始めている。
ここで攻めなければ、何のために戦っているのか分からない。
「押せ! 敵に立て直す暇を与えるな!」
兵たちが前へ進む。
鉄砲の音が響き、槍がぶつかる。
遠くで旗が倒れた。
「殿! 大谷勢が崩れております!」
「ならば、そのまま攻めよ!」
俺は声を張った。
「敵が退くなら追え! ただし、味方同士で隊列を乱すな!」
……勝てる。
今なら勝てる。
腹の底から、熱いものが込み上げてきた。
これまで何十年も戦ってきた。
三方ヶ原で敗れ、長篠で勝ち、北条と争い、秀吉とも戦った。
その経験が、今の俺を動かしていた。
敵が崩れたなら、そこで止まるな。
勝てるときに勝ちきれ。
そうしなければ、また次の戦が始まる。
俺は刀を抜いた。
「進め!」
◇
だが、戦場のすべてが思いどおりに動いたわけではなかった。
「殿! 島津勢が、こちらへ向かっております!」
「……何!」
俺は顔を上げた。
島津義弘。
九州の名将である。
その島津勢が、西軍の陣からこちらへ向かってきたという。
「数は?」
「多くはございませぬ! ですが、勢いが強く!」
俺は顔をしかめた。
……何を考えているんだ。
西軍が崩れ始めているというのに、こちらへ突っ込んでくるとは。
「忠勝!」
「はっ!」
「島津勢の動きを確かめよ! こちらの本陣へ向かうなら、迎え撃たねばならぬ!」
「御意!」
忠勝が駆けていく。
俺は周囲の兵を動かした。
敵が少数だからといって、油断はできない。
島津の兵は、強い。
そのことは、これまでの戦でもよく知られていた。
「……信康!」
俺は息子を呼んだ。
「はっ!」
「本陣の兵を整えよ。島津勢がこちらへ向かうなら、通すな!」
「承知いたしました!」
信康が兵を動かし始める。
その様子を見ながら、俺は次の報告を待った。
やがて、島津勢は本陣の近くを駆け抜け、南へ退いていったという。
「……退いたか」
俺は息を吐いた。
「追撃は?」
「井伊勢が追っております!」
「深追いするなと伝えよ! 島津の退き口へ不用意に突っ込めば、こちらが損害を受ける!」
「はっ!」
俺は手綱を握り直した。
危なかった。
戦に勝ちかけているときほど、こういうことが起きる。
敵が崩れたからといって、全員が逃げるとは限らない。
最後まで戦う者もいる。
そのことを、改めて思い知らされた。
◇
夕方。
関ヶ原の戦は、ほぼ決着した。
石田三成の軍勢は崩れ、宇喜多や小西の兵も退いていった。
大谷吉継は討死したという。
俺は、その報告を聞きながら、しばらく戦場を眺めていた。
勝った。
徳川方の勝利である。
だが、目の前には多くの死者が残されていた。
味方も、敵も。
戦が終わったからといって、すぐに片づくものではない。
「……数正」
「はっ」
「負傷者を運べ。敵味方を問わず、まだ助かる者は助けたい」
「承知いたしました」
「それから、諸将には勝手に城や村を荒らさぬよう伝えよ。今後の所領については、改めて取り決める」
数正が頷いた。
俺は続けた。
「三成殿らの行方も調べよ。逃げた者を放っておけば、また兵を集めるかもしれぬ」
「御意」
俺は馬から下りた。
足が重かった。
長い一日だった。
何度も勝てると思い、何度も不安になった。
それでも、最後には勝った。
……本当に、勝ったんだな。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
◇
その夜。
陣へ戻ると、信康がやってきた。
「父上」
「信康。ご苦労だった」
「……ありがとうございます」
信康は頭を下げた。
「本陣の守りについて、問題はございませなんだか」
「十分に働いてくれた。おかげで、俺も前の戦に集中できた」
信康は、少し安心したようだった。
「……父上」
「何だ?」
「私も、まだ徳川の武将として働けるのでございますね」
俺は息子を見た。
……何を言っているんだ。
そう思った。
だが、すぐに言葉を返せなかった。
信康は長いこと兵を率いていなかった。
その間、家臣たちは秀忠を後継者として見るようになり、信康自身も政務ばかり任されていた。
本人としては、自分が武将として認められているのか、不安だったのだろう。
「……信康」
「はい」
「今日のお前は、よく働いた」
俺は言った。
「兵を勝手に動かすこともなく、必要なときにはすぐに備えを整えた。あの混乱の中で、それができたのは立派だ」
信康は黙っていた。
「今後も、お前には働いてもらう。徳川の家にとって、必要な者だからな」
信康は、深く頭を下げた。
「……ありがたき幸せ」
俺は頷いた。
だが、まだ言わなければならないことがあった。
「……家督のことも、近いうちに決める」
信康が顔を上げた。
「……父上」
「いつまでも曖昧にはしておけぬ。秀忠とも話してから、お前たちに伝える」
「……承知いたしました」
信康は、もう一度頭を下げた。
俺はその姿を見ながら、思った。
……ようやく、ここまで来たか。
二十年以上かかった。
親子の間にできた溝を、完全に埋められたとは思っていない。
だが、少なくとも今は、こうして話せる。
それだけでも、随分と違っていた。
◇
翌日。
秀忠の軍勢が、まだ到着していないという知らせが届いた。
「……何?」
俺は顔を上げた。
「信濃にて真田勢の妨害を受け、進軍が遅れております!」
俺は額に手を当てた。
……ああ。
そうだった。
徳川秀忠は、関ヶ原に遅れるんだった。
その話は覚えていた。
真田の城に手間取った、という程度だが。
だからこそ、事前に注意しておいたのである。
それなのに。
「……上田城を攻めたのか?」
「はっ。真田勢が徳川方を挑発し、城から兵を出してきたため、これを追ったとのことにございます」
俺は息を吐いた。
……まったく。
秀忠め。
あれほど注意したのに。
しかし、よく考えれば、秀忠だけを責めるわけにもいかなかった。
真田は、簡単な相手ではない。
相手の挑発に乗らなければ、それで済んだのかどうか。
現地の事情を知らない俺には、すぐに判断できなかった。
「……数正」
「はっ」
「秀忠へ使者を送れ。今は無理に進まず、軍勢を整えてから合流するように伝えたい」
「承知いたしました」
「それから、遅れた経緯を詳しく報告させよ。何があったのか確かめてから、改めて話を聞く」
数正が頷いた。
俺は少し考えた。
家督のこと。
信康のこと。
秀忠のこと。
関ヶ原に勝ったからといって、問題がすべて解決するわけではない。
むしろ、これから決めなければならないことが増えた。
……本当に、休む暇がないな。
◇
関ヶ原に勝ってからというもの、俺のもとへ届く書状は、ますます増えていた。
戦功を申し立てる者。
西軍に従ったのは本意ではなかったと弁明する者。
没収した所領の取り扱いについて尋ねてくる者。
どれも、いい加減な返事では済ませられない。
「殿。宇喜多家の所領について、改めてご相談がございます」
数正が書付を差し出した。
俺は目を通した。
「……これだけの土地があるのか」
「はっ」
「毛利のこともある。誰にどれだけ与えるか、慎重に決めねばならぬな」
関ヶ原で戦った諸将には、報いなければならない。
大きな働きをした者に何も与えなければ、今後の戦で誰が徳川についてくれるだろう。
だが、所領を与えるためには、誰かから取り上げなければならない。
しかも、それを決めるのは、今や俺だった。
少し前までは、秀吉がやっていた仕事である。
「……数正」
「はっ」
「豊臣家が直接治めておる土地について、詳しい書付を持ってきてくれ」
数正が顔を上げた。
「……秀頼様の御領にございますか」
「ああ」
「そちらも改められるので?」
「まず、現状を知りたい」
俺は続けた。
「西軍に加わった大名の所領と、豊臣家が直接持っておる土地を一緒にしてはならぬ。誰が管理しておるのか、収入がどこへ入るのか、詳しく確かめたい」
「承知いたしました」
数正が下がろうとしたところで、俺は呼び止めた。
「それと、大坂へ使者を送れ」
「はっ」
「秀頼様には、関ヶ原での戦が終わったことを直接お知らせしたい。今後も豊臣家を軽んじるつもりはないと、俺の言葉で伝えてくれ」
「……御意」
俺は少し考えた。
「ただし、これから所領の取り決めが大きく変わることも、隠すな」
数正は頷いた。
「……殿」
「何だ?」
「淀殿は、ご不安に思われるでしょうな」
「だろうな」
俺は書付へ目を落とした。
秀吉が死んだとき、俺は秀頼へ頭を下げた。
困ったことがあれば知らせてほしいと、そう伝えた。
今、その秀頼を取り巻く天下の仕組みが、俺の手で変わろうとしている。
俺がどれほど丁寧な書状を書いても、淀殿が警戒するのは当然だった。
「……数正」
「はっ」
「俺が大坂にいる立場なら、今の徳川を信用できると思うか?」
数正は返事をしなかった。
俺は苦笑した。
「……まあ、そうだろうな」
◇
しばらくして、大坂から返書が届いた。
淀殿からである。
関ヶ原での働きを労い、秀頼への変わらぬ忠節を望むと記されていた。
丁寧な文章だった。
ただ、最後に一つだけ、気になることが書かれていた。
『秀頼様の御為、今後とも変わらぬお働きを願い奉ります』
俺は、その一文を読み返した。
……変わらぬ、か。
秀吉の死後と、関ヶ原に勝った今とでは、何もかも変わってしまった。
諸大名の力関係も、政務を決める者も。
そして、俺自身の立場も。
それでも、淀殿は変わらずにいてほしいと願っている。
気持ちは分かる。
だが、俺には返事に書けないことがあった。
この先、徳川がどこまで力を持つのか。
秀頼が成人した後、どのような形で豊臣家を支えるのか。
今はまだ、自分でも決めかねている。
それでも、秀頼の命を守るという約束まで、なかったことにするつもりはなかった。
俺は筆を取った。
秀頼様への敬意と、大坂の平穏を守る意思を記す。
だが、政務について何もかも以前どおりにするとは書かなかった。
そこだけは、約束できなかったのである。
◇
江戸へ戻った俺を、かぐやが迎えてくれた。
「竹千代! おかえり!」
「ただいま」
「長かったねー!」
「ああ。随分と長い旅だった」
俺は腰を下ろした。
身体が重い。
戦が終わってからも、諸将との話し合いや所領のことが続き、まともに休めていなかった。
「ねえ、竹千代」
「何?」
「今日はもう、お仕事しない?」
「……そうだな。急ぎのものは片づけたし、少し休もうかな」
「やった!」
かぐやが嬉しそうに身体を揺らした。
「じゃあ、これ見て!」
文箱の中から、また貝殻が出てきた。
「……増えてないか?」
「うん!」
「いつの間に?」
「瀬名ちゃんが持ってきてくれたの!」
「へえ」
俺は一つ手に取った。
小さな白い貝殻だった。
「……これ、きれいだな」
「でしょ!」
かぐやは得意げだった。
俺は笑った。
戦場では、多くの人が死んだ。
元忠も死んだ。
三成がどうなったのか、まだ詳しい知らせは届いていない。
秀忠や信康のことも、これから決めなければならない。
それでも、江戸へ戻れば、かぐやはいつものように話しかけてくれる。
「……竹千代」
「ん?」
「疲れてる?」
「まあ、少しね」
「じゃあ、今日は早く寝ようよ!」
「そうだな」
「私も寝る!」
「……お前は昼間も寝てただろ」
「えへへ!」
かぐやが笑った。
俺も笑ってしまった。
こういう時間があるから、まだ頑張れるのかもしれない。
もっとも、本人には言わなかった。
また調子に乗るだろうから。
◇
大坂城。
淀殿は、徳川家康から届いた書状を読み終えた。
関ヶ原の戦は終わった。
西軍に加わった諸将の所領については、改めて取り決めを行うという。
そして、豊臣秀頼をこれまでどおり敬い、大坂の平穏を守ると記されていた。
「……丁寧なお方ですね」
傍らの侍女が、そう言った。
淀殿は書状を畳んだ。
「ええ。本当に」
家康から届く書状は、いつも丁寧だった。
必要な報告を怠らず、秀頼への敬意も忘れない。秀吉が亡くなってからも、家康は幾度となく大坂へ使者を送ってきた。
淀殿自身、助けられたことも少なくない。
豊臣の家臣たちが争い始めたとき、仲裁に動いたのも家康だった。
秀頼のために働くという約束も、今のところ破られてはいない。
しかし、だからこそ不安だった。
「……徳川殿は、嘘をついておられるのでしょうか」
淀殿が呟くと、侍女は困った顔をした。
「……私には、分かりかねます」
「そうでしょうね」
淀殿は小さく笑った。
家康は、秀頼を主君と呼ぶ。
それでいて、今では天下の諸大名が家康のもとへ集まり、所領についての裁定を求めている。
秀頼の家臣であるはずの者たちが、秀頼ではなく家康の判断を待っているのだ。
それが必要なことであるのも、分かっていた。
秀頼は、まだ幼い。
戦に勝った諸将への恩賞など、本人に決められるはずがない。
だが、家康がそれを決め続ければ、秀頼が大人になる頃にはどうなっているのだろう。
「……母上」
声がした。
秀頼だった。
「どうなさいました?」
淀殿が顔を上げると、秀頼は書状を見た。
「家康からか?」
「ええ」
「何と申しておる?」
「戦が終わったそうですよ」
「そうか!」
秀頼は嬉しそうに頷いた。
「では、もう皆、争わずに済むのだな」
淀殿は、一瞬返事に詰まった。
「……そうなると、よいですね」
秀頼は不思議そうだった。
「母上は、嬉しくないのか?」
「いいえ。嬉しゅうございますよ」
淀殿は息子の頭を撫でた。
「ただ、これからも考えねばならぬことがございます」
「私にもできることはあるか?」
淀殿は、少し驚いた。
秀頼は真面目な顔をしていた。
父親が死んでから、何度も周囲の者たちが難しい話をしているところを見てきたのだろう。
自分が何も決められないことを、本人なりに気にしているのかもしれない。
「……ございますよ」
淀殿は答えた。
「まずは、よく学ぶことです」
「学ぶ?」
「ええ。家康殿も、ほかの諸大名も、いずれ秀頼様とお話しすることになるでしょう。そのとき、ご自身のお考えをきちんと伝えられるように」
秀頼は頷いた。
「分かった」
その返事を聞き、淀殿は微笑んだ。
秀頼が部屋を出ていくと、淀殿は再び書状を開いた。
徳川家康。
秀吉は、あの男を高く評価していた。
小牧・長久手で敵に回した後も、その力を認め、何度も手を尽くして味方に引き入れた。
そして、死の間際には秀頼を託した。
淀殿も、それを知っている。
家康が約束を守ってくれるなら、これほど頼もしいことはない。
しかし、今では秀頼を守るために必要な力の大部分を、家康自身が握っている。
家康が豊臣に従っているのか。
それとも、豊臣が家康に支えられることで、ようやく立っているのか。
その違いが、少しずつ分からなくなっていた。
「……家康殿」
淀殿は、書状の最後に記された名前を見た。
誠実な言葉だった。
少なくとも、彼自身はそう信じて書いたのかもしれない。
だが、誠実な人間が、必ずしも自分たちの望むものを残してくれるとは限らない。
淀殿は書状を畳んだ。
秀頼が一人前になるまで、まだ長い年月が必要だった。
その間、豊臣の家は徳川を頼らなければならない。
そして、徳川の力がこれ以上大きくなれば、いずれ頼ることすら難しくなるかもしれない。
淀殿は、閉じた書状から目を離せなかった。