徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
慶長五年、秋。
関ヶ原で勝ってからというもの、俺のもとには連日、山のような書状が届いていた。
誰がどれほど敵を討ち取ったか。どこの城を誰に与えるべきか。西軍に属した大名の所領をどう扱うか。味方した諸将には恩賞を与えなければならないし、降伏してきた者についても、一人ずつ処遇を決めなければならない。
戦に勝ったのだから、多少は仕事が減ると思っていた。
まったくもって甘い考えだった。
「殿。黒田長政殿より、改めて書状が届いております」
石川数正が、一通の書状を差し出してきた。
「……またか」
「関ヶ原での働きについて、確認したきことがあるとのことにございます」
「前にも説明を受けただろう」
「それとは別の件かと」
俺は書状を受け取り、目を通した。
小早川秀秋への働きかけについて、長政が果たした役割が記されている。確かに、あいつには随分と世話になった。秀秋が東軍へ味方したのは長政一人の働きではないが、交渉に携わってくれた功績は大きい。
それは分かる。
分かるのだが。
「……数正」
「はっ」
「一日に何通までなら、恩賞の話をしてよいと思う?」
数正は、少し考えた。
「必要なだけ、かと存じます」
「……そうか」
「はい」
まったく助けにならない答えだった。
だが、数正が正しいことも分かっている。
今ここで恩賞を曖昧にすれば、後々まで不満が残るだろう。徳川に味方した者たちへ相応の報いを与えることは、今後の天下を治めるためにも必要だった。
俺は長政の書状を脇へ置いた。
「働きについては十分に承知しておると伝えてくれ。所領のことは、ほかの諸将との釣り合いも考えて決める」
「承知いたしました」
「それから、宇喜多家の旧領についても調べを進めよ。家臣たちがどれほど残っているのか知りたい」
数正が頷いた。
宇喜多秀家は西軍の中心として戦った。
その所領をどうするかは、大きな問題だった。備前や美作には多くの武士がいるし、田畑や港もある。領主を替えると決めただけで、そのすべてが新しい持ち主のものになるわけではない。
年貢を集める者も、土地の境を知る者も必要だ。
それを無視して功績のあった大名に領地だけ渡せば、後から困るのは新しい領主とそこに住む人々である。
「……やることが多すぎるな」
俺が呟くと、数正は少し笑った。
「天下の仕置きにございますから」
「天下ねえ……」
俺は机に積まれた書状を見た。
三河を取り戻した頃には、まさか自分がこんな仕事をするとは思っていなかった。
何しろ、あの頃の俺は、明日の戦で死なないことばかり考えていたのである。
今では日本中の大名が、俺の判断を待っている。
……ずいぶん出世したものだ。
もっとも、書状の山を見る限り、出世というものが本当に幸せなのかは疑わしかった。
◇
石田三成が捕らえられたという知らせが届いたのは、それから間もなくのことだった。
「……そうか」
俺は報告を最後まで聞いた。
三成は、関ヶ原から落ち延びた後、近江で捕縛されたという。
西軍を動かした中心人物である。
もはや、命を助けることは難しかった。
「殿。いかがなさいますか」
数正が尋ねてきた。
俺はしばらく考えた。
三成とは、何度も顔を合わせてきた。
秀吉のもとで政務を取り仕切り、朝鮮からの撤兵についても共に働いた。大名同士の縁組を巡って意見が衝突したこともある。
正直、気の合う相手ではなかった。
だが、無能な男ではない。
むしろ、豊臣家にとっては、失うには惜しい人材だった。
……本当に、惜しい。
「……一度、会おう」
俺は答えた。
「三成殿と話がしたい」
◇
三成は、以前より随分と痩せていた。
捕らえられた後も、ろくに食事を取れていなかったのだろう。顔色は悪く、衣も汚れている。
それでも、俺が部屋へ入ると、背筋を伸ばした。
「……徳川殿」
「治部少輔殿」
俺は向かいに座った。
しばらく、互いに何も言わなかった。
やがて、三成が口を開いた。
「……ご勝利、おめでとうございます」
「……ありがとう」
「今となっては、私の負けにございます」
三成は、静かにそう言った。
俺は頷いた。
「三成殿。なぜ兵を挙げた」
「……お分かりになりませぬか」
「お前自身の口から聞きたい」
三成は、しばらく俺を見ていた。
「太閤殿下は、秀頼様へ天下を残されました」
「ああ」
「そのために、我らを奉行として置かれ、大老の方々にも政務を託された」
「そうだな」
「ですが、殿下がお亡くなりになってから、徳川殿は諸大名との縁組を進め、政務の裁定にも大きく関わられるようになった。やがて、ほかの者たちは徳川殿のご意向ばかりを気にするようになりました」
俺は黙って聞いた。
「このままでは、秀頼様が成長なさる頃には、豊臣家に何も残らなくなる」
三成の声には、強い確信があった。
「……それを防ぐために、兵を挙げたと?」
「はい」
「毛利殿や宇喜多殿まで巻き込んでか」
「……」
「伏見を攻め、元忠を討ち、何万もの兵を戦わせてまで、必要だったのか」
三成は、目を伏せた。
「……そうするほか、ないと考えました」
俺は長く息を吐いた。
俺が徳川の力を強めようとしていたことは事実だ。
そのために諸大名と縁を結び、各地へ働きかけてきた。
三成が警戒した理由も分かる。
だが、分かることと、許せることは別だった。
「……三成殿」
「はい」
「秀吉殿から秀頼様を託されたのは、お前だけではない」
三成が顔を上げた。
「俺も頼まれた。利家殿も、毛利殿も、宇喜多殿も、上杉殿もだ」
「……承知しております」
「だからこそ、話し合うための仕組みを作ったのだろう」
俺は続けた。
「俺が法度を破ったと申すなら、ほかの大老や奉行衆と共に責めればよかった。秀頼様の名で裁きを求めることもできたはずだ」
三成は、何かを言いかけた。
だが、口を閉じた。
俺はその様子を見ていた。
「……もっとも」
少し考えてから、続けた。
「そうしたところで、俺が簡単に従ったかどうかは分からぬがな」
三成が目を瞬いた。
「……徳川殿」
「俺にも、譲れぬものがある。徳川の土地も、家臣も、家族も守らねばならぬ。お前の言うことを何もかも聞くつもりはなかった」
俺は三成を見た。
「だからこそ、最後まで話し合うべきだったと思っておる」
三成は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……徳川殿は、まことに厄介なお方にございますな」
「よく言われる」
「ご自身の非を認めながら、それでも退かれぬ」
「お前だって同じだろう」
三成は、今度こそ声を出して笑った。
ほんの短い笑いだった。
すぐに表情が戻る。
「……秀頼様のことを、お願い申し上げます」
俺は返事をしなかった。
三成は続けた。
「徳川殿が今後、どのような天下をお望みなのか。私には分かりませぬ」
「……」
「ですが、秀頼様はまだ幼い。あの方には、何の罪もございませぬ」
それは、秀吉からも聞いた言葉だった。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……承知しておる」
三成は頭を下げた。
それ以上、何も言わなかった。
◇
三成との対面を終えた後、俺は数正と話した。
「……殿」
「何だ」
「三成殿の処遇についてにございます」
俺は頷いた。
処刑は避けられないだろう。
関ヶ原で兵を挙げた中心人物を助ければ、東軍に味方した諸将が納得しない。
伏見で死んだ元忠をはじめ、多くの将兵の家族にも説明がつかない。
三成を生かすことで、再び豊臣家の名を掲げて兵を集める者が現れる恐れもある。
「……刑は、定めたとおりに」
俺は答えた。
数正は頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は机の上に置かれた書状を見た。
三成は、最後まで秀頼のことを案じていた。
秀吉も、同じことを頼んできた。
二人とも、俺を警戒していた。
それでも、秀頼を守ってほしいと願ったのである。
……俺は、本当に約束を守れるのだろうか。
その答えは、まだ出ていなかった。
ただ、これ以上天下を戦乱へ戻すわけにはいかない。
俺は、そう考えていた。
◇
慶長六年、春。
江戸へ戻った俺は、再び普請の話に追われていた。
関ヶ原で勝ったことで、徳川の力はさらに大きくなった。
東軍に味方した諸大名へ所領を与え、西軍に加わった者たちの処分を進めた結果、天下の多くが徳川の意向に従うようになっている。
しかし、そのことがすぐに江戸の暮らしを楽にしてくれるわけではなかった。
「……殿。東海道の道中について、ご相談がございます」
数正が絵図を持ってきた。
「宿場の整備を進めたいと存じますが、いかがでしょう」
「……ああ」
俺は絵図を広げた。
街道沿いの村や町が記されている。
江戸から京へ向かうには、長い道を進まなければならない。途中には川もあれば山もある。雨が降れば通れなくなる場所も多い。
軍勢を動かすときも、商人が荷を運ぶときも、道が整っていなければ困る。
「宿場の場所は、すでに調べてあるのか」
「はっ。既存の宿を利用できるところもございます」
「ならば、まずそこから整えよう。人や馬を替えられるようにしておけば、急ぎの書状も運びやすくなる」
「御意」
俺は絵図へ目を落とした。
街道。
宿場。
川を渡る仕組み。
それらを整えれば、人や物が動きやすくなる。
戦のためだけではない。
商人が遠くへ荷を運べるようになれば、町も豊かになる。
そして何より、領主が替わるたびに道の使い方まで変わるようでは、天下を治める仕組みとして不便だった。
「……数正」
「はっ」
「徳川の土地だけでなく、ほかの大名の領地を通る道についても、同じように考えたい」
数正が顔を上げた。
「……諸大名にも、道の整備を命じるのでございますか」
「ああ。ただし、勝手に重い負担を押しつけるわけにはいかぬ。必要な場所を調べ、費用や人手についても相談しよう」
数正は頷いた。
俺は絵図を見つめた。
これから必要になるのは、戦に勝つことだけではない。
俺がいなくても、書状が届く。
荷が運ばれる。
争いが起きれば、決められた手順で裁かれる。
そういう仕組みを作る必要がある。
……面倒だな。
だが、今までのように、何かあるたびに俺が出ていくわけにもいかない。
何しろ、俺ももう六十を過ぎている。
いつまでも元気でいられるとは限らなかった。
◇
その日の夜。
俺は瀬名と二人で話していた。
「……家督のことだ」
俺が切り出すと、瀬名は静かに頷いた。
「はい」
「信康と秀忠について、そろそろ決めようと思う」
瀬名は、しばらく俺を見ていた。
「……信康に、以前の立場を戻していただけるのでしょうか」
真っ先にそう尋ねられた。
無理もない。
信康は瀬名の息子である。
あいつが岡崎を退かされてから、瀬名も長いこと苦しんできた。
生きているだけでよい。
最初の頃は、そう言っていた。
だが、二十年以上が経った。
信康は立派に成長し、徳川の政務を支えるようになった。
それでも、嫡男としての立場は戻されていない。
「……まだ、決めかねている」
俺は答えた。
瀬名は目を伏せた。
「……そうですか」
「ただし、いつまでも曖昧にしておくつもりはない」
俺は続けた。
「信康にも秀忠にも、それぞれの働きがある。どちらが徳川を継ぐとしても、もう一方の立場をきちんと定めなければならぬ」
瀬名は、静かに頷いた。
「……殿」
「何だ」
「信康は、長いこと待っております」
「ああ」
「一度は、何もかも失いかけた子でございます」
その声は穏やかだった。
しかし、長年の思いが込められていた。
「ようやく、父上のお役に立てるようになったと喜んでおります。それでも、あの子は今なお、自分が許されたのか分からずにいるのでしょう」
俺は黙った。
「……それは、俺の責任だな」
瀬名は首を振らなかった。
ただ、俺を見ていた。
「ですが、秀忠殿にも罪はございませぬ」
やがて、そう続けた。
「信康を戻すことで秀忠殿が傷つくのであれば、そのことも考えていただきたく存じます」
俺は頷いた。
「……分かっている」
瀬名は、そこで少し笑った。
「殿は、昔からお子たちのことになると、余計に難しくお考えになりますね」
「……そうか?」
「ええ」
「俺としては、なるべく公平にしようと思っているんだが」
「それは、承知しております」
瀬名は笑みを深めた。
「ただ、あの子たちも、もう大人でございますよ」
俺は口を閉じた。
……そうだったな。
信康も秀忠も、自分の考えを持っている。
俺が一人で悩んでいる間に、二人とも立派な大人になっていた。
「……明日、二人を呼ぼう」
俺は言った。
「今度は、それぞれの考えも聞きたい」
瀬名は頷いた。
「それがよろしいかと存じます」
◇
瀬名が部屋を出た後、文箱の蓋が持ち上がった。
「竹千代ー!」
「……何だ?」
かぐやが顔を出した。
「さっきの話、終わった?」
「ああ」
「じゃあ、こっち来て!」
俺は苦笑した。
「今度は何だよ」
「見せたいものがあるの!」
かぐやが文箱の中をごそごそと探る。
しばらくして、小さな包みを引っ張り出した。
「これ!」
「……何だ?」
「茶々からもらったの!」
俺は包みを開いた。
中には、小さな飾り紐が入っていた。
色糸を編んだ、なかなかきれいな品である。
「……へえ」
「かわいいでしょ!」
「ああ」
「瀬名ちゃんが、今日持ってきてくれたんだ!」
そういえば、大坂から瀬名宛てに書状が届いていた。
茶々は、今でも折々にかぐやへ贈り物をしてくれる。
かぐやの方も、江戸で拾った貝殻や気に入った小物を、瀬名に頼んで届けてもらっていた。
大坂城の奥向きと江戸の屋敷。
遠く離れた二つの場所で、妙な友情が続いているのである。
「……それで、竹千代!」
「何?」
「これ、どうやって結ぶの?」
俺は飾り紐を見た。
……俺に聞くのか。
「瀬名に頼んだ方がいいんじゃないか?」
「瀬名ちゃん、今いないじゃん!」
「……そうだけどさ」
仕方がない。
俺は紐を指にかけた。
だが、やってみると案外難しい。
かぐやの身体に合わせて結ぶには、大きすぎるのだ。
「……ちょっと待ってろ」
「うん!」
俺は何度か結び直した。
一度目は緩すぎた。
二度目は、左右の長さが揃わない。
三度目で、ようやく形になった。
「……どうだ?」
かぐやは身体を揺らした。
「わあ!」
飾り紐が、ふわりと動く。
「いいじゃん!」
「そうか」
「ありがと、竹千代!」
かぐやは嬉しそうに笑った。
俺は残った糸の端を整えた。
江戸へ来て、もう十年以上が経とうとしている。
城も町も、随分と変わった。
徳川の力も大きくなった。
だが、かぐやは相変わらずである。
変わるのは、集めた貝殻の数と、気に入った菓子くらいだろうか。
……いや、そうでもないか。
あいつにも、茶々という新しい友人ができた。
俺の知らないところで、あいつなりに人との付き合いを広げている。
もっとも、本人はそんなことを意識していないのだろう。
「ねえ、竹千代!」
「今度は何だ」
「これつけて、今度海に行こうよ!」
「……海か」
「うん!」
俺は窓の外を見た。
江戸の海は、まだまだ手を入れる必要がある。
川も港も、整えなければならないところが多い。
だが、少なくとも今は、大きな戦の予定がない。
「……そうだな。時間ができたら行こう」
「やった!」
かぐやは満足そうだった。
俺も笑った。
……できれば、これから先も。
こういう約束を、気軽に守れる世の中であってほしいものだ。
◇
翌朝。
俺は信康と秀忠を呼んだ。
二人が座るのを待ち、数正にも同席させた。
「……父上」
信康が、少し緊張した声で尋ねた。
「本日は、どのようなお話にございましょう」
俺は二人を見た。
信康は四十を過ぎた。
秀忠も、すでに二十を超えている。
もはや、子供として扱う年齢ではない。
「……家督のことだ」
二人の表情が変わった。
「以前から、いずれ決めると申してきた。しかし、関ヶ原も終わり、徳川の立場も大きく変わった。これ以上、先延ばしにはできぬ」
信康が静かに頷いた。
秀忠も、姿勢を正した。
俺は続けた。
「そこで、まず二人の考えを聞きたい」
信康が顔を上げた。
「……私どもの、考えを?」
「ああ」
「父上が、お決めになるのではございませぬか」
「最後には俺が決める」
俺は答えた。
「だが、お前たちが何を望み、どのように徳川を支えたいと思っているのか。それを知らぬまま決めるつもりはない」
信康は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……父上」
「何だ」
「私は、徳川の家を継ぎとうございます」
部屋が静かになった。
信康は、真っ直ぐ俺を見ていた。
「以前、その立場を失いました。しかし、今は違います。父上から任された政務も、関ヶ原での軍勢の指揮も、私なりに務めてまいりました」
「ああ」
「至らぬところがあるなら、改めます。ですが、長男として生まれた以上、もう一度その役目を果たしたいと願っております」
俺は頷いた。
「……分かった」
その言葉を、軽く扱うつもりはなかった。
二十年以上、信康は待ち続けた。
その間、家臣たちの目も気にしてきただろう。
しかし、今こうして自分の意思を口にした。
俺は秀忠へ目を向けた。
「……秀忠」
「はっ」
「お前は、どうだ」
秀忠は、すぐには答えなかった。
信康の顔を見る。
そして、俺へ向き直った。
「……私も、徳川の家を継ぎたく存じます」
今度は、信康が顔を上げた。
秀忠は続けた。
「兄上が長男であらせられることは、承知しております。関東の政務でも、兄上から多くを教わりました」
「……」
「ですが、私も父上の子にございます。これまで学んできたことも、任されてきた仕事も、すべて徳川のためと思って務めてまいりました」
秀忠は、そこで少し言葉を切った。
「……関ヶ原では、父上のもとへ間に合いませなんだ」
俺は黙っていた。
「そのことについては、申し開きもございませぬ。ですが、あの失敗だけで私の今後をお決めになるのであれば、どうか、もう一度働く機会をいただきたく存じます」
俺は、しばらく二人を見ていた。
信康も、秀忠も。
互いを罵ることはなかった。
相手を貶めようともしなかった。
だが、どちらも家督を望んでいる。
……困ったな。
いや、困っている場合ではない。
二人は、ようやく自分の考えを口にしてくれた。
今度は、俺が答える番である。
「……二人とも、よく分かった」
俺は静かに言った。
「お前たちの望みは、確かに聞いた」
信康と秀忠が頭を下げた。
「だが、ここから先は、望みだけでは決められぬ」
俺は続けた。
「今の徳川は、三河一国を治めていた頃とは違う。関東を持ち、諸大名の上に立ち、天下の政務にも関わっておる」
二人は黙って聞いていた。
「俺が死んだ後、そのすべてを引き継がねばならぬ。家臣たちをまとめ、諸大名を従え、豊臣家との関係も考えなければならない」
俺は数正へ目を向けた。
数正が、静かに頷いた。
「……そして」
俺は、もう一度息子たちを見た。
「俺は、徳川の家を一代で終わらせるつもりはない」
信康が、わずかに身を乗り出した。
秀忠も、真剣な顔でこちらを見ている。
俺は机の上に置いた書状を一通、手に取った。
朝廷との交渉について記されたものだった。
「……近いうちに、朝廷へお願い申し上げたいことがある」
信康が尋ねた。
「……何にございましょう」
俺は二人の顔を見た。
「征夷大将軍だ」
部屋が静まり返った。
そして俺は、書状を机の中央へ置いた。
「徳川の家を、天下の武家を統べる家とする。そのうえで、誰が俺の跡を継ぐのか決めたい」
◇
「……征夷大将軍、でございますか」
最初に口を開いたのは信康だった。
驚きは隠していなかったが、それ以上に、俺が何を考えているのか確かめようとする目をしていた。
「そうだ。朝廷からその職をいただき、武家の政務を徳川が取り仕切る。諸大名の所領や軍役についても、今までのようにその都度誰かの顔色をうかがって決めるのではなく、定まった仕組みで扱いたい」
「豊臣家は、いかがなさるおつもりですか」
今度は秀忠が尋ねた。
俺は頷いた。
「豊臣家には豊臣家の家格がある。秀頼様の所領を奪うつもりも、今すぐ大坂へ兵を向けるつもりもない。だが、天下の武家を誰が統べるかという話については、そろそろ決着をつけねばならぬ」
二人とも黙った。
その沈黙の意味は、俺にも分かった。
秀吉から秀頼を託された父親が、今度は将軍になると言い出したのである。何の疑問も持たない方がおかしい。
「……父上」
信康が口を開いた。
「そのお役目は、いずれ家督を継ぐ者にも受け継がせるのでしょうか」
「ああ」
俺は、息子の目を見て答えた。
「そのつもりだ」
信康の表情が引き締まった。
隣の秀忠も同じだった。
将軍になるということは、俺一代の話ではない。二人とも、そこまで理解したのだろう。
「……つまり、父上がお選びになる者は」
信康が言いかけた。
「徳川の家を継ぐだけでなく、天下の武家を束ねる立場にもなる。そういうことにございますね」
「そうなる」
俺は頷いた。
「だからこそ、簡単には決められぬ」
今まで家督の話をするたび、信康への償いや秀忠への配慮が頭を占めていた。だが、徳川を継ぐ者に背負わせるものは、もはや一家の財産や家臣団だけでは済まなくなっている。
それに、俺にはもう一つ考えていることがあった。
「俺は、いつまでも将軍でいるつもりはない」
数正が顔を上げた。
「……殿?」
「いずれ、次の者へ譲る」
「まだお身体もお健やかにございます。お急ぎになる必要は……」
「元気なうちに譲りたいんだ」
俺は数正を見た。
「死んでから継がせれば、誰もが次の将軍の力を試そうとするだろう。俺が生きておるうちなら、何かあっても支えられる」
数正は考え込んだ。
信康と秀忠も、互いに顔を見合わせている。
「……もっとも」
俺は少し笑った。
「引退したからといって、仕事が全部なくなるとは思っておらぬがな」
数正は、何とも言えない顔をした。
そうだろうな。
俺だって、そんな都合のよい話があるとは思っていない。
「今日は、ここまでにしよう」
俺は二人の息子へ向き直った。
「お前たちの望みは分かった。今度は、俺が決めるための時間をくれ。ただし、これまでのように何年も待たせるつもりはない」
信康はしばらく俺を見ていたが、やがて頭を下げた。
「承知いたしました」
秀忠も続いた。
二人が退出すると、数正が小さく息を吐いた。
「……難しいお話になりましたな」
「まったくだ」
俺は苦笑した。
「将軍になるより、跡継ぎを決める方が難しいとは思わなかったよ」
「それだけ、徳川の家が大きくなったということでございましょう」
「……喜んでいいのか、それ」
数正は笑った。
俺は机に残った書状を見た。
征夷大将軍。
前世では、歴史の教科書で何度も見た言葉である。
しかし、いざ自分がその職に就こうとしてみると、何とも気が重かった。
◇
数日後、俺は二人の息子へ、別々の仕事を任せることにした。
信康には関東の普請と年貢に関する案件を、秀忠には東海道の宿駅整備と諸大名の軍役に関する案件を、それぞれ預けた。
もっとも、これは試験のつもりで出した仕事ではない。
どちらも、実際に片づけなければ困るものである。
特に東海道は、関ヶ原の戦で軍勢を動かした際、不便な場所がいくつも見つかっていた。川を渡るための船が足りなくなったところもあれば、兵が集中したせいで宿の食糧が不足したところもある。
俺としては、同じ目に遭うのは御免だった。
「父上。宿駅のことですが」
しばらくして、秀忠が報告に来た。
「すべての宿に同じ数の馬を備えさせるのは、難しゅうございます」
「どうしてだ?」
「人の往来が多いところと、少ないところとでは、必要な数が違います。また、馬を養うための草や飼葉も、土地によって手に入りやすさが異なります」
「なるほど」
「ですから、各宿へ必要な役目を割り振る一方、負担の重い場所については周囲の村にも協力を求めたいと考えております。ただし、普請や年貢の負担と重なるところは調べ直す必要がございます」
俺は頷いた。
「それで、協力する村の方には何を返す?」
秀忠は少し考えた。
「……通行の便を図るほか、負担に応じて年貢などの扱いを考えるべきかと」
「そうだな。何でも命じれば済むわけではないからな」
秀忠が頭を下げた。
「ただ、もう一つ問題がございます」
「何だ?」
「一部の大名が、自領の宿については自ら取り決めたいと申しております」
……ああ。
来たか。
大名には大名の領地がある。
こちらが天下のためと言って勝手に口を出せば、当然面白くない者もいるだろう。
「お前はどうした?」
「使者を送りました」
「何と伝えた?」
「宿駅の整備は、その大名の領地を取り上げるためではございませぬ。諸国を行き来する者のために、道中の決まりを揃えたいのだと」
「それで?」
「先方から、詳しい取り決めを示すよう返事がございました」
俺は思わず笑った。
「ならば、話を聞く気はあるわけだ」
「はい。ですので、こちらも案をまとめております」
秀忠は懐から書付を出した。
あらかじめ用意していたらしい。
俺は受け取った。
……なるほど。
この息子は、実に慎重だ。
若い頃の信康なら、反対された時点で相手を説き伏せようとしたかもしれない。今の信康なら、おそらく先に現地を調べさせるだろう。
秀忠は、相手が従うために何が必要なのかを考えている。
関ヶ原での遅参を思い出した。
あのとき、秀忠は上田で戦を長引かせてしまった。
俺の命令は、西へ進むことだった。
その目的を見失って、目の前の城に手を出した。
だが、今回の報告を聞く限り、あの失敗を忘れてはいないらしい。
「……秀忠」
「はっ」
「よく考えたな」
秀忠が顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「ただし、一つ覚えておけ。相手の言い分を聞くのはよいことだが、全員が納得するまで待っていては、いつまでも仕事が進まぬこともある」
「……はい」
「どこまで相談し、どこから命じるか。それも、お前が決めねばならぬ」
秀忠は、しばらく考えてから頷いた。
「承知いたしました」
俺は書付を返した。
……うん。
悪くない。
少なくとも、関ヶ原に遅れた一件だけで見限るような男ではなかった。
◇
一方、信康は信康で、随分と忙しそうだった。
江戸の近くで進めている水路の普請について、村同士の争いが起きたのである。
新しい水路を通せば、下流の村は水を使いやすくなる。
しかし、上流の村は、今まで自分たちが使っていた水を取られるのではないかと心配していた。
双方が訴えを起こし、奉行も困っているという。
俺が様子を聞こうとすると、信康はすでに現地へ出かけていた。
帰ってきたのは、夕方だった。
「……信康。どうだった?」
「村々の話を聞いてまいりました」
「解決しそうか?」
「水路の幅を改める必要がございます。上流の取水口も、現在の案では少々無理があるかと」
「……また工事をやり直すのか」
「はい」
信康は、実に申し訳なさそうに答えた。
俺は頭を抱えた。
……金が。
金がかかる。
だが、信康は続けた。
「ただし、すべてを造り直す必要はございません。水路を一部変更すれば、下流にも十分な水を回せます」
「ほう」
「また、上流の村からは、普請に人手を出す代わりに、今後の水の取り決めにも加わりたいという申し出がございました」
俺は顔を上げた。
「……それは、いい話だな」
「はい。ですので、上流と下流の村々から代表を出させ、奉行のもとで取り決めを交わさせたいと考えております」
信康は書付を差し出した。
そこには、水の量や使う順番、渇水のときにどうするかまで記されていた。
……へえ。
俺は感心した。
「ずいぶん詳しく決めたな」
「以前、似たようなことで争いになった村がございましたので」
「ああ、あれか」
「はい。そのときは、当事者同士に任せてしまったため、後から言った言わぬの話になりました」
信康は苦笑した。
「同じ失敗を繰り返すのも、情けないことにございます」
俺は笑った。
「立派なものだ」
信康が顔を上げた。
「……父上?」
「いや、本当にそう思う」
俺は書付を置いた。
若い頃の信康は、何でも自分で片づけようとするところがあった。
頭が切れるからこそ、自分の考えが正しいと思えば譲らなかった。
だが今は、相手の話を聞き、後々まで争いが残らないよう考えている。
時間がかかった。
二十年以上もかかった。
しかし、あいつは確かに変わっていた。
「……信康」
「はい」
「今後も、こういう仕事を任せたい」
信康は、静かに頷いた。
「……お任せください」
その返事には、迷いがなかった。
◇
二人の仕事ぶりを見て、俺はかえって悩むことになった。
どちらも、徳川を継ぐに足る男だったからだ。
信康には経験がある。
戦場でも政務でも、長い年月を積み重ねてきた。関東の家臣たちとの付き合いも深く、領内の事情をよく知っている。
秀忠には、若さがある。
今の家臣団も、次の時代を担う者としてあいつを見ている。諸大名との関係も少しずつ築いており、豊臣家との縁も深い。
では、どちらを選ぶべきか。
俺は数正を呼んだ。
「……数正」
「はっ」
「お前なら、誰を選ぶ?」
数正は、すぐには答えなかった。
「……殿が、ご自身でお決めになるべきことにございます」
「それは分かっている」
俺は苦笑した。
「ただ、お前の考えも聞いておきたい」
数正は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……秀忠様がよろしいかと存じます」
俺は頷いた。
「理由は?」
「徳川の家中では、すでに秀忠様を後継者として考えて動いている者が多くございます」
「ああ」
「朝廷や豊臣家との付き合いにおいても、秀忠様は長くそのお立場で遇されてまいりました。今ここで信康様へ戻されれば、諸大名は徳川の家中に何かあったのかと疑いましょう」
俺は黙った。
「さらに、信康様には、以前の一件がございます」
数正は、少し言いにくそうだった。
「殿がお許しになったことは、家中の者も承知しております。ですが、処分を下されたという事実は消えませぬ」
「……そうだな」
「それを覆して将軍家の跡を継がせれば、今後、徳川が下した処分についても、都合によって変わるものと思われかねません」
俺は顔をしかめた。
……耳が痛い。
信康を処分したのは俺だ。
あいつを生かすためだった。
しかし、その判断が今も足を引っ張っている。
数正は続けた。
「信康様は、たいそうよく働いておられます。今では政務をお任せするのに、これほど頼もしいお方も多くはございませぬ」
「……ああ」
「ですからこそ、別の形でお立場を整えて差し上げるべきかと存じます」
俺は数正を見た。
「別の形?」
「はい」
数正は姿勢を正した。
「将軍家の跡継ぎは秀忠様とし、信康様には徳川御一門の筆頭として、重要な政務をお任せするのでございます」
「……なるほど」
「ただし、曖昧なお立場ではなりませぬ」
数正の声が強くなった。
「信康様が秀忠様の命を受けることになるのか。それとも、独自に裁定できることがあるのか。その境をはっきり定めるべきにございます」
俺は頷いた。
そこは重要だった。
兄だからという理由で秀忠の上に立たせれば、将軍の権威が揺らぐ。
逆に、信康を名ばかりの役職に置けば、本人も周囲も納得しないだろう。
しかも、どちらも俺の息子である。
家臣たちは、俺が死んだ後も二人が仲良くしてくれる保証などないと考えるはずだ。
「……数正」
「はっ」
「秀忠を継がせるなら、信康の働きを無駄にはしたくない」
「御意」
「だが、秀忠に命じる権限を与える以上、信康が独自に天下の大名を動かせるようにするわけにもいかぬ」
「そのとおりにございます」
俺は、しばらく考えた。
信康が望んでいたのは、単に高い役職ではない。
自分が許されたのか。
徳川に必要とされているのか。
そして、長男として果たすべき役目が残っているのか。
その答えを、俺は今まで与えてこなかった。
……今度こそ、きちんと決めなければならない。
◇
その夜、信康を呼んだ。
秀忠は同席させなかった。
まず、信康本人に話をしなければならないと思ったのである。
「……父上」
「座れ」
信康は向かいに座った。
俺は、しばらく息子の顔を見ていた。
あいつが幼かった頃のことを思い出す。
岡崎で元気に走り回っていた姿。
初めて甲冑を身につけて喜んでいた姿。
そして、信長から疑いをかけられ、処分を下さなければならなくなった頃の姿。
あれから、長い年月が経った。
「……信康」
「はい」
「家督のことだ」
信康の背筋が伸びた。
俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「秀忠に継がせようと思う」
信康は動かなかった。
顔色も変わらなかった。
ただ、膝の上に置いた手が、わずかに握られた。
「……さようにございますか」
しばらくして、そう答えた。
俺は続けた。
「お前が劣っているからではない」
信康は黙っている。
「お前には、二十年以上、徳川のために働いてもらった。関東へ移ってからの政務も、関ヶ原での働きも、俺は十分に認めておる」
「……はい」
「だが、家中は長いこと秀忠を後継者として考えてきた。これから将軍家となる以上、その積み重ねを覆すことは難しい」
信康は、しばらく俯いていた。
やがて、静かに尋ねた。
「……父上」
「何だ?」
「では、私は何のために、これまで働いてきたのでございましょう」
俺は言葉を失った。
信康は続けた。
「二十年前、私は岡崎を退きました。父上のお命を受け、軍勢を率いることも許されなくなりました」
「……ああ」
「その後、政務を任せていただき、徳川のために働いてまいりました。そうすれば、いつか以前の立場を取り戻せるのではないかと、考えておりました」
信康の声は震えていなかった。
だから、俺も逃げられなかった。
「……その望みは、もう叶わぬのでございますね」
「……そうなる」
俺は答えた。
信康は目を閉じた。
しばらくして、大きく息を吐いた。
「……承知いたしました」
「信康」
「はい」
「だが、俺はお前に、これからも徳川を支えてほしいと思っている」
信康は顔を上げた。
「……どのように、でございましょう」
俺は、用意していた書付を差し出した。
「関東の政務だ」
信康は書付を受け取った。
「……これは」
「お前には、今後も関東の普請、年貢、兵糧の備えについて広く任せたい。江戸の町だけではない。街道や川の整備、諸大名が負担する普請の取り決めにも関わってもらう」
信康は、黙って目を通している。
俺は続けた。
「ただし、天下の大名へ直接命じる権限は将軍に属する。お前の役目は、必要なことを調べ、取り決めを整え、将軍が判断できるようにすることだ」
「……」
「実際の政務については、任せられる範囲を明記する。お前の裁定で済むものは、お前が決めてよい。だが、所領の取り上げや軍勢の動員のような大きなことは、将軍の命を要する」
信康は書付から顔を上げた。
「……秀忠の命に、従うのでございますね」
「ああ」
俺は頷いた。
「将軍となれば、秀忠がお前の上に立つ」
信康は黙った。
俺は続けた。
「兄弟としての順序は変わらぬ。だが、政務の上では秀忠を立てねばならない。そこを曖昧にすれば、いずれ家臣たちが二つに分かれる」
信康は、ゆっくりと書付を畳んだ。
「……父上」
「何だ?」
「それは、私にとって、容易なことではございませぬ」
「……分かっている」
「弟の命を受けることになる。しかも、かつて私が継ぐはずだった家のことで」
俺は黙っていた。
信康は、苦笑した。
「……随分と、難しい役目をお与えになりますね」
「……すまぬ」
俺がそう言うと、信康は顔を上げた。
「父上」
「何だ?」
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「聞こう」
信康は、俺を真っ直ぐ見た。
「父上は、私をお許しになったのでございますか」
……また、その質問か。
俺は、思わず目を閉じた。
何度でも聞きたくなるのだろう。
何度答えを聞いても、自分の置かれた立場が変わらなければ、信じきれないのだ。
「……信康」
俺は、ゆっくりと答えた。
「許している」
信康が黙った。
「いや、こう言うべきだな」
俺は息子を見た。
「俺の方こそ、お前に謝らねばならぬ」
信康の表情が変わった。
「……父上?」
「お前を生かすためだったとはいえ、俺はお前から多くのものを奪った。岡崎も、兵を率いる立場も、嫡男としての将来もだ」
「……」
「その後、お前がどれほど働いても、俺はそのことをきちんと話さなかった。いずれ分かってくれると思って、先延ばしにしてきた」
俺は頭を下げた。
「……悪かった」
信康は、息を呑んだ。
「父上! 頭をお上げください!」
「いや」
俺は首を振った。
「これは、俺が言わねばならぬことだ」
信康は、何も言わなかった。
俺は顔を上げた。
「家督をお前に戻せぬのは、俺の判断だ。だが、それを昔の罪のせいにするつもりはない。お前が今の徳川に必要な者であることは、皆の前で明らかにしたい」
信康は、しばらく俺を見ていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……少し、考える時間をいただけますか」
俺は頷いた。
「もちろんだ」
「……ありがとうございます」
信康は書付を手に取り、部屋を出ていった。
俺は、その背中を見送った。
すぐに納得してもらえるとは思っていなかった。
しかし、話を終えた後、信康が怒鳴りもしなければ、泣きもしなかったことが、かえって胸に残った。
あいつには、俺の知らない二十年がある。
父親だからといって、そのすべてを理解できるわけではなかった。
◇
信康から返事が来たのは、十日ほど後だった。
その間、俺は一度も催促しなかった。
もっとも、仕事がなくなったわけではない。朝廷との交渉は進めなければならないし、諸大名への命令も出さなければならない。関ヶ原の後始末が片づいたと思えば、今度は新しい土地で騒ぎが起きる。
天下を治めるというのは、どうやら終わりのない仕事らしい。
そんな日の夕方、信康が部屋を訪ねてきた。
「父上。先日のお話について、お返事に参りました」
俺は筆を置いた。
「……聞こう」
信康は座ると、懐から一通の書付を出した。
「まず、家督のことにございますが」
「ああ」
「秀忠に譲るという父上のお考え、承知いたしました」
俺は信康を見た。
信康は続けた。
「私が嫡男の立場を失ってから、長い年月が経っております。秀忠も、その間に徳川の跡継ぎとして多くのことを学んでまいりました。それを今さら覆すことは、家中のためにならぬのでしょう」
「……そう考えてくれたか」
「納得した、と申し上げるのは少々違います」
信康は、正面からそう言った。
俺は黙った。
「悔しくないわけではございませぬ。父上のお考えを聞いた夜には、恨み言の一つも申し上げたくなりました」
「……そうか」
「ですが、私が家督を継いだとして、秀忠をどう扱えばよいのか。そこまで考えると、簡単には答えが出ませなんだ」
信康は、書付を俺の前へ置いた。
「それで、お願いがございます」
「何だ?」
「私の立場を、書付として明らかにしていただきとうございます」
俺は顔を上げた。
信康は続けた。
「私が何を任され、どこまで裁定できるのか。誰の命を受け、どのようなときに将軍の判断を仰ぐのか。父上が生きておられる間だけでなく、父上がお亡くなりになった後にも通用する形にしていただきたいのです」
……なるほど。
俺は、思わず書付へ目を落とした。
「随分と考えたな」
「二十年ほど、考える時間はございましたので」
信康は、少しだけ笑った。
俺は返す言葉がなかった。
「……それから、もう一つ」
「何だ?」
「私に任される仕事は、私が責任を持って進めたいのでございます。秀忠が将軍となった後も、必要な意見は遠慮なく申し上げたい」
「当然だ」
「では、意見が食い違った場合は?」
「最後には将軍が決める」
俺は答えた。
「お前は意見を述べてよい。反対してもよい。ただし、決定が下された後に、別の命令を出して家臣を迷わせてはならぬ」
信康は頷いた。
「承知いたしました」
「それは秀忠にも守らせる。お前の仕事へ何でも口を出してよいわけではない。裁定を変えるなら、理由を明らかにさせる」
「……ありがとうございます」
信康は深く頭を下げた。
俺は書付を手に取った。
そこには、これまで信康が関わってきた普請や年貢の仕事について、今後どのように進めたいかが記されていた。役目を与えられるのを待つだけでなく、自分から仕事の範囲を考えてきたらしい。
……まったく。
いつの間に、こんなに頼もしくなったんだ。
「信康」
「はい」
「もう一つ、俺から約束させてくれ」
信康が顔を上げた。
「お前への昔の処分は、正式に解く。以前の過ちを理由に、お前が今後務める役目を妨げることも許さぬ」
「……父上」
「家督は秀忠に継がせる。だが、お前の名誉は戻す。それは別の話だ」
信康は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……ありがたき幸せにございます」
今度の言葉は、先ほどまでとは少し違って聞こえた。
◇
次に呼んだのは秀忠だった。
「……信康は、家督について了承した」
そう伝えると、秀忠は驚いた顔をした。
「兄上が、でございますか」
「ああ。ただし、お前には一つ覚悟してもらう」
「何にございましょう」
「信康を、名ばかりの役目に置くつもりはない」
秀忠は黙って聞いていた。
「お前が将軍になれば、天下の武家を統べる立場になる。だが、その仕事を一人で全部やれるわけではない。信康には関東の政務の一部を預けるし、必要ならお前の判断に反対することもあろう」
「……承知しております」
「兄だからといって、何でも譲るな。逆に、弟だからといって、兄の意見を無理に退けるな」
俺は少し考えた。
「……難しい注文だな」
秀忠が、ふっと笑った。
「父上は、以前からそのようなご注文が多うございます」
「……そうか?」
「はい」
また言われた。
最近、息子たちに似たようなことを指摘されている気がする。
「……ともかく」
俺は咳払いをした。
「お前には将軍として働いてもらう。信康を使いこなせるかどうかも、お前の器量次第だ」
秀忠は姿勢を正した。
「……父上」
「何だ?」
「兄上と、直接お話ししてもよろしいでしょうか」
俺は顔を上げた。
「無論だ」
「今後、兄上にどのような仕事をお願いするのか。私自身の考えも、お伝えしたく存じます」
俺は頷いた。
「それがよい」
二人で話す必要がある。
俺を挟んでいる限り、兄弟の間に本当の信頼は生まれないだろう。
◇
その後、信康と秀忠は何度か話し合った。
最初のうちは、数正を同席させていたらしい。
しかし、二度目からは二人だけで会うようになった。
何を話していたのか、俺は詳しく聞いていない。
ただ、ある日、二人が揃って俺のもとへやってきた。
「父上」
信康が口を開いた。
「関東の政務について、秀忠と相談いたしました」
「そうか」
「将軍職に関わる命令については、秀忠の判断を仰ぎます。そのうえで、私に任された仕事は、私が責任を持って進めたいと考えております」
俺は秀忠を見た。
秀忠も頷いた。
「兄上のお考えに、異存はございませぬ」
「……そうか」
俺は、少し安心した。
すると、秀忠が続けた。
「ただし、父上」
「何だ?」
「私からも、一つお願いがございます」
「聞こう」
「父上がこれまで決めてこられた政務についても、今後は私どもへ少しずつお任せいただきとうございます」
俺は目を瞬いた。
「……俺の仕事を?」
「はい」
「……何で?」
思わず、そんなことを聞いてしまった。
秀忠は、少し困った顔をした。
「父上が将軍職を譲られるのであれば、私が政務を担わねばなりませぬ。今から慣れておかなければ、いざというときに困ります」
……ごもっとも。
信康も頷いた。
「私も、そう思います」
二人とも、妙に真面目な顔だった。
俺は、しばらく二人を見ていた。
……もしかして。
これは、仕事を減らしてくれるという話なのでは?
そう思った瞬間、少し嬉しくなった。
「……分かった」
俺は頷いた。
「では、今後は二人に任せる仕事を増やそう」
「ありがとうございます」
二人が頭を下げた。
俺は、内心で喜んだ。
これで少しは楽になるかもしれない。
……甘かった。
翌日から、信康も秀忠も、それまで以上に細かな報告を持ってくるようになったのである。
何を決めたか。
なぜそう決めたか。
ほかにどのような案があったか。
俺の意見はどうか。
……おい。
これ、仕事が増えてないか?
しかし、息子たちが真剣に取り組んでいる以上、適当に返事をするわけにもいかなかった。
結局、俺は以前より長い時間、書付に目を通すことになった。
……世の中、うまくいかないものである。
◇
慶長七年。
徳川の家中に、後継の取り決めを明らかにした。
家督を継ぐのは秀忠。
将来、将軍職を受け継ぐのも秀忠。
そして信康については、かつての処分を正式に解き、徳川御一門の筆頭として遇する。関東の普請、土地の管理、軍勢を動かすための兵糧や道の整備について、定められた権限を預けることにした。
それらの役目については、必要な家臣を付け、財源も明らかにした。本人が勝手に何でもできるわけではないが、俺が口頭で命じなければ何一つ動かせないような立場にもしていない。
大事なのは、俺が死んだ後も、その仕事が続けられることだった。
当然、家中には驚く者もいた。
「……信康様を、将軍家の跡継ぎにはなさらぬのですか」
そう尋ねてきた家臣もいる。
俺は、決めた理由を一つずつ説明した。
そして、最後にこう伝えた。
「信康も秀忠も、徳川にとって必要な者だ。どちらか一方を立てるために、もう一方を貶めるような真似は許さぬ」
家臣たちは頭を下げた。
もちろん、それだけで誰もが納得したとは思っていない。
信康を推していた者たちには、不満も残るだろう。
だが、本人たちが話し合い、決定を受け入れたことは大きかった。
それに、何より。
信康の仕事ぶりを見てきた者たちは、あいつが今後も政務を担うことに安心していた。
秀忠を支持する者たちも、信康が将軍の権限を奪うわけではないと分かれば、無用な警戒をする必要がなくなる。
……これで、ようやく一つ片づいたか。
俺は、数正と顔を見合わせた。
「……長かったな」
「まことに」
数正は、静かに笑った。
◇
その夜。
瀬名と二人で酒を飲んだ。
「……信康のこと、ありがとうございました」
瀬名が頭を下げた。
俺は苦笑した。
「礼を言われるようなことではないよ」
「いいえ」
瀬名は首を振った。
「殿が、あの子を正式にお許しくださったこと。それが、何より嬉しゅうございます」
俺は杯を置いた。
「……家督を戻してやれなかったがな」
「ええ」
瀬名は、そこで曖昧に笑わなかった。
「私も、信康が跡を継ぐ姿を見とうございました」
俺は黙った。
瀬名は続けた。
「ですが、あの子は生きております。これからも働くことができます。秀忠殿とも、話し合うことができました」
「……ああ」
「二十年前には、考えられなかったことでございます」
俺は、ゆっくりと頷いた。
あのとき、信康を死なせずに済んだ。
だが、それで終わりではなかった。
あいつを生かした以上、その後の人生にも責任があった。
そのことを理解するまで、随分と時間がかかった。
「……瀬名」
「はい」
「信康には、これからも苦労をかけると思う」
瀬名は少し笑った。
「それは、あの子自身が引き受けたことでございましょう」
「……そうだな」
「それに、殿」
「何だ?」
「秀忠殿にも、苦労をおかけになるのでしょう?」
俺は口を閉じた。
瀬名は、楽しそうに笑っていた。
……否定できない。
「……まあ、そうなるな」
「でしたら、お二人に平等でございますね」
「そういう公平さは、どうなんだろうなあ」
俺が言うと、瀬名は声を上げて笑った。
俺も笑った。
久しぶりに、肩の力を抜いて酒を飲めた気がした。
◇
数日後、俺は信康と秀忠を私室へ呼んだ。
政務のためではない。
二人には、前もってそう伝えてある。
そのためだろうか。部屋へ入ってきた信康は、いつになく不思議そうな顔をしていた。
「父上。何か、お話があると伺いましたが」
「ああ。まずは座ってくれ」
二人が腰を下ろす。
秀忠は室内を見回した。
「母上も、ご同席なのでございますか」
「ええ」
瀬名が微笑んだ。
俺は、少しだけ気が重くなった。
今から話そうとしていることは、下手をすれば家督の件よりも説明が難しい。
徳川の内情を知る家臣なら、大抵のことは受け入れてくれるだろう。だが、こればかりは俺が何を言い出したのか疑われても仕方がない。
「……二人とも」
「はい」
「今日は、会わせたい者がいる」
信康が顔を上げた。
「……どなたにございますか」
「昔からの友人だ」
「父上の、ご友人?」
「ああ。お前たちが生まれるよりも、ずっと前から付き合いがある」
信康と秀忠が顔を見合わせた。
そりゃそうだろう。
そんな古い友人がいるなら、これまでに何度か紹介する機会があったはずなのだから。
俺は、傍らの文箱へ手を伸ばした。
「……かぐや」
返事はない。
「かぐや?」
……おい。
何でこういうときに限って黙っているんだ。
俺が蓋を持ち上げると、中で小さな身体が丸まっていた。
「……寝てるのか?」
「んー……」
かぐやが、もぞもぞと動いた。
「……竹千代?」
「そうだよ。もう二人とも来てるぞ」
「あっ!」
急に元気になった。
「ほんと!? もう来たの!?」
「来てる。だから、そろそろ起きてくれ」
「分かった!」
俺は二人へ向き直った。
信康が、妙な顔をしていた。
秀忠に至っては、文箱を凝視している。
……まあ、声は聞こえたよな。
「……父上」
信康が口を開いた。
「今、どなたとお話しになっておられたのですか」
「……その中にいる」
俺は蓋を開けた。
すると、かぐやが顔を出した。
「こんにちはー!」
沈黙。
信康が瞬きをした。
秀忠は、明らかに息を止めていた。
そして、二人が同時に俺を見た。
「……父上?」
「……父上」
……うん。
予想どおりの反応だ。
「ええと、紹介しよう。こいつはかぐや。俺が竹千代だった頃から、一緒にいる友人だ」
「かぐやでーす!」
かぐやが元気に身体を揺らした。
「よろしくね!」
二人とも、何も言わない。
俺は瀬名を見た。
瀬名は口元に手を当てていた。
……笑ってるな、あれ。
「……父上」
先に立ち直ったのは秀忠だった。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「……その、かぐや殿は、人の言葉をお話しになるのですか」
「聞いてのとおりだ」
「……そうでございますか」
秀忠は頷いた。
そして、再び黙った。
いや、そこで納得するのか。
もっと何か聞くことがあるだろう。
すると、信康が身を乗り出した。
「父上。これは、いったい……」
「……何と説明したものかな」
俺は頭をかいた。
「海にいる小さな生き物に似た姿をしているが、普通の生き物とは違う。人の言葉も話せるし、こちらの話も理解する」
「……」
「俺が幼い頃から一緒にいる。詳しいことについては、俺も全部知っているわけではない」
信康はかぐやを見た。
「……では、本当に、父上が幼い頃から?」
「そうだよ!」
かぐやが答えた。
「竹千代がちっちゃかった頃から!」
「……竹千代」
信康が小さく呟いた。
秀忠も、そこで妙な顔をした。
「父上を、そのようにお呼びになるので?」
「うん!」
かぐやは得意げだった。
「ずっと竹千代だよ!」
二人が、また俺を見た。
……何だよ。
そんなにおかしいか。
「……父上」
信康が言った。
「私は、父上が竹千代と呼ばれているところを、初めて聞きました」
「俺だって、ほかの者にはそう呼ばせておらんよ」
「……では、かぐや殿だけが?」
「ああ」
かぐやが嬉しそうに割り込んだ。
「だって竹千代は竹千代じゃん!」
信康は、とうとう笑ってしまった。
最初は小さな笑いだった。
しかし、一度笑い始めると、なかなか止まらなかった。
「……兄上」
秀忠が、困った顔をしている。
「いや……すまぬ」
信康は口元を押さえた。
「父上にも、そのように呼ばれる頃があったのだと思うと、どうにも……」
「俺にも子供の頃くらいあるわ!」
思わず言い返した。
瀬名まで笑い始めた。
……まったく。
わざわざ覚悟を決めて紹介したというのに。
◇
しばらくして、二人も落ち着いた。
信康は文箱の前に座り、かぐやを興味深そうに眺めていた。
「……かぐや殿」
「なーに?」
「父上とは、どのようにしてお知り合いになったのですか」
「えーっとね!」
かぐやは嬉しそうに話し始めた。
俺が竹千代だった頃のこと。
駿府で暮らしていた頃のこと。
隠れて話をしていたこと。
そして、俺が昔から仕事や勉強のことで文句を言っていたことまで。
「……かぐや」
俺は途中で口を挟んだ。
「それ、全部話す必要あるか?」
「えっ、何で?」
「……いや」
信康が笑った。
秀忠も、口元を緩めている。
……しまった。
二人に秘密を教えるという大事な場面が、俺の子供時代の話を聞かせる場になってしまった。
ただ、悪い気分ではなかった。
息子たちに幼い頃のことを話す機会は、あまりなかったからだ。
俺が人質だった頃の話など、特にそうである。
信康も秀忠も、その時代を知らない。
俺自身、好んで話したこともなかった。
しかし、かぐやは違う。
あいつにとっては、ついこの間のことのように思い出せるらしい。
……いや、ついこの間は言いすぎか。
こいつが生きてきた年月を考えれば、数十年くらいは短いのかもしれないが。
「……父上」
一通り話を聞いた後、秀忠が口を開いた。
「これまで、かぐや殿の存在を明かされなかったのは、何か理由があってのことでしょうか」
俺は頷いた。
「……そうだな」
信康も、こちらを見た。
「かぐやは、人前に出せる存在ではない。知られれば、珍しいものとして捕らえようとする者も現れるだろう。何か不思議な力があると思い込み、利用しようとする者もいるかもしれぬ」
「……確かに」
「それに、秘密を知る者が増えれば、その分だけ隠すのが難しくなる。だから、今までは限られた者にしか話さなかった」
信康が尋ねた。
「母上は、以前からご存じだったのですか」
「ええ」
瀬名が答えた。
「長いこと、お付き合いをしております」
「……ほかには?」
「亀も知っている」
俺が言うと、信康は驚いた。
「亀が?」
「ああ」
「……私たちより先に?」
何となく、責めるような響きがあった。
俺は苦笑した。
「そうなるな」
信康は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「……父上は、私たちを信用なさっていなかったのでしょうか」
俺は息を吐いた。
やはり、そこへ行き着くか。
「……そう思わせたなら、悪かった」
信康が顔を上げた。
「お前たちが幼い頃には、余計な危険を負わせたくなかった。大きくなってからも、戦や政務で忙しくしているうちに、話す機会を逃してしまった」
俺は文箱へ目を向けた。
かぐやは、黙ってこちらを見ていた。
「だが、それは俺の都合だ。お前たちを信用していなかったわけではない」
秀忠が頷いた。
信康は、もう一度かぐやを見た。
「……では、今になってお話しくださったのは、なぜでございますか」
俺は、少し考えた。
「……俺が、歳を取ったからだ」
二人の表情が変わった。
「今はまだ、かぐやと一緒に暮らしていられる。瀬名もいる。だが、いつまでもそうしていられるわけではない」
「……父上」
「俺が死んだ後も、かぐやは生きている。そうなったとき、誰もこいつを知らぬというのでは困るだろう」
信康も秀忠も、黙って聞いていた。
「だから、お前たちには知っておいてほしかった」
俺は続けた。
「ただし、かぐやは徳川の持ち物ではない。俺が死んだからといって、お前たちが好きに扱ってよいわけではないぞ」
「……承知しております」
秀忠が頭を下げた。
信康も頷いた。
「父上と母上が、そのように大切になさってきたのであれば、私どもも粗略にはいたしませぬ」
俺は少し笑った。
「……頼む」
すると、かぐやが突然声を上げた。
「ねえ、竹千代!」
「何だ?」
「私のこと、面倒見てるって思ってたの?」
「……えっ?」
「私だって竹千代の面倒見てるじゃん!」
俺は口を閉じた。
信康と秀忠が、揃ってこちらを見た。
……まずい。
「竹千代、昔からすぐ無茶するし、仕事ばっかりするし、ちゃんと休まないし!」
「……かぐや」
「私が何回休もうって言ったと思ってるの!」
信康が吹き出した。
秀忠も、今度は隠さず笑っている。
瀬名に至っては、完全にかぐやの味方だった。
「ええ。本当に、そのとおりにございます」
「だよね!」
……おいおい。
何でこうなった。
俺は徳川の当主で、もうすぐ将軍になろうという男なんだぞ。
その俺が、家族の前で小さな友人に説教されている。
しかも、誰も助けてくれない。
「……分かった、分かった」
俺は両手を上げた。
「俺が悪かった」
「分かればよし!」
かぐやは満足そうだった。
信康と秀忠は、しばらく笑っていた。
……まあ、いいか。
こうして二人が笑っているのを見るのも、久しぶりだった。
◇
二人が帰る前、俺は改めて口を開いた。
「……今日のことは、ほかの者へ話さぬように」
「承知いたしました」
秀忠が答えた。
信康も頷いた。
「妻子にも、軽々しく話すことはいたしませぬ」
「ああ。それで頼む」
かぐやが文箱の中から声を上げた。
「ねえ、二人とも!」
「……はい?」
信康が振り返った。
「また遊びに来てね!」
二人は、顔を見合わせた。
秀忠が、少し笑った。
「……機会がございましたら」
「約束だよ!」
信康も頷いた。
「承知いたしました。また、お話を聞かせてください」
「うん!」
かぐやは嬉しそうだった。
二人が部屋を出ていった後、俺は長く息を吐いた。
「……終わったな」
瀬名が笑った。
「思っていたより、よいお話になりましたね」
「ああ」
俺は文箱を見た。
かぐやは、すでに貝殻を並べ始めていた。
「……かぐや」
「なーに?」
「信康と秀忠、どうだった?」
「面白かった!」
即答だった。
「竹千代に似てるね!」
「……そうか?」
「うん! 二人とも真面目!」
俺は思わず笑った。
「それは、俺に似たということか?」
「そうだよ!」
かぐやは、何の疑問も持たずに答えた。
俺は瀬名と顔を見合わせた。
瀬名も笑っている。
……まったく。
長いこと秘密にしていたというのに、会わせてみればこんなものか。
もう少し早く紹介してもよかったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は文箱の蓋を閉めずに置いておいた。
◇
慶長八年、二月十二日。
伏見城。
俺は、朝廷の勅使を迎えた。
征夷大将軍。
その職に任じられたのである。
儀式の間、俺は何度も姿勢を正し、言葉を聞き漏らさないよう気を配った。官位や役職については、以前から朝廷の人々と相談していたが、実際にその場で宣旨を受けるとなると、やはり緊張する。
武家の棟梁。
天下の軍事と政務を担う者。
そういう立場になるのだと、改めて思い知らされた。
……いや。
正直に言えば、少し信じられなかった。
今川の人質だった竹千代が、征夷大将軍になる。
昔の俺に話しても、絶対に信じないだろう。
何しろ、あの頃の望みは、無事に大人になることだったのだから。
儀式が終わり、諸将から祝意を受けた。
誰もが丁寧に頭を下げる。
徳川の家臣たちは、皆嬉しそうだった。
忠勝など、いつも以上に背筋を伸ばしている。
数正は、感慨深そうな顔をしていた。
そして、信康と秀忠も並んでいた。
「……父上」
秀忠が頭を下げた。
「このたびは、まことにおめでとうございます」
「ありがとうございます」
信康も続いた。
俺は二人を見た。
「……これからが大変だぞ」
そう言うと、秀忠が少し笑った。
「承知しております」
信康も頷いた。
「父上が今まで積み重ねてこられたものを、無駄にはいたしませぬ」
俺は、思わず息を吐いた。
……頼もしいな。
いつの間にか、息子たちにこんなことを言われるようになっていた。
そのことが、少し嬉しかった。
◇
江戸へ戻ってからは、将軍としての政務を整え始めた。
もちろん、征夷大将軍になったからといって、翌日から急にすべてが変わるわけではない。
江戸には、まだ整っていないものが多い。
城も、町も、役所の仕組みも。
今まで徳川家の家臣が行っていた仕事を、天下の諸大名へ関わる政務として扱うには、決まりを整える必要があった。
「……数正」
「はっ」
「諸大名から届く訴えについて、窓口を分けたい」
数正が頷いた。
「所領のこと、軍役のこと、寺社のこと。今は、何でも俺のところへ来てしまう」
「確かに、そのようなところがございます」
「まず担当する者が話を聞き、必要なら上へ回す形にしたい。全部俺が見るのでは、いつまで経っても終わらぬ」
数正は書付を取った。
「では、それぞれに担当を置きましょう」
「ああ。ただし、担当が勝手に大事なことを決めてしまうのも困る。どこまで任せるか、はっきりさせたい」
「承知いたしました」
俺は頷いた。
……よし。
これで少しは仕事が減る。
そう思った。
ところが、しばらくすると今度は担当の家臣たちから、次々と相談が来るようになった。
この訴えは誰が扱うべきか。
この取り決めは、以前の裁定と矛盾しないか。
大名から不満が出た場合、誰が説明するのか。
俺は机に突っ伏したくなった。
「……数正」
「はっ」
「仕組みを作る仕事って、こんなに大変なのか?」
数正は、少し笑った。
「最初は、どうしても」
「最初、ねえ……」
俺は書付を見た。
最初が終わる頃には、俺が死んでいる気もする。
だが、こういう仕事こそ、やっておく必要があるのだろう。
人が替わっても、同じように政務が進む。
誰か一人の才覚だけで天下を動かさない。
それができなければ、俺が死んだ途端、また諸大名が争い始めるかもしれない。
……そうなっては、元も子もない。
俺は改めて筆を取った。
◇
将軍になってから、俺は大坂のことを以前より考えるようになった。
豊臣秀頼。
秀吉が残した息子である。
秀吉が亡くなってから、もう五年が経とうとしていた。あのとき五歳ほどだった少年も、今では十一歳になる。
まだ幼いとはいえ、いつまでも子供として扱えるわけではない。
それに、秀頼は豊臣家の当主だ。
俺が将軍になったことで、豊臣家が何も思わないはずはなかった。
「……数正」
「はっ」
「大坂へ書状を送ろうと思う」
数正が顔を上げた。
「秀頼様にございますか」
「ああ。将軍への任官について、改めて報告しておきたい」
「承知いたしました」
「それと、秀頼様の官位についても、朝廷との話を確かめたい。豊臣家の家格を軽んじるつもりはないからな」
数正は静かに頷いた。
「……殿」
「何だ?」
「豊臣家は、徳川が将軍となったことを、どのように受け止めておられるのでしょうな」
俺は苦笑した。
「……あまり喜んではおられぬだろう」
豊臣秀吉は、関白として天下を治めた。
徳川家康は、征夷大将軍として武家を統べる。
役職が違うとはいえ、天下の政務を動かす力が俺の手に移っていることは、誰の目にも明らかだった。
秀頼を守る。
その約束は、今でも守るつもりだ。
だが、秀吉から託された天下をそのまま秀頼へ返すつもりがあるかと聞かれれば、答えは違う。
俺は、徳川が武家を統べる仕組みを残すつもりでいる。
秀頼が成人した後も、である。
……これを豊臣家が簡単に受け入れてくれるとは思えない。
「……数正」
「はっ」
「大坂とは、今後も話し合いを続けたい」
「御意」
「敵に回す理由がなければ、それが一番よい」
数正は頷いた。
ただ、その表情は少し硬かった。
俺も、同じ気分だった。
◇
その年の夏。
徳川と豊臣の間で、かねてから進められていた縁組が形になった。
秀忠の娘、千姫が秀頼へ嫁ぐことになったのである。
俺にとっては孫娘だ。
まだ幼い。
自分が何のために大坂へ向かうのか、本人がどこまで理解しているかは分からなかった。
「……千」
俺は、出立を控えた孫娘に声をかけた。
「はい、お祖父様」
千姫は、きちんと頭を下げた。
……いやあ。
こういうところは、さすがによく教育されているな。
亀が幼かった頃なら、途中で何かに気を取られていたかもしれない。
もっとも、今の千も、身につけた衣の袖が気になるらしく、先ほどから何度か目を落としている。
「大坂へ行くのは、怖くないか?」
そう尋ねると、千姫は少し考えた。
「……母上も、ご一緒してくださいます」
「そうか」
「それに、お城は大きいと聞きました」
「ああ。大きいぞ」
「江戸のお城よりも?」
……難しい質問だな。
俺は少し笑った。
「今のところは、大坂の方が立派なところも多いな」
「そうなのですか!」
千姫は目を輝かせた。
俺は思わず苦笑した。
……まあ、楽しみがあるのはいいことだ。
ただ、嫁入りというものが単なる引っ越しではないことは、俺もよく知っている。
特に、今回は徳川と豊臣の縁を結ぶためのものだ。
千姫には、ずいぶんと重い役目を背負わせることになる。
「……千」
「はい」
「大坂で困ったことがあれば、父上や母上へ知らせるのだぞ」
「はい!」
「それから、秀頼様とも仲良くな」
千姫は、少し恥ずかしそうに頷いた。
俺は頭を撫でた。
あの子が大人になる頃には、徳川と豊臣が争わずに済む世の中になっていてほしい。
そう願った。
◇
大坂城での婚礼は、華やかなものだった。
徳川と豊臣の縁組である。
諸大名も、朝廷も、その意味を理解していた。
秀頼は立派に成長していた。
以前会った頃は、何かを尋ねられるたびに首を傾げていた少年が、今ではこちらの挨拶にも落ち着いて応じる。
「家康」
「はっ」
「此度は、千姫を迎えることができ、嬉しく思う」
俺は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
秀頼は、少し笑った。
「千は、まだ幼いな」
「……秀頼様も、まだお若くあらせられます」
そう答えると、秀頼が笑った。
「それはそうだ!」
……よかった。
少しは、以前と変わらぬところもあるらしい。
俺は笑った。
茶々も、その様子を静かに見ていた。
息子が成長し、嫁を迎える。
母親として、嬉しいことだろう。
ただ、その表情には、以前より慎重なところが感じられた。
俺が将軍となったこと。
徳川が天下の政務を動かしていること。
それらを考えれば、無理もなかった。
◇
婚礼に関わる用件が一段落した後、俺は茶々と話す機会を得た。
「徳川殿」
「はっ」
「此度は、千姫様をお迎えできましたこと、嬉しく思っております」
「こちらこそ。孫娘を、よろしくお願い申し上げます」
茶々は静かに頷いた。
しばらく世間話をした後、茶々が口を開いた。
「……徳川殿」
「何でございましょう」
「将軍となられた今も、秀頼へのお約束は変わりませぬか」
俺は姿勢を正した。
「……変わりませぬ」
茶々は、俺を見つめていた。
「秀頼様のお命を守り、豊臣家を軽んじるつもりはございませぬ」
「……そうですか」
「ただし、天下の武家の政務については、今後も徳川が担うことになります」
茶々の表情が、少し変わった。
俺は続けた。
「これは、秀頼様をお守りすることと、相容れぬものではないと考えております」
「……徳川殿は、そうお考えなのですね」
「はい」
茶々は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねた。
「では、秀頼が一人前となった後も、天下の政務は徳川が担うのでしょうか」
……やはり、そこか。
俺は茶々を見た。
「そのつもりにございます」
曖昧にはしなかった。
茶々は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
その声は、穏やかだった。
だが、納得したようには聞こえなかった。
「徳川殿」
「はい」
「私も、秀頼を守りとうございます」
「……承知しております」
「そのためには、豊臣の家を残さねばなりませぬ」
俺は頷いた。
「私も、そのように考えております」
茶々は、少しだけ目を細めた。
「……同じことを望んでいるはずなのに、随分と違うのですね」
俺は返事ができなかった。
そのとおりだった。
秀頼を守る。
その言葉は、俺も茶々も同じように使っている。
しかし、俺が守ろうとしているのは、秀頼の命と豊臣家の存続だ。
茶々が守ろうとしているのは、それに加えて、秀吉から秀頼へ継がれるはずだった天下なのだろう。
両方を同時に残すことができるなら、それが一番よい。
だが、俺にはその方法が見つからなかった。
「……淀殿」
俺は頭を下げた。
「これからも、お話し合いを続けさせていただきたく存じます」
茶々は、静かに頷いた。
「……そうですね」
そこで、話は終わった。
◇
その翌日。
瀬名が茶々のもとを訪ねた。
もちろん、かぐやも一緒である。
「茶々ー!」
人払いを済ませた部屋で、かぐやが元気よく声を上げた。
「まあ、かぐや!」
茶々は笑った。
「お久しぶりですね」
「うん! 茶々、元気だった?」
「ええ。そなたは?」
「元気!」
かぐやは、嬉しそうに身体を揺らした。
俺は少し離れたところで、その様子を見ていた。
前日に茶々と難しい話をしたばかりである。
正直なところ、少し気まずかった。
だが、かぐやはそんなことを気にしていない。
茶々も、かぐやを前にすると表情が柔らかくなる。
「ねえ、茶々!」
「何でしょう」
「これ、見て!」
かぐやが文箱から取り出したのは、小さな貝殻だった。
「今度は、白いやつ!」
「まあ。きれいですね」
「でしょ!」
茶々は手に取った。
「以前いただいたものも、大切にしておりますよ」
「本当!?」
「ええ」
茶々は小さな箱を持ってこさせた。
中には、以前かぐやが渡した薄桃色の貝殻が収められている。
かぐやは、それを見て嬉しそうに笑った。
「まだ持っててくれたんだ!」
「もちろんです」
茶々も笑った。
瀬名が、静かに二人を見守っている。
俺は、その様子を眺めながら思った。
……何とも、不思議な関係だな。
徳川と豊臣の間には、いろいろな問題がある。
将軍となった俺を、茶々は警戒している。
俺もまた、豊臣家が今後どう動くのか気にしている。
しかし、かぐやには関係がない。
いや、関係がないというより、かぐや自身が二人の間に政治を持ち込もうとしないのだろう。
茶々も、かぐやを通じて俺の考えを探ろうとはしない。
二人は、ただ久しぶりに会えたことを喜んでいる。
……羨ましい話だ。
俺も、もう少し気楽に人と会えればいいのだが。
「竹千代!」
かぐやが、こちらへ声をかけた。
「何だ?」
「竹千代も見て!」
俺は近づいた。
「……何を?」
「茶々が、私の貝殻を大切にしてくれてたんだよ!」
「ああ、見たよ」
「すごいでしょ!」
「そうだな」
俺が答えると、茶々が小さく笑った。
「徳川殿は、いつもかぐやの話を聞いておられるのでしょうね」
「……ええ。長い付き合いでございますので」
「そうでしょうね」
茶々は、かぐやを見た。
「竹千代というお名前も、随分とお似合いです」
俺は思わず顔をしかめた。
「……淀殿まで、そのように呼ばれますか」
茶々が笑った。
「いいえ。かぐやだけに許されたお名前なのでしょう?」
かぐやは得意げだった。
「そうだよ!」
……誰がそんなことを決めたんだ。
いや、もう何十年もその名前で呼ばれているのだから、今さら何を言っても仕方ないのだが。
俺は苦笑した。
茶々も笑っていた。
その顔を見て、少しだけ安心した。
少なくとも、今この時間は、茶々も楽しんでくれているらしい。
◇
慶長十年。
俺は、将軍職を秀忠へ譲ることにした。
「……殿」
数正が、改めて確認してきた。
「本当によろしいのでございますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「秀忠も、もう十分に働ける。俺が生きているうちに将軍職を継がせたい」
「……御意」
「それに、俺も少しは休みたい」
数正は、何とも言えない顔をした。
「……殿」
「何だ?」
「将軍職を譲られても、天下の政務から離れられるわけではございませぬぞ」
「……分かっている」
「諸大名との交渉も、豊臣家との関係も、まだ殿のお力を必要としております」
「……分かってるって」
俺が答えると、数正は少し笑った。
……まったく。
少しくらい夢を見させてくれてもいいだろうに。
とはいえ、秀忠へ将軍職を譲ることには、大きな意味がある。
これまでの征夷大将軍には、一代で終わった者もいた。
だが、徳川は違う。
俺が将軍となり、息子が継ぐ。
それを天下へ示すことで、将軍職が徳川の家に受け継がれていくものだと明らかにするのである。
もちろん、それだけで諸大名が何百年も従うわけではない。
そんな都合のよい話があるはずもなかった。
だが、始めなければ、何も続かない。
「……数正」
「はっ」
「秀忠へ譲った後も、しばらくは俺が支える。だが、政務の中心は少しずつあいつに移したい」
「承知いたしました」
「信康とも、よく相談させよ」
「御意」
俺は頷いた。
兄弟二人が、徳川を支える。
その形が、ようやく見えてきた気がした。
◇
慶長十年、四月十六日。
徳川秀忠が、征夷大将軍に任じられた。
俺は将軍職を辞した。
これで、徳川の将軍は二代目となる。
秀忠は、緊張した顔で儀式に臨んでいた。
昔の俺なら、あの顔を見て心配したかもしれない。
だが、今は違う。
あいつは、もう子供ではない。
将軍としての役目を、自分の意思で引き受けたのだ。
儀式を終えた後、秀忠が俺のもとへやってきた。
「……父上」
「秀忠」
「本日より、将軍として務めさせていただきます」
俺は頷いた。
「頼んだぞ」
「はい」
「分からぬことがあれば、聞きに来い。ただし、何でも俺に決めさせるなよ」
秀忠は、少し笑った。
「承知しております」
その後ろには、信康が控えていた。
「……兄上」
秀忠が声をかけた。
「これからも、お力をお貸しください」
信康は、深く頭を下げた。
「……御意」
俺は、その様子を見ていた。
兄が、弟へ頭を下げる。
二十年前なら、考えられなかった光景である。
しかし、信康は落ち着いていた。
秀忠も、兄を見下すような素振りは見せなかった。
二人とも、自分の立場を理解している。
……頼もしくなったな。
俺は、静かに息を吐いた。
◇
その夜。
久しぶりに、何も書状を読まずに過ごしていた。
……いや。
正確には、書状を読まないようにしていた。
机の端には、まだ何通か残っている。
だが、今日は見ない。
今日は、俺が将軍職を譲った日なのだ。
少しくらい休んでも、罰は当たるまい。
「竹千代ー!」
かぐやが文箱から顔を出した。
「ねえ、竹千代!」
「何だ?」
「今日はお仕事しないの?」
「ああ」
俺は頷いた。
「今日は休む」
「えっ!」
かぐやが驚いた。
「本当に!?」
「……何だよ、その反応」
「だって、竹千代がそんなこと言うの珍しいもん!」
俺は苦笑した。
……そうかもしれない。
「今日から、将軍は秀忠だからな」
「秀忠?」
「ああ」
「じゃあ、竹千代は何になるの?」
俺は少し考えた。
「……隠居、かな」
「いんきょ?」
かぐやが首を傾けるように身体を揺らした。
「仕事を子供へ任せて、少し楽をするんだよ」
「へえ!」
かぐやは、妙に嬉しそうだった。
「じゃあ、これからいっぱい遊べるね!」
俺は言葉に詰まった。
……しまった。
そういう意味で受け取られるとは思わなかった。
「……まあ、前よりは時間ができるかもしれないな」
「やったー!」
かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。
「じゃあ、海に行こう!」
「……海?」
「うん! 前に約束したじゃん!」
俺は目を瞬いた。
……そういえば。
そんな約束をした覚えがある。
いつだったか、かぐやが茶々からもらった飾り紐を見せてくれたときだ。
あれから、随分と時間が経っていた。
「……覚えてたのか」
「当たり前じゃん!」
かぐやは得意げだった。
「竹千代が忘れてても、私は覚えてるよ!」
俺は苦笑した。
……参ったな。
「……分かった」
俺は頷いた。
「近いうちに、海へ行こう」
「本当!?」
「ああ」
「約束だよ!」
かぐやは嬉しそうに笑った。
俺も笑った。
ただ、今度は忘れないようにしなければならない。
何しろ、こいつは本当に覚えている。
何年経っても、何十年経っても。
……そう考えると、少し恐ろしい友人だな。
◇
夜が更けた頃、瀬名が部屋へやってきた。
「殿。お休みのところ、失礼いたします」
「いや、構わないよ」
瀬名は俺の傍に座った。
「……秀忠殿、立派になられましたね」
「ああ」
「信康も、よくお務めになっておりました」
「そうだな」
俺は頷いた。
二人とも、今日の儀式を無事に終えた。
信康は将軍になれなかった。
そのことへの思いが完全に消えたわけではないだろう。
だが、あいつは自分の役目を引き受けた。
秀忠も、兄の力を借りながら政務を進めていく覚悟を決めた。
「……瀬名」
「はい」
「俺も、ようやく少しは父親らしいことができたかな」
瀬名は、少し驚いたようだった。
それから、静かに笑った。
「……どうでしょう」
「……おい」
「殿は、昔からお子たちのことをよくお考えになっておられました」
「……ああ」
「ただ、考えすぎて、肝心なことをお伝えにならないこともございました」
俺は口を閉じた。
……耳が痛い。
瀬名は続けた。
「ですが、今は違います。信康にも、秀忠殿にも、きちんとお話しなさいました」
「……そうだな」
「それで、よろしいのではございませんか」
俺は瀬名を見た。
長いこと一緒に暮らしてきた。
戦も、政も、家族のことも、随分と迷惑をかけた。
それでも、今こうして隣にいてくれる。
……ありがたい話だ。
「……瀬名」
「はい」
「これからも、よろしく頼む」
瀬名は少し笑った。
「こちらこそ」
俺も笑った。
◇
慶長十年、初夏。
俺は、かぐやとの約束を果たすため、江戸の海辺へ来ていた。
もっとも、将軍職を譲ったばかりの人間が、何の用事もなく浜辺へ遊びに行くというのは、少々外聞が悪い。
そこで、港の様子を見に行くことにした。
嘘ではない。
実際、江戸の港は今後も整えていかなければならない場所だ。船の出入りも増えているし、荷を揚げる場所も足りなくなってきた。
ただし、今日の主な目的が別にあることは、瀬名も知っている。
「竹千代ー!」
人目のない場所に設けた小さな休憩所で、文箱の蓋が持ち上がった。
「海だー!」
かぐやが嬉しそうに声を上げた。
「……まだ浜に出てないだろ」
「でも、海が見えるじゃん!」
俺は笑った。
休憩所の外には、砂浜が広がっている。
遠くには船が見え、漁師らしい男たちが網を扱っていた。潮の匂いが風に乗って届いてくる。
護衛の者たちには、少し離れたところで待つよう命じてある。
これなら、かぐやが多少騒いでも聞かれる心配はないだろう。
「……さて」
俺は立ち上がった。
その瞬間、膝が少し痛んだ。
「……いてて」
思わず声が出た。
かぐやがこちらを向いた。
「竹千代?」
「ん?」
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと膝がな」
俺は足を伸ばした。
最近、長いこと座っていると、立ち上がるときに膝が痛むことがある。
昔は、そんなことを気にした覚えもなかった。
三方ヶ原から逃げ帰ったときなど、馬から下りることさえ忘れていたような気がするのだが。
……いや、あの頃はあの頃で、身体中痛かったか。
「竹千代」
かぐやが、じっと俺を見ていた。
「……何だよ」
「竹千代、歳取ったね」
俺は動きを止めた。
「……お前なあ」
思わず苦笑した。
「もう少し言い方ってものがあるだろ」
「えっ?」
かぐやは首を傾けるように身体を揺らした。
「だって、本当じゃん!」
「……そりゃ本当だけどさ」
「髪も白くなったし!」
「……ああ」
「顔にも、しわ増えたよね!」
「そこまで言うか」
かぐやは、何とも不思議そうだった。
どうやら、からかっているつもりはないらしい。
俺は腰を下ろした。
「……そうだな。もう六十を過ぎたからな」
「六十かぁ」
かぐやが、ゆっくりと呟いた。
「竹千代がちっちゃかった頃、覚えてる?」
「……まあ、少しは」
「私は覚えてるよ!」
かぐやは元気よく答えた。
「最初は、こんなにちっちゃかったんだよ!」
そう言って、身体を使って大きさを示そうとする。
……いや。
お前の身体で示されても、まったく分からない。
「それがさ、どんどん大きくなって!」
「ああ」
「声も変わって!」
「そうだな」
「気づいたら、すっごく偉い人になってた!」
俺は笑った。
「……そこは、俺も驚いてるよ」
「でしょ!」
かぐやは得意げだった。
「でもね、最近はちょっと違うんだ」
「……何が?」
かぐやは、少し考えた。
「前より、ゆっくり歩くようになった」
俺は黙った。
「あと、立つときに、さっきみたいな声出すじゃん」
「……聞いてたのか」
「聞こえるよ!」
そりゃそうだ。
「それに、前は夜遅くまで起きてても平気そうだったのに、最近は眠そうにしてるし」
……よく見てるな。
俺は、かぐやを見た。
あいつは、昔と変わらない姿をしている。
少なくとも、俺の目にはそう見える。
小さな身体。
元気な声。
思いついたことを、遠慮なく口にするところも昔のままだ。
それに比べて、俺は随分と変わった。
背が伸びた。
髭が生えた。
戦場で傷を負い、病にもかかった。
そして今は、白髪も増えている。
「……かぐや」
「なーに?」
「お前は、変わらないな」
「そう?」
「ああ。俺が子供だった頃と、同じ顔をしてる」
かぐやは少し考えた。
「……でも、私もいろいろあったよ?」
「それは知ってる」
「竹千代と、いっぱいお出かけしたし!」
「ああ」
「戦のときは、全然帰ってこないからつまんなかったし!」
「……それは悪かった」
「江戸に来てからは、貝殻もいっぱい集まったし!」
俺は笑った。
「そうだったな」
「茶々とも友達になったし!」
「ああ」
かぐやは嬉しそうだった。
確かに、あいつにもいろいろあった。
同じ姿でいるからといって、何も変わっていないわけではない。
それは、俺も分かっていた。
◇
しばらくして、かぐやが俺の手へ近づいてきた。
「ねえ、竹千代」
「何だ?」
「手、見せて」
俺は右手を差し出した。
かぐやが、手のひらへ乗ってくる。
「……うーん」
「何を見てるんだ?」
「昔と違うなあって」
俺は、自分の手を見た。
指の節は太く、皮膚には細かな皺が刻まれている。
若い頃から刀や手綱を握ってきた手だ。
しかし、最近では筆を持つ時間の方がずっと長い。
「……まあ、六十年以上も使ってきた手だからな」
俺が言うと、かぐやは黙った。
しばらくして、小さな声で尋ねてきた。
「……竹千代って、あとどれくらい生きるの?」
俺は、返事に困った。
いつまで生きるのか。
そんなこと、俺にだって分からない。
この時代に生まれて、ここまで生き延びられただけでも随分と運がよかった。
戦場では何度も死にかけた。
病に伏せたこともある。
三河の小さな大名だった頃には、六十を過ぎて生きている自分など想像もしていなかった。
「……さあな」
俺は答えた。
「そればかりは、俺にも分からんよ」
「そっか」
かぐやは、手のひらの上で身体を丸めた。
「……ねえ、竹千代」
「何?」
「まだ、死なないでね」
俺は、かぐやを見た。
いつもと同じ声だった。
だが、その言葉を言うまでには、少し時間がかかっていた。
「……ああ」
俺は頷いた。
「できるだけ長生きするよ」
「本当?」
「本当だ」
「じゃあ、ちゃんと休んで!」
「……はい」
「ご飯も食べて!」
「食べてるよ」
「それから、仕事ばっかりしない!」
「……それは難しいな」
「えー!」
かぐやが不満そうな声を上げた。
俺は笑った。
「……分かった、分かった。気をつける」
「絶対だよ!」
「はいはい」
かぐやは、しばらく俺を見ていた。
それから、少しだけ身体を寄せてきた。
俺は左手で、その小さな身体をそっと支えた。
◇
「……かぐや」
「なーに?」
「前に、信康と秀忠にお前を紹介しただろ」
「うん!」
「二人とも、どうだった?」
「いい人だった!」
かぐやは即答した。
「信康はいっぱいお話聞いてくれたし、秀忠はすっごく真面目だった!」
「……そうか」
「また来てくれるかな?」
「今度、声をかけておくよ」
かぐやは嬉しそうだった。
俺は、手のひらの上にいる友人を見た。
「……あいつらには、俺がいなくなった後のことも頼んでおいた」
「うん」
「だけどな、かぐや」
「何?」
「お前は、ずっと徳川の家にいなくてもいいんだぞ」
かぐやが、こちらを向いた。
「……どういうこと?」
「俺が死んだ後も、好きなところへ行っていいってことだ」
俺は続けた。
「信康や秀忠には、お前を大切にするよう伝えた。でも、お前がどこで暮らすかまで、あいつらが決めるわけじゃない」
かぐやは、少し考えた。
「……竹千代は、私にどっか行ってほしいの?」
「違う違う!」
俺は慌てて首を振った。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、いいじゃん!」
「……いや、そうなんだが」
かぐやは、何とも不思議そうだった。
「私は今、竹千代と一緒にいたいんだよ?」
俺は口を閉じた。
「だから、一緒にいるの!」
あっさりと言われた。
俺は、思わず笑ってしまった。
「……そうか」
「うん!」
「じゃあ、これからもよろしく頼むよ」
「もちろん!」
かぐやは嬉しそうに答えた。
俺は海へ目を向けた。
波が寄せては返している。
風は穏やかだった。
俺は、こいつがずっと生きていくことばかり考えていた。
自分が死んだ後、誰が守るのか。
どこで暮らすのか。
どうすれば危険な目に遭わずに済むのか。
それは確かに大事なことだ。
だが、かぐやは今もここにいて、俺と一緒に海を見たいと思ってくれている。
そのことを、つい忘れそうになっていた。
「……かぐや」
「ん?」
「貝殻、探すか」
「探す!」
即答だった。
俺は立ち上がった。
今度は、膝に少し力を入れてから。
「……よいしょ」
「また言った!」
「……うるさいなあ」
かぐやが笑った。
俺も笑った。
それから、文箱を手に、砂浜へ向かった。
◇
浜辺には、貝殻がいくつも落ちていた。
白いもの。
茶色いもの。
波に削られて丸くなったもの。
かぐやは、俺が拾い上げるたびに声を上げた。
「それ、いいね!」
「こっちは?」
「それも!」
「……全部いいんじゃないか」
「だって、きれいじゃん!」
俺は笑った。
結局、随分な数を拾うことになった。
もちろん、持ち帰れる数には限りがある。
かぐやは文箱の中へ並べ、一つずつ見比べていた。
「……これ、茶々にあげようかな」
薄い桃色の貝殻だった。
「いいんじゃないか」
「うん!」
かぐやは、嬉しそうに頷いた。
俺は砂浜へ腰を下ろした。
風が気持ちよかった。
昔なら、こんなふうに何も考えずに海を眺める時間など、ほとんどなかった。
戦のこと。
所領のこと。
信長のこと。
秀吉のこと。
そうしたものに追われ続けてきた。
今だって、すべてが片づいたわけではない。
徳川の世を続けるために、まだやらなければならないことはある。
豊臣家のことも、考えなければならない。
だが、今日くらいは。
「……竹千代!」
「何だ?」
「これ見て!」
かぐやが、小さな貝殻を示した。
「さっきのより、こっちの方がきれいじゃない?」
俺は二つを見比べた。
「……うーん。俺はさっきの方かな」
「えー!」
かぐやが不満そうな声を上げた。
俺は笑った。
……そうだな。
今日くらいは、こいつに付き合おう。
俺があと何年生きるのかは分からない。
だが、今こうして一緒にいられる時間まで、先の心配に使ってしまうのは惜しかった。
かぐやは、また別の貝殻を見つけて騒いでいる。
俺は立ち上がり、そちらへ歩いていった。
以前より、少しゆっくりと。
それでも、まだ十分に歩ける。
「……ほら、かぐや。次はどれがいい?」
「えっとねー!」
かぐやは、いつものように元気よく答えた。
◇
江戸の町には、今日も人の声が響いている。
新しい屋敷が建ち、道が整えられ、商人たちが荷を運ぶ。
川には船が浮かび、港には遠くから来た者たちが集まる。
俺が初めて江戸へ来た頃には、考えられなかった光景だ。
もちろん、まだ問題は多い。
普請も終わっていない。
諸大名の間には、今も不満が残っている。
豊臣家との関係も、決して安心できるものではなかった。
秀頼は成長している。
茶々も、息子のために豊臣家を守ろうとしている。
俺は、秀吉との約束を忘れていない。
だが、徳川の将軍職を秀忠へ譲ったことで、豊臣家との力関係は、以前よりはっきりしたものになった。
天下の武家を統べるのは、徳川。
そして、その立場は俺一代で終わらない。
……秀吉殿。
あんたが今の俺を見たら、何と言うだろうな。
俺は窓の外を見た。
江戸の空は、穏やかだった。
だが、この空の下で生きる人々の暮らしを守るには、まだまだ仕事がある。
俺が死んだ後も。
秀忠が死んだ後も。
その先の子や孫の時代になっても。
徳川の世が続くなら、そのための仕組みを残さなければならない。
かぐやが生きる未来にも、この国は続いていくのだから。
俺は、机の端に残っていた書状を見た。
……さて。
今日は休むと決めたはずだった。
だが、明日になれば、また仕事が始まる。
俺は小さく笑った。
……まあ、仕方ないか。
将軍を辞めたくらいで、天下のことを考えなくなるわけではないのだから。
◇
同じ頃。
江戸城の別の部屋で、信康は書状を読んでいた。
将軍職を継いだ秀忠から、届いたばかりのものである。
関東の普請について、今後も信康へ任せたいという内容だった。
その末尾には、短い一文が添えられている。
『兄上のお力を、今後とも頼みにしております』
信康は、しばらくその言葉を見つめていた。
弟が将軍になった。
自分は、将軍にはならなかった。
そのことを悔しくないと言えば、嘘になる。
幼い頃から、徳川を継ぐのは自分だと思っていた。父からも、そう教えられて育った。
だが、あの事件が起きた。
岡崎を失い、軍勢を率いる立場を失い、いつ戻れるとも分からぬ日々を過ごした。
それでも、生きていればいつかは戻れると思っていた。
父が、自分を許してくれれば。
家中が、もう一度認めてくれれば。
……だが、戻ることはなかった。
信康は書状を畳んだ。
今でも、時折考える。
もし、あの事件が起きなければ。
自分が父の跡を継ぎ、将軍となっていたのだろうか。
そう考えるたび、胸の奥に苦いものが残る。
しかし、今の信康には、ほかにも考えるべきことがあった。
関東の村々。
江戸の普請。
街道を通る人々。
兵糧を運ぶ船。
自分がこれまで関わってきた仕事は、どれも途中だった。
今ここで家督を失ったことを嘆いて仕事を投げ出せば、困る者がいる。
それも、数えきれないほど大勢いる。
「……まったく」
信康は、小さく笑った。
父に似てしまったのだろうか。
昔なら、こんなことは考えなかった。
自分が何を望むか。
どうすれば勝てるか。
そればかりだった。
だが、今は違う。
自分がやめたら誰が困るのか。
そのことを、先に考えてしまう。
……父上も、昔からこんなふうだったのだろうか。
信康は、しばらく考えた。
そして、首を振った。
いや。
父は、もっと無茶なことをしてきた。
何度も戦へ出て、何度も負け、何度も家臣を困らせた。
それでも、最後には何とかしてしまう。
信康にとって父は、今も理解しきれない男だった。
ただ、一つだけ分かることがある。
あの父は、自分を死なせなかった。
それだけは、何があっても変わらない。
信康は筆を取った。
秀忠への返事を書く。
関東の普請について、今後も責任を持って進めること。
必要なことがあれば、遠慮なく相談してほしいこと。
そして。
『将軍としての御役目、御身を大切になさりながらお務めくだされ』
そこまで書いて、信康は筆を止めた。
少し考え、最後に一文を付け加える。
『兄として、できる限りお支え申す』
書き終えた後、信康はしばらくその言葉を眺めていた。
そして、静かに書状を畳んだ。
弟が将軍になった。
自分は将軍にはならなかった。
その事実は、もう変わらない。
だが、これから先の徳川をどうするか。
そこには、まだ自分の働く場所がある。
信康は立ち上がった。
明日も、普請のことで奉行たちがやってくる。
……また、忙しくなるな。
そう思うと、少し笑えてきた。
父が将軍職を譲ったところで、徳川の仕事は一向に減りそうになかった。